817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/20(日) 14:38:50.43 ID:HNP/ioXZ
(>>815の続き)
山田八蔵はつくづく思案仕るに「代々の主筋に弓を引いては子々孫々まで悪名を残し、天罰もいかがなものか」
と思い、早速岡崎に来て御目付衆を1人申し受けて渡利村の宿所に入れて座敷を隔て隠し置いた。
小谷九郎左衛門を酒に呼び「いよいよ、かため申すべき次第。日限まで御話人数もあらまし。御話候え」と申
せば、九郎左衛門が右の次第を話し申すのを、右の目付が一々書き付けて岡崎に帰り、役人に言上申したとこ
ろ驚き、早速大岡弥四郎(大賀弥四郎)の所へ押し込んで、弥四郎を生け捕り検断仕れば奥に旗を10本拵え
置いていた。
その時に欠村では柴田右森一家ども、松平新右衛門(親新吉郎右衛門と申)等が集まって、鹿がけに的を射て
いた。「この鹿だけではいかがなものか。少し酒を飲めたら良いだろうに。いざや酒を買いに遣わすべし」と
下男の小者に申し付け、岡崎へ酒を買いに行かせた。
ところが殊の外遅く待ちかねて鹿を食べ始めたところに来たため、皆々何故遅く来たとトジメければ、「今日
大岡弥四郎逆心にて、あらわれて生け捕りに付き町中は騒ぎ、家ならびに戸棚は閉じ申したため、ようやく只
今買って参りました」と話したところ、松平新右衛門はこれを聞いて少しも騒がずに鹿汁を2,3盃食い、酒
をしたたかに飲んで、互いに宿に帰った。
新右衛門は同村の百姓・助右衛門という者の所に至ると、折しも10月の事だろうか俵を編んでいた。新右衛
門様の御出と見て、俵の新しいものを馳走に敷き置くと、古いあみ笠とこぎの1つを借りて差し、浦の垣より
落ちていった。そこへ平岩七之助(親吉)方が4,50人召し連れて懸時に御急ぎのところ、助右衛門を見て
不審に思い新右衛門の屋敷へ押し寄せると宿にいなかった。
それより柴田右森は婿なのでここに押し寄せ新右衛門を出せと申された。右森は「神も私(も?)ゆめゆめ存
じ給わざるぞ」と申して大小を抜き、平岩主斗殿へ相渡すと主斗は聞き届けて帰り、言上申した。
家康公は「捨て置けよ。新右衛門は退く者にあらず」と仰せられたが、翌日に大樹寺の正運にて(松平新右衛
門が)切腹仕ると言上申し、家康公は御聞きになって「いかにも左様の筈だ」と仰せ出された。
渡利村の小谷九郎左衛門方へ、庄屋の仁左衛門は少し内証を聞いて不便に思い、親子で九郎左衛門を呼び濁り
酒を出し、鮗の膾を肴に出して酒を振る舞った。件の内談を申せば子は聞いて色を変え酒も肴も飲まずにいた。
九郎左衛門は少しも騒がず「さても忝き義の内証」と申して膾2皿を食うと、暇乞いと申して濁り酒を汁椀で
すっばと飲み、浦垣に退いた。その内に岡崎より百人ばかりが来て九郎左衛門の屋敷を取り巻いたが、立ち退
いて居らず空しく帰った。家内には、さすがに旗3本が雪隠の灰の中に入れ置いてあったのを見つけ出した。
大岡弥四郎は連尺町大辻のこの所にて、7日に竹鋸で引かれ、根石原で父子5人ばかりが磔に上がった。江戸
右衛門八は切腹を仰せ付けられ、腹内の子は母が逃げて新堀村と申す所の本多又左衛門の所で生まれ、自らの
婿にしたとの由を申す。
山田八蔵は柿崎5百石を褒美に下され、後に大浜上地を下された。小谷九郎左衛門は鳥井久兵衛の家老の小谷
甚左衛門の養子の者なり。この甚左衛門も鳥井殿(欠字)を貰い薩摩様にて千石を取る。子無くして絶えけり。
――『三河東泉記』
(>>815の続き)
山田八蔵はつくづく思案仕るに「代々の主筋に弓を引いては子々孫々まで悪名を残し、天罰もいかがなものか」
と思い、早速岡崎に来て御目付衆を1人申し受けて渡利村の宿所に入れて座敷を隔て隠し置いた。
小谷九郎左衛門を酒に呼び「いよいよ、かため申すべき次第。日限まで御話人数もあらまし。御話候え」と申
せば、九郎左衛門が右の次第を話し申すのを、右の目付が一々書き付けて岡崎に帰り、役人に言上申したとこ
ろ驚き、早速大岡弥四郎(大賀弥四郎)の所へ押し込んで、弥四郎を生け捕り検断仕れば奥に旗を10本拵え
置いていた。
その時に欠村では柴田右森一家ども、松平新右衛門(親新吉郎右衛門と申)等が集まって、鹿がけに的を射て
いた。「この鹿だけではいかがなものか。少し酒を飲めたら良いだろうに。いざや酒を買いに遣わすべし」と
下男の小者に申し付け、岡崎へ酒を買いに行かせた。
ところが殊の外遅く待ちかねて鹿を食べ始めたところに来たため、皆々何故遅く来たとトジメければ、「今日
大岡弥四郎逆心にて、あらわれて生け捕りに付き町中は騒ぎ、家ならびに戸棚は閉じ申したため、ようやく只
今買って参りました」と話したところ、松平新右衛門はこれを聞いて少しも騒がずに鹿汁を2,3盃食い、酒
をしたたかに飲んで、互いに宿に帰った。
新右衛門は同村の百姓・助右衛門という者の所に至ると、折しも10月の事だろうか俵を編んでいた。新右衛
門様の御出と見て、俵の新しいものを馳走に敷き置くと、古いあみ笠とこぎの1つを借りて差し、浦の垣より
落ちていった。そこへ平岩七之助(親吉)方が4,50人召し連れて懸時に御急ぎのところ、助右衛門を見て
不審に思い新右衛門の屋敷へ押し寄せると宿にいなかった。
それより柴田右森は婿なのでここに押し寄せ新右衛門を出せと申された。右森は「神も私(も?)ゆめゆめ存
じ給わざるぞ」と申して大小を抜き、平岩主斗殿へ相渡すと主斗は聞き届けて帰り、言上申した。
家康公は「捨て置けよ。新右衛門は退く者にあらず」と仰せられたが、翌日に大樹寺の正運にて(松平新右衛
門が)切腹仕ると言上申し、家康公は御聞きになって「いかにも左様の筈だ」と仰せ出された。
渡利村の小谷九郎左衛門方へ、庄屋の仁左衛門は少し内証を聞いて不便に思い、親子で九郎左衛門を呼び濁り
酒を出し、鮗の膾を肴に出して酒を振る舞った。件の内談を申せば子は聞いて色を変え酒も肴も飲まずにいた。
九郎左衛門は少しも騒がず「さても忝き義の内証」と申して膾2皿を食うと、暇乞いと申して濁り酒を汁椀で
すっばと飲み、浦垣に退いた。その内に岡崎より百人ばかりが来て九郎左衛門の屋敷を取り巻いたが、立ち退
いて居らず空しく帰った。家内には、さすがに旗3本が雪隠の灰の中に入れ置いてあったのを見つけ出した。
大岡弥四郎は連尺町大辻のこの所にて、7日に竹鋸で引かれ、根石原で父子5人ばかりが磔に上がった。江戸
右衛門八は切腹を仰せ付けられ、腹内の子は母が逃げて新堀村と申す所の本多又左衛門の所で生まれ、自らの
婿にしたとの由を申す。
山田八蔵は柿崎5百石を褒美に下され、後に大浜上地を下された。小谷九郎左衛門は鳥井久兵衛の家老の小谷
甚左衛門の養子の者なり。この甚左衛門も鳥井殿(欠字)を貰い薩摩様にて千石を取る。子無くして絶えけり。
――『三河東泉記』
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