情けある事である。

2016年06月10日 13:09

820 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/09(木) 21:51:54.21 ID:WhuxB23e
豊臣秀吉の九州征伐の結果、伊東祐兵が飫肥を拝領し日向に復帰すると、山田匡得は早速、
豊後から祐兵の元に帰参した。

この山田匡得の妻子は、伊東家が日向を没落した時、薩摩軍の捕虜となったのであるが、島津義久

『名のある武士の妻子である。疎略に扱ってはならない。』

と、自らの殿中において召し使っていたのであるが、匡得が豊後より日向に帰った聞くと、
義久はこの妻子に金銀衣服を与え、匡得の元に送り返した。
情けある事である。

(日向纂記)



822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/09(木) 23:22:12.47 ID:uF7Wiswo
>>820
疎略じゃなくても結局召し使うのか?

823 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/10(金) 10:12:36.79 ID:QvQElJKz
>>822
召使っていれば自分の目が届きやすいだろ。

824 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/10(金) 10:27:35.35 ID:5eiexPJT
粗略に扱うのなら牢屋にぶち込むか南蛮に売ってる

825 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/10(金) 12:34:17.77 ID:dsKdPzyC
>>822
わしの女扱いしておけば部下が手出しができないだろ
さすが島津公!
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伊東家累代の家臣

2016年06月09日 17:10

817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/08(水) 19:23:32.62 ID:CmxE+Ops
天正15年3月17日、島津中務家久(良い方)は豊後と日向の境である梓嶺から撤退する時、そこを佐伯惟定の
軍が追撃した、薩摩勢も山の中腹に踏み止まり、幾度も盛り返し戦ったが、終に敗軍し、家久は僅か七騎にて
引き上げるのを、佐伯惟定の軍師である山田匡得は追い駆け、これを討ち取ろうとしたのか、声を揚げた

「そこに落ち行かれるのは中務殿と見たるは僻目であろうか!?山田匡得、ここまで追い駆けたり!
軍は常の習い。夢にも余儀を存ぜず。静かに引かれよ!」

これを聞いた家久は、虎口を逃れた思いをし、また少し行って道の脇で休んでいた所、山上より人の声がして、
山田匡得がまた追いかけてきた!」と聞こえたため、家久は狼狽え、取るものもとりあえず逃げた。

山田匡得がこのように家久を見逃したのは、伊東家の日向没落の時、匡得の妻女並びに弟の新左衛門尉、
七兵衛尉が捕虜と成って薩摩に抑留されていたためで、もし家久を討ち取れば、彼らに害が及ぶことを
慮った為であった。

その後、島津家久からの使者が、山田匡得の元へ尋ね来た。その趣は

『貴殿は豊後表において、度々の高名、その比類なきことは世の人が遍く知る所である。
これは我が主君義久の聞こえに達し、もし豊後を立ち退き薩州に来るなら、三百町の地を宛行われる旨を
申し含まれた。』

との内容であり、書状には島津義久よりの、三百町を宛行うという直判書が添えられていた。

山田匡得は答えた
「私の武勇の聞こえが、義久公のお耳に達しただけでなく、三百町の地を宛行うとの事、見に余り
辱く存じ奉ります。その上私の妻子兄弟の者が、多年に渡り御厚恩を被っていますから、本来なら
参上して御助成を受けるべき所でしょう。

ですが、私は伊東家来の者です。二君に仕えるのは本意では有りません。
ですのでこれは、辞退させて頂きますので、そのように御報告下さい。」

一方、山田匡得の豊後での軍功非常に多く、大友宗麟より感状を下された。
そこには

『匡得、度々の高名比類なき手柄のほど感心せしめ候。これにより豊後において百五十町の地を
宛行う』

とあった、山田匡得は謹んで宗麟に言上した

「御感状の趣は身に余り、辱く思います。ですが私は伊東家累代の家臣です。
伊東家が日向の内に、些少の地でも安堵されれば、早速に帰参しようと考えているのです。
ですので知行頂戴のことは、幾重にも辞退させていただきたいと思います。」

そう再三に渡り申し上げるのを聞いた宗麟は、感動し涙を流して言った

「匡得の二君に仕えざるの心底、誠に以って感ずるに余りある。だが私は所領以外に、
一体何を恩賞に与えるべきか。
ああそうだ、幸い我が家が秘蔵する鎧が十領ある。この内からそなたの目利きに任せ、
好きな物一領を与えよう。」

そこで山田匡得は、ありがたく存ずるの旨言上して謝意を表し、即座に目利きをなして、
鎧一領と兜一頭を拝領したのである。

(日向纂記)



818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/08(水) 22:07:19.41 ID:etFF9G+S
後から言ってきた大友が島津の半分かよw

三千の鉄砲は遅るるに足らぬ。しかし

2016年06月07日 10:21

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/06(月) 23:49:04.88 ID:4n3eIB9n
日向伊東家家臣である山田土佐守匡得は、永禄元年、17歳の時に初陣として飫肥の行屋ヶ尾にて
薩摩の驍将亀澤豊前を討ち取り、同10年小越合戦に和田民部を討ち取った事などを初めとし、
伊東義祐の日向没落の後も、石ノ城にて粉骨を成し、薩将の伊集院肥前守と槍を合わせ、その名は
近国に聞こえた。

伊東義祐父子が伊予に渡海した後も、豊後に残り、同国梅牟礼の城主、佐伯太郎惟定の軍師となり、
益々の軍功があった。

天正14年7月23日、島津中務家久(良い方)が豊後に出兵して松尾山広福寺に陣し、この佐伯惟定と
一戦の時、家久は佐伯領の境の住民を一人捕えて、佐伯惟定の軍中の様子を尋ねた。その者応えるに

「惟定様は今年18歳になりますが、善く領民を撫育し、人心の帰伏すること父母のようです。
私は下賤の身であり、軍配の方便はわかりませんが、針も撃ち抜くほどの鉄砲の上手が、三千人在ると
聞いています。」

家久はこれを聞くと
「三千の鉄砲は遅るるに足らぬ。しかし山田土佐入道が今、佐伯惟定の家に在ると聞く。
彼は一騎当千の者なれば、私は深くこれを恐れる。」
そう語ったという。

(日向纂記)