fc2ブログ

利根にて利発にて、しかも利口なる人

2023年03月15日 19:29

713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/14(火) 21:11:06.83 ID:r3YEvImd
土屋右衛門尉(昌続)が、山県三郎兵衛(昌景)に聞いた

「いつぞや、穴山(信君)殿が、馬場美濃(信春)殿に問われた、遠州浜松の徳川家康についての噂について、
馬場美濃殿は、『藝能はやく請取る人を利根者、座配良き人を利発者、武辺の勝れて仕る人を利口者』と、
美濃殿は教えられたと聞き及んでます。さて、では(武田家中の)諸侍の中に、利根にて利発にて、しかも
利口なる人は有るでしょうか?」

山県曰く
「信玄公の御家には、侍大将としては内藤修理正(昌豊)、足軽大将としては横田十郎兵衛(康景)と、
この二人が居ります。この他侍大将の中で、若手では小山田弥三郎(信茂ヵ)なども居ります。
そういった人物の中でも、川中島合戦の時討死なされた故典厩(武田信繁)様などは、物事相整った、
まさしく副将軍と言うべき人物でした。」

山県三郎兵衛はそのように申された。

https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1630338432/702
このお話の続きですね

甲陽軍鑑



スポンサーサイト



これはみな虚言である

2023年02月08日 19:11

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/07(火) 20:59:36.20 ID:uH6/DNEA
天正元年正月七日に、武田信玄公は遠州刑部をお立ちに成って、同月十一日、三河野田城へ取り詰められた。
この時、徳川家康より織田信長へ、小栗大六という者を使いとして、野田城救援のための後詰の
有るように、と頼み申されたが、信長は軍勢を出さず、二度目の使いでも信長が出馬することはなかった為に、
野田城を守備していた菅沼新八郎(定盈)は降参し、城を明け渡し、山県三郎兵衛(昌景)に
菅沼新八郎の身柄は預けられた。

新八郎方より家康に申し越し、奥平美作守(定能)の人質が家康の元に有ったが、これを菅沼新八郎の身柄と
取り替える事となり、奥平の人質は信玄公に家康より進上され、菅沼新八郎は家康に渡された。
その取引は三州長篠の馬場において行われた。二月十五日の事であった。

その後、信玄公は御煩いが悪化し、二月十六日に御馬入された。
この時、家康家中、信長家中諸人は、信玄公が野田城攻めの最中、鉄砲に当たって死んだのだと沙汰した。
これはみな虚言である。惣別、武士の取合いにおいては、弱い方が必ず嘘を申すものだ。
武田家と越後輝虎との御取合においては、敵味方共に嘘を申す沙汰は終に無かった。
例え信玄公が鉄砲に当たったとしても、それが弓箭の瑕になる事は無い。

甲陽軍鑑

野田城の戦いについて



遠州から立ち退くことは有るまじき

2023年02月01日 19:46

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/31(火) 21:26:19.84 ID:kyUmYcqb
元亀二年辛未年七月、武田家は再び家康と御取合が始まったが、信長はいつもの如くの、武田に対する
御入魂ぶりであった。
そのようであったので、家康に対して信長よりの異見は、「家康は三河の吉田まで撤退し、遠州浜松には
家老を差し置くように。」とあった。

しかしこれに対して家康は、
「浜松城を立ち退くほどならば、刀を踏み折り、武辺を捨てるという事である。
どうであっても、武士を立てる以上、遠州から立ち退くことは有るまじき。」
そう内談を定め、信長に対しての返事には
「いかさま御意次第に仕りますが、先ずは一日であってもここに在りたいと思います。」
と伝え、その上で浜松から引き下がらないということを、遠州・三河の侍衆に伝えた。

未の九月、山縣三郎兵衛(昌景)が、信州伊那より四千の人数を引き連れ西三河・東三河の仕置に罷り出でた。
これは山縣の手元の衆に加え、信州諏訪。伊那の山縣三郎兵衛同心組衆を率いての事であった。

甲陽軍鑑

武田信玄の「西進」が始まった時の、信長と家康の対応について。



武田信玄は剣を回して甲府に

2023年01月04日 19:06

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/03(火) 20:33:31.63 ID:dH72IYYe
永禄十二年の駿河における武田と北条の対陣は、正月十八日から同年四月二十日までの九十三日であった。
日夜のせり合いにおいては、武田方の跡部大炊介が一度松田尾張に追われたこと以外は、みな小田原北条衆が
武田に遅れた。
然し乍らあまりの長陣故に、信玄公は家老衆を召し出し、それぞれの意見を聞いた。

内藤修理(昌豊)は、
「薬師は眼の養生に、すねの三里に灸をおろします。」
馬場美濃(信春)は
「けらつつき(キツツキ)が虫を食べるに、他の鳥と違って穴の後ろを突き、口に出てくるのを取ります。」
と申した。

信玄公「さては各々の分別、いずれも同意である。」と、山西の抑えである山縣三郎兵衛(昌景)を駿府より
召寄せ、北条方の陣城を一つ押し散らさせ、山縣の同心である、みしな、広瀬、小菅、その他手柄の者たちに
御証文を下され、二日目の夜は馬場、山縣両大将に仰せ付け、由井の源三郎といって、氏康公の二番めの
子息で武蔵八王子の城主(氏照)の陣屋の前に柵をふり、筵にて囲った。柵が幾つも焼かれたのを
尽く踏み破らせた、

四月二十七日に信玄公より仰せ出があり、次の日の二十八日には信玄公は陣を払い、駿河庵原の山を越えて、
道も無い所を原隼人助(昌胤)の工夫に任せ、終に甲府へと帰還した。
北条家ではこの事について「武田信玄は剣を回して甲府に逃げ込まれた」と申したという。

甲陽軍鑑

武田軍の駿河からの撤退について



524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/04(水) 07:13:17.97 ID:1ewKKFZE
つまり大敗だったんですね

これほど迷惑なる事は終に無かった

2022年09月28日 18:44

606 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/27(火) 20:45:31.56 ID:ExuB64pl
山県三郎兵衛(昌景)の同心に、北地と申す伊勢牢人が在り、身上は十六貫を取っていた。
しかし彼は「知行悪しき所なり」と山県三郎兵衛に種々訴訟をしたのだが、大場民部左衛門という
山県の取次が、「北地は他国者である。」と侮り、山県へ取り次がなかった。

そのような中、北地は仲の良い傍輩たちに申し聞かせ、置文をして腹を切ろうとした。
何故かと言えば、「他国より武田信玄公の御家を望んで来る者はあっても、出る者は一人も無し。
この御家を出るほどならば、何ぞ武道に悪しき事があるかと、余所の不審を受けるのも口惜しい。」
と考えての自害であった。

しかしこの事を知った傍輩たちは自害の直前で彼を取り押さえた。
これに北地は「腹を切るなどと言う事を侍が申出して、二度止まる事無し!」と言って
更に自害を試みたが、人々が彼に取りすがって腹を切ることが出来なかった。
そこで北地は膝の上の、『犬ほへず』という所を散々に十二、三度も切りつけ、それから三日目に死んだ。

北地の死に山県は大いに驚き、目付横目から信玄公に報告が上る前に、早々にこの事を言上した。
信玄公は殊の他に御立腹され是非に及ばず、山県三郎兵衛は困惑し、もはや改易されるかという
事態になったが、山県は原隼人佐、三枝勘解由左衛門、曽根与市助に宛てて、熊野の牛王の裏に
誓紙を仕り、「北地五郎左衛門訴訟の旨を存じない。」という内容を申し上げた。
その後、信玄公が彼らを召して話を聞き、

「ならば、その頼まれた山県の内の者、大場民部左衛門を呼べ」

と有り、先の三人、原、曽根、三枝を以て尋問させたが、さらに長坂長閑、跡部大炊に
目付衆二人、横目衆二人まで添えられて詳しく尋ねられ、その上にてもうろんに思われ、
岩間大蔵左衛門を召して「物陰でこれを聞け」と仰せ付けられ、この件を詮索された。

すると山県が申し上げた如く、何れの者からも大場が取次を成さなかったため山県へ
北地の訴訟のことが伝わらなかったとの報告を受け、これによって大場は一類尽く
御成敗された。

山県三郎兵衛が御奉公申し上げた内で、これほど迷惑なる事は終に無かったという。

甲陽軍鑑



607 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/27(火) 23:10:54.84 ID:I5jfR5vI
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4237.html
北地五郎左衛門の死と山県三郎兵衛昌景


こちらもおそらくは甲陽軍鑑を元にしたんだろうけど、>>606の方が詳しいな

欠唇勇士

2022年03月27日 15:41

95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/26(土) 22:43:36.61 ID:ayr0lSwr
兎唇といえば映画「信虎」の山県昌景は兎唇だった、背は特に小さくなかったけど。
ついでに「翁草」巻二十七から「欠唇勇士」

唇が欠けた者には勇士が多く
上杉景勝の家中の川田監物信親、家康公の御家人本田百助正広、武田家臣の山県三郎兵衛昌景、福島正則の家臣長尾隼人佐一勝、
おのおの欠唇であり、皆世に名高き大剛の士であった。
中でも長尾隼人は元は山路久之丞といい、伊勢の神戸下総守友盛の旗下であり、北伊勢に隠れなき勇士であった。
のちに福島家で一万石を領し、安芸東條の城主となった。
大男で大力であり、十幅一丈の四つ目結の白絹の指物に、一間半とびだした銀の如意半月をとりつけていたという。
関ヶ原の陣の時、この隼人を「士中の人参なり」と家康公は御賞美したという。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-608.html

徳川家康と一ノ宮城の本多百助・いい話
でも
>ちなみにこの本多百助、後世、「上杉には川田監物信親あり、福島正則には長尾隼人、
>武田信玄には山県三郎兵衛尉昌景、そして徳川家康には本多百助正広あり」と、呼ばれ
>勇将として天下に名をはせ、良く家康の覇業を助けた。
の話は出てたけど唇のことは書いてなかった。

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/26(土) 23:21:02.26 ID:ayr0lSwr
長尾隼人については
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4046.html
伊豆韮山城攻めと福島家中の四人
では韮山城攻めの時に負傷したとしているので、後天的かもしれない

ついでに韮山城攻めの話とセットとして語られる
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-239.html
福島正則とその家臣たち・いい話
に出てくる福島正則の三人の重臣はそれぞれ
足を引きずる=福島丹波、片目がない=尾関石見、口が裂けている=長尾隼人
のことだと思われる。

これとほぼ同じ、家康が福島正則の家老たちを称賛する話が「朝野雑載」に載っているが、
福島丹波=足萎え、尾関石見=片目、と同じであるが、
長尾隼人については「きはめて身のたけ短く、耳遠く、左の手かなひがたし」と、唇については書かれていない上、翁草の大兵(大男)という記述とは相違している。
まあ、大男か小男かであれこれ言っていたら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4590.html
馬場美濃にたしなめられるかもしれないけど



97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/27(日) 09:55:21.60 ID:jvjMeU3v
>>95
「士中の人参」は草
朝鮮人参のことなんだろうけど

98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/27(日) 10:44:09.83 ID:1x90f5Z5
「人中の人参」だったら
鼻と唇との間に細く赤く見えてるのを揶揄したのかと勘繰るところだった

99 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/03/27(日) 10:55:55.36 ID:jy2N6Smw
本多百助は代々の名乗りで、その二つの逸話は本多信俊と本多信勝親子それぞれの話のようです。

本多信俊
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%A4%9A%E4%BF%A1%E4%BF%8A

100 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/03/27(日) 10:57:52.03 ID:jy2N6Smw
たしかに朝鮮人参なんでしょうが、ウマ娘ブームなんでちょっと笑ってしまったw

101 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/03/27(日) 11:16:26.80 ID:jy2N6Smw
まとめ過去ログみたら、こっちにもありましたね。

家康、本多百助の息子の名を
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3579.html

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/27(日) 12:18:47.76 ID:z0veYF8m
ふと思ったけど、セリ科のニンジンを家康は見たことあるんだろうか?
栽培始まるのこの頃だよね

『是非死に候へ』と思し召されているのに

2020年12月01日 16:58

468 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/01(火) 12:01:01.12 ID:YV3sJxZy
武田方に於いては、信長・家康が両旗にて長篠に後詰することを勝頼が聞き家老中を呼び、明日の軍評議が
あった。勝頼はここで、このように仰せになった
「明日は我々より押し懸けて、一戦を仕るべし。」
これに馬場美濃、内藤、山縣らは目を見合わせ、申し上げた。

「明日の御合戦については、御尤とは申し上げられません。何故ならば、敵は両旗にて殊に大軍です。
その上、我々は他国に踏み越えており、一つとして味方勝利を見つけられません。
今度、ここでおくれを取れば、弓矢の御損多く有るでしょう。ですので今回は馬を返されるべきです。
そうすれば、信長・家康の両人も馬を返すでしょうし、その上で又少しの間を置いて勢を出されれば、
信長も手前の上方の用などが有るので、度々はこちらに出陣することは出来ないでしょう。
その時は、長篠は思し召しのままに御手に入ります。」

勝頼はこれに「武田の家に、合戦を回避して、敵に後ろを見せたことはない。その上信長・家康が
大軍で我らを追撃してくれば、家の疵でも有り、また敵に勢いを付けることにも成る。」と仰せになった。
これに対して馬場は申し上げた
「我らを追撃して押し入るのならば、猶以て願うところです。彼等を信州伊那に引き入れて防戦をすれば、
地元での戦いでも有り、勝利疑い有りません。」

しかし勝頼は、全くお聞き入れにならなかった。そこで馬場、山縣、内藤が申し上げた
「そういう事でしたら、明日、長篠城を力攻めにすれば、人数千ばかりは損ずるでしょうが、即時に攻め落とす
事ができるでしょう。そして門城の掃除をし、屋形様を入れ置き、我らはその前の山に出張って防戦を仕ります。
そのようにしては如何でしょうか?」

勝頼はこれに「武田の家にて籠城を仕ったことこれ無し。今私は籠城など思いも寄らない。」と仰せになった。

そこで内藤が申し上げた
「それでしたら、長篠には押さえに二千を置き、屋形様はこの上の山に御陣城をお構えになり、先手の者共は、
あの山に備え、敵を引き受け合戦仕るべし。」

しかし勝頼は「我々から押しかけ合戦有れば、勝利すると思っている。異なことを申す。」と仰せになられた。
この時、長坂長閑斎が申した。「憚りながら、私もそのように存じます。法性院様(信玄)の時分であれば、
何れもこのような反論を申さなかったでしょう。」

これを聞いて内藤は立腹し、長坂と口論に及んだ。これに勝頼は「いやいや、口論はいらない。
旗楯無も上覧、明日の合戦は回避しない!」と仰せに成った。
そこで家老衆も、この誓言の上は料簡を申し上げること出来ず、「下々へも、明日の合戦を申し触れます」と、
その場を立った。
この時、馬場は長坂長閑斎に申した
「御異見申すが、我々は明日の合戦で討ち死に仕る。各々は、我々の討ち死にを見てから甲州に帰り、その事を
物語されるように。」

そして罷り立ち、皆々との別れ際に
「さてさて、法性院様御在世の時は、あはれ討ち死にを仕って御奉公したいと心がけていたのだが、終に
討ち死には出来ず、今まで存命してしまった。
そして、当屋形様には『是非死に候へ』と思し召されているのに、命が惜しいとは。大将の心入とは
このように有るものか。」と、からからと笑って立ち別れた。

(長篠合戰物語)

長篠の戦い前日の、武田方での軍議について



唐の頭に本多平八

2019年11月06日 17:21

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/06(水) 07:09:48.92 ID:gResndio
元亀三年十月中旬に、武田信玄の将・山縣三郎兵衛(昌景)は信州伊那へ打越、そこから東三河に出て、
武田信玄の遠州表への出陣についての準備をし、また現地の徳川勢との競り合いなどがあった。

信玄が十月中旬に甲府を立つと、遠州のたたら、飯田の両城たちまち落ちて御仕置があった。
乾の天野宮内右衛門に遠州定番の事、良きように申し付け、久野の城を御見回りの時、徳川家康
主要な侍大将たちが三ヶ野で太田川を渡って、四千の人数で打ち出てきた。

信玄は「あれを逃さぬように討ち取れ」と仰せになったが、徳川勢はこれが信玄の軍勢と知ると
引き上げ始めた。甲州武田勢は撤退を許さぬとこれを食い止めようとした。徳川勢に武田軍が迫ろうと
した時、家康の侍大将である内藤三左衛門(信成)はこのように言った

「家康様の八千の総人数の内五千がここまで出ている。そしてこのまま、武田信玄という名大将の、
しかも三万余の大軍と、家康様が出てこないうちに戦ってしまえば、敗北は必定である。
そしてここで負けこの軍勢が討ち取られてしまえば、家康様御手前のみの勢にてどうやって信玄と
合戦するというのか。ここは先ずもって引き取り浜松へ帰り、重ねて一戦を遂げたなら、その時はまた
信長様の御加勢もあるだろうから、それを付けて三河武者八千を以て無二の防戦を遂げる事が出来るだろう。」

しかしながら徳川勢の撤退については、既に武田勢が接近しすぎており、三左衛門の言うようにするのは
無理であると皆は申した。

ここで本多平八郎(忠勝)、この時二十五歳であったが、彼は家康の下で度々の誉れがあり、内々に
武田家でも名の聞こえりようになった武士であった。

平八郎は兜に黒い鹿の角を立て身命を惜しまず敵味方の間に乗り入れて、無事徳川勢を引き上げさせたので
ある。その様子は甲州にて昔の足軽大将、原美濃守(虎胤)、横田備中(高松)、小幡山城(虎盛)、
多田淡路(三八郎)、山本勘助、これら五人以来武田家に於いても多く見ることは出来ないものであり、
家康の小身の家に似合わぬ平八郎であった。

その上三河武者は、十人の内七、八人は唐の頭をかけて出ていた。これも過ぎたるものであると、
小杉右近助という信玄公旗本の近習が歌に詠み坂にこれを立てた、その歌は

『家康に 過ぎたる物は二ツある 唐の頭に本多平八』

(甲陽軍鑑)



316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/06(水) 12:54:26.21 ID:AkN9Xad1
なるほど唐の頭の平八郎ではなかったのか

まったく家康は只者ではない

2019年07月02日 17:36

60 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/02(火) 01:55:04.11 ID:epDKg5+D
ある時、長遠寺の所へもてなしに、馬場美濃守(信春)・内藤修理正(昌豊)・高坂弾正・山県三郎兵衛
(昌景)・原隼人佐(昌胤)・小山田弥三郎、その他各々大身衆が寄り合って1日の雑談があった。

その内、山県三郎兵衛は駿河江尻の城代なので、遠州浜松の家康の噂をよく聞いていて申された。「内藤
殿は関東・安房・佐竹・会津までのことを語りなされ。小山田殿は小田原の近所なので北条家のことを語
りなされ。高坂殿と馬場美濃殿は越後・越中までのことを語りなされよ」とあって、山県は申される。

「さて、家康は義元公討死より以降10年の間、内外の国持ちであるが、駿河の盛りの作法を幼くして見
聞きしたことであろう。信玄公の奉行衆が公事を裁く、その様子に少し似ているようだ。

何であっても公事の落着は目新しいことを聞かないが、それは昨今の家康が国持ちである故で、各々の感
心なさることはまだ10年過ぎてもないことだろう。あの若き家康が申し付けた3人の奉行は、三様の形
儀を言い付けられたと見えて、“仏かうりき・鬼作左・どちへんなしの天野三兵”と浜松で落書が立てられ
たと聞く。

さてまた、ひととせ私めどもが30歳ばかりの時分、信州更科の出家の公事で、武蔵殿と櫻井殿が若き時、
今井殿ばかりが家老で今福浄閑(友清)が中老であったが、4人は歳も形儀も異なっていたのを、奉行に
信玄公は仰せ付けられた。その様子に、これ程の家康が少しずつ似ているのは不思議である」

と山県三郎兵衛が語れば、馬場美濃・内藤・高坂各々は申されて「まったく家康は只者ではない」と言わ
れた。その中で馬場美濃が申されるには、(後略。>>52)

――『甲陽軍鑑(品第四十下 石水寺物語)』



“奥の源四郎”

2019年06月09日 09:29

9 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/09(日) 01:26:21.11 ID:cxXeu6pY
山県三郎兵衛(昌景)は元来“奥の源四郎”と申した御方なり。

源四郎と申す時、信濃猿ヶ馬場という所で越後の謙信衆と互いに物見に出て、しかも采配を
手にかけた武者と馬上から組み落ち、その敵の武者を討って高名故、信玄公の御証文1つ。

また飛騨国において、山道の狭い所故に自分の同心被官も通り過ぎることができず、山県は
1人で、敵は2人で槍を合わせた。この時に信玄公の御証文1つが下された。

合わせて2つの御感を取って持つ。その他の首数5つは並みのしるしなり。

兄の飯富兵部(虎昌)は逆心の侍故、弟は名字を変えさせなさり“山県三郎兵衛”になさった。
同心は板垣衆を付け下された。この三郎兵衛は人数の扱いを良く仕る武者なり。

――『甲陽軍鑑』



信玄公軍法、4人のままになり給う事

2019年05月24日 14:43

936 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/24(金) 01:04:29.85 ID:W72lPDZB
一、馬場美濃(信春)は戦のなされようを申し上げる。

一、山県三郎兵衛(昌景)は「御働きなされて良いかと」と勧め申し上げる。

一、内藤修理(昌豊)は「どこどこへ御働きなされよ」と、指図申し上げる。その様子は北条家を掠め給う
  場合でも伊豆か相模か鉢形か。関東ならば新田・足利か。家康ならば遠州か三河か。信長の東美濃か。
  さては越後かと、様子を推測して内藤が申し上げた。

一、高坂弾正はこのうえなく敵国へ深く働き、あるいは「御一戦は必ず御延引」と計り申し上げる。良く隠
  密することにより、働きは前に知れず。ただし侍大将衆は存じているのである。

一、信玄公軍法の事、馬場美濃守・内藤修理・高坂弾正・山県三郎兵衛4人のままになり給う事、口伝あり。

――『甲陽軍鑑』

hr size="1" />
937 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/24(金) 01:09:09.84 ID:+ueqcqA2
何言ってんだか良く分かんない



すべて信玄の作謀

2018年12月29日 17:14

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/28(金) 19:44:13.74 ID:pBe2OoRD
永禄12年(1569)5月下旬には、遠江一円が神君(徳川家康)に帰順した。かねがね大井川を限りに西は尽く
御領地となさる旨を武田信玄とは堅く盟約されたので、御領地の境を御巡見のため僅かな御供5,6百騎を召し連れ
なさって、榛原郡に赴かれた。

その時、信玄の侍大将・山県三郎兵衛昌景も3千余騎を連れて駿府よりこの辺りに来たり、金谷にて思いがけず行き
違った。昌景は礼をなしてその場を過ぎようとしたが、神君の御供が少ないのを見ると、喧嘩に事を寄せてたちまち
打って掛からんとした。これは内々信玄の密旨を受けており、かねてより虎狼の心を抱いていたからである。神君は
この様子を御覧になって、

「山県は味方が小勢であるのを見て時節よしと思い、かねての約を変じてにわかに備を立て直し、味方を襲い討たん
としている。去年に秋山伯耆守(虎繁)が約を背いて我が国境を犯そうとしたのも、今日の山県の狼藉も、いずれに
しても信玄の偽謀に疑いない。しかしながら味方は僅かの小勢、しかも地の利を得ず。少し引き退いて地利に拠って
戦うべし!」

と仰せになると、兵を5,6町引き退け険路に備えて待ち受けなさった。山県は徳川勢が逃げると思い勝ちに乗じて
暇なく追っ掛けたところ、本多平八郎忠勝が一番に小返りして奮戦した。その手に属する三浦竹蔵・原田弥之助・
桜井庄之助・梶金平(勝忠)・柴田五郎右衛門・大原作之右衛門・木村三七・渡辺半兵衛(真綱)・多門越中・荒川
甚太郎・本多甚六・河合又五郎は同じく進んで槍を入れる。

二番に大須賀五郎左衛門康高と榊原小平太康政が婿舅一手になり、槍を振るい決戦した。両将の手に属す坂部又十郎
(正家)・筧龍之助・久世三四郎(広宣)・筧助太夫(正重)・渥美源五郎(勝吉)・伊藤雁助・清水久三郎・鈴木
角太夫・加藤平次郎も劣るまいと争い進めば、

三番に大久保七郎右衛門忠世・弟の治右衛門忠佐が、また御旗本からは渡辺半蔵(守綱)・服部半蔵(正成)・菅沼
新八郎(定盈)・石川又四郎が馳せ出て槍を合わせ、敵7,8騎をたちまちに突き落とせば、山県はこの戦いに利は
あるまいと知って早々に人数を引き纏め、駿府目指して逃げ去った。

神君は秋山・山県らの狼藉はすべて信玄の姦謀であると御知りになって、これより永く信玄とは誼を断ちなさった。
信玄もこの頃に世上では信玄の姦謀を批難したのでこれを憂い、一旦山県を蟄居させ、その後程なく馬場・小山田ら
が愁訴するからとして山県を許したのであった。これはすべて信玄の作謀の致すところである。

越後の謙信もこれを聞いて「この度、信玄が徳川殿と盟約を変じ、山県をもってその虚に乗じ討たんと計ったことは、
武田家の瑕瑾(名折れ)である」と評したのであった。

(原注:按ずるに応仁以来、諸国割拠の英雄豪傑は少なからず。その中でも、越後の謙信と甲斐の信玄の2人は殊更
胸に六韜三略を明らめ、手に常蛇を制す。兵を用い陣を敷き、城を攻め敵を計る。尽く孫呉と機を同じくせずという
ことなし。天下後世が規則として仰ぐこと泰山北斗の如し。

しかしながら信玄のなすところは、すでに父を追って国を奪い甥を倒して地を掠み、天倫の道は絶えてしまったので
隣国の盟約を背く如きは論ずるに足らず。されどもこの度、盟約は未だ数ヶ月も経ずして山県に密かに計略を含め、
兵の少なきを窺って襲い討たんと計った偽詐姦邪はおのずと国々へ言い伝えて、これより大いに人望を失ったという
のは、そのようになってもっともな事である)

――『改正三河後風土記(武徳大成記・東遷基業)』


山県さんによると、鉄砲は

2018年11月05日 16:44

471 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/05(月) 09:10:20.96 ID:oem912mZ
武田家臣の山県(昌景)の言葉に

「武芸の四門とは、弓、鉄砲、兵法、馬の事である。大身小身によらず、この四つを習い
自余の事を稽古すれば、物を読み、物をよく書き習い、その後乱舞など習うのも尤もである。

而してこの四つの内、先馬、ニ兵法、三弓、四鉄砲とする。
馬は代わりを立てて人を頼むことは出来ない。
剣術、斬り合いも代わりの立てられぬ技である。

弓は古来より武士の家に備わっているもので、系図侍(代々の由緒ある武士)の如く、
出仕の侍(新規召し抱えの武士)は鉄砲である。

ただし鉄砲は、甚だしくわざありと雖も、魔がその焔を恐れおののくことは少ない。
弓は鉄砲に比べて激しくはないが、狐に憑かれた者、一切の不審ある事に、鳴弦などという事があり、
武士の奥意は弓の腕前が噂になることだ。」

と云ったという。

(士談)

山県さんによると、鉄砲は弓に比べて退魔などのマジックアイテムとしていまいち。



472 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/05(月) 10:26:43.04 ID:qKLJ14SM
畿内と違って運用方法を見出せなかった山侍の性

473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/05(月) 12:39:05.35 ID:g89IJWyC
性といえば宣教師驚愕の運用をしていた熊さん

474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/05(月) 15:09:59.19 ID:o4eMMqdY
くまモンさいつよ

475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/05(月) 15:13:18.61 ID:tFQzX33S
乱舞を習うのか…

476 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/05(月) 15:54:44.04 ID:ozHexokv
>>471
面白い視点だ

477 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/05(月) 17:32:54.51 ID:24fLrZPo
単純に弾と火薬が手に入らなくて滅多なことじゃ使えないってだけだろ

478 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/05(月) 17:59:08.81 ID:5qavs+R5
米倉さんと比べて古い頭よのぉ

480 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/05(月) 19:44:18.41 ID:pvjqcEwo
島津流弓霊術「つるがね」

あれこそ山県である

2018年10月26日 17:22

365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/26(金) 13:28:58.92 ID:gqs82Hyy
(長篠の戦いの時)

大久保兄弟(忠世・忠佐)はこの輩(成瀬正一ら)と一同に柵より外に進み出て、武田の先手・侍大将の
山県三郎兵衛昌景の備に向かい鉄砲を撃ち掛ける。山県も始めの頃は軽卒を出し足軽迫り合いをしていた

が、次第に欺き引かれて堪えかね「あの柵を尽く押し破って進め!」と3千の赤備が一同に押し掛かった。
大久保兄弟は命じて思うままに山県勢を引き寄せ、3百余挺の鉄砲を隙間なく撃たせれば、先頭に進んだ

山県勢は散々に撃ち立てられた。その時、大久保兄弟・渡辺半十郎政綱・同弥之助・光池水之助らは山県
の属兵の広瀬郷右衛門昌房・小菅五郎兵衛元成・三科伝右衛門形幸といった名を知られた者どもと挑み

戦う。広瀬・小菅・三科も言葉を掛けて姓名を名乗り、馬上で突き戦8,9度に及び手負いて引き退けば
半十郎や水之助らは高名をなした。山県はそれには目もくれず3千余騎を手に付けて筋違いに織田勢・

佐久間右衛門信盛の柵を駆け破らんと押し掛かる。そこで信長卿は命じられて柵中より鉄砲を激しく撃ち
立てれば、山県勢はここに人塚を作る程に撃ち殺されたので、山県も堪えかねて引き退いた。

(中略。武田勢は鉄砲に苦戦するも、馬場信房・内藤昌豊が佐久間信盛・滝川一益を柵内に追い、信長は
柴田勝家・丹羽長秀・羽柴秀吉に命じて横から武田勢を攻撃させ、内藤がこれを迎撃する)

この時、山県は小山田・甘利らとともに撃ち残された勢を立て直して、柴田・丹羽・木下の勢を横合から
まっしぐらに打って掛かれば、柴田・丹羽・木下の人数は散々に突き立てられて敗走した。山県はこれを

追い打ちするかと見えたが、そうはせずにたちまち備を立て直して、徳川家の御本陣に打って掛かった。
御陣からは鉄砲を激しく撃ち立てれば、山県勢はまた撃ち殺される者若干なり。山県は白糸威の具足に

金の大鍬形を打った兜を身に着け、味方が討たれるのをものともせず、なおなお馬を進めたところ、本多
平八郎(忠勝)が「あれこそ山県である!」と命ずれば、筒先は山県に向かって放たれた。その弾が

飛んで来て山県の緩い糸の間から当たったため、山県は持っている采配を口に咥えて両手で鞍の前輪を
抑えてしばらく堪えていたのだが、ついにたまらず馬から真っ逆様に落ちた。味方がその首を取らんと
駆け集まるのを山県の従兵・志村又右衛門が敵に首を渡すまじと駆け寄り、その首を切って引き返した。

(原注:山県を撃ったのは大坂新助という者であると『勇士一言集』に見える)

――『改正三河後風土記(四戦紀聞・東遷基業・武徳大成記・家忠日記・甲陽軍鑑・武家閑談)』



368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/26(金) 20:06:25.04 ID:8I+DB0d/
>>365
敵に首を渡したくないから切腹した後に…ってのは解るが、戦場で戦闘の真っ最中にもやるのか(困惑

370 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/27(土) 00:18:52.69 ID:5EgtKHTm
>>368
討ち死にした大将の首を敵に渡せば敵の手柄となり、士気を挙げる材料とされる。
+ 首だけでも持って帰って供養しなければならない。

戦国時代どころか、戊辰戦争までやってた、当然のこと。

「すわ、例の本多よ!平八郎よ!」

2017年02月14日 10:10

638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/13(月) 21:52:47.71 ID:X+1KO4ez
天正の初めの頃、甲斐武田家の部将、山県昌景が大軍を以て天龍川近くに進行してきた時、
この方面の徳川軍は少数であったので、天龍川を越えて退却した。
この時、本多平八郎忠勝が殿をし、ただ一騎、後から川に乗り入れ退却していた。

しかしここに、後ろより山県勢の先鋒百騎ばかりが追撃してきた。
忠勝はこれを確認すると同時に、河中より取って返し、これを攻撃した。
その勢い、まるで龍神が波を蹴り立てるような激しさであったという。

これに甲州兵たちは「すわ、例の本多よ!平八郎よ!」と叫び、尽く逃げ去った。
追う者がいなくなったので、忠勝はまた河に入り、心静かに向こう岸へと渡った。

河の中流から引き返すというのは、成し難いことだと言われている。それを安々と
行った本多忠勝の働きというのは、筆舌の及ぶところではない。

(武野燭談)



「孕石の一番槍を見たぞ!」

2017年02月10日 14:08

592 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/10(金) 02:48:01.57 ID:2I4GYOmF
○ 浜松にて、鳥居金次郎成瀬藤蔵は口論し、果たし合いをしようと約束した。

ところが、成瀬が「いや、明日の合戦で先を争って死ぬことこそしかるべきだ!」
と言い、三方ヶ原で両人は討死した。

この金次郎の子も金次郎といい、長久手で討死した。

○ 山県三郎兵衛(昌景)の与力・孕石源右衛門は小瘡<ほりめがさとも云>
を煩い、行歩は不自由で、殊のほか痛んだ。

三方ヶ原合戦の時、孕石は馬から下りることができず、下人に負われ槍場まで
参り、ひたと這い出て人より先へ行き、一番槍を合わせて、名乗りをあげた。

三郎兵衛はこれを見て乗り来ると、「孕石の一番槍を見たぞ!」と、言った。

その相手は小栗某と取り沙汰し仕ったが、成瀬藤蔵鳥居金次郎の両人の内、
どちらかであるという。

――『武功雑記』



四郎殿にとって、強すぎるのは

2014年10月19日 18:57

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/18(土) 18:59:03.23 ID:5L8VGV04
一昨年の4月28日に越後の国の上杉輝虎は小田原の北条殿に頼まれ、信州の国橋・長沼に出陣した時、
信玄公が未だ出馬する前に、伊那より四郎殿(武田勝頼)が夜駆けに駆けつけ、謙信1万5千あまりの兵に、
わずか800の備にて合戦を仕掛けた。

この時謙信は攻めてきたのが四郎殿と聞くと、涙を流しながら「無類の若者かな」と褒め、陣を返し
撤退した。

ただし、殿に下がって物見をする侍が2騎残っていたが、そこに四郎殿は乗り付け1騎を斬り落とした。
その頃我々(高坂弾正)もようやく到着し、もう一人の者も斬り落としたので、さすがの謙信の衆も
撤退の早々にこの両人を捨てて引き下がった。

我らが斬り落とした者は、元来逍遥軒殿(武田信廉)の被官で落合彦介と申す者であった。
そしてそれぞれ御舎兄金丸平三郎殿と喧嘩相手であった。

四郎殿は、18歳の初陣から当年26歳まで9年の間に大体の合戦で、このような先陣の強き働きを
なされたのだが、ただあまりに強すぎたので、今年か来年の間には討ち死にするだろうと考えていた。

この時、阿部加賀守は
「今回の陣触れに関しては、今から20日の間に必ず三河・遠江に発向し、家康と手切れをするのだから、
このような合戦は無事に帰ってこそ後に生きるというのに、武士としては立派ではあるが、
四郎殿はひとしお危ういように思う。」
と語った。

これを山県三郎兵衛(昌景)が聞き
「四郎殿にとって、強すぎるのは一つの疵です。しかもこれは、大将としては大きな傷であり、
結局は弱いことよりも劣るのです。」
そう言って座敷を立った。

(甲陽軍鑑)

信玄存命時の、武田家家中の勝頼への評である。




559 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/18(土) 20:45:32.03 ID:lVg2/OKe
謙信が意気に感じて兵を引くのは好きだな
父の留守を守るためにわずかな手勢で健気に向かってくる若武者とかいかにも好きそう

560 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 03:07:23.14 ID:Tv8WWEMi
もはや源平の時代だよ

561 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 08:52:48.57 ID:TjrpS9Oh
勝頼は伊達成実ポジションだったら大暴れ出来ただろうに

565 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 15:08:57.49 ID:x/pZEeRK
>>559
この二人わりと近いものがあるよな
同盟してれば仲良くなれたかもしれないのに

566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 16:31:13.46 ID:TUmAzWEe
同盟組むには周辺の係争地が豊かすぎた

567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 17:24:33.51 ID:9gmNVTqM
遺言で謙信を頼れとかなかったっけ?

568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 18:41:53.76 ID:qtXAqo3a
>>561
諏訪家にやった四男坊扱いのままだったら幸せだったかもなあ

569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 18:53:39.12 ID:sunMNw+P
>>568
しようがない
兄貴と親父がダメになっちまったんだし

ある時浜松城の城下町を

2013年06月23日 19:04

918 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/23(日) 14:11:58.73 ID:7L91LwNe
武田家全盛の時代、ある時浜松城の城下町を、
武田家に仕える雑役夫が九人で通りがかった。
発見した徳川家の騎馬武者が三騎でこれを追い払おうとした。
騎馬武者一騎で歩兵数人分の戦力と言われるものだが、
なんとこの雑役夫九人はこれに対して反撃にでて、
騎馬武者一人を生け捕りすることに成功した。
これに甲斐国の者たちは大いに沸き立った。
「三河武士は強いと聞くが、我ら甲斐の者に比べたら」
「あの者たちでは甲斐には勝てぬ。
過去の数々の戦がそれを証明している」
武士も町人もこのように話していた。
だがなかにはこの事件を聞き現状を心配する者たちもいた。
山県昌景は、
「雑役夫が騎馬武者を迎え討つなど前代未聞である。
武田家も危うい時期に来ているのではないか」
と語り、
武田信繁は、
「敵方の悪口を言う者がいるならば戒めるようにせよ。
敵方に刺激を与えることは、
敵方を奮起させていると同じことである」
と諭したという。
後、名将二人の心配は的中することとなる。
設楽原以降、甲斐の者が三河武士の旗印に逃げ出すこととなる

甲陽軍鑑、信玄家法より




919 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/23(日) 14:37:08.03 ID:4IQsvjP+
武田信繁が生きてるだと!?

920 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/23(日) 15:33:53.82 ID:3dBL0xsn
>>919
子供の間違いじゃねーの?

921 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/23(日) 16:32:49.05 ID:pamV8bUW
しかし信豊がこんな立派なことを言うだろうか、という疑問が
やっぱり化けて出てきたんだろう

925 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/23(日) 18:15:43.58 ID:n2sMvsj7
普通に信繁生前の話なんじゃないだろうか

926 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/23(日) 18:50:38.74 ID:beg97CVR
よくある話に名前を借りただけなんだろうな

但島守勝雄のもてなしに

2013年05月24日 19:52

697 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/05/24(金) 15:39:19.57 ID:01zyoqe4
弘治二年(1556年)、信玄の命により信濃へ攻め寄せた山県昌景は、
周囲の城を攻め落としながら現在の白馬村近辺に兵を進めていた。
塩島城主の但島守勝雄は以前から武田家に従っていたがその様子を見て、
「我が城が間違っても攻められることはないと思うが・・・」と、少々不安になっていた。
そこで、昌景に敵意がないことを表すため盛大にもてなすことを考えた。
ただ、露骨にもてなすのでは面白みに欠けるとして、
昌景に気づかれないよう内密に準備をすることにした。

そうこうする内に塩島城に昌景の使いが訪れる。
但島守は使いの者たちに知られては意味がないと、
もてなしの準備を平静を装って隠したが、
使いの者たちはその態度や城内の慌ただしさを
「上杉方に寝返って戦の準備をしているのだ」と早合点。
但島守に「主が早急に出向くようにとのおおせです」と伝えた。

使いの者たちは先に陣に戻り、昌景へ
「大量の食糧が城内に運びこまれ、城内はものものしく戦でも始めそうな気配でした。
殿に万が一のことがあってはならぬと、城主に出向くように伝えてきました」と報告した。
昌景はその言葉を信じ、「裏切り者は討たねばならぬ」と準備をはじめた。

そんな状況になっていることを知らない但島守が昌景の陣にやってくる。
昌景は笑顔で迎え、和やかな雰囲気のもと酒宴となった。酒盛りが続き夜も更けた頃、
「今夜はわが陣にお泊りくださるがいい。風呂でも浴びてからゆっくりとお休みくだされ」
と、昌景は風呂をすすめた。
但島守は、昌景の心からのもてなしに礼を言い、案内された湯船に気持ちよく浸かった。
しかし湯船でゆったりくつろいでいだのも束の間、
覆面の武士が音もなく湯殿の戸を開けて入り込み、背後から槍を一突・・・。
但島守は「うっっ」と一声あげ、血潮に染まった湯舟の中で息絶えたのだった。


この話は「白馬ハイランドホテル」サイト掲載の昔話を短くまとめたものです。
出典や真偽等についてはちょとわかりかねますが、面白い話だったので是非。




698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/24(金) 20:35:01.49 ID:o3OeRfo3
戦国時代はサプライズパーティーも命がけやでぇ・・・

699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/24(金) 21:15:43.06 ID:UZrhSbeD
いやまぁ、それとなく伝えて内密に同意得ておかないと
事故ってしまうのは時代を選ばない気もするが

国単位でそれやらかした所もあったりするし

700 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/24(金) 22:25:25.22 ID:+qovmhjL
敵意がないことを示すための接待なんだから、
始めから家中全体大歓迎ムード発揮してやるべきだよな

修羅の国たる甲斐の裁判

2012年10月04日 20:29

699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/03(水) 23:29:36.38 ID:SFQprfYR
変な流れにしちゃったんで、責任とって逸話を一つ

武田家家臣に多田新蔵という剛勇で知られた若者がいた。
彼はあるとき喧嘩沙汰を起こしたが、新蔵の父は武勇忠節名高い多田淡路であったためその際は許された。

にもかかわらず、その後、新蔵は甘利同心の福田という者との間で再び喧嘩沙汰を起こしてしまった。
その仔細はこうである。

福田は、酒に酔っ払った様子で自身の下女を町中に立たせ、往来の者に触らせ、
人の女に手を付けたといって打ち伏せて、刀脇差を奪い取ろうとした。
日暮れ時で、よく見えなかったたため、福田はその相手が新蔵だと気付かないまま、
逃がしてたまるかと、刀を抜いて新蔵を追いかけた。
新蔵はいろいろと言って釈明しようとしたが、福田はこれを許さず新蔵に切り付けた。
そこで新蔵は、刀を抜き、一刀にて福田の頸を打ち落とした。

この件は当然問題となり、山県三郎兵衛(昌景)を奉行として詮議が行われた。
新蔵は、「喧嘩の始終を、目撃していた町人を召し寄せて、拷問して聞いてみてください。」と言う。
呼ばれた町人は、拷問を受けるまでもなく見たままを話したので、
新蔵は赦免され、福田は切られ損となった。
それどころか福田の行いは強盗であるとされ、福田の女房まで磔に処せられた。

山県は、普段は新蔵のことを嫌っていたが、少しも私心を交えることなく判断なさったため、
このような結論となったのだった。

以上、修羅の国たる甲斐らしい突っ込みどころが多すぎる話を「甲陽軍鑑」からニュアンス訳で。


ちなみに書によって、本来別の人物である
新蔵、久蔵、三八が混同されて記録されているため混乱が生じていますが
既出の「多田満頼、久蔵、天下に名をはせた勇者の物語・いい話」
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-382.html
に出てくる久蔵と上記の新蔵は、おそらく同じ人物です。




701 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/04(木) 01:56:44.56 ID:DyCMgkKm
証人を拷問w

702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/04(木) 06:29:50.11 ID:FJiAJpCG
甲陽軍鑑とかのおかげで高坂さんとか真田さんとかは急に知名度大上昇だよなぁ。
逆に原さんとか小幡さんとか四名臣だけど内藤さんは評価低いね。徳川で言う大久保ポジションというか。

703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/04(木) 10:10:52.12 ID:Z89BwmrG
甲陽軍鑑って裁判の話多くていいよな 
武士道を知ることができる 

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/04(木) 10:27:07.04 ID:FTj2+X6D
尋問とかいうのならともかく、
目撃者を拷問するなとw


705 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/10/04(木) 10:30:31.08 ID:+upK+BFu
ていうか女房気の毒だな
下女は無事だったようだが

706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/04(木) 10:31:49.86 ID:K+7a1/nL
>福田の女房まで磔に処せられた。


なんで女房まで磔になるんですかー!やだー!

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/04(木) 11:17:51.17 ID:Fcg6TPfa
下女にやらせたってことは女房も認識していたはずだから共犯扱いってことなのかな?

708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/04(木) 12:08:32.97 ID:EabxPmNO
まぁ下女の管理は女房の仕事だから共犯もしくは当然責任があるという考えだったんだろう

709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/04(木) 12:17:16.53 ID:DyCMgkKm
女房がキリシタンになったら下女の所為なんです

710 名前:699[sage] 投稿日:2012/10/04(木) 12:34:39.98 ID:GqDbShNe
>>707,708
共犯ってよりも、主人の罪に妻子が連座したってことだと思う(この場合は子がいなかったみたいだけど)
甲州法度にも、罪人の妻子に刑罰が当然に連座することを前提にした規定があるし

>>701,704
甲陽軍鑑には他の逸話にも、証人として呼ばれた町人に対して、
拷問してでも話を聞けとする信玄の意向が示されるシーンがあるんで、
本当に拷問するかどうかは別として、
証人に拷問すると脅してでも証言させる、っていう発想は当時としてはそれほど突飛なものではないみたい

怖い世界ですなw


711 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/04(木) 12:52:46.60 ID:466WC98E
まあ、被害者が拷問されたみたいな話もあるから、目撃者が拷問されることもある

712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/04(木) 13:38:37.38 ID:Fcg6TPfa
うわ、この例で単純な連座だとすると、甲州法度って本当にアレなんだなぁ…

713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/04(木) 14:44:05.02 ID:EabxPmNO
喧嘩両成敗の項だろ。そりゃ甲州法度では喧嘩は重罪だからな。
何でもかんでも連座という法は無い

714 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/04(木) 15:50:00.46 ID:J3MY6+oy
「ねんがんの じけんげんばを もくげきしたぞ!」

ニア ごうもんしてでも といただす

「なにをする きさまらー!!」

715 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/04(木) 16:34:41.73 ID:AeP+oVK6
曲渕とかいう狂犬もいるから本当訴訟は奉行もハラハラだぜw

716 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/04(木) 17:56:06.88 ID:H5EgBvVS
>712、修羅の国、甲斐の法だしw

717 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/04(木) 19:33:02.84 ID:kO5vp65O
今川の真似だったと思うけど

718 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/04(木) 20:46:54.73 ID:+r+WOQwx
真似であって、自国流にアレンジはあるよ当然

719 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/04(木) 21:59:42.51 ID:FTj2+X6D
>>715
「甲斐の狂犬」と書くと、
ヤンキーか何かに見えてくるなw

720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/04(木) 23:57:54.42 ID:EY7LAARa
富田さんが血走った目で見ている