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山科言継の愛人・左衛門督の死

2020年12月17日 17:18

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/17(木) 16:29:20.77 ID:jVMIKhyQ
山科言継の愛人・左衛門督の死


山科言継の長女・阿茶は禁裏女官であった愛人・左衛門督との娘で幼い頃から出家していた。
公卿と禁裏の女官が愛人関係になるのは当時よくあったことで、言継の母も禁裏の下級女官であった。
左衛門督と阿茶はお互い連絡を取りつつも、離れたところで暮らしていたが
左衛門督は元・禁裏女官という経歴を活かして、越前朝倉氏に侍女として奉公するようになっていた。
阿茶はのちに還俗し越前の松尾兵部丞の後妻になっているが、この松尾兵部は「朝倉兵部」とも号する
越前朝倉氏の庶流で、左衛門督が娘と近くで暮らすために縁組を世話した可能性があるという。
【参考論文・山科言継をめぐる三人の女性 : 実母・愛人・長女】

その後、母子は言継に対し自身の現況を言継とやり取りし、左衛門督は朝倉義景に気に入られて
民部卿と官途名が変わったことなども報じられていたが 『言継卿記(紙背文書)』
信長の越前侵攻で状況が一変した。言経卿記の紙背文書にある阿茶からの書状によると

「……われらかもじ(母)も、こそ(去年)のふなか殿御いて候ときにけ候とて、あしかよわく候て
 とをくへはゑにけ(逃げ)候はす候、みち(途)にて御すき(過ぎ)させ給候……」

足が弱いせいで逃げられず、織田軍の一向一揆壊滅戦に巻き込まれて亡くなったことが伝えられた。
幸いにして、阿茶の夫の松尾兵部は織田氏の麾下に属し加賀国にいたため難は逃れたそうだが
この書状を読んだ言継の胸中はいかほどだったろうか。



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明智令押領之由被聞食訖

2020年11月25日 17:02

461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/25(水) 15:12:48.57 ID:OxAEvWpj
元亀二年十二月十一日

早朝、竹門より御使として宮内卿が来られた。禁裏より織田信長へ綸旨を出すこと、
同じく薫物(たきもの)十貝を渡すことへの異存について返答した。
綸旨の内容は、このようなものであった

今度就山門之儀、諸門跡領、明智令押領之由被聞食訖
諸門跡領之儀者、為朝恩天下安全之護持之事候條、
可混山門之儀更不可有之候、既及退転之間歎思召候、
諸門跡領悉以無別儀之様被申付者、可悦思召之由、
天気所候也、仍執達如件、

(今度の山門(比叡山)の事について、諸門跡の領地を、明智光秀が横領していると(天皇が)聞き
及ばれました。
諸門跡領については、天下安全を護持するための朝恩であり、山門領と一緒にすべきではありません。
既に退転に及んだというその嘆きを思し召され、諸門跡領悉く、別儀無いと申し付けられれば、
悦ばしく思われるでしょう。
天気(天皇の意思)所候なり。執達件の如し)


十二月十日  左中辨 晴豐
   織田彈正忠殿

言継卿記

比叡山焼き討ち後、明智光秀が諸門跡領まで横領したことに対して、朝廷よりその停止を求めた
信長への綸旨。



金ヶ崎の戦いについての京での様子

2020年11月12日 18:45

451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/12(木) 16:04:36.47 ID:7iTRDrjx
永禄十三年(元亀元年)四月二十日
早朝、弾正忠(織田)信長の出陣を見物する。一条から東に、坂本に下った。三万ばかりの軍勢であった。
両三日以内に若狭へ罷り越すという。
三好左京大夫(義継)はこれを送り、松永山城守(久秀)は共に下った。摂津の池田筑後守(勝正)は
三千ばかりの人数でこれに従った。
公家より、飛鳥井中将、日野等もこれに従った。今日は鰐まで行くのだという。
貴賤男女僧俗が見物をした。

二十三日
今日改元これ有り(永禄→元亀)。方々より借用の遣いがあった。
高辻よりは石帯、持明院・同、四辻相公羽林袍太刀、坊城沓、勧修寺辯大帷、等である

二十七日
一昨日、越前国に於いて合戦があったという。信長衆千人余り討ち死にしたという。
不確実な注進であり、詳しいことはわからない。

二十八日
禁裏に於いて御三間五常楽急百返、八幡御法楽があった。信長のための御祈祷であろうか。
十六反であり、次に太平楽急二反があった。

二十九日
越前の事について、毎日様々な沙汰が有るため、弾正忠宿舎へ行き、留守の衆である島田但馬守、
佐藤三河入道、猪子外記入道、鷹師衆等と雑談した。福角、森伝兵衛(可隆・森可成長男)、毛利河内守(秀頼)
等の討ち死には必死だという。

信長より自筆の書状が届き、金之崎(金ヶ崎)の城を開城させるため、作事、番匠、鍛冶、をか引き等
七十人ばかりを下すよう言ってきたという。

近江に六角が出兵し、方々を放火したという。そして北郡の浅井(長政)はこれと申し合わせ、信長に別心
したという。これによって越前から美濃への通路は封鎖されたという。ただし越前から若狭の西路は
往還できるという。

武家(義昭)の奉公衆である松井七郎は越前に於いて負傷したという。

弾正忠信長が、亥の刻(午後十時頃)帰陣したという。

言継卿記

金ヶ崎の戦いについての京での様子。浅井の寝返りが、朝倉ではなく六角と連動したものと捉えられていたのですね。



452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/12(木) 17:30:38.36 ID:3GjHpviy
京極の臣下→独立→朝倉に攻められる→六角に半臣従→信長と同名結んで独立→なかば信長の臣下で、信長政権的には名目上京極の臣下→朝倉・六角と同名結んで独立→滅亡という具合だから、
浅井のどこが義理堅い大名なのかを小一時間…

信長狙撃事件について

2020年10月29日 16:05

432 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/28(水) 22:11:22.91 ID:T0SBhEYQ
永禄十三年
五月二十二日
摂州、江州等よりの注進があった。六角入道(承禎)、同右衛門督(義治)らが、一昨日に甲賀の
石部城に出てきたという、その軍勢は二万ばかりという。
そして織田弾正忠(信長)が、甲津畑において、鉄砲四丁にて山中から撃たれたという。
ただし当たらず、笠の柄が打ち折れたという。言葉にも出来ない(不可説不可説)。

言継卿記

杉谷善住坊による信長狙撃事件についての、言継卿記の記事



義昭二条城普請の様子と、当時の秀吉の働きの一端について

2020年10月27日 16:25

674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/27(火) 00:30:24.00 ID:AXIGWCDj
永禄十二年(1569)四月二日
織田弾正忠(信長)の所へ罷り向かった所、留守であったので二条城の普請を見物して帰った。
石垣三重は悉く出来上がり、また南巽のだしの石垣も出来、今は東のだしについて、少々出来ている。
この方にあった近衛の敷地は、悉く奉公衆の屋敷となった。不運の至である。

織田信長の使いの木下藤吉郎が岡殿の所へ参ったので、私も参った。丹州の知行、佐伯の南北両庄について、
細川右馬頭が代官職を内藤五郎に渡さないため、この内藤に、木下が相添えてこれを進め、代官を
仰せ付けると申したことで、近く両人に様々に問答を加え、この両庄より八十石を岡殿に進納することに
定まったという。羨ましい事である(御浦山敷事也)
藤吉郎と対面し、盃を下した。

言継卿記

義昭二条城普請の様子と、当時の秀吉の働きの一端について



光源院殿の葬礼

2020年10月17日 17:27

417 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/16(金) 22:28:43.99 ID:O+cHCO8f
永禄八年六月九日

光源院殿(足利義輝)の葬礼が等持寺に於いて、寅刻(午前四時)より、夜明けに及ぶまで行われたという。
しかし、前々には悉く参っていた昵懇の公家たちは、今日、一人も参らなかった。また五山十刹、諸宗などによる
読経も悉く無かったという。ご子孫がなかった故であろうか。
葬礼に在ったのは、相国寺衆、奉公衆、奉行衆ばかりであったそうだ。

言継卿記

言継卿記より、足利義輝の葬儀について。三好に睨まれるという恐れもあったのでしょうが、薄情なものですね。

418 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/17(土) 00:32:01.78 ID:Nku6hMSe
山科卿も伝聞ってことは行ってないのか

419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/17(土) 00:41:15.72 ID:B76PdEkK
言継は義輝の昵近公家じゃないしね。

420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/17(土) 01:51:51.31 ID:ed/YEY0g
暗殺した連中に葬儀されてたら誰もこんわと思ってたけど、それは政元だったかな?

ところが『孟子』に至ると、

2019年03月23日 18:43

809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/22(金) 18:41:07.63 ID:MmvfBlxx
老人(江村専斎)が少年の時、洛中には四書の素読を教える人がいなかった。公家の中で山科殿(山科言継
が知っているということで、老人は山科殿から三部を習った。ところが『孟子』に至ると、山科殿は「本を
人に貸している」と言って、ついに教えなかった。事実は分からない。

――『老人雑話』



山科言継が巻き込まれた夫婦喧嘩

2014年12月18日 18:51

390 名前:夫婦喧嘩は犬も喰わない[sage] 投稿日:2014/12/17(水) 23:11:11.57 ID:IOBS+uWI
山科言継が巻き込まれた夫婦喧嘩。
 『日記で読む日本中世史』の清水克行氏の執筆分から。

永禄二年七月十七日、山科家の下女が、盛大な夫婦喧嘩の挙句、髪を切られてしまった。
夫婦喧嘩の理由はわからないが、なんだか大げんかだったのは間違いない。
この当時、女性の髪は女性性の象徴。それを切ることは、大変な暴力にあたる。
……とはいえ、普通ならば一応、「家庭内暴力」の範疇ではある。

だが、下女の夫が同じ公家・甘露寺経元の下男だったから、話がややこしくなる。
この事件が、「山科家の下女が、甘露寺家の下男に攻撃された」という形になってしまうからである。
すぐさま言継は、甘露寺経元に対して「相当の成敗(=同程度の処罰)」を要求した。

しかし経元は当日「確認してから再度連絡します」と連絡したっきり、何日も言継へ連絡を返さない。
言継が問い返しても「留守です」のひとこと。
甘露寺家は、山科家の口入れで下男を処分することが体面に関わると判断したのである。
本来、言継と経元とは互いの家を訪問しあうなど、非常に親密な関係だったのだが……。

不誠実な甘露寺家に怒った言継は、二十日に曼殊院門跡へ仲裁を依頼したらしい。
翌日には、洛中の治安維持を担当する幕府侍所開闔・松田盛秀から、件の下男が20日の追放処分になった、と言継へ連絡があった。
曼殊院側が、甘露寺家にいろいろアドバイスしてくれたようだ。
「とりあえず隠しておいて有耶無耶にする」という甘露寺家の意図が丸見えだが、言継は了承した。

が、直後に山科家に謝罪しにきたのが、なぜか曼殊院の坊官であったのが、言継の癪に触る。
ただでさえ甘露寺側の不誠実な対応に苛ついていた言継は、「甘露寺側からの直接の謝罪があるべきだ」と怒って面会拒否。
松田盛秀を通して曼殊院に厳重に抗議した。

残念ながら、この後の経過は言継も記していない。
どうやら両家の対立は沈静化したようではあるが、どうにも体面とは難しいものである。


で、問題の下男。20日の謹慎が解けたのち、あっさり甘露寺家に帰った。
どころか、山科家の下女ともよりを戻し、元の夫婦生活に戻ったようである。
長年の交友関係にあった山科家と甘露寺家とが、一触即発になったことなんて、忘れてしまったかのように。
挙句、10月1日には、その下男が腹痛を起こしたと甘露寺家から連絡があり、言継が薬を調合してやった。


 というわけで、主人とは関係なく喧嘩して仲直りして、なんていう下男下女の、夫婦仲のいい話?




392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/17(水) 23:27:44.44 ID:SdudZCHY
言継が黙ってればただの夫婦喧嘩だわな
言継も悪いと思ったんだろう

山科言継の岐阜下向

2012年07月26日 20:54

733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/26(木) 19:17:39.47 ID:tkKQMCCS
永禄12年11月8日、権大納言・山科言継織田信長の居る岐阜へと下った。
12日、岐阜に到着する。以下、言継の日記より

「武井夕庵に澤路隼人を遣わした。夕庵は、『奏者の事は解りました。信長様は現在の京の状況をよくご存じないのです』
というようなことを言ったそうだ。

次に朝山日乗上人、坂井文介らに遣いを出した。文介は疲れて寝込んでいるということだった。

日乗の宿舎に向かうと、門前でばったりと出会った。そのまま談合のような形になり、私の用件の
あらましを語ると、日乗は「後で、かねて岐阜に下向している三条大納言(実澄)と話し合いをする
用件があるので、ご一緒に同道しませんか?」と言った。

(後略)

光雲の所で食事の振る舞いを受けた。それにしても今の美濃は、悪銭のために商売が停滞し、
酒なども手に入らないのだという。

三条亜相の宿舎を訪ね、稲葉貞通の所にいるのでそこに行って、信長と対面することを話し合った。」

13日
「まだ弾正忠(信長)に奏者を送っていないのに、今日鷹山からの帰りに、門前で出会ってしまった。
そこで私が岐阜に来た理由を少し話した。その後、戌の刻(午後8時頃)に松井友閑が信長の
遣いとして来て、私が岐阜に来たのは勅使としてか、それとも私的なものなのか、その立場を教えて欲しい
とのことだったので、私的な訴えで来たのだと申し渡した。」

(後略)

14日
「黄昏時になって弾正忠(信長)より、好斎、武井夕庵の二人が遣いとして来て、銭二千疋を贈って来た。
信長からの伝言は『只今、京都の方のことは何も解らないので、この春過ぎの上洛の時に、知行の分配を行うよう
申し付けるつもりです。ですので、先ずそれまでご堪忍をしていただきたい』とのことであった
(只今者京面之儀、万事不存之間、春過上洛之刻、知行分可申付之、先其刻迄可堪忍之由被申之)
その日は返事を出さず、夜半ばかりに宿所に帰った。それから先の好斎の所へ礼に行き、銭二十疋を
遣わした。」

(言継卿記)

岐阜での信長側近たちとのやり取り、また美濃が、悪銭の影響を受けて非常な不景気になっていたことなど
(これは岐阜をバビロンと呼びその繁栄を報告したフロイスの描写との差が面白い)
当時の岐阜の空気がよく伝わってくる記録である。





749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/27(金) 13:15:32.28 ID:kfiNQJ4u
>>733
ほんとは家康のところに法会の資金を無心に行く予定だったんだよね
信長に扇子5本プレゼントして、家康の分と合わせて法会の金2万疋貰ってほくほく顔で帰るんだよなあ
出かける前は言経に神楽の秘曲・灌頂の所作を聞かせて奥義伝授するほど悲壮だったのにさ