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故に再び謀叛を起こした

2019年02月24日 19:16

759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/23(土) 19:51:30.66 ID:MaZU3Wfr
山路正国の逃走後)

とりわけ織田三七信孝は秀吉に与するを好まず、また三介信雄に対しては牆に鬩ぐ(兄弟が内輪で
喧嘩すること)恨みがあって侮りを抑える心はなく、故に再び謀叛を起こした。

信孝が柴田・滝川と一統して天下を覆そうとする旨を議定したことは秀吉の聞くところとなり、4
月17日に秀吉は長浜より美濃大垣城に至る。信孝は美濃・伊勢の人数を端々で一手になし、方々
を焼き回った。

このため秀吉は「是非とも岐阜に攻め入り、鬱憤を散らさん!」とするところで、その頃は長雨が
止まず、郷土の川は洪水してまったく兵馬を渡すことができなかったので、秀吉は大垣に5,6日
滞留した。その間に伊勢峯城(滝川方の城)を信雄の御人数や、その他蒲生飛騨守氏郷・長谷川藤
五郎秀一・多賀・山崎・池田などが攻め詰め、落去したとの吉報があった。武辺勝利の吉兆である。

さて柴田勝家は信孝の御謀叛に力を得て、天下を取らんとしたのは無論のことである(可取天下事
勿論也)。旧冬に勝家が信孝に一味した時は救い奉ることができず無念であったが、今この時には
きっと一戦に及ばんとする。

幸いにも只今秀吉は美濃に赴いているので、その隙にまずこの表を打ち破るべく、かの謀叛人の山
路将監(正国)を案内者にして、敵の行動や陣取の様子をことごとく尋ね探らせた。

天正11年(1583)卯月20日、佐久間玄蕃助(盛政)を大将となして余呉の海馬手を通り、
賤ヶ岳を手元に置いて、中川瀬兵衛尉清秀が陣取る尾崎に押し寄せ、柴田父子は堂木山と左祢山を
襲うために近々と人数を立ち寄らせたのである。

――『天正記(柴田退治記)』


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柴田勝豊の死

2019年02月22日 18:58

755 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/21(木) 19:29:31.77 ID:SlVLXdW7
柴田勝豊の降参と織田信孝との和睦後)

山崎城で越年した秀吉は元日より播磨姫路に赴き、2日3日の間には諸国の大名小名が袂を連ねて
踵を接し、車馬門前の市をなす。秀吉は朝には礼者に向かって親愛を尽くし、夕には近習に対して
政道を説き、天下の工夫は昼夜いとまあらず。

そうして若君御幼少の間は伯父の織田三介信雄を御名代となし、まず若君を安土に移し奉った。閏
正月初旬に秀吉もまた安土に至り、国々の諸侍は若君への礼儀を調え尊仰をもっぱらにする。あた
かも将軍(織田信長)御在世の時のようで、まことに君臣の礼は諸人の感心するところであった。

秀吉は安土に10余日逗留してその後また山崎に帰り、諸国に陣触して軍兵を集めた。軍兵は長浜
に寄せ来たり、秀吉は重ねて堅固にその人質を取った。

その頃、勝豊(柴田勝豊)は病気が穏やかならず、起き伏しも叶わずに病床にあった。これ故に自
身で出張することはできず、与力に大金藤八と山路将監(正国)を越前の境目に遣わし、片岡天神
山に出城を拵えて修理亮勝家に相対し、秀吉への無二の色立ての奥底を極めて、惟住五郎左衛門尉
(丹羽長秀)と組んで越前の押さえとなった。

(中略。滝川一益の挙兵)

秀吉は引き退いてまた長浜に至り、しばしば帷帳の中にいても心はあらゆる方面に向けられ、夙興
夜寝の謹み浅からず。

はたまた伊賀守勝豊は病気に堪えずにより上洛して、扁蒼の術を尽くしてもその効果はなく、すで
に易簀に及ぶを嘆いて曰く、遺言したのである。

「私は一世の内に再び越州の地を踏んで本懐を遂げるべく、恨みを晴らそうというところで、不幸
にもこのようになった。秀吉が越前を平らげて私の望みが叶えば、草葉の陰の弔慰となるだろう」
(我一世中再踏越州之地復寃可遂本懐之處不幸而如此。秀吉平越前於達我望者可爲草陰之吊慰)

秀吉は涙を押さえて離別を惜しむも、無常の習いでついに勝豊は逝去したのである。秀吉は金銀を
賜って洛中洛外の僧をもって供養し、葬礼法会を行ったことは数えきれないほどであった。

ここに至って秀吉は勝豊の人数を同木山に入れ置いたが、調略の風説があった。これにより木村隼
人佐(定重)が入れ替わり、大金藤八・木下半右衛門(一元)・山路将監は外構に出してもっぱら
これを用心した。すると山路将監の謀叛は次第次第に露見し、将監は妻子を捨てて白昼に敵陣へと
走り入ったのである。

――『天正記(柴田退治記)』