245 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/18(土) 20:39:09.35 ID:ANtCCoBN
山鹿素行「
武家事紀」から
神子田正治、
宮田光次について
神子田半左衛門尉
肥前守が子なり。秀吉凡賤の時より勤仕して、度々軍功をあらわし、宮田・尾藤・戸田と四人の列、もっとも神子田を第一とす。
秀吉中国退治のために播州を賜わる。この時四人五千石を与えたまう。(四士、長浜に於いておのおの二百五十貫、黄母衣士なり)
この時、おのおの会談して
「大国を領せらるる上は、いずれにもまたそれぞれの城地、または分内広所を賜わりてこそ、年来の勇労をも慰むべきに、
わずか馬の飼料に五千石を得ることもっとも不快なり。これよりおのおの逃亡すべき」
と相催しけるに、神子田いいけるは
「いずれもが分別大いに違えり。中国征伐として、大国拝領にいずれもさせる益なしと、秀吉の志あるゆえにこの小知を賜わる。
それにあっては五千石は過分なり。いそぎ長浜より引っ越して以前のごとくいよいよ忠戦を抜くべし」
と諷諫して長浜を仔細なく引っ越すや、三木城攻めにおのおの相ともに力戦す。
三年の城攻めにつき、城をかまえ持ち口を定め、度々城兵と相戦い、賤ヶ岳の役に、神子田一方の将として相備う。
長久手の役ののち、五月朔日、秀吉師を濃州にかえしたまう。
小牧より付くべきの間、しんがりは二重堀の諸将これを勤むべしと命ぜられ、秀吉みずから青塚に馬を立ちたまい、黒田孝高(如水)、明石与四郎(左近)が兵を傍にそなえしめたまう。
二重堀の諸将、一番神子田半左衛門、二番日根野兄弟、三番木村常陸介・加藤作内、四番長谷川秀一、五番細川忠興なり。
小牧より北畠信雄、兵を出してしたがうべきとありしを、源君(家康)これをとどめたまう。
しかれども信雄の勢二十余人かけだして付きしたがう。
神子田・木村・日根野が兵、見崩(戦う前に崩れること)いたし敗北。細川忠興が兵士しんがりして、信雄が勢と相戦いて追い散らし引き取る。
この時、秀吉じかに青塚にいたまいて見物なり。
「去月長久手において三将討ち死に、今日細川忠興が働きによって長久手の色直しなり」とのたまい、
すなわち細川が兵士に感状ならびに熨斗付きの刀などを賜わる。
今日、神子田一番に敗軍いたし、敵も付かずに見崩、諸手之によりて騒動せしむ。その罪のがれがたしとあって、その夜改易せらる。
のち神子田、豊後に漂泊す。秀吉ついに殺害せしめたまうて、その頭を一条戻橋に獄門にかけ、自らその罪科を札に記さしめ立ちたまえりとなり。
(あるいは云う、神子田はじめ長久手において首級を得て帰る。秀吉大いに感じ、これを賞す。
神子田、その首を棄てて云う「予のごときは自らその首を得るに、公なんぞ叱らざるや。匹夫の功、あに賞するに足らんや」と。
二重堀退去の時、公、青塚に在りてこれを見る。近臣に示す。
「この神子田、抜群の勇戦あるべし。汝らこれを視るべし」と。
しかるに神子田、大いに敗る。公、もっともこれを羞(は)じてにくむ。
すなわち彼を呼びてその罪を糺(ただ)すに、神子田云う。
「我兵士を率いざる。故に敵を防ぐの士なし」と。
公、大いにこれを怒りて「汝、我に仕えしはじめ幾人を携えて来たるや?」と。
ついにこれを改易す、うんぬん)
246 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/18(土) 20:47:31.63 ID:ANtCCoBN
宮田喜八郎
幼若より秀吉につかゆ。武勇絶倫、秀吉母衣の勇士一員たり。
秀吉長浜を領られしより、播州に移りたまう時に至るまで宮田・尾藤・神子田・戸田をこゆる勇功の士あらず。
三木城攻めに天正六年五月、宮田戦死。秀吉もっとも嘆惜す。
尾藤、神子田に比して戸田、宮田は記載に乏しい。
神子田については過去に五千石と秀吉への口答えの話も両方出ていたが、
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1832.html
神子田半左衛門と五千石の加増・悪い話http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3315.html
神子田さんが改易された話逆バージョン五千石についてはここでは秀吉に大望があるため城地を与えなかった、と以前の話とは違った解釈だった。
それにしても、尾藤知宣、戸田勝隆、
神子田正治、
宮田光次を合わせて羽柴四天王と呼ぶらしいが、誰がはじめに言い出したんだろう