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山鹿素行「武家事紀」より平野長泰の話

2022年04月27日 17:20

463 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/27(水) 09:46:26.24 ID:qPZYMBa9
山鹿素行武家事紀」より平野長泰の話

上記のように駿府で源君(家康)に大坂城入城を許可してくれるよう訴えたが、義心に感悦した家康により細川忠興を介して、
黒田長政・福島正則・加藤嘉明とともに江戸に留められてしまった。
不満に思った長泰は駿府から江戸の加藤嘉明の屋敷に直行し、
意気揚々として大坂方が勝利するだろうと談笑したが、嘉明は激しく叱って黙らせた。

なお長泰の弟で九左衛門尉長重というものがいて、これも賤ヶ岳の合戦で高名を挙げたが、長刀を好んで使っていたため、
槍ではないということで七本槍に入れられなかったという。



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山鹿素行「武家事紀」から仙石秀久・竹中半兵衛

2021年12月24日 16:20

906 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/22(水) 19:03:32.01 ID:5CM2dYsf
山鹿素行武家事紀」から仙石秀久竹中半兵衛

仙石権兵衛尉秀久、濃州人、土岐の一流なり。
初め信長へ仕え、後に秀吉に仕えてたびたび戦功あり。
秀吉四国征伐の前、ひそかに仙石に命じて讃岐国に手遣わせしむ。
秀久命にしたがい、諸浪人をあつめ讃岐にこゆ。秀久軍使仙石角右衛門をはせてこの旨を告ぐ。
そのうちに大納言秀長四国に出勢。ついに四国平均によって讃岐国を秀久に賜う。
(戸次川の合戦、長宗我部信親討死や領国没収の話)
天正十八年小田原役に軍勢の形粧を見物のため、秀吉日岡に桟敷をかまえ出でたまう。
この時諸勢に先立って糟尾冑に白練に日の丸を出せる陣羽織を着たる武士押し行き、秀吉これを尋ねさせたまえば仙石秀久なり。
秀吉感悦の上、北条滅亡ののち、信州小室(小諸)六万石を賜う。

竹中半兵衛尉重治
(斎藤家に仕えていたがなんだかんだで信長の命で秀吉に属し)
信長江北の征伐、秀吉先軍をつとむ。重治あい従いて軍事を議すに中(あた)らずということなし。
浅井長政、長比・長亭軒の二城をかまえて信長をさえぎる。
竹中重治が謀によりて、堀二郎(堀秀村)が老臣樋口(直房)・多羅両人に信長へ降参のことをすすむ。両人、義を守りて従わず。
重治いいけるは「義に大小あり。小義を立てて大義を失うことは、君子はなさず。
今堀二郎幼若なり。両臣降伏をいれず、小義を守りて滅亡不日なるべき浅井に与し、家を失い、身を殺すこと、これあに忠というべきや」と理を尽くして諷諫す。
これにより堀二郎(このとき十二才)長亭軒城をもって信長に降伏す。
(浅井攻め、長篠の戦いで活躍)
三木の別所長治、一族をあつめ秀吉に叛く。
秀吉これを攻撃す。その軍事みな重治が謀るところよりいず。
重治病におかされ、上京して養療すとらいえども、不快につき三木の陣営平山にかえり、陣中において卒す。
勇士、死するといえども戦場を忘れざるなり、年三十五。
(中略)
重治つねに数珠をつまくりける。
死期に臨みて家人ら数珠を与う。
重治、大いに怒りてこれを投げ棄て
「わが数珠は死後の競望あって所持のことにあらず」と言えりとぞ。

そのほか、美濃で若い頃は「鼻たらし」と馬鹿にされたとか、数珠をくりながら「美濃には誰もいない」とつぶやいていたとかいう逸話もあるけど
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10843.html
同じ山鹿素行の「士談」出典で前にも出ていたので省略。

907 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/22(水) 19:26:49.69 ID:5CM2dYsf

あと、竹中半兵衛が降伏を勧めた堀秀村配下の樋口直房はもともと半兵衛と旧知の仲で稲葉山城奪取の後の半兵衛の世話もしたらしい。
ただ一向一揆勢と秀吉の了解を得ずに和睦したため、秀吉に謀反とされ直房は斬首。主君の堀秀村も所領没収されてしまった。



神子田正治、宮田光次について

2021年12月19日 15:31

245 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/18(土) 20:39:09.35 ID:ANtCCoBN
山鹿素行武家事紀」から神子田正治宮田光次について

神子田半左衛門尉
肥前守が子なり。秀吉凡賤の時より勤仕して、度々軍功をあらわし、宮田・尾藤・戸田と四人の列、もっとも神子田を第一とす。
秀吉中国退治のために播州を賜わる。この時四人五千石を与えたまう。(四士、長浜に於いておのおの二百五十貫、黄母衣士なり)
この時、おのおの会談して
「大国を領せらるる上は、いずれにもまたそれぞれの城地、または分内広所を賜わりてこそ、年来の勇労をも慰むべきに、
わずか馬の飼料に五千石を得ることもっとも不快なり。これよりおのおの逃亡すべき」
と相催しけるに、神子田いいけるは
「いずれもが分別大いに違えり。中国征伐として、大国拝領にいずれもさせる益なしと、秀吉の志あるゆえにこの小知を賜わる。
それにあっては五千石は過分なり。いそぎ長浜より引っ越して以前のごとくいよいよ忠戦を抜くべし」
と諷諫して長浜を仔細なく引っ越すや、三木城攻めにおのおの相ともに力戦す。
三年の城攻めにつき、城をかまえ持ち口を定め、度々城兵と相戦い、賤ヶ岳の役に、神子田一方の将として相備う。
長久手の役ののち、五月朔日、秀吉師を濃州にかえしたまう。
小牧より付くべきの間、しんがりは二重堀の諸将これを勤むべしと命ぜられ、秀吉みずから青塚に馬を立ちたまい、黒田孝高(如水)、明石与四郎(左近)が兵を傍にそなえしめたまう。
二重堀の諸将、一番神子田半左衛門、二番日根野兄弟、三番木村常陸介・加藤作内、四番長谷川秀一、五番細川忠興なり。
小牧より北畠信雄、兵を出してしたがうべきとありしを、源君(家康)これをとどめたまう。
しかれども信雄の勢二十余人かけだして付きしたがう。
神子田・木村・日根野が兵、見崩(戦う前に崩れること)いたし敗北。細川忠興が兵士しんがりして、信雄が勢と相戦いて追い散らし引き取る。
この時、秀吉じかに青塚にいたまいて見物なり。
「去月長久手において三将討ち死に、今日細川忠興が働きによって長久手の色直しなり」とのたまい、
すなわち細川が兵士に感状ならびに熨斗付きの刀などを賜わる。
今日、神子田一番に敗軍いたし、敵も付かずに見崩、諸手之によりて騒動せしむ。その罪のがれがたしとあって、その夜改易せらる。
のち神子田、豊後に漂泊す。秀吉ついに殺害せしめたまうて、その頭を一条戻橋に獄門にかけ、自らその罪科を札に記さしめ立ちたまえりとなり。
(あるいは云う、神子田はじめ長久手において首級を得て帰る。秀吉大いに感じ、これを賞す。
神子田、その首を棄てて云う「予のごときは自らその首を得るに、公なんぞ叱らざるや。匹夫の功、あに賞するに足らんや」と。
二重堀退去の時、公、青塚に在りてこれを見る。近臣に示す。
「この神子田、抜群の勇戦あるべし。汝らこれを視るべし」と。
しかるに神子田、大いに敗る。公、もっともこれを羞(は)じてにくむ。
すなわち彼を呼びてその罪を糺(ただ)すに、神子田云う。
「我兵士を率いざる。故に敵を防ぐの士なし」と。
公、大いにこれを怒りて「汝、我に仕えしはじめ幾人を携えて来たるや?」と。
ついにこれを改易す、うんぬん)

246 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/18(土) 20:47:31.63 ID:ANtCCoBN
宮田喜八郎
幼若より秀吉につかゆ。武勇絶倫、秀吉母衣の勇士一員たり。
秀吉長浜を領られしより、播州に移りたまう時に至るまで宮田・尾藤・神子田・戸田をこゆる勇功の士あらず。
三木城攻めに天正六年五月、宮田戦死。秀吉もっとも嘆惜す。

尾藤、神子田に比して戸田、宮田は記載に乏しい。

神子田については過去に五千石と秀吉への口答えの話も両方出ていたが、

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1832.html
神子田半左衛門と五千石の加増・悪い話


http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3315.html
神子田さんが改易された話逆バージョン


五千石についてはここでは秀吉に大望があるため城地を与えなかった、と以前の話とは違った解釈だった。
それにしても、尾藤知宣、戸田勝隆、神子田正治宮田光次を合わせて羽柴四天王と呼ぶらしいが、誰がはじめに言い出したんだろう



尾藤知宣、戸田勝隆について

2021年12月18日 15:48

243 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/17(金) 21:34:40.99 ID:7+jAGShj
忠臣蔵で有名な兵法学者・山鹿素行武家事紀」から
尾藤知宣戸田勝隆について

尾藤左衛門佐
初名十二兵衛、尾藤源内(森可成家人、坂本の戦いで討死)の子。
尾州人、秀吉の旧臣たり(神子田、宮田、戸田、尾藤、人皆これを並べ称す)。
もっとも軍事に通ず。秀吉に従いて戦功度々。
越中佐々征伐の時、尾藤軍奉行をつとむ。
加賀越中の境、砺波山の道筋は砦多きゆえ、砺波山・羽生の宮の北の方のソワ道(険阻な道)をおのおの越ゆ。
この時、馬の履は皆はねすて、両方へ差し縄をつけ、馬取り両方へ引っ張り、馬の手綱をむすび前輪にかけ、馬の足をそろえ、これを滑らすべきよし下知し、
いずれもその通りにいたし、人馬あやまちなし。人もってこれを賞す。
同国外山(成政の居城)乱入の時、大河多く馬を泳がしむ。
この時、尾藤が下知によって人馬さらに水に溺れず。
(ぬかるみをはずし、馬の頸を川上の方へあげ、後輪にのりかかり、川下のあぶみを強く踏みて声をかくるなり)
はじめ秀吉・信雄不快の時、尾藤大垣城に至りて池田・稲葉らの諸将と軍事を議す。のち西国平均して讃岐国を賜わる。

島津征伐の時、大納言秀長に属し豊後路より日向にいたる。
この時、島津、高城より兵を出し、宮部善浄房(啓潤)が陣営に夜戦をなす。
秀長の陣営ら、これを援けんと議す。尾藤しいてこれを留めて、後巻(うしろづめ)延引す。
のちに秀吉この事を糾明あって、尾藤ついに闕国せらる。
天正十八年七月、小田原滅亡の後、秀吉自ら奥州にいたりたまう。
尾藤野州那須野に出でて謁す。
秀吉すなわち刑戮せしめたまう
(あるいはいう。秀吉駕籠をとどめして、乗馬を二、三遍のらせたまいて見物。その後、尾藤の刑戮を命ぜらる、うんぬん)。

244 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/17(金) 21:40:10.22 ID:7+jAGShj
戸田民部少輔
初名三郎四郎、尾藤とともに秀吉の旧臣、もっとも度々の戦功あり。
四国平均の後、伊予国を賜わる。
その子、自らの刀にて、あやまちいたし死す。
折節、民部少輔、放鷹の出先にて聞き、
「己が刀にてあやまち死するほどの気質にては、役に立つべき器にあらず。見るに及ばず」と言いて、ただちに放鷹す。
その後、子なく、朝鮮征伐の中で民部病死す。



和談の使い

2017年06月26日 16:39

61 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/26(月) 09:38:11.31 ID:W+BjMk6D
ある人、敵より攻められている城より、扱いを乞う和談の使いとされて城外に出ることとなった。
この時大将初め諸侍それぞれ言った

「御辺は、大勢のうちから特に指名されて城外に出ることとなった人物であるので、今更言うには及ばない
だろうが、城中のこと、少しでも弱みがあるように云っては、扱いに成りにくいものである。
随分城中の強みを語り、兵糧弾薬等までふんだんに有ることをよくよく言い聞かせられ然るべきである。」

使いの侍
「委細、相心得ております。古来よりの作法でありますから、宜しく申すでしょう。」

そう言って外へ出、寄せ手の大将の所に至ると、先ず湯漬けを望んで2,3杯を食し、その上で酒を望み、
これを飲んで申し上げた

「城中では、先月の5日より10人を以て一升扶持にしていましたが、今月に入ってそれも配給できず、
酒などは大将物頭ですらろくに口に入れることも出来ず、味噌などは皆消費し尽くし、今では一口舐めるのも
古の雁鴨の料理よりも大切に存じています。」

寄せ手の歴々聞いて、未だ兵糧は潤沢と考えていたので意外に思った
「これは思っていたのと相違している。しかしながら左様な事も有るだろう。久しき籠城であったのだから。」
「さて、弾薬の方はいかがか?」

「弾薬もまた、只今は不通にこれ無く候。」

「そういう事であれば、何故に今まで城から出ず、籠城しているのか?」

使いの侍、言った
「その事です。若年の者たちは『これではどうにも成らないから、一方へ切って出て、一同に討ち死にすべき!
必ず一報をば打ち破ります!』と主張しているのですが、大将も物頭も奉行どもも、物資が残っている事を理由に
同心致しませんでした。そこで彼らは『同心無くてももはや一方へ切って出て打ち抜くべし!』と言い出し
ましたが、大将が強いて抑留しことで、さすがに打って出ること出来ず、今日まで引き伸ばされております。」

「その、打って出ると主張している人数はいかほどなのか?」

「それも僅かに、百七,八十人ばかりです。雑人や下々は存じもよらぬことで、ただ侍分の者ばかりこれを
主張しています。」

これを聞いた寄せ手の者たちは談合した
「この使いの申す所、一々偽りが無いようです。であれば、仮に百七,八十人の侍が必死の思いをなせば、
寄せ手が勝利したとしても、大勢の死傷者が出るでしょう。ここは和談を用いるべきでしょう。」

こうして和議が整い、城が明け渡された時、兵糧雑器は未だ山のように残っており、弾薬も大量に
備蓄されていた。ただし、打って出ることを決意した人数を百七,八十人と言っていたが、実際には
十七、八人も居なかったという。

この扱いの侍、優れて才の逞しき者と言うべきであろう。

(士談)



62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/26(月) 16:27:33.20 ID:SoVYyyyF
なるほど。舐めてかかって来るならば潤沢な弾薬で一捻りするのか

63 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/27(火) 10:16:38.98 ID:T68U6Os8
兵糧弾薬残ってるのに城明け渡すなんて利敵行為じゃないの

体内の光物

2017年06月23日 09:25

52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/22(木) 23:51:44.66 ID:53keMK1k
ある人の語った所に寄ると、戦場へ出る度ごとに戦功を顕し、先駆け殿の功重なる勇者があった。
彼の友人がこれを羨み、

「我も人も、武士の家に生まれて一通りの働きを遂げぬ者は、家職を辞めて農工商の職を行う人に
成るべきだろう。だからこそ一通りの働きはしているが、御辺のように度々の戦功を成し、
後にて後悔もないような、心と身と口の一致した働きをするのは、致しようというものが有るのだろうか?
有るのなら是非承りたい。」

こう問われ、この勇士は
「奇特なることを尋ねられるな。わかった、語って伝えよう。しかしこれは武士の本意であるので、三日
物忌みをしたまえ。その上でこそ伝えよう。」

これに問うた者は喜び、三日斎戒して再び対面した

勇士曰く
「生死は一大事である。人の生きることを止めないために慎むべき事であるから、この事を秘事にしているのだ。

大きな仔細が有るわけではない。人の身には手毬ばかりの大きさの、光る丸い物があって、常には臍の下
あたりに静まっている。
しかしこの光物は常に身中を往来し、面門(口)から外へ出入りもする。

臆病な者は、この光物が抜けて内に無い。このため光を失い何事も分明ならず、方向を失うのだ。

それより少し心得有るものは、外に抜けてはいないといっても、面頭に上がり、このため目も見えず
耳も聞こえず、その場における善悪の判断も出来なくなる。

それよりも一段上の人は、この光物が胸に上がり、胸騒ぎがしきりである。

上段の人は、臍下に留まり気は勝り、病気などに成ることもない。こう言った人こそ心口行の三つ一致して、
所行常に静かにしてその理も分明である。

これを修行するには、人に会って怒りを覚えた時、この事を思い出す事だ。
そこでよく考え、体の中の光物を納め付けた時、終には修行が本意に至るのだよ。」

この教を受け、問うた者は拝して退いたという。
これは定論ではないのだろうが、この説を実践すればその至極に至ることも出来るだろう。
かの孟子が論じた「放心」にも似ている。

(士談)



53 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/23(金) 02:05:21.72 ID:/IPKuLm8
武術でいうところの「気」か

終始の勝敗は、終始の政による

2017年06月21日 20:02

899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/20(火) 19:41:24.04 ID:D+B63afb
大阪夏の陣、5月7日に、大野修理は茶臼山の近くまで進出していたが、秀頼の出馬あるよう申し上げるとして
城中に引き返したが、その時大纏を持たせて城中に急ぎ退くのを、他の味方から見ると敗北して城に
逃げ帰るように見え、七手組の人数その他城外に出て戦っていた秀頼方は、悉く気後れし敗北の機が出来、
共に城に入る者も多かった。
寄せ手はこれに気を得て、いよいよ勢い強くなり、これによって豊臣勢は総敗軍となりたちまちに城中周章し、
程なく落城に及んだ。そう語る人がいる。

しかし、大阪の落城の原因はこれではない。ただ秀頼の謀の不足、群臣の異議不全によるものである。
さらに推して言えば、太閤秀吉は一旦の勢いに乗じて天下を従え、道の道たる理由を知らず、
己の私智に任せた事の余映に寄ることである。
また、この時についても、大野が不功者にて事理を糾明し得なかったため、こういうことも起きたのである。

その日、速やかに破れたのはその日の謀により、終始の勝敗はまた、終始の政によるべき事である。

(士談)

大河の真田丸なんかでも豊臣敗北の原因とされた大野の行動ですが、それは真の敗因じゃないよと
山鹿素行がすでに批判していたというお話。


900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/20(火) 21:16:56.75 ID:i1njUqXZ
夏の陣は仕方ない

池田光政に山鹿某を推挙したところ

2014年02月24日 19:09

452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/24(月) 17:16:24.28 ID:kb6mO7pp
山鹿某(素行)という士は軍学諸流を兼学して一統を起こし、経学より論を立てて
武を講じ、孫子呉子三略の趣旨を今日の和法に用いて古の軍学者などの及ぶところではなく、
まことに常用の武備はこの人に在りと、世間はこぞってほめている。

ある人が池田光政にその山鹿某を推挙したところ、光政は次のように言ったということだ。

「軍法兵学は、旧家にはそれぞれその家の軍法がある。武田家に山本勘助の軍法が、
上杉家に宇佐美駿河守の軍法があるようにな。我が池田家にも軍法があって、
信長の代より数十度の戦場に一度もおくれを取ったことがない。だがら我が家においては
(軍学者を)召し抱える必要がない。

いまは太平の代だから軍学などと言うが、乱世に生まれた者の軍学は皆自己の鍛練だ。
それは加藤清正、小西行長などが、朝鮮までも切りなびいたことから知ることができる。
それに古来未曾有と言われた豊臣太閤が軍学をしたということを聞いたことがない。
また、神君(徳川家康)に軍学の師という者はいないが、このように天下を平治なさった。

いま太平の代に立身して大名となった人で、先祖よりの軍法がなく自身で立てた法令のために
心許なく思う人こそ、軍師を召し抱えて法令を定めるのがよい。我が家には先祖よりの
軍法があり、乱世を過ぎて治世にあって国家はよく治まっているので、軍学は家に伝わるもので
足りるのである。新たに師を召し抱える必要はない。

そのうえ『乱世には武を以てし治世には文を以てす』といって、治世に国家を治めるには
仁義の道こそ肝要だ。故に熊沢五郎八(二郎八、蕃山)を召し抱えている」

その後、山鹿を津軽信政が召し抱えたいと思ったが、家老の神保三右衛門が無理をおして
留めたということである。

――『明良洪範』