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小田原で与八郎に切腹させ

2021年08月01日 17:16

892 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/01(日) 16:30:00.46 ID:LhTTMgH8
天正2年、勝頼(武田勝頼)は高天神の城へ取り掛け攻める。

家康公へ御加勢のために、信長公も遠州塩見坂まで5千余騎で出馬されたところ、
城代の小笠原与八郎(信興)が降参して城を渡し、勝頼に従う。それ故、信長公
はそれより引き返しなさった。

信長公のこの時の御憤りは浅からずして、甲州没落の後に小笠原与八郎が小田原
へ退くと信長公は氏直(北条氏直)へ再三御所望なさったので、小田原で与八郎
に切腹させ、首にて送らせなさったという。

――『岡崎記



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人口の妨げによって不慮の生害

2021年07月26日 17:39

870 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/25(日) 18:15:49.22 ID:KBEvxZkh
天正7年己卯、家康公38の御歳、また山西へ麦苅り捨ての御働きをなさる。

その年、信康(松平信康)は家康公の御気に背きなさった。その子細は万事(信康の)
御心のままにして御行跡は法に過ぎたものであった。家康公の御意見をも御用いなく
御気随に行わせ給い、家老衆の諫言をなおもって御取り上げなさらなかった。

このため衆の讒言あって、勝頼(武田勝頼)と御内通あって逆心の由を申し上げられ
たことにより、家康公の御立腹は世の常ならず。

「子の身でありながら父に弓を扱う事、前代未聞の次第なり!」と岡崎の城を出し給
い、大浜へ移して堀江の城へ御越しになる。それより二股の城へ移らせ給い服部半蔵、
天方山城の両人に仰せ付けられて御生害となった。

信康が宣うには「父に弓を扱うというのは全くの偽りである。年寄どもの讒言なれば、
この上はとかく申し分には及ばず」と、2人の御女子の御事と御菩提は大樹寺を頼む
と仰せ置かれ、大久保一類とその他に御親身申す者どもの方へ御形見を送らせ給う。

念仏を御唱えになって腹を十文字に掻き切り「服部介錯申せ」と宣えば、三代相恩の
御事なれば半蔵も刀を捨て落涙する。「早く早く!」と宣うも力及ばず、遠州の住人
の天方山城が泣く泣く御介錯し奉る。惜しむべし、惜しかるべし。その年8月15日、
行年21にて生害し給うなり。

家康公も「人口の妨げによって不慮の生害」と御後悔の御言葉がたびたびあったとか。

――『岡崎記



大殿は三方ヶ原の御合戦から、

2021年07月23日 18:46

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/23(金) 18:06:47.41 ID:m6Tr4+SX
天正5年丁丑、家康公36の御歳8月、勝頼(武田勝頼)は2万ばかりの人数で
横須賀南とかりの尾さきまで働き、浜辺に陣取った。家康公御父子ともに横須賀
の城より4町ばかり北の丸山に御旗を立て、諸勢は浜辺へ押し出して備えた。

敵との間は3町ばかり隔てて、その中には入り江があったので互いに鉄砲を撃ち
合うばかりであった。信康は鈴木長兵衛という者1人を召し連れ給いて、勝頼の
旗の立つ所から2町ばかり近くに乗りよせ物見をなさり、家康公へ御合戦あって
御もっともと仰せ上げられた。

家康公宣うには、「敵は大軍で味方は小勢であるのに、切所をも構えず変わる
手段もなくして大敵と掛け合いの戦をしても勝利はない」として、御合戦無し。

各々切れ者の衆が申されるには「大殿は三方ヶ原の御合戦から、良く御切れ者に
成らせ給う」と感じ申したのであった。

――『岡崎記



340 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/23(金) 18:27:47.03 ID:jrtBMp+W
各々切れ者の衆が申されるには「大殿は三方ヶ原の御合戦から、良く御切れ者に
成らせ給う」

家康「そ、その前は…」

341 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/23(金) 18:39:20.52 ID:b6PXRtd+
>>340
大久某さん「キレが悪かったですよね。何がとは言いませぬが。」

343 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/23(金) 20:34:05.81 ID:vEtcmxrj
三方ヶ原で出したモノがデカすぎてガバガバになっちゃったのかな
戻らないっていうしねアレ