fc2ブログ

『岡田竹右衛門覚書』より、中編

2020年09月18日 18:17

551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/17(木) 23:50:47.78 ID:dTEGrb0q
岡田竹右衛門覚書』より、中編

・上も下も面倒な三河武士
遠江、見附の原にいろいろと砦をもうけ、掛川へ軍事行動をしたのは本多豊後守(広孝)、鳥居彦右衛門(元忠)、松平左近(注、竹右衛門の主人)などであって、そのとき石川新兵衛という者が功名を挙げて乗り来たり、竹右衛門、星野角右衛門、左右田弥五八の3人に向かい、「竹右衛門、これを見よ」と馬上より首を見せてきた。
竹右衛門はこれを聞き、「私に対してこれを見よという言葉は不似合いである」と返した。
すぐに(竹右衛門は)角右衛門と弥五八に向かい、「おまえらはここで待っていろ。私は功名を挙げてくる」と言い、城下(敵の掛川城)に帰って功名を挙げてきた。
その間に諸軍勢は引き上げたが、その2人は竹右衛門を待っていたところ、竹右衛門は帰ってきて、「おのおの、神妙である。ただいままで待っていてくれたことはかたじけない」。
さて、左近は竹右衛門を呼んだがいなかったので、本多豊後守は「もしかしたら竹右衛門は討ち死にしたのではないか。心許ない。その様子を見届けていないので、今晩浜松において、家康様から今日の経緯を聞かれたとき、申し上げることがない。とにかく竹右衛門を呼び出すべきだ」。
左近は答えていわく、「もし竹右衛門が討ち死にしようとも、気にすることはない。先に帰陣してください」。
それでも豊後守は旗を立て、よくよく待っていたところ、竹右衛門が功名を挙げ、角右衛門、弥五八が配下を引き連れ一緒に帰ってきた。
左近はその様子を見て、「角右衛門、弥五八は5騎、10騎の侍を持っている身なのだから、左近の名前が立つのだ。なぜ、私のところにおらず、竹右衛門のところに残ったのだ」と「しかり」つけた。
これを聞くと竹右衛門は腹を立て、取った首を川へ投げ捨てた。
豊後守は竹右衛門を陰に呼び、「左近殿が角右衛門、弥五八を褒めた(その2人を発言で引き立てた)のは、その方を褒めている内意がある。その件を理解して、決して腹を立てるでない。我慢しなさい」と達し、見附へ召し連れて帰った。
そのとき、浜松より竹右衛門を呼んでこいと命令があり、左近はいろいろと言葉を尽くしたが、腹が立っていたのでまかり出でなかった。
豊後守が竹右衛門の陣所に出向き、いろいろと意見を言ったので、竹右衛門衆は浜松へ赴いた。
家康は諸大名より先に竹右衛門を御前に呼び、この日の詳細を聞いたところ、豊後守が前に出て、竹右衛門の功名の子細を述べた上で、「深入りした」と左近が叱ったので、腹が立ったので討ち取った首をおのおのに見せた上で川に投げ捨てたという経緯を詳細に語った。
家康は聞き届け、「竹右衛門は『いつてつもの(一徹者)』なので、その通りにしたのだろう」と深く感じ入った。
その後、左近に対し、豊後守が言うには「竹右衛門を召し連れないのは家康様のご機嫌が悪くなっただろう。であるから、私がなだめて家康様の前に召し連れていき、首尾良くいった」。

※やはり、三河武士は面倒くさいですね



557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/20(日) 16:10:41.30 ID:2yVsSzV0
覚書のいいところは誇張や勘違い、間違いはあるんだろうけど戦国の気風が感じられるところと、細かい史実が描かれているところ
スポンサーサイト



『岡田竹右衛門(正次)覚書』より、前編

2020年09月17日 18:24

548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/16(水) 23:25:16.98 ID:n0r3Rbm9
『岡田竹右衛門(正次)覚書』より、前編
(松平康親(左近、周防守)家臣の語ったことで、その覚えていることを記した記録。まとめにあるものは省いています)

・剛毅で鳴らした竹右衛門の初陣
永禄年中、三河東条の近所、横須賀というところに敵が屋敷を構えていた。竹右衛門が押し入ったところ、障子をあけた場所に木戸をつくり、侍2人が差し向かって弓で防いでいた。
竹右衛門が召し使っていた者1人がそこに走り入り、脇差しを抜いて木戸を押し破り、主従で踏み込み、弓を持った武者1人を竹右衛門が切り伏せ、首を取った。
竹右衛門は17歳、まだ権平次と名乗っていたときで、初陣の働きだった。

・姉川での手柄と秀吉
元亀元年夏、織田信長に越前衆が敵対し、近江において合戦があった。
家康が加勢し、松平左近もお供した。その陣で竹右衛門の弟、五味右衛門が馬上の敵と組み合ったとき、ともに馬から落ちた。
五味は若年だったので(落ちた地面で)下に組み敷かれてしまった。そこに竹右衛門は乗り寄せ、馬より飛び降り、上に乗っていた敵を引き破って下に組みふし、五味に世話をして討たせた。
そのとき竹右衛門は葦毛の馬に乗っていた。
太閤はそのとき藤吉郎秀吉と名乗っていたが、馬上30騎ほどで控えており、竹右衛門の働きを見ていた。
秀吉は使いをやって「あなたはどこの侍ですか」と尋ねてきたので、「家康麾下の松平左近家臣です」と答えた。
その後、帰陣し、秀吉が「上方」(山の上の寺の意か)で、「姉川合戦において葦毛の馬に乗って働いていた武者は名乗り出なさい。必ず召し抱える」と言い出した。
帰陣した家康は、竹右衛門が寺に登るべきかと尋ねると、父の伊賀守がこれを聞き、「譜代の主人を捨て、いかに大身になろうとも本意にあらず」と腹を立て、この申し出を受けなかった。
(上方はそのままの意味かもしれませんが、前後のつながりが不明)

・弟の死と倍返し
遠江浜松での合戦で、竹右衛門の弟、五味が討ち死にした。
その日、竹右衛門は同所におらず、この顛末を無念に思い、「この敵を討たなければ、二度と三河に帰らない」旨を仲間に堅く申し置き、ただ1騎にて久野前に出陣した。
すると、武田信玄方の武者が1騎、物見と思えたが、乗り出してきた。
竹右衛門はすぐに掛かり合い、敵を討ち、「五味のかたきを討った」と喜んで浜松に帰陣した。
「まれな働きである」と左近から褒美をいただいた。

・先にもありますが、やっぱりこの時代は騎馬で戦っていた
駿河へ家康が出陣したとき、先手を左近が命じられた。
安倍川の中程にて竹右衛門は敵に乗り向き、馬上より切り落とした。
その武者は切られて川下へ流されていったところ、服部小十郎という者に「その首を取りなさい」と言った。
小十郎に功名を取らせ、そのまま田中八幡山へ同道し、家康にお目見えした。