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田島の屋敷

2019年07月09日 18:29

235 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/09(火) 15:32:28.95 ID:xtfu1St6
大神君(徳川家康)は忍の近辺で御鷹野をなされた。その節、岩松万次郎殿(守純)は御先祖である
新田の御末葉で、御尋ねになったところ新田に幽居して郷民どもは尊敬し、助力仕っているとの由が
御聞に達した。

そこで御会い遊ばされる旨を仰せ出された。これにより(岩松が)忍に参られて御目見した時、岩松
は、当家は嫡流で大神君は御末葉(当流之嫡流大神君には御末葉)との由を以前から家自慢申されて
おり、御前でも同様で、「内府は結構な御巡り合わせです。目出度い(内府は結構之御仕合目出度)」
との由を仰せ上げられた。

これにより大神君も驚き思し召し、御物も仰せられず内に御入りになったという。その後「餓死せぬ
ように」と仰せ出されて、御代官所より20石ずつを進め来たるという。

忠秋公(阿部忠秋)が忍を御拝領の折、御代官中より申し継いだので此方様方(忠秋)より20石ず
つを岩松殿に進めなさり、その後、厳有院様(徳川家綱)の御代に忠秋公は仰せ上げられ、岩松は御
先祖様の御筋目なので御知行を下されるように御世話をなされた。

当時は万次郎殿(富純か)の御亡父(秀純か)の御代で、御知行の屋敷まで御拝領を仰せ出された。
御知行の場所も良き所を渡すように御代官所に仰せ渡しなさったので、此方様(岩松)は御家の御厚
恩と思し召したとの由で、御知行の所も百石御拝領したところ、3百俵程を納めたという。

屋敷も3万坪あって林の惣囲いだという。“田島の屋敷”と申す。

(原注:義貞公(新田義貞)の御居城は分かっているけれども、御当家(徳川家)御先祖の有親公・
親氏公の御居住の場所は分からないという。もしかすると、只今の万徳寺比丘尼の所に大木などがあ
り、景色は常ならぬ場所というが、「ひょっとして、ここでもあろうか」と岩松万次郎殿は仰せられ
たという)

――『石道夜話(石岡道是覚書)』



236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/09(火) 21:03:41.02 ID:g5uv+C8i
系図貸してって呼び出した時のお話か
岩松は足利義兼の庶長子の出であり且つ源姓畠山の祖でもあるからプライドは高いんだろうなあ

237 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/09(火) 23:28:48.29 ID:AaMMFxaz
岩松家を下克上し、守純にとっては親父の仇・由良氏を召抱えてて
そんなのが新田を仮冒して一門面して会いたいって言ってきたわけで……
皮肉の一つもいいたくなるでしょ

238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/10(水) 07:56:39.66 ID:EhSynLtZ
なるほど
そうでもなきゃ神君怒るよね
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最も緩やかな下克上

2011年12月30日 22:00

536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/30(金) 17:43:25.04 ID:D/Uq39ik
最も緩やかな下克上


戦国時代の初期の頃、上野の国の新田庄の領主は新田氏の後裔である岩松氏であった。
しかし、岩松尚純の代に家宰である横瀬成繁・横瀬景繁親子の専横が目立つようになり、
尚純は明応4年(1495年)に兵を起こしたものの敗れ、子の岩松昌純に強制的に家督を譲らされた。

岩松氏の凋落はここから始まった。
昌純は家督を継いだ当初から横瀬景繁の傀儡の立場に甘んじていたが、横瀬景繁の死後に
子の横瀬泰繁を倒す計画を立てる。
しかしながら横瀬泰繁に計画が漏れ、横瀬泰繁が先手を打って岩松昌純を殺した。これが
享禄2年(1529年)の事である。

横瀬泰繁は岩松昌純の弟である岩松氏純を擁立したが、より専横の色を強め、もはや氏純には何の権限も無かった。
そんな横瀬泰繁も天文14年(1545年)に下野で戦死する。
しかし、泰繁の子である横瀬成繁は相続時既に40歳で政務への参加歴も長く、横瀬氏の支配は盤石であった。

もはや岩松氏の出る幕の無いことを悟った岩松氏純は天文17年(1548年)、失意の末に自害して果てた。
そこで横瀬成繁は従来通りに岩松氏純の子である岩松守純を擁立し、権力を握った。
しかし、横瀬成繁は更なる野心家で、ついには「実質的な権力者」には飽きたらず、「新田庄の正式な支配者」
になることを志向する。

永禄8年(1565年)、ついに横瀬成繁は岩松氏の本拠である新田金山城の城主であると主張し始め、
岩松守純は桐生に幽閉された。
熱心な献金も功を奏して朝廷や時の将軍からも正式な領主として認められた成繁は
やがて由良成繁を名乗り、家系図を改竄して「新田氏の後裔」とまで主張する。

ここに足掛け4代、70年にも及ぶ期間を経て横瀬氏(由良氏)の下克上は完成したのであった。




539 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/30(金) 18:44:13.67 ID:3SW+FGis
由良成繁こんな奴だけど善政敷いてたので領民に凄い慕われてたらしい。


540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/30(金) 19:09:51.62 ID:CIc4TCEk
そうして支持者が多かったのも下克上が成功した一因だろうな
上手くやったものだ

541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/30(金) 19:20:05.76 ID:SrjtQPKR
善政敷いて支持を受けてるのも自分だし軍事外交切り回してるのも全部自分なのに何でこの座ってるだけの奴に
主人面されにゃならんのよ、こいつ要らなくね?ってのが先だったかもね。

明確にどっち先てのは本人ですらはっきりしてなかった気もするけど

542 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/30(金) 19:20:46.18 ID:Gi3e2PjE
善政敷いてくれるなら主君でも家老でもどっちでも良いんだろうな
その方が近代的か