彼らが通過した後には、何一つ

2017年05月29日 18:40

799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/28(日) 19:30:37.93 ID:/C3l8YdE
もうすぐセンゴクで仙石が失敗しそうなのでそのあたりの話を


中務(島津家久)は、日向から三千の兵と、薩摩から五百名、および叛乱軍を率いて、すでに豊後領の宇目に入り、
嫡子(大友義統)の数名の家臣に属する小さな三つの城を無抵抗裡に占領した。
それからさらに進撃し、幾人かの身分ある人たちと老臼杵殿(臼杵鎮尚)がいる別の城の所在地であるミエ(三重)に向かった。
これらの者はただちに降伏して豊後の敵にまわった。
中務はそこに留まることとし、(家臣に)ごくわずかの兵を伴わせ、叛乱者たちに道案内をさせて送りこんだ。
豊後勢の恐怖と怯懦は驚くばかりで、〔とりわけそれがデウスの鞭であってみれば〕
彼らは薩摩軍の名が口にのぼるのを聞くだけで、屈強かつ勇猛で戦闘に練磨された者までが、
立ちどころに震え出し歯をがたつかせ、まるで軟弱な戦の未経験者のように降伏して、敵の言いなりになるのであった。

薩摩軍は、万事が思惑通りに運ぶのを見て、通過するナングン(南郡)の地、その他のところを焼き払い、
打ち壊し蹂躙し始めた。
彼らが通過した後には、何一つ満足なものは残っておらず、少しでも逆らう者は殺害された。
またそれに劣らず嘆かわしく、いなむしろ最大に嘆かわしく思われたことは、(薩摩勢)がおびただしい数の人質、
とりわけ婦人、少年、少女たちを拉致するのが目撃されたことである。
これらの人質に対して、彼らは異常はばかりの残虐行為をした。
彼らのうちには大勢のキリシタンも混じっていた。

(フロイス日本史)



800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/28(日) 19:44:17.08 ID:12qJD4CN
>>799
キリスト教が嫌いな佐伯さんが勝ってるのは無視される

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/28(日) 21:42:25.07 ID:AP3CGx9c
豊後の連中から奴隷を買ってたのはどこのどいつなんすかねえ

803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/28(日) 21:49:22.72 ID:DLlKPT0m
まっことでごわす

804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/28(日) 21:59:22.09 ID:12qJD4CN
>>802
豊後国で海外に奴隷売買したって記録はみつかってないな
肥前国ならあるけど
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新納が申した如く

2017年05月12日 17:01

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/12(金) 09:35:48.62 ID:vNdllw93
肥前有馬のうち、島原において、龍造寺隆信と有馬修理太夫(晴信)が争っていた。
有馬は最初、大友に属していたが、大友の弓矢次第に弱り、ややもすれば龍造寺に攻め詰められ、
度々危ういことばかり多かったので、この時は島津に属して加勢を得て、島原において無二の一戦を決心した。

この時、島津龍伯(義久)は、家臣である新納武蔵守(元忠)を呼んで尋ねた
「今回の有馬への加勢は、当家興廃のかかるものである。いかがあるべき、大将を誰に定めるべきだろうか。」
新納は申し上げた
「同じ御兄弟ですが、兵庫頭(義弘)殿は、耳よりも目の大胆な人物です。
中書(家久)殿は、耳よりは、目で見て物を侮らない人です。

この度、龍造寺隆信な2万の着到にて出馬と聞きます。それに対し有馬はわずかに4千の人数です。
そして此の方よりの加勢も4千。ですから、戦を慎重に致す人でなければ大事に成ると思われます。

中書殿は聞いては大胆に物事を押し、あなどる人物です。しかし実際に見ると慎重に懸ります。
彼を以て、遣わされるべきと考えます。」

龍伯もこれに同意し、島津中無大輔家久を大将として加勢を発したが、新納が申した如く大利を得て、
隆信を討ち取ったという。

新納の終始の言い分、尤もその理を得ている。

(士談)


伊東家累代の家臣

2016年06月09日 17:10

817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/08(水) 19:23:32.62 ID:CmxE+Ops
天正15年3月17日、島津中務家久(良い方)は豊後と日向の境である梓嶺から撤退する時、そこを佐伯惟定の
軍が追撃した、薩摩勢も山の中腹に踏み止まり、幾度も盛り返し戦ったが、終に敗軍し、家久は僅か七騎にて
引き上げるのを、佐伯惟定の軍師である山田匡得は追い駆け、これを討ち取ろうとしたのか、声を揚げた

「そこに落ち行かれるのは中務殿と見たるは僻目であろうか!?山田匡得、ここまで追い駆けたり!
軍は常の習い。夢にも余儀を存ぜず。静かに引かれよ!」

これを聞いた家久は、虎口を逃れた思いをし、また少し行って道の脇で休んでいた所、山上より人の声がして、
山田匡得がまた追いかけてきた!」と聞こえたため、家久は狼狽え、取るものもとりあえず逃げた。

山田匡得がこのように家久を見逃したのは、伊東家の日向没落の時、匡得の妻女並びに弟の新左衛門尉、
七兵衛尉が捕虜と成って薩摩に抑留されていたためで、もし家久を討ち取れば、彼らに害が及ぶことを
慮った為であった。

その後、島津家久からの使者が、山田匡得の元へ尋ね来た。その趣は

『貴殿は豊後表において、度々の高名、その比類なきことは世の人が遍く知る所である。
これは我が主君義久の聞こえに達し、もし豊後を立ち退き薩州に来るなら、三百町の地を宛行われる旨を
申し含まれた。』

との内容であり、書状には島津義久よりの、三百町を宛行うという直判書が添えられていた。

山田匡得は答えた
「私の武勇の聞こえが、義久公のお耳に達しただけでなく、三百町の地を宛行うとの事、見に余り
辱く存じ奉ります。その上私の妻子兄弟の者が、多年に渡り御厚恩を被っていますから、本来なら
参上して御助成を受けるべき所でしょう。

ですが、私は伊東家来の者です。二君に仕えるのは本意では有りません。
ですのでこれは、辞退させて頂きますので、そのように御報告下さい。」

一方、山田匡得の豊後での軍功非常に多く、大友宗麟より感状を下された。
そこには

『匡得、度々の高名比類なき手柄のほど感心せしめ候。これにより豊後において百五十町の地を
宛行う』

とあった、山田匡得は謹んで宗麟に言上した

「御感状の趣は身に余り、辱く思います。ですが私は伊東家累代の家臣です。
伊東家が日向の内に、些少の地でも安堵されれば、早速に帰参しようと考えているのです。
ですので知行頂戴のことは、幾重にも辞退させていただきたいと思います。」

そう再三に渡り申し上げるのを聞いた宗麟は、感動し涙を流して言った

「匡得の二君に仕えざるの心底、誠に以って感ずるに余りある。だが私は所領以外に、
一体何を恩賞に与えるべきか。
ああそうだ、幸い我が家が秘蔵する鎧が十領ある。この内からそなたの目利きに任せ、
好きな物一領を与えよう。」

そこで山田匡得は、ありがたく存ずるの旨言上して謝意を表し、即座に目利きをなして、
鎧一領と兜一頭を拝領したのである。

(日向纂記)



818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/08(水) 22:07:19.41 ID:etFF9G+S
後から言ってきた大友が島津の半分かよw

三千の鉄砲は遅るるに足らぬ。しかし

2016年06月07日 10:21

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/06(月) 23:49:04.88 ID:4n3eIB9n
日向伊東家家臣である山田土佐守匡得は、永禄元年、17歳の時に初陣として飫肥の行屋ヶ尾にて
薩摩の驍将亀澤豊前を討ち取り、同10年小越合戦に和田民部を討ち取った事などを初めとし、
伊東義祐の日向没落の後も、石ノ城にて粉骨を成し、薩将の伊集院肥前守と槍を合わせ、その名は
近国に聞こえた。

伊東義祐父子が伊予に渡海した後も、豊後に残り、同国梅牟礼の城主、佐伯太郎惟定の軍師となり、
益々の軍功があった。

天正14年7月23日、島津中務家久(良い方)が豊後に出兵して松尾山広福寺に陣し、この佐伯惟定と
一戦の時、家久は佐伯領の境の住民を一人捕えて、佐伯惟定の軍中の様子を尋ねた。その者応えるに

「惟定様は今年18歳になりますが、善く領民を撫育し、人心の帰伏すること父母のようです。
私は下賤の身であり、軍配の方便はわかりませんが、針も撃ち抜くほどの鉄砲の上手が、三千人在ると
聞いています。」

家久はこれを聞くと
「三千の鉄砲は遅るるに足らぬ。しかし山田土佐入道が今、佐伯惟定の家に在ると聞く。
彼は一騎当千の者なれば、私は深くこれを恐れる。」
そう語ったという。

(日向纂記)



仙石殿豊後において敗北の事

2013年06月01日 20:01

747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/01(土) 08:51:45.52 ID:rfyhuDr6
仙石殿豊後において敗北の事

島津家久が大将として二万余りの人数で豊後利満城(鶴賀城の別名
利光城)を攻めたとき、仙石権兵衛尉は豊後大友義統勢を加えて
六千余騎を率い、十二月十三日に河を渡って薩摩勢の後陣を取巻き
合戦に及んだ。

互いに武勇を磨き数刻太刀打ち槍合わせ勝負まちまちだった時に
長曾我部信親は、手の者二十二騎が左右につらなって槍を合わせ
ていたが一歩も下らずに討死なされた。

これにより豊後勢がこらえられず敗北し、十河新太郎矢野田宮を
始め多くの者が討死し、仙石も虎口を遁れて這う這うの体で退いた。

薩摩勢は勝ちに乗って遁れるもの達を追撃して府内は祇薗の河原
まで、高田は門口まで到達し討ち取られた人数はその数を知らず。

そのまま島津勢は府内へ乱入せんと掛かったので、すぐさま大友
は府内を引き払い高崎の城(高崎山城)へ逃げ籠られた。

島津家久は府内へと討ち入り、義統はまた高崎を捨て豊前国龍王
へ退かれた。

(日向記)

日向記に記された戸次川の戦いの記録である。

ちなみに伊東祐兵は黒田勘兵衛に属して筑前方面で戦っており、
この話の前半にあれこれと書いてあったが、少しダレるので
バッサリと省略しました。



748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/01(土) 09:52:01.78 ID:ALp6g2wx
省略された伊東祐兵とっても悪い話か。w

「軍略の家久」

2012年02月01日 21:57

674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/31(火) 20:47:49.73 ID:DuYKZNe3
んじゃお口直しに
島津4兄弟で有名な話ですがまとめには出て無いみたいなんで

「軍略の家久」
島津家久は日新斎に軍略を得たりと予言されてはいたが幼少より優秀だったわけでは無く
4兄弟の中では唯一身分の低い妾の子である事に劣等感を抱いていた
そんなある日、4兄弟は連れたって馬追いをした時のこと
生駒にて飼育されている様々な馬を見て回ってる時に歳久は
「毛色の違う馬は色々いますがどの馬も母馬に似るものです、人間も似たようなものでしょうね」と言い放った
歳久の言いたい事を察知した義久は即座に否定した
「子馬が必ずしも母馬に似るわけでは無いだろうし、人間は畜生とは違い学問に励み徳を積めば
父母よりも立派になるだろうし怠れば父母より劣る事になろう」
後日家久はその言葉を励みに日夜勉学武芸に励むようになり数年のうちに日新斎の予言通りの
立派な将に育つ事となった

4兄弟ネタでは珍しく義弘が空気で、歳久からシャギ臭のする話




675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/31(火) 20:51:38.62 ID:GfTf/cYP
イイハナシダナー
しかし長兄トキで次兄ラオウな四兄弟だな

676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/31(火) 20:52:14.15 ID:pOgZGRIS
歳久「よくできた弟~~~~~~!!」

678 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/31(火) 21:09:42.33 ID:RU81pUcm ?2BP(0)
本当は兄弟仲が悪かったんだろ?って言いたくなる話だな

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/31(火) 21:58:58.16 ID:DuYKZNe3
貧乏籤に定評のある歳久だから、計算して悪役を演じた可能性もあるけど
若い内は兄弟なんてこんなもんだろ、妾の子が劣等感からグズってりゃいっそ突き放したくもなる

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/31(火) 22:02:22.25 ID:GfTf/cYP
六平太というと某山内大河の汚れ創作キャラ思い出す
あれは悪い話向けだが

683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/31(火) 22:27:33.22 ID:rbArCQ5D
歳久入れて島津四兄弟なら穂井田元清を入れて毛利四兄弟でいいと思う (´・ω・`)

684 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/01/31(火) 22:40:46.41 ID:t7lbLay8
>>680
まあそう言うな少し前でさえ長男と末っ子で
結構扱いに格差があったんだ幼い心じゃ腐りもするさ

ガキの頃本家に行って食事の後さっきまで遊んでた同い年の長男の子供のいる上座に行ったら
爺さんに「さがりおろー!」並の事言われてビビった記憶あるわ
昔ならその比じゃ無いだろ

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/31(火) 23:51:07.46 ID:BFBhbbFS
徳川忠長「そうだそうだ」

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/01(水) 00:00:12.71 ID:le3Xxwrv ?2BP(0)
家康の水と船じゃないけど兄弟の仲も難しかったんだろうな
仲良かったり親が差をつけなかったりしてかえって後でもめたりとか

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/01(水) 14:46:10.32 ID:tNGFSDSf
幼い子供が妾腹がどうとかとかいきなり分かるわけないじゃん。
周りにそのように扱われたから幼い子が劣等感持つようになったんだろうに。
頭押さえつけられて育たねえって馬鹿にされたら大人でも腐るわ。

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/01(水) 15:20:56.48 ID:a2Xl/ZuX
実の兄弟でも不仲だったり異母兄弟でも仲良しだったり、
周囲の扱いとか本人同士の相性とかかね
現在より死が身近だったろうから、まさしく「兄がいなくなれば
俺が当主!」ってのも遠い世界の話じゃないだろうし

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/01(水) 15:55:09.64 ID:khspt0tp
うっきー「本家?」
松永ダンジョー「俺たちは悪いスレ帰ろうな」

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/01(水) 15:59:32.17 ID:skUZo674
>>683
あそこは隆景より下が虫けらだからなぁw

691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/01(水) 17:25:47.18 ID:frXrfoZw
織田も四男以下は扱いがわるいような。

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/01(水) 18:04:38.06 ID:I7Ddn724
>>683
父親の正妻への思い入れが
島津と毛利じゃ段違いだからじゃね?
元就は「死んだ女房がここにいたらさー」だの
「死んだ女房だったらさー」とか、のちのちまで言い過ぎw

693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/01(水) 18:37:56.46 ID:a2Xl/ZuX
恋女房?に便乗だけど新郎新婦どちらもすごく幼いうちに
一緒になると特に抵抗もなく自然ラブラブになるのかなーって
秀頼千姫や利常珠姫で思った。
どちらも思春期迎えてからだと好きなタイプじゃないとか
思っちゃって上手く行かなかったり?

珠姫の、父親(将軍)にダーリン早く返して!って直球で
ねだるエピソード好きw 身分の高い人は我が儘も自重って
もっと後の世の常識なのかね

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/01(水) 18:50:11.51 ID:e8IVJ+k9
京極忠高と初は仲悪かったようだけどな

695 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/01(水) 18:58:28.72 ID:cinzOU/j
もっとも、子供のころから一緒に生活していると恋愛感情はわかなくなるという実験結果もヨーロッパにはあるそうだ


696 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/01(水) 19:25:45.20 ID:skUZo674
幼い頃に嫁入りした場合は嫁修行と称して年頃になるまでは隔離染みたことされるんじゃなかったっけ?

島津家久・決死の籠城戦の最中に

2011年07月20日 23:06

66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/20(水) 12:53:41.93 ID:HMIh3tJw
耳川決戦の前哨戦の1つである高城籠城戦が行われていた時の事
3万以上と言われる大友軍の前に島津家久3千が決死の籠城戦を行っている最中に
大友の使者が陣中見舞いとして酒と菓子を持ってきた
これに対し家久も返答の使者に酒とスズキを持たしたのだが
その際に両軍の使者同士で交流の宴が行わる事になった
さて、宴の最中に島津側は大友の一団から矢文を貰う
星野長門守からの内応の手紙であり内容は
「最近の大友は侍を蔑ろにして民衆を虐げる暴政である、しかし反抗したいが力が無い、我々は時が来れば
島津側に忠節を尽くすつもりです、何かあったら笛で合図して裏切りますんで」
とあった
この手紙の内容を見て奮起した家久はフランキ砲をお見舞いされても水手が尽きても
義久の主力部隊が到着するまで半年ほど持ちこたえる事となった
絶望的状況下で籠城する側が内応の手紙を貰うという悪い話

67 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/20(水) 17:55:54.35 ID:9vQ0IYfm
大友ェ……

68 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/20(水) 18:29:10.35 ID:jFysH7l7
宗麟さんこのじきもう新興宗教にはまっておかしなことになってたのかな

69 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/20(水) 18:39:23.19 ID:uS6B31QR
宗麟「わーたーしーはー悪くないー」

70 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/20(水) 20:59:30.24 ID:js0VFuuf
>>66
スズキを送るって、高城城って海の傍なんだっけ?

71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/20(水) 23:10:01.20 ID:HMIh3tJw
高城川で地元の人間が釣った魚を家久に献上したみたい
一応スズキは河川でも釣れる魚らしいし
この頃は大友軍も頻繁に宴とか開いてる状態で包囲網が緩くなってたらしい
いい話の方で鷹狩りで敵陣を探るやり方が紹介されてた様に
案外籠城戦でも地元の人間なら勝手ができたんだろうね

72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/21(木) 01:56:42.42 ID:b9Uno/8+
どうも戦国期の、九州の籠城攻城戦は全体的にユルイ感じがするんだよなー。
長篠や高天神城みたいな、凍るような緊迫感はあまり感じられない。

73 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/21(木) 07:58:27.82 ID:xIsJGKG9
九州は寡勢の籠城側が大軍退けた例も多いし
そういう傾向はあるのかもね。

74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/21(木) 07:59:35.45 ID:qA+5q80Y
国人の寝返り体質のせいでしょ
防御線とかの意識も無いから「ここ抜かれたら終わり」みたいな考えができないし
基本、自分の土地守れればいいやっていう

統治組織が畿内とかに比べて未発達で、中央集権が甘い

75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/21(木) 12:01:18.62 ID:6Duz14cx
>>74
真田某「ぬかしおる」