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是式の事は中々不苦候

2022年11月23日 19:11

484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/22(火) 20:54:01.75 ID:NkZpqg5g
天正十四年十二月二十日時分に、豊後国より早打ちの飛脚が到来した。その内容は、
豊後国船井という場所の近辺にある、高田川という場所があり、この川を隔てて
仙石越前守(秀久)、長宗我部父子(元親、信親)が陣を取っていたが、川向かいに
薩摩衆が相陣を張った。島津方の大将は、島津中書(家久)と言った。

十二月十七、八日の頃、仙石越前、長宗我部父子はこの川を超えて合戦を仕掛けた。
朝方、戦は味方の両大将の勝ちとなり、頸数五百余りを討ち取った。しかし昼時分より、
豊後国の地の者、尽く一揆を起こし、薩摩方と一つに成って上方勢を中に取り籠め、
裏切りを仕った故に、長宗我部の惣領(信親)も討ち死にした。
それより両大将は敗軍したと、豊前に在った黒田官兵衛の所に報告されたのである。

これを知った官兵衛の分別には
「豊後では敗北したが、これしきのことは問題ない(是式の事は中々不苦候)。
この事を秘密にすれば、帰って陣中は騒ぐだろう。ただ有りの儘に毛利殿陣中に報告するのだ。
仙石越前、長宗我部程度の者が五人三人相果てようと、上様(秀吉)は自身の弱みと成ったとは
思わない。(仙石越前、長宗我部程成者五人三人相果候と申共、上様御弱みと被思召間敷)
定めて上方勢にすぐに命じて、九州へとお下りになるだろう。」

川角太閤記

川角太閤記に見える戸次川の戦いとその敗戦についての黒田官兵衛の反応。



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「豊筑乱記」から戸次川の戦いについて

2022年11月23日 19:10

643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/23(水) 17:45:02.57 ID:FQfy/CRW
豊筑乱記」から戸次川の戦いについて
太閤秀吉公は島津に再三上京を命じたにもかかわらず島津は聞き入れなかった。
そこで天正十四年(1586年)九月十二日、秀吉公は仙石権兵衛尉元親(ママ)と長曾我部土佐守信親を上使として豊後に下しなされた。
大友義統公を通じて島津に上意を通じられたが、島津は見向きもしなかったため、仙石・長曾我部とも島津を慮外者とののしった。
島津は大友家の武将を次々と調略し、豊後に攻め入り、戸次城も陥落間近となった。
大友義統公はこれを聞き、加勢の人数を送り出そうと思ったものの、もう代を重ねた家臣も信用できないため見過ごそうとされた。
いっぽう仙石・長曾我部は島津の逆意について知らせる遣いを秀吉公に送り出し下知を待つ間ではあったが、戸次城が危ないと聞き六千騎で向かった。
十二月十二日早朝に戸次川を渡り、一挙に島津陣所に攻め入ろうと評定した。
これを察知した島津家久は一万八千騎の軍勢に「上使両人とともに討ち死にする気構えで戦え」と下知した。
こうして十二月十二日の曙に両軍鬨の声を挙げ、矢合わせをしたのち合戦を開始したが、どうしたことか島津方の伊集院軍が上使の軍勢に攻めかかられ引いた。
上使の軍が我先にと逃げる伊集院軍を追い討ちしているところに、二番備えの新納大膳正が三千騎で高所から仙石・長曾我部本陣に攻め入り、
大将島津家久と三番備えの本庄主税軍も一軍となって上使軍に攻め込んだ。
こうしてたった一時の合戦で敵味方三千騎が討ち死にし、長曾我部信親は血気さかんな大将であったため、あまりに深入りしすぎて、数カ所に深手を負い討ち死にした。
上使軍は多勢に無勢、あまりに多く討たれてしまい、仙石元親も勇猛な大将であったがわずか五、六騎を連れ戸次川を渡って豊後の府内めざして引いた。

仙石秀久長曾我部元親が混同されちゃったようだ



柴田礼能の最期

2022年08月07日 15:21

561 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/06(土) 18:39:09.97 ID:ZiJm9/Jl
「大友興廃記」から槍に巧みなため宣教師から「豊後のヘラクレス」と呼ばれた柴田礼能の最期

天正十四年十二月上旬(1586年12月-1587年1月)に、島津家久は臼杵丹生島へ諸勢を繰り出し、大柳の裏の草木や岩陰から大友勢の様子を窺っていた。
そこへ先年南蛮国から渡来した大きな石火矢・国崩しを武宮武蔵守(武宮親実)が大手口より撃ちかけた。
大玉、小玉を二升ほど詰め込んでいたが、その響きは山、海に轟き、大柳の枝より上を打ち折った。
大小の玉に当たったり、大柳に押しつぶされたり、で若干の死人が出たものの薩摩勢は恐れず、かえって勢いを増して臼杵城に攻め込んできた。
豊後方の吉岡甚内は鉄砲を撃ちかけたのち、槍を振るい兜首を五つ討ち取った。また、利光彦兵衛、吉田一祐も高名をとった。
同じく豊後方の臼杵美濃守、柴田礼能は先陣として平清水口で薩摩勢と槍を合わせ、次々と討ち取り、互いに競うように敵を退けた。
しかし薩摩の者が町内の空き家に忍び込んでいて、柴田礼能を馬上から突き落とし討ち取った。
礼能の嫡男・柴田玄蕃丞(允?)は手勢二百騎を率い、敵を退け城中に戻ろうとしていたが、父の礼能が討死したと聞き、首を郎党に渡し「汝は城中に戻り注進申せ」と告げた。
郎党は「城中にお戻りになった方が良いでしょう」と申したが
玄蕃は言い捨てて敵陣へ取って返し、親の仇を討った後、自身も討ち死にした。
そののち薩摩勢も次第次第に引き取ったが、追軍をすると横矢がかかってきそうに見えた。
荒武者たちが追撃を望んだが、宗麟公御父子が仰られるには
「追撃で数十人討ち取ったところでたいして変わらないだろう。
味方に手負いや死人がない方が大利と言える。ことごとく引き取るように」
とのことで、戦は終わった。
そののち薩摩勢が来ることはなかった。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8059.html
柴田礼能については以前、「味方の八幡社ならばともかく、敵方の八幡社であれば敵だから焼いてもいい」と言ってた話が出ていた。



高森伊予守、志賀親度に加勢所望のこと

2022年05月26日 16:30

201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/25(水) 20:11:44.38 ID:yj+RKTrs
「大友興廃記」より「高森伊予守、志賀親度(「道懌」表記を「親度」に統一)に加勢所望のこと

肥後国の高森伊予守は大友宗麟公の幕下であり、先年小原鑑元の逆心が現れ罰せられたのも彼の働きであった。
島津義久公の家老・新納武蔵守(忠元)の計略により、島津方の稲富新助が花山にて甲斐相模守(甲斐親英、甲斐宗運の嫡男)と合戦したが、島津方は敗れた。
その遺恨により新納武蔵守は高森の城を落とそうと、天正十二年十二月十三日(1585年1月13日)に三千騎で高森伊予守の城に攻め寄せた。
伊予守も奮戦し互いに鉄砲を撃ち合ったが、とうとう大手門を破られ、伊予守は降伏し城を明け渡した。
もとより伊予守は武略の上手であったため、これは一旦城を取らせて油断させる策略であった。

十五日に伊予守は樽肴種々の土産を調えて「和睦の盃を酌み交わしましょう」と城に行ったところ、稲富はよろこんで城に入れて宴会となった。
盃をさしかわしながら稲富が言うことには
「われわれも攻城の時、大剛の者が取り囲まれ若干の負傷者や死人が出ました。
詰めの城まで攻めていたならば、最後には落城させていたでしょうが、こちらも過半が討たれていたことでしょう。
伊予守の御芳志により死なずにすみました」
このとき、伊予守はみずからを智慧才覚のない無分別者と思わせるためこう尋ねた。
伊予守「島津義久公は隣国から徐々に智略をめぐらし、諸国の侍に内通させ、彼等が味方についたのちに豊後に御出兵なさるとうかがっております。
武士の習いとして「昨日の矢先に今日はひかゆる(昨日の敵は今日の友、の意?)」と言いますので
それがしも義久公御出兵の時には稲富殿の組に入りたいと思います」
稲富「義久公の豊後御出兵はありません。
肥後は島津の隣国なので、武蔵守が才覚をもっていろいろ調略をしましたが、それでも本当の味方は少数です。
まして豊後は宗麟公が御在国なので調略ののちに出兵など思いもよらぬことです」
それを聞いた伊予守は話題を変えたのち、次のように問うた。
伊予守「さる天正六年の冬、日向国高城において豊後の諸勢に若干の死者が出ました。(耳川の戦い)
敵味方いかばかり討ち死にしたでしょうか?」
稲富「敵味方六万六千人余りの討ち死にだったそうです。
中務(島津家久)が豊後勢の死骸を讃嘆して言うには
「武士の強弱は死骸でわかるものだ。
勝負は時の運。豊後勢は敵陣に頭を向けており、味方に向かった死骸はない」と感じられたそうです。
また、義久公の命令で弔いをしました」
伊予守「おもしろいお話です。私などはただの死骸としか見ないのに、中務がそのように気づかれるとは、屍にとっての面目といえましょう」

202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/25(水) 20:16:39.85 ID:yj+RKTrs
そののち伊予守は家中の高森右京進を呼び出して
「お前は今回の降伏を無念に思っておるだろうが、これは稲富をだまして討つための策略である。
お前は密かに豊後に行って、志賀親度に我が意志を伝え、加勢を頼め」
と言うと、右京進は了承して豊後岡の城に行き、高森伊予守からの書状を披露した。
親度は書状を読むと、家中七組の頭(省略)に誰を遣わすべきか談合した。
談合の結果、大軍を差しむけ島津方をことごとく討ち取ろうと定まったところで
親度の嫡子・志賀太郎親次はその時十六歳であったが、こう発言した。
志賀親次「高森への加勢のために大軍を差し向けるのはもってのほかであります。
そのわけですが、肥前・肥後も薩摩に味方しているのは明らかです。
このたび高森を攻めているのは伊予守を敵としているのではなく、最終的に豊後をとろうと企てているからです。
わたしは遊山をすると、狩り、釣りの次には敵を討つ方法を考えるようにしておりますが、それは戦は猟に似ているからです。
猪は寝ているうちに勢子で取り囲み、魚は騒がないように遠くから網を回し、それぞれ囲いを狭めていきます。
もし初めから近くに網を回すと魚が騒ぐため、大漁は見込めないでしょう。
薩摩は名高い大将ですので、豊後を取るために周辺の国から大きな網を巡らせているのでしょう。
今、薩摩が高森を攻めているのは網の中の石を取り除いているようなものです。
島津義久は二、三年のうちに豊後を攻めようと考えております。
もしここで肥後に大軍を出しては、いくらか討たれて味方が弱体化してしまいます。
最後に大敵と戦わなければならないのに、いま人数を損なうのは不可であります。」
親度「わしもそう思うが、薩摩勢は三千ばかりあり、高森伊予守が援軍を請うているのだ。どうしたものか」
七組頭一同は親次の言葉に親度も同意したことで、お家の行く末は安泰だと感涙の涙を流し、
「親次様はまだ若いのにこのような名言を仰られるとは、お年を経ればどれだけの御分別が出てくることやら。
おそらくは九州に肩を並べるもののない名大将になるでしょう」と申した。
親度「それでは二千の兵を出そうと思ったが、親次の異見により雑兵を加えて千五百の兵を出そう。
侍大将には親次、朝倉土佐守(「留守の火縄」の朝倉一玄だろうか)、大森弾正を命じる」

203 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/25(水) 20:19:35.96 ID:yj+RKTrs
肥後国高森の近くにきた志賀親次は兵を陰に隠し、使者の高森右京進とともに高森伊予守の宿所を密かに訪ねた。
伊予守「城を攻めれば負傷者や死人が大勢出るでしょう。
一口を空けて夜討ちにして城を焼けば、敵は空いている口から出ようとするでしょうから、
われわれは城の案内はわかっておりますので搦手から詰めかけて尽く討ちましょう」
こうして豊後勢は同士討ちを防ぐため、同じ装備で合言葉を決め、夜討勢を五百、城から出てきたところを討つ伏兵を、志賀勢・高森勢でそれぞれ千おいた。
こうして十二月二十九日の明け方、伊予守はかねて用意していた火矢や松明を忍び口より投げ込んで、城中の大部分を占めていたボロ屋を炎上させた。
そこで前方・後方から鬨の声を挙げたところ、城中の稲富勢は慌てふためき兵を出してきた。
味方の兵は血気さかんに闘い、互いに敵を多く討とうと争った。
稲富勢も命を惜しまず、味方が倒れても顧みず、ここを死に場所と定めて戦ったが、どんどん討たれ少なくなった。
しかし稲富は戦巧者のため、わずかの勢で戦場を横切ったため討ち損じてしまった。
戦が終わり、死骸を数えると千八百余りを討ち取っていた。
志賀勢も負傷者は多数出たが、死人は五、六人もいなかった。
城は再び高森のものとなり、志賀勢は豊後に帰還した。
志賀親次は「このたびの戦では大いなる不覚をいたしました。薩摩勢は多く討ち取りましたが、大将である稲富を討ち損じました。」
と志賀親度に申したが
親度「悔やむでない。戦というものは必ずしも敵を討つのが勝ちではない。殺さずして退散させるのも勝利である。
それにしても高森伊予守の武略のために大勝利を得たものだ」と喜んだ。
そののち伊予守から志賀親度に加勢の礼があった。
親度が大友義統公に詳細を告げると、義統公は大いに感悦した。
義統公から親度と高森に御感状が与えられた。

のち天正十四年に肥後国を新納忠元が、豊後国を島津中書(家久)が討ち入った時、志賀から高森に援護の兵が出され、豊後国に高森を引き取った。
翌年、薩摩勢が退いた後、高森は肥後国に帰還した。
甲斐宗運御逝去ののち、「策を帷幄の中に巡らし、勝ちを千里の外に決す」とは高森伊予守のことであろう。



矢崎城主・中村惟冬の妻

2022年04月25日 17:52

461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/24(日) 23:17:26.73 ID:6RLowsdy
「朝野雑載」より矢崎城主・中村惟冬の妻

薩摩より島津中務少輔家久を大将として新納武蔵(新納忠元)、鎌田尾張入道寛栖(鎌田政年)、梅北宮内左衛門(梅北国兼)、河上左京(川上忠智)など三万余騎が
兵船数百艘に乗り、肥後国宇土郡の郡の浦に上陸し、阿蘇大宮司の家臣である中村伯耆惟冬の籠っている矢崎の城を取り囲み、城攻めした。
惟冬も粉骨砕身で防いだが、多勢に無勢で援軍もなかったため、過半数が討たれ、残りの多くも手負となった。
惟冬はそれでも勇気をたゆまさず、わずか七十余人で城門を開けて打って出て、数刻戦い討死した。
しばらくして惟冬の妻が緋威の鎧を着て、女二十人ばかりを左右に立て、不意にどっと打って出、敵を二、三町退けたのち、枕を並べて討死したという。


ただし「明赫記」だと中村惟冬や家臣たちは各々自らの妻子を刺し殺したのちに打って出たことになっている。



「明赫記」続き

2021年09月26日 16:24

583 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/25(土) 19:59:47.88 ID:UK3kv2yK
「明赫記」続き

球磨方の相良頼房(義陽)が大軍を率い大口城に入城。
島津忠長肝付兼寛、新納刑部大輔忠元で大口城を陥すことにしたが苦戦が続き
新納忠元は肥後八代の勇士的場・後藤と互いに斬り合い、六箇所に傷を受けるまで奮闘した。
(なお「箕匂記」によれば、新納忠元が戦勝祈願のために薬師如来の堂に歌を一首書こうとしたところ、
大口城から敵方の軍勢が押し寄せてきた。
それでも歌を書こうとしたが郎党の久保・尾崎に「犬死にする気ですか?」と引きずられた。
この時、肥後八代の住人の的場五藤兵衛が斬りかかってきた)

584 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/25(土) 20:02:57.42 ID:UK3kv2yK
続き「伏兵を以て凶徒を大いに敗る事」

戦争は膠着状態が続き、相良軍によっていくたびも味方の足軽が負けてしまったため、相良軍は島津をあなどるようになった。
そこで平泉の新納忠元肝付兼寛は「勝ちに驕っている兵は滅し易い、伏兵を置けば簡単に討ちとれるでしょう」
と進言したところ、新納・肝付隊が第一の伏兵隊として冨神ガ尾に、大野駿河守・宮原筑前守が第二の伏兵隊として稲荷山に埋伏することになった。
永禄十二年五月六日、囮部隊の大将として中務大輔家久が雑兵四、五百人に兵糧隊を装おって糠袋を馬や兵に積み、
軍兵千余騎に警護させて平泉を通過したところ
大口城からこれを見た敵方は「平泉方は当番交替のようだ、積み荷を奪ってしまえ」と足軽や雑兵が思い思いに駆け出し、
敵方の深水三河守は計略ではないかと疑ったが、我先にと駆け出す味方軍の後を追いかけるしかなかった。
家久は一合戦しては退き、防戦しては退き、を繰り返し、疲弊することは言うも愚かであった。
第一の伏兵隊は「家久がこのままでは討たれてしまう」と思い、一度に動こうとしたところ、
新納・肝付は「時期尚早である」と怒り、軍配を横にして下知したところ、飛び出そうとした伏兵はその場にとどまった。
家久はいろいろ気配りをして敵軍を誘引し、とうとう両伏兵隊の真ん中に入り込んだ。
第一の伏兵が一度に鬨の声を上げると、第二の伏兵も一度に動き、敵軍を真ん中に取り囲んだため、相良・菱刈勢はことごとく敗北し
島津勢は百三十六人の将、八百余人の雑兵を討ち取り、無数を切り捨てた。
こうして家久の武名は比類なきものとなった。
討ちもらした者たちは大口城に逃げ、固くこもった。

585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/25(土) 20:08:51.08 ID:UK3kv2yK
続き「祁答院の長野を攻める事、付 菱刈降参の事」

同月二十五日、渋谷党の祁答院の長野城を攻めた。
この時、祁答院新兵衛という者が城内より討って出て矛を合わせ勝負を決しようと四方八方に斬って回った。
味方の税所宮内少輔、仲俊坊、貴島源五郎、村原新介、村原左衛門五郎、深野平六、上床源六兵衛、岩下主殿、鍛冶屋新左衛門、尾上五郎、田実右京亮、肝付権助、等が斬りかかったが皆枕を並べて討ち死にした。
しかし味方の軍兵が退却の色を見せず奮闘したため、敵も弱り、勝鬨を上げて退陣した。
(「箕匂記」によればこの後、大口城の菱刈方が滅亡寸前となったため、
相良頼房から「もともと島津殿は国の太守のため敵対すべきではなかった、多くの士を失ったため引き上げる。
ただ菱刈氏を本城に存続させる事で頼房の面目を保たせてほしい」と和睦が提示されたため、同年九月十四日和睦となった。
九月二十日、大口城を受け取り、新納忠元に大口城の地頭職を授け武蔵守と成した。
また、真幸・菱刈・牛屎(「うしくそ」もしくは「ねばり」)を皆退治したためそれらの城もことごとく武蔵守を地頭とした。)

関連
「明赫記」菱刈叛逆馬越城落城の事


彼らが通過した後には、何一つ

2017年05月29日 18:40

799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/28(日) 19:30:37.93 ID:/C3l8YdE
もうすぐセンゴクで仙石が失敗しそうなのでそのあたりの話を


中務(島津家久)は、日向から三千の兵と、薩摩から五百名、および叛乱軍を率いて、すでに豊後領の宇目に入り、
嫡子(大友義統)の数名の家臣に属する小さな三つの城を無抵抗裡に占領した。
それからさらに進撃し、幾人かの身分ある人たちと老臼杵殿(臼杵鎮尚)がいる別の城の所在地であるミエ(三重)に向かった。
これらの者はただちに降伏して豊後の敵にまわった。
中務はそこに留まることとし、(家臣に)ごくわずかの兵を伴わせ、叛乱者たちに道案内をさせて送りこんだ。
豊後勢の恐怖と怯懦は驚くばかりで、〔とりわけそれがデウスの鞭であってみれば〕
彼らは薩摩軍の名が口にのぼるのを聞くだけで、屈強かつ勇猛で戦闘に練磨された者までが、
立ちどころに震え出し歯をがたつかせ、まるで軟弱な戦の未経験者のように降伏して、敵の言いなりになるのであった。

薩摩軍は、万事が思惑通りに運ぶのを見て、通過するナングン(南郡)の地、その他のところを焼き払い、
打ち壊し蹂躙し始めた。
彼らが通過した後には、何一つ満足なものは残っておらず、少しでも逆らう者は殺害された。
またそれに劣らず嘆かわしく、いなむしろ最大に嘆かわしく思われたことは、(薩摩勢)がおびただしい数の人質、
とりわけ婦人、少年、少女たちを拉致するのが目撃されたことである。
これらの人質に対して、彼らは異常はばかりの残虐行為をした。
彼らのうちには大勢のキリシタンも混じっていた。

(フロイス日本史)



800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/28(日) 19:44:17.08 ID:12qJD4CN
>>799
キリスト教が嫌いな佐伯さんが勝ってるのは無視される

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/28(日) 21:42:25.07 ID:AP3CGx9c
豊後の連中から奴隷を買ってたのはどこのどいつなんすかねえ

803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/28(日) 21:49:22.72 ID:DLlKPT0m
まっことでごわす

804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/28(日) 21:59:22.09 ID:12qJD4CN
>>802
豊後国で海外に奴隷売買したって記録はみつかってないな
肥前国ならあるけど

新納が申した如く

2017年05月12日 17:01

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/12(金) 09:35:48.62 ID:vNdllw93
肥前有馬のうち、島原において、龍造寺隆信と有馬修理太夫(晴信)が争っていた。
有馬は最初、大友に属していたが、大友の弓矢次第に弱り、ややもすれば龍造寺に攻め詰められ、
度々危ういことばかり多かったので、この時は島津に属して加勢を得て、島原において無二の一戦を決心した。

この時、島津龍伯(義久)は、家臣である新納武蔵守(元忠)を呼んで尋ねた
「今回の有馬への加勢は、当家興廃のかかるものである。いかがあるべき、大将を誰に定めるべきだろうか。」
新納は申し上げた
「同じ御兄弟ですが、兵庫頭(義弘)殿は、耳よりも目の大胆な人物です。
中書(家久)殿は、耳よりは、目で見て物を侮らない人です。

この度、龍造寺隆信な2万の着到にて出馬と聞きます。それに対し有馬はわずかに4千の人数です。
そして此の方よりの加勢も4千。ですから、戦を慎重に致す人でなければ大事に成ると思われます。

中書殿は聞いては大胆に物事を押し、あなどる人物です。しかし実際に見ると慎重に懸ります。
彼を以て、遣わされるべきと考えます。」

龍伯もこれに同意し、島津中無大輔家久を大将として加勢を発したが、新納が申した如く大利を得て、
隆信を討ち取ったという。

新納の終始の言い分、尤もその理を得ている。

(士談)


伊東家累代の家臣

2016年06月09日 17:10

817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/08(水) 19:23:32.62 ID:CmxE+Ops
天正15年3月17日、島津中務家久(良い方)は豊後と日向の境である梓嶺から撤退する時、そこを佐伯惟定の
軍が追撃した、薩摩勢も山の中腹に踏み止まり、幾度も盛り返し戦ったが、終に敗軍し、家久は僅か七騎にて
引き上げるのを、佐伯惟定の軍師である山田匡得は追い駆け、これを討ち取ろうとしたのか、声を揚げた

「そこに落ち行かれるのは中務殿と見たるは僻目であろうか!?山田匡得、ここまで追い駆けたり!
軍は常の習い。夢にも余儀を存ぜず。静かに引かれよ!」

これを聞いた家久は、虎口を逃れた思いをし、また少し行って道の脇で休んでいた所、山上より人の声がして、
山田匡得がまた追いかけてきた!」と聞こえたため、家久は狼狽え、取るものもとりあえず逃げた。

山田匡得がこのように家久を見逃したのは、伊東家の日向没落の時、匡得の妻女並びに弟の新左衛門尉、
七兵衛尉が捕虜と成って薩摩に抑留されていたためで、もし家久を討ち取れば、彼らに害が及ぶことを
慮った為であった。

その後、島津家久からの使者が、山田匡得の元へ尋ね来た。その趣は

『貴殿は豊後表において、度々の高名、その比類なきことは世の人が遍く知る所である。
これは我が主君義久の聞こえに達し、もし豊後を立ち退き薩州に来るなら、三百町の地を宛行われる旨を
申し含まれた。』

との内容であり、書状には島津義久よりの、三百町を宛行うという直判書が添えられていた。

山田匡得は答えた
「私の武勇の聞こえが、義久公のお耳に達しただけでなく、三百町の地を宛行うとの事、見に余り
辱く存じ奉ります。その上私の妻子兄弟の者が、多年に渡り御厚恩を被っていますから、本来なら
参上して御助成を受けるべき所でしょう。

ですが、私は伊東家来の者です。二君に仕えるのは本意では有りません。
ですのでこれは、辞退させて頂きますので、そのように御報告下さい。」

一方、山田匡得の豊後での軍功非常に多く、大友宗麟より感状を下された。
そこには

『匡得、度々の高名比類なき手柄のほど感心せしめ候。これにより豊後において百五十町の地を
宛行う』

とあった、山田匡得は謹んで宗麟に言上した

「御感状の趣は身に余り、辱く思います。ですが私は伊東家累代の家臣です。
伊東家が日向の内に、些少の地でも安堵されれば、早速に帰参しようと考えているのです。
ですので知行頂戴のことは、幾重にも辞退させていただきたいと思います。」

そう再三に渡り申し上げるのを聞いた宗麟は、感動し涙を流して言った

「匡得の二君に仕えざるの心底、誠に以って感ずるに余りある。だが私は所領以外に、
一体何を恩賞に与えるべきか。
ああそうだ、幸い我が家が秘蔵する鎧が十領ある。この内からそなたの目利きに任せ、
好きな物一領を与えよう。」

そこで山田匡得は、ありがたく存ずるの旨言上して謝意を表し、即座に目利きをなして、
鎧一領と兜一頭を拝領したのである。

(日向纂記)



818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/08(水) 22:07:19.41 ID:etFF9G+S
後から言ってきた大友が島津の半分かよw

三千の鉄砲は遅るるに足らぬ。しかし

2016年06月07日 10:21

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/06(月) 23:49:04.88 ID:4n3eIB9n
日向伊東家家臣である山田土佐守匡得は、永禄元年、17歳の時に初陣として飫肥の行屋ヶ尾にて
薩摩の驍将亀澤豊前を討ち取り、同10年小越合戦に和田民部を討ち取った事などを初めとし、
伊東義祐の日向没落の後も、石ノ城にて粉骨を成し、薩将の伊集院肥前守と槍を合わせ、その名は
近国に聞こえた。

伊東義祐父子が伊予に渡海した後も、豊後に残り、同国梅牟礼の城主、佐伯太郎惟定の軍師となり、
益々の軍功があった。

天正14年7月23日、島津中務家久(良い方)が豊後に出兵して松尾山広福寺に陣し、この佐伯惟定と
一戦の時、家久は佐伯領の境の住民を一人捕えて、佐伯惟定の軍中の様子を尋ねた。その者応えるに

「惟定様は今年18歳になりますが、善く領民を撫育し、人心の帰伏すること父母のようです。
私は下賤の身であり、軍配の方便はわかりませんが、針も撃ち抜くほどの鉄砲の上手が、三千人在ると
聞いています。」

家久はこれを聞くと
「三千の鉄砲は遅るるに足らぬ。しかし山田土佐入道が今、佐伯惟定の家に在ると聞く。
彼は一騎当千の者なれば、私は深くこれを恐れる。」
そう語ったという。

(日向纂記)



仙石殿豊後において敗北の事

2013年06月01日 20:01

747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/01(土) 08:51:45.52 ID:rfyhuDr6
仙石殿豊後において敗北の事

島津家久が大将として二万余りの人数で豊後利満城(鶴賀城の別名
利光城)を攻めたとき、仙石権兵衛尉は豊後大友義統勢を加えて
六千余騎を率い、十二月十三日に河を渡って薩摩勢の後陣を取巻き
合戦に及んだ。

互いに武勇を磨き数刻太刀打ち槍合わせ勝負まちまちだった時に
長曾我部信親は、手の者二十二騎が左右につらなって槍を合わせ
ていたが一歩も下らずに討死なされた。

これにより豊後勢がこらえられず敗北し、十河新太郎矢野田宮を
始め多くの者が討死し、仙石も虎口を遁れて這う這うの体で退いた。

薩摩勢は勝ちに乗って遁れるもの達を追撃して府内は祇薗の河原
まで、高田は門口まで到達し討ち取られた人数はその数を知らず。

そのまま島津勢は府内へ乱入せんと掛かったので、すぐさま大友
は府内を引き払い高崎の城(高崎山城)へ逃げ籠られた。

島津家久は府内へと討ち入り、義統はまた高崎を捨て豊前国龍王
へ退かれた。

(日向記)

日向記に記された戸次川の戦いの記録である。

ちなみに伊東祐兵は黒田勘兵衛に属して筑前方面で戦っており、
この話の前半にあれこれと書いてあったが、少しダレるので
バッサリと省略しました。



748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/01(土) 09:52:01.78 ID:ALp6g2wx
省略された伊東祐兵とっても悪い話か。w

「軍略の家久」

2012年02月01日 21:57

674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/31(火) 20:47:49.73 ID:DuYKZNe3
んじゃお口直しに
島津4兄弟で有名な話ですがまとめには出て無いみたいなんで

「軍略の家久」
島津家久は日新斎に軍略を得たりと予言されてはいたが幼少より優秀だったわけでは無く
4兄弟の中では唯一身分の低い妾の子である事に劣等感を抱いていた
そんなある日、4兄弟は連れたって馬追いをした時のこと
生駒にて飼育されている様々な馬を見て回ってる時に歳久は
「毛色の違う馬は色々いますがどの馬も母馬に似るものです、人間も似たようなものでしょうね」と言い放った
歳久の言いたい事を察知した義久は即座に否定した
「子馬が必ずしも母馬に似るわけでは無いだろうし、人間は畜生とは違い学問に励み徳を積めば
父母よりも立派になるだろうし怠れば父母より劣る事になろう」
後日家久はその言葉を励みに日夜勉学武芸に励むようになり数年のうちに日新斎の予言通りの
立派な将に育つ事となった

4兄弟ネタでは珍しく義弘が空気で、歳久からシャギ臭のする話




675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/31(火) 20:51:38.62 ID:GfTf/cYP
イイハナシダナー
しかし長兄トキで次兄ラオウな四兄弟だな

676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/31(火) 20:52:14.15 ID:pOgZGRIS
歳久「よくできた弟~~~~~~!!」

678 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/31(火) 21:09:42.33 ID:RU81pUcm ?2BP(0)
本当は兄弟仲が悪かったんだろ?って言いたくなる話だな

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/31(火) 21:58:58.16 ID:DuYKZNe3
貧乏籤に定評のある歳久だから、計算して悪役を演じた可能性もあるけど
若い内は兄弟なんてこんなもんだろ、妾の子が劣等感からグズってりゃいっそ突き放したくもなる

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/31(火) 22:02:22.25 ID:GfTf/cYP
六平太というと某山内大河の汚れ創作キャラ思い出す
あれは悪い話向けだが

683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/31(火) 22:27:33.22 ID:rbArCQ5D
歳久入れて島津四兄弟なら穂井田元清を入れて毛利四兄弟でいいと思う (´・ω・`)

684 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/01/31(火) 22:40:46.41 ID:t7lbLay8
>>680
まあそう言うな少し前でさえ長男と末っ子で
結構扱いに格差があったんだ幼い心じゃ腐りもするさ

ガキの頃本家に行って食事の後さっきまで遊んでた同い年の長男の子供のいる上座に行ったら
爺さんに「さがりおろー!」並の事言われてビビった記憶あるわ
昔ならその比じゃ無いだろ

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/31(火) 23:51:07.46 ID:BFBhbbFS
徳川忠長「そうだそうだ」

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/01(水) 00:00:12.71 ID:le3Xxwrv ?2BP(0)
家康の水と船じゃないけど兄弟の仲も難しかったんだろうな
仲良かったり親が差をつけなかったりしてかえって後でもめたりとか

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/01(水) 14:46:10.32 ID:tNGFSDSf
幼い子供が妾腹がどうとかとかいきなり分かるわけないじゃん。
周りにそのように扱われたから幼い子が劣等感持つようになったんだろうに。
頭押さえつけられて育たねえって馬鹿にされたら大人でも腐るわ。

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/01(水) 15:20:56.48 ID:a2Xl/ZuX
実の兄弟でも不仲だったり異母兄弟でも仲良しだったり、
周囲の扱いとか本人同士の相性とかかね
現在より死が身近だったろうから、まさしく「兄がいなくなれば
俺が当主!」ってのも遠い世界の話じゃないだろうし

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/01(水) 15:55:09.64 ID:khspt0tp
うっきー「本家?」
松永ダンジョー「俺たちは悪いスレ帰ろうな」

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/01(水) 15:59:32.17 ID:skUZo674
>>683
あそこは隆景より下が虫けらだからなぁw

691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/01(水) 17:25:47.18 ID:frXrfoZw
織田も四男以下は扱いがわるいような。

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/01(水) 18:04:38.06 ID:I7Ddn724
>>683
父親の正妻への思い入れが
島津と毛利じゃ段違いだからじゃね?
元就は「死んだ女房がここにいたらさー」だの
「死んだ女房だったらさー」とか、のちのちまで言い過ぎw

693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/01(水) 18:37:56.46 ID:a2Xl/ZuX
恋女房?に便乗だけど新郎新婦どちらもすごく幼いうちに
一緒になると特に抵抗もなく自然ラブラブになるのかなーって
秀頼千姫や利常珠姫で思った。
どちらも思春期迎えてからだと好きなタイプじゃないとか
思っちゃって上手く行かなかったり?

珠姫の、父親(将軍)にダーリン早く返して!って直球で
ねだるエピソード好きw 身分の高い人は我が儘も自重って
もっと後の世の常識なのかね

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/01(水) 18:50:11.51 ID:e8IVJ+k9
京極忠高と初は仲悪かったようだけどな

695 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/01(水) 18:58:28.72 ID:cinzOU/j
もっとも、子供のころから一緒に生活していると恋愛感情はわかなくなるという実験結果もヨーロッパにはあるそうだ


696 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/01(水) 19:25:45.20 ID:skUZo674
幼い頃に嫁入りした場合は嫁修行と称して年頃になるまでは隔離染みたことされるんじゃなかったっけ?

島津家久・決死の籠城戦の最中に

2011年07月20日 23:06

66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/20(水) 12:53:41.93 ID:HMIh3tJw
耳川決戦の前哨戦の1つである高城籠城戦が行われていた時の事
3万以上と言われる大友軍の前に島津家久3千が決死の籠城戦を行っている最中に
大友の使者が陣中見舞いとして酒と菓子を持ってきた
これに対し家久も返答の使者に酒とスズキを持たしたのだが
その際に両軍の使者同士で交流の宴が行わる事になった
さて、宴の最中に島津側は大友の一団から矢文を貰う
星野長門守からの内応の手紙であり内容は
「最近の大友は侍を蔑ろにして民衆を虐げる暴政である、しかし反抗したいが力が無い、我々は時が来れば
島津側に忠節を尽くすつもりです、何かあったら笛で合図して裏切りますんで」
とあった
この手紙の内容を見て奮起した家久はフランキ砲をお見舞いされても水手が尽きても
義久の主力部隊が到着するまで半年ほど持ちこたえる事となった
絶望的状況下で籠城する側が内応の手紙を貰うという悪い話

67 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/20(水) 17:55:54.35 ID:9vQ0IYfm
大友ェ……

68 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/20(水) 18:29:10.35 ID:jFysH7l7
宗麟さんこのじきもう新興宗教にはまっておかしなことになってたのかな

69 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/20(水) 18:39:23.19 ID:uS6B31QR
宗麟「わーたーしーはー悪くないー」

70 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/20(水) 20:59:30.24 ID:js0VFuuf
>>66
スズキを送るって、高城城って海の傍なんだっけ?

71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/20(水) 23:10:01.20 ID:HMIh3tJw
高城川で地元の人間が釣った魚を家久に献上したみたい
一応スズキは河川でも釣れる魚らしいし
この頃は大友軍も頻繁に宴とか開いてる状態で包囲網が緩くなってたらしい
いい話の方で鷹狩りで敵陣を探るやり方が紹介されてた様に
案外籠城戦でも地元の人間なら勝手ができたんだろうね

72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/21(木) 01:56:42.42 ID:b9Uno/8+
どうも戦国期の、九州の籠城攻城戦は全体的にユルイ感じがするんだよなー。
長篠や高天神城みたいな、凍るような緊迫感はあまり感じられない。

73 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/21(木) 07:58:27.82 ID:xIsJGKG9
九州は寡勢の籠城側が大軍退けた例も多いし
そういう傾向はあるのかもね。

74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/21(木) 07:59:35.45 ID:qA+5q80Y
国人の寝返り体質のせいでしょ
防御線とかの意識も無いから「ここ抜かれたら終わり」みたいな考えができないし
基本、自分の土地守れればいいやっていう

統治組織が畿内とかに比べて未発達で、中央集権が甘い

75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/21(木) 12:01:18.62 ID:6Duz14cx
>>74
真田某「ぬかしおる」