西江左足のきゝし

2017年09月05日 17:28

95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/05(火) 10:20:51.55 ID:aCPiblhV
西江久右衛門という者が島津中納言(忠恒)に仕えていたある時、忠恒が家来を叱りつけ、
その脇に西江が平伏していた。

叱責をしている内に忠恒の目の色が変わり、この者を手討ちにしようと考え、刀を抜こうとした、
しかし叱責されていた者もこれを見て、身を沈め刀に手をかけた。

この時、脇に居た西江はとっさに、この者の刀のこじり(鞘の末端部分)をそっと持ち上げた。
このためこの者が前に倒れた所を、忠恒が手討ちにした。

忠恒はこれを感じ入り、「西江は左足がきく(西江左足のきゝし)」と賞賛した。
左足で刀の鞘を持ち上げたのであろうか。

忠恒はこの手討ちの時、顔色いささかも常と変わらなかったとのことである。

(士談)



96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/05(火) 10:44:07.14 ID:UYv4oUVb
基地外すぎるw

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/05(火) 12:12:14.33 ID:JxXPtsVL
>>95
さすが島津…w

98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/05(火) 15:29:07.38 ID:K7LHrv19
平伏状態から左足?
例えじゃないのか
スポンサーサイト

山口さんお疲れ様です。

2017年03月09日 20:37

711 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/03/09(木) 11:04:36.36 ID:f+pfhTIu
慶長十七年(1612年)八月、島津忠恒は駿府の大御所徳川家康の歓心を買おうとしたのか、
琉球の草花を献上した。献上された草花のリストは
・仏桑花(ハイビスカス)一本
・山丹花(三段花、イクソラ)四本
・千年草(ドラセナ、幸福の木)一もと
・アダンの木二本
・からすの花三もと
・しろゆり根三十
・よなふ木(ガジュマル?)一本
(『鹿児島県史料 旧記雑録後編四』九四三号)

初めて見る亜熱帯植物に、家康はとても喜んだようで、
側近の山口直友から忠恒に礼状が届いた。
(『鹿児島県史料 旧記雑録後編四』九六九号)
「先度お上せいただいた三丹花(山丹花)や仏桑花を(伏見から)駿府に送ったところ
(家康が)一段とご機嫌」だったとあった。
家康も大いに満足し、来春もさらに気に入った草花数種を送って欲しいと所望している。
面白いのは、続けて「お上せの間に(草花が)枯れかかったので、私の手もとに置いてよく育てました」
とあることです。
ハイビスカスや山丹花が一時枯れかかったのを、山口直友が懸命に手当てして回復させたらしい。
(その時の時期は初冬の頃)
山口さんお疲れ様です。

※山口さんがどんな手当てをしたかというと、部屋に置いたハイビスカスや山丹花の周りに火鉢を
いっぱい周りに囲んで暖めたそうです。
(参考 さつま人国誌、全国都市緑化かごしまフェア 花かごしま2011での展示史料より)


宇喜多秀家流罪に及びしこと

2017年02月17日 21:21

605 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/17(金) 00:53:42.57 ID:29qev1l+
宇喜多秀家流罪に及びしこと

 ある人が曰く、
宇喜多秀家は関ヶ原では毛利上杉佐竹と同じである。
他は皆今の領土となったが、
秀家ただ一人が遠流に処されたのは神祖に憎まれることがあったためだとか。
 秀家は法華宗を信仰していて、その時領していた備前備中備後から諸宗を追い立てて悉く日蓮宗の寺とした。
もちろん浄土宗の寺院も押し退けられており、そのため
浄土宗である神祖から憎み怒られていた。
関ヶ原後に、もはや極刑にもなるべきところを島津氏の御歎きから流罪となったという。
 またかの国の諸寺でもその事実を裏付けることを聞いたが、
皆忘れてしまったので、ここではそれを書くことができない。

(甲子夜話三篇)

なぜ島津が、それも家康に意見を言う立場で出てくるのか?



606 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/17(金) 00:57:21.76 ID:7heINWbt
島津が宇喜多を匿っていて
家康に許された時にそれを申し出たから
島津の顔を立てるためでしょ

鼻の色はかはりにけりな異な面に

2017年02月16日 17:16

651 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/02/16(木) 00:02:05.81 ID:rG1cVaCH
ある日(島津)忠恒公が徳田大兵衛(侏儒どん)の宅へ御出でになるという仰せがあった、
そこで大兵衛は屋敷を清めるやら庭の掃除の下知をするやら忙しかった、
さて自分も湯に入って潔斎したのち、今か今かとご来駕を待っていた、けれども
仰せでになった時間までにいかなる御都合かして、御出でが無いので、
待ちくたびれて大兵衛は縁側へ寝入ってしまった。
その後程経てから殿様の乗り物がやっと徳田の屋敷に着いた。
すると大兵衛は心地よさげにすやすやと良く寝入っている始末であるから、
近侍の者共が大兵衛を起こそうとする、殿様は「しばらく待て」と制しながら
硯を取り出させ、筆にタップリ墨を含ませて、大兵衛の鼻へ一杯塗り付けさせられた
然る後ち近侍の者をして大兵衛を揺り起こさせられた、大兵衛が不覚の眠りを
詫びるのには耳を貸さずに殿様は
「大兵衛鏡を見ろ」との仰せである。何かは知らねどご上意のまま
自分の顔を鏡に映すと、鼻が真っ黒く塗られている。
殿様は笑いながら、「大兵衛どうじゃ、即座に一首仕れ」と言われると、
例の侏儒のことであるから、言下に次の歌を詠んだ。

鼻の色はかはりにけりな異な面に わが身湯に入り長寝せし間に

これは言うまでも無く、百人一首の中にある小野小町の和歌を詠みかえたのである。
(日当山侏儒戯言)


参考
花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに
小野小町




654 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/16(木) 06:18:07.98 ID:vJ8/2DEi
>>651
何が起きるかドキドキした

下野の野州野州と申せども

2016年12月01日 16:19

365 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/11/30(水) 20:45:41.79 ID:NL2AuYia
島津家久(忠恒)時代の国老島津下野守は知行一萬三千石、権威並ぶものなし、
而も長大肥満の人なりしか。かつて徳田大兵衛(侏儒どん)に向かい
「徳田めが 大兵衛とは 名のれども 名には似合はぬ 小さき人かな」
大兵衛これに応して曰く
「下野(しもつけ)の野州(痩せう)野州(痩せう)と申せども
名には變(かは)りて肥えた人かな」
(日当山侏儒戯言)

※侏儒どんの名前の由来の一般的な方の説では、生まれたときから
小さかったので大きくなるよう願いをこめて両親が大兵衛と名付けたとあります。

※別な本には、侏儒どんと島津下野守は同じ連歌の会に出ていたりするので、
こんなことが言い合えるほど仲が良いのかもしれない。



女性だけが参加できる神事「持明祭」

2016年11月05日 17:33

亀寿姫   
294 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/11/04(金) 22:04:09.52 ID:tmdEyaJP
DQN四天王を祭る神社
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3329.htmlでは、
> 島津忠恒…鶴嶺神社(鹿児島県鹿児島市)
と書かれていますが、鶴嶺神社の御祭神は忠恒だけでなく
初代薩摩大隅日向国守護職、島津忠久公はじめ島津氏歴代の当主とその家族、玉里島津家の当主と
その家族で、従神は(忠恒の)家臣五名と殉死者四十五名の大所帯です。
鶴嶺神社は島津氏歴代当主の菩提を弔っていた福昌寺が廃仏毀釈の憂き目にあい、その代わりとして明治2年11月に
29代当主の島津忠義が鹿児島郡坂本村山下鶴峯(現鹿児島市照国町)に祖先を祀る神社を創建しこれを竜尾神社と
号したのに創まります。(大正六年に現在の場所 (鹿児島市吉野町)へ移された)
特に16代当主義久の三女である亀寿姫(持明院様、じめさぁ)を祀る神社として有名で、多くの女性が参拝に訪れます。
(鶴嶺神社で分けていただいた紅でお化粧をすると女児が美しく育つ、またはお参りすれば美しい女性になれると
いう言い伝えがあります)
亀寿姫が亡くなったのが1630年(寛永7年)十月五日なので、毎年月遅れ命日に当たる11月5日には
女性だけが参加できる神事「持明祭」が行われます。
(以後の文章は2015年に「持明祭」に参加した知人の話と地元テレビのニュースを参考に書いております)

まずは、神社に隣接する尚古集成館で学芸員さんによる、持明院様に関する歴史講座があります。
内容は、「豊臣秀吉に人質として捕えられているとき、亀寿姫が本当に義久の娘か、と疑われた際に、秀吉側の人から
脅されてもなお落着き払った態度を示し、その美しさも相まって、本物に違いないとされた」
「鹿児島市立美術館にある石像は亀寿姫ではない」
(参考 ジメサア http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10253.html
「家久(忠恒)とは仲が良くなく実子には恵まれなかったが、19代当主になる光久の後見となった」などです。

次に日本の伝統文化である(唯一の紅屋の紅ミュージアムの方による)「紅」の講座です。内容は
「原料には、山形県産の最上紅花を使用し、咲いた紅花の花弁を摘み取り、「紅餅」に加工してから紅屋などに卸されます」
「紅匠(紅職人)は、幾工程もかけて紅餅から純度の高い赤色色素を取り出し、長年の経験で培った熟練の勘で、玉虫色の
紅を作り上げます」
「玉虫色の紅を下唇に重ね塗りし、緑色(笹色)にする化粧法「笹紅(ささべに)」が文化文政(1804-1829)の一時期に流行」
「現在紅匠は男性二名のみで、工場は女人禁制です」などです。

次に鶴嶺神社の拝殿に移動し、持明院様の神事に参列して、美と健康を祈願します。
島津家の神事なので、神事には現在の島津家当主の島津修久氏も参加されます。
(女性の為の神事なので拝殿に入る男性は神主さんと島津修久氏だけで、スタッフの方とテレビ局の人は外で待機です)
(拝殿には壁がないので神事の進行やテレビ撮影に不都合はありません)

その後は、隣接する仙巌園に移動し美容と健康をテーマに旬の食材をふんだんに使った限定御膳「美人御膳」を食べて
終了となります。
(「持明祭」に参加した人には紅が入った紅御守と持明院様絵馬が授与されます)

※「紅」の講座が行われているのは、紅屋の人が観光で仙巌園を訪れた時に持明院様の話(持明院様が祭神の鶴嶺神社で
分けていただいた紅でお化粧をすると女児が美しく育つ)を知り仙巌園に企画を持ち込んだそうです。

296 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/11/05(土) 18:58:47.58 ID:gMaZk05K
294の追加
鶴嶺神社は明治以降ですが、江戸時代には島津家の敷地内に持明院様
を祀るお社があり、島津家の女性がよく詣でていたそうです。
また亀寿姫に所縁のあるお寺にも(江戸時代から)多くの女性が
詣でていたそうです。


295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/05(土) 17:45:26.35 ID:QVN5kFO/
>>294
結構新しいんだな

鬨の声、といえば

2016年02月15日 13:53

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/14(日) 09:41:17.09 ID:IiHzuNCP
鬨の声、といえば悪久か誰か、島津の藩主が狩りをしていたところ
部下の一人が声を立ててしまったために獲物が逃げてしまった
怒った藩主は「今度獲物がいる時に声を立てた者は打ち首にするぞ!」
とののしり、狩りを続行。
ふたたび獲物を見つけたため、藩主が捕らえようとしたところ、なんと部下全員が
「オー!!!」と鬨の声をあげ、獲物は逃走。
藩主が「打ち首にするぞ!と言ったのを忘れたか!」
と罵声を浴びせるが、部下たちは
「島津の兵たるもの、打首が怖くておとなしくしていられましょうや!」
と答えたという。




317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/14(日) 13:08:38.90 ID:jxx97yxz
>>316
馬鹿ってことだな
そりゃ厳しすぎる罰則がいるわな島津は

319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/14(日) 15:53:50.79 ID:UTAvUVaC
面目第一の武士にこんな事を言う方が間違ってるわな


360 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/18(木) 23:32:39.62 ID:ftniuCPl
>>316の鬨の声について薩摩の話を書いた者だけど
元ネタの海音寺潮五郎の「史談と史論」上を読んだら、
元々は「甲子夜話」が出典らしくて、それを調べたら

海音寺潮五郎は「巻狩」と言ってたのに、甲子夜話では実は「軍事演習」で、鬨の声を上げたんじゃなくて銃を撃ってた、
つまり、軍事演習の際にたまたま部下が銃を放ったのに怒った薩州侯が
「今のは大目に見てやるが、今度やったら打ち首だぞ!」と言ったのに、
その後、数十人が銃をぶっ放して
「大目に見てくださったのはありがたく思いますが、打ち首だぞと言われておとなしくしていたのでは、
打ち首が怖くてぶっ放しなかったと思われて本意ではありません」
とわざと銃をぶっ放した、て話だった

おそらく甲子夜話の作者、松浦鎮信と同じ頃だから悪久ではないと思われ


361 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/19(金) 06:06:10.17 ID:KQQNOvRt
配下としては、三河武士とどっちが扱いにくいかな…

362 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/19(金) 11:23:52.87 ID:3/pga4/H
どっちもヤダ

363 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/02/19(金) 15:29:04.61 ID:kpw11bYQ
三河武士

365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/20(土) 00:52:02.94 ID:WGYlcrB4
犬のように忠実な三河武士と言われるけど
隙を見ては主人にも噛みつく狂犬

秀頼公の御味方に参ることは

2015年12月14日 16:33

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/14(月) 05:41:18.14 ID:KJNAxOqs
豊臣秀頼は薩摩へ河北庄右衛門と高屋七蔵の両使をもって貞宗(正宗とも)
の脇差を遣わし、味方にと頼った。

これに島津は、「先年の関ヶ原の時、家康公に御敵申し上げましたものを、
御許しくださったので御恩は忘れ難く、今となってはもう秀頼公の御味方に
参ることは罷りなりません」と言い、脇差を大野修理(治長)まで返進した。

――『武功雑記』



あれ?この話どこかで・・・牛の置物

2015年12月04日 13:57

76 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/12/04(金) 00:31:37.50 ID:4kp9LciP
あれ?この話どこかで・・・牛の置物

島津の殿様(忠恒)は朝から機嫌が悪かった。
「だれかある」
小姓があわてて殿様の前に出てきました。
「あれを見い。床の間の置物を見い!」殿様は怒鳴った。
小姓は「おお、これは、えらいことになったぞ」と思いました。
牛の置物が大きく壊れていたのだ。
この置物は佐賀藩から贈られた陶器の牛で中国から渡来したものであった。
殿様はこの陶器がことのほかお気に召し、この焼き物を眺めながらお茶を飲まれるのであった。
その牛の置物の尻が大きく壊れているのであった。
「牛の置物を壊したのはそちか」
「いいい、いいえ、わたくしではござりませぬ」
「誰がいたしたのじゃ」
「わわわ、わたくしめには、わわわ、わかりませぬ」殿様の怒りがあまりに激しい為、言葉もすらすら出てこない。
「重役を呼べ!」
「はははっ!」
重役たちが恐る恐る御前に出ると、
「この牛の尻を見い!」と殿様は大きな声で怒鳴った。
重役たちも答えようがなく「ははあ!」と頭をさげただけだ。
「牛の尻をこのようにしておきながら、黙っているとは不届きな奴じゃ。手討ちにしてくれる。呼び出してまいれ!」
手討ちにされるのに「わたしが壊しました」と名乗り出てくる者はいない。
重役たちも手討ちになるのは気の毒ことだと思っていたので、熱心に犯人を捜そうとはしなかった。
時間を稼ぎ、殿様の怒りが静まるのを待っていたのだ。
ところが殿様はますますいらいらして、
「何をぐずぐずいたしておる!この部屋に入って来る者は決まっているはずじゃ。限られた者の中から
犯人を捜すのにこのように時間をかけるとは、まことに能力のないでくの坊ぞろいじゃ!」
犯人を探し出せば、お手討ちになるし、探し出さなければ殿様のそばに仕える者たちが罰を受けるかもしれない。
困った重役たちはある人物にこの一件を頼み込むことにした。

少しして、侏儒どんこと徳田大兵衛が殿様の前にまかりでた。
殿様は侏儒どんの顔を見ると、
「この牛を見てみい。情けない姿じゃ」と怒りが収まらず大きな声で言うのであった。
「まことに、醜い牛とあいなりました。牛も尻が欠けると仰せのように情けない姿でございます」
侏儒どんも負けない様に大きな声で言うのであった。
「腹が立って、腹が立って、たまらぬのじゃ」
「わたくしも、一目見ただけで、腹が立ってまいりました」
「まことにもって、ふとどきなやつじゃ」
すると侏儒どんは、つかつかと牛の置物のところに歩み寄った。
「殿様、かかるふとどきものは、厳しく処分いたさぬと癖がつきます」
「厳しく処分いたすつもりじゃ」
「いえいえ、殿様のお手をわずらわすまでもございませぬ。わたくしが処分いたしまする」
と侏儒どんは牛の置物を両手につかんで、頭よりも高く持ち上げた。そして、
「殿様の御前に醜い尻をさらしおって、この無礼者め消えうせろ!」
と叫ぶや否や、牛の置物を庭石めがけて力いっぱいなげつけた。

ガッシャーン

牛の置物は木っ端微塵に砕けてしまった。
殿様も、あまりのことに怒りも忘れて、ただ仰天するばかりであった。

(参考 椋鳩十全集24『日当山侏儒物語』など)

家久(悪)、唐代の牛の焼物を壊されて
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2471.html


こちらだと、中馬大蔵重方がその役割ですな。



島津家久(悪)「当山で一番の茶の実を持って参れ!」別バージョン

2015年09月30日 14:18

756 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/09/29(火) 22:25:01.20 ID:prgC4d6J
島津家久(悪)「当山で一番の茶の実を持って参れ!」別バージョン

昔、日当山の地頭に徳田大兵衛(おおひょうえ)という人がおりました。
大兵衛は「侏儒(しゅじゅ)どん」(小さい、一寸法師というような意味・大兵衛は90センチほどの背丈だったそうです)
と呼ばれ、とんちで人を喜ばせたり、やりこめたりしていました。
ある日、島津の殿様(忠恒)によびだされ、
「侏儒、屋敷の周りに庭木を植えようと思うが、何がいいか言ってみよ」とたずねました。
侏儒どんは即座に、
「それは茶にかぎります。垣根になるばかりか茶も取れます」
「なんじゃと、茶の木ともうすか」
「はい。茶の生垣にございます」
「ふむ。それは名案。ところで茶はさし木だったかのう」
「いえ、種から、実からでございます」
「おう、そうだった。ところでそちの所は茶の名所だったのう」(ニンマリ)
「さようで、日当山はお茶の名所でございます」
「(こいつ、まだ気づいていないな。今頃茶の実などあるはずないのに。日ごろ奴のとんちでやられているから、
今度こそはやりかえしてやろう・・・)」
「おぬしにまかす。さっそく茶の実をもってくるのじゃ」
「へへっ」
と、ここで侏儒どんは今頃茶の実などあるはずないことに気がつきましたが、もうおそかった。
得意そうに殿様の鼻がひくひく動いているのを見ると、負けずぎらいな侏儒どんは日当山に帰り着くまでにいいことを
思いつき、日当山で一番お茶を飲むおばあさんの所に行き、
「ばあさん、一度鹿児島に行きたいと言ってたな。明日連れて行くから準備してくれ」

次の日、意気揚々とお城にのりこんだ侏儒どん。
「殿様、さっそく持ってまいりました」
「おう、そうか」(こいつ、強情なやつだな)
「そちが持参した茶の実を出してみよ」
「へへっ。ここに」
「なんだと。このばあさんが茶の実だと」
「へい、確かにこのばあさんが、村一番の茶のみでございます。朝はよから、夜遅くまで茶がなければ
日が暮れませぬ。日当山一の茶のみでございます」
まじめな顔で、平気で侏儒どんはもうしました。
今度ばかりは侏儒どんも困ってまいるだろうと、内心ほくそ笑んでいた殿様は一本とられてしまいました。
殿様は笑いながら
「いや、参った。だがまてよ、生垣にするのだが、その茶のみでは生えぬではないか」
ところが、侏儒どんは
「ほら、ばあさんそこの座敷をはってみなさい。殿様が見たいそうだ」
おばあさんが座敷を這ったので、これには殿様開いた口がふさがらなかったそうな。
(参考 「鹿児島のむかし話」)

また、「茶のみ」の話には続きがあるパターンがあり、
(おばあさんが座敷を這ったので、これには殿様開いた口がふさがらなかったそうな。のあと)
「いや、殿様にものを申し上げると緊張してのどが渇きます。すみませぬがお茶をいただけますか?」
「いやいや、のどが渇くのはそちではなくばあさんだろう。だれかばあさんに水をやれ」
「殿様、茶のみに水ではかわいそうでございます」
「なんの、あの茶のみは、はえるのであろう。早く水をやれ、水をやれ」
「これは一本とられましたな」
「「ハッハッハッ」」
(参考 「日当山侏儒どん物語」「日当山温泉湯けむりガイド2011」)

関連
島津家久(悪)「当山で一番の茶の実を持って参れ!」・悪い話


757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/29(火) 23:15:01.05 ID:N2PpKGL1
何この193と将軍さま

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/29(火) 23:37:37.68 ID:hXJatZKr
いつ斬られるか、ハラハラしたw

759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/29(火) 23:42:18.35 ID:D+AAVOft
隣の部屋に東郷が控えてるよね

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/30(水) 09:43:52.00 ID:z/jP00gW
貞子の様に座敷を這いずり回る婆さんの横でこの漫才。
想像すると無茶苦茶シュールだ...。



761 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/09/30(水) 13:13:12.20 ID:l6MdiJ3I
すみません756ですが、這うと書きましたが
原文では「はう」とひらがなで書かれていました。
参考にした本にはありませんでしたが、別の本の挿し絵にはおばあさんは四つん這いで書かれていました。
・・・四つん這いでもシュールなことにはかわりありませんが。



763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/30(水) 22:21:50.90 ID:Mrh64YM5
>>756<
お茶ドゾー
  ∧ ∧                                    (ハハ)
 ( ´・ω・)                                  (ヮl` ) 
 ( つ旦O                                 O旦⊂ヽ
 と__)__) 旦   旦   旦    旦      旦    旦    (_(_つ
      濃茶  薄茶 大腸菌 足尾鉱毒 豚インフル 出涸し 日当山一のちゃのみ

                            ;; コポ
       旦   旦   旦    旦    旦 コポ 旦      旦    旦    旦
      砒素  雑巾汁 烏龍茶 加藤茶 ウラン  鳥インフル  タブン VXガス 石見銀山


       旦  旦    旦     旦    旦    旦    旦      旦
       緑青 鉛 プルトニウム サリン 工場廃水 紅茶 福寿草  ミユキのお手製太陽バクバク茶

764 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/10/01(木) 06:17:31.96 ID:MrdFkbNK
知覧茶や霧島茶がないですよー!!

765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/01(木) 10:59:44.13 ID:abkOZLQC
薩摩人乙

766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/01(木) 11:13:48.31 ID:fmcSmK7x
>>763
ウッキーさんはお呼びじゃないです

767 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/01(木) 11:40:40.01 ID:1yLYRkQi
はぶあないすでぇー

768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/01(木) 11:44:39.58 ID:XwpcueLV
子どもにはわからんネタをw

769 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/10/01(木) 13:18:28.02 ID:iAINpaQB
ウィッキーさん、懐かしいなあ。

示現流と家久公の奥方

2015年06月29日 14:05

亀寿姫   
255 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/28(日) 23:04:54.18 ID:2+qsOagc
示現流と家久公の奥方

 現在は鹿児島県民以外でも学ぶ事の出来る示現流兵法。但し、女性の入門は受け付けていないそうで、戦前は東郷宗家の女性でも稽古を拝見する事も出来なかったそうです。

 が、かつて島津家久(彼と島津斉興だけが、示現流で免許皆伝に相当する四段の段位を授けられたそうです)の奥方が示現流を修行し二段まで習得。
 殿方が城を出た後の城を守る為の心得として、示現流の小太刀の技や他流の薙刀の技などを奥向きの侍女や奥女中にも習わせたそうです。

 数年前、示現流史料館で説明役の御婦人が詳しくお話ししてくださり、「鹿児島の古武道」という昭和61年に先々代の御宗家が講演された時の史料も(写しを)拝見したのですが…。

 この史料にも「奥方」というだけで、実名の記載はなかったと記憶しているのですが、これはやはり正室であり嫡女であった亀寿なのでしょうね。

 江戸中期に記された久保之英の「示現流聞書喫緊録」によると、昔の門弟は両度(七つの段位で下から二番目の段位。鑓留を含む)なら本当に槍を止める事が出来たが、今は三~四段でも本当は鑓留が出来ないと嘆いているので、夫婦ともに本当に強かったのでしょう。

 ……この「奥方」が本当に亀寿だとして、本当に「殿方の留守」を守る為に武芸を修めて……いえ、何でもありません。



260 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/07/01(水) 00:10:53.27 ID:/gYb3G0s
亀寿が示現流を修行したのは自分が島津本家の家督を決定する権限もしくは拒否権を有していたから
責任がある身の上なのでかも。(桐野作人先生の講演会で亀寿が家督を決定する権限を持っていたと
おっしゃってました)
この話を読んだら、前に個人の人のサイトで見た義久が国分城を作ったのは「亀寿を守るため」ではいう仮説を
言ってましたが、なんとなく納得できるかも。
その前に住んでいた富隈城にくらべて格段に国分城のほうが防御力があるもの。
(富隈城も国分城も館作りの平城ですが、国分城は後詰めの城「隼人城」があります
この隼人城は隼人の反乱の時に使われた’曽於乃岩城’(そおのいわき)という説が
あり篭城するのに向いています)
義久が国分城下は京都風の碁盤の目をしき、明より商人を招いて「唐人町」を作るなど国分城下の町を太平の世向けに整備したのに、
城をこんな感じ(戦国の世向け)に作ったのは自分が亡くなった後亀寿の「拠り所」を用意したのかな…

261 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/01(水) 00:45:02.67 ID:FXoHaFYy
戦国屈指の名将、島津義弘の息子なのに何であんなに陰険で屈折してるのか
毛利元就の息子とかなら納得出来るのだが…

262 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/01(水) 00:57:27.51 ID:RrEm5voZ
子は親を写す鏡
義弘の本性がじつは陰険だったのさ

263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/01(水) 01:09:26.25 ID:tjIhPMHR
子は親を写す鏡
貴久の本性もじつは陰険だったのであろう

264 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/07/01(水) 01:09:38.74 ID:/gYb3G0s
別に子供が親に似る場合ばかりではないと
思うけどね。悪久の場合は、伯父と父と兄への
コンプレックスと自分が権限を持っていない
ことの苛立ちのせいでしょね。
子供が親に必ず似るのだったら宇喜田さん家
はどうですかね?

265 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/01(水) 01:21:00.86 ID:i7nOamuV
土井利勝「むしろ子が親に似てないことの方が多いよな」
豊臣秀頼「せやな」

片倉家の「当引長光」

2015年03月24日 18:40

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/23(月) 20:15:44.56 ID:c6wqUJta
大阪の陣が終わったあと、島津家久(忠恒)伊達政宗を伏見屋敷に尋ねた事があった。
政宗もこれを喜び様々に饗応する中、家久は「御当家の片倉小十郎(重長)をこの席に呼んでほしい」と
望んだため、政宗も早速小十郎を呼び出した。

家久は小十郎に
「今度の大阪表でのあなたの戦功は、比類ないものであった。この刀は「当引長光」という
名物で、私が太閤殿下の御遺物として賜った物であるが、あなたと今日対面のしるしに
進ずるものである。」
と、刀を取って与えた。

しかし小十郎重長
「誠に忝く思いますが、太閤殿下の御遺物を私に頂戴するというのは、あまりに恐れ多きことです。
この御刀は主人政宗に遣わして頂ければ、私にとってもこの上なき喜びです。」
そう言って辞退した。

そこで家久は改めて政宗に贈ったと、片倉代々記にある。

この長光は天和三年になって、伊達綱村より重長の孫の小十郎村長が賜り、それ以後片倉家の重宝となった。

(刀剣談)




782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/23(月) 22:40:06.69 ID:O5vstNqz
>>780
こいつ絶対なにか悪だくみがあって小十郎に刀贈ろうとしただろ・・・(疑心暗鬼)

783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/23(月) 22:56:05.13 ID:wUXvendR
>>780
政宗は普通に刀を与えたのか。らしくねえなw

784 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/24(火) 00:44:14.58 ID:TA9Me2gv
>>783
刀与えたの政宗の曾孫やぞ

今日コンビニで流し読みした本に

2015年03月11日 18:49

707 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/03/11(水) 00:59:34.04 ID:UMymFHmr
今日コンビニで流し読みした本に書いてあった鹿児島城の話

築城が1602年、島津家久
義久の末弟と記載

統率の義久・武勇の義弘・反逆の歳久・地味久と4兄弟1、事績に乏しい家久に光が当たったいい話。




708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/11(水) 02:03:19.95 ID:FElBlykQ
それ悪い話や

709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/11(水) 02:11:11.78 ID:DFTw6Kpf
島津四兄弟の序列って
義弘>>>家久>>>義久>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>歳久だろ

710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/11(水) 09:31:11.21 ID:AomUNZR4
>>707
悪久のことかー


※当然ですが、鹿児島城を築城したのは島津義久ではなく忠恒ですw

酔っぱらいを笑った結果

2014年07月23日 18:51

747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/23(水) 01:23:45.06 ID:n1KdZQSZ
慶長12年(1607)5月、薩摩の島津家久の使いが、駿府に参り滞在したが、
この時海浜で遊び、妓女を船に乗せ酒宴を催し、酔興に乗じ大いに戯れた。
ところが丁度この頃、駿府城普請のため全国より集まっていた諸大名の藩士や役夫がこれを見て
大いに嘲り笑った。

これに気がついた島津の使いは激怒し、船から上がって笑っている者たちに斬り込んだ。
殆どの者達は逃げ去ったが、池田宰相(輝政)の藩士たちはそこに残って戦い、終に島津の
使者を生け捕った。その後、使者を追放しようとしたが、彼は

「私はこのような恥辱を受けた上は、生きて人と顔を合わせることは出来ない。よってただ切腹いたす!
であれば、私に敵した者も刑せらるべし!」

そう言って、駿府の奉行所に延々と訴え続けた。このため上裁に及んだが、結果、
その使者二人と、池田の藩士のうち、今回の築城の事を預かる者達の長一人を誅した。

(徳川実記:台德院殿御實紀)

酔っぱらいを笑った結果死者3名、という駿府城下の騒動についてのお話。



748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/23(水) 12:06:50.68 ID:FOOEmTEk
だからこの戦闘民族はw

749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/23(水) 15:34:09.90 ID:AmINW3Yi
この時代ならどこにでもいそうな
むしろ薩摩なら、切腹前に一人くらい自分で斬ってそうなのにと

750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/23(水) 15:42:54.58 ID:utO8pbcm
好きで遊んでるところをわらわれて怒るってよくわからん
失敗したのをわらわれて切れるならわかるけど

751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/23(水) 15:46:40.94 ID:AmINW3Yi
落語「棒鱈」を聴けばわかると思うよ
江戸で芸者遊びしている薩摩武士があまりにも田舎臭すぎることを言うんで隣室の町人がからかって、
薩摩武士が切れて刀を振り回す、て話。

752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/23(水) 20:04:17.10 ID:de3paWJ5
堅物のイメージが有る薩摩武士が芸者遊びしてたら芋臭くて笑えてくるなw

753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/23(水) 20:08:45.34 ID:utO8pbcm
ああそうか遊び方がなってないって笑われたのね

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/23(水) 20:20:26.08 ID:dEnQM4Y0
幕末でも笑われてたしこういう人種なんだわな

755 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/23(水) 23:00:56.57 ID:FxfD8KhO
一方、良い家久は茶会を辞退した

756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/24(木) 14:19:43.68 ID:TgB+dp5v
薩摩だの津軽だのは、方言の壁も大きそうだな

757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/24(木) 15:05:31.27 ID:eAoQ48K3
津軽は上の方はあんま訛ってないんじゃない?貿易船もきてるし。むしろヒゲ剃るとわからなくなるかと

島津久信の最期

2013年03月24日 19:03

35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/24(日) 12:00:27.13 ID:6tnJ7zWo
島津久信の最期


かつて島津忠恒と家督を争った事もあった垂水島津家当主島津久信(忠仍とも、母は島津義久の次女)という人物がいたが、
家督争いから脱落し、義久死後は再び家督簒奪を狙ったなど疑われ起請文まで書かされた久信の末路は悲惨であった。

寛永14年(1637年)のこと、ある時風邪をひいて体調を崩した久信は松井玄性をいう医師の処方を受けていたが、
ある日、玄性の薬からいつもと違う毒見を感じた久信はすぐに服用をやめ、毒消しの砂金を煎用した。
その日の内に久信は改めて玄性を呼び寄せ、「誰の謀計で毒を盛った?」と尋ねたが、
玄性は「決して毒などは盛っておりません。今朝はいつもの調合に少し加味しただけです」と返事をした。

久信は玄性の弁明が本当ならばという事で残った薬を全て玄性に飲むように命じ、玄性はこれを飲み干して退出したが、
その後に玄性は自宅の門の所で昏倒してそのまま二度を目覚めることはなかった。
久信が玄性に飲まされていたのは疑ったとおり紛れもなく毒薬だったのである。
これが祟ってか久信も年内の内に死亡。そして翌寛永15年(1638年)、後を追うかのように島津忠恒もこの世を去った。





36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/24(日) 12:18:50.83 ID:Z7ZfamV/
犯人が全く分からない・・・一体誰の差し金だったんだ(棒)

37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/24(日) 12:37:09.36 ID:kj7b/kH3
悪久さんか祟る人多すぎてわからないぞ!

38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/24(日) 16:35:08.21 ID:HYii+uNw
ああ(察し)

40 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/24(日) 18:24:11.02 ID:ZRvIFyxl
砂金が毒消しになると思われてたのか

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/24(日) 18:37:25.66 ID:u2M30pm7
銀の箸で毒か判定

42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/24(日) 19:00:35.35 ID:loek5YpO
戦国時代は色々迷信があるんだよね
砂金ならまだいい方で合戦で大怪我したときはう○こを煮たものを飲むとか
とんでもないものもあったらしい

43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/24(日) 19:06:38.15 ID:mgPDv1jm
>>42
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3655.html
その話ならここに
大河の「風林火山」でも出てくるな
利尿作用があるとかビタミンで凝血作用があるとかいう話もあるがどうだろ

48 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/24(日) 21:32:39.06 ID:RJvehF3C
悪久さんの周囲は謀殺と戦と蹴鞠に満ち満ちている

49 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/24(日) 22:07:34.72 ID:0iX7rGG3
よかった、DQNに満ち溢れてはいないんですね

DQNは関ヶ原で

2012年07月18日 20:55

561 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/07/18(水) 15:09:09.69 ID:mQqAyNaB
DQNは関ヶ原で

政宗 一揆を煽動
家久 義久が西軍だったのに、駄々をこねて本領安堵
忠興 幽斎の田辺城を攻めた小野木公郷の切腹を断固として主張
忠政 「兄の仇だ」、と、川中島の百姓を磔
正則 家康家臣の伊奈図書を切腹させた。

ちなみに井伊家は上記三つと関係がある
直孝 百万石のお墨付きをビリビリと破った
直政 島津と激戦 & 徳川氏と島津氏の和平交渉の仲立ち  強敵(とも)?
直政 公郷の助命を忠興に頼んだが断られ大激怒。細川を九州に飛ばす。




562 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/18(水) 15:30:07.70 ID:IYv/cLge
なお、勝成は鬼島津と銃の撃ち合いをしたり大垣城に放火したり名刀を略奪していた

563 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/07/18(水) 15:41:54.53 ID:mQqAyNaB
家康も西軍に勝ったとは大変だったんだろう。

蹴鞠大好き島津忠恒

2012年01月27日 21:58

882 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/26(木) 21:10:55.54 ID:7nIIJpyI
ところで大日本史料DBで、島津忠恒で検索して気がついたのだが

☆肥前名護屋編

文祿3年8月25日 是より先、秀吉、薩摩鹿兒島の島津忠恆(忠恒)の、父義弘の軍に朝鮮に從はんとするを許す、
             是日、忠恆、肥前名護屋に出陣す

文祿3年8月29日 薩摩鹿兒島の島津忠恆、肥前名護屋の町を見物す、又陣中に蹴鞠の庭を作る、

文祿3年9月13日 薩摩鹿兒島の島津忠恆、肥前名護屋の陣中に茶湯の座敷を作る、


☆朝鮮巨濟島編

文祿3年10月30日 薩摩鹿兒島の島津忠恆、朝鮮唐島(巨濟島)に渡り、父義弘の軍に從ふ、

文祿3年11月1日 島津忠恆、朝鮮唐島(巨濟島)の陣中に鞠の庭を作る、

どっちも明らかに、到着して真っ先にやってるのが蹴鞠場作りなんだが、
悪久は身近に必ず蹴鞠場を作らないと死んじゃう体質か何かか?w




883 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/26(木) 21:53:10.43 ID:DrZH7TCm
蹴鞠はこの頃も人気スポーツだったが、相撲に押されつつあった
その意味で島津家は流行に遅れているわけだ

884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/26(木) 22:02:30.34 ID:LxGPhHmD
秀吉さんの家中の連中が相撲より蹴鞠に夢中!!!だったら、
それはそれは嫌だし、さすが島津さん雅だわ~って感じ

885 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/26(木) 22:33:33.89 ID:1FLw3Lb0
西の蹴鞠狂い代表を名乗っていいぞ

886 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/27(金) 00:21:49.11 ID:Pk9ABAmQ
京に遠ければ遠いほど、京の遊びに熱心だよね

887 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/27(金) 01:26:43.05 ID:Jq0gdZzg
蹴鞠や連歌とかの指導者は、技術だけでなく朝廷や幕府有力者との連絡役も兼ねてるからね

888 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/27(金) 02:39:44.07 ID:vspkf9zU
蹴鞠・連歌・犬追物などの室町式儀礼を開催することは
守護の系譜に連なる大名にとって、地域の支配者であることを示すステータス。

まあ、どこも秀吉時代くらいにやらなくなるみたいだけど

889 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/27(金) 02:59:53.50 ID:sIZkG0bf
島津家は戦国どころか室町時代に既に衰退した犬追物を
明治まで保存してしまった、時代遅れどころかある意味浮世離れした家。

890 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/27(金) 07:03:34.13 ID:xXDtgTrX
>>889
生類憐れみの令の時代はどうしてたんだろう?

891 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/27(金) 07:13:42.36 ID:efiSts+H
将軍お膝元である江戸と地方で取り締まりのレベルが全然違ったようだよ
地方の山間部で江戸と同じレベルで取り締まれば野生動物に荒らされまくりだし

892 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/27(金) 09:05:31.85 ID:pSDdBLVJ
>>890
尾張藩ですらいい加減だったのが「鸚鵡籠中記」に記されている

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/27(金) 09:30:39.29 ID:9AwPK7xe
江戸幕府の統治って、基本的には各藩の自治を認めてるからね~

894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/27(金) 10:44:21.36 ID:3Fgw5pWt
生類憐れみの令はもともと、戦乱の時代じゃないんだしさ、殺伐な気風は改めようよ、
今までも口酸っぱくして言って来たけど動物範囲まで極端にすれば
せめて人間同士のいがみ合いは減るだろーちゅう精神論だからな
点数稼ぎに使った側近や役人の管轄地域はおかしい事になったが

伊達政宗が島津家に招かれて

2011年04月30日 00:01

273 名前:dokuganryu[] 投稿日:2011/04/29(金) 07:02:25.28 ID:VwYr+wlJ
出典は不明。島津家の記録らしい。
大阪夏の陣が終ってから、伊達政宗が島津家に招かれた。
当時、島津家では、よく武功話を家臣に聞かせることをしていた。
また、政宗と家久(忠恒)は結構交流があって、よくバカ騒ぎをしていたことから
今回は、島津家臣の前で大阪の陣の講演をして欲しいということになった次第であった。
政宗は当然のことながら、自慢の『鬼小十郎』こと片倉重綱(重長)を伴って参上。
主役は『鬼小十郎』となり、話が終わり、家久が『さてはさては、伊達殿はよい家臣をもたれたものだ』
といって腰のものを鬼小十郎に与えようとした。
小十郎すかさず、『ありがたきしあわせなれど、伊達家臣なればいただくわけにはまい
りませぬ。わが君に下されますようお願いいたしまする』
家久は『みなのもの、伊達殿はこのようなよき家臣に支えられておる。島津家もこうなくてはならん』
といい、政宗はおおいに面目を保ったとのこと。




274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/29(金) 09:20:24.84 ID:dKG3VviG
夏の陣の後、伊達の悪事を暴いたの忠恒だよねw

275 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/29(金) 14:01:45.64 ID:rYHzIC5X
片倉さん、本当にLoveマーくんだなw

文禄3年(1594)11月4日、忠恒は義弘を遊覧に誘い

2011年02月07日 00:01

617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/06(日) 18:34:17 ID:0TEiG2zq
文禄3年(1594)11月1日、高麗の地に上陸した島津忠恒は、先に来ていた父・義弘と対面した。

「父上。忠恒、ただ今参りました。私が来たからには、もうご安心ください。」
「ああ…頼む……」
(うーん、元気が無いな。この地で兄者を亡くしたのが、まだ堪えておるのか……そうだ!)


同月4日、忠恒は義弘を遊覧に誘い、晩も忠恒の陣屋で食事をとるよう勧めた。
「ぜひお越しください。少々、変わった趣向を用意しましたので。」
「変わった趣向じゃと?…おお、これは!」

忠恒の陣屋には、日本のそれと遜色ない立派な蹴鞠の庭が造られており、その庭で忠恒と近習たちが、
京滞在中鍛えた蹴鞠の腕前を、義弘の前で披露した。
「あっはっはっはっ!見よ見よ、忠恒め、いつの間にこれ程に腕を上げたのじゃ!」
(良かった!お元気になられたようだ…)

好評だったのか、忠恒は同月9日にも義弘のほか島津豊久・忠長等の見守る中、蹴鞠を行なっている。




…ので、名護屋で送迎船待ってた約40日のうち、晴れたら蹴鞠って遊んでたのは、黙っといてあげて下さい。

それにしても、自分の主人のことを「いつも蹴鞠ってやがる。(御鞠如常)」とか書いたり、
「今日は何も無かったです。(何たる儀無之候)」とか書いた次の行で「晩に盗人、成敗被成候。」
とか言ってる、元ネタ書いた面高連長坊はマジ大物だと思います。




618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/06(日) 18:36:28 ID:7nQWEAC4
軍陣に盗みに入るとは気合い入った盗人だなw

619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/06(日) 18:38:34 ID:OUHiBTAb
あれ、wikiではあまりに蹴鞠にうつつを抜かすから、朝鮮出兵中の義弘に
書状で注意を受けた、て書いてたのに
その後義弘が蹴鞠好きになった、ということか

620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/06(日) 18:48:35 ID:yctrOdOk
例えば単身赴任してるお前にギター狂いの息子がいたとして
日頃は口うるさく注意してたとしても
実際に息子が自分のところに来てくれて
上達したギターの腕前を披露してくれたら
嬉しくて泣いちゃうかもしれないだろ?
そういうことだ

621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/06(日) 18:50:32 ID:ohxFaQ7K
>>618
人の出入りが多いから、けっこう狙い目なのかも>軍陣

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/06(日) 18:53:32 ID:CTv09xKa
ドラ息子を甘やかすお父さん・・・

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/06(日) 19:10:23 ID:ATDiyX5d
義弘のためにやってくれてるのは察してたろうから
義弘も楽しんだふりをしてやったんだろう
大将が沈んでると兵に影響するしそういう心遣いも大将の心得だよ

624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/06(日) 19:14:15 ID:yU6tyuIK
これが黒田長政や鍋島勝茂だったら、親父からその場で説教されそうな・・・

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/06(日) 19:19:49 ID:GYLw/rhX
これが輝元だったら、叔父からその場で折檻されそうな…

626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/06(日) 20:38:21 ID:rldax2hK
>>618
Q太郎にも陣泥棒を防ぐ話があるし、割とよくあったんじゃないかな

627 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/06(日) 21:15:56 ID:aHUlCF+M
>>624
いや黒田の家なら失笑してこれで黒田家も終わりだ、って嫌味を言うと思うw


628 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/07(月) 02:00:06 ID:yKJ6OsOL
性格わりいな黒田家は

629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/07(月) 02:06:33 ID:LWy4hYOE
又兵衛あたりが余計な事を言う→
長政怒って取っ組み合い→
黒田官兵衛苦笑い