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あたらよい武士を失ったものだ

2022年09月22日 17:10

584 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/22(木) 00:11:38.00 ID:lW/Xp3Cx
「薩藩旧伝集」から大山三次の切腹
(彼を主人公とした海音寺潮五郎の短編小説「かたみの月」では大山巌の先祖・大山稲次の弟としている)

大山三次殿が江戸で何人も斬り殺したそうだ。
白昼の出来事であったため、ある御大名の長屋から「どこの者であろうか?」と見ていたところ、下手人が薩摩屋敷に入って行ったという。
薩摩の大山三次であると取り沙汰されたため、中納言様(島津忠恒)に対してある大名が
「貴殿のところに大山三次と申すものはいないだろうか?」と尋ねた。
中納言様が「どういうわけで尋ねられるのか?」とおっしゃると
大名は「その者が何人も斬り殺したそうである」と答えた。
中納言様は「そのような者はおりません」とお返事なさった。
そこでいそいで大山三次を大廻り船(貨物船)で薩摩に下そうということになった。
しかし命じられた大山三次は「理由もないのに武士たる者が大廻り船で下れましょうか。一分が立ちません」と申して切腹してしまった。
これを聞こしめした中納言様は「さても惜しいことだ。理由をきちんと申し聞かせたならば、切腹しなかったであろうに。
あたらよい武士を失ったものだ。」と御悔やみなさったそうだ。



585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/22(木) 06:03:12.52 ID:WzSRaShL
これがほんとの殺人(薩人)犯

586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/22(木) 09:58:10.93 ID:Djvvw+O2
2点
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後醍院宗重の息子たち

2022年05月06日 18:13

170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/05(木) 22:36:45.19 ID:2DXCFnUB
薩藩旧伝集」には後醍院が伊勢路を選んだ理由について
「いつも箱に入れて持っていた大黒様が伊勢路を向いていたから」
という話もある

薩藩旧伝集」より後醍院宗重の息子たち
後醍院喜兵衛、入道して淡斎は文禄の役後から島津家に仕えていた。
(相良→島津→佐々→小西→島津のようだが)
惟新様(義弘)が帖佐建昌の城下、餅井田原で鷹狩を遊ばされた時、田舎馬に乗ったみすぼらしい老人に行き当たった。
老人は殿様を見るなり馬から飛び降りおそばに参ったが、
惟新様はことのほか丁寧にご挨拶あそばされた。
老人も「御機嫌を伺いに参ろうと思っておりましたが、こうしてお目にかかれるとは」と申し上げると
惟新様は「帰る時はまたこちらに寄ろうぞ」と御意を示された。
淡斎の嫡男、高橋少三郎はそのとき惟新様のお供をしていたが、お側の衆にこの老人の名を尋ねたところ、
浜田民部左衛門入道英臨(浜田経重)である、と答えられた。
その時、少三郎は興の醒めた顔でいたが、帰宅したのち父の淡斎に対して
少三郎「かくかくというわけで、みすぼらしい身なりをした老人は太閤様にまで名が轟いていた、武辺者の浜田栄臨でありました。
あれほどの武辺者でもあのような暮らしぶりでは、我々の暮らしぶりでは御当家にとって恥といえ、とうてい出世の見込みはないでしょう。
上方へ奉公に出たいと思います」と言うと
淡斎「何事もそなたの了簡次第である」
とのことだったので、少三郎は因幡鳥取に召し抱えられたと言うことだ。
なお淡斎の次男、蔵之介はというと謡(うたい)数寄で夜が白むまで謡を唄っていたため、淡斎は
「武辺者の子がかように遊芸にこるとは、なんと口惜しいことよ。
殿様(島津忠恒)は能が数寄なので、万一謡のせいでそばに召し加えられるようなことがあってはかえって迷惑だ」
と申したということだ。

171 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/05(木) 22:39:45.94 ID:2DXCFnUB
そんな蔵之介であったが、
慶長五年の関ヶ原合戦から六年目、惟新様七十歳の時、吉野で御馬追が行われることになった。
特別に二才(にせ)衆には異様の姿でまかり出ることが許されたため、鹿児島の二才衆がおもいおもいの格好で馬に乗りまかり出る中、
後醍院蔵之介だけは野袴で馬にも乗らずに出てきた。
二才衆は「あの髪と身なりをみろよ」と皆々笑った。
さて吉野で本礼落とし(競馬?)の時、蔵之介は袂から食べ物を取り出し馬に食わせ、さっと馬に飛び乗り二つ三つうちこむと真っ先に駆け出した。
その時「さてもさても淡斎の子だけはある」と皆々が申した。
惟新様も本礼落としをなさったそうだ。



「薩琉軍記」群、について

2021年05月19日 16:05

201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/19(水) 14:57:09.20 ID:JDqvmj6u
薩摩の琉球侵攻を描いた軍記物として「薩琉軍記」という一大ジャンル的がある
内容はというと、主人公で軍師の新納武蔵守一氏(新納忠元がモデル)や武蔵守と軍内で対立する佐野帯刀はじめ、
架空人物ばかりで史実とはかけ離れた話ばかりだが
(中には真田幸村が戦死した新納武蔵守に代わって琉球を征服する「薩州内乱記」というものまである)
薩琉軍記」群の一つ、「琉球静謐記」のラストは少し変わっているので紹介する。

琉球征伐後、龍伯公(※琉球征伐の時期なら忠恒のはずだが「琉球静謐記」では龍伯を顕彰しているため)が論功行賞を行ったところ
「朝鮮征伐の時は万死に一生の苦労をしても褒美を得なかったのに、今回の琉球征伐では国内巡視程度の労力で子孫への宝を得ることになった」
と薩摩勢は喜んだ。(軍記内ではけっこう苦戦していた)
これが江戸まで聞こえ、琉球は武を備えていないと評判となった。
琉球国王が江戸に参勤した時、松平伊豆守が国王に尋ねたことには
「なぜ琉球国は戦の方法を知らないのか?兵法の書はないのか?」
琉球国王「我が国ではむかしより戦争なし。
親が死ねば子供が、兄が死ねば弟が継いできたため、跡目争いなどなかった。ゆえに戦に詳しくないのだ」
これを聞いた伊豆守は顔を赤くし退出した。
このことが将軍の耳に入り、誠に優美であるとおぼしめしたため、
それ以来琉球国王を御老中列の次に座し、十万石以上の大名の格として尊重した。

武より文を尊重する時代に入ったためか、知恵伊豆を持ってきて武力発動を戒めるオチが付け加えられたようだ



命名「猪之助」

2016年02月24日 15:46

369 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/02/23(火) 23:42:22.80 ID:7TVfVt9h
命名「猪之助」

慶長四年(1599年)島津忠恒が伏見で伊集院忠棟を手討ちにしたことが発端となる庄内の乱。
乱が始まると島津勢は地理がわからず、島津義久の命令で家臣が猪狩りの名人で
山道に詳しい前田利之助の元を訪れ道案内を頼みましたが、
「私は伊集院家の家臣、有難いことではありますが・・・」と断ります。
それでも家臣が是非と頼みますので、利之助の兄の意見を聞いてみますと、
「前田家は島津様に恩になった家、有難いことだ」と言うので、道案内を引き受けました。
戦が終わり、義久は利之助を呼びその武功をほめ、利之助に「猪之助」の名と土地を与え
猪之助の姿絵を島津家の菩提寺の福昌寺に納めたといわれています。
(市報こくぶ昭和62年11月1日号)

権現様ごめんなさい。
手負いの猪が家康に向かって突っ込んできた
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6588.html

権現様の名付けは安直な上に普通のネーミングと思ってましたが
義久の名付けを見てこんな時は直球な名付けをするものだとわかりました・・・



敵の船をネギる。

2014年12月15日 18:48

361 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/12/15(月) 09:13:16.01 ID:+mpcXuzM
敵の船をネギる。


 慶長二年(1597)二月。再開した慶長の役により集結した日本勢。

 その軍議の席。豊臣秀吉の軍令は、全羅道(チョルラド)の征服を第一目標とするものであった。

 自然と攻撃目標として明からの援軍三千名も含め、六千の籠る南原(ナムウォン)城の攻略が盛んに議されたのだが。

「唐島(巨済島:コジェド)表には番船数百艘が漕ぎ出でて、日本より往反の船を遮っておる」

「されば、この番船を追い退けてこそ赤国へ相働くべけれ」

 全羅道の明朝連合軍の拠点を攻略する前に、朝鮮水軍を撃滅して半島南岸と日本との制海権を確保する事で議定一決。

 諸将は大鉄炮や焼き草から熊手に撃鑰(打鉤)など遠近両用の装備を調え、七月十五日の夜半に出撃。

 この戦いには藤堂和泉守高虎・加藤左馬助嘉明・脇坂中務少輔安治・小西摂津守行長の諸将と共に、島津家の家中も参陣。

 閑山島(ハンサンド)より出撃する朝鮮水軍が、巨済島と漆川島(チルチョンド)の間に流れる漆川梁(チルチョンリャン)を通過する時を狙い、陸海で挟撃する作戦だった。


 そして、加徳島(カドクト)より移動して陸路で待機する島津義弘・忠恒父子の軍勢三千余名が。唐島の碁石浜で刻限を待っている時。
 
 予定よりも早く戦闘が始まった。

「父上、舟手より時の声(鬨)が?」

「吾らも鬨を上げよ。陸と海より大鉄炮を打掛ぃ!」

362 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/12/15(月) 09:14:01.80 ID:+mpcXuzM
 兼ねて用意していた島津忠豊の率いる水軍は、予定より戦闘開始が早く、且つ余りにも朝鮮水軍の攻撃が猛烈であった為、纜を解く余裕も無かった。

「構わん、碇を切り捨てぃ!」

 解纜の暇がなかった大方の船で、次々と纜が切断された。既に漕ぎ始めていた船は、抑えていた碇が無くなるや一挙に加速。吾が船、遅しと押し出す。

「彼の船に漕ぎ雙(なら)べ。各々一度に切り乗らん!」

 忠豊の下知に、朝鮮水軍で三番目の巨船に接舷する島津の船。

「殿、お先に御免!」

 真っ先に斬りこもうとした主君を差し置いて、樺山文之助という十九歳の近習が一番に敵船に飛び乗る。……そして鎧の胸板、その外れを射られて海に落ち、忽ちに死ぬ。

「おのれ!」 「殿、御免!」

 近習の死に、今度こそ自分が乗り込もうとする忠豊だが、またしても甲斐正助という士が主君に先立って乗り込む。

 三度目の正直、と忠豊が今度こそ敵船に乗り込んだ時には、既に手勢多数がほぼ同時に乗り込み、白兵戦を展開して行った。

 中でも、足軽ながら忠豊が常々目をかけていた大倉兵衛という剛の者は、この時も主の期待に違わず舟矢倉の下に入り込み、えいやと声を上げて敵兵数多を斬り捨て、更に多くの兵が恐れをなして海に飛び込み溺死に追い込んだ。


 かくして、この巨船は乗っ取られ、即座に日本に差し渡して秀吉の台覧に供された後、慶長の末年まで大坂に繋がれる事となった。

 又七郎忠豊に賜う台書
   
  このたび唐島表において番船百六十四艘伐り捕りのみぎり。その方、自身の手を砕き(敵兵を)切り棄て、三番目の船の唐人を残らず切り棄ての由。手柄の段、比類なく候。
  殊更、その船を焼かず日本へ差し渡す儀、御感ななめならず候。何れも帰朝のみぎり、ご褒美くわえらるべく候。なお増田右衛門尉(長盛)・石田治部少輔(三成)・長束大蔵大輔(正家)・徳善院(前田玄以)申すべく候なり。

   八月九日御朱印(秀吉)
        嶋津又七郎とのへ


 海戦に敗れた朝鮮水軍は巨済島に上陸。この時点で、水夫以下は体力の限界まで船を漕いで疲労困憊の上、飲料水の枯渇で嫌でも敵地に上陸せざるを得なかったらしい。

 そんな彼らを待っていたのは、島津・小西の軍勢だった。特に島津勢は海上の戦況を観た義弘の下知で、碁石浜から島崎までの十五~六里に三千の兵を分散配置していた。

 三道水軍統制使の元均(ウォンギュン)以下の将兵は悉く殲滅され、磯近くで留まる敵船は熊手・撃鑰を打ち掛けて曳き割り、撃ち割り、焼き沈めていった。

 『征韓録』では「番船大方根切」、と形容している。

 島津家中には、忠豊(のちの豊久)が先駆けようにも同着三位になるような勇士が少なくなかったのですね。




364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/15(月) 10:09:48.05 ID:P/IbXQS/
このぱくった船はのちの何になったんだろう。

『幸村の実像』

2012年08月10日 21:41

949 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/08/09(木) 20:16:51.18 ID:Jnst0NbO
『幸村の実像』

講談やゲームの影響で美形と思われがちの真田幸村だが久度山から国元に送った手紙に「去年からにわかに歳をとり身体も弱くなり歯も抜けました。髪も白くなりました。」と言っている。
また、大阪城内で幸村を見た者が「真田左衛門佐は四十四、五に見えた。額に二、三寸の傷があり小兵な人だった」と言っている。
(長沢聞書)

つまりこの板の住人周知の通り初老の醜男だったのだ。
また、娘の身を案じる手紙、姉に宛てた手紙など数多く残しており心優しい人であったことが察せられる。

では伝説的な武勇はどうか。
幸村を評する手紙が二人の大名によって残っている。

「真田左衛門佐、合戦場にて討死。古今にこれなき大手柄。首は越前宰相殿鉄砲頭取り申し候。さりながら、手負ひ候いて、くたびれ伏して居られ候を取り候に付、手柄にもならず候」
細川忠興

「五月七日に、御所様の御陣へ、真田左衛門佐仕かかり候いて、御陣衆を追いちらし、討ち捕り申し候。御陣衆、三里ほどづつ逃げ候衆は、皆々生き残られ候、三度目に真田も討死にて候。真田日本一の兵、いにしえよりの物語にもこれなき由、惣別これのみ申すことに候」
(島津某・たぶん家久)

日本最強の大名の一つと言われる島津家に日本一の兵と称されている。

950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/09(木) 20:25:04.67 ID:2zdOeasM
でその「日本一の兵」だがwikiには

>島津忠恒(ただし、この戦いに島津氏は参加しておらず、伝聞から信繁の奮戦ぶりを推測して話した)
>「五月七日に、御所様の御陣へ、真田左衛門仕かかり候て、御陣衆追いちらし、討ち捕り申し候。
>御陣衆、三里ほどずつ逃げ候衆は、皆みな生き残られ候。三度目に真田も討死にて候。真田日本一の兵。
>古よりの物語にもこれなき由。徳川方、半分敗北。惣別これのみ申す事に候。」注[12]

>注[12] 薩藩旧記雑録(伊地知季安著、明治30年完成)に収録されるとするが、
薩摩藩士の得能通昭著(宝暦8年)島津久光写(天保13年)の島津編年史の『西藩野史』
(『西藩野史』鹿児島私立教育会 明治29年 国会図書館 近代デジタルライブラリ)では、
大坂の陣における真田の記述は一切なく、当然、島津家久の発言もない。

となっているわけで(真田信繁をディスる気持ちはない)




951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/09(木) 21:25:41.97 ID:gz1TSNYd
細川忠興の文章って後藤基次も賞賛してなかったっけ?

952 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/09(木) 21:40:57.78 ID:2jLWQZvi
幸村をあげるのはそんな強い奴に勝った徳川はさらにすげえってことにしたいだけ

953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/09(木) 21:46:11.35 ID:ayM7CWMo
>>952
まあそうにしても、何で「幸村」が選ばれたのかも謎なんだよなw
そもそも「幸村」って名前もどこから来たのか謎だが。

954 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/09(木) 21:46:53.45 ID:xE8G+nBm
そういう立場に選ばれたってこと自体が
一定以上の評価はあったことの証拠になるんでね

955 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/09(木) 21:49:38.16 ID:e8TeZ/K+
徳川ageの為とは言っても雑魚じゃ持ち上げてもかえって皮肉めいちゃうしな

956 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/09(木) 21:51:33.40 ID:g2ezj/r4
義経さんも判官贔屓の代表格だけど戦の天才であることは疑いないからな。

957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/09(木) 22:04:45.46 ID:gz1TSNYd
というか信繁は冬の陣の活躍を自ら大げさにアピールしてたみたい
どっかの研究本では後藤基次の部下が、出丸の戦いでは真田の他に
長宗我部も活躍したんだっていう証言をしてたと書かれていた

958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/09(木) 22:11:52.88 ID:RKCgMTMz
>>949
それ、実年齢(48,9)より若く見えたってことでは

959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/09(木) 22:14:21.30 ID:9yi8ay1P
岩見重太郎という人気豪傑となった橘武者さんよりはましだと思う

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/09(木) 22:16:45.99 ID:e8TeZ/K+
>>957
そりゃまぁ、真田信繁ここにあり!と天下にアピールして
華々しく活躍して後は討ち死にすりゃいいやって思ってるような状態だから
自分の活躍は大いにアピールするわな
そういう意味では信繁は後藤、長宗我部、明石、毛利といった
名だたる連中を凌ぐ名声を手に入れたんだから
情報戦で勝利したと言えなくも無い

961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/09(木) 22:20:06.34 ID:ayM7CWMo
まあ正直な所、上手く講和をして生き残りたかった豊臣家にとっては迷惑極まりない
存在でもあっただろうね。条件闘争の場を自分のオンステージにしちゃうんだものw

962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/09(木) 22:29:37.07 ID:gz1TSNYd
>>958
信繁の実年齢って実際はそのまんまみたいだよ
理由はそのままだと元服が遅すぎるという矛盾と
49という享年は講談がはやり始めてからの史料しか載ってない情報の事など

963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/09(木) 22:41:21.70 ID:G8q1lgcT
>>951
たしか真田だけじゃなく後藤や明石も賞賛している

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/09(木) 22:43:39.14 ID:FTokgxxo
>>953
十勇士からしておそらく山中幸盛(ゆきもり)からだろうと思われ。
やってることがどことなく似ているし。

965 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/09(木) 22:46:38.23 ID:seYMkW8B
細川忠興が後藤又兵衛を賞賛する理由って
NGMSへのあてつけの気がしないでもない

966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/09(木) 22:48:44.41 ID:gz1TSNYd
>>965
なるほど

967 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/09(木) 22:53:30.90 ID:VqAOPgdZ
死の直前に書いた幸村署名の書状の写しと
子孫の家でも記述は幸村であり信繁名が使われていないから幸村の本名は幸村
って真田幸村の実名は幸村だった スレで言ってた。

968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/09(木) 23:07:30.18 ID:seYMkW8B
>>949
細川忠興「古今これなき大手柄」
島津忠恒「日の本一の兵」
伊達政宗「子女はわしが引き取る」

あれ、この人たちって

969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/09(木) 23:08:56.18 ID:Ni9BpR7B
>>968
???「肝心な人がいない・・・おかしい・・・こんなことは許されない」

970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/09(木) 23:13:20.46 ID:UlLtdoWF
>>961
幾ら講和したくても相手が端からToyotomi delenda est.ちうて吹っかけて来てるから
それなりに暴れてアピールもせんと交渉のテーブルにもついてくれんだろうけどね

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/09(木) 23:16:08.71 ID:gz1TSNYd
>>967
あれは花印がないからそれ以前の問題

>>968
伊達家のは結構あやしげなんだよなぁ

972 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/09(木) 23:18:11.19 ID:RKCgMTMz
>>962
そういう説もあるのか。
で、特に反論したいとかではないんだけど単純に気になるのは
講談でわざわざ爺化させて何が嬉しいのか(人間50年的な演出?)
それと、1567年生まれの場合武田滅亡→真田スーパー綱渡り→そのまま人質
でぶっちゃけ捨て駒気味の次男の元服なんぞ放置されてた可能性とかw

973 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/09(木) 23:20:14.14 ID:2zdOeasM
>>969
出浦盛清「あなたからもらった脇差、真田家で評判だよ」

974 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/09(木) 23:22:56.73 ID:e8TeZ/K+
>>972
真面目な話、あの時期は急転直下の動乱期だから
元服が大いに遅れた可能性は十分あると思うが

975 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/09(木) 23:23:27.84 ID:gz1TSNYd
>>972
ぶっちゃけ好敵手とされている伊達政宗の年齢と合わせたものと思われる
大谷吉継や明智光秀と似たようなもの

976 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/09(木) 23:33:28.86 ID:e8TeZ/K+
>>968
三歳「真田マジパネェ!手紙に書くしかねぇだろ」
悪久「大御所の陣崩すとかマジかよ…。日本最強じゃね?すごくね?(まぁ俺は被害受けてねーし」
政宗「気に入った。うちに来て小十郎ファックしていいぞ!」

何かこんなノリな気がしてならない

977 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/09(木) 23:44:29.60 ID:PnVeyMfH
>>972
お市と同じようなもんだと思うよ

佐竹義宣「二人とも、この機会に仲直りしましょうよ。ね?」

2012年03月17日 22:35

338 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/03/17(土) 03:07:14.50 ID:YFD4c2fs
佐竹義宣が、伊達政宗上杉景勝島津忠恒らと共に徳川家家臣の屋敷での酒宴に参加した時のことである。
義宣はこの時、普段から仲が悪かった政宗と景勝を和解させる為に

「二人とも、この機会に仲直りしましょうよ。ね?」

と何度も言い聞かせた。

これに景勝は応じたが、政宗はといえば

「俺も別に構わんぞ。だが、もし貴殿が幕府に背くような事あらば、俺が直ちに粉砕してやるわ!」

と逆に景勝を挑発した。

「・・・・・・てめぇ」

善意を踏みにじられてしまった義宣は政宗のこの発言にブチギレてしまい、

「上等だよ!だったら、もしお前が幕府に背いた時には、俺か景勝のいずれかか先陣になって
 お前をぶっ潰してやんよ!」

と応酬した。その後、政宗は自身の後継者である忠宗が忠恒に刀を贈った話をきっかけに

「義宣の刀が見たい。」

と言い出したが、義宣は

「誰が見せるか。」

と頑として応じなかった。

「おいおい、お前は何をそこまで用心してんだよ?」

と政宗に問われると

「お前相手に、用心しない訳がないだろうが。」

と返したという。仲介役がケンカの当事者になってしまったお話である。
最後に、この三人の喧嘩をすぐ傍で見ていた忠恒の胸中は如何ばかりか・・・




339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/17(土) 03:31:25.29 ID:pEH00W7A
www

340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/17(土) 04:11:18.12 ID:r7ZtpCnm
さすが従兄弟、仲がいい

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/17(土) 04:44:19.56 ID:uNP/Qpy5
島津忠恒「従兄弟なら仲良くするべきだし、刀を御披露目して何か都合の悪い事などあるまいキリッ
あぁこんな時に七柱槍同期の直江君がいれば場が収まっただろうに…」

342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/17(土) 04:59:36.50 ID:afywaHqA
こんなに表面を取り繕うのが下手で武将として大丈夫なのかw

343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/17(土) 09:54:56.76 ID:McuEaZUB
なんとなく話がすすんでるけど景勝さんひとこともしゃべってないな

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/17(土) 10:07:51.64 ID:pspJNCZ6
代わりに怒ってあげた義宣はいい奴
政宗は馬鹿
忠恒は恐らく黒い

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/17(土) 10:34:11.64 ID:FUzLXt9Y
>>338
期待に違わぬ流れで安心した

346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/17(土) 11:03:14.68 ID:8tVuFdRW
>>338
これは…。

ホストの徳川家家臣は胃が痛かっただろうなw

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/17(土) 11:35:07.64 ID:fn8GZJRV
従兄弟でも義宣さんはどちらかというと政宗さんとは反りが合わないだろうしね

つか、喧嘩の仲裁ってよっぱど格が上とかじゃないとこんなことになるよね
酔っ払いの喧嘩も止めに入った人がボコボコにされてるのよく見るしw

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/17(土) 11:37:53.13 ID:evOgrSns
>>338
でもこの頃にはもう幕府の先陣は
譜代大名は井伊家、外様大名は藤堂家と決まってるんだよな

349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/17(土) 11:47:27.63 ID:TcCo+wg/
井伊藤堂は将軍の露払い役。徳川本隊の先陣な。
全体の先陣は近隣の大名が勤める物。(例、島原の乱)

350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/17(土) 11:50:21.46 ID:evOgrSns
成る程そうだよな

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/17(土) 13:46:09.14 ID:a5/BpXjG
秀忠が江戸城で政宗、景勝、義宣を招いて茶会を開いたら、政宗が関ヶ原の時の活躍を自慢して険悪な空気になったって話があるけど、
これ、秀忠が仲裁目的で開催した茶会だとしたら気の毒だな

352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/17(土) 14:23:05.37 ID:WFciijk8
景勝生存中だから秀忠が将軍時代で間違いはないな

353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/17(土) 14:52:43.90 ID:McuEaZUB
景勝さん無口だからいつも伊達さんが喧嘩ふっかけてんのかな

354 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/17(土) 15:05:10.63 ID:r7ZtpCnm
兼続「と、殿がおっしゃっております」

355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/17(土) 16:29:25.46 ID:8wkEdfSc
佐竹義宣ももう立派な徳川幕府配下の大名だな

356 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/17(土) 18:36:57.63 ID:q943JvhR
そもそも伊達と上杉以上に、伊達と佐竹は仲悪いだろ

357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/17(土) 23:07:17.55 ID:ehVTna+S
伊達さんは相馬佐竹上杉蒲生最上木村…敵大杉

358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/17(土) 23:13:54.77 ID:4VULFOJs
>>357
四面楚歌だなww

359 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/17(土) 23:47:28.93 ID:AYDJTTsS
そもそも義宣と景勝は仲が良くて、二人とも政宗とは仲が悪い
という関係なんだから佐竹上杉と伊達を秀忠が和解させようとした
って方がなんとなく納得できる

360 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/18(日) 10:51:06.53 ID:gjoJoBI7
上杉は上杉で、伊達の陣幕の一件があったりするしなあw

361 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/18(日) 20:53:08.82 ID:Yh2hzR8m
誰だよ、佐竹に仲介役頼んだのw

362 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/03/18(日) 21:06:07.50 ID:qD2nic9E
私です。

363 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/18(日) 21:35:54.68 ID:5qVzWQfa
>>361
当人たちでも、景勝か政宗に頼むよかまだ可能性はあるだろ、と思ったんだろう…

364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/18(日) 22:27:02.98 ID:mzZLnm0k
伊達が敵だらけなのは全部まーくんのせいだろw

365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/18(日) 22:49:35.23 ID:cEK7zCkv
周り全てに喧嘩売って敵にして
徳川に泣き付いたんだっけ

366 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/18(日) 23:00:29.10 ID:XkcCDWo5
東北の信長だな

367 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/18(日) 23:04:56.64 ID:SCH5DpQ9
東北の信長といえば八戸信長だろう

これを見た城攻め諸将は、驚愕した

2011年10月02日 22:00

161 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/02(日) 15:17:56.46 ID:dKp7WdtW
慶長4年(1599)3月、伏見島津邸において、島津忠恒が家老の伊集院忠棟を殺害した。国許でこの報を受けた
忠棟の子・忠真は自領の都城および勢力下の12城をもって蜂起。いわゆる庄内の乱が起こった。

忠恒は、忠真領の最前線にある山田城の攻略を島津中務大輔豊久らに命じ、6月23日、城攻めが開始された。

豊久軍は卯の刻(午前6時)から午の刻(午前12時)まで激しく攻め立てたが城方を崩せず、逆に戦意が
衰えたところに痛烈な反撃を食らい、あろうことか城方に軍旗を奪われてしまった。

「はっはっはっ、見よ!名将家久公の子、他国にも聞こえし島津中書とて、何ほどの事やあらん!」
城方は、奪った軍旗を城内に立てて晒し物にした。

これを見た城攻め諸将は、驚愕した。
「あれは…まさか?」「ば、バカな!」「豊久様の旗が城内に?!」「なんと…何という事じゃあ………」



「早や、豊久様が一番乗りを果たされたわ!」「さすがは豊久様じゃあああ!」
「者ども、後れをとるなーっ!」「ヒャッハー!豊久様に続けえええええ!」

激しく勘違いした諸将は奮起、先を争って城へ攻め入ると、一気に本丸まで駆け上がった。

豊久(………まぁ良か。)

その日の内に山田城を攻め落とした豊久軍は、主将の長崎休兵衛・副将の中村兵左衛門まで
討ち取る大功を立て、豊久には忠恒から感状と太刀が与えられた。(本藩人物誌)




162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/02(日) 15:21:59.25 ID:uHes0Hqa
こ、これは・・・日頃の行いのおかげってやつなのか?w

163 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/02(日) 16:39:49.50 ID:eGAkfVrt
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3133.html
これ思い出した

164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/02(日) 17:09:03.30 ID:qtrqLuxi
なんというポジティブシンキング

165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/02(日) 17:27:05.05 ID:pA0SKBKG
これはむしろ良い話なんじゃねwww

166 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/02(日) 18:58:53.82 ID:Mp2Ndoir
薩摩隼人たちのちょっと頭の悪い話








ちょっとではないがw

167 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/02(日) 19:24:06.80 ID:pUNnaBkx
豊久の、皆からの評価が良い話でもある…かな

168 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/02(日) 23:00:17.13 ID:UgOmrvZ8
これが殺魔か

169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/02(日) 23:21:49.83 ID:BAOI441A
大津城攻防戦の時もこんな展開なかったっけ

170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/02(日) 23:22:32.99 ID:BAOI441A
ってもう>>163で出てたね ごめん
九州勢はこんな展開ばかりなのか

171 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/02(日) 23:44:41.13 ID:mFNLsfLQ
関ヶ原必勝法思いついた

172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/03(月) 02:44:26.47 ID:DH+e49Xo
ドリフターズの豊久みたいのがいっぱいいるなww

173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/03(月) 14:18:02.24 ID:zADSqG1O
乃木と豊久なぜ差がついたのか…

174 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/10/03(月) 17:07:39.99 ID:Sg259wIJ
これだから島津は…
まともなのは義弘だけだな

175 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/03(月) 18:40:21.93 ID:kkOtqHJj
薩摩の者はみんな脳筋じゃのう

176 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/03(月) 18:43:30.14 ID:nkkWuIIH
>>173
旗を取られたのが薩摩隼人か、旗を取ったのが薩摩隼人かの違い

177 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/03(月) 19:02:20.72 ID:80WCHAnD
逃げるのに敵の真ん中通っていく鬼島津がまともと思えるのはなんかに毒されないかいw
・・・ところで宴会で一番デンジャラスなのはどこだろ?まーくんのとこなら面白ければマミらないとは思うけど
三才さんのとこはなんかおっかない気が



187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/04(火) 13:19:45.25 ID:igl6I+jS
>>177
市松さんのところに決まってるだろwww
間違いなく市松さんに酒が入るんだから

188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/04(火) 17:46:59.47 ID:31nrBJx/
市松さんが目上の人との酒席で酒乱になったはなしって聞かないけどあんのかな

189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/04(火) 17:54:08.45 ID:xq11bl7t
流石に目上と同席では自重しないと
死ぬ

190 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/04(火) 18:14:18.92 ID:iz8G2cpW
他家の使者相手に時々やらかすくらいかな、市松

玉川義則、大灯籠を

2011年08月07日 23:01

17 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/07(日) 12:10:31.89 ID:5E8nqrEV
島津忠恒の嘆願により死一等減じられ、八丈島へ流されることになった宇喜多秀家は、忠恒への謝礼として、
近臣の玉川伊予守義則を譲った。
備前中納言に仕えて上方で武芸百般を修め、馬術・弓術の名手である義則は、たちまち忠恒の寵臣となった。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2333.html
しかし血気に逸る島津家の若侍たちは、主君の近くに侍る上方武士に白い目を向けた。

ある時、菩提寺の福昌寺へ参拝した忠恒のお供をした義則は、同じくお供の若侍たちに絡まれた。
「山門の脇に、大きな石灯籠がござったな。あの灯籠を、持ち上げてみて下されや。」

さすがの義則も、これには難を示した。
「あの大灯籠を持ち上げるのは、なかなか容易ではござるまい。」
「ふん!上方育ちの、行跡柔和なることよ。」
「・・・そこまで言われては、やらざるを得ませんな。」

やむなく義則は、大灯籠に取り掛かった。「ぬおぉぉおお―――――――――――――――っ!!!」

“歯噛をなし持被候へば、冬の事にて候に、足の指の又より血朱になりてみえし”と薩藩旧伝集が記す
恐ろしい形相になりながら、義則は灯籠を持ち上げる事に成功し、安堵した。

「よ、良かった・・・本当に良かった・・・」
「・・・ほ、ほんに良かったのう!これで貴殿の面目も立ったわけじゃ。」

「わしが『良かった』と申したのは、その事ではない。おぬしらの事じゃ。

持ち損じたならば、恥じて我が身を処するのはもちろん、わしを挑発し、恥を見届けたおぬしらを
ただでは置かぬところであった。余計な血を見ず済んだゆえ、『良かった』と申したのよ。
向後このような試しは、互いのために無用に願いたい。」

若侍たちは深く悔い、その後、義則を白い目で見る者はいなくなったという、
泳いで参った人の旧臣、薩摩隼人に意地を見せた話。




18 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/07(日) 12:26:47.09 ID:Yaf95qM8
あやうく非常に悪い話になるところだったな

19 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/07(日) 13:24:33.84 ID:zd38BlLF
大陸に鼎を持とうとして腰を折った王だか皇帝がいたよな

20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/07(日) 15:20:48.83 ID:/OD7HNgu
つか悪久のおかげで秀さん助かったのか。いい奴じゃないか悪久
嫁とのあれこれでDQN扱いだが、実はああしても仕方ない事情があったと違うか

21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/07(日) 15:34:57.80 ID:Lk/DsDSX
施政者としてはいいんじゃないか
一部家中についてはアコギで近世化のやり方としては強引かもだけど、
領民を苦しめていたりはしていないんじゃ?

22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/07(日) 17:20:42.63 ID:KHi948p1
>>19
秦の武王だったっけ?
策士の張儀を毛嫌いしてたし、男らしいよね


23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/07(日) 18:41:37.00 ID:8hjGYwD0
単に骨折しただけじゃなくてそれが基で若死にして国が乱れちゃったからな
軽率の謗りは避けられん

24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/07(日) 18:44:09.58 ID:ATvjPugI
>>21
家久と細川忠興は一部をネタにして大げさにしてる

25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/07(日) 19:00:00.42 ID:rqE5heeK
悪さんは、季節外れに「これから茶を植えたいから茶の実を持ってこい」と言う無茶な命令に、侏儒ドンと
あだ名される薩摩の知恵者が「連れてきましたこの婆さんが、我が郷で一番の茶飲みです」ととんちで答えたら、
罰することなく済ませたりしてるしね
そもそも、季節外れの時期に茶の実を持ってこいと言うな、という突っ込みはしない方向でよろしく

26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/07(日) 21:29:35.40 ID:VVU32IOu
アニメの一休さんで将軍様が突然狩りをするから近隣の百姓に獲物を集めさせろと例によって
わがまま言いだして困った新右衛門さんがこれまた例によって一休さんに助けを求めたら
百姓たちをそれぞれ鎌とか鍬を持ってこさせて「これが彼らの『得物』です」と答えて
やりこめた話を思い出した。これも元ネタがあるんだろうなあ

島津忠恒の注文

2010年11月30日 00:00

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/28(日) 21:58:26 ID:klJ5C+WU
ある日、東郷重位は主君の島津忠恒から上意討ちを命じられた。が、忠恒は今回一つ注文をつけた。

「憎っくき彼奴めの死ぬところを、直に見てみたいのだ。オレは城の角櫓から見ているので、城門の前で
討ち取ってくれ。出来るか?」
「殿の仰せ、しかと承りました。どうぞ存分に御覧下さい。」

さっそく重位は、城門の前で目指す相手を待ち受けた。数刻後、相手が城門を出たと見るや、剣士は動いた。
「上意であるッ!チェストオオオ―――――!!!」

重位が相手の脇を抜けた、と見えた次の瞬間、相手は崩れ落ち、その頭は瓜のように真っ二つに割れた。

身なりを改める間もなく、重位は再び忠恒に呼ばれ、ねぎらいの言葉を受けた。
「重位、ようやった。それにしても、相も変わらぬ腕前よ。諸人に勝れたる仕留め方であったわ。」

「いやあ、拙者の示現流もまだまだ未熟にて、恥ずかしき次第にござる。使命を果たすには、首飛ばすだけで
良いものを、殿の上覧だからカッコつけようと欲心を起こし、あんな派手な事をやってしまいましたわい。」


東郷重位、生涯に十九度の上意討ちを果たしたという。
示現流開祖の豪剣ぶりを語るいい話…と言えなくもないが、悪久主従の思考がなんかアレなのでこっちに。




770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/28(日) 22:09:13 ID:7CzQdynq
忠常「東郷、たのむ!島津家のためにこやつを暗殺してくれ!」
東郷「分かった やってみよう」
忠常「おおっ!!」

771 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/28(日) 22:17:01 ID:YXhN5Zfo
上意討ちっていっても単なる私怨にしか思えないってのは、
悪久さんの普段の行いかね~

772 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/28(日) 22:35:11 ID:rNf5YOEl
不意打ちに何流も糞もあるまい
尋常に勝負されよ

773 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/28(日) 22:47:16 ID:yWasqKfi
悪久さんは気に食わない相手をプロに任せて自分は見物して喜んだ。
一方三斎様は気に食わない相手を自力で殺してその刀に風流な名前をつけて喜んだ。

不思議、三斎様のほうが清々しく感じる。
やってる事自体は変わらないのに。

774 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/28(日) 23:00:30 ID:hAN+X4cK
悪久もアレだけど、それに合わせて腰巾着で人殺しやってる東郷重位もかなりヤな奴にみえるな。

775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/28(日) 23:03:48 ID:JoJNoFHL
主君の命令だから仕方ないだろ
逆らったら自分が殺されるかもしれないし

776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/28(日) 23:10:28 ID:oNGi6zUD
悪や

純粋な悪や・・・

777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/28(日) 23:18:46 ID:2CNZHalu
>憎っくき彼奴めの死ぬところを、直に見てみたいのだ。



ほんとこの人はいい趣味してるよ

泗川の戦いの知られざる英雄

2010年10月01日 00:00

324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/30(木) 00:42:24 ID:NIFXpTbi
泗川の戦いの知られざる英雄
泗川の戦いにて島津軍は当初お得意の釣り野伏せりで明軍を誘いこむと
釘や鉄片を大砲でぶっ放したり留守火縄の簡易地雷で明軍を迎撃した
本土からの大量の資材があった為に出血サービスで作戦を実行する事ができた
しかし島津史上最大火力の釣り野伏せりは明軍に通用……しなかった!!
そもそも釣り野伏せりとは敵軍が恐慌しないと成功とは言えない計略
敵の指揮崩壊がなければ寡兵を分けて大軍に勝てる道理など無い
そう、今回はあまりに明軍が多すぎて中央まで指揮崩壊しなかったのだ
そして明軍のターン、圧倒的大軍にて島津軍を泗川倭城に押し込むと
火器の本家本元の面目躍如、戦域に大量の爆薬を投入してきた
大軍だけでも島津軍を圧殺出来るのに更に大量の爆薬による火計
迎え討つ島津軍は此れに応戦出来る術などなく泗川倭城は風前の灯火となった


325 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/09/30(木) 00:51:13 ID:NIFXpTbi
その時だった、明軍の火薬庫で大爆発がおこったのだ
陣僧の佐竹光明坊(※1)、若武者の瀬戸口弥七郎ら2名が明軍の火薬庫に特攻したのだ
特に瀬戸口弥七郎は明軍に斬られ射られるも爆薬壺付近に近づくと
自身にくくり着けた爆薬を引火させ自爆して果てた
明軍の爆薬庫はたちまち連鎖誘爆を起こし、軍は恐慌状態に陥った
皮肉にも大量に用意した爆薬が裏目に出てしまったのである
そして島津軍が指揮崩壊した勝機の瞬間を逃すはずがなく…
忠恒「ずいぶん待たせちまったな、俺のターンだ!(※2)」
こうして島津軍は泗川にて圧倒的寡兵による歴史的大勝を得たのだった
島津義弘は帰国すると彼らを島津家の守り神である狐に例え
若武者の瀬戸口弥七郎(享年19才)はその白糸縅の鎧より白狐の化身とし
陣僧の佐竹光明坊(生存)は赤糸縅の鎧より赤狐の化身として
稲荷神社に奉り歴代藩主はこれを氏神として信仰した
島津斉興公は京都のト部家に神階を請願までして正一位高麗稲荷大明神の神号を賜ったという

(※1 彼は軍師で別の人間が特攻した可能性あり)
(※2 この戦いの活躍で日本七柱槍の称号ゲット)




326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/30(木) 00:53:30 ID:hpCHniiC
自爆テロがいい話なのか・・・

327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/30(木) 01:07:39 ID:gQxUgFu8
特攻隊の基地は薩摩の知覧だったなぁ

328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/30(木) 01:26:01 ID:iWr6tVs3
圧倒的寡兵に笑ったwww

329 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/09/30(木) 01:36:27 ID:zP0xYW11
何という爆弾三勇士www
日本人のメンタリティってこの頃から変わってないのか

330 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/30(木) 02:03:13 ID:Ooq6UT6+
しっかし、撤退するためだけにとんでもないレベルの戦勝が必要になるというのが
悲しいところだ。誤った戦略の下ではどうにもならない事を示す好例の一つかも…

331 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/30(木) 02:32:51 ID:V/fDrrzE
瀬戸口さんは死んでも爆薬を放しませんでした。

332 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/09/30(木) 02:50:26 ID:cG5KsNkh
火薬庫爆破と言えば舩坂軍曹だろう
戦国じゃないけど

333 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/09/30(木) 06:42:53 ID:EI8RElwL
ここは俺に任せて…ってシチュは漢なら誰しも憧れるよな

334 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/30(木) 09:33:43 ID:qEJ3EqBM
「ここで俺が死ぬより生き残ったほうが全体のためだから代わりにお前死んで来い」っていうひとが好かれるはずもなく

335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/30(木) 09:36:53 ID:oWF3O8CM
天庵さんの事か…

336 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/30(木) 09:47:53 ID:Xuar6Sc5
脳内画像が石川賢版ゲッターのムサシ特攻のイメージしか浮かばない…

337 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/30(木) 10:15:53 ID:wL00lCxV
ふむ、つまりここ(軍神様相手の殿軍)は俺に任せてお前は宇喜多殿との酒宴に行け!といえばいいんだな

338 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/30(木) 10:17:20 ID:iWr6tVs3
天庵さんは、そこまで我欲は強くないでしょwww

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/30(木) 10:33:02 ID:wL00lCxV
   /菅\
   (;゚Д゚)   <殿ッ!!ここは篭城です、引いて守れば確実に勝てます!!
  (((φφ))    あ、あれなぜ、進撃命令が!?
   [ ̄ ̄]  ガチャガチャ

         / ̄ ̄ ̄\
       /  ─天 ─ \
      / -= =- -= =- \
      |::    (__人__)    |  全軍進撃、野戦にて憎き三楽めを討ち取るのだ
      \:::    ゙⌒"    /
      /;;.          `ヽ.

340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/30(木) 10:40:40 ID:g3zyRmCv
天庵様は天然だから、討ち死にした部下達も恨んでないよ










たぶん

341 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/09/30(木) 13:03:23 ID:yyWXZGjT
佐藤家能
山田祐家
田中秀郷
鈴木師家


342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/30(木) 15:10:37 ID:SuBY0d5m
>>325
さすが忠恒さん、他人の犠牲を無駄にはしない男やでぇ……

343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/30(木) 20:13:45 ID:PqmzzJwF
>>340
菅エモンは本人はともかく息子達は?