fc2ブログ

島津義久配下の明人医師・許三官について

2022年10月19日 18:45

許三官   
454 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/10/18(火) 17:32:30.84 ID:FCT13yXf
島津義久配下の明人医師・許三官は、朝鮮の役の計画を明へ通報した話で有名ですけれども
日本の医師と共に徳川家康を診察したことがあったんですな


wikipedia許儀後
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%B1%E5%84%80%E5%BE%8C
>義久と共に秀吉へ謁見した際に、秀吉は巨大な鍋を鋳造させ許を煮殺そうとした。しかし、
>徳川家康が秀吉を宥めたことで命拾いし、許はそのときの返礼として、家康が病になった際に
>薬を調剤して恩を返している。


まとめのこちら、後に島津義弘が危篤の際には徳川家(秀忠)から、曲直瀬門下の名医が診察に下向してますね
徳川家の医官は、秀吉派遣の医師たちと顔ぶれ・人脈かぶってるはずですが

「寿徳院玄由の閲歴について」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/?q=%E6%9B%B2%E7%9B%B4%E7%80%AC%E7%8E%84%E7%94%B1




458 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/10/20(木) 13:08:58.36 ID:7Ngem8q6
>>454
まとめのこちらからすると、皇室・足利将軍家の侍医・医療関係者の人脈を秀吉が利用し、それを徳川も踏襲したということですかね

氏郷の所労
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13451.html
スポンサーサイト



浜田経重の話

2022年05月08日 16:59

173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/08(日) 00:48:29.51 ID:xEsd93HH
薩摩藩「本藩人物志」「薩州旧伝集」から>>170の浜田経重の話

「本藩人物志」の浜田民部左衛門経重入道栄臨の記述
村田越前守経定(村田銃の開発者、村田経芳の祖先だろうか?)の附衆であったが軍功抜群のゆえ、竜伯公(島津義久)が鹿児島に召された。
秀吉公が九州に出陣された時は台聴に達し、お目見えが許され、御手槍を下賜された。
(原注:金房正次(政次?)作で一尺二寸。子孫に伝来されている)
知行五百石を拝領するよつ仰せつかったが、一年で竜伯公に返上した。
慶長十六年の竜伯公御逝去の時には殉死した十五人の一人となった。
辞世の句
二つなき、命を君に奉る こころのうちは、澄める月かな
もののふの取り伝へたる梓弓 君にひかるる、後の世までも

村田越前守の配下の時は城攻めの際、敵中や城中に忍び行って武功をあげた。
貴久公、義久公の御代まで出陣し、ことに忍びの武功があった。

174 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/08(日) 00:51:23.78 ID:xEsd93HH
「薩州旧伝集」の浜田経重の話
浜田民部左衛門は吉野を通った時、猪に出くわしたので木に登って通り過ぎるのを待った。
そこへ二才衆が通りかかって猪を取り押さえ
「民部左衛門殿ほどの方がなぜそのような卑怯の真似をなさるのですか?」と笑った。
民部左衛門「この身は御用のためにあるので、猪などを取り押さえる際に怪我をしては残念ですからな」
と答えたという。

ある人が浜田民部左衛門の刀を拝見したいと言ってきたので差し出したところ、抜こうとしたが抜けなかった。
民部左衛門が自分で抜いてみると赤錆だらけだったので
ある人「これではいざという時役に立ちますまい」
と笑ったところ
民部左衛門「そうですね。しかし戦というものは急には起きないものです。数十日の間がありますのでそのうちに研ぎましょう。
それに武士というものは喧嘩などしないものです。万一刀が必要なことがあれば、わたしは相手を鞘のまま叩き殺しましょう。
あなたは研いでいた方がいいでしょうが」
と答えたため、相手は閉口してしまったという。



175 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/08(日) 12:49:48.35 ID:bHdxuNpE
村田銃といえばゴールデンカムイでマタギが使ってたっけ

176 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/08(日) 20:01:35.59 ID:MyNSl0Sh
>>174
あんまり薩摩の人っぽくない性格してらっしゃる

「大将心持の事 附・星を祈る事」

2022年04月22日 17:29

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/22(金) 12:27:30.84 ID:BLpusYEu
大友興廃記」より「大将心持の事 附・星を祈る事」

薩摩の太守・島津義久公の家臣、河田大膳入道休叱(入道名が牛室である川田義朗?)は高名な軍法者であり、神変奇特のことが多かった。
たとえば力攻めしても落とせないような城郭を、祈祷により天から火を下すことで焼却するような神変があった。
まことに飛ぶ鳥を落とすほどの奇特をなし、かれが行くところ大勝を得ないことがなかった。
さるほどに、島津義久公は天正十四年(1586年)丙戌の冬、諸勢を豊後に発向すべきか運を占えと休叱に申し付けた。
休叱「運ははかるまでもござなく候。
豊後両大将の星は、それがし存知のことなれば、大友宗麟子息義統の星を祭りもうすべく候。
星の奇瑞、次第になされよろしからん」と申す。
さて宗麟公の星は禄存星、義統の星は破軍星に当たっていたため、休叱は両星をそれぞれ祈祷したところ、忽然として奇特があった。
この星回りであれば、運の甲は乙となり、島津が利を失うことはあるまい、と休叱は喜悦の眉を開いた。
一方、豊後においても津野隈越前守(角隈石宗と思われるがすでに耳川の戦いで戦死しているはず)という軍法者があって、宗麟公父子の星が怪しいのを見咎め
越前守「かくのごとくは敵のためになすところの災いか、または国中の大乱か、常のことにはあらず。我かく見る上は、念じ返さん」
と思い、宗麟公に言上申したが御同心なく、
宗麟公「運は天にあり」とただ天運に任せよとの御意であった。
孔子曰く「祭ること在(いま)すが如くし、神を祭ること神在すが如くす。」
宗麟公のお言葉はよろしくないと人々は言い合った。

島津の軍師が星を祈祷して、大友宗麟・義統親子の運を転じたという話



「大友興廃記」より高城川の戦い(耳川の戦い)

2022年02月14日 16:11

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/14(月) 01:22:41.38 ID:pM3JFnrJ
「大友興廃記」より高城川の戦い(耳川の戦い)

(大友の軍配者・角隈石宗が「彗星が出て不吉だから、四十九の厄年だから、大友氏と島津氏は両家とも家祖が頼朝の息子で御連枝だから」
といろいろ理由をつけて島津との戦をやめるよう、大友宗麟に諫言したが、結局は日向に繰り出すこととなり、十月十一日に大友軍が高城を包囲し戦闘が始まった)

互いに日夜鉄砲を打ち合って日を過ごしていたところ、島津義久公は鹿児島で十一月七日の夜に
「うつ敵は 龍田の川の もみじかな」という霊夢を見た。
義久「これ、天のあたえたまう所なり、軍は大利あるべし」と悦び、大隅・薩摩から十五から六十の土民・百姓まで戦に駆り出した。
四万の兵で十一月十一日に高城まで押出し、佐渡原に義久公本陣をおいた。
この時、白狐が義久公の御旗本より敵方へ向かったため、薩州の家の吉兆であるとみなした。
(この後、薩摩の布陣の説明が延々と続く)

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/14(月) 01:25:21.38 ID:pM3JFnrJ
大友軍の先陣、佐伯宗天(惟教)から御本陣に薩摩勢の援軍について注進をしたのち
宗天は「御旗本の到来を待つべし」と主張。
一方、もう一人の先陣大将・田北鎮周は「御本陣への注進には及ばず、ぜひ戦をせん」と主張。
宗天「大軍と大軍の合戦においてはさようのおもむきにては利を得ざるものなり。
まず敵の手立てを見計らい、味方の人数配置し種々の武略計略をもちいて勝ちをおさむるものなり」
また軍配者・石宗も「多勢を使うは大事のことなり。早速敵陣にかかりては勝利あるまじ。
その仔細は陣の形を見るに、この方よりかからんを待つらしくおぼゆ。
敵色を見計らい、この方にても策立てあるべし。」と宗天に同意。
田北鎮周「各々は申さるるになされよ。この鎮周においては目の前に見ゆる敵を、さようにのびのび見んような分別は一向に同心ならず。
明朝、鎮周先駆け討ち死にして見せん」とわが陣へ帰る。
石宗「鎮周、日ごろの覚悟よきとも、軍法に背く分別にてはよきことあるまじ。
人数のくばり、軍の手だてもいたずらなり。豊後にて申し上げたがごとく、当年大軍を起こすこと不吉なり。」
宗天「先陣を仰せつけられ、鎮周にわかに気を負い、無分別となる。
軍に利を失い、日ごろのほまれも水になるべし」と悔やむ。
諸軍将は鎮周に同心し、宗天の意見に従うものはわずかであった。これは不吉の相であった。
臼杵惣左衛門、柴田何左衛門、斎藤進士兵衛、この三人一同は、かくなる上はと
「鎮周、かくのごとき分別なれば、明朝討ち死にあるべし。諸軍勢も利を非に曲げてかかるゆえ、利あるまじ。
この食い違いを推し量るに、宗麟公の果報も末なり。御運かたむく端なるべし。
明日死ぬべき命ならば諸郡に先立ちて討ち死にせん」
ということで、十一月十一日申の刻のおわりに三人かけだして討ち死にした。

宗天は相備えを三段にしようと佐伯掃部介を使者として鎮周に使いを出したが、掃部介が鎮周の陣に行ってみると、かがり火をきかせて
大魚を焼き、明朝討死しようと酒宴をしていたため、掃部介は宗天の伝言を伝えず帰還した。
掃部介から鎮周の覚悟のほどを聞いた宗天は
「今度、鎮周よこしまなる分別にて討ち死にせんことのみ思い軍に勝つべきてだてなし。まばらけの軍にては利を失わん」と仰せになり、
御子息の惟真、鎮忠も「おおせのごとく、この度の軍はみな談合も不合なるものばかりにてよきことあるまじ」と賛同した。
とはいえ鎮周だけに戦をさせるわけにもいかないと、宗天軍も明朝の出陣を決意した。

346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/14(月) 01:30:16.85 ID:pM3JFnrJ
翌、十二日の卯の刻の終わりに鎮周は田北勢を率い、宗天も陣を三段構えにした。
鎮周は薩州の先手・本郷(北郷?)の軍を突き、敵陣が魚鱗であるとみた宗天の勢は偃月に陣を変え、本郷の六千余の陣を打ち破り、本郷(時久と久盛?)を討ち取った。
味方後陣の勢も続けてかかり、敵勢を討ち取り、大利を得、敵に敗軍させ、財部までおいこみ、川辺に陣取ったため、高城のおさえも豊後勢の若武者も先陣に加わろうとかかっていった。
その時、敵はもとより鳥雲の陣を奥義としていたため、島津右馬頭(以久)が川上からより横槍を入れ、また城からは山田新助(有信)を侍大将として城中の人数を出してきて、
義久公も佐土原より旗本をよせてきて、豊後勢の陣の道を取り去った。
一方には大沼、または広い池があり、敵は地理案内のため、豊後勢を沼や池に追い込んだ。
こうして豊後勢は討たれて利を失い、宗天父子三人は戦死、鎮周も討死に、田北勢の武士も過半が討たれた。
宗天・鎮周が討たれたため、薩州が大利を得た。この戦いで敵味方六万六千余が討ち死にした。
宗麟公の御旗本から卯の刻に「辰の刻に御本陣をよせる」と使者がきたが、鎮周の型破りな無分別のために豊後勢はこのようになった。
これを議すると、宗天・鎮周がこの度、先陣の両大将をたまわり、股肱の臣として命を全うすべきでありながら、鎮周の無分別のために利を失ったことは、天命だったのだろう
十一月七日の夜、義久公の霊夢に出た
「うつ敵は 龍田の川の もみじかな」というお告げのごとく、豊後勢は池川にて大勢討ち死にし、天より勝利を義久公に授けたのであろう

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/14(月) 01:35:28.00 ID:pM3JFnrJ
なおこの後「宗天の人数 戦死の侍」の条があり、

佐伯宗天は平生、家臣に対しても礼をもって接していたことご書かれており
主君とともに敵に対して一歩も引かずに討ち死した家臣
百二十人の名前が数ページにわたって記されている。

佐伯宗天(惟教)と息子の惟真・鎮忠が戦死したため
豊後佐伯氏の家督は惟真の息子の惟定が継ぐことになる
↓この前出た話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13371.html
豊後の佐伯太郎惟定は、驍勇智謀の将であった



六家老はこの様子を見て

2022年01月16日 16:45

959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/16(日) 15:09:55.05 ID:0r6Ad8VC
豊臣秀吉は島津家の不逞不義を怒り、島津征伐を行った。島津修理太夫義久は敗れて降伏を請い、秀吉は
これを許した。

義久並びに島津家の六家老は皆剃髪し、寸刀も帯びずに来謁した。秀吉は諸大名を左右に列し、自身は
中正に床几を置いて腰を掛けて謁を受けた。彼はこのように声をかけた

「天子を軽侮するの罪、自己に驕り恣なるの咎、氏族を夷滅せんと欲すれども、刑戮を降伏に加えるに
忍びない。故にこれを宥す上は、今より旧悪を棄て本領を安堵する。その詞の印に両刀を与えるべし。」

と。自身が帯びていた長刀短刀を外し、刀の柄の方を義久に取らせた。六家老はこの様子を見て、
秀吉の大勇広量に驚嘆したという。

志士清談

秀吉が臣従してきた相手に自分の両刀を持たせたというのは、伊達政宗の話が有名ですが、
島津相手にも似たような話があったのですね。



960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/16(日) 15:32:39.15 ID:6ofPMtyB
戦国無双2Empiresのイベントでもあったっけ
秀吉「義久は新参でまだ不案内じゃろ?わし直々に案内してやろうぞ
んじゃ、わしの刀を持ってついて参れ」
島津義久「味方について日の浅い私に刀を預け、丸腰で、私に背を向けるとは…
斬れるならば斬れということか、全面的に信用しているということか、いずれにせよ、秀吉の将器…大きい」
(政宗も名前を変えただけのイベントあり)

薩摩川内市の泰平寺公園の島津義久像が秀吉に降伏している場面なのは少しかわいそうではある

961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/16(日) 15:55:29.66 ID:z0WZzppy
ドリフターズのせいで空気読まずに襲いかかる島津を想像してしまうw

仁愛を以て衆を率いるに若かず

2021年10月20日 18:00

703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/20(水) 17:08:03.84 ID:OZ7buXZc
ある時、島津忠恒公より、父・義弘公へ申し上げられた。

「当国の諸士は我儘であり、触れ渡した事であっても間々背いてしまいます。
最近、私は上方に上った折に、他国の風を聞き申した所に、福島左衛門大夫(正則)などは
背く者には死罪を用いている故に、何事を申し渡しても家中の皆々畏まって受け入れるそうです。
当国も見せしめとして二、三人も成敗申し付けてはいかがでしょうか。」
そのように御相談された。すると義弘公の御返答に

「尤もな事を申される。ではあるが、私は悪しき者を見出すほどの横目を持っていないので、
御身もよくよく気をつけて、そういう人物を見出すように。私も気をつけて見出すようにしよう。

さてまた、福島左衛門大夫の事を申されたが、彼はきっと一代にて家が断絶するだろう。
諸人に死罪を当てて恐れさせるよりも、先ず我が身の行いを正しくし、仁愛を以て衆を率いるに若かず。」
との御意であった。

軍神島津義弘公



705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/21(木) 22:12:23.94 ID:OldyoVL2
>>703
父親の忠言などどこ吹く風だった忠恒の悪い話かな?

薩摩藩「本藩人物誌」より長寿院盛淳

2021年10月07日 16:23

649 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/06(水) 19:22:36.43 ID:yBNGTRH+
薩摩藩「本藩人物誌」より長寿院盛淳

もともと畠山氏であったが幼少より出家し根来山に8年、高野山の木食上人に学ぶこと3年で薩摩に帰国。龍伯公(義久)より家老を命じられた。
上京した龍伯公が泰平寺に御家人七人をお供にして向かったところ、京勢が道を遮り島津勢を嘲笑した。
このとき盛淳は刀を抜き、眼を怒らせて叱責したところ、京勢は恐れをなして島津勢に対して道を開けた。
上方騒乱の際、大垣に着陣したところ惟新公(義弘)は手を取って大いに喜んだ。石田三成も着陣祝いとして金の軍配を贈ってきた。
関ヶ原合戦では「万一の殿の御大事に備えて羽織をいただきたい」と惟新公の羽織を拝領し出陣。
負け戦となったため「殿様は何処にいらっしゃる?」と家来どもに聞いたところ
「すでに遠くへ御退去されました」と家来が答えたため満足し、刀を抜き、拝領の羽織と金の軍配を敵方に見せつけ、
「島津兵庫頭(義弘)、死狂いなり!」と名乗りを上げ、大勢の敵に斬りかかっていき、敵方の槍数本に貫かれて死んだ。

「明赫記」菱刈叛逆馬越城落城の事

2021年09月25日 15:54

580 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/25(土) 14:50:19.98 ID:DzAydl/y
明赫記」菱刈叛逆馬越城落城の事

菱刈氏はもともと島津家臣で、球磨方との戦功により横川の地を賜ったが、増長し、島津を離反し球磨方についた。
義久公は菱刈方の馬越城を攻略するにあたって、数万騎を率い横川を押し通った。
これを見た菱刈方がいそいで味方の伊東・相良に連絡し、横川方の防備を強くした。
兵法に「虎の洞穴では東を打ってから西へ行け」とあるのを我が事とは知らない愚かさよ。
島津軍はたちまち道を変えて般若寺・構子木越の方面に発し、永禄十一年二十四日の早天に馬越しろに押し寄せ、鬨の声をあげて我先に切岸に攻め上った。
塀際にて先手の軍勢が大勢手負や死者となったが忠平公(義弘)が攻め上り、島津方は我も我もと攻め戦い、詰城の井手籠父子三人の首を上げ勝ち鬨を上げた。
菱刈方は、横川・湯尾方面は薩摩口のため厳重に警戒をしていたが、般若寺・構子木方面は険しいため、こちらから攻めてくるとはまったく予想外であった。
馬越一城が陥落したことで湯尾、本城、横川、曽木、羽月、山野、平泉、青木、一山の城はその夜ことごとく陥落した。
それでも菱刈氏は降伏せず大口城に籠り球磨方の援軍を待った。
(「惟新公御記」によれば馬越城攻めに当たって無数の松明の灯りが出現したため、
貴久公・義久公は「これは当家が信仰している稲荷大明神の奇火であり瑞兆である」として鬨の声をあげて攻め込んだという)

関連
「明赫記」続き


伊地知周防守重興について

2021年09月24日 16:59

62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/23(木) 21:41:32.17 ID:Sox3FW2z
薩摩藩の「本藩人物誌」より伊地知周防守重興について

永禄年間では肝付兼続に与党し貴久公に敵対していたが天正二年に先非を悔い大隅五箇所を進上し剃髪して降参。
その後還俗して義久公が諏方社後参詣の時には騎馬にて跡に付き従い、大友との戦の際にも従軍した。
天正八年二月十三日卒。

付記
重興は豊後より召し出した女を妾としていたが、家中の者と蜜通したため、その女を櫃(ひつ)に入れ、蛇(くちなわ)を多く入れ、垂水の池につけて殺した。
家臣の柳田某が池の岸から櫃を竹の棒で押し出したそうだ。
その恨みにより強く祟ったため、御前と敬称をつけ、赤明神という名前で氏神として祀ることとなった。
右の柳田某も禿げてしまったそうだ。



「薩琉軍記」群、について

2021年05月19日 16:05

201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/19(水) 14:57:09.20 ID:JDqvmj6u
薩摩の琉球侵攻を描いた軍記物として「薩琉軍記」という一大ジャンル的がある
内容はというと、主人公で軍師の新納武蔵守一氏(新納忠元がモデル)や武蔵守と軍内で対立する佐野帯刀はじめ、
架空人物ばかりで史実とはかけ離れた話ばかりだが
(中には真田幸村が戦死した新納武蔵守に代わって琉球を征服する「薩州内乱記」というものまである)
薩琉軍記」群の一つ、「琉球静謐記」のラストは少し変わっているので紹介する。

琉球征伐後、龍伯公(※琉球征伐の時期なら忠恒のはずだが「琉球静謐記」では龍伯を顕彰しているため)が論功行賞を行ったところ
「朝鮮征伐の時は万死に一生の苦労をしても褒美を得なかったのに、今回の琉球征伐では国内巡視程度の労力で子孫への宝を得ることになった」
と薩摩勢は喜んだ。(軍記内ではけっこう苦戦していた)
これが江戸まで聞こえ、琉球は武を備えていないと評判となった。
琉球国王が江戸に参勤した時、松平伊豆守が国王に尋ねたことには
「なぜ琉球国は戦の方法を知らないのか?兵法の書はないのか?」
琉球国王「我が国ではむかしより戦争なし。
親が死ねば子供が、兄が死ねば弟が継いできたため、跡目争いなどなかった。ゆえに戦に詳しくないのだ」
これを聞いた伊豆守は顔を赤くし退出した。
このことが将軍の耳に入り、誠に優美であるとおぼしめしたため、
それ以来琉球国王を御老中列の次に座し、十万石以上の大名の格として尊重した。

武より文を尊重する時代に入ったためか、知恵伊豆を持ってきて武力発動を戒めるオチが付け加えられたようだ



島津龍伯と、家康公は知人に成りたいと

2021年04月09日 19:05

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/09(金) 16:28:12.47 ID:OUsGcfDn
慶長四年の冬、島津龍伯(義久)と、家康公は知人に成りたいと思し召されていたが、その頃は
大名附合というものがなく、法度で決まっていたわけではないが、自ずから通法であった。

江戸の御扶持人に流竿という目薬師があった。彼は元々薩摩の者であり、お召になってこの流竿に
お尋ねに成られた

「龍伯とは知人であるか。」
「未だ一礼を申したこともありません。」
「伊集院幸侃(忠棟)といって、島津の家老大名が有る。これは知人か。」
「知人であります。」
「では使いに参れ」

そう仰せ付けられ、樽に白鳥、小袖を添えて遣わした。

それより直ぐに、龍伯も御礼に参り、進物として無量(無量寿経カ)十巻、朝鮮馬一疋(ブチ)。
家康公は路地の外まで迎えに出て、御同道して数寄屋へ御連れ立ち、半時(約一時間)ばかり
お話された。菓子も薄茶も出ず、御家中衆、小姓すら御次に参らせなかった。
龍伯が帰る時も又、家康公は路地の外まで送られた。初めての御対面であったが、進物の披露も無かった。

龍伯は祐乗坊と申す薬師を御門まで同道していた。家康公が龍伯を迎えに出られた時、この祐乗坊も
御覧になったが、兎角の御意も無かったため、門外より祐乗坊は帰った、

龍伯が進上した馬は島津駮と言って御秘蔵され、関ヶ原へも召され、駿府までも、十年余召されていた。

慶長年中卜齋記



島津龍伯の弟

2020年08月26日 18:08

297 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/26(水) 11:39:41.61 ID:c/kOnlNb
慶長十五年の六月頃、丹波国亀山の普請中に、薩州島津龍伯(義久)の弟が丹波国に従い、
そこで煩い付き、伏見に着いたところで病死した。

これは去る庚子の年、美濃国関ヶ原合戦の時、兄の兵庫(義弘)退散の時、負傷し馬も離れ、
歩いての進退も叶わず、死人の上に倒れ伏せた所、奇特の夢想があり、かの夢に云わく
『これより東へ下り、木食(穀絶ちの修行僧)と成り年月を送れ』とのお告げであった。

そうして稀有にして命を全うして関東へ下り、夢想の如く木食となって十ヶ年を経て、去年の春
薩摩に帰国したのであるが、見知った者も無く、これまでの経緯を人に語っても、彼は関ヶ原の
合戦で討ち死にしたと云われており、なかなか思いもよらぬ事であったので、これを本気にする者も
なかった。しかしよくよくその様体を見るに、似ている所もあったので、還俗させて見た所、
紛れもなくその人物であった。

この事は龍伯、并びに又八(島津忠恒)に申し届き、対面して往時を語り落涙した。
さて所領を遣わしそこへ居住した所、今度の不慮の煩いで死去したのだという。

当代記

この「弟」が誰に当たるのかはよくわかりませんでした



「スッミッ」

2020年02月24日 15:56

於平   
684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/24(月) 02:30:40.12 ID:JOhHi9yw
「スッミッ」
島津義久の長女お平様(於平)は島津義虎に嫁ぎましたが息子が秀吉の怒りを買いお家断絶となりました。
その後義久の元に帰り、お膝元の上井於御屋敷で暮らすことになります。
そのお屋敷から海までの道は「スッミッ」と呼ばれていて由縁はお平様がお潮を汲みに通ってた道だと伝わっています。
出展 霧島市教育委員会がお墓近くにたてたパネル

パネルを見に行った時近所に住む方にお話しを聞く機会がありまして伺った所、お平様本人が飼っていた魚の為に
侍女と一緒に自身で汲みに行っていたというのが伝わっているそうです。

嫡男死んでお家断絶している状態ながらも意外と元気そうに暮らしていたのでこちらへ

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/24(月) 02:56:43.60 ID:JOhHi9yw
於平様自身は1603年52歳で没していますが、よく考えれば長男以外の子供は元気に生きていて、、
嫡男も朝鮮出兵サボタージュの理由は独立して大名として扱うよう直訴したことが却下されたことなので
取り潰し無くても伊集院家みたいにその後粛清される可能性も有った事考えると割と幸せな部類だったかもしれません。
お子さんお孫さん寿命短かったりトラブルに巻き込まれたりしがちなので波乱万丈な血筋ですね



毛利の大阪退城も島津の臣従も

2019年12月13日 16:59

409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/13(金) 11:27:07.05 ID:PSwBmWQk
関ヶ原の戦いの後、安芸の毛利(輝元)は大阪に居たのだが、吉川(広家)と申す家老が
太夫殿(福島正則)に徳川家康公と講和のための扱いを成して欲しいと申してきたため、家康公に
その事を申し上げた所、「そういう事であれば扱いをされるように」との事で、吉川と講和の条件を
協議した所、「周防長門の二ヶ国を下される形で扱いを成して頂きたい。」とこ申すに付き、この旨を
家康公に申し上げた所、直ぐに二ヶ国下されることに同意された。
この時太夫殿は

「扱いが成った後から二ヶ国を下される事を違われれば、私が表裏者に成ってしまいます。
ですのでそうお考えの場合は今より私が広島への先手を仕り、毛利を退治いたします。」

との旨を申したため、二ヶ国は相違なく遣わされ、扱いが成った。これにて毛利は周防長門二ヶ国を
下され大阪を明け渡し長門へと参った。

また島津兵庫(義弘)殿からも、「私も太夫殿が扱いをして頂ければ家康公に従いたいと思います。」
と望んできたため、太夫殿は
「申し分が有れば承り、その上で扱いを入れますので、その時は急ぎ畿内に上って下さい。」と、
使いの家老にしっかりと申し遣わした所、島津殿は望みとして「天下普請を免除して下さる形で
扱いを成して頂きたい。」と頼み入り、この事を太夫殿より家康公に申し上げた所、
「確かに遠国の者故、天下普請は免除しよう。」と申されたため、扱いが成り島津殿は御礼に上洛した。
なお、これにより現在も島津殿は天下普請を致されないのだという。

太夫殿は安芸備後の二ヶ国を家康公より遣わされ、五十万石の御役儀を勤めた。

(福島太夫殿御事)

毛利の大阪退城も島津の臣従も福島正則のお陰だった、という内容。



410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/13(金) 12:15:01.35 ID:syHFqi/1
天下普請を免除されたが美濃の堤防や駿河の堤防はやらされたのか。

411 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/14(土) 09:58:28.03 ID:qOQsaKRJ
>>410
美濃の堤防の話はちょっと悪い方に上がってたっけ?
幕府黒すぎだよな

412 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/15(日) 23:59:18.76 ID:yX6xKPHX
薩摩は薩摩で真っ黒だけどね

413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/16(月) 00:39:26.58 ID:YZiNpUgO
>>412
薩摩の琉球・奄美支配はなぁ…

414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/16(月) 01:07:45.88 ID:5BFPRxRK
かといって琉球の元々の統治が良かったかといえば
結構なアレなのがなぁ…

415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/16(月) 21:41:32.62 ID:2dd4nNln
>>412
確かに…

416 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/16(月) 22:02:38.12 ID:54PzpnWo
>>412
黒酢に黒豚か

今度織田事、依難遁天命、令自滅候

2019年06月16日 17:23

171 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/16(日) 01:45:44.25 ID:kYm8Gowg
足利義昭島津義久ノ物ヲ贈レルヲ謝シ、近ク京都ニ復帰セントスルヲ以テ、更ニ義久ノ助力ヲ請ウ、

『薩藩旧記雑録』

今度の織田の事は、天命を逃れた難により自滅せしめたものである。それにつき、残る輩が帰洛する
ことを切々と申すので示し合わせ、きっと入洛するものである。この節にとりわけての馳走は喜悦の
ことであろう。よって太刀1腰と黄金10両が到来したことには喜び入る。なお、昭光(注釈:真木
島)と明秀(注釈:一色)が詳細を申すものである。

(今度織田事、依難遁天命、令自滅候、就夫相残輩帰洛儀、切々申条示合、急度可入洛候、此節別而
馳走可悦喜、仍太刀一腰、黄金拾両到来喜入候、猶昭光、明秀可申候也、)

     天正10年(注釈:朱書き)

         11月2日        (花押)(注釈:足利義昭


           嶋津修理大夫とのへ(島津義久

(注釈:義昭が毛利輝元を頼って京都に帰ろうとして果たせず、輝元をもって秀吉に説かせたことは
10月21日の条に見える)

――『大日本史料』



薩摩の王の紋章は、我が十字架と同形の十字

2019年06月08日 10:16

995 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/08(土) 09:56:48.79 ID:duvn8OWm
埋め代わりに

薩摩の王(島津氏)の紋章は、我が十字架と同形の十字であるが、彼らが我等の主キリストを知り、
キリストの紋章としてこれを崇拝するに至る前兆であろう。ただしこの国においては坊主達は大いなる
勢力を有し、下(九州)の何れの地方よりも跋扈しており、悪魔はその策略と戦争を以て大いに
我等に反対しているが、デウスと戦わんとする者の努力は無益に終わるであろう。

(1581年2月15日(天正十年一月二十三日)付、パードレ・ガスパル・クエリヨ書簡)

なお



998 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/08(土) 21:12:00.20 ID:22j3Cruj
>>995
ちっとは成果あったんだろうか

999 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/06/08(土) 21:56:20.95 ID:oWa7vQg1
>>998
薩摩だと隠れ念仏は有っても、隠れキリシタンはいなかったわけじゃ無いだろうけど、あまり聞かないからそんなに成果は無かったんじゃないですかね?

敗走した後、残された兵卒はどうなったか?

2017年12月22日 17:41

417 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/21(木) 21:58:50.88 ID:JNQX2C1W
天正十五年正月十九日、島津修理大夫義久は戸次川合戦についての弁明および
秀吉への恭順の意を示す書状を豊臣秀長および石田三成に寄せた

先年冬、互いに使者を指し登せ友誼を定めようとしたところに
かくの如くも首尾(戸次川合戦)となってしまい
急使を得て追って飛脚を申し付けいたします

そもそも大友家が他邦と連合し、こちらに攻めてきたのは歴然たるゆえ
分国および日向の境まで発足いたし、防ぎ矢として軍勢を差し向けたところ
仙石殿・長宗我部殿が義統と一致をなされたため、両将に対し

「この度の御下りは関白殿下の御下知であろうが
 当家は大坂に対して毛頭も逆心を構え存ぜざる上は、何卒御引き取りを願いたい」

と申し上げたところ聞く耳を持たれず、我らに攻めかかってこられました
異議に及ばず一戦して勝利を得たものの
敗北した豊後勢が、仙石および長宗我部勢に紛れ区別できなくなり
結果的に数千騎を討ち果たす事になってしまいましたが
これはもとより本意ではありません
しかしながら、我らの間に疎隔が存じていないのは
合戦後、府内において、京・四州の士卒が難儀のところを
我が弟、中務少補家久が大船三・四艘程も調達し
彼らを送り出したことを持っても明白であり
これを証しとして、何卒秀吉公へのお取り成しをお願い申し上げます

(合伝流闘徴禄日本戦史)

軍監が供回りのみを連れて敗走した後、残された兵卒はどうなったか?
という疑問に対する答えが書かれた書状である
当時仙石家にいた後藤又兵衛や庄林一心もこの船で帰ってきたのかも知れませんね



418 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/21(木) 22:59:32.94 ID:7a3MXH0t
ちょっとイラッとしたから数千人ぶち殺したけど冷静になったらやべーわってことで船を何艘か用意したんで許してくれやってことか
さすが鬼島津無茶苦茶やんけ

419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/21(木) 23:14:18.95 ID:Q69eCTkr
何を普通だと思ってるのか知らんがどういう解釈だ

420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/22(金) 07:50:28.68 ID:PM/fY5US
鬼は鬼畜の意

421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/22(金) 08:34:01.60 ID:q+zFI8EU
お手紙でなんとかしてしまう引きこもり長男最強やん

422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/22(金) 09:46:11.23 ID:qpbVehiP
形に残るものでは相手をなだめるのが基本かと

溝ノ口岩穴祭の奴踊り

2017年05月25日 13:51

958 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/05/25(木) 07:20:42.25 ID:+O/9+IlI
鹿児島県曽於市財部町にある溝ノ口洞穴は、宮崎県都城市と接する台地の末端部にあり、入り口が広さ13.8m、
高さ8.6mで全長が224mの大規模な洞穴です。内部の一番広い部分は幅が約40mで,天井部はアーチ型になっています。
洞穴は、約25,000年前に姶良カルデラから噴出した大隅降下軽石層と、シラス(入戸火砕流堆積物)の溶結した
溶結凝灰岩の中に形成されており、雨水がシラスや軽石を外に運びに姶良カルデラから噴出した大隅降下軽石層と、
シラス(入戸火砕流堆積物)の溶結した溶結凝灰岩の中に形成されており、雨水がシラスや軽石を外に運び去って
徐々に空洞が拡大されてできたものです。
また、洞穴内には縄文時代の人の生活跡もあり、当時の生活を知る上でも重要です。
(昭和30年に、鹿児島県の天然記念物に指定される)
伝承では犬を洞穴に入れたところ高千穂峰に出てきた(距離にして7~8キロほど)話もあります。

毎年4月8日(釈迦誕生の日)に近い日曜日には洞穴で溝ノ口岩穴祭りが行われます。
(場所を示す時には“洞穴”、祭りを示す時には“岩穴”となります)
このお祭りでは、奴踊りや棒踊り、刀踊り(棒踊りと刀踊りは隔年奉納で2017年は刀踊り)が洞穴と洞穴の入口に
祀られている岩穴観音へ奉納される。

これらの踊りの中でも奴踊りの歴史は古く、三つの説があり、
島津義久が島原の龍造寺隆信を攻めた時の戦勝祝いに踊られたもの」
(大隅建国千三百年記念祭ではこの説が紹介される)
豊臣秀吉が島津征伐の時に、新納武蔵守が城を守り通した祝いのために踊られたもの」
島津義弘が朝鮮征伐した戦勝の祝いとして始められたもの」などと伝えられています。

このようにして、戦勝を祝うとともに、士気を鼓舞するために始められた奴踊りは、鼻筋を真っ白に塗り、
頭に白鉢巻、服装は紫の着物に赤い帯、刀を黄色と水色の長布で背負い両手に扇を持ちます。
楽器は、太鼓と三味線・拍子木で、歌詞は釈迦誕生日と関連しています。
現在は郷土教育の一環として財部の中谷小学校の全児童と卒業したばかりの中学一年生によって継承されている。
(2017年は11名の参加)

祭りの進行は、
岩穴観音の前で奴踊り
岩穴観音の前で刀踊り
洞穴の中で刀踊り
地域の連絡事項(小学校の新任の先生の挨拶、先任の先生からの手紙の紹介、転入してきた人たちの紹介など)
昼休み
洞穴の上の山にある馬頭観音が祀ってあるところまで(車で)移動
馬頭観音の前で奴踊り
馬頭観音の前で刀踊りです

この祭りは、プログラム表も立て看板も大々的な宣伝もなく地元の人たちが永いこと守ってきたお祭りでした。
(参考 財部町郷土史、曽於市観光協会の方の話など)

※刀踊りは日本武尊が川上梟帥を討った逸話からきており、鉢巻に襷がけ袴に着物は女物を着用(花柄)
 四人で一組となり三組で踊る。棒踊りの由来は不明。

溝ノ口洞穴の写真など
http://kagoshimayokamon.com/2016/05/27/izonokuchi/

観光協会の方や洞穴の看板の注意
・携帯は圏外です。危ないので一人では来ないでください、二人でもキツイので三人以上で来てください。
・照明はありません、自前で懐中電灯をお持ちください。
・流水がありますが、柵などはありません。数年前に落ちてしまって近くにお店どころか民家も無いので
 遠くまで移動した上に洋服一式お買い上げになった方がいるそうなのでご注意を。
・落書きは洞穴の強度の関係で消すことは出来ません。絶対にしないでください。
(2015年にももいろクローバーZのライブ映像として使われてから、来る人が増えたら不届き者も
増えてしまったようで落書きも増えてしまったと)

959 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/05/25(木) 21:10:17.15 ID:+O/9+IlI
・洞穴の中は蝙蝠やゲジゲジがいます。蝙蝠は人の気配がすると姿を
 見せませんが、ゲジゲジは結構いますので虫が苦手な方はご注意ください。

刀踊りは、地元の青年団の方たちが踊っていますが、昨今は人口が少なくなり
結構年配の方も参加されています。奴踊りの生徒さんたちも今年は新入生や
転入生がいましたが、昨年はどちらもいなかったそうで祭りを維持していくのは
大変なようです。
三味線の方も高齢の人が多く今年は都合がつかずあらかじめ録音したものを使用
する状況でしたので、祭りの関係者の方が見物人に向かって「三味線弾ける方募集
いたします」といってました。



新納が申した如く

2017年05月12日 17:01

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/12(金) 09:35:48.62 ID:vNdllw93
肥前有馬のうち、島原において、龍造寺隆信と有馬修理太夫(晴信)が争っていた。
有馬は最初、大友に属していたが、大友の弓矢次第に弱り、ややもすれば龍造寺に攻め詰められ、
度々危ういことばかり多かったので、この時は島津に属して加勢を得て、島原において無二の一戦を決心した。

この時、島津龍伯(義久)は、家臣である新納武蔵守(元忠)を呼んで尋ねた
「今回の有馬への加勢は、当家興廃のかかるものである。いかがあるべき、大将を誰に定めるべきだろうか。」
新納は申し上げた
「同じ御兄弟ですが、兵庫頭(義弘)殿は、耳よりも目の大胆な人物です。
中書(家久)殿は、耳よりは、目で見て物を侮らない人です。

この度、龍造寺隆信な2万の着到にて出馬と聞きます。それに対し有馬はわずかに4千の人数です。
そして此の方よりの加勢も4千。ですから、戦を慎重に致す人でなければ大事に成ると思われます。

中書殿は聞いては大胆に物事を押し、あなどる人物です。しかし実際に見ると慎重に懸ります。
彼を以て、遣わされるべきと考えます。」

龍伯もこれに同意し、島津中無大輔家久を大将として加勢を発したが、新納が申した如く大利を得て、
隆信を討ち取ったという。

新納の終始の言い分、尤もその理を得ている。

(士談)


島津義久、磔の木に金塗りして持たせ降参し

2016年06月30日 16:04

784 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/06/30(木) 00:04:29.52 ID:3X+PEQ8D
伊達政宗が金箔の十字架背負って上洛したのは有名ですが、それより先に金箔十字架背負って
秀吉に降伏した人がいるのをご存知でしょうか?

上記の話は、うっかり戦国漫画かいこ様サイトで知ったことですが、「逸話文庫」という本に載っていて

伊達政宗、奥州一揆の時、秀吉の疑を受け、金箔打ちたる磔柱を荷はせ、上京せしと云ふ。よく人の知る所なり。
然るに是より先き秀吉九州を征せし時、島津義久、磔の木に金塗りして持たせ降参し
『若し赦さゞる時は此の磔の木にかゝるべし』と云へる由、南海道記に見えたり。(逸話文庫)

南海道記を探してみたのですが見つからず、この話の出典元はわからなかったのですが、
島津家に関する展示があるところで九州征伐での黒田如水の紹介文に
「黒田家の記録に島津義久が金の磔木を持ち、秀吉に降伏したことが書かれている(後略)」
とあるので、学芸員の方に聞いてみると、
「この話は黒田家譜に書かれていて、初出も(おそらく)黒田家譜です」と言われました。

島津義久髪をそり、墨の衣を着して、名を隆伯と号し、磔木を金みがきにして眞先に持せ、
太平寺に行て秀吉公の陣へ降参し、その罪を謝す。(原文ママ)
若御憤ふかく、御免有まじく候はゞ、此磔木かゝり申べき為、持せ参て候と申上ける。
秀吉公是を感じ給て、其罪をゆるし、却て御懇意を加へらる。(黒田家譜巻之四)

教えていただいた学芸員の方に「何故このようなことをしたのでしょうか?」と聞いてみると
あくまで個人の考えですがと言われた後、
「薩摩は海外の貿易が盛んだったので、金の磔木を見せることでそのことを豊臣方に
思い起こさせ、降伏を認めた方が(豊臣方の)得になると思わせようとしたのでは」と・・・

義久だと違和感あるから、やっぱり金箔十字架は伊達政宗の方が似合うな。



786 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/30(木) 16:04:13.10 ID:sv5Jc6ie
>>784
島津の家紋が十字だしただの偶然?でも宣教師九州に多いし知ってて当然か。
政宗がこれをまねしたのかな?

787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/30(木) 16:21:18.83 ID:O2r7q+WV
まさむねが初めてじゃなかったんだね