溝ノ口岩穴祭の奴踊り

2017年05月25日 13:51

958 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/05/25(木) 07:20:42.25 ID:+O/9+IlI
鹿児島県曽於市財部町にある溝ノ口洞穴は、宮崎県都城市と接する台地の末端部にあり、入り口が広さ13.8m、
高さ8.6mで全長が224mの大規模な洞穴です。内部の一番広い部分は幅が約40mで,天井部はアーチ型になっています。
洞穴は、約25,000年前に姶良カルデラから噴出した大隅降下軽石層と、シラス(入戸火砕流堆積物)の溶結した
溶結凝灰岩の中に形成されており、雨水がシラスや軽石を外に運びに姶良カルデラから噴出した大隅降下軽石層と、
シラス(入戸火砕流堆積物)の溶結した溶結凝灰岩の中に形成されており、雨水がシラスや軽石を外に運び去って
徐々に空洞が拡大されてできたものです。
また、洞穴内には縄文時代の人の生活跡もあり、当時の生活を知る上でも重要です。
(昭和30年に、鹿児島県の天然記念物に指定される)
伝承では犬を洞穴に入れたところ高千穂峰に出てきた(距離にして7~8キロほど)話もあります。

毎年4月8日(釈迦誕生の日)に近い日曜日には洞穴で溝ノ口岩穴祭りが行われます。
(場所を示す時には“洞穴”、祭りを示す時には“岩穴”となります)
このお祭りでは、奴踊りや棒踊り、刀踊り(棒踊りと刀踊りは隔年奉納で2017年は刀踊り)が洞穴と洞穴の入口に
祀られている岩穴観音へ奉納される。

これらの踊りの中でも奴踊りの歴史は古く、三つの説があり、
島津義久が島原の龍造寺隆信を攻めた時の戦勝祝いに踊られたもの」
(大隅建国千三百年記念祭ではこの説が紹介される)
豊臣秀吉が島津征伐の時に、新納武蔵守が城を守り通した祝いのために踊られたもの」
島津義弘が朝鮮征伐した戦勝の祝いとして始められたもの」などと伝えられています。

このようにして、戦勝を祝うとともに、士気を鼓舞するために始められた奴踊りは、鼻筋を真っ白に塗り、
頭に白鉢巻、服装は紫の着物に赤い帯、刀を黄色と水色の長布で背負い両手に扇を持ちます。
楽器は、太鼓と三味線・拍子木で、歌詞は釈迦誕生日と関連しています。
現在は郷土教育の一環として財部の中谷小学校の全児童と卒業したばかりの中学一年生によって継承されている。
(2017年は11名の参加)

祭りの進行は、
岩穴観音の前で奴踊り
岩穴観音の前で刀踊り
洞穴の中で刀踊り
地域の連絡事項(小学校の新任の先生の挨拶、先任の先生からの手紙の紹介、転入してきた人たちの紹介など)
昼休み
洞穴の上の山にある馬頭観音が祀ってあるところまで(車で)移動
馬頭観音の前で奴踊り
馬頭観音の前で刀踊りです

この祭りは、プログラム表も立て看板も大々的な宣伝もなく地元の人たちが永いこと守ってきたお祭りでした。
(参考 財部町郷土史、曽於市観光協会の方の話など)

※刀踊りは日本武尊が川上梟帥を討った逸話からきており、鉢巻に襷がけ袴に着物は女物を着用(花柄)
 四人で一組となり三組で踊る。棒踊りの由来は不明。

溝ノ口洞穴の写真など
http://kagoshimayokamon.com/2016/05/27/izonokuchi/

観光協会の方や洞穴の看板の注意
・携帯は圏外です。危ないので一人では来ないでください、二人でもキツイので三人以上で来てください。
・照明はありません、自前で懐中電灯をお持ちください。
・流水がありますが、柵などはありません。数年前に落ちてしまって近くにお店どころか民家も無いので
 遠くまで移動した上に洋服一式お買い上げになった方がいるそうなのでご注意を。
・落書きは洞穴の強度の関係で消すことは出来ません。絶対にしないでください。
(2015年にももいろクローバーZのライブ映像として使われてから、来る人が増えたら不届き者も
増えてしまったようで落書きも増えてしまったと)

959 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/05/25(木) 21:10:17.15 ID:+O/9+IlI
・洞穴の中は蝙蝠やゲジゲジがいます。蝙蝠は人の気配がすると姿を
 見せませんが、ゲジゲジは結構いますので虫が苦手な方はご注意ください。

刀踊りは、地元の青年団の方たちが踊っていますが、昨今は人口が少なくなり
結構年配の方も参加されています。奴踊りの生徒さんたちも今年は新入生や
転入生がいましたが、昨年はどちらもいなかったそうで祭りを維持していくのは
大変なようです。
三味線の方も高齢の人が多く今年は都合がつかずあらかじめ録音したものを使用
する状況でしたので、祭りの関係者の方が見物人に向かって「三味線弾ける方募集
いたします」といってました。



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新納が申した如く

2017年05月12日 17:01

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/12(金) 09:35:48.62 ID:vNdllw93
肥前有馬のうち、島原において、龍造寺隆信と有馬修理太夫(晴信)が争っていた。
有馬は最初、大友に属していたが、大友の弓矢次第に弱り、ややもすれば龍造寺に攻め詰められ、
度々危ういことばかり多かったので、この時は島津に属して加勢を得て、島原において無二の一戦を決心した。

この時、島津龍伯(義久)は、家臣である新納武蔵守(元忠)を呼んで尋ねた
「今回の有馬への加勢は、当家興廃のかかるものである。いかがあるべき、大将を誰に定めるべきだろうか。」
新納は申し上げた
「同じ御兄弟ですが、兵庫頭(義弘)殿は、耳よりも目の大胆な人物です。
中書(家久)殿は、耳よりは、目で見て物を侮らない人です。

この度、龍造寺隆信な2万の着到にて出馬と聞きます。それに対し有馬はわずかに4千の人数です。
そして此の方よりの加勢も4千。ですから、戦を慎重に致す人でなければ大事に成ると思われます。

中書殿は聞いては大胆に物事を押し、あなどる人物です。しかし実際に見ると慎重に懸ります。
彼を以て、遣わされるべきと考えます。」

龍伯もこれに同意し、島津中無大輔家久を大将として加勢を発したが、新納が申した如く大利を得て、
隆信を討ち取ったという。

新納の終始の言い分、尤もその理を得ている。

(士談)


薩隅の戦国お菓子 これもち(これがし)

2017年03月31日 21:44

710 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/03/31(金) 13:20:31.22 ID:9PH8Y6mL
薩隅の戦国お菓子 これもち(これがし)

鹿児島で「これもち」(一部地域では「これがし」)と呼ばれるお菓子は、小豆餡と米粉をこね合わせた蒸し菓子(棹物菓子)で
漢字では「高麗餅」(高麗菓子)と書き、その名が示す通り朝鮮から伝来したものである。
鹿児島に伝わったのは、慶長三年(1598年)朝鮮の役により、豊臣秀吉の命を受けて出兵した島津義弘が、
李朝の陶工たちを南原(ナモン)から連れ帰った折に陶工から伝えられたとされている。

義弘に連れてこられた陶工たちのうち、四十数人が串木野の島平に窯を開いた。
しかし生活苦や周囲との折り合いの悪さから、五年後には島平から苗代川(日置市東市来町美山)に移住した。
この地に移住した人々は、毎年春秋には周囲で最も高い舞楽岡に登り、遥か遠く海上に浮かぶ甑島の島影を通し故郷を偲び、
望郷の心を慰めていた。在る夜、海の彼方より大きな火の玉が飛来し、蜂巣ヶ谷の大石の上に落ちた。それ以来大石は鳴動し、
夜毎赫々と異光を放ち乍ら宙天に上った。これを見た村人は恐れおののき、筮者にトして貰ったところ、
朝鮮宗廟の神「檀君」が村人を保護するために来国したということであった。
そこで、この自然石を御神体として檀君を祀る神社を創建し(玉山神社)、玉山宮とも高麗神とも称した。

玉山神社では祭事や行事の際に高麗餅を奉納し「高麗餅返し」の儀式を行っていた。
「高麗餅返し」の儀式は祝子(はふり)が執り行い、美山の各家庭で作った蒸し器(セロ)に入ったままのこれもちを
祝詞を唱えながら回し竹籠(バラ)にひっくり返す。バラに近づき、一回転してこれもちの表面が上なら吉、
一度で表にならないと縁起が悪いとされている。
これもちの真ん中を神刃(シンカル)で方形に切り、御幣と柴の小枝を立て、お神酒・新米・刺身とともに高杯に乗せて供える。

玉山神社は今の社殿になるまでは、朝鮮様式で建立されていて、祭事や行事の際の服や言葉や祭器すべて朝鮮様式
で取り揃えていたが、数十年前に最後の伝承者が亡くなると「高麗餅返し」をふくむすべての儀式が途絶えてしまいました。
(「かごしま文庫 鹿児島の伝統製法食品」、美山での史料展示(昭和四十二年頃の写真あり)など)

※鹿屋市笠之原にも「高麗餅返し」があり、美山に移り住んだ陶工の一部の人が、時を経て笠之原に移住している。
ここには陶土がなく陶芸文化は廃れたが、望郷の為に「玉山宮」を建立し、高麗餅を作って儀式を伝えたことが推察される。
笠之原では、高麗餅を「シロ」と呼び、地域の玉山宮では祭事や行事の際に高麗餅「シロ」を奉納し「餅返し」の儀式を行っていた。

※ 小豆をふんだんに用いて餅とサンドイッチ状に仕上げた韓国のお菓子「シルットク」は、祝いや祈願の折に用いられてきました。
古くは五穀豊穣を祈り、現在では転居の際に新居の安全を祈って供えられています。京都や名古屋で製造されている「村雨」や、
鹿児島の「高麗餅(これもち)」の原型が、このシルットクであるといわれています。

参照 高麗餅(これもち)


시루떡(シルットク)
https://namu.wiki/w/%EC%8B%9C%EB%A3%A8%EB%96%A1



そこに一人の山伏が現れた。

2016年11月24日 14:36

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 09:47:03.80 ID:GifEEbwp
島津兵庫頭(義弘)は関が原の合戦に負け、伊勢路を通り、伊賀国を経て和泉国に出、住吉の浦より
船に乗り、白地に黒十文字の旗を立て尼崎の方へ向かった。

この時、立花左近(宗茂)も西軍敗戦により大阪から船にて国元へと下っていた。すると横より
十文字の旗を立てた船が来るのを見て、宗茂は「加藤左馬介(嘉明)の船か、と思ったが、
その船より、『島津兵庫頭が合戦に負けたため国に下る船であること。同道いたしたい』との
使いが参ったため、同道して筑後国の国境まで同道した。

その先の肥前国は、当時の情勢として通過するのが非常に難しい国であったため、立花左近は兵庫頭に、
薩摩に行くのを諦め、一旦筑後に留まるようにと様々に説得したが、兵庫頭は謝絶し、薩摩へと
向かうことに成った。

しかし肥前と筑後の間には大河があり、しかも船がなく、どうやって船を求め川を越えようかと
思い悩んでいた所、そこに一人の山伏が現れた。

山伏は言った「この河は歩いて渡ることが出来ます。瀬を教えましょう。」
そうして兵庫頭一行を案内したが、その言葉に相違なく、無事大河を歩いて越えることが出来た。

兵庫頭は河を超えた所で山伏を呼んだが、山伏の姿は見えなくなっていた。
そのあたりの住民に山伏について色々と尋ねたが、彼らは一様に「そもそもこのあたりに
山伏はいません。」と答えた。
その後も島津兵庫頭、立花左近は様々に尋ねたが、ついに山伏は見つからなかった。

これは後年、立花殿が語ったことである。

(慶長年中卜斎記)



346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 10:30:52.61 ID:1sU8tIY/
パーフェクト伝説がまた増えたか

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 13:44:40.94 ID:3l/VneXT
薩摩まで船でいけないんだな

349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 19:48:30.13 ID:8D69oZrn
>>345
山伏じゃなくてモーゼだったか

350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 21:19:13.59 ID:R0KKCQ/z
>>345
なんで筑後方面に行ったんだろ?

豊後水道通って日向から薩摩に行ったほうが良いような?
勝手にそのルートだと思ってたんだが違ったのか。

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 21:49:07.97 ID:8D69oZrn
黒田や伊東が東軍だからじゃないかな?

352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 22:19:18.84 ID:DqhLpzHV
義弘と宗茂は9月26日に周防国の大島で対面するまでは同行してたようだけど
その翌日に豊後水道を北と南に別れて、義弘は日向の佐土原に行ってから薩摩に帰ったみたい

353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 23:06:03.85 ID:7ZS6/8Wc
まぁ実際は義弘の船は筑後方面には行ってないよね

だから黒田勢と別府湾あたりで海戦に及んでるし、日向の細島湊から上陸した際は、
島津方の村尾重侯らが伊東勢と合戦に及びながら義弘を迎えに来ている

入田家の後日談

2016年10月07日 15:17

175 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/06(木) 22:37:00.52 ID:1rBePjzd
入田家の後日談

親誠の嫡男・義実(宗和)は若年につき赦され永禄末から元亀の頃(天正8年(1580年)頃説もあり)に宗麟から旧領の一部である筑前国鞍手郡若宮庄350町分を安堵された
宗麟に笠木城勤番を命じられたりするなど父のこともありながら宗麟時代はそれなりに信頼された義実だが義統時代になると俄然大友家での立場は悪化する。
天正12年から14年にかけて不仲だった戸次統貞(玄珊)の讒言によって大友義統と対立し討伐を受け居城を栂牟礼城を逃れて緩木城に移していた。
そんな義実に対して島津義弘は新納忠元を通じて宗和に寝返りを進めてきた。しかし宗和は最初「武門の素意に非ず」と断っていたが結局島津への内通を決意する。
天正14年(1586)豊薩合戦の際、南部衆の志賀親度(道益)・南志賀鑑隆(道運)や一萬田紹伝らは入田宗和主導でで島津氏に内通して大友氏の敗北に一役買った。
その後豊臣軍の豊後上陸後、宗和は岡城の志賀親次さらには豊臣秀長たちの軍に追われ豊後から薩摩に撤退し以降は日向に所領を貰い島津家臣として仕え家は斉彬や久光の時代まで続く

参考:大友宗麟のすべて(新人物往来社刊)ほか



176 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/07(金) 02:48:56.69 ID:rn89lw8F
>>175
栂牟礼城は佐伯氏の居城だから入田の居城は津賀牟礼城の間違えだろうな

伊東家と島津家、修好の復活

2016年07月12日 08:58

927 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/11(月) 23:11:19.82 ID:c7/Arcse
日向伊東家は、島津家とは黒田如水の指示により、朝鮮陣の最中、加徳島にて好を結んだが、
関ヶ原の一戦の時、島津家は大阪に属し、伊東家は関東に属したため、宮崎近辺にて両家は数度の
衝突があり、それまでの和睦も崩れ去った。

しかしこの頃、報恩公(伊東祐兵)が逝去し、後を継いだ伊東祐慶は未だ幼少であったので、伊東家の
諸大将は、島津家に頼ることも必要であると評議していた。そんな中、島津家より

『隣国の好は永く変わらない。我々は祐慶公成長の後は、こちらの息女を以って娶らせたい望みを持っている。
どうか鹿児島に来ていただきたい。』

との意向を伝えてきたため、慶長16年(1611)8月、伊東祐慶は鹿児島に赴き、兵庫頭(島津義弘)と
面会した。この時祐慶に供奉したのは、家老の川崎大膳亮、松浦久兵衛尉を始めとして、選ばれた屈強の勇士
数十人であった。

島津家の側は伊東家一行を非常に歓待した。喜入摂津守に命ぜられ善美を尽くして饗応した。
この時、猿楽の興行があり、白楽天の番組と成った時、
「今や今やと松浦船~」
という謡の文句を
「今や今やと与津船~」
と言い換えた。
これは祐慶の供奉に松浦久兵衛尉があったため、その名前を避けてこのように変えたのである。
このように島津家では、ここまで深く萬に念を入れて伊東家に気を使ったのである。

ただし祐慶公と島津家との縁組は、将軍家の沙汰難しくそのことは実現しなかった。
それでもそこから二代にわたって、両家の間は音信の使者絶えず、互いに懇意な事であったが、
その後は何ともなく、再び疎遠の間柄と成った。

(日向纂記)

島津家が関ヶ原後、伊東家との修好復活のため、その家老にまで気を使っていたというお話




928 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/12(火) 01:28:08.16 ID:41NkNuSk
伊東は黒田の舎弟だからさ、後に疎遠になったのは幕府からの黒田への評価が下がったから。

929 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/12(火) 10:15:23.83 ID:z8yrg7Qr
江戸の時代になっても大名が気軽に隣国を訪れることが出来たんだな
いつ頃から出来なくなったんだろ?
武家諸法度あたり?

930 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/12(火) 20:55:22.15 ID:toR9SZ93
豊臣を滅ぼしてからとか。

遠からぬ内に、世の中は

2016年06月20日 17:57

867 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/19(日) 19:37:51.41 ID:SUyILvdO
慶長元年12月下旬、伊東祐兵は朝鮮の安骨浦陣中より、黒田如水に相談の事があって、家臣の
借家原甚右衛門尉満鎮を豊前に派遣した。如水は甚右衛門を近くに召して

「さてさて、良い所に参った。私の方からも使いを出して、伊東殿に申したいことがあったのだ。
実はな、太閤が近頃殊の外衰えられた、その上日本中で様々な怪異が多く起こっている。
遠からぬ内に、世の中はまた騒がしくなるであろう。

民部殿(祐兵)は小身であるから、国元について甚だ心もとなく思うだろう。
天下の事が未だ起きない内に、片時も早く島津家と談じて、縁故を取り結ぶか、又は麾下に入る事を
申し入れるべきだろう。その上で互いに神文を取り交わすべきだ。
この旨を早々に帰って伝えるように。」

甚右衛門は急ぎ豊前を立って明けて慶長2年正月中旬、安骨浦に帰り黒田如水の口上の趣を申し上げると、
伊東祐兵はこの助言を喜び、早速加徳島にあった島津の陣中に赴き、兵庫頭(義弘)と会談して、
以後、堅く唇歯の好みを結び、互いに違背有るべからずと、神文を取り交わした。

(日向纂記)



彼は義士である

2016年05月27日 17:57

768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/26(木) 21:05:11.45 ID:Fuik+Qgj
天正6年7月6日、島津は大友家に付いた日向国石ノ城を攻めることとし、伊集院忠棟を大将に大軍を
送ったが、石ノ城は大友より派遣された長倉祐政、山田匡徳を中心として頑強に守り、島津勢は500が負傷、
また多くの討ち死にを出し終に撃退された。

同年9月15日、島津は島津彰久を大将、伊集院忠棟、平田光宗、上井覚兼らを副将とし、さらなる大軍を以って
再度石ノ城へと押し寄せ、総攻撃を行った。
これにも石ノ城勢は三日三晩にわたって頑強に抵抗したが、元より小勢のなか、兵糧も尽きたことにより、
講和を受け入れ城を開城することと決まった。

講和が決まると、石ノ城の大将である長倉祐政は城の明け渡しのため島津義弘の陣所へと参った。
義弘は長倉に言った
「今回のことは貴方にとって残念ではあるが、これより後は私に従わないか?」
そう言って三方に土器の杯を据えて長倉へと差し出した。主従の礼を取ろう、ということである。

しかし長倉

「確かに残念限りないことです。ですが二君に仕えるのは義士の成さぬ所です。」

そう言うや土器を三方の縁に当てて打ち砕き、その座を立ち退こうとした。

この場の島津勢の人々はその無礼を見て激怒し、彼を討ち果たそうと騒いだが、義弘はそれを制して
「いやいや、彼は義士である。また、その主人のために働いた人を殺すのは不義である。」
そして長倉に

「あなたは此処から何国に立ち退くのか?」

「豊後へ。」

そこで義弘は侍大将二人に命じて、長持ち二つを用意させ、
一つには沓や鞍、雑具の類を入れ、もう一つには食物などを入れさせた。
それを持たせ、豊後との国境まで彼を送ったとのことである。

(日向纂記)



島津義弘と道案内役

2016年02月17日 18:17

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/17(水) 00:29:18.18 ID:OUAq51ED
島津義弘公の決死の関ヶ原敵中突破の後、
道案内役として拉致された文右衛門(恐らく正しくは又右衛門)さんなんだけど、どうやら堺まで一緒だったようです。

後日談があって、慶長16年夏、義弘公77歳の時にわざわざ大隅国加治木まで訪問して再会していたりします。
文右衛門さん曰く、ご存命のうちにもう一度お会いしたかった、とのこと。
もちろん義弘公も大喜びして大歓迎。
関ヶ原の思い出話に花を咲かせて、さらにその後もあの時のお礼と言わんばかりに宴三昧、ご褒美をたくさん与えたようです。

なおこの文右衛門さんですが、どこの国で苗字は何なのか、正体不明のままです。
大小の刀を差していたことから士分であったことは間違いないようですが。

素性がバレて義弘公の逃亡を手伝った罪に問われる事を防ぐため、島津家なりの配慮なのでしょう。

ただそれが敵中突破後の退却路がよく分からん、という結果にも繋がっているのだと思います。

関ヶ原後日談に見る、身分違いも気にしない義弘公とその戦友の良い話。

(帖佐彦左衛門宗辰覚書)



島津義弘夜討の提案

2015年09月25日 17:56

362 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/24(木) 21:19:33.61 ID:DmuJRcgR
慶長5年(1600)9月14日、関ヶ原の役。赤坂に徳川家康の旗印が立つと、西軍は大いに動揺した。
その日、石田三成は大垣に諸将を集め軍評定を行う。ここで島津兵庫頭(義弘)が提案した

「今夜、野郎共を赤坂に遣わし、先陣の陣屋を焼き払えば、敵陣は必ず騒動となるでしょう。
その時大軍を以って合戦を行えば、一戦にて敵を尽く討ち滅ぼせるでしょう。」

しかし石田三成は反論した
「今度の合戦は必ず勝利する。田中兵部(吉政)も我らに味方して、合戦中に返り忠を行うと確約した!」

これより前、三成は田中吉政に使いを出し書状を以って自分たちに味方するよう申し遣わしたが、
吉政は偽って同意の返事を出したのを、三成は信じ彼を頼りとしたのだという。

これに義弘
「田中の返り忠というのは心もとない!左様なこと、多くは期に望んで相違があり、また謀にて
偽りの同心の返事をした可能性もある。それを頼んで明日の合戦が必勝とは、愚かなことである!
今日、内府は長途を来て軍兵皆草臥れており、陣法も未だ定まってはいないでしょう。
その上士卒たちは陣屋を営み、食料の調理に立ち騒げば、いよいよ疲れて夜更けて熟睡することでしょう。
そこに大軍を以って夜合戦をかければ必ず勝利を得るべし!これは実を以って虚を討ち、
佚を以って労を討つの計なり!

それでも、三成は遂に同意せず、島津の謀は空しくなった。

その頃内府公の陣所では、『今夜は夜討来ること有るべし。油断すべからず』との仰せにより、
篝火を焚き、夜回り隙無く、遠見の番まで置いて用心を怠らず、その軍法は厳密であったという。

(黒田家譜)

有名な、関ヶ原で島津義弘が夜討を提案したお話。三成は田中吉政の内応を頼りにしていたのですね。




363 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/24(木) 21:25:36.05 ID:+Qt9rNs+
田中はもし西軍有利になったらほんとに裏切る想定もしてたのかな

364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/25(金) 01:16:30.39 ID:aMAnNCDO
田中吉政ごときをあてにするってありえんだろ

365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/25(金) 01:42:51.92 ID:1ElstaQP
包囲網が吉川一人のために瓦解するんじゃーね

366 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/25(金) 07:37:42.50 ID:6vHuZ6nT
秀次派が西軍に寝返るだろうか?

367 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/25(金) 08:41:36.33 ID:tz+AIFcm
自分の城で徳川勢が留守してる状況で田中吉政が寝返るとか無いわ

あと秀次切腹の時にも咎めがなかった人達だから、秀次派ってのは
無いんじゃないかな

【話題】島津義弘小説、6月からウェブで公開

2015年05月28日 17:14

84 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/05/27(水) 21:48:19.61 ID:9GfvjNwH
初めて書き込みさせていただきます。至らないところもありますがお願いいたします。

大河ドラマ化に弾み 島津義弘小説、6月からウェブで公開
http://373news.com/modules/pickup/index.php?storyid=66690
 戦国武将・島津義弘ゆかりの地である姶良、日置、湧水、えびのの4地区の
「義弘公大河ドラマ誘致委員会」は、徳間書店と共同で、義弘の生涯を描く小説を企画している。
作家・井川香四郎さん書き下ろしの「島津三国志」。6月から、ウェブマガジン「歴史行路」
で公開する。関係者は「ドラマ化には原作の必要性も指摘されており、弾みになる」と期待を寄せる

85 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/05/27(水) 23:12:39.29 ID:9GfvjNwH
84の続き
小説は約一年間毎月掲載され、閲覧は無料で書籍化も予定しているそうです。
(南日本新聞2015年5月27日記事より)

少し前に「義弘公大河ドラマ誘致委員会」主催の講座を聞きに言った時、
「最近の大河が振るわないのは、歴史に関心のある人が脚本を書いてなく、
いい原作がないからと思い徳間書店と共同で企画を考え、小説を書いて
もらっています。夏にはウェブで公開予定です。」と言ってましたが
本当に予定通りに進んでる…
あと、宮崎県えびの市に義弘の銅像を立てる計画も順調に進んでいる
そうです。



86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/28(木) 00:35:05.46 ID:LkWj94pc
ウェブマガジンってのはどうなのよ?
もっとメジャーな文芸誌や新聞とか週刊誌じゃないと
知名度上がらないし…

87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/28(木) 07:26:31.84 ID:Yy790yKb
島津だけでは正直薄いよなあ
やはりあの時代は暗黒太閤と化した秀吉あってこそ
しかし秀吉のキャラ立ちは圧倒的なので島津が食われかねない
だからといって九州内の覇権争いだけを描いてもなあ

88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/28(木) 13:38:32.93 ID:w8Exbow6
義弘を主役に派手さを狙うのは甘え
義久を主役にして権謀術数渦巻く知略戦を描くべき

89 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/05/28(木) 14:31:42.63 ID:3nQUdxjC
義弘が主役なのは、義弘ゆかりの地である姶良、日置、湧水、えびのの4地区
の所が企画しているから当たり前のことですしねぇ。
(日置市と姶良市は義弘にまつわる歴史的なつながりなどから姉妹都市ですし
姶良市の市長さんの名前は笹山義弘さんですが、父親が島津義弘にあやかって
名づけたそうです)
義久を主役にした小説…読みたいけれど、多くは望みません。
ただ、今回の小説で義久が悪く書かれないよう祈るだけです。

90 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/05/28(木) 14:36:24.17 ID:3nQUdxjC
なぜか、IDが変わってました。
84・85・89は同一人物が書きました。

92 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/05/28(木) 21:09:57.42 ID:3nQUdxjC
84・85の補足です。
南日本新聞2015年5月27日記事の紙面の方には
井川さんは「これまでの猛々しいイメージとは異なり、東アジアから
世界へ向けた視線、家族愛や同胞愛など慈愛に満ちた義弘公を描きたい」
としている。
姶良市誘致委員会の会長さんは「多くの人に読んでもらい、大河ドラマ
の実現へ向けた機運の醸成につながれば」と話した。

93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 00:15:09.60 ID:1I/mC1ZA
既に怪しい雰囲気が醸し出されてるなあ

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 00:59:48.83 ID:kUwDtlwJ
加藤清正のタイガードラマはよ

95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 03:12:59.38 ID:6LcORnJI
>>92
つまり、島津ドラマ化のネックになっている朝鮮人皆殺しや琉球侵略を
「きれいなジャイアン」でごまかすってことかw

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 06:26:43.57 ID:05Bd7qhS
>>85
平清盛を見れば現実離れした見解だよなぁ

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 07:20:57.75 ID:uBMgoFHx
バカ知事が何か言いそうw

98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 07:51:37.37 ID:X1R2YQCf
>>92
義弘が、「儂は戦は嫌じゃ」とか言い出しかねんなw

99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 07:55:35.24 ID:mcDINiea
>>92
部下に優しくて敵には猛々しい義弘にできんのか。火鉢エピとか大工エピとか性格出てると思うんだが。

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 08:33:20.77 ID:TH6fkjnm
島津は映像化できないだろ・・・色々と悲惨すぎる

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 10:54:25.41 ID:5bj3lFUm
奴隷を南蛮に売ってたっけ?

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 17:01:26.02 ID:zdzYrMsl
日本じゃなくて東アジアからって書いてある時点で制作スタッフ臭すぎでしょ

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 20:46:50.48 ID:wwV7liSe
鉄砲伝来とか重要イベントあるから(震え声)

104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 21:09:32.57 ID:7e3CBtA7
>>101
うん、大友とか大村とかもね
インドのゴアでは原住民対策の兵員として重宝したらしい

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/30(土) 02:18:09.14 ID:CWM9Z+LL
>>98
代わりに義久さんが全ての原因になるんですねわかります

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/30(土) 07:17:33.57 ID:5P1QqS+E
戦国の世の家族愛や同胞愛ってとっても猛々しいよねw

107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/31(日) 00:32:49.85 ID:DaNyHf8r
ラスボスの秀頼への家族愛で何人も死んだ

108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/31(日) 16:05:45.71 ID:EF3ETCaI
家族愛に満ちた父の教えを受け継いだ息子はその教え通り子を沢山成したというわけですね

【ねこ大好き】島津義弘、近衛前久に猫を贈る

2015年05月08日 18:55

952 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/07(木) 20:26:10.43 ID:Igh/VUP+
【ねこ大好き】島津義弘近衛前久に猫を贈る

慶長年間の事と推定されるが、島津義弘近衛前久に猫を贈った事があった。
その結果近衛前久から礼状が贈られてきたのであるが、その内容は
「本望の至り、年来待っていたところ、ことさら美しく見事で、一段満足している」
という前置きを置いて「さらに猫を頂きたい。」との要求であった。
その理由は
「その猫は夫人に取られてしまい、自分の手元にはいないから、もう一匹送ってもらえないか。決して他人に譲るのではない。娘も懇望しているけれど、それは無視していい。まず自分の分を一匹ほしい」
ということであった。
(「旧記雑録附録二」二七〇号)


まとめサイトのコメント欄で紹介して頂いた逸話なのですが
シャイな※主様が他の人に投稿頼むと仰ってた&猫好き魂を鷲掴みにされましたので
僭越ながら※主様ご紹介の南日本新聞の「さつま人国誌」(2015年5月4日付)を
出典として要約し投稿させて頂きました。
元記事には他にも犬に関する逸話等が記載されております。



953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/07(木) 20:29:37.28 ID:B0Sjzqyc
関白のくせに、ペットをねだる調子のいい話?w

954 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/05/07(木) 20:48:37.66 ID:hya75fci
やはり島津家はNNNの支部だったのか

955 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/07(木) 20:54:43.78 ID:xD7IsRlR
>>952
娘の分も暗にねだってるw

956 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/07(木) 20:58:46.83 ID:UFTPDb99
なぜかプリンのコピペ思い出した

957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/07(木) 22:42:31.46 ID:jkzHWnJt
薩摩はネコの産地だったのか?朝鮮にも連れて行ってたし

958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 00:29:10.45 ID:xc36Xewg
三斎様も忠利に猫クレクレしてたけど、
この時代の猫って貴重で探して捕まえてたんだっけかな

959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 02:13:42.34 ID:Y5kEKSGr
ここの猫ってのはペルシャ猫のことかな?
それとも日本には元々猫がいなかったとか

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 06:13:58.72 ID:ARjUb34o
井伊直孝「猫と聞いて」

961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 07:02:21.04 ID:Np3grdNi
猫って鼠が殖えるまでは紐に繋がれて飼われてたよね

962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 07:21:15.93 ID:HjLXgSyq
板倉勝重「ワシが猫を開放した」

963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 09:35:37.68 ID:MvSWJ74j
最上義光「ぬこ…」
天庵さま「うちの子だって!」

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 09:48:17.67 ID:MvSWJ74j
これは近衛卿側の逸話になるのかな?

それと鶴が逃げても動じなかった秀吉が、猫が逃げて衰弱してるからおそらく秀吉も猫好き。

検索したら猫好きの人の性格が出て来た。

「さみしがりや、自由気まま、気まぐれ、マイペース、束縛を嫌う、
自分勝手、ワガママ、甘えん坊、団体行動は嫌い、気分屋」な傾向とか。

965 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 10:01:11.95 ID:MvSWJ74j
日本猫(和猫)は、8世紀頃に大陸から経典を鼠から保護するために日本に伝わったとされるが、長崎の弥生時代の遺跡からも古来の猫の骨が見つかっている。
889年(昌泰2年)宇多天皇の唐の黒猫の飼育日記があったり、花山天皇が皇太后に愛玩動物として猫を贈った話もある。

東南アジアや琉球から貿易を経由して日本に都度都度猫が入り、日本に家猫や野良猫が定着したのは江戸時代頃とも言われる。
日本猫で代表的なものは、「白猫」「黒猫」「サビ猫」「トラネコ」「ブチネコ」「三毛猫」の6種類。

966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 10:17:09.22 ID:0PPEkGvE
(⌒▽⌒)

967 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 10:20:18.99 ID:9cl0PIMM
鍋島直茂「ネコなんて大嫌いだあああっ!!」

968 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/05/08(金) 10:28:05.42 ID:At7WWQV/
天久院「猫程度にうろたえるとは軟弱な」

969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 12:25:01.99 ID:MvSWJ74j
>>952
犬の話も気になる

970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 13:28:01.94 ID:MvSWJ74j
「さみしがりや、自由気まま、気まぐれ、マイペース、束縛を嫌う、
自分勝手、ワガママ、甘えん坊、団体行動は嫌い、気分屋」

猫ブロガー宇多天皇、豊臣秀吉、近衛前久、伊達政宗、最上義光、小田氏治、井伊直孝…

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 13:31:42.47 ID:MvSWJ74j
A=B=C、つまりA=Cである

A=伊達政宗
B=猫好き
C=細川忠興

つまりまーくんは三才様だったんだ(違います)

井伊直政銃撃の模様

2015年05月04日 13:55

733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/03(日) 20:29:25.78 ID:4ZNVLAR3
関ヶ原にて、島津の退き口についての事は、諸家に様々な説がある。そのうち、井伊家の旧記によると、
井伊直政は敵陣の後ろに駆け抜け暫く息を休めていた所に、島津の軍勢が、旗も指さず備えを真ん丸に
固くして引き退いてきた。

直政はこれを見て、「あれは敵か味方か!?」と問うと、家臣の早川弥惣右衛門という者が
「あれは敵にて候」と申し上げた。
この時、葦毛馬に乗っている島津の家臣、山田隼人と言う者を見て、
「あの葦毛馬の武者を私が討ち取る!」と追いかけた。

直政が常に定め置いていた25人の近習は、何れも人を選んで固く申し付けられ、引くときも足を乱さず、
進退とも一様にするようにと示し置かれていたのだが、敵陣が乱れてくるに連れ、自分たち各々の働きのために
次第次第に散乱して、いつしか直政の馬廻りを追いかけるのは、馬上2,3騎、歩兵20人ばかりになっていた。
その上、直政は良き馬に乗っていたため、彼らを駆け離し、島津勢が山の腰を引くときには、直政ただ一騎で
進み、沼があったのを越えた。

この時、井伊家家臣の大久保将監と言う者、これも島津勢を駆け抜けて高名を遂げ、帰る所にこの直政と
行き合った。将監は直政に「あの大勢の中にただ一人で追撃されるのは勿体無いことです!」と
直政の馬に取り付き引きとめようとしたが、これに直政は大いに怒り「若者、離せ!」と叱りつけた。
しかし将監が離さずに居た。

そこに、薩摩長寿院という者の組下の、川上久右衛門と言う者、腰につけていた種子島を持って、田の畦に
伏せてこれを撃とうとした。その時喜内という者と、もう一人が双方に立ち並んで下知をした。
久右衛門がはやまって撃とうとするのを制し静めてかた撃たせると、その弾は直政の右脇に当たった。

しかし、当たった所は具足であったので弾は通らず、そこで弾けて右腕に当たった。
このため持っていた鑓を落とし、暫く馬上で耐えていたがついに落馬した。
これに井伊家の家臣たちはすぐに馳せ集まった。一番に斉藤半兵衛と言う者、その他、安井平右衛門、
川上庄兵衛などが、おいおい駆けつけ、斉藤半兵衛が直政を抱きかかえ馬に乗せると、
大久保将監は落ちた鑓を担いで馬の口を引き返し、そのうち大勢の家臣たちが集まった。

直政が落馬した時、島津方の川上久右衛門の側に立ち並んでいた者が、刀を抜いて直政の首を取ろうと
駆け出したが、これを喜内が制して「敗軍に首はいらぬ!」と引き退いたが、
追々直政のもとに駆けつけた人々が下馬しているのを見て、「さてはあれは大将であったか!
首を取るべきであった!」と後悔したそうである。

(明良洪範)

関ヶ原で、井伊直政が銃撃された時の模様である。



735 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/04(月) 04:18:51.65 ID:TJcNyrQE
首を取ってたら島津はどうなってたやら

736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/04(月) 09:03:49.29 ID:M+0M9EUd
井伊直政を殺された家康ぶちきれ、他の諸問題そっちのけで島津征伐
結果、歴史は相当変っただろうな

戸田勝成「恐らく左近は、」

2015年01月07日 18:52

181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/06(火) 22:38:53.29 ID:Co/gnY+p
備前宰相殿(宇喜多秀家)等は、惟新公の夜襲すべしという意見に賛成なさったが
治部殿とその寵臣・嶋左近(島清興)はこれに反対した。
特に左近の、主人の威を借りての人無げな無礼な物言いには、中務殿(島津豊久)も
大いに怒られたが、惟新公はこれを目で押しとどめてもはや何もおっしゃらず、不快の
念を隠そうとはしなかった。
宇喜多家中の明石掃部(明石全登)が、皆をなだめて軍議は早々に打ち切られた。
陣を立ち去る時、武蔵殿(戸田勝成/重政)が惟新公に「残念なことよ」と声をかけられ、
因幡殿(平塚為広)も同調して、惟新公は心慰められる想いをなされた。
中務殿はまだ憤懣冷めやらず、「嶋左近ごときに何が分かろうか」とおっしゃられると、
武蔵殿は「治部殿は戦の駆け引きに疎く、左近はしょせん大和でわずかばかりの
侍働きをして虚名を馳せただけで、その後は治部殿に仕えていたため、大戦(おおいくさ)
の経験がない。先の戦い(杭瀬川の戦い?)程度の小競り合いならともかく、此度の
ような戦で、あの二人が全軍の指揮を執るのでは、なかなか内府殿のような古強者には
勝てまい」と嘆かれた。
因幡殿が「治部は、左近に我が軍の采配を任せるのでしょうか」と問うと、武蔵殿は
「恐らく左近は、治部殿の家中をまとめるだけで精いっぱいであろう。端武者のごとく
前に出て、早々に怪我をすることになるのではないか。軍配を執ることはあるまい」
と答えられた。
武蔵殿は小身ながら知恵者と呼ばれた人であり、その言葉通り、嶋左近は治部殿の
先鋒を務めて侍大将としては活躍したものの、銃で撃たれて陣内に担ぎ込まれ、
西軍の大敗を見ることなく亡くなったということである。(兵忠記 「慶長合戦のこと」)



183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/06(火) 23:56:54.18 ID:Nenzv4jh
戸田さんは色んなところで褒められてるな

187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/07(水) 04:34:44.96 ID:giNPOH3x
>>181、>>183
島左近は後世の評価が過大評価っぽいよね

・1550年に家督を継いだ幼い筒井順昭を盛り立てたと言われるが、当時の
 家臣団に名前が無く、初登場は1571年
・「筒井家の両翼(右近左近)」と並び称されたと言われるが、順昭が活躍した
 時代の両翼は松倉秀政と松田盛勝で、松倉重信(右近)と島左近はもっと後期
・実質的には定次時代の両翼だが、すぐに筒井家を出奔
 四国征伐には定次とともに従軍したようだが活躍の記録なし
・豊臣秀長・秀保に仕え、九州征伐には参加したが、秀長の病気により小田原
 征伐には参加せず、朝鮮の役でも秀保の渡海は無く、秀保配下の紀伊衆
 とともに水軍として活躍した形跡もなし
・その後に三成に仕官
 よってその戦歴は、ほとんど大和国内または信長-順昭、秀吉-定次配下での
 畿内の戦(紀州攻め・伊賀攻め)がメインで、大規模な戦は定次-四国攻め、
 秀長-九州攻めの2つのみであり、それ以降の10数年は、関ヶ原まで戦場での
 指揮の経験なし
・島氏は大和の在地土豪で、「山県昌景の下で家康が敗走するのを追った」も
 嘘っぽい

何故井伊直政が撃たれたのか

2014年12月22日 18:38

54 名前:1/2[sage] 投稿日:2014/12/21(日) 17:59:12.97 ID:tp1m86X8
磯田道史氏の『歴史の愉しみ方 忍者・合戦・幕末史に学ぶ』から

関ヶ原合戦で井伊直政は狙撃されて重傷を負った。
なぜ彼ほどの高級指揮官が撃たれたのか。家来は人垣で守らなかったのか。
戦後、井伊家ではこの状況を調査し、薩摩側の証言も得て検証し、『井伊家慶長記』に残している。


最初、直政は薩摩軍と思わずに追撃を始めた。
旗のない不審な一隊が前を横切ったので、直政は「敵か味方か」ときいた。
家来が即答。「敵なり」
葦毛馬に乗った立派な部将が見える。
「あの葦毛馬に乗った武者は予が討ち取る」
直政はそう叫んで馬で駆け出した。

ところがここで問題がおこる。
護衛が消えていたのである。
直政は近習二十五人を定めて常に自分のそばを離れず護衛するように掟で厳命していた。
ところが乱戦のさなかで近習の騎馬武者たちは「手柄を立てよう」と抜け駆けを始めた。
そのため直政のそばには武者二、三騎と足軽二十人しかいなくなった。
しかも直政の乗っている「馬がよいゆえ一番に駆け」、薩摩軍をただ一騎で追う格好になった。
直政が沼の前まで来たとき、大久保将監という者が気づき、直政の馬の口にすがりつき、
「大勢の中へ、ただ一騎で追い駆けられるのは勿体なし」と必死で止めた。
直政は「放せ」と怒り狂った。

銃声がしたのはその時だった。

55 名前:2/2[sage] 投稿日:2014/12/21(日) 18:01:35.60 ID:tp1m86X8
撃ったのは薩摩の三人組。田あぜに隠れて待ち伏せていたのである。
一人が狙撃をし、両脇の二人が抜刀して護衛していた。
はやる狙撃手に両脇が「もっと寄せろ」といい、十分に引きつけて放った一撃だった。

弾は直政の鎧の胴に命中。
しかし防弾試験済みの「試しの具足」だったため、弾丸は跳ね返って右腕にめり込んだ。
直政は槍を落とし、暫く馬上で耐えた末、落馬。
薩摩の者は「首を取らん」と近づいたが、一人が「敗軍に首は要らぬ」と叱って撤退したので、
直政の首は間一髪でつながった。
家来たちが駆けつけ、下馬して介抱してるのを見て、狙撃手は
「さては大将だったか。首を取ればよかった」と
悔しがったという。



関ヶ原合戦では直政の他にも松平忠吉が銃弾で負傷、本多忠勝も馬に被弾して落馬している。
この島津軍の強さの原因として

「関ヶ原の合戦で西軍が敗れて、島津義久(義弘ヵ)が撤退したとき、井伊直政の備えを打ち破って通った。
この時、義久(義弘ヵ)の諸勢はみな腰さし鉄砲を用意していた由。それで数千挺、士も足軽も撃ったので
井伊殿は自分も臂を鉄砲で撃たれた」(『古実聞書』)

足軽だけでなく士分の者まで「みな腰さし鉄砲」を装備していたため火力が絶大となり、
これとぶつかった徳川軍の指揮官がそろって銃創を負ったという。





56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/21(日) 20:22:43.17 ID:3IoNo/v+
自称伊達名物騎馬鉄砲隊(笑)とえらい違いw

57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/21(日) 20:47:00.34 ID:DvmRiYgG
近習が手柄を獲りに行かなければ井伊の家は違った歴史を歩んだか?

58 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/22(月) 08:32:40.26 ID:bnPPwkQi
敗軍で撤退してる敵を弱い者いじめで追撃して痛い目を見るってかっこ悪いよね

59 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/22(月) 08:56:35.20 ID:ebUxfvsG
本多も井伊も自分より弱い者しか相手にしてこなかったから勝ててきたんだよね

60 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/22(月) 09:05:24.23 ID:oQXAdr0G
裏を返せば、本多や井伊に敵う相手が居なかったということか

61 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/22(月) 09:08:19.85 ID:+L+hZItg
皆弱けりゃ大将しか強い人がいないということだな

62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/22(月) 12:40:20.22 ID:1IYQ7NeO
島津軍は強い!(1500名が数十人にまで壊滅)

63 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/22(月) 13:07:07.18 ID:Ixih73nD
スパルタ軍は強い!(300人が全滅)

敵の船をネギる。

2014年12月15日 18:48

361 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/12/15(月) 09:13:16.01 ID:+mpcXuzM
敵の船をネギる。


 慶長二年(1597)二月。再開した慶長の役により集結した日本勢。

 その軍議の席。豊臣秀吉の軍令は、全羅道(チョルラド)の征服を第一目標とするものであった。

 自然と攻撃目標として明からの援軍三千名も含め、六千の籠る南原(ナムウォン)城の攻略が盛んに議されたのだが。

「唐島(巨済島:コジェド)表には番船数百艘が漕ぎ出でて、日本より往反の船を遮っておる」

「されば、この番船を追い退けてこそ赤国へ相働くべけれ」

 全羅道の明朝連合軍の拠点を攻略する前に、朝鮮水軍を撃滅して半島南岸と日本との制海権を確保する事で議定一決。

 諸将は大鉄炮や焼き草から熊手に撃鑰(打鉤)など遠近両用の装備を調え、七月十五日の夜半に出撃。

 この戦いには藤堂和泉守高虎・加藤左馬助嘉明・脇坂中務少輔安治・小西摂津守行長の諸将と共に、島津家の家中も参陣。

 閑山島(ハンサンド)より出撃する朝鮮水軍が、巨済島と漆川島(チルチョンド)の間に流れる漆川梁(チルチョンリャン)を通過する時を狙い、陸海で挟撃する作戦だった。


 そして、加徳島(カドクト)より移動して陸路で待機する島津義弘・忠恒父子の軍勢三千余名が。唐島の碁石浜で刻限を待っている時。
 
 予定よりも早く戦闘が始まった。

「父上、舟手より時の声(鬨)が?」

「吾らも鬨を上げよ。陸と海より大鉄炮を打掛ぃ!」

362 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/12/15(月) 09:14:01.80 ID:+mpcXuzM
 兼ねて用意していた島津忠豊の率いる水軍は、予定より戦闘開始が早く、且つ余りにも朝鮮水軍の攻撃が猛烈であった為、纜を解く余裕も無かった。

「構わん、碇を切り捨てぃ!」

 解纜の暇がなかった大方の船で、次々と纜が切断された。既に漕ぎ始めていた船は、抑えていた碇が無くなるや一挙に加速。吾が船、遅しと押し出す。

「彼の船に漕ぎ雙(なら)べ。各々一度に切り乗らん!」

 忠豊の下知に、朝鮮水軍で三番目の巨船に接舷する島津の船。

「殿、お先に御免!」

 真っ先に斬りこもうとした主君を差し置いて、樺山文之助という十九歳の近習が一番に敵船に飛び乗る。……そして鎧の胸板、その外れを射られて海に落ち、忽ちに死ぬ。

「おのれ!」 「殿、御免!」

 近習の死に、今度こそ自分が乗り込もうとする忠豊だが、またしても甲斐正助という士が主君に先立って乗り込む。

 三度目の正直、と忠豊が今度こそ敵船に乗り込んだ時には、既に手勢多数がほぼ同時に乗り込み、白兵戦を展開して行った。

 中でも、足軽ながら忠豊が常々目をかけていた大倉兵衛という剛の者は、この時も主の期待に違わず舟矢倉の下に入り込み、えいやと声を上げて敵兵数多を斬り捨て、更に多くの兵が恐れをなして海に飛び込み溺死に追い込んだ。


 かくして、この巨船は乗っ取られ、即座に日本に差し渡して秀吉の台覧に供された後、慶長の末年まで大坂に繋がれる事となった。

 又七郎忠豊に賜う台書
   
  このたび唐島表において番船百六十四艘伐り捕りのみぎり。その方、自身の手を砕き(敵兵を)切り棄て、三番目の船の唐人を残らず切り棄ての由。手柄の段、比類なく候。
  殊更、その船を焼かず日本へ差し渡す儀、御感ななめならず候。何れも帰朝のみぎり、ご褒美くわえらるべく候。なお増田右衛門尉(長盛)・石田治部少輔(三成)・長束大蔵大輔(正家)・徳善院(前田玄以)申すべく候なり。

   八月九日御朱印(秀吉)
        嶋津又七郎とのへ


 海戦に敗れた朝鮮水軍は巨済島に上陸。この時点で、水夫以下は体力の限界まで船を漕いで疲労困憊の上、飲料水の枯渇で嫌でも敵地に上陸せざるを得なかったらしい。

 そんな彼らを待っていたのは、島津・小西の軍勢だった。特に島津勢は海上の戦況を観た義弘の下知で、碁石浜から島崎までの十五~六里に三千の兵を分散配置していた。

 三道水軍統制使の元均(ウォンギュン)以下の将兵は悉く殲滅され、磯近くで留まる敵船は熊手・撃鑰を打ち掛けて曳き割り、撃ち割り、焼き沈めていった。

 『征韓録』では「番船大方根切」、と形容している。

 島津家中には、忠豊(のちの豊久)が先駆けようにも同着三位になるような勇士が少なくなかったのですね。




364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/15(月) 10:09:48.05 ID:P/IbXQS/
このぱくった船はのちの何になったんだろう。

君子 三の戒

2014年12月15日 18:45

15 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/12/15(月) 12:03:19.05 ID:+mpcXuzM
 君子 三の戒

 慶長二年(1597)の八月。全羅道(チョルラド)の南原(ナムウォン)城を攻略すべく、宇喜多秀家を大将とする左軍の軍議が行われ、議定一決して諸将が陣に戻った後の事である。
 (ちなみに右軍の大将は毛利秀元、総大将は釜山の小早川秀秋)

 島津義弘は、忠恒とその近習を召し寄せ、こう語った。

「君子三の戒にも、その壮なるに及んでや血気まさに剛(こわ)し。これを戒める事、闘いあり」

 是、文宣王(孔子)の格言にして千歳不易の論なり、と義弘が説いたのは、論語の一説だった。

 孔子曰「君子有三戒。
 少之時、血気未定。戒之在色。及其壮也、血気方剛。戒之在闘。及其老也、血気既衰。戒之在得」。

 君子は、少壮の時は色欲、壮年の時は闘争欲、老いては利欲を戒めなければならない。

「今や忠恒は壮にして、血気もっとも盛んなり。然れば分捕りの高名、独り懸け等これを戒めよ」

 自身が兄・義久の守護代として参陣しているのに対して、忠恒は義久の女婿として三州の太守を嗣ぐ身である以上、軽々しく敵陣で分捕りや一騎駆けに出るな、と戒めたのだ。

「吾、久保を唐島(巨済島)の地に亡くし、追憶未だ止まず」

 最後に実父として子に先立たれる辛さを述べるや、左右の家臣は皆が落涙し、忠恒も父の説く理に納得した。

16 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/12/15(月) 12:03:56.75 ID:+mpcXuzM
 そして、八月十三日より南原城への攻撃が開始された。

 三日間の攻城戦の末、小西行長の計略により城兵が油断した十五日夜の奇襲で南門が破られると、明軍の副総兵・楊元の率いる遼東兵が西門より脱出した為、遂に落城。

 その退路には、全州(チョンジュ)の城から南原に後詰の軍勢が来る事を警戒していた島津義弘と加藤嘉明の軍勢が待ち伏せていた。

 戦死者と逃亡者により、遼東兵が思肆館まで撤退した時には、残存兵力は百人余りに減じていた(その為、楊元は明軍で処刑され漢城の南大門で獄門にされた)。

 この時、島津勢が討ち取った首級は四百二十一、佐土原勢(島津忠豊)が十三首。

 特に、島津勢の首級のうち三首は、義弘自身が斬り獲ったものだった。

 その事を聞いた途端、忠恒の中で何かがキレた。

「老巧(ママ)すらかくの如し。吾、壮にして何ぞこれを忍びんや!」

 と叫んで、制止する近臣を振り切り、単騎突出。

 その勇姿に、向かう敵は一人もなかった。……既に、戦闘は終結していたので。本当に、敵はいなかった。死体以外に。

 故に握刀の功なくして、ようやく払暁に至り帰還する。その憤怒は猛然としていたと『征韓録』は記す。

 『征韓録』の「南原之城陥事、附全州城明退事」より抜粋。義弘の活躍と(忠恒と連名ながら)秀吉より賜った戦果を賞する朱印状に続いて、忠恒の個人戦果なしの逸話を乗せ、〆に忠豊の朱印状を持ってくる構成。

 作者(編纂の総裁は島津久通)は、忠恒(家久)に含むところでもあったのだろうか?




20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/15(月) 20:09:59.98 ID:6REdTz3o
>含むところ

忠恒の場合心当たりが色々とありすぎるからなw

久保主従の虎狩り

2014年12月12日 18:35

346 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/12/12(金) 02:00:14.52 ID:on4xVGIO
 久保主従の虎狩り

 文禄元年(1591)初冬の頃。江原道(カンウォンド)の金化(カムファ)に在番する事になった島津義弘・久保父子。
 
 この城は咸鏡道(ハムギョンド)・江原道・慶尚道(キョンサンド)の三道が交わる敵地の只中。
十二月に永平(ヨンピョン)から島津勢が移動して以来、金化城の背後に聳える高山に敵の大物見が現れて久保自ら馬上二十騎、
鉄炮足軽二百を率いて敵兵二十九人を討ち取る(『島津久保と木に吊るした首』参照)ような油断できない状況に置かれていた。

 そんなある日。

 久保は鷹狩りを行う為、城外の広野へ。ところが、勢子を勤めさせようとした現地の樵や草刈りの者らは、「この山中には虎が出る」と
口々に訇(ののしっ)て静止した。

 ここにおいて久保、

「ならばその虎、射止めん!」

 と下知して自ら大鉄炮を下げて山へ。こうなると供奉の人々も此処彼方(ここかしこ)に馳せ散って暫時の間に虎が潜む小山を取り囲んだ。

 二~三町の距離まで包囲の輪を縮めた時、山の頂に巨大な虎が姿を現す。その姿は猛虎が山岳で吼える姿そのもので、眼光は鏡の如く煌き、
尾を揺かし身を縮めたかと見るや、疾風の如く小山の頂から久保まで突進を開始。

 供奉の人々が手に汗を握り、固唾を呑み硬直する中で、真っ先に動いたのは大山新藤だった。

 彼は久保の御前に跪き、

「殿! 御鉄炮を某(それがし)の肩にかけられ、あの虎――」

 自身の肩を大鉄炮の筒先を固定する支点として、あの虎を撃ち遊ばされよと言い終わる前に、久保も新藤の意を察して彼の肩に銃身を据える。
(こんな事をすると鼓膜は避けるし顔も火傷するけど、覚悟の上なんだろうな…)

 が、虎は迅い。早すぎて発射が間に合わないと、誰もがあわやと思った瞬間。

「蓬(きたな)し! こなたに来たれ!」

 供奉の一人、大田吉兵衛忠綱が眼前を横切る虎を怒鳴りつけたのだ。抜刀して怒鳴りつけてくる大田に、
突進していた虎が反応して身体ごと振り向こうとした瞬間。

 その静止の間を久保は見逃さなかった。

 久保の大鉄炮が虎の頭部を打ち貫く。急所を一撃され、宙に躍り上がる虎の巨体。その身が地面に落ちるよりも早く、大田の一刀が虎口を鍔本まで貫いていた。

 主従の同時攻撃を受けて、さしもの猛虎も即死していた。

 以上、『征韓録』より「久保主虎を射る事」の抜粋です。




中馬大蔵

2014年09月04日 18:54

125 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/04(木) 04:29:14.01 ID:tENVPmda
中馬大蔵

秀吉亡きあと、前田利家が他界すると上方
での情勢が慌ただしくなってきました。
誰もが戦が起きると感じ取っていたようです。
しかし、その頃の島津義弘の在京兵力は
わずかに200人ほどでした。
「義弘が京で兵がなく困っている」というニュースは口コミで伝わり、なんと義弘を
慕う家来たちは陸路を京へと走り出したのです。
その時、中馬大蔵は畑にいて甲冑を着て走
る者を呼び止め、その話を聞くなり、その
者の甲冑を奪い、走り出しました。
大蔵は九州統一のころから、朝鮮出兵にも
義弘軍に従軍し、非常に義弘を慕っていた
ことがうかがえます。このように、陸路を
走って、関ヶ原の合戦の開戦の前に着陣し
た者は1000人ほどいました。そして、大蔵
が着陣すると義弘は「大蔵は真っ先に来て
くれるだろうと思った」と涙まで見せたと
いいます。




126 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/04(木) 06:32:04.97 ID:tFlF7n/c
「走って参った!」

ってか奪うなよw

127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/04(木) 07:33:08.46 ID:TtX6PoK2
奪われた家臣はその後どうなったん?w

128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/04(木) 08:30:50.29 ID:s1I28lv4
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-390.html
ちゅうまんさんの有名なエピソードだとだとおもったのに、
そういう反応がないってのは、もしかしてこの話が有名なのは鹿児島だけだったのだろうか
鹿児島の自分の伯父なんて、島津義弘の名前は知らないのに、なぜか中馬重方の名前は知っていた

129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/04(木) 08:56:31.45 ID:TRRUjqoY
大坂や京なら戦場でかっぱらってきた甲冑を売ってそうだが
もっとも、畑仕事に行くのに銭なんか持って出ないだろうが

130 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/04(木) 10:40:44.49 ID:eB71V3XZ
薩摩人は素で「考えるな。感じるんだ」みたいな連中だからな
だからこそ最強のお留守番も、くじを引いて視覚的に納得させたのだろう

131 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/04(木) 10:52:20.50 ID:s1I28lv4
一応中馬重方はちゃんと考えている方
以前にも出たが、関ヶ原の退き口後薩摩に逃げ帰る途中、
弱った馬を潰し、義弘の駕籠かきが義弘に馬肉を差し出したところ、
中馬「こら!殿様はいざというとき腹を切るだけの力が残っていればいい。
馬肉は駕籠かきのお前が食え!」(自分が食ったという話も)
と思慮深い発言を

それがしは遂に功を挙げる事が出来ませんでした

2014年02月27日 19:09

467 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/02/26(水) 20:34:20.52 ID:sCDBYhIN
「それがしは遂に功を挙げる事が出来ませんでした」
とある老武士が、話相手の老武士に言った。
二人は主従であり、話しかけたほうが従者である。
言われた側、即ち主人の方の老武士は怪訝な顔をした。
ともに隠居するまで、それはそれは数え切れぬほどの戦場に出ては生還してきた。
「功がないわけがなかろう」という主人の疑問である。

これに従者が笑って曰く
「兵と見れば殿が槍をふるって追い払い、将と見ればこれまた殿が御自ら討ち取っておられましたので」
大将が自ら陣頭に立って槍を振るう、従者としては頭と胃が痛くなるような悪癖が
「とうとう隠居するまで直りませんでしたなあ」と軽く皮肉ったのである。

これに主人はうまく返すこともできず「ああ、そうだったそうだった」と
苦笑いするばかりだったそうな。

関ヶ原も大阪の陣も過去となった泰平の世。
島津兵庫頭義弘と中馬大蔵重方主従の会話である。