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福永丹波守の降伏

2022年12月08日 19:32

655 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/08(木) 14:18:58.13 ID:nCF+it7y
薩摩藩「本藩人物誌」から福永丹波守(福永祐友)の降伏

福永祐友は日向の伊藤義祐の寵臣で、島津との境目の野尻城代であった。
そのため薩摩方は内通の手紙をつくり、わざと佐土原に落とし、伊藤義祐の目に触れさせた。
義祐は手紙を信じ怒ったが、祐友は「逆心の考えはまったくありません」と弁明し、
祐友嫡子を「ちょうど十三になるので元服のお許しをいただきたい」と佐土原に送り、二心のないことを示した。
しかし五、六十日経っても元服の許しが得られず、戻ってきた。
さらに五、六十日佐土原に送ったが、今度も元服の許しは得られなかった。
祐友は恥辱に思い、このような主君では当家の行く末も暗いだろうとついに薩摩方への内応を決意した。
祐友は、天正五年十二月七日(1578年1月14日)までに祐友嫡子を差し出すとひそかに薩摩方に約した。
十二月六日、祐友は伊東からの監視番に
「御酒や肴を差し上げたいが今城内には珍物もございません。明日子供達を城から出して山で狩猟をさせようと思います」
と言って、翌七日に子供達を外に出し、嫡子を薩摩方の小姓と取り替えた。
そして夜になると、薩摩方の巧者三十人ばかりが本丸に忍び入り、侵入経路に城外から見えるように白紙をつけた。
それを目印に続々と都合三百人が忍び入った。
祐友の妻は「極寒のみぎり、ありがたく思います」と一人一人にみずから温かい粥を差し出した。
準備が整ったため祐友は本丸の矢倉に登り、大音声で
「伊東からの監視番の方々、昨日までは伊東方であったが、遺恨により只今より島津殿を奉戴する。
すでに薩摩勢三百人が城に入り、まもなく数千騎が城に押し寄せることになっている。
かくなる上は早々に開城なされよ」
それとともに薩摩勢が天地が振動するほど鬨の声を上げたため、監視番衆は周章狼狽し、何人も討ち死にしながら道具も捨てて逃げていった。
翌八日、忠平公(島津義弘)が御馬廻り二、三十騎を連れて城の近くまでいらっしゃった。
祐友は十文字の旗を見るや郎党どもを後ろに残し、一人で忠平公のそばにより、路傍で平伏した。
こうして忠平公からありがたいお言葉を頂戴した祐友は日向攻略においてその後も大いに働いた。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7638.html
こちらによれば手紙の計略は上原長門守(上原尚近)によるものだったとか



656 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/08(木) 15:02:44.59 ID:uPiFJWJ5
後の福永祐一である

657 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/08(木) 16:54:00.58 ID:lD7ByqrZ
似たような名前の調教師がいるんだね

658 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/08(木) 19:23:37.95 ID:n3yFMfag
祐一本人のこと?
ちょうど免許取得して来年から調教師に転身するし

659 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/08(木) 21:57:52.59 ID:pfjhqYpK
子孫かしら

660 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/08(木) 22:47:20.42 ID:cyuyX5mr
福永家は高知の地主だったらしいよ
その縁で祐一は何度か高知競馬にいって乗ってた
ついでに武のほうの先祖は薩摩の武士やね
親族は明治期には国会議員も務めてるし日本の近代競馬草創期の重要人物
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志賀親次の島津との合戦

2022年08月02日 18:30

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/02(火) 17:28:40.91 ID:3Lv4miiH
「大友興廃記」より志賀親次の島津との合戦

島津義久の舎弟、兵庫頭義弘が天正十四年(1586年)の冬、豊後朽網に在陣したため、大友家の大身の将どもは大友家を背き義弘に次々と従った。
ただ義弘は近くの親次の岡の城には攻めあぐねていた。
それどころか志賀親次の手の者が義弘陣所に忍び入り、小屋などをたびたび焼き払った。
また天正十四年冬の初めから翌二月の末まで、親次が攻め滅ぼした城は十五に上った。当時志賀親次は十八歳であった。

また肥後国坂足は豊後の幕下にありながら早々に薩摩勢に降っていたため、志賀親次は天正十五年三月十八日に阿蘇表に出て坂足を攻めた。
このとき志賀勢は宮ノ寺に陣を張ったが、岡城の雑兵の奴ばらは釣鐘を壊し、狛犬を焼き、社壇を破り、鳥獣を殺し、肉食をするなどの邪なる振る舞いをした。
さては軍に物の怪が取り付いたのではないかと人々はおそれた。
そんな折、薩摩勢の新納忠元、伊集院肥後守、入来院、祁答院らの四大将の軍が豊後日田から肥後国小国に到着し、この豊後勢の狼藉について地元の住人から聞き知った。
翌朝、薩摩勢の四大将は宮ノ寺の豊後勢に打ち掛かった。
豊後の先陣として中尾伊豆守、大塚典薬、朝倉伊予守、中尾駿河守、朝倉土佐守などが受けてたった。
しかし前夜に神前を穢し、その身も穢れに触れた奴ばらは、眼前に霧が襲って全く物が見えなくなり、草木を敵と思って斬りかかったり矢を放ったりした。
あたかも自ら首を刎ねてくれと言わんばかりであり、雑兵かれこれ百五十人が枕を並べて討死した。
中尾伊豆守は軍兵に「このたび山谷鳴動し、煙雲が味方を襲ったのはただごとではない。
軍気をうかがって退くべきだ」と言って退却した。
そののち豊後勢はなんとか態勢を立て直し、豊後、薩摩双方とも軍を引いた。
また朝倉一玄は「このたびの阿蘇表への出兵は、親次の勇み足であり、血気の勇に似た振る舞いであった。
若気の至りとはいえ、親次には似合わぬことであった」と言ったそうだ。

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/02(火) 17:33:37.41 ID:3Lv4miiH
なお志賀親次は熱心なキリシタンだったそうで。



後醍院宗重の息子たち

2022年05月06日 18:13

170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/05(木) 22:36:45.19 ID:2DXCFnUB
薩藩旧伝集」には後醍院が伊勢路を選んだ理由について
「いつも箱に入れて持っていた大黒様が伊勢路を向いていたから」
という話もある

薩藩旧伝集」より後醍院宗重の息子たち
後醍院喜兵衛、入道して淡斎は文禄の役後から島津家に仕えていた。
(相良→島津→佐々→小西→島津のようだが)
惟新様(義弘)が帖佐建昌の城下、餅井田原で鷹狩を遊ばされた時、田舎馬に乗ったみすぼらしい老人に行き当たった。
老人は殿様を見るなり馬から飛び降りおそばに参ったが、
惟新様はことのほか丁寧にご挨拶あそばされた。
老人も「御機嫌を伺いに参ろうと思っておりましたが、こうしてお目にかかれるとは」と申し上げると
惟新様は「帰る時はまたこちらに寄ろうぞ」と御意を示された。
淡斎の嫡男、高橋少三郎はそのとき惟新様のお供をしていたが、お側の衆にこの老人の名を尋ねたところ、
浜田民部左衛門入道英臨(浜田経重)である、と答えられた。
その時、少三郎は興の醒めた顔でいたが、帰宅したのち父の淡斎に対して
少三郎「かくかくというわけで、みすぼらしい身なりをした老人は太閤様にまで名が轟いていた、武辺者の浜田栄臨でありました。
あれほどの武辺者でもあのような暮らしぶりでは、我々の暮らしぶりでは御当家にとって恥といえ、とうてい出世の見込みはないでしょう。
上方へ奉公に出たいと思います」と言うと
淡斎「何事もそなたの了簡次第である」
とのことだったので、少三郎は因幡鳥取に召し抱えられたと言うことだ。
なお淡斎の次男、蔵之介はというと謡(うたい)数寄で夜が白むまで謡を唄っていたため、淡斎は
「武辺者の子がかように遊芸にこるとは、なんと口惜しいことよ。
殿様(島津忠恒)は能が数寄なので、万一謡のせいでそばに召し加えられるようなことがあってはかえって迷惑だ」
と申したということだ。

171 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/05(木) 22:39:45.94 ID:2DXCFnUB
そんな蔵之介であったが、
慶長五年の関ヶ原合戦から六年目、惟新様七十歳の時、吉野で御馬追が行われることになった。
特別に二才(にせ)衆には異様の姿でまかり出ることが許されたため、鹿児島の二才衆がおもいおもいの格好で馬に乗りまかり出る中、
後醍院蔵之介だけは野袴で馬にも乗らずに出てきた。
二才衆は「あの髪と身なりをみろよ」と皆々笑った。
さて吉野で本礼落とし(競馬?)の時、蔵之介は袂から食べ物を取り出し馬に食わせ、さっと馬に飛び乗り二つ三つうちこむと真っ先に駆け出した。
その時「さてもさても淡斎の子だけはある」と皆々が申した。
惟新様も本礼落としをなさったそうだ。



後醍院宗重、関ヶ原にて

2022年05月05日 18:30

169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/04(水) 21:24:12.40 ID:/7YhvoxA
薩藩旧伝集」から
後醍院宗重、関ヶ原にて

・惟新様(島津義弘)は、関ヶ原合戦で味方が敗軍いたしたため御戦死を決意なされた。
しかしいろいろ諌め申し上げて、落ち延びることになった。
しかしどの方角に落ち延びたら良かろうとなった時、後醍院喜兵衛宗重が申し上げたことには
「おっつけ、内府公(家康)は陣場を移動されるでしょうから、その陣頭を突っ切って伊勢路へ落ち延びるべきかと思います」
その言葉にたがわず、内府公は陣場を大谷刑部殿の陣場に移動し始めたので、その陣頭を突っ切って、伊勢路へ落ち延びることができたということだ。

・惟新公が関ヶ原から落ち延びる時、城中の敵にむかって後醍院喜兵衛は
「島津兵庫頭(義弘)、ただいままかり通る!」と声高に申し上げた。
惟新様をはじめみなが「そのようなことを申すな!」と言ったところ
喜兵衛「このようにいえば、皆必死になるので強みが増すでしょう」と答えたということだ。
これについては後醍院ではなく薬丸壱岐(兼成)が言ったという説もある。
それによれば薬丸壱岐殿は伊賀上野の敵城下にて「兵庫頭ただいままかり通る!」と声高に申したため、
「壱岐は厄介者だから後からついてこい」と言われてしまい、列から追い出され、後からついていくことになったという。
上野城ならば敵も少し出てきて戦ったことだろう。

後半は似た話が前に出ていた
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4775.html
1600年、伊賀山中にて



後醍院喜兵衛の話

2022年05月03日 16:00

165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/03(火) 09:46:10.21 ID:rJTBUjzh
「薩藩旧伝集」「薩州旧伝集」より関ヶ原の島津退き口で活躍した後醍院喜兵衛(後醍院宗重)の話

・江戸で火事があった時、薩摩の衆も大勢火消しのために働いた。
みなが火事の風下にまわって作業しているのを見た後醍院喜兵衛は
「おのおの、そこは風下である。風の脇で火を消されよ」と言うと
みなは「弱気なことを言うやつめ、さあ火消し壺になれ、焼け死ね、焼け死ね!」と言いながら消した。
消火がおわり、誰も怪我したものはなかったが
喜兵衛が言うことには「あんな火事で一命を捨てさせてはならぬと思ってああ申したが、逆効果であった。
もっと言葉に気をつけるべきであった」

ある時、喜兵衛が下人に慮外があったため長刀で斬り殺した。
ある人が「下人を殺すのに長道具など使うとは大袈裟な、刀を使えばいいものを」
と言ったところ、
喜兵衛「刀を使って万一怪我をしてはなりませんから長道具を使いました。
戦場ではさすがに下人を相手に長道具や飛び道具などは用いませんよ」と言った。

ある時、家に立て籠っている者がいて、喜兵衛に捕縛が命じられた。
喜兵衛主従はみな具足を着用し押し入って捕縛した。
人々「鎧など着るとは臆病者だ」と非難したが
喜兵衛「このような立て篭もり程度で、万一し損じて怪我をしてはいけませんからな」と答えた。



山本義純の事

2022年05月02日 21:11

467 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/02(月) 16:15:00.81 ID:vAHEkKsE
上記の「薩州旧伝集」の元となった?「薩藩旧伝集」(1908-1909年に発刊された「薩藩叢書」に収められている)の巻二には
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13210.html
関ヶ原で島津義弘の身代わりとなった長寿院盛淳(阿多盛淳)を討った者として

慶長五年九月十五日関ヶ原敗軍、義弘公も必死におきわまりあそばされ、取って返したまうを、
阿多盛淳長寿、公の鎧をひかえ
「大将軽々しく命は捨てぬ者たり、御旗と御名乗り賜り候え、私御命に代わりもうすべく。落ちさせたまえ」と諌め奉る
「島津義弘討死」と名乗り一戦して松倉豊後重政の家臣、山本七助義純に討たれもうされけるとなり

と、松倉重政の家臣の山本義純の名前が挙がっている

468 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/02(月) 16:19:15.43 ID:vAHEkKsE
「朝野雑載」ではこの山本義純は以下のように書かれている

新羅三郎義光の三世、遠江守兼左兵衛尉義定(安田義定?源義経と同名の山本義経の父親の山本義定は義光の孫で別人)より十九世の孫、
山本左京進義里は江州浅井郡山本郷に居住し、代々佐々木京極に仕えていた。
のちに佐々木六角の家臣となったが、天正十年(1582年)六月三日に明智光秀の兵が江州観音寺城を攻めた時に義里は討死した。
(本能寺の変と観音寺城の戦いを混同?)
義里の息子、山本七助義純は永禄十一年(1568年、観音寺城の戦いの年)に江州甲賀に澤田氏を母として誕生した。
義純は幼少だったので大和の松倉豊後守重政に仕え、重政の主人の筒井順慶が松永久秀と合戦した時には毎度戦功をあらわした。
(松永久秀が死んだのは天正五年(1577年))
中でも天正十二年(1584年)に筒井伊賀守(定次)の手に属し、伊賀国獺瀬城に一番乗りを果たした。
城の陥落後、秀吉公は豊後守に感状を賜り、豊後守は七助(義純)に刀を授けた。
また関ヶ原御陣では島津兵庫入道惟新(義弘)の家臣、阿多盛淳入道長寿の首を取った。
この合戦後、七助は豊後守の下知を受け、主人の妻が島左近の娘であったゆえ島左近の家に置かれていたのを、智計を巡らせて取り返したという。忠節莫大であった。

内容もそうだが、六角や澤田の苗字が出てくると、沢田源内の偽書出典ではないか気になる。

469 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/02(月) 16:25:01.52 ID:vAHEkKsE
なお、湯浅常山「常山紀談」の「山本権兵衛、功名のこと」
では山本義純の息子とされる山本義安について

松倉豊後守重政、後藤又兵衛の陣を切り崩す。
松倉が士、山本権兵衛義安、十八歳にて槍を合わせ首を取りける隙に槍を敵に取られたり。
その槍じるし、敵の中に見えしかば、
「今はこれまでなり、討死せん」といい捨て敵の中へ入り槍を取り返し、その槍にてまた敵を突き伏せ、首を取りて帰りけり

とその勇猛ぶりが描かれている



島津家由緒

2022年03月15日 19:12

85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/15(火) 13:42:55.32 ID:Zb4IE7Az
近衛殿の御家令である、近藤兵部大輔が物語したことである。

島津家の事について、かつて、近衛殿に仕えた豊後の局という女性が、関東に下って源頼朝に仕えたが、
二位殿(北条政子)が彼女に嫉妬し、梶原景時に対し、「由比ヶ浜に沈めよ。」と命じた。
梶原はこれを請けて局を捕えた所、局はこのように訴えた

「私は京都に在った時、近衛殿の御憐れみを受けて既に懐妊しております。我が身がいかように成っても、
この子までを空しく成されることの悲しさよ。」

これには梶原も、佐殿(頼朝)がどのように思われるかも恐れ、殊に懐妊している事も憐れに覚えたため、
二位殿には「沈めました」と報告し、密かに鎌倉から落とした。そして摂津国難波のほとりの石の上にて
出産した。それは男子であった。この事を近衛殿に申し出ると、近衛殿は男子を慈しみ育て給った。

男子成長の後、関東にこの由が聞こえたため、頼朝は呼び迎え給うた。そして折節、薩州の島津に
継子が無かったため、この子を与えられた。
これにより島津は頼朝の御子の血筋とも申すが、実は近衛殿の御子の血筋なのである。
この男子出生の時の石のほとりには一社の産土の神が祝われ、今も島津家の上下共に、往来の度毎に
参詣しているという。

慶長・関ケ原の役で、島津家の人々を近衛殿は密かに家に隠された。その人々を隠し置かれた
土蔵は近年まで「島津蔵」と伝えていたのだが、現在では焼失したという。

紳書抄

島津家の由緒について



豊後の佐伯太郎惟定は、驍勇智謀の将であった

2022年01月31日 17:10

2 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/31(月) 12:35:08.62 ID:H6kEBq4H
豊後の佐伯太郎惟定は、驍勇智謀の将であった。

豊薩合戦の際、島津兵庫頭義弘は、その甥である島津中務大輔豊久をして使いを遣わし、
彼に降伏することを説いたが、惟定はこれを聴かなかった。
豊久は再び使いを還し、利を以てこれを誘ったが、惟定はこの使いを斬って大友宗麟
二心無きことを示した。豊久は怒り、多兵を以てこれを攻めた。

惟定は使いを斬ってから、豊久が必ず来襲することを慮り、その策臣である山田土佐入道匡徳と計り、
伏兵を置いてこれを待った。
先ず、徒歩の者を三ヶ所に置き、一見深く隠しているようにして、少しばかりその形成が顕れるようにした。
豊久は斥候を以て探索し、三ヶ所の伏兵を発見し、直ぐにこれを攻撃した。

三ヶ所の伏兵たちは、惟定が兼ねて命じていたとおりに、攻撃を受けると急ぎ走って逃げ去った。
三ヶ所の伏兵は命に従って死を免れた。そして薩摩の者達は、これによって他に伏兵はいないと考え、
再び探索することをせず、佐伯惟定を軽んずる思いを持った。

この時、惟定は騎士の伏兵を道路より二、三十町下がった山間に置き、豊久の軍が通過するのを待って、
廻ってその後ろに出た。

豊久の軍に対し、惟定は地の利を利用してこれを防いだ。豊久の軍は破ること出来ず徐々に疲労した。
これを窺って合図の法螺が吹かれた。一の騎馬の伏兵、法螺を聞いて左より俄に起き、豊久軍の横を
断とうとした。豊久の兵がこれに当たろうとすると、ニの騎馬の伏兵右より起こり、それぞれが
左右を衝こうとすると、そこに三の騎馬の伏兵が中より起こった。
ここで本陣の匡徳正兵となり惟定奇兵となって即座に進んで縦伐した。
豊久の兵は目が眩み志奪われ、大いに敗れ潰走した。

志士清談

佐伯惟定の策謀について



3 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/31(月) 13:46:28.92 ID:7kjVdDgC
戦国期、西国は騎兵使わない戦闘が多いと聞くが、この物語だと騎兵使ってるのね

一向他国の風を似せ申間敷

2021年10月24日 16:07

729 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/24(日) 13:40:41.53 ID:ennThT4i
島津義弘公は若い頃、寒中に生竹を枕元に置かれ、毎朝目覚めると同時にその生竹をひたと握って
剛毅の気象を養成されたそうである。公の御意にも

「他国の風に似せてはならない。人の身成は国の風儀である。軽薄な所に心を寄せてしまえば、
正直も大仰に成り行くものだ。」と仰せに成られた。また、かねがね御側衆に向かって

「郷談(他国風、都風の言葉遣いのことか)を使い、他国の風を真似る時節ともなってしまえば、
薩州は則ち弱くなるだろう。
今日の勢いに於いてはたちまちに郷談流行し、身内までも余所者のようになるだろう。」と仰せられた。

義弘公の時代には、「一向他国の風を似せ申間敷」旨、上洛する諸侍は誓紙を差し上げたということである。

軍神島津義弘公



殿様、お召し上がりください

2021年10月17日 16:25

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/17(日) 13:14:14.09 ID:bbP7T4U9
島津義弘公は、関ヶ原御退き口の砌、ある山中へ差し掛かった折に召し上がるものが全く無く、
従臣一同当惑した。中馬大蔵は夜に入って白坂大学坊と共に山中を忍び出て、付近の民家に押し入り、
若干の餅を徴発して来た。公は手ずからその餅を切って、悉くこれを従臣たちに分け与えた。

これを見て御側衆より「殿様、お召し上がりください。」と申し上げたが、公は頭を振って
「私には未だ干飯も残っている。各々などは私を大事に思ってくれているからこそ、このように
付き従って帰国するのであるから、もしも各々が草臥れては私が難渋をするのだぞ。」と
仰せになられ、如何に御勧め申し上げても、この餅の一切れも召し上がらなかった。
大蔵を始め御供の面々は、有難さに涙に掻き暮れ、暫くその頭を上げることが出来なかったという。

軍神島津義弘公



695 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/17(日) 13:30:19.39 ID:HzHAbcB0
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-391.html
中馬大蔵、島津義弘の兵糧を奪う・悪い話


中馬さん「殿様はいざという時切腹するだけの体力があればいい
この馬の肉は駕籠を担いでいる我らが食うべきだ」

こっちの逸話の方が有名だけど真相は

寺は人を救けるために

2021年10月16日 15:17

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/16(土) 00:11:20.52 ID:MYzB5DE6
島津氏領内の寺院には、従来山門が設けられていなかった。
そこで島津義弘公の時代に、「山門が無ければ盗難の禍が有り、ついては何れの寺院も山門を建立すること
勝手たるべき。」旨の御許を受けたいと願い出た。

公は一応、その願いを聞き届けられたが、「ただし、寺は人を救けるために建てられたものである。
門を立てれば、人に追いかけられるなどして寺を頼み来る者に不便が多いだろう、であれば、門を
閉めても寺に入れるように、門の戸に添柱を立てて、これを登り越せるように致せ。」
との御諚であった。

そこで薩摩藩の寺院はその後、山門に添柱を立てて、横木を入れる事となった。
こういった事は他藩の寺院には絶えて無き事である。

軍神島津義弘公



老鼠死而猫憂

2021年10月13日 16:08

669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/13(水) 13:19:07.11 ID:vp1BtXuF
加藤清正死去の報が薩摩に伝わると、島津義弘の御家老衆は御居間に伺候して、目出度いことであると
祝辞を申し述べた。すると義弘公は以ての外の御不興にて、突と奥に入られた。皆々その御心底を
解しかねて当惑していた所、公は奥より御書付を持って出てこられ、それを近臣一同へ下し置かれた。
列座の諸士が恐る恐る拝見すると、そこには一枚の奉書に

 老鼠死而猫憂

との六文字が認めてあった。
これは清正存生の間は、この方にも備えが有ったが、彼が死んでしまえばそういった心がけも薄くなって
しまう事を、深く憂慮するとの御意を顕されたものであった。

軍神島津義弘公



670 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/13(水) 13:55:02.26 ID:zU7uTRPh
書状からもだけど
島津ほんと清正のことだいっきらいよね

673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/13(水) 22:57:42.30 ID:l1O4yBxb
>>670
それだけ清正が島津から見て優秀だったって事かね?

674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/13(水) 23:01:49.18 ID:JEQYkWX+
庄内の乱なんかでも清正が裏で画策してて家康から確か怒られてるし
関ヶ原の後も兵寄せていつでも攻められますって状態にしてたんで、表に裏に清正は島津に攻めたかったんだろな感
唐入りで領内財政傾いてたようなんで、隣国攻めて改善したかったのかもね

675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/13(水) 23:23:33.58 ID:1Mbk+OEt
隣の外様は潰したいでしょ
島津なら攻めても幕府に怒られないだろうという読みもあったのでは

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 03:05:32.35 ID:qyPo8WuQ
>>673
もっと後の西南戦争で、熊本城攻めに苦労した西郷どんが「おいどんは官軍に負けたのではない。清正公に負けたのだ」って言うくらいだし

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 06:58:07.60 ID:UqMma+8p
武士が農兵に負けたからって惨めな言い訳だなあ

682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 10:21:47.09 ID:tCMgCT74
それだけ城の縄張りが優れてたってことかな。
あと装備も違うだろうし。

683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 11:29:38.38 ID:MtEDOuhq
近世城郭を近代兵装で破れないわけないから単に装備が不足だったってことだよね
そうは言えないから清正公にやられたってだけで

ところでこの話しは俺は司馬遼太郎の小説でしか知らんのだけど、司馬が引いてきた原典はなんなんだろ

684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 15:54:05.97 ID:qyPo8WuQ
>>683
原典はともかく、薩摩人がこれを聞いたら「なら仕方ないな」って思ってしまうような空気はあったんだろうなと思う

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 16:02:17.43 ID:ClkTPPgG
創作でなければ、肥後の諸隊の誰かじゃないの、佐々友房とか

戦線を下げるにあたって見捨てた旧肥後藩士の歓心を買う必要もあったろうし
もともと熊本城は先祖菊池氏の旧跡で、薩摩藩の敵でもあった清正を
旧薩摩藩士の前で持ち上げる理由はなさそう

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 17:20:53.63 ID:s+R41qBP
清正は江戸時代になんの脈絡もなくお話に出しても盛り上がるくらい人気あるキャラになってたみたいだし、スーパーヒーロー化されてそう

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 17:22:25.04 ID:JgA33ZBN
出陣するとキヨマーコールが起こってたらしいな

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 18:07:04.53 ID:TyVjd+04
さしたる用もなかりせば、これにて御免
は義経だけかと思ったら清正もか

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 18:17:40.74 ID:9xaF32fH
清正は熱心な法華教徒だったことから、死後早い段階で
法華宗の守護神みたいに受け取られていたらしく、それが
江戸期の人気のベースに成ったらしい。

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 19:46:27.96 ID:RaZ70FYM
そうかそうか

691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 19:52:15.88 ID:X49hgEcq
ホーホケキョ

693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/16(土) 06:32:38.56 ID:TFPoCrbq
>>689
清正が生前に描かせた肖像の下書きが没後すぐに法華宗寺院に納められ、早くから御神影として拝まれていたというから
当時の法華宗信者には清正が自分達のヒーローであり死しては同じ宗旨の自分達の守護神となってくれると期待されたのは間違い無い。
ただそれとは別に熊本地域のみで清正人気は高かったらしく、清正神格化は日蓮・法華宗が全国的だが熊本だけ単に神として江戸時代神社に祀られた例もある。
全国的な清正神格化は明らかに日蓮・法華宗の影響だが、熊本単独での神格化は他県の人間には正直わからない。

明日は一緒に討ち死にじゃ

2021年10月10日 17:39

655 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/10(日) 00:23:46.01 ID:I/RT7GDO
島津義弘公が高麗在陣の砌、肥前の五島家より『兵糧が切れてしまったので貯穀をお貸し下されたい。』
との旨の申込みが来た。実はこの時、薩摩の陣中にも余分の貯穀は無く、僅かに三日間を支え得る
のみであった。そのため、家老衆をはじめ諸人皆、これを断るべきだとの旨を談合した。

しかし義弘公はこの事を聞いて頗る残念に思し召され、直ちに老臣を召されると、言葉厳かに言った

「偶々、武士が頼みに来たのに兵糧無しと返答するというのは、義理に外れている。
少しであっても遣わすように。明日は一緒に討ち死にじゃ。」

そのように仰せに成り、御家老衆も是非無く、貯米の半ばを割いて五島家へ送ることとした。
この時薩摩の陣中では

 五島若衆は浜千鳥
   みめはよけれど磯せせる

と、歌い囃したそうである。その後三日を経ない内に、本国より兵糧船が到来して皆々愁眉を開いた。

軍神島津義弘公



656 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/10/10(日) 09:40:58.99 ID:WUvroWhc
どの程度必要だったのかというとこだが、まとめ過去のこれだと、五島家の軍勢は実戦部隊160人、輸送下働きが300人ってとこか

立花統虎(宗茂)8万国・(高橋)統増2万国に対する軍役等
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-12691.html

658 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/10/10(日) 23:19:07.78 ID:WUvroWhc
>>655-656
島津軍のあくまでも史料上の参戦当初の数値では総勢10800ね

659 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/10/10(日) 23:21:05.45 ID:WUvroWhc
もちろん、自家よりはるかに小勢だから気前よく分けてやれよってお話でもありませんが

662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/11(月) 17:10:10.65 ID:QttkdCRV
まあ1万人の3日分で9万食分手持ちがあって、500人の同じ3日分で1500食分分けるなら
1.66%だから少し分けてやって恩を売っとくか、みんな少なめに食べとけとなるが

半分もやったんかーい

あれこの当時って1日2食だったりするか?

663 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/10/11(月) 20:48:03.95 ID:VItcYL67
>>662
江戸中期辺りから庶民が徐々に三食取るようになりだした。社会の安定化と米供給の安定・都市の肉体労働的職務の発達で自然と三食へ変化したらしい。
でも上流階級は基本三食取ってた訳でなく結構後まで三食というより二食と中間のオヤツ程度で、戦国時代なら上流低層問わず二食が普通で三食取る事自体無かった。
だからこの逸話の時期なら多分二食。

薩摩藩「本藩人物誌」より長寿院盛淳

2021年10月07日 16:23

649 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/06(水) 19:22:36.43 ID:yBNGTRH+
薩摩藩「本藩人物誌」より長寿院盛淳

もともと畠山氏であったが幼少より出家し根来山に8年、高野山の木食上人に学ぶこと3年で薩摩に帰国。龍伯公(義久)より家老を命じられた。
上京した龍伯公が泰平寺に御家人七人をお供にして向かったところ、京勢が道を遮り島津勢を嘲笑した。
このとき盛淳は刀を抜き、眼を怒らせて叱責したところ、京勢は恐れをなして島津勢に対して道を開けた。
上方騒乱の際、大垣に着陣したところ惟新公(義弘)は手を取って大いに喜んだ。石田三成も着陣祝いとして金の軍配を贈ってきた。
関ヶ原合戦では「万一の殿の御大事に備えて羽織をいただきたい」と惟新公の羽織を拝領し出陣。
負け戦となったため「殿様は何処にいらっしゃる?」と家来どもに聞いたところ
「すでに遠くへ御退去されました」と家来が答えたため満足し、刀を抜き、拝領の羽織と金の軍配を敵方に見せつけ、
「島津兵庫頭(義弘)、死狂いなり!」と名乗りを上げ、大勢の敵に斬りかかっていき、敵方の槍数本に貫かれて死んだ。

更に主従の区別も無いほどであった

2021年10月03日 16:29

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/03(日) 15:22:34.27 ID:BDVYgDQG
島津義弘公が高麗在陣の砌、綿入れ二枚を重ね着していた者をご覧になって
「男児たるものがそのように大着をするものではない!」
とお叱りに成られた。そのため出征の将士たちは、皆綿入れ一枚で羽織も着ず寒さを凌いだそうである。

また寒中滞陣の砌は、陣小屋に大囲炉裏を長く拵え、それに火をいっぱいに焚き、何れも両方より
足を差し出して、火に当たりながら夜を明かすのを例とした、義弘公もこの時ばかりは、
味方の雑兵と一緒に打ち交わって火に当たられ、更に主従の区別も無いほどであった。

加藤清正がこれを聞いて、「薩州は平生主従の区別無きまで親しみ合うが、一旦表立つ場合には
君臣の礼儀がしっかりと立ち分かれる事、実に以て感心の外無し」
と誉めたそうである。

軍神島津義弘公



島津義弘公が乗っていた女馬は

2021年10月01日 17:03

641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/30(木) 17:23:55.43 ID:IxxOrnKo
木崎原御合戦伝記」の他の逸話
島津義弘公が乗っていた女馬は83歳まで生き、
袖木崎丹後が斬りかかってきた時、膝をついて義弘公の槍の手助けをしたため、膝つき栗毛と言ったそうだ。
亀泉庵に葬り、今は石塔・碑文があるという
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6971.html
上の「名将言行録」の逸話では長寿院栗毛という別名も持っていて86歳まで生きたことになってるが、83歳でも86歳でもさすがに無理が



645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/02(土) 09:12:45.01 ID:XwoUHwJj
>>641
牝馬は牡馬を発情させて陣を乱れさせるらしいから勝てたのはそのお陰だろう
のちに伊東祐兵から聞いた淡河定範がパクった

ささ、存分に飲み候へ

2021年10月01日 17:02

642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/30(木) 20:45:03.75 ID:h5Dj7Yx0
島津義弘公が加治木在城のみぎり、御殿の語普請が有った。
その日は冬の最中で、北風強く吹きすさび猛烈な寒気で、耐えられないほどであった。
しかしながら義弘公はこの寒天にもかかわらず、折々作事場に出てこられた。

その時、御普請奉行である白尾帯刀は、今義弘公がその背後に居ることも知らず
「この寒天に御老人様が折々御出になるなど無用の儀じゃ!」
と独り言をした。

が、俄に気付いて後ろを振り向くと、何ということか、義弘公は仁王立ちに立ってその大きな目を
ぎょろつかせておられた。
白尾帯刀は即座に飛び下がって地面に平伏したが、義弘公は何事も仰せに成らずそのまま御居間に
入られた。

しかし、やがて使者を以て帯刀を召された。帯刀は「御手討ちであろう」と覚悟して、是非無く
御前に罷り出ると、どうしたことか義弘公は殊の外上機嫌で
「この寒天に大義である。」
と仰せになり、児小姓に命じて大杯を持って出させ、帯刀に向かって
「今日は一段と冷える。ささ、存分に飲み候へ」
と、この大杯を帯刀に下された。

軍神島津義弘公



643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/30(木) 21:26:49.19 ID:IiZBsJ25
大工接待の逸話だけではなかったのか。

644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/01(金) 07:50:00.94 ID:gEbcyYW5
>どうしたことか義弘公は殊の外上機嫌で
ここの理由が知りたいところだけど、この逸話が出来たときは書かなくても分かるような理由だったのかな

「明赫記」忠平公木崎原御合戦の事

2021年09月29日 18:35

637 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/29(水) 14:41:14.01 ID:nYYkWdlb
明赫記」忠平公木崎原御合戦の事

本文のあらまし
元亀三年五月四日、伊東軍数千人が加久藤城に攻めてきて放火をしてきた。
忠平公(義弘)は慌てずわずか四、五十騎を連れて木崎原に打って出、
敵の伊東又二郎、落合源左衛門尉の大軍を打ちまかし、両大将も討ち取った。
忠平公自身も打ち掛かってきた柚木崎丹後守と肥田木玄斎を斬り伏せた。

原注:「木崎原御合戦伝記」によれば以下のようなことがあったとされる
・忠平公は夜中のうちに五十人の兵を相手の逃走経路に伏せ、遁走する兵を討ち取れと伝えてあった
・加久藤城の兵が本道を通って飯野亀ヶ城に移動するところを敵に見せ、城についたらそのまま間道から加久城に戻し、加久藤城を空城のように見せ、「攻めたら簡単に陥せるだろう」と敵に思わせた
・忠平公の奥方に仕える忠義な女中の密通が露見したため処罰のため縛られた。
奥方が哀れに思い女中を逃してやったところ、女中は伊東方に保護された。あとは↓の話とだいたい同じ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2473.html

・忠平公が、戦場で自分の馬の腰が折れる夢をみた。凶兆ではないかと占い名人の座頭・兼一に夢の内容を告げたところ
「馬の腰が折れたら御徒(おかち)になるので吉夢です」と言われ御機嫌がよくなった。
また兼一は琵琶法師として敵領にも自由に出入りできたので、敵将の賢愚、軍法についても情報を得てきた。
・白鳥山の光厳上人に白旗を用意させ、戦闘開始の際、山の高いところで百姓たちに白旗を上げさせ大軍がいるように見せた。
また紙で作った人形を配置し、白鳥権現の使いである白衣の神人の神助があるように見せた。
・不動寺の僧が陣僧をよそおって敵に近づき、隠し持っていた銃で敵将を狙撃し撹乱した。



後醍院宗重の「本藩人物伝」における記述

2021年09月24日 17:00

570 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/23(木) 20:36:13.75 ID:Sox3FW2z
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4775.html
上の「1600年、伊賀山中にて」の逸話で
関ヶ原での退き口の後、薩摩武士として死など厭わないところを見せた後醍院宗重の「本藩人物誌」における記述

後醍院淡路守源宗重入道淡斎
後醍醐天皇第六皇子良懐親王(ママ)八代の後胤である。
親王と妾(菊池武光の妹)との間に生まれた後醍院越後守良宗の子孫で代々肥後に居住していた。
天正の初めは相良義陽に随身し、たびたび戦功(特に佐敷量石での勝利に貢献)があった。
そのため相良氏と同姓の高橋姓をもらい受けたが再び後醍院に戻し、島津忠平(義弘)公の八代城滞在のおり島津の配下になった。
龍造寺隆信との戦の際、島原で弟が戦死。
その後、岩屋城攻めでも活躍。義珍(義弘)公が豊後を引き上げるときには殿軍となった。
太閤秀吉の西征時、長束正家から薩摩の案内をするように言われたが主従関係を縦に断ったところ、
佐々成政預かりとなり母子を人質として差し出した。
成政の悪政のため肥後で国人一揆が発生し、宗重も鎮圧にたびたび手柄を挙げたが成政が切腹したため
清正とともに肥後入りした小西行長の配下となり、文禄の役では平壌城から二里ばかり離れた牡丹台を守備した。
李如松の大軍に行長が敗れた際には森勝介とともに殿軍として戦い(森勝介は戦死)、
忠恒公が唐島に着陣した際、行長に暇を乞い忠恒公に従い、帰国後、正式に島津家に戻った。
惟新(義弘)公にたびたび加増され五百石取りとなり、庄内の陣にもお供した。
上方騒乱の際には惟新公に付き従い、美濃国須俣に着陣。
関ヶ原合戦の際には木脇刑部左衛門祐秀とともに殿をつとめ、
義弘公が戦死しようと決心した時には諫言申し上げ、首尾よく御帰国までお供した。
この功により五十石が加増され、寛永元年甲子四月六日七十四歳で卒した。
常盤村大坪久田村に葬る。

こちらだと上の逸話と逆っぽい話に。
それにしても「懐良親王」を「良懐親王」にしてるのは明史の影響とかだろうか



伏見の島津屋敷に於いて、

2021年04月11日 18:50

659 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/10(土) 20:55:27.87 ID:028L8sFM
伏見の島津屋敷に於いて、伊集院幸侃(忠棟)を島津中将(忠恒)が茶湯に呼び、そこで成敗した。
(慶長四年三月九日)

俄のことであり家康公も殊の外ご不審遊ばした。伊集院幸侃の息子たち五人は、薩摩に於いて領分に
立て籠もったが、家康公はこの扱い(和解)のため、山口官兵衛(直友)を二度、伊奈図書(昭綱)を
一度薩摩へ遣わした。その時、治部少(石田三成)と争いになった。落着については薩摩の者が
存じている。(伊集院成敗は、根本は治部の計らいであると後に人々言い合った)

家康公は、兵庫頭(島津義弘)に殊の外御懇情であり、彼に借金がある旨を聞かれると、それを
完済するように、その借金七百枚を遣わした。

慶長五年、家康公が会津征伐のため大阪をお立ちになる頃、伏見城松の丸を兵庫頭に御預けになるのでは、
との沙汰があったが、御預けは無く、若狭少将(木下勝俊)殿へお預けに成った。少将殿は
武田万千代(家康息:武田信吉)殿の舅であった。そして伏見の城は難しい沙汰(西軍による攻撃)
出来て、少将殿は松の丸を明けて若狭国へ引き退かれた。

乱後に万千代殿御内がどのように成ったのかは詳しく知らない。

慶長年中卜齋記