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伏見の島津屋敷に於いて、

2021年04月11日 18:50

659 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/10(土) 20:55:27.87 ID:028L8sFM
伏見の島津屋敷に於いて、伊集院幸侃(忠棟)を島津中将(忠恒)が茶湯に呼び、そこで成敗した。
(慶長四年三月九日)

俄のことであり家康公も殊の外ご不審遊ばした。伊集院幸侃の息子たち五人は、薩摩に於いて領分に
立て籠もったが、家康公はこの扱い(和解)のため、山口官兵衛(直友)を二度、伊奈図書(昭綱)を
一度薩摩へ遣わした。その時、治部少(石田三成)と争いになった。落着については薩摩の者が
存じている。(伊集院成敗は、根本は治部の計らいであると後に人々言い合った)

家康公は、兵庫頭(島津義弘)に殊の外御懇情であり、彼に借金がある旨を聞かれると、それを
完済するように、その借金七百枚を遣わした。

慶長五年、家康公が会津征伐のため大阪をお立ちになる頃、伏見城松の丸を兵庫頭に御預けになるのでは、
との沙汰があったが、御預けは無く、若狭少将(木下勝俊)殿へお預けに成った。少将殿は
武田万千代(家康息:武田信吉)殿の舅であった。そして伏見の城は難しい沙汰(西軍による攻撃)
出来て、少将殿は松の丸を明けて若狭国へ引き退かれた。

乱後に万千代殿御内がどのように成ったのかは詳しく知らない。

慶長年中卜齋記



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「寿徳院玄由の閲歴について」

2021年01月03日 17:30

817 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/01/03(日) 12:51:10.01 ID:fMufmaQf
曲直瀬玄由(寿徳院、寿徳庵)は名医・曲直瀬道三の高弟、道三の孫娘(別の高弟の未亡人)と再婚した人物


薩摩の島津義弘は元和4年春から中風に罹って意識不明が続くことがあり、それを聞き及んだ将軍秀忠は同年3月25日付で
問い合わせの御内書を送り、義弘側から4月22日に返答している
島津家久へは本多正純を遣わして見舞いの言上をさせ、薩摩の国元へも見舞いの上使を派遣したという

『徳川実紀』元和4年には、同年秋の寿徳庵の薩摩への下向とあり、近衛信尋の元和五年6月3日付見舞状には
「寿徳庵下向之事候間、一書申入候」とあるので、2度の下向が推測される

東京大学史料編纂所所蔵の『島津家文書』では、元和三年六月の将軍秀忠の上洛に家久も上京し、十月初めまで滞在した折に、
義弘の国元での病を聞いた秀忠が心配して玄由を薩摩へ遣わしたとある
なお、この滞在中に家久は参議任官、松平姓の名乗りの許可を得、西洞院家を通して後陽成上皇崩御の経過を知ったとのことです

この時期、徳川将軍家の有力大名への配慮の一端がうかがえる話でありました



西村義明「寿徳院玄由の閲歴について」『日本医史学雑誌』第四十六巻第2号より



後に玄由は琉球からの留学生・山崎休意を弟子にしているので、島津家つながりで交流が続いていたものか?
琉球の禅僧は多くが京都で修行していたので、そちらのつながりも可能性ありそうですが

休意はまとめサイト『島津の琉球侵攻とある日本人武者』の山崎二休の息子ですが、コメント欄での考察にあるように越前山崎氏の一族かもしれない
朝倉と山崎の名がクローズアップされた、今回の大河の話ができる今しかネタにできないかw



819 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/01/03(日) 20:34:14.17 ID:bJHzZg13
>>817
まとめ過去記事のそれ、コメントの皆さんは越前山崎氏であることを確信していたようだが、どうしてそんなに断言できるものかなあ。
まあ当時の人ってそういう生まれの背景ないと学問身に付かないんだろうけど。
二休の記録は琉球にしかないからわからんね。

820 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/03(日) 21:54:40.89 ID:ubGXdGN/
球陽 附巻5

「日本山崎二休、克く忠義を操り、以て重罪を累ぬ。」
山崎二休は、名乗は守三と称し、日本越前の人なり。
其の人と為りや、生資純粋にして、学は精密に徹す。而して少幼の時より医術に志して、他方に遊ぶ。
茲に球邦は中華に往来すること歴年已に久しと聞き、意想へらく、扁鵲の妙法、球国に遺在する有らんと。
乃ち故里を辞去し、本国に来到して那覇に住居し力を国に効す。
(このあと島津との戦いについて)

「山崎」「越前」「学問に通じて琉球まで遊学できるくらいなら裕福」
→越前山崎氏かな?
だろうね

821 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/01/03(日) 23:11:34.10 ID:T+Y1+Z45
うん、そう。球陽のそれしか記録がないよね。
推論すると当然そうなるだろうが、結論づけていいものかな?

島津勢の、伏見入城について

2020年12月23日 17:27

782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/23(水) 13:57:37.67 ID:brU/Qaa4
惟新(島津義弘)の家老である新納旅庵、並びに本田助之丞と申す者は、関ヶ原の敗北後、出京して
鞍馬の寺中に忍び居た所を、探し出され生け捕りと成った。

検使の山口勘兵衛(直友)はこの両人をよく存じていた者故、惟新が逆徒に与した理由を委細に尋ねた。
これに旅庵は申し上げた

「惟新は権現様より御懇意にされていましたが、殊に伏見の御城に関して、御預かりに成るように、
予てより上意もありましたので、御味方申し伏見に籠もる旨を、私を以て鳥居彦左衛門(元忠)、
内藤彌次右衛門(家長カ)に申し遣わした所、彼らは『上意はそうであったかも知れないが。現在
伏見城は家康公より、両人に御預けに成られている以上、他人を籠めるというのは罷り成るまじき。』
と申し切られた故、是非無く敵に加わったのです。」

山口勘兵衛よりこの内容が上聞に達した所、惟新、疎意有るまじきと思し召されたと、非常に良い
反応であった。殊に、「龍伯(島津義久)、忠恒は在国のためこの事を知らないだろう、早々に
御断を申し上げるように」と、井伊兵部少輔(直政)、山口勘兵衛方よりの書状を相添えて。
本田助之丞を国元に差し下した。

島津家譜

島津勢の、伏見入城についてのお話



783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/23(水) 14:05:04.01 ID:5tzL6S0O
鳥居が島津を伏見城に入れなかったのはなんでなんだろうな
単なる連絡ミスか、このように島津が西軍につかざるを得なくする遠謀か(考えすぎか)
そもそも当時関東の監視役で上杉攻めに連れて行ってもおかしくない鳥居を
伏見城に入れて使い捨てにしたのもよくわからん

784 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/23(水) 14:20:09.68 ID:TT5hiS0Z
これ島津の言い訳で本当に伏見城に入ろうとしたのかかなり怪しい、西軍首脳になる連中と連絡取り合ってたはずでしょ義弘
そしてそもそも乱がおきるとかこれっぽっちも思っていなかったから、信用できる部下を使い捨てにするわけないでしょ
後世でこそ乱がおきるのを予期してたって扱いにされてるが、そもそも気づける訳ないだろと

785 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/23(水) 15:00:44.43 ID:5tzL6S0O
>>784
上方で乱が起きない前提で上杉討伐に行ったのなら、なおさら関東に領地を持つ鳥居を連れていかないのはおかしな話じゃないか
先鋒として使うだろうし調略にもいた方がいいだろ

家康と鳥居が別れの前の夜に酒を酌み交わしたとかって話は信憑性低いんだっけ?

787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/23(水) 17:01:06.36 ID:IBgVS5v+
>>785
信憑性低いよ
信用できる人間に政務で重要な伏見城の留守任せることがそんなにおかしいか?
万が一の為の留守番はかなり重要な役目でよほど信用できる人間じゃないと任せられないぞ
ただ、それは使い捨てとは言わない

788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/23(水) 17:07:03.62 ID:IBgVS5v+
逸話の信憑性もろくに見ないで今まで語られてたのがなくなってきただけの話でしょ
それをファンタジーとか言っちゃう時点で、ろくに史学の研究がどう進んだのかもわかってない無知ですってひけらかしてるよ

789 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/12/23(水) 17:16:35.25 ID:H68PMpJI
神祖様の天下が270年も続いたのになんで都合の悪い逸話くらい消せなかったの?
やっぱり反感持たれてたんじゃないのw

790 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/23(水) 19:51:01.53 ID:A/TETz5b
乱が起こると思ってたら息子くらい国に残すだろ

791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/23(水) 20:08:57.02 ID:RJRIPgSi
だいたいが後日談だろ

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/24(木) 09:40:05.63 ID:BF3EMBhL
>>789
「神祖でも誤る事があった」→「だから現役の俺らが誤る事もあり得るよね」
という理屈の為に積極的に訂正せず残していたという説は聞いた事がある。

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/31(木) 22:15:47.90 ID:VGYMyiZN
>>787
家康が西の丸に移ってからは大坂城が政治の中心も兼ねてて、伏見城の重要性はかなり下がってると思う。
だからこそ、忠誠心は厚いだろうけど、家康の留守中に代理が務まるような能力や格の持ち主じゃない鳥居を城代として置いて行ったんだろ。

鳥頭坂の退却戦

2020年12月22日 18:33

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/22(火) 16:40:01.56 ID:7X5EPM0s
慶長五年九月十五日未明、関東勢(東軍)の御先手諸将は関ヶ原に出張して、戦を取り詰めていた最中、
筑前中納言(小早川)秀秋が裏切りを致し、大谷刑部(吉継)備えを切り崩した。故に石田を始め、
(西軍)諸将の備えは尽く敗北致した。

その時惟新の旗本は、先手との間が隔たっていた。そこに中務(島津豊久)が旗本に馳せ来て
「戦も是迄と見え候。それがしこれにて防戦すべし。その間に一方を駆け敗退してください。」
と申し上げた。しかし惟新はこれに
「今度の合戦に於いて討ち死にし、再び国元には帰らないと決意して出陣した以上、一足も
退くことは出来ない!」
と、大いに怒った。中務は重ねて

「家の存亡、この時に有り。よくよく思慮あるべし!」
そう声高に言い捨て
「よし、戦も激しくなってきたようだ。」と、相従う士卒十三騎にて、大勢の中に駆け入討ち死にした。

惟新も続けて駆け入ろうとしたところ、家老の長寿院盛淳が馬を駆け寄せ
「大将が死を軽くせざる事はかねてお知りに成っているはずです!それがしが名代として討死
仕るべし。中務の申した如く、家の為ですから、必ず退いてください!」
そう断って諌め、馬廻りの者共に堅く申し含めた上で、長寿院は大勢の中に駆け入り
「島津兵庫入道惟新!」
と名乗って討ち死にした。この時に、士卒も多く戦死した。

その時、関東勢は左右に分かれ、伊吹山の方に西国勢が敗走しているのを追いかけ、馳せ向かっていた。
そのため、その跡の道が少しばかり開いていた。惟新入道は残った人数をまん丸に備え、福島左衛門大夫正則の
備えの前に押しかけたが、左衛門大夫はあえてこれに取り合わなかった故に、左衛門大夫備えの前を、
いかにも静々と押し通った。

その跡より、「井伊兵部少輔」と名乗る百騎ばかりが追いかけてきた。これに対し、惟新自身が太刀打ち
までして追い返し、その合間に下知して静かに退かせたが、すぐに兵部少輔人数は追いつき、殿をしていた
後醍院喜兵衛宗重、木脇休作秋秀と戦闘になった。両人が危うく見えた時、川上四郎兵衛忠兄が取って返し、
下知をして鉄砲を撃たせた、四郎兵衛の若党である柏木源藤と申す者が、鉄砲を以て大将と見えた人物を
撃ち落とし、「川上四郎兵衛!」と名乗った。その時、従っていた人数は撃ち落とされた人物に馳せ集まり、
引き退いた。後にこの人物が兵部少輔直政であったと承っている。

その後惟新は、高き所に備えを立てた所、方々より人数馳せ集まり、ようやく三百ばかりとなり、
これによって帰路についての評議をし、権現様(徳川家康)の御本陣に川上四郎兵衛を差し遣わした

『この度黙視難き次第のために、思いもかけず出陣致した事について、我々が日頃の御懇意を
忘却したのだと考えられては、我らの本意に背きます。只今御陣頭をうち通りますが、
憚りながら使者を以てそのことを申し上げます。委細は国元より申し上げるでしょう。』

そう言上し、それより駒之峠に向かった。

島津家譜

関ヶ原の戦いにおける、島津の「鳥頭坂の退却戦」について



何の方便もなく一戦の上、討死に相究めたり

2020年12月21日 16:57

777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/21(月) 16:07:51.96 ID:6LzXeZVW
権現様(徳川家康)が奥州に御発進(会津征伐)の跡に、五奉行たちが諸大名を相催し、権現様に
背き奉る企てが有るとの風聞が有った。

七月中旬、初めて惟新(島津義弘)の所に五奉行より、自分たちに一味するように申し越してきた。
惟新は「存じよらぬ儀であり、一味仕ることは出来ない。」と、二度にわたって返答したが、
その時奉行より

「今度のことは全く私の遺恨ではない。偏に秀頼様の為の企てである。あなたも最前、
秀頼に相背きまじきことを誓紙にし、かつ又、太閤の厚恩を忘却していないのであれば、
この度に及んで異議はありえないものである。もし同意しないのなら、あなたの今までの儀は
皆表裏に似たものである。」

このように、余儀のないことであると申しかけてきた。惟新は誓紙を黙視できないと考え、
是非無く五奉行に同意した。

この時、惟新の甥である島津中務太輔豊久は惟新に対して
「今度の合戦の勝負を考えてみましたが、権現様が御利運を得られるのは確実だと存じます。
詮無きことに与し、家を亡ぼされるのは嘆かわしい事です。その上権現様の、多年の我らに対する
御懇意は、並々ならぬものでした。早々に権現様へ御味方に参り、家を立てるべきです。」
そのようにたって諫言を申し上げた。これを惟新は承り

「其の方の申す通り、私もそう考えている。しかし余儀なく申し懸けられ、結果的に誓紙を破って
しまっては、たとえ権現様に味方申し上げたとしても、権現様は頼もしく思し召さず、
またそれ以後、島津家の誓紙誓言は偽事と考えられ、長く家の疵とも成るだろう。

私はあえて、これまでの御芳志を忘れ奉るのではない。これによって国元より人数を召し集めず、
有り合わせの人衆ばかりで出陣いたし、何の方便もなく一戦の上、討死に相究めたり。
さてまた、家の事は龍伯(義久)、忠恒が在国しており、この事についてはまったく存じては
居ないのだから、この事は重ねて御訴訟申し上げればよい。」

と、申し切られた。

島津家譜



778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/21(月) 16:57:30.84 ID:YtiveTFr
弁明のための創作なのは(恐らく当時でも)明白だからなぁ

義弘君が、死人に口無しをいいことに作った自分(と島津家)に都合のいい話だな

『武功雑記』より、雑記

2020年10月08日 17:23

620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/07(水) 23:36:29.82 ID:GcERk3uE
武功雑記』より、雑記

加藤清正福島正則の不和
加藤清正より、福島正則に平野長元を遣わし申し入れようとしたのは「秀頼公のご恩をお忘れではないでしょう。そうであれば、わが軍の兵船があまたあるので、兵を乗せ、出船します。そのとき、福島殿も兵をあまた上らせてください。(途中に)家康の婿の池田輝政がいますが、押し攻め『フミツフシ』てしまえば、苦もないでしょう。そうなれば大坂までは『大道』を歩くよりも安心して進軍でえきるので、御意を得たい」という内容だった。
この件を申し入れる隙がなかったので、京都へ古田織部の茶会に正則が赴いたとき、長元も出向き、外露地で「卒度」(そっと)申し伝えると、正則は「いやいや、それがしは承知しがたい。家康公から大国を賜った厚恩は忘れがたい」と返事をした。
このことを長元が帰国して清正に伝えた。すると、清正は「福島はさてさて、ふがいない者だ」と腹を立て、清正と正則の仲が悪くなった。長元は平野長泰の弟である。(平野権兵衛から話を聞いた)

・島津維新の親父ギャグ
島津義久(ママ、義弘)は剃髪して維新と号した。大脇差を差し、樫の木の棒を常についていた。
あるとき、小姓たちが囲炉裏にて、火箸を焼いて慰みにしていたところに義久が現れ、小姓たちは驚いて火箸を灰の中に差し込んだ。
すると、義久は知らずに火箸を握ったが、少しも熱いという表情をせず、火をおこし、静かに灰の中に差し込んだ。
のちに西郷壱岐守に語ったのは「小姓どもが悪さをして手を焼かされている」といって、手を見せると「手ノ内焼フクレ」ていた。

・やはり面倒くさい三河武士(というより彦左)
永井善左衛門の邸宅へ板倉重宗が振る舞いに出向いた。相客は石谷十蔵、横田甚右衛門(尹松)、井上太左衛門、戸田半平、大久保彦左衛門(忠教)、今村九郎兵衛だった。
このとき、今村は鑓奉行、大久保は御旗奉行だった。
今村が言い出すには「それがしは小牧長久手のとき、人が十人で挙げるほどの手柄をどの鑓合戦の場所でも立てた。それなのに何のお褒めもなかったが、彦左はなにも優れた手柄がなかったのに、よい役職を得ているのはなぜだ?」と問うた。
彦左衛門が返答したのは「それがしは鬼神のごとくに聞こえたる岡部元信を長篠で切り落とし、本多主水に首を取らせた。そのほか『チクチク』(細々)としたことはあまたあるが、甲州者みたいなやつから逃げたことは功名なのか?」。
(元武田家臣の)横田はそれを聞いて、「それがしが(武田方として徳川軍の攻勢から)高天神城に籠城したのは運を開くためではなかった。勝頼が(後詰めに)同心しなかったので、仕方なく務めを果たし、どうしようもなくなれば敵を切り抜け、勝頼の元に参るという君臣のちぎりをかわしていたからだ」。
それに彦左衛門は『(城の)狭間くぐり』というのだ」。
横田は「何を言うか。三河者の頭の上を越えて活路を開いたのだ。手助けする者もいなかった」。
彦左衛門は「その(手柄の)ほかになにかあるのかねえ(何ソアルベキカヌ)」
横田は「(本能寺後の)蘆田小屋(春日城)でも前のように私こそ働いた」。
彦左衛門は「いかにも蘆田小屋では横田が逃げたとは聞かなんだ」。
横田は「これを聞かれよ。三河衆は『口ガワルクテ』人の武功に難癖をつける『意地ノアシキ』ことだと言われている。近藤石見守に起請文を書かせて語らせれば、有り体に話してくれるだろう」。
そのとき、板倉重宗は「みんなもう、老年なんだから、孫や子のことだけ考えていると思ったが、武功争いをしているのは近頃、珍しいことだ。若い者のためにもいいことだ。気が済むまで争ってください。とてもいいことですよ」。
その言葉で座敷は静まりかえった。

・信長と根来衆と餅と馬糞
根来を織田信長が天下(畿内)を取る3年前に通ったとき、根来の法師は信長が器量の大きな人と思っていた。
そこで大きな折を進上しようとをこしらえ、3つ進上した。
信長は馬上でそれを見て、「奇特である」と言い、折を開けて笄で餅を貫いて食べ、そのほかの折は「侍ども、食べるがいい」、大庭にぶちまけると、餅が馬糞の上に転び出た。
すると、どの侍もちょうだいして食べた。
その様子を根来の法師は見て、「位のある大将だ」と感じ入った。
その後、信長が天下を取って根来に軍事行動すると、かの人は怖じ気づき、さっそく降参した。



621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/08(木) 00:54:40.99 ID:ehS9sQ5G
この辺りから実像と違う通説の福島や加藤像とか信長像が若干できつつある感じしますね

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/08(木) 01:32:01.01 ID:hneWQDBE
「甲州ものなどに、逃げたるが高名になりたるがあると云。」は
 甲州の者で、逃げたのが武功であるかのようになってる者が居る(と謂われてる)な

「三河のものゝ頭の上をこえて通りしに、手さすものもなかりし」は
 (狭間をくぐるようにこっそり逃げたのではなく)三河者の頭の上を越えて活路を開いたが、(三河者で)手を出してくる者もいなかったぞ

ではないかと

>岡部元信を長篠で切り落とし、本多主水に首を取らせた。
『三河物語』でも特記してる位の彦左衛門の(本当は)高天神城での自慢話のついでに
第二次高天神城攻防で脱出した横田をあてこすってるというのがこの話の流れかと

余談
「大久保党が徳川家裏切ったことがない」って話で大久保VS横田の第ニラウンド始める模様

島津龍伯の弟

2020年08月26日 18:08

297 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/26(水) 11:39:41.61 ID:c/kOnlNb
慶長十五年の六月頃、丹波国亀山の普請中に、薩州島津龍伯(義久)の弟が丹波国に従い、
そこで煩い付き、伏見に着いたところで病死した。

これは去る庚子の年、美濃国関ヶ原合戦の時、兄の兵庫(義弘)退散の時、負傷し馬も離れ、
歩いての進退も叶わず、死人の上に倒れ伏せた所、奇特の夢想があり、かの夢に云わく
『これより東へ下り、木食(穀絶ちの修行僧)と成り年月を送れ』とのお告げであった。

そうして稀有にして命を全うして関東へ下り、夢想の如く木食となって十ヶ年を経て、去年の春
薩摩に帰国したのであるが、見知った者も無く、これまでの経緯を人に語っても、彼は関ヶ原の
合戦で討ち死にしたと云われており、なかなか思いもよらぬ事であったので、これを本気にする者も
なかった。しかしよくよくその様体を見るに、似ている所もあったので、還俗させて見た所、
紛れもなくその人物であった。

この事は龍伯、并びに又八(島津忠恒)に申し届き、対面して往時を語り落涙した。
さて所領を遣わしそこへ居住した所、今度の不慮の煩いで死去したのだという。

当代記

この「弟」が誰に当たるのかはよくわかりませんでした



フランシスコが正当なる王として

2018年12月01日 16:50

487 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/01(土) 00:49:10.56 ID:lEMylcGS
事情斯くの如きに際し、薩摩の王(島津義弘)及びアウグスチン・ツノカミ殿(Augustine Txunocanmindonio 小西攝津守行長)は
彼等の手兵を治部少輔(石田三成)の前に出せり。
内府様[徳川家康)は之を見るや、兵士を集中してヨカタ川(Jocatangauwa)の河岸に沿ひて下り、其進出を妨げんとせり。
彼は対岸に二人の強き将軍の指揮下に在る新来の援軍あることを、其軍旗によりて知りしかば、此方の河岸に止りたり。
伏兵を恐れしを以てなり。

両軍相対峙して、機会を窺える間に、全日本を通じて党派は二分して互に戦ふに至れり。

豊後の王國に於ては、クアムビオエンド(Quambioiedo 黒田官兵衛孝高)は、其子甲斐守(長政)より送りたる使者により、内府様の軍の
勝報(岐阜城陥落)に接せり。之に気を得て彼は八千の兵を以てフランシスコ(Francisco 大友義統)を襲へり。
彼は故の豊後王(大友宗麟)の子にて、久しく太閤様の爲に都に止められしが、内閣員(奉行衆)の命によりて放たれ、四千の兵を以て
豊後に帰りしなり。
閣員はフランシスコが正当なる王として此地の臣民を其手に附け、よりてカムピオエンドに抗し得んとの希望なりしなり。

然るに予想は全く反対に出で、フランシスコは國に帰るや直に敗績したり。之が爲に豊後の一國は全く内府様の確保する所となれり。
此を初として内閣員は到る處に反抗に遭へり。
(モンタヌス日本誌)

モンタヌス日本誌の関ヶ原についての著述の一部。大友義統は九州に下って即座に敗北した事になっているわこのせいで奉行衆への反抗が続出するわ


溝ノ口岩穴祭の奴踊り

2017年05月25日 13:51

958 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/05/25(木) 07:20:42.25 ID:+O/9+IlI
鹿児島県曽於市財部町にある溝ノ口洞穴は、宮崎県都城市と接する台地の末端部にあり、入り口が広さ13.8m、
高さ8.6mで全長が224mの大規模な洞穴です。内部の一番広い部分は幅が約40mで,天井部はアーチ型になっています。
洞穴は、約25,000年前に姶良カルデラから噴出した大隅降下軽石層と、シラス(入戸火砕流堆積物)の溶結した
溶結凝灰岩の中に形成されており、雨水がシラスや軽石を外に運びに姶良カルデラから噴出した大隅降下軽石層と、
シラス(入戸火砕流堆積物)の溶結した溶結凝灰岩の中に形成されており、雨水がシラスや軽石を外に運び去って
徐々に空洞が拡大されてできたものです。
また、洞穴内には縄文時代の人の生活跡もあり、当時の生活を知る上でも重要です。
(昭和30年に、鹿児島県の天然記念物に指定される)
伝承では犬を洞穴に入れたところ高千穂峰に出てきた(距離にして7~8キロほど)話もあります。

毎年4月8日(釈迦誕生の日)に近い日曜日には洞穴で溝ノ口岩穴祭りが行われます。
(場所を示す時には“洞穴”、祭りを示す時には“岩穴”となります)
このお祭りでは、奴踊りや棒踊り、刀踊り(棒踊りと刀踊りは隔年奉納で2017年は刀踊り)が洞穴と洞穴の入口に
祀られている岩穴観音へ奉納される。

これらの踊りの中でも奴踊りの歴史は古く、三つの説があり、
島津義久が島原の龍造寺隆信を攻めた時の戦勝祝いに踊られたもの」
(大隅建国千三百年記念祭ではこの説が紹介される)
豊臣秀吉が島津征伐の時に、新納武蔵守が城を守り通した祝いのために踊られたもの」
島津義弘が朝鮮征伐した戦勝の祝いとして始められたもの」などと伝えられています。

このようにして、戦勝を祝うとともに、士気を鼓舞するために始められた奴踊りは、鼻筋を真っ白に塗り、
頭に白鉢巻、服装は紫の着物に赤い帯、刀を黄色と水色の長布で背負い両手に扇を持ちます。
楽器は、太鼓と三味線・拍子木で、歌詞は釈迦誕生日と関連しています。
現在は郷土教育の一環として財部の中谷小学校の全児童と卒業したばかりの中学一年生によって継承されている。
(2017年は11名の参加)

祭りの進行は、
岩穴観音の前で奴踊り
岩穴観音の前で刀踊り
洞穴の中で刀踊り
地域の連絡事項(小学校の新任の先生の挨拶、先任の先生からの手紙の紹介、転入してきた人たちの紹介など)
昼休み
洞穴の上の山にある馬頭観音が祀ってあるところまで(車で)移動
馬頭観音の前で奴踊り
馬頭観音の前で刀踊りです

この祭りは、プログラム表も立て看板も大々的な宣伝もなく地元の人たちが永いこと守ってきたお祭りでした。
(参考 財部町郷土史、曽於市観光協会の方の話など)

※刀踊りは日本武尊が川上梟帥を討った逸話からきており、鉢巻に襷がけ袴に着物は女物を着用(花柄)
 四人で一組となり三組で踊る。棒踊りの由来は不明。

溝ノ口洞穴の写真など
http://kagoshimayokamon.com/2016/05/27/izonokuchi/

観光協会の方や洞穴の看板の注意
・携帯は圏外です。危ないので一人では来ないでください、二人でもキツイので三人以上で来てください。
・照明はありません、自前で懐中電灯をお持ちください。
・流水がありますが、柵などはありません。数年前に落ちてしまって近くにお店どころか民家も無いので
 遠くまで移動した上に洋服一式お買い上げになった方がいるそうなのでご注意を。
・落書きは洞穴の強度の関係で消すことは出来ません。絶対にしないでください。
(2015年にももいろクローバーZのライブ映像として使われてから、来る人が増えたら不届き者も
増えてしまったようで落書きも増えてしまったと)

959 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/05/25(木) 21:10:17.15 ID:+O/9+IlI
・洞穴の中は蝙蝠やゲジゲジがいます。蝙蝠は人の気配がすると姿を
 見せませんが、ゲジゲジは結構いますので虫が苦手な方はご注意ください。

刀踊りは、地元の青年団の方たちが踊っていますが、昨今は人口が少なくなり
結構年配の方も参加されています。奴踊りの生徒さんたちも今年は新入生や
転入生がいましたが、昨年はどちらもいなかったそうで祭りを維持していくのは
大変なようです。
三味線の方も高齢の人が多く今年は都合がつかずあらかじめ録音したものを使用
する状況でしたので、祭りの関係者の方が見物人に向かって「三味線弾ける方募集
いたします」といってました。



新納が申した如く

2017年05月12日 17:01

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/12(金) 09:35:48.62 ID:vNdllw93
肥前有馬のうち、島原において、龍造寺隆信と有馬修理太夫(晴信)が争っていた。
有馬は最初、大友に属していたが、大友の弓矢次第に弱り、ややもすれば龍造寺に攻め詰められ、
度々危ういことばかり多かったので、この時は島津に属して加勢を得て、島原において無二の一戦を決心した。

この時、島津龍伯(義久)は、家臣である新納武蔵守(元忠)を呼んで尋ねた
「今回の有馬への加勢は、当家興廃のかかるものである。いかがあるべき、大将を誰に定めるべきだろうか。」
新納は申し上げた
「同じ御兄弟ですが、兵庫頭(義弘)殿は、耳よりも目の大胆な人物です。
中書(家久)殿は、耳よりは、目で見て物を侮らない人です。

この度、龍造寺隆信な2万の着到にて出馬と聞きます。それに対し有馬はわずかに4千の人数です。
そして此の方よりの加勢も4千。ですから、戦を慎重に致す人でなければ大事に成ると思われます。

中書殿は聞いては大胆に物事を押し、あなどる人物です。しかし実際に見ると慎重に懸ります。
彼を以て、遣わされるべきと考えます。」

龍伯もこれに同意し、島津中無大輔家久を大将として加勢を発したが、新納が申した如く大利を得て、
隆信を討ち取ったという。

新納の終始の言い分、尤もその理を得ている。

(士談)


薩隅の戦国お菓子 これもち(これがし)

2017年03月31日 21:44

710 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/03/31(金) 13:20:31.22 ID:9PH8Y6mL
薩隅の戦国お菓子 これもち(これがし)

鹿児島で「これもち」(一部地域では「これがし」)と呼ばれるお菓子は、小豆餡と米粉をこね合わせた蒸し菓子(棹物菓子)で
漢字では「高麗餅」(高麗菓子)と書き、その名が示す通り朝鮮から伝来したものである。
鹿児島に伝わったのは、慶長三年(1598年)朝鮮の役により、豊臣秀吉の命を受けて出兵した島津義弘が、
李朝の陶工たちを南原(ナモン)から連れ帰った折に陶工から伝えられたとされている。

義弘に連れてこられた陶工たちのうち、四十数人が串木野の島平に窯を開いた。
しかし生活苦や周囲との折り合いの悪さから、五年後には島平から苗代川(日置市東市来町美山)に移住した。
この地に移住した人々は、毎年春秋には周囲で最も高い舞楽岡に登り、遥か遠く海上に浮かぶ甑島の島影を通し故郷を偲び、
望郷の心を慰めていた。在る夜、海の彼方より大きな火の玉が飛来し、蜂巣ヶ谷の大石の上に落ちた。それ以来大石は鳴動し、
夜毎赫々と異光を放ち乍ら宙天に上った。これを見た村人は恐れおののき、筮者にトして貰ったところ、
朝鮮宗廟の神「檀君」が村人を保護するために来国したということであった。
そこで、この自然石を御神体として檀君を祀る神社を創建し(玉山神社)、玉山宮とも高麗神とも称した。

玉山神社では祭事や行事の際に高麗餅を奉納し「高麗餅返し」の儀式を行っていた。
「高麗餅返し」の儀式は祝子(はふり)が執り行い、美山の各家庭で作った蒸し器(セロ)に入ったままのこれもちを
祝詞を唱えながら回し竹籠(バラ)にひっくり返す。バラに近づき、一回転してこれもちの表面が上なら吉、
一度で表にならないと縁起が悪いとされている。
これもちの真ん中を神刃(シンカル)で方形に切り、御幣と柴の小枝を立て、お神酒・新米・刺身とともに高杯に乗せて供える。

玉山神社は今の社殿になるまでは、朝鮮様式で建立されていて、祭事や行事の際の服や言葉や祭器すべて朝鮮様式
で取り揃えていたが、数十年前に最後の伝承者が亡くなると「高麗餅返し」をふくむすべての儀式が途絶えてしまいました。
(「かごしま文庫 鹿児島の伝統製法食品」、美山での史料展示(昭和四十二年頃の写真あり)など)

※鹿屋市笠之原にも「高麗餅返し」があり、美山に移り住んだ陶工の一部の人が、時を経て笠之原に移住している。
ここには陶土がなく陶芸文化は廃れたが、望郷の為に「玉山宮」を建立し、高麗餅を作って儀式を伝えたことが推察される。
笠之原では、高麗餅を「シロ」と呼び、地域の玉山宮では祭事や行事の際に高麗餅「シロ」を奉納し「餅返し」の儀式を行っていた。

※ 小豆をふんだんに用いて餅とサンドイッチ状に仕上げた韓国のお菓子「シルットク」は、祝いや祈願の折に用いられてきました。
古くは五穀豊穣を祈り、現在では転居の際に新居の安全を祈って供えられています。京都や名古屋で製造されている「村雨」や、
鹿児島の「高麗餅(これもち)」の原型が、このシルットクであるといわれています。

参照 高麗餅(これもち)


시루떡(シルットク)
https://namu.wiki/w/%EC%8B%9C%EB%A3%A8%EB%96%A1



そこに一人の山伏が現れた。

2016年11月24日 14:36

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 09:47:03.80 ID:GifEEbwp
島津兵庫頭(義弘)は関が原の合戦に負け、伊勢路を通り、伊賀国を経て和泉国に出、住吉の浦より
船に乗り、白地に黒十文字の旗を立て尼崎の方へ向かった。

この時、立花左近(宗茂)も西軍敗戦により大阪から船にて国元へと下っていた。すると横より
十文字の旗を立てた船が来るのを見て、宗茂は「加藤左馬介(嘉明)の船か、と思ったが、
その船より、『島津兵庫頭が合戦に負けたため国に下る船であること。同道いたしたい』との
使いが参ったため、同道して筑後国の国境まで同道した。

その先の肥前国は、当時の情勢として通過するのが非常に難しい国であったため、立花左近は兵庫頭に、
薩摩に行くのを諦め、一旦筑後に留まるようにと様々に説得したが、兵庫頭は謝絶し、薩摩へと
向かうことに成った。

しかし肥前と筑後の間には大河があり、しかも船がなく、どうやって船を求め川を越えようかと
思い悩んでいた所、そこに一人の山伏が現れた。

山伏は言った「この河は歩いて渡ることが出来ます。瀬を教えましょう。」
そうして兵庫頭一行を案内したが、その言葉に相違なく、無事大河を歩いて越えることが出来た。

兵庫頭は河を超えた所で山伏を呼んだが、山伏の姿は見えなくなっていた。
そのあたりの住民に山伏について色々と尋ねたが、彼らは一様に「そもそもこのあたりに
山伏はいません。」と答えた。
その後も島津兵庫頭、立花左近は様々に尋ねたが、ついに山伏は見つからなかった。

これは後年、立花殿が語ったことである。

(慶長年中卜斎記)



346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 10:30:52.61 ID:1sU8tIY/
パーフェクト伝説がまた増えたか

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 13:44:40.94 ID:3l/VneXT
薩摩まで船でいけないんだな

349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 19:48:30.13 ID:8D69oZrn
>>345
山伏じゃなくてモーゼだったか

350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 21:19:13.59 ID:R0KKCQ/z
>>345
なんで筑後方面に行ったんだろ?

豊後水道通って日向から薩摩に行ったほうが良いような?
勝手にそのルートだと思ってたんだが違ったのか。

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 21:49:07.97 ID:8D69oZrn
黒田や伊東が東軍だからじゃないかな?

352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 22:19:18.84 ID:DqhLpzHV
義弘と宗茂は9月26日に周防国の大島で対面するまでは同行してたようだけど
その翌日に豊後水道を北と南に別れて、義弘は日向の佐土原に行ってから薩摩に帰ったみたい

353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 23:06:03.85 ID:7ZS6/8Wc
まぁ実際は義弘の船は筑後方面には行ってないよね

だから黒田勢と別府湾あたりで海戦に及んでるし、日向の細島湊から上陸した際は、
島津方の村尾重侯らが伊東勢と合戦に及びながら義弘を迎えに来ている

入田家の後日談

2016年10月07日 15:17

175 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/06(木) 22:37:00.52 ID:1rBePjzd
入田家の後日談

親誠の嫡男・義実(宗和)は若年につき赦され永禄末から元亀の頃(天正8年(1580年)頃説もあり)に宗麟から旧領の一部である筑前国鞍手郡若宮庄350町分を安堵された
宗麟に笠木城勤番を命じられたりするなど父のこともありながら宗麟時代はそれなりに信頼された義実だが義統時代になると俄然大友家での立場は悪化する。
天正12年から14年にかけて不仲だった戸次統貞(玄珊)の讒言によって大友義統と対立し討伐を受け居城を栂牟礼城を逃れて緩木城に移していた。
そんな義実に対して島津義弘は新納忠元を通じて宗和に寝返りを進めてきた。しかし宗和は最初「武門の素意に非ず」と断っていたが結局島津への内通を決意する。
天正14年(1586)豊薩合戦の際、南部衆の志賀親度(道益)・南志賀鑑隆(道運)や一萬田紹伝らは入田宗和主導でで島津氏に内通して大友氏の敗北に一役買った。
その後豊臣軍の豊後上陸後、宗和は岡城の志賀親次さらには豊臣秀長たちの軍に追われ豊後から薩摩に撤退し以降は日向に所領を貰い島津家臣として仕え家は斉彬や久光の時代まで続く

参考:大友宗麟のすべて(新人物往来社刊)ほか



176 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/07(金) 02:48:56.69 ID:rn89lw8F
>>175
栂牟礼城は佐伯氏の居城だから入田の居城は津賀牟礼城の間違えだろうな

伊東家と島津家、修好の復活

2016年07月12日 08:58

927 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/11(月) 23:11:19.82 ID:c7/Arcse
日向伊東家は、島津家とは黒田如水の指示により、朝鮮陣の最中、加徳島にて好を結んだが、
関ヶ原の一戦の時、島津家は大阪に属し、伊東家は関東に属したため、宮崎近辺にて両家は数度の
衝突があり、それまでの和睦も崩れ去った。

しかしこの頃、報恩公(伊東祐兵)が逝去し、後を継いだ伊東祐慶は未だ幼少であったので、伊東家の
諸大将は、島津家に頼ることも必要であると評議していた。そんな中、島津家より

『隣国の好は永く変わらない。我々は祐慶公成長の後は、こちらの息女を以って娶らせたい望みを持っている。
どうか鹿児島に来ていただきたい。』

との意向を伝えてきたため、慶長16年(1611)8月、伊東祐慶は鹿児島に赴き、兵庫頭(島津義弘)と
面会した。この時祐慶に供奉したのは、家老の川崎大膳亮、松浦久兵衛尉を始めとして、選ばれた屈強の勇士
数十人であった。

島津家の側は伊東家一行を非常に歓待した。喜入摂津守に命ぜられ善美を尽くして饗応した。
この時、猿楽の興行があり、白楽天の番組と成った時、
「今や今やと松浦船~」
という謡の文句を
「今や今やと与津船~」
と言い換えた。
これは祐慶の供奉に松浦久兵衛尉があったため、その名前を避けてこのように変えたのである。
このように島津家では、ここまで深く萬に念を入れて伊東家に気を使ったのである。

ただし祐慶公と島津家との縁組は、将軍家の沙汰難しくそのことは実現しなかった。
それでもそこから二代にわたって、両家の間は音信の使者絶えず、互いに懇意な事であったが、
その後は何ともなく、再び疎遠の間柄と成った。

(日向纂記)

島津家が関ヶ原後、伊東家との修好復活のため、その家老にまで気を使っていたというお話




928 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/12(火) 01:28:08.16 ID:41NkNuSk
伊東は黒田の舎弟だからさ、後に疎遠になったのは幕府からの黒田への評価が下がったから。

929 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/12(火) 10:15:23.83 ID:z8yrg7Qr
江戸の時代になっても大名が気軽に隣国を訪れることが出来たんだな
いつ頃から出来なくなったんだろ?
武家諸法度あたり?

930 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/12(火) 20:55:22.15 ID:toR9SZ93
豊臣を滅ぼしてからとか。

遠からぬ内に、世の中は

2016年06月20日 17:57

867 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/19(日) 19:37:51.41 ID:SUyILvdO
慶長元年12月下旬、伊東祐兵は朝鮮の安骨浦陣中より、黒田如水に相談の事があって、家臣の
借家原甚右衛門尉満鎮を豊前に派遣した。如水は甚右衛門を近くに召して

「さてさて、良い所に参った。私の方からも使いを出して、伊東殿に申したいことがあったのだ。
実はな、太閤が近頃殊の外衰えられた、その上日本中で様々な怪異が多く起こっている。
遠からぬ内に、世の中はまた騒がしくなるであろう。

民部殿(祐兵)は小身であるから、国元について甚だ心もとなく思うだろう。
天下の事が未だ起きない内に、片時も早く島津家と談じて、縁故を取り結ぶか、又は麾下に入る事を
申し入れるべきだろう。その上で互いに神文を取り交わすべきだ。
この旨を早々に帰って伝えるように。」

甚右衛門は急ぎ豊前を立って明けて慶長2年正月中旬、安骨浦に帰り黒田如水の口上の趣を申し上げると、
伊東祐兵はこの助言を喜び、早速加徳島にあった島津の陣中に赴き、兵庫頭(義弘)と会談して、
以後、堅く唇歯の好みを結び、互いに違背有るべからずと、神文を取り交わした。

(日向纂記)



彼は義士である

2016年05月27日 17:57

768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/26(木) 21:05:11.45 ID:Fuik+Qgj
天正6年7月6日、島津は大友家に付いた日向国石ノ城を攻めることとし、伊集院忠棟を大将に大軍を
送ったが、石ノ城は大友より派遣された長倉祐政、山田匡徳を中心として頑強に守り、島津勢は500が負傷、
また多くの討ち死にを出し終に撃退された。

同年9月15日、島津は島津彰久を大将、伊集院忠棟、平田光宗、上井覚兼らを副将とし、さらなる大軍を以って
再度石ノ城へと押し寄せ、総攻撃を行った。
これにも石ノ城勢は三日三晩にわたって頑強に抵抗したが、元より小勢のなか、兵糧も尽きたことにより、
講和を受け入れ城を開城することと決まった。

講和が決まると、石ノ城の大将である長倉祐政は城の明け渡しのため島津義弘の陣所へと参った。
義弘は長倉に言った
「今回のことは貴方にとって残念ではあるが、これより後は私に従わないか?」
そう言って三方に土器の杯を据えて長倉へと差し出した。主従の礼を取ろう、ということである。

しかし長倉

「確かに残念限りないことです。ですが二君に仕えるのは義士の成さぬ所です。」

そう言うや土器を三方の縁に当てて打ち砕き、その座を立ち退こうとした。

この場の島津勢の人々はその無礼を見て激怒し、彼を討ち果たそうと騒いだが、義弘はそれを制して
「いやいや、彼は義士である。また、その主人のために働いた人を殺すのは不義である。」
そして長倉に

「あなたは此処から何国に立ち退くのか?」

「豊後へ。」

そこで義弘は侍大将二人に命じて、長持ち二つを用意させ、
一つには沓や鞍、雑具の類を入れ、もう一つには食物などを入れさせた。
それを持たせ、豊後との国境まで彼を送ったとのことである。

(日向纂記)



島津義弘と道案内役

2016年02月17日 18:17

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/17(水) 00:29:18.18 ID:OUAq51ED
島津義弘公の決死の関ヶ原敵中突破の後、
道案内役として拉致された文右衛門(恐らく正しくは又右衛門)さんなんだけど、どうやら堺まで一緒だったようです。

後日談があって、慶長16年夏、義弘公77歳の時にわざわざ大隅国加治木まで訪問して再会していたりします。
文右衛門さん曰く、ご存命のうちにもう一度お会いしたかった、とのこと。
もちろん義弘公も大喜びして大歓迎。
関ヶ原の思い出話に花を咲かせて、さらにその後もあの時のお礼と言わんばかりに宴三昧、ご褒美をたくさん与えたようです。

なおこの文右衛門さんですが、どこの国で苗字は何なのか、正体不明のままです。
大小の刀を差していたことから士分であったことは間違いないようですが。

素性がバレて義弘公の逃亡を手伝った罪に問われる事を防ぐため、島津家なりの配慮なのでしょう。

ただそれが敵中突破後の退却路がよく分からん、という結果にも繋がっているのだと思います。

関ヶ原後日談に見る、身分違いも気にしない義弘公とその戦友の良い話。

(帖佐彦左衛門宗辰覚書)



島津義弘夜討の提案

2015年09月25日 17:56

362 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/24(木) 21:19:33.61 ID:DmuJRcgR
慶長5年(1600)9月14日、関ヶ原の役。赤坂に徳川家康の旗印が立つと、西軍は大いに動揺した。
その日、石田三成は大垣に諸将を集め軍評定を行う。ここで島津兵庫頭(義弘)が提案した

「今夜、野郎共を赤坂に遣わし、先陣の陣屋を焼き払えば、敵陣は必ず騒動となるでしょう。
その時大軍を以って合戦を行えば、一戦にて敵を尽く討ち滅ぼせるでしょう。」

しかし石田三成は反論した
「今度の合戦は必ず勝利する。田中兵部(吉政)も我らに味方して、合戦中に返り忠を行うと確約した!」

これより前、三成は田中吉政に使いを出し書状を以って自分たちに味方するよう申し遣わしたが、
吉政は偽って同意の返事を出したのを、三成は信じ彼を頼りとしたのだという。

これに義弘
「田中の返り忠というのは心もとない!左様なこと、多くは期に望んで相違があり、また謀にて
偽りの同心の返事をした可能性もある。それを頼んで明日の合戦が必勝とは、愚かなことである!
今日、内府は長途を来て軍兵皆草臥れており、陣法も未だ定まってはいないでしょう。
その上士卒たちは陣屋を営み、食料の調理に立ち騒げば、いよいよ疲れて夜更けて熟睡することでしょう。
そこに大軍を以って夜合戦をかければ必ず勝利を得るべし!これは実を以って虚を討ち、
佚を以って労を討つの計なり!

それでも、三成は遂に同意せず、島津の謀は空しくなった。

その頃内府公の陣所では、『今夜は夜討来ること有るべし。油断すべからず』との仰せにより、
篝火を焚き、夜回り隙無く、遠見の番まで置いて用心を怠らず、その軍法は厳密であったという。

(黒田家譜)

有名な、関ヶ原で島津義弘が夜討を提案したお話。三成は田中吉政の内応を頼りにしていたのですね。




363 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/24(木) 21:25:36.05 ID:+Qt9rNs+
田中はもし西軍有利になったらほんとに裏切る想定もしてたのかな

364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/25(金) 01:16:30.39 ID:aMAnNCDO
田中吉政ごときをあてにするってありえんだろ

365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/25(金) 01:42:51.92 ID:1ElstaQP
包囲網が吉川一人のために瓦解するんじゃーね

366 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/25(金) 07:37:42.50 ID:6vHuZ6nT
秀次派が西軍に寝返るだろうか?

367 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/25(金) 08:41:36.33 ID:tz+AIFcm
自分の城で徳川勢が留守してる状況で田中吉政が寝返るとか無いわ

あと秀次切腹の時にも咎めがなかった人達だから、秀次派ってのは
無いんじゃないかな

【話題】島津義弘小説、6月からウェブで公開

2015年05月28日 17:14

84 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/05/27(水) 21:48:19.61 ID:9GfvjNwH
初めて書き込みさせていただきます。至らないところもありますがお願いいたします。

大河ドラマ化に弾み 島津義弘小説、6月からウェブで公開
http://373news.com/modules/pickup/index.php?storyid=66690
 戦国武将・島津義弘ゆかりの地である姶良、日置、湧水、えびのの4地区の
「義弘公大河ドラマ誘致委員会」は、徳間書店と共同で、義弘の生涯を描く小説を企画している。
作家・井川香四郎さん書き下ろしの「島津三国志」。6月から、ウェブマガジン「歴史行路」
で公開する。関係者は「ドラマ化には原作の必要性も指摘されており、弾みになる」と期待を寄せる

85 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/05/27(水) 23:12:39.29 ID:9GfvjNwH
84の続き
小説は約一年間毎月掲載され、閲覧は無料で書籍化も予定しているそうです。
(南日本新聞2015年5月27日記事より)

少し前に「義弘公大河ドラマ誘致委員会」主催の講座を聞きに言った時、
「最近の大河が振るわないのは、歴史に関心のある人が脚本を書いてなく、
いい原作がないからと思い徳間書店と共同で企画を考え、小説を書いて
もらっています。夏にはウェブで公開予定です。」と言ってましたが
本当に予定通りに進んでる…
あと、宮崎県えびの市に義弘の銅像を立てる計画も順調に進んでいる
そうです。



86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/28(木) 00:35:05.46 ID:LkWj94pc
ウェブマガジンってのはどうなのよ?
もっとメジャーな文芸誌や新聞とか週刊誌じゃないと
知名度上がらないし…

87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/28(木) 07:26:31.84 ID:Yy790yKb
島津だけでは正直薄いよなあ
やはりあの時代は暗黒太閤と化した秀吉あってこそ
しかし秀吉のキャラ立ちは圧倒的なので島津が食われかねない
だからといって九州内の覇権争いだけを描いてもなあ

88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/28(木) 13:38:32.93 ID:w8Exbow6
義弘を主役に派手さを狙うのは甘え
義久を主役にして権謀術数渦巻く知略戦を描くべき

89 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/05/28(木) 14:31:42.63 ID:3nQUdxjC
義弘が主役なのは、義弘ゆかりの地である姶良、日置、湧水、えびのの4地区
の所が企画しているから当たり前のことですしねぇ。
(日置市と姶良市は義弘にまつわる歴史的なつながりなどから姉妹都市ですし
姶良市の市長さんの名前は笹山義弘さんですが、父親が島津義弘にあやかって
名づけたそうです)
義久を主役にした小説…読みたいけれど、多くは望みません。
ただ、今回の小説で義久が悪く書かれないよう祈るだけです。

90 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/05/28(木) 14:36:24.17 ID:3nQUdxjC
なぜか、IDが変わってました。
84・85・89は同一人物が書きました。

92 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/05/28(木) 21:09:57.42 ID:3nQUdxjC
84・85の補足です。
南日本新聞2015年5月27日記事の紙面の方には
井川さんは「これまでの猛々しいイメージとは異なり、東アジアから
世界へ向けた視線、家族愛や同胞愛など慈愛に満ちた義弘公を描きたい」
としている。
姶良市誘致委員会の会長さんは「多くの人に読んでもらい、大河ドラマ
の実現へ向けた機運の醸成につながれば」と話した。

93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 00:15:09.60 ID:1I/mC1ZA
既に怪しい雰囲気が醸し出されてるなあ

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 00:59:48.83 ID:kUwDtlwJ
加藤清正のタイガードラマはよ

95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 03:12:59.38 ID:6LcORnJI
>>92
つまり、島津ドラマ化のネックになっている朝鮮人皆殺しや琉球侵略を
「きれいなジャイアン」でごまかすってことかw

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 06:26:43.57 ID:05Bd7qhS
>>85
平清盛を見れば現実離れした見解だよなぁ

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 07:20:57.75 ID:uBMgoFHx
バカ知事が何か言いそうw

98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 07:51:37.37 ID:X1R2YQCf
>>92
義弘が、「儂は戦は嫌じゃ」とか言い出しかねんなw

99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 07:55:35.24 ID:mcDINiea
>>92
部下に優しくて敵には猛々しい義弘にできんのか。火鉢エピとか大工エピとか性格出てると思うんだが。

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 08:33:20.77 ID:TH6fkjnm
島津は映像化できないだろ・・・色々と悲惨すぎる

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 10:54:25.41 ID:5bj3lFUm
奴隷を南蛮に売ってたっけ?

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 17:01:26.02 ID:zdzYrMsl
日本じゃなくて東アジアからって書いてある時点で制作スタッフ臭すぎでしょ

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 20:46:50.48 ID:wwV7liSe
鉄砲伝来とか重要イベントあるから(震え声)

104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 21:09:32.57 ID:7e3CBtA7
>>101
うん、大友とか大村とかもね
インドのゴアでは原住民対策の兵員として重宝したらしい

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/30(土) 02:18:09.14 ID:CWM9Z+LL
>>98
代わりに義久さんが全ての原因になるんですねわかります

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/30(土) 07:17:33.57 ID:5P1QqS+E
戦国の世の家族愛や同胞愛ってとっても猛々しいよねw

107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/31(日) 00:32:49.85 ID:DaNyHf8r
ラスボスの秀頼への家族愛で何人も死んだ

108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/31(日) 16:05:45.71 ID:EF3ETCaI
家族愛に満ちた父の教えを受け継いだ息子はその教え通り子を沢山成したというわけですね

【ねこ大好き】島津義弘、近衛前久に猫を贈る

2015年05月08日 18:55

952 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/07(木) 20:26:10.43 ID:Igh/VUP+
【ねこ大好き】島津義弘近衛前久に猫を贈る

慶長年間の事と推定されるが、島津義弘近衛前久に猫を贈った事があった。
その結果近衛前久から礼状が贈られてきたのであるが、その内容は
「本望の至り、年来待っていたところ、ことさら美しく見事で、一段満足している」
という前置きを置いて「さらに猫を頂きたい。」との要求であった。
その理由は
「その猫は夫人に取られてしまい、自分の手元にはいないから、もう一匹送ってもらえないか。決して他人に譲るのではない。娘も懇望しているけれど、それは無視していい。まず自分の分を一匹ほしい」
ということであった。
(「旧記雑録附録二」二七〇号)


まとめサイトのコメント欄で紹介して頂いた逸話なのですが
シャイな※主様が他の人に投稿頼むと仰ってた&猫好き魂を鷲掴みにされましたので
僭越ながら※主様ご紹介の南日本新聞の「さつま人国誌」(2015年5月4日付)を
出典として要約し投稿させて頂きました。
元記事には他にも犬に関する逸話等が記載されております。



953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/07(木) 20:29:37.28 ID:B0Sjzqyc
関白のくせに、ペットをねだる調子のいい話?w

954 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/05/07(木) 20:48:37.66 ID:hya75fci
やはり島津家はNNNの支部だったのか

955 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/07(木) 20:54:43.78 ID:xD7IsRlR
>>952
娘の分も暗にねだってるw

956 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/07(木) 20:58:46.83 ID:UFTPDb99
なぜかプリンのコピペ思い出した

957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/07(木) 22:42:31.46 ID:jkzHWnJt
薩摩はネコの産地だったのか?朝鮮にも連れて行ってたし

958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 00:29:10.45 ID:xc36Xewg
三斎様も忠利に猫クレクレしてたけど、
この時代の猫って貴重で探して捕まえてたんだっけかな

959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 02:13:42.34 ID:Y5kEKSGr
ここの猫ってのはペルシャ猫のことかな?
それとも日本には元々猫がいなかったとか

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 06:13:58.72 ID:ARjUb34o
井伊直孝「猫と聞いて」

961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 07:02:21.04 ID:Np3grdNi
猫って鼠が殖えるまでは紐に繋がれて飼われてたよね

962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 07:21:15.93 ID:HjLXgSyq
板倉勝重「ワシが猫を開放した」

963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 09:35:37.68 ID:MvSWJ74j
最上義光「ぬこ…」
天庵さま「うちの子だって!」

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 09:48:17.67 ID:MvSWJ74j
これは近衛卿側の逸話になるのかな?

それと鶴が逃げても動じなかった秀吉が、猫が逃げて衰弱してるからおそらく秀吉も猫好き。

検索したら猫好きの人の性格が出て来た。

「さみしがりや、自由気まま、気まぐれ、マイペース、束縛を嫌う、
自分勝手、ワガママ、甘えん坊、団体行動は嫌い、気分屋」な傾向とか。

965 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 10:01:11.95 ID:MvSWJ74j
日本猫(和猫)は、8世紀頃に大陸から経典を鼠から保護するために日本に伝わったとされるが、長崎の弥生時代の遺跡からも古来の猫の骨が見つかっている。
889年(昌泰2年)宇多天皇の唐の黒猫の飼育日記があったり、花山天皇が皇太后に愛玩動物として猫を贈った話もある。

東南アジアや琉球から貿易を経由して日本に都度都度猫が入り、日本に家猫や野良猫が定着したのは江戸時代頃とも言われる。
日本猫で代表的なものは、「白猫」「黒猫」「サビ猫」「トラネコ」「ブチネコ」「三毛猫」の6種類。

966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 10:17:09.22 ID:0PPEkGvE
(⌒▽⌒)

967 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 10:20:18.99 ID:9cl0PIMM
鍋島直茂「ネコなんて大嫌いだあああっ!!」

968 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/05/08(金) 10:28:05.42 ID:At7WWQV/
天久院「猫程度にうろたえるとは軟弱な」

969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 12:25:01.99 ID:MvSWJ74j
>>952
犬の話も気になる

970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 13:28:01.94 ID:MvSWJ74j
「さみしがりや、自由気まま、気まぐれ、マイペース、束縛を嫌う、
自分勝手、ワガママ、甘えん坊、団体行動は嫌い、気分屋」

猫ブロガー宇多天皇、豊臣秀吉、近衛前久、伊達政宗、最上義光、小田氏治、井伊直孝…

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 13:31:42.47 ID:MvSWJ74j
A=B=C、つまりA=Cである

A=伊達政宗
B=猫好き
C=細川忠興

つまりまーくんは三才様だったんだ(違います)