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島津中書の死について

2022年05月07日 14:52

471 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/06(金) 22:31:17.36 ID:Oy1vWUUb
薩藩旧伝集」から島津中書(島津豊久)の死について

後醍院宗重の供のものの一人が、関ヶ原で宗重に遅れ敵中に包囲された。
そこで島津中書(豊久)が討ち死にし槍玉にあげられたのを見届け、その後しばらくして帰国した。
長命であったため宗重の孫たちの子守りをしていた時分、後醍院屋敷から頭殿の踊りを見ようと川上村に行った。
(原注:今では小山田村で踊りを行っているが昔は川上村で行っていた)
蹴合踊りの時には眼の色を変え、
「中書様がお討死にされ、槍玉に上げられ、猩猩緋の御陣羽織がさっさんに裂けた時はまさにこのようであった。
よく見ておきなさい。そして老夫がこう言ったことを覚えていてください」
と、宗重の孫を抱えて跳ねながら言ったという。
なお慶長六、七年(関ヶ原の翌年、翌々年)の頃、押川強兵衛(公近、浜田経重の娘婿で武勇の持ち主)を三虚空蔵参りの名目で中書様の行方を尋ねさせたが、
三年経っても不明だったため帰国したということだ。



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豊後の佐伯太郎惟定は、驍勇智謀の将であった

2022年01月31日 17:10

2 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/31(月) 12:35:08.62 ID:H6kEBq4H
豊後の佐伯太郎惟定は、驍勇智謀の将であった。

豊薩合戦の際、島津兵庫頭義弘は、その甥である島津中務大輔豊久をして使いを遣わし、
彼に降伏することを説いたが、惟定はこれを聴かなかった。
豊久は再び使いを還し、利を以てこれを誘ったが、惟定はこの使いを斬って大友宗麟
二心無きことを示した。豊久は怒り、多兵を以てこれを攻めた。

惟定は使いを斬ってから、豊久が必ず来襲することを慮り、その策臣である山田土佐入道匡徳と計り、
伏兵を置いてこれを待った。
先ず、徒歩の者を三ヶ所に置き、一見深く隠しているようにして、少しばかりその形成が顕れるようにした。
豊久は斥候を以て探索し、三ヶ所の伏兵を発見し、直ぐにこれを攻撃した。

三ヶ所の伏兵たちは、惟定が兼ねて命じていたとおりに、攻撃を受けると急ぎ走って逃げ去った。
三ヶ所の伏兵は命に従って死を免れた。そして薩摩の者達は、これによって他に伏兵はいないと考え、
再び探索することをせず、佐伯惟定を軽んずる思いを持った。

この時、惟定は騎士の伏兵を道路より二、三十町下がった山間に置き、豊久の軍が通過するのを待って、
廻ってその後ろに出た。

豊久の軍に対し、惟定は地の利を利用してこれを防いだ。豊久の軍は破ること出来ず徐々に疲労した。
これを窺って合図の法螺が吹かれた。一の騎馬の伏兵、法螺を聞いて左より俄に起き、豊久軍の横を
断とうとした。豊久の兵がこれに当たろうとすると、ニの騎馬の伏兵右より起こり、それぞれが
左右を衝こうとすると、そこに三の騎馬の伏兵が中より起こった。
ここで本陣の匡徳正兵となり惟定奇兵となって即座に進んで縦伐した。
豊久の兵は目が眩み志奪われ、大いに敗れ潰走した。

志士清談

佐伯惟定の策謀について



3 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/31(月) 13:46:28.92 ID:7kjVdDgC
戦国期、西国は騎兵使わない戦闘が多いと聞くが、この物語だと騎兵使ってるのね

これこそ男子の本懐というものよ

2021年10月05日 16:49

83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/04(月) 17:51:02.06 ID:6U4FoXck
「世録記」によれば
龍造寺との戦いに於いて有馬から救援要請があったため、新納刑部大輔忠尭(忠元の長男)と川上左京亮忠堅が派遣され、敵方の深江城を攻めることとなった。
忠堅は(一番槍で負った)いくさ傷を意気揚々と忠尭に見せ
「戦で傷を負う、これこそ男子の本懐というものよ」と得意になったところ
忠尭は「新納刑部大輔忠尭の名を敵軍に知らしめてやる!」
と言ってつっこみ、乱戦の中で死んでしまった。
(享年三十)

「本藩人物誌」によれば
川上忠堅の方はその後の島原合戦(沖田畷の戦い)の首途の宴会の席で家久の息子の又七郎忠豊(豊久)から盃を受けた時に
「今日は龍造寺隆信の首を取ってご覧に入れてみせます」と言ったところ
新納忠元から「今の言葉は軽率すぎる」とたしなめられたが
「妄言ではありませぬ、きっと取ってみせます」と反論したため、周りもあまりに放言がすぎるとあきれてしまった。
その日、足軽大将の簗瀬兵右衛門たちとともに敵兵に紛れて本陣に突入し、隆信に槍を入れ、簗瀬に首を掻かせて義久公のもとに送り、御実験に入れた。
その後、筑紫広門の鷹取城攻めの際、広門の弟(もしくは息子)の春門と戦って際、忠堅は春門を斬ったが春門も忠堅の右手を切り、相討ちとなった。
(享年二十九)



鳥頭坂の退却戦

2020年12月22日 18:33

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/22(火) 16:40:01.56 ID:7X5EPM0s
慶長五年九月十五日未明、関東勢(東軍)の御先手諸将は関ヶ原に出張して、戦を取り詰めていた最中、
筑前中納言(小早川)秀秋が裏切りを致し、大谷刑部(吉継)備えを切り崩した。故に石田を始め、
(西軍)諸将の備えは尽く敗北致した。

その時惟新の旗本は、先手との間が隔たっていた。そこに中務(島津豊久)が旗本に馳せ来て
「戦も是迄と見え候。それがしこれにて防戦すべし。その間に一方を駆け敗退してください。」
と申し上げた。しかし惟新はこれに
「今度の合戦に於いて討ち死にし、再び国元には帰らないと決意して出陣した以上、一足も
退くことは出来ない!」
と、大いに怒った。中務は重ねて

「家の存亡、この時に有り。よくよく思慮あるべし!」
そう声高に言い捨て
「よし、戦も激しくなってきたようだ。」と、相従う士卒十三騎にて、大勢の中に駆け入討ち死にした。

惟新も続けて駆け入ろうとしたところ、家老の長寿院盛淳が馬を駆け寄せ
「大将が死を軽くせざる事はかねてお知りに成っているはずです!それがしが名代として討死
仕るべし。中務の申した如く、家の為ですから、必ず退いてください!」
そう断って諌め、馬廻りの者共に堅く申し含めた上で、長寿院は大勢の中に駆け入り
「島津兵庫入道惟新!」
と名乗って討ち死にした。この時に、士卒も多く戦死した。

その時、関東勢は左右に分かれ、伊吹山の方に西国勢が敗走しているのを追いかけ、馳せ向かっていた。
そのため、その跡の道が少しばかり開いていた。惟新入道は残った人数をまん丸に備え、福島左衛門大夫正則の
備えの前に押しかけたが、左衛門大夫はあえてこれに取り合わなかった故に、左衛門大夫備えの前を、
いかにも静々と押し通った。

その跡より、「井伊兵部少輔」と名乗る百騎ばかりが追いかけてきた。これに対し、惟新自身が太刀打ち
までして追い返し、その合間に下知して静かに退かせたが、すぐに兵部少輔人数は追いつき、殿をしていた
後醍院喜兵衛宗重、木脇休作秋秀と戦闘になった。両人が危うく見えた時、川上四郎兵衛忠兄が取って返し、
下知をして鉄砲を撃たせた、四郎兵衛の若党である柏木源藤と申す者が、鉄砲を以て大将と見えた人物を
撃ち落とし、「川上四郎兵衛!」と名乗った。その時、従っていた人数は撃ち落とされた人物に馳せ集まり、
引き退いた。後にこの人物が兵部少輔直政であったと承っている。

その後惟新は、高き所に備えを立てた所、方々より人数馳せ集まり、ようやく三百ばかりとなり、
これによって帰路についての評議をし、権現様(徳川家康)の御本陣に川上四郎兵衛を差し遣わした

『この度黙視難き次第のために、思いもかけず出陣致した事について、我々が日頃の御懇意を
忘却したのだと考えられては、我らの本意に背きます。只今御陣頭をうち通りますが、
憚りながら使者を以てそのことを申し上げます。委細は国元より申し上げるでしょう。』

そう言上し、それより駒之峠に向かった。

島津家譜

関ヶ原の戦いにおける、島津の「鳥頭坂の退却戦」について



何の方便もなく一戦の上、討死に相究めたり

2020年12月21日 16:57

777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/21(月) 16:07:51.96 ID:6LzXeZVW
権現様(徳川家康)が奥州に御発進(会津征伐)の跡に、五奉行たちが諸大名を相催し、権現様に
背き奉る企てが有るとの風聞が有った。

七月中旬、初めて惟新(島津義弘)の所に五奉行より、自分たちに一味するように申し越してきた。
惟新は「存じよらぬ儀であり、一味仕ることは出来ない。」と、二度にわたって返答したが、
その時奉行より

「今度のことは全く私の遺恨ではない。偏に秀頼様の為の企てである。あなたも最前、
秀頼に相背きまじきことを誓紙にし、かつ又、太閤の厚恩を忘却していないのであれば、
この度に及んで異議はありえないものである。もし同意しないのなら、あなたの今までの儀は
皆表裏に似たものである。」

このように、余儀のないことであると申しかけてきた。惟新は誓紙を黙視できないと考え、
是非無く五奉行に同意した。

この時、惟新の甥である島津中務太輔豊久は惟新に対して
「今度の合戦の勝負を考えてみましたが、権現様が御利運を得られるのは確実だと存じます。
詮無きことに与し、家を亡ぼされるのは嘆かわしい事です。その上権現様の、多年の我らに対する
御懇意は、並々ならぬものでした。早々に権現様へ御味方に参り、家を立てるべきです。」
そのようにたって諫言を申し上げた。これを惟新は承り

「其の方の申す通り、私もそう考えている。しかし余儀なく申し懸けられ、結果的に誓紙を破って
しまっては、たとえ権現様に味方申し上げたとしても、権現様は頼もしく思し召さず、
またそれ以後、島津家の誓紙誓言は偽事と考えられ、長く家の疵とも成るだろう。

私はあえて、これまでの御芳志を忘れ奉るのではない。これによって国元より人数を召し集めず、
有り合わせの人衆ばかりで出陣いたし、何の方便もなく一戦の上、討死に相究めたり。
さてまた、家の事は龍伯(義久)、忠恒が在国しており、この事についてはまったく存じては
居ないのだから、この事は重ねて御訴訟申し上げればよい。」

と、申し切られた。

島津家譜



778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/21(月) 16:57:30.84 ID:YtiveTFr
弁明のための創作なのは(恐らく当時でも)明白だからなぁ

義弘君が、死人に口無しをいいことに作った自分(と島津家)に都合のいい話だな

島津豊久が関ヶ原にて討ち死にしたのは

2017年04月27日 18:00

859 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/27(木) 17:55:42.21 ID:aWpfotaT
島津豊久が関ヶ原にて討ち死にしたのは、彼が討ち死にせねば島津の総勢が撤退すること困難だったためで、
彼とその配下500ばかりが一ヶ所において討たれた。忠死というべきであろう。これによって島津の兵は
事故無く引き取れたのである。
ただし大勢が、豊久が討たれたその場で腹を切って死んだ、と云うのは嘘である(大勢その場にて腹を切て
死せしと云は嘘也)。

(士談)

豊久が死んだその場で薩摩軍集団割腹、という話も当時あったらしい。



860 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/27(木) 18:33:32.53 ID:cU26TiUR
そら豊久は異世界のエルフのとこ行っちゃったからな

861 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/27(木) 18:43:28.30 ID:MbjlmIMI
>>859
足止め役なのに全員切腹したら意味ないしなw

862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/27(木) 22:04:33.99 ID:UdAgxPiJ
明治になるまで薩摩ってこんな顔の奴ばかりだったんだろ
http://i.imgur.com/S4Y3T.jpg

間宮林蔵は良く潜入出来たな

伊東家毛利家喧嘩の事。並びに落合浅之助について

2016年06月21日 21:17

873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/21(火) 00:11:17.89 ID:qBcS+riJ
朝鮮の役の折、伊東祐兵が釜山城に在番していた時に、伊東家の兵と毛利家の兵が喧嘩に及び、
毛利家からは騎馬の武者が多数出て伊東家の船手の者たちを海岸際まで置い詰めた。

ここで伊東家からは落合九右衛門尉を始めとして大勢が駆け付け互いに鑓合わせとなったが、
伊東勢は毛利家の小谷又右衛門(知行八千石)をはじめとした大勢を海岸際まで追い込め、
石田九郎右衛門(知行六百石)に重症を負わせ、毛利家では討ち死に6人に及んだ。
伊東家も討ち死に3人、手負い数十人が出た。

このようにほぼ合戦の有様で、鎮め難い状況になったが、ここに寺沢志摩守(広高)、
島津又七郎(豊久)、相良左兵衛(頼房)の三大将が間に入って調停し、事態はどうにか
鎮まった。

この時、落合九右衛門尉の嫡子で、16歳の落合浅之助、容儀人に優れ伊東祐兵の小姓であったが、
喧嘩の注進を聞くと馳せ付け一文字に斬り掛かった。これを見た毛利の武士の一人が、弓を引いて
浅之助に放とうとしたが、彼が年少でありながら、その勇ましいことに感じ入ったのか、わざと
足元の地面に射って、浅之助の姓名を尋ね、感謝して退いた。

この落合浅之助は元来勇気人に優れた男であり、或る日、伊東祐兵の眼前で敵を討ち取り
比類なき働きが有ったので、近習外様の者たちも、彼に一廉の褒美があると思っていたにも
かかわらず、その後全くその沙汰がなかった。皆不思議に思い、ある者が「どうして浅之助に
褒美を与えられないのですか?」と尋ねると、祐兵は答えた。

「なるほど、確かに恩賞を与えるべき功名であろう。だが浅之助は、年齢少なくして勇気が
あまりに強すぎる。彼に今褒美を与えては、さらに逸って近いうちに必ず討ち死にするだろう。
そう思ったので、その沙汰をしないのだ。」

しかしその後浅之助に、何と言う理由もなく、短刀が与えられたそうである。

(日向纂記)



874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/21(火) 02:16:31.73 ID:kVu0ZNF3
自決の引導でしたか

敵の船をネギる。

2014年12月15日 18:48

361 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/12/15(月) 09:13:16.01 ID:+mpcXuzM
敵の船をネギる。


 慶長二年(1597)二月。再開した慶長の役により集結した日本勢。

 その軍議の席。豊臣秀吉の軍令は、全羅道(チョルラド)の征服を第一目標とするものであった。

 自然と攻撃目標として明からの援軍三千名も含め、六千の籠る南原(ナムウォン)城の攻略が盛んに議されたのだが。

「唐島(巨済島:コジェド)表には番船数百艘が漕ぎ出でて、日本より往反の船を遮っておる」

「されば、この番船を追い退けてこそ赤国へ相働くべけれ」

 全羅道の明朝連合軍の拠点を攻略する前に、朝鮮水軍を撃滅して半島南岸と日本との制海権を確保する事で議定一決。

 諸将は大鉄炮や焼き草から熊手に撃鑰(打鉤)など遠近両用の装備を調え、七月十五日の夜半に出撃。

 この戦いには藤堂和泉守高虎・加藤左馬助嘉明・脇坂中務少輔安治・小西摂津守行長の諸将と共に、島津家の家中も参陣。

 閑山島(ハンサンド)より出撃する朝鮮水軍が、巨済島と漆川島(チルチョンド)の間に流れる漆川梁(チルチョンリャン)を通過する時を狙い、陸海で挟撃する作戦だった。


 そして、加徳島(カドクト)より移動して陸路で待機する島津義弘・忠恒父子の軍勢三千余名が。唐島の碁石浜で刻限を待っている時。
 
 予定よりも早く戦闘が始まった。

「父上、舟手より時の声(鬨)が?」

「吾らも鬨を上げよ。陸と海より大鉄炮を打掛ぃ!」

362 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/12/15(月) 09:14:01.80 ID:+mpcXuzM
 兼ねて用意していた島津忠豊の率いる水軍は、予定より戦闘開始が早く、且つ余りにも朝鮮水軍の攻撃が猛烈であった為、纜を解く余裕も無かった。

「構わん、碇を切り捨てぃ!」

 解纜の暇がなかった大方の船で、次々と纜が切断された。既に漕ぎ始めていた船は、抑えていた碇が無くなるや一挙に加速。吾が船、遅しと押し出す。

「彼の船に漕ぎ雙(なら)べ。各々一度に切り乗らん!」

 忠豊の下知に、朝鮮水軍で三番目の巨船に接舷する島津の船。

「殿、お先に御免!」

 真っ先に斬りこもうとした主君を差し置いて、樺山文之助という十九歳の近習が一番に敵船に飛び乗る。……そして鎧の胸板、その外れを射られて海に落ち、忽ちに死ぬ。

「おのれ!」 「殿、御免!」

 近習の死に、今度こそ自分が乗り込もうとする忠豊だが、またしても甲斐正助という士が主君に先立って乗り込む。

 三度目の正直、と忠豊が今度こそ敵船に乗り込んだ時には、既に手勢多数がほぼ同時に乗り込み、白兵戦を展開して行った。

 中でも、足軽ながら忠豊が常々目をかけていた大倉兵衛という剛の者は、この時も主の期待に違わず舟矢倉の下に入り込み、えいやと声を上げて敵兵数多を斬り捨て、更に多くの兵が恐れをなして海に飛び込み溺死に追い込んだ。


 かくして、この巨船は乗っ取られ、即座に日本に差し渡して秀吉の台覧に供された後、慶長の末年まで大坂に繋がれる事となった。

 又七郎忠豊に賜う台書
   
  このたび唐島表において番船百六十四艘伐り捕りのみぎり。その方、自身の手を砕き(敵兵を)切り棄て、三番目の船の唐人を残らず切り棄ての由。手柄の段、比類なく候。
  殊更、その船を焼かず日本へ差し渡す儀、御感ななめならず候。何れも帰朝のみぎり、ご褒美くわえらるべく候。なお増田右衛門尉(長盛)・石田治部少輔(三成)・長束大蔵大輔(正家)・徳善院(前田玄以)申すべく候なり。

   八月九日御朱印(秀吉)
        嶋津又七郎とのへ


 海戦に敗れた朝鮮水軍は巨済島に上陸。この時点で、水夫以下は体力の限界まで船を漕いで疲労困憊の上、飲料水の枯渇で嫌でも敵地に上陸せざるを得なかったらしい。

 そんな彼らを待っていたのは、島津・小西の軍勢だった。特に島津勢は海上の戦況を観た義弘の下知で、碁石浜から島崎までの十五~六里に三千の兵を分散配置していた。

 三道水軍統制使の元均(ウォンギュン)以下の将兵は悉く殲滅され、磯近くで留まる敵船は熊手・撃鑰を打ち掛けて曳き割り、撃ち割り、焼き沈めていった。

 『征韓録』では「番船大方根切」、と形容している。

 島津家中には、忠豊(のちの豊久)が先駆けようにも同着三位になるような勇士が少なくなかったのですね。




364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/15(月) 10:09:48.05 ID:P/IbXQS/
このぱくった船はのちの何になったんだろう。

島津忠豊の春川籠城戦

2014年12月06日 18:54

316 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/12/06(土) 06:14:24.80 ID:msPvcVEu
島津忠豊の春川籠城戦

 文禄元年(1592)初春。島津又七郎忠豊が守る朝鮮国江原道の春川(チュンチョン)城は、蜂起した義軍六万騎(公称)によって
二重三重に取り囲まれていた。

「奴らめ、撤退したのでは無かったのか」

 実は、春川城に敵軍が押し寄せてきたのは二度目。最初の時は即座に永平(ヨンピョン)の島津義弘に後詰を依頼。
即座に後詰の人数を催し駆けつけてくれたのだが、増援を遠望した敵軍は一戦も交える事なく退却してしまい、義弘勢も漢城などの守備の為に帰還していた。

 だが、撤退した筈の敵軍は後詰が引き上げると再び蜂起し、あっと言う間に春川城を包囲。攻め鼓を打ち、息もつかせぬ攻城戦を開始した。

 この時、城内の兵力は馬上三十数騎、兵五百余り。しかも頼みの城は普請中の未完成で防衛機能は不完全。忠豊は下知した。

「この城、普請も未だ丈夫ならず。殊更、後詰の勢を相待つ間も無し。是、十死一生なり」

 敵は圧倒的大軍で完全包囲され、逃げ場は無い。城は籠城に耐えず、援軍到着までの時間稼ぎは不可能。この絶体絶命の危機に際して、
主従の出した結論は―――

「善く戦う者は死せず! 助かる道は敵を撃滅せぃ!」
「「「チェスト―!」」」

 忠豊は寄せ手が城壁を乗り越えようとするまで接近させた上で、百丁の鉄炮で斉射十連。敵軍先手を敗走させるや、
全軍に真丸になって斬って出るよう下知。縦横無尽に懸け破った。
 敵軍は僅かの小勢に懸け立てられ、這々四方に引き退く。忠豊はこれを少々追い打ちし、軽々と城に引き取った。

 その時、討ち取る首級七十余り、左の耳と鼻を切って名護屋に献上し、感状を賜る。(征韓録)。
 別の史料では五百三十余りを討ち、うち二人は将だったので首塚を築いたとも。

 島津又七郎忠豊、後の豊久の籠城戦である。



318 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/06(土) 14:01:45.80 ID:QX5TiB/d
>>315
なんというマッチョw

島津豊久の鎧に伝わるちょっと悪い話

2014年08月22日 13:48

985 名前:sc→net未反映分のコピー[sage] 投稿日:2014/08/22(金) 00:53:24.25 ID:k/wP8bZN
島津豊久の鎧に伝わるちょっと悪い話

島津豊久は関ヶ原の退き口で島津義弘を逃すために身替わりとなり、井伊隊や福島隊を相手に討ち死にを遂げた

江戸中期になって島津家中の者が江戸の古道具屋で槍傷の多々遺る、島津紋の装飾の入った紫糸威胴を見つけ、これを買い上げ、薩摩に持ち帰った

関ヶ原の里人が打ち捨てられていた豊久公の遺骸から剥ぎ取った鎧が
流れに流れて江戸の古道具屋に並んだのだろうと目された

-これが世に知られる豊久の鎧の話であるが
近年その話に疑問が投げかけられた

「本藩人物誌」によれば豊久を討ち取ったのは福島勢の笠原藤左衛門といった者で、豊久の遺骸から甲冑を奪い、甲冑は笠原家に伝わっていたとされる

時代が経ち、笠原の子孫がその豊久の鎧を江戸後期の永吉島津家当主・久芳に安永6(1777)年に譲渡し、鎧は九州の天昌寺に納められたと伝わっている

「永吉島津家文書」

豊久の鎧とされる槍傷の紫糸の胴は
果たして誰のものだったのだろう?

島津義弘の身替わりとなって壮烈に討ち死にをした家中のものとは想像されるものの
持ち主のはっきりしなくなってしまった鎧のちょっと悪い話

986 名前:sc→net未反映分のコピー[sage] 投稿日:2014/08/22(金) 01:52:06.33 ID:k/wP8bZN
時ニ井伊兵部直政本多中書忠勝己ガ兵ヲ発シ薩摩勢ヲ切靡ケ中坊ガ危キヲ助ケテ戦ヒケルガ中ニモ忠勝ハ己ガ馬廻リ勇士ヲ進メ迫リ来リ
豊久ヲ追取込メ十方ヨリ突掛リ鎗七八本ニテ六七度鎗玉ニ上リ見ルガ内ニ豊久猩々緋ノ羽織散々ニ裂テ飛散リ
首ハ筑前中納言秀秋ノ先手ニ進ミケル小田原浪人笠原藤左衛門之ヲ取ル
豊久ノ旗下勇士十三騎モ又大ニ戦ヒ豊久ノ前後ニ枕ヲ並テ打死ス
豊久打死ノ次第ヲ以テ此時敵味方共ニ戦ノ烈シキヲ知ルベシ
「関原合戦進退秘訣」

笠原の属した家中も史料によって様々





伊東祐兵、出陣の催促を免れる

2013年05月24日 19:51

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/23(木) 21:12:26.15 ID:Mnno51pM
伊東祐兵、出陣の催促を免れる

石田治部少輔三成が逆心の棟梁として廻文をまわし、
在大坂の大名小名とともに慶長五年七月晦日に伏見城を攻め落とし
鳥居元忠らを討ち取って濃州へと出陣した。

かねてから伊東祐兵にも出陣するように催促があったが
祐兵は重病であり催促にも従わなかった。

島津中務少輔(豊久)は大坂から出陣する時に、祐兵の居所へ立ち寄り
さあいっしょに出陣しましょうと申し入れたが、郎党たちは大病にて
病臥していると答えたが「直にあってお話したい」と言われたので
奥へ通された。

祐兵の病状を見て疑いも晴れると、泪を流して「ともに出陣しようと
思っていたのにこんな容体とは・・・。十分に養生してください。
命があればまた会いに来ます」と言って出て行かれた。

もし家康公に通じていることが露見すれば大事だったであろうが
強運の程こそ頼もしけれ

(日向記)

伊東祐兵が東軍に通じてなければ美しい話だったのだけれど・・・




693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/24(金) 01:28:34.38 ID:xoZzArbF
関ヶ原直後に死んでるのは強運といえるのか
しかし、島津を仇と思ってるだろうに、豊久もよく行ったもんだ

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/24(金) 06:36:58.88 ID:BhoaUw4r
伊東家が日向から追い出されたのは、豊久が幼少の頃だから
あまり意識してなかったかも

あなたならどの説を採る?

2012年10月27日 18:05

48 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/27(土) 00:55:29.38 ID:rESl656N
悪い話を一丁。まとめにもないと思う。


関ヶ原の島津の退き口のとき、島津豊久は殿軍となって島津義弘を逃がし、
烏頭坂(岐阜県大垣市上石津町)で討ち死にしたというのが定説である。

だが異説によると、このとき豊久は生きていたという。
重傷を負った豊久は、生き残りの薩摩兵の手で近くの集落まで運ばれた。
この集落には七軒の家があり、薩摩兵は豊久の治療のため一軒一軒訪ね歩いたが、
関わりあいを恐れた村人は中に入れようとしなかった。
豊久は間もなく息を引き取り、亡骸は荼毘に伏され集落の近くに埋葬された。

そしてのち、この集落は明治まで続いたが、決して栄えることなく七軒のままで
あった。さらに豊久の墓のまわりには草木も生えなくなった。
これは豊久や薩摩兵の祟りだという。

この異説にはさらに別の説がある。村人は豊久を家に入れて必死で手当てをしたが、
村人に後難が降りかかるのを忍びなく思った豊久が自刃したという話である。


あなたならどの説を採る?





49 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/27(土) 01:05:20.00 ID:rlRYPEzW
あれ、異世界に漂流したんじゃなかったか

てのは冗談として、槍玉に挙げられたってのが本当なら普通そこで死んでそうだが

53 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/27(土) 12:38:17.36 ID:mTSUofq/
>48,>50
ドリフターズだな

これを見た城攻め諸将は、驚愕した

2011年10月02日 22:00

161 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/02(日) 15:17:56.46 ID:dKp7WdtW
慶長4年(1599)3月、伏見島津邸において、島津忠恒が家老の伊集院忠棟を殺害した。国許でこの報を受けた
忠棟の子・忠真は自領の都城および勢力下の12城をもって蜂起。いわゆる庄内の乱が起こった。

忠恒は、忠真領の最前線にある山田城の攻略を島津中務大輔豊久らに命じ、6月23日、城攻めが開始された。

豊久軍は卯の刻(午前6時)から午の刻(午前12時)まで激しく攻め立てたが城方を崩せず、逆に戦意が
衰えたところに痛烈な反撃を食らい、あろうことか城方に軍旗を奪われてしまった。

「はっはっはっ、見よ!名将家久公の子、他国にも聞こえし島津中書とて、何ほどの事やあらん!」
城方は、奪った軍旗を城内に立てて晒し物にした。

これを見た城攻め諸将は、驚愕した。
「あれは…まさか?」「ば、バカな!」「豊久様の旗が城内に?!」「なんと…何という事じゃあ………」



「早や、豊久様が一番乗りを果たされたわ!」「さすがは豊久様じゃあああ!」
「者ども、後れをとるなーっ!」「ヒャッハー!豊久様に続けえええええ!」

激しく勘違いした諸将は奮起、先を争って城へ攻め入ると、一気に本丸まで駆け上がった。

豊久(………まぁ良か。)

その日の内に山田城を攻め落とした豊久軍は、主将の長崎休兵衛・副将の中村兵左衛門まで
討ち取る大功を立て、豊久には忠恒から感状と太刀が与えられた。(本藩人物誌)




162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/02(日) 15:21:59.25 ID:uHes0Hqa
こ、これは・・・日頃の行いのおかげってやつなのか?w

163 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/02(日) 16:39:49.50 ID:eGAkfVrt
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3133.html
これ思い出した

164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/02(日) 17:09:03.30 ID:qtrqLuxi
なんというポジティブシンキング

165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/02(日) 17:27:05.05 ID:pA0SKBKG
これはむしろ良い話なんじゃねwww

166 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/02(日) 18:58:53.82 ID:Mp2Ndoir
薩摩隼人たちのちょっと頭の悪い話








ちょっとではないがw

167 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/02(日) 19:24:06.80 ID:pUNnaBkx
豊久の、皆からの評価が良い話でもある…かな

168 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/02(日) 23:00:17.13 ID:UgOmrvZ8
これが殺魔か

169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/02(日) 23:21:49.83 ID:BAOI441A
大津城攻防戦の時もこんな展開なかったっけ

170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/02(日) 23:22:32.99 ID:BAOI441A
ってもう>>163で出てたね ごめん
九州勢はこんな展開ばかりなのか

171 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/02(日) 23:44:41.13 ID:mFNLsfLQ
関ヶ原必勝法思いついた

172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/03(月) 02:44:26.47 ID:DH+e49Xo
ドリフターズの豊久みたいのがいっぱいいるなww

173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/03(月) 14:18:02.24 ID:zADSqG1O
乃木と豊久なぜ差がついたのか…

174 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/10/03(月) 17:07:39.99 ID:Sg259wIJ
これだから島津は…
まともなのは義弘だけだな

175 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/03(月) 18:40:21.93 ID:kkOtqHJj
薩摩の者はみんな脳筋じゃのう

176 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/03(月) 18:43:30.14 ID:nkkWuIIH
>>173
旗を取られたのが薩摩隼人か、旗を取ったのが薩摩隼人かの違い

177 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/03(月) 19:02:20.72 ID:80WCHAnD
逃げるのに敵の真ん中通っていく鬼島津がまともと思えるのはなんかに毒されないかいw
・・・ところで宴会で一番デンジャラスなのはどこだろ?まーくんのとこなら面白ければマミらないとは思うけど
三才さんのとこはなんかおっかない気が



187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/04(火) 13:19:45.25 ID:igl6I+jS
>>177
市松さんのところに決まってるだろwww
間違いなく市松さんに酒が入るんだから

188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/04(火) 17:46:59.47 ID:31nrBJx/
市松さんが目上の人との酒席で酒乱になったはなしって聞かないけどあんのかな

189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/04(火) 17:54:08.45 ID:xq11bl7t
流石に目上と同席では自重しないと
死ぬ

190 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/04(火) 18:14:18.92 ID:iz8G2cpW
他家の使者相手に時々やらかすくらいかな、市松

島津義弘と、島津豊久の母

2011年08月05日 23:01

313 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/05(金) 10:22:17.66 ID:BZQVVG5K
慶長5年(1600)10月1日、島津義弘は関が原から日本戦史に残る撤退に成功し、
亡き弟家久の旧領である日向佐土原にたどり着いた。

早くも噂を聞いた農民が牛馬に家財を乗せ逃げて行く等、物々しい空気の中、家久次男・忠仍らの
出迎えを受けた義弘は、佐土原城内で家久夫人と一礼を交わした。

「このたびは、大変ご苦労なことでした。それで、私の息子は遅れて来るのでしょうか?」
「……………」

彼女の息子とは家久の長男、島津中務大輔豊久のことである。


その後、伊東氏の不穏な動きもあり、義弘は鹿児島から迎えに来た重臣の樺山紹剣の勧めに従い
早々に佐土原を発つことにした義弘の袖に、すがりつく女性がいた。家久夫人だった。

「あなたは……あなたは豊久を見捨てて、上方よりお下りになったというのに!
(中書を打捨候而御下候、)今また、この佐土原の地をお見捨てになるというのですかっ!!」

夫人の実兄である紹剣が、「あなたは先に『息子に後れは取らじ』と申されたではないですか。
ならば、ここで果てることこそ名誉では?」
などとさんざん夫人をなだめた末、やっと出発することが出来たという。(樺山紹剣自記)


千代、慶尼、妙林尼と女傑の多い戦国九州女性だが、皆が皆そうなれる訳ではない、そんな話。




島津豊久の『思い差し』

2010年11月15日 00:02

304 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/14(日) 11:11:54 ID:Vo7pMxvP
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4866.html
悪い話の方で、思い差しと衆道の逸話が書かれたので便乗。

島津家久の息子で、関ヶ原で勇戦、討死した島津豊久は輝くような美少年であった。
唐入りに臨み、豊久は島津家中の勇士たちを一人ひとり前へ呼んで『思い差し』をした。
これにより勇士たちは感激した。
「豊久様は、私一人を愛して目をかけてくださるのか、このお方のためならば命はいらぬ」
豊久の思い差しを受けた者は、戦場で果敢に奮戦したという。

明治時代まで島津の士族の間で語り継がれた伝説的逸話。
有名な『薩摩の衆道』とはいかなるものだったか、そして薩摩兵の強さの理由の一端を教えてくれる話。




308 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/14(日) 11:27:20 ID:8qbbwvnL
>>304
スパルタ教育
テーベの神聖隊的な絆
アレクサンドロス的な包囲殲滅戦法

これだけそれえば、負ける気しないな