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乙女月

2022年04月28日 23:38

158 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/04/27(水) 22:36:49.46 ID:2M22ybcL
昔むかし、島津家の当主が十五代貴久の頃の話。
貴久の元に仕える一人の若者がいた。
とある娘がその若者に恋をした。

ある時、若者が戦で大怪我を負ったとの知らせ
が娘のところに届いた。
驚いた娘は、何も持たず大急ぎで若者ところへ
向かった。
しかし、どんどん日が暮れあたりは暗くなり曇り空で月も星も見えず、ついに何も見えなくな
り娘は一歩も進むことが出来なくなった。
その時、娘は祈りを捧げると雲が動き月が見え月明かりを頼りに娘は無事に若者の所に辿り着くことができました。

後日、この話をを聞いた貴久は娘が祈った場所を「乙女月」と名付けました。
鹿児島県日置市の地名「乙女月」の由来の話。
(南日本新聞に載っていた話)

ちなみに「乙女月」バス停まで天文館から1時間ほどかかるそうです。



159 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/28(木) 11:10:25.26 ID:ZqnN/qCm
で、その二人は結ばれたのだろうか・・
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「明赫記」菱刈叛逆馬越城落城の事

2021年09月25日 15:54

580 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/25(土) 14:50:19.98 ID:DzAydl/y
明赫記」菱刈叛逆馬越城落城の事

菱刈氏はもともと島津家臣で、球磨方との戦功により横川の地を賜ったが、増長し、島津を離反し球磨方についた。
義久公は菱刈方の馬越城を攻略するにあたって、数万騎を率い横川を押し通った。
これを見た菱刈方がいそいで味方の伊東・相良に連絡し、横川方の防備を強くした。
兵法に「虎の洞穴では東を打ってから西へ行け」とあるのを我が事とは知らない愚かさよ。
島津軍はたちまち道を変えて般若寺・構子木越の方面に発し、永禄十一年二十四日の早天に馬越しろに押し寄せ、鬨の声をあげて我先に切岸に攻め上った。
塀際にて先手の軍勢が大勢手負や死者となったが忠平公(義弘)が攻め上り、島津方は我も我もと攻め戦い、詰城の井手籠父子三人の首を上げ勝ち鬨を上げた。
菱刈方は、横川・湯尾方面は薩摩口のため厳重に警戒をしていたが、般若寺・構子木方面は険しいため、こちらから攻めてくるとはまったく予想外であった。
馬越一城が陥落したことで湯尾、本城、横川、曽木、羽月、山野、平泉、青木、一山の城はその夜ことごとく陥落した。
それでも菱刈氏は降伏せず大口城に籠り球磨方の援軍を待った。
(「惟新公御記」によれば馬越城攻めに当たって無数の松明の灯りが出現したため、
貴久公・義久公は「これは当家が信仰している稲荷大明神の奇火であり瑞兆である」として鬨の声をあげて攻め込んだという)

関連
「明赫記」続き


伊地知周防守重興について

2021年09月24日 16:59

62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/23(木) 21:41:32.17 ID:Sox3FW2z
薩摩藩の「本藩人物誌」より伊地知周防守重興について

永禄年間では肝付兼続に与党し貴久公に敵対していたが天正二年に先非を悔い大隅五箇所を進上し剃髪して降参。
その後還俗して義久公が諏方社後参詣の時には騎馬にて跡に付き従い、大友との戦の際にも従軍した。
天正八年二月十三日卒。

付記
重興は豊後より召し出した女を妾としていたが、家中の者と蜜通したため、その女を櫃(ひつ)に入れ、蛇(くちなわ)を多く入れ、垂水の池につけて殺した。
家臣の柳田某が池の岸から櫃を竹の棒で押し出したそうだ。
その恨みにより強く祟ったため、御前と敬称をつけ、赤明神という名前で氏神として祀ることとなった。
右の柳田某も禿げてしまったそうだ。



島津家大永の内訌

2018年04月22日 21:18

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/22(日) 03:52:33.20 ID:469vx5k8
大永7年(1527)、島津貴久は守護職を継いで鹿児島清水城にあり、養父で前守護職の島津勝久
伊作に移って隠居した。ところが島津実久が勝久と通じ、貴久の実父・忠良と勝久の離間を図った。

実久が伊集院城と谷山城を攻略して鹿児島へ向かうと、忠良は加治木・帖佐の地に勝久を移そうと船で
鹿児島に向かったが、戸柱まで来た時に不穏を見て取り、田布施へと帰った。実久は貴久に守護職の

返還を求めたが、貴久はこれを拒否して清水城を死守しようとした。しかし鹿児島に内応者がいるとの
風聞により、貴久は夜に城を抜け出して園田実明の宅に隠れ、実久の追手を逃れた。

のち勝久は実久に擁されて清水城に帰り、島津氏は勝久・実久派と忠良・貴久派に分かれて内訌に陥る。
享禄2年(1529)、島津忠朝は両派の和解のため、新納忠勝・禰寝清年・肝付兼演・本田董親・

樺山幸久・島津運久・島津秀久・阿多忠雄らと会して勝久に謁見し、事態の解決を図ったものの、勝久
の態度は要領を得ず、皆怒って帰ってしまった。

勝久は忠朝の跡を船で追って大隅に至ったが、むなしく帰ることになったという。

――『鹿児島市史』


一宇治城攻略と狐火

2018年04月05日 17:56

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/05(木) 04:06:15.40 ID:Gk2DZ6cZ
島津忠良・貴久は島津実久方の要害・一宇治城を攻略せんと、同城を守る町田用久を誘ったが、彼は
まったく応じなかった。そこで千余騎を率いて城を攻めたが、堅城ゆえになかなか落とせない。

この時の用久は実久を訪ねておりそこを狙っての攻撃であったが、このままではいずれ実久と用久が
駆け付けて来て貴久らの大敗北は必至であった。夕方になって事態を危惧した忠良は、

家臣で山伏の本田石見房慶俊を呼んで落城祈願を命じた。慶俊が祈願を行うと城の西北部、本陣から
700mほど北方、城麓の振木口という神之川の川辺あたりに狐火が起こり、それが林間を山上へと

上っていった。そこでその跡について行って攻め込んだところ、容易く攻落することができたのだ
という。険峻を頼みにして守備兵を配置していなかった現在ザビエル記念碑のある神明城付近に

突入したのではないだろうか。忠良は石見房の功を賞して城の東方護摩所から東に向けて矢を射らせ、
その矢の落ちたところに稲荷神社を勧請して石見房に守らせた。

上之平の稲荷神社がそれで、石見房は犬之馬場の旧伊集院庁舎一帯に屋敷を賜り、子孫が現在に至る
まで神社を管理している。この稲荷神社は藩政時代に伊集院五社の一つだった。

また本田家は伊集院の四名家の一つに数えられ、石見房の曽孫・吉藤は島津義弘の小姓として関ケ原
の戦いに参加して義弘から感状を賜り、幕末には本田兄弟が西郷隆盛によって墓碑を建てられるなど、
人材を輩出していった。

――『松元町郷土誌』



755 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/06(金) 23:18:52.42 ID:7SzY1fCD
     )、._人_人__,.イ.、._人_人_人
   <´  狐じゃ、狐の仕業じゃ!  >
    ⌒ v'⌒ヽr -、_  ,r v'⌒ヽr ' ⌒
// // ///:: <   _,ノ`' 、ヽ、_ ノ  ;;;ヽ  //
///// /::::   (y○')`ヽ) ( ´(y○')    ;;|  /
// //,|:::     ( ( /    ヽ) )+     ;| /
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756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/07(土) 04:18:44.50 ID:iHRMdr3k
by モンゴメリー

祁答院河内守良重、妻に殺されること

2017年07月08日 21:05

938 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/07(金) 20:37:56.91 ID:PrBVm7dg
城巡りをしている鹿児島の親戚が「鹿児島には夫を殺した怖い姫様がいる」と言ってたので調べたらこんな話があった。
薩摩藩の「本藩人物誌 国賊伝」より
祁答院(けどういん)河内守良重、妻に殺されること

祁答院氏は渋谷氏の一族であり、良重は13代当主で妻は島津薩摩守(島津家の分家)義虎の姉。
「人となり驍勇にして能く強弓を引く」
入来院、東郷、蒲生等と徒党をなして数年島津貴久公に叛いていた。
蒲生氏が島津の加治木城を攻め、島津貴久が良重の籠もる岩剣城を攻めたところ、
良重の嫡子重経が蒲生軍とともに2千人を引き連れて、貴久と戦うが戦死。
岩剣城が陥落したため良重は逃亡、帖佐城、祁答院と落ち延び、蒲生や東郷とともに再起を図るが
島津貴久軍に敗北。

永禄九年正月十五日、良重夫人の為に殺せらる。
良重、生来放逸荒淫。夫人、その所業を諌めれども用いず。
ここにおいて、この夜酒を勧め酔い伏したるを夫人、手ずから良重を刺殺す。
この時良重が小姓、村尾亀三、左右に宿直す。
則ち屏風を以て夫人を押さえ、また刺殺す。
ここに至りて祁答院氏滅ぶ。享年四十一。祁答院の所領悉く入来院重嗣の有となる。



943 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/07/09(日) 22:20:50.89 ID:1EgqCX8r
>>938
小姓の村尾亀三は後に義久公に召し上げられ、元服後は村尾源左衛門と名乗る。
(祁答院記)
元服後、村尾源左衛門と名乗り、入道の後は笑清と名乗る。義弘公の下高名
を得る。(宮之城記)
祁答院良重についてこんなサイトを見かけました。
秋津島舞(アケスメロ)(鹿児島県さつま町)
http://www.senjudou.com/blog/ppBlog/index.php?UID=1377062519

944 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/09(日) 22:32:02.21 ID:XNinJIxW
貴久、義久に通じていた村尾が二人を殺して
「夫人が良重様を殺したから自分が夫人を討ちました」
と偽装工作した、てことだったりして

皆さん歯を大事にしましょう。

2017年06月24日 18:43

54 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/06/24(土) 18:19:04.41 ID:s9WvoSYg
鹿児島県鹿児島市にある松原神社。松原神社は、天文館という鹿児島で一番の繁華街にあります。
ここは島津家の15代当主
島津貴久(靖國崇勲彦命(クニムケイサタカヒコノミコト))を、主祭神として祀っています。

かつて、このあたり一帯に、名刹・曹洞宗福昌寺の末寺である松原山南林寺がありました。
南林寺は、弘治二年(1556)島津家15代貴久によって建立され、大いに賑わっていたといいます。
貴久の死後天正十年に義久が南林寺を貴久の菩提寺に定めました。
明治二年(1869)の廃仏毀釈によりとりつぶされ、翌年、跡地に松原神社が建立されました。

松原神社には他にも戦国武将が祀られております。その人物について、神社内にある、
鹿児島県歯科医師会によって建てられた説明板には、次のように由来が書かれています。
「祭神は島津貴久公の臣 平田純貞 元亀二年(1571)三州平定途上、急死の主君の無念を思い出家諸国を遍歴、
元亀四年亡君命日六月二十三日殉死の作法に従い、うつろ舟に乗り蓋を釘付けに海に流させた。読経歯ぎしりの音、
三昼夜壮烈な殉死をげた。遺体の歯は抜けていた。当時歯痛に悩む人は自分で歯を抜いていたが、
自然に歯が抜けた純貞は、歯の神様と崇められるようになった。」

また、別の説として、鹿児島県歯科医師会会史(80周年史)では次のように記載されています。
「島津家15代の明主大中公(諱は貴久)の家臣・平田純貞、君主の命を奉じて虚無僧姿となり、
九州一円国情偵察の行脚をやった。その当時は織田、豊臣の時代で島津藩の如きも未だ後年の如く
統一されたものではなかったが、帰途福山において大中公薨去の報に接した。
 純貞落胆措く能わず人生最大の苦痛を味わいて殉死せんとした。即ち人生において歯痛に勝る苦痛は
あるまいとの観念から自ら全歯を抜き放ち、且つ空舟に乗ってこれを海中に投ぜしめた。」

なお、うつろ舟については、次の資料を見つけました。
「空舟とは本来、木を剔り抜きて船の如くし、殉死者はこれに乗りて蓋を釘付けにし且つ海中に投ぜしめる方法であって、
その当時の殉死の一形式として用いたといわれている。これが他の殉死と異なるところは、
万一運が良ければ陸地に漂着して救助されることもあったという。」

純貞の舟は2、3の漁家のみだったという海岸(今の南林寺町)に漂着した。即ち検死の結果、平田純貞ということがわかり、
これを海岸より程遠からぬ元の南林寺墓地(ちょうど現時の南洲寺より55メートル位西北にあたる)に埋葬された。
その時死体を東向に埋葬したところ、不思議に天地晦冥となり、風雨俄に起こったという。蓋し大中公を祀った松原神社が
その西にあり、大夫の霊が東向を欲しないためだろうというの で早速これを西向に改めたところ、
忽ち天地が元のように晴朗になったという。
何時の頃からか世人はこれを「歯の神様」と称え、歯痛に霊験あらたなものとして来拝者が後を絶たなかったという。

鹿児島県歯科医師会では、1960年頃から毎年6月4日に松原神社で”抜去歯”の供養祭とともに
「歯の神様」の祭礼を行っています。
(2017年は60人ほどの参加あり)

数年前の新聞の記事では抜去歯の数は二万本ほどだったそうで、皆さん歯を大事にしましょう。

松原神社
https://www.matsubarajinja.com/




55 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/24(土) 18:32:37.43 ID:B5sHcQLP
島津斉彬の照国大明神、ててっきり天照大神に対抗して東照大権現になった徳川を倒した薩摩が
「東」より広い「国」にでもしたのかと思ってたけど
島津貴久が「靖國」だったからてだけ?

56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/24(土) 18:44:27.62 ID:D++bK00K
うつろ舟と言ったらこれ?
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/2a/Utsuro-bune.jpg
Utsuro-bune.jpg

57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/24(土) 20:46:04.57 ID:TUR15A8h
補陀落渡りでもするのかと思った

58 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/24(土) 21:14:45.36 ID:B5sHcQLP
補陀洛といえば
ポータラカ→補陀落→ふたら→二荒→にこう→日光
となったというのを近頃知った

権現様も補陀落に眠ってるということか

苦辛城(くららじょう)

2017年04月26日 08:39

753 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/04/25(火) 23:26:56.85 ID:NnyzUZ9A
鹿児島県鹿児島市皇徳寺台には苦辛城(くららじょう)と呼ばれる自然の川や崖を利用した連郭式(れんかくしき)山城があり、
郭には土塁が見られ,緩やかな斜面には郭を守るための帯曲輪(おびくるわ)の取り巻きがあります。
昭和56(1981)年団地造成の為全面発掘がおこなわれたところ、15箇所の曲輪と20箇所の空堀、27棟の建物跡、水溜跡、
竈跡のある大規模な城跡と判明しました。
苦辛城の名前の由来はくらら(苦参)というマメ科の薬草からで、城の周りに自生していました。
健胃、利尿、解熱、回虫駆除に効果があり、飲むと目くらがむほど辛いという。

大永七(1527)年からはじまる島津本家の家督継承をめぐった争いは、天文八(1539)年に島津忠良・貴久父子は
加世田・川辺・市来を攻略、また紫原の戦いにも勝利し、その後三月十四日苦辛城を攻略し翌日は神前城を落とし、
薩州家の島津実久を撤退させた。
以後、実久の勢力は衰え、天文十四(1545)年に貴久は一族・庶家から「三国守護」の承認を得て南九州を支配することになる。

このため、苦辛城周辺にある皇徳寺ニュータウンでは「沢山の人が合戦で苦しみながら亡くなった」と伝わり、
苦辛城の施設跡にある皇徳寺小学校では「城には処刑場があり幽霊が出る」という学校伝説がありますが、
苦辛城城主平田宗秀は、紫原の戦いで貴久が勝ったことを知り、伊集院忠相の仲介で貴久を城に迎え入れているので
苦辛城では戦いは行われてはいません。

この城を苦辛城と表記するようになったのは江戸後期の島津家の記録からで、それより前には「鞍良城」と記されていました。
かつて敵の城であったが、島津忠良・貴久父子が勝って手中に収めたことを強調する為に意図的に“鞍良”から“苦辛”へ
書き換えたのではないかといわれています。

書き換えられた上に、
・くらら城跡地の案内板には「苦辛城」の記載しかない。(案内板は団地の開発業者が設置)
・くらら城周辺は新興住宅地の為、古くからの住人が殆どいない。
そのため、「苦辛城」の字面だけで「沢山の人が合戦で苦しみながら亡くなった」だとか
「城には処刑場があり幽霊が出る」という話が勝手に出来てしまうという、住人や発掘に関わった人たちにとって悪い話。
(くらら城跡地で発掘に関わった大学の先生から聞いた話)

島津本家の家督争いについての記述
島津忠良(日新斎)島津貴久について
https://www.pref.kagoshima.jp/ak01/chiiki/kagoshima/kyoiku/4tadayosi2.html

※くらら(苦参)は全草有毒であり、根の部分が特に毒性が強く量を間違えると大脳の麻痺を引き起こし、場合によっては
呼吸困難で死に至ります。素人が安易に手を出すのは非常に危険である薬草です。
佐賀県では絶滅危惧種、鹿児島県では準絶滅危惧種となっています。

※皇徳寺台の由来は皇徳寺という曹洞宗の総本山の永平寺直轄の末寺からで征西将軍宮懐良親王と島津義弘の息子
久保の菩提寺です。




754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/26(水) 02:18:00.34 ID:lWKlcsT4
くららが建ったー

755 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/26(水) 02:27:08.64 ID:3FRxF8FJ
島津兄弟の不可解な死はこれの中毒であったか

756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/26(水) 06:10:30.99 ID:PjRiQsEH
灰寺城

757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/26(水) 13:31:20.43 ID:D3F2saet
http://i.imgur.com/lkzhYhv.jpg
lkzhYhv.jpg

アフォンソ・バズという人物一人を殺してしまった。

2017年03月22日 10:38

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/21(火) 21:56:50.71 ID:3jA4Kuzq
1562年(永禄4年)、鹿児島の王(島津貴久)よりインド総督に贈りし書簡

『コンパニヤのイルマン2人が、昨年私の鹿児島の領国に来たり、私の領内を巡って説教をしたが、
私は一つの戦役のため救援の準備に従事していた故に、私の希望のように彼らが当然受けるべき境遇を
与えることができなかった。

また、私の領国の一港であるマンゴー(Mangoo)にポルトガル人の船一艘が来ていたが、上記の戦役に
巡り合わせた故に、彼らに相当なる礼遇を与えることが出来なかっただけでなく、国内に外国より
略奪のために来た剽盗があったために、ポルトガル人が来ているのを知らず、彼らを剽盗と誤認し戦ってしまい、
アフォンソ・バズ(Affonso Vaz)という人物一人を殺してしまった。
私はこれを遺憾とする。

私は毎年書簡を送るべきである故に、閣下がもし書簡を送ってくれば私はこれを大いなる名誉と思うだろう。
ポルトガル人、又はパードレ等を当地に派遣しようとする時、閣下の書簡、又は口上を持参すれば、私は彼らに
相当する、一切の歓待礼遇を与えるであろう。

(永禄)四年薩摩より』

(異国叢書)

島津貴久による「合戦騒ぎでついうっかりポルトガル人殺しちゃったわテヘペロ」という書簡である



688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/21(火) 21:58:52.95 ID:Kls3i0zw
お詫びに軍旗に大きく十字を書けば許してくれただろうな

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/22(水) 11:18:06.25 ID:XIT09IlA
戦国も後半になると海外と外交したり秀吉のゴマすったり中間管理職めいて大変だな
毛利元就くらいがいいな。領国内で成り上がって国人衆を統一して自国領を広げてハッピーエンドみたいな

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/22(水) 11:29:14.25 ID:nTvcLbOj
守護大名がか?

691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/22(水) 12:46:46.90 ID:mQ1Lf/Wi
元就は元就で苦労の連続じゃん

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/22(水) 22:39:46.44 ID:fDcqyXCX
元就は書状で愚痴りまくりの戦国苦労人。しっかり苦労人の血を受け継いじゃった長男。そしてなぜか孫がアレ

693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/22(水) 22:52:19.62 ID:tvp724bG
あれ呼ばわりされてるが大友家一条家朝倉家のアレ等よりよっぽどマシだろう

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/22(水) 23:52:54.86 ID:qPwsY8gI
結構アレな息子は多いな、今川とか。黒田もそうか。

十三塚原

2017年02月03日 10:56

571 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/02/02(木) 23:29:57.77 ID:tUuJ8z9c
十三塚原(じゅうさんづかばる)は、鹿児島県霧島市と姶良市に跨る東西6.5キロメートル、南北11キロメートル、
標高210-300メートルのシラス台地です。近くには鹿児島空港があります。
名の由来は13基の塚が数十メートルの間隔をおいて並んでいたことから十三塚原と名付けられました。

十三塚原の由来については次のような伝説がある。かつて国分八幡神社(鹿児島神宮)と宇佐八幡神社(宇佐神宮)の間で
どちらが正統の八幡宮であるか論争があり、大永七年(1527年)十一月、宇佐八幡の神官14名(15名の説もあり)が
鹿児島を訪れ国分八幡の古文書を調査し、正統性は疑わしいとして社に火をかけた。ところが社が猛火に包まれた
その煙が「正八幡宮」の文字を示したことから神官たちは驚きあわてて逃げ帰ろうとした。宇佐逃げる途中、
次々と13名が死亡、残された1名(2名の説もあり)も宇佐八幡に戻って事の顛末を報告し終わると同時に死亡した。
しばらくして死者のために13基の塚が建てられたという。(日当山村史)

この伝説が大永七年(1527年)と書いてあるのは「日当山村史」だけで、その他の史料及び十三塚原にある
十三塚原史跡公園の案内板には長承元年(1132年)となっております。
(「日当山村史」にも「長承元年(1132年)との説もあり」とは書いてある)
実際その頃に国分八幡神社(鹿児島神宮)は火災の為焼失しており、そのため年代がかわったのかもしれないです。
(社は永いことそのままでしたが、島津貴久が再建しております。その時の話がこれです。
島津貴久が国分の八幡宮を訪れたとき、とある夢を見た
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2677.html
貴久は再建の為に訪れており、日秀上人は再建に携わっておりました)

※鹿児島神宮の案内板には「八幡宮の総本社は鹿児島神宮」と書かれていますが、鹿児島神宮がある霧島市
では「八幡宮の総本社は宇佐神宮」と見解を出しております。



572 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/03(金) 16:32:02.51 ID:Gjqm2/hC
>>571
火災に尾ひれがついたのかな
ずいぶん恐い尾ひれだけどw

578 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/02/04(土) 20:48:26.85 ID:nqYD0FKg
>>572
文献が思い出せず書けなかったのですが、
記憶が確かならば、大永年間の国分八幡神社の火災の原因は
島津と敵対する武将による“放火”だったはず。
怖い尾鰭がつくのはある意味当然かもしれない。

島津貴久は子供の頃

2014年01月25日 18:39

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/25(土) 09:06:46.53 ID:ApPv4Ikg
島津貴久は子供の頃、勉強をほったらかして鷹狩りに出かけることがしばしばであった。

父や近習の眼を盗んで遠くまで出かけた時のことである。
突然の大雨に見舞われた彼は慌てて帰路に着いたが、
川に差し掛かったところで行きに使った橋が流されていた。

立ち往生していたところ、向こう岸に近習の園田某の姿が見えた。抜け出した貴久を慌てて追いかけてきたらしい。
貴久と自分の間に流れる川を見ると事情を察した彼はざんぶと川に身を乗り入れた。
肩まで水につかり水面に見えるのは顔だけという状態である。

「さ、早くお渡りください」自分の頭を足場に川を渡れというのである。
貴久は「いかに君臣と言えどもそのような真似は出来ぬ」とこれを拒むが
園田も「いやいや、一刻も早くお戻りにならねば」と引かない。
そうこうしている間にも水かさはどんどん増していく。

度重なる懇願に貴久はとうとう折れて、
「されば許せよ」と彼の頭上を渡って向こう岸へ渡り、二人してずぶ濡れになって帰った。

貴久はこのことを大いに反省し、以後は学問にも身を入れるようになったと言う。
尤も、父の忠良にも日新柱のエピソードがあることから血は争えない、と言ったところでしょうか。




196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/25(土) 21:28:01.75 ID:lsDq6YDf
意外と川幅は狭かったのか

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/25(土) 22:25:35.19 ID:ApPv4Ikg
おそらく三段跳びの要領で

199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/25(土) 22:56:02.23 ID:a37AOTxo
そこで貴久が園田さんの頭で足を滑らせて溺死なんてことになってたら、
九州の歴史も随分変わったんだろうなぁ・・・