780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/22(火) 16:40:01.56 ID:7X5EPM0s
慶長五年九月十五日未明、関東勢(東軍)の御先手諸将は関ヶ原に出張して、戦を取り詰めていた最中、
筑前中納言(小早川)秀秋が裏切りを致し、大谷刑部(吉継)備えを切り崩した。故に石田を始め、
(西軍)諸将の備えは尽く敗北致した。
その時惟新の旗本は、先手との間が隔たっていた。そこに中務(島津豊久)が旗本に馳せ来て
「戦も是迄と見え候。それがしこれにて防戦すべし。その間に一方を駆け敗退してください。」
と申し上げた。しかし惟新はこれに
「今度の合戦に於いて討ち死にし、再び国元には帰らないと決意して出陣した以上、一足も
退くことは出来ない!」
と、大いに怒った。中務は重ねて
「家の存亡、この時に有り。よくよく思慮あるべし!」
そう声高に言い捨て
「よし、戦も激しくなってきたようだ。」と、相従う士卒十三騎にて、大勢の中に駆け入討ち死にした。
惟新も続けて駆け入ろうとしたところ、家老の長寿院盛淳が馬を駆け寄せ
「大将が死を軽くせざる事はかねてお知りに成っているはずです!それがしが名代として討死
仕るべし。中務の申した如く、家の為ですから、必ず退いてください!」
そう断って諌め、馬廻りの者共に堅く申し含めた上で、長寿院は大勢の中に駆け入り
「島津兵庫入道惟新!」
と名乗って討ち死にした。この時に、士卒も多く戦死した。
その時、関東勢は左右に分かれ、伊吹山の方に西国勢が敗走しているのを追いかけ、馳せ向かっていた。
そのため、その跡の道が少しばかり開いていた。惟新入道は残った人数をまん丸に備え、福島左衛門大夫正則の
備えの前に押しかけたが、左衛門大夫はあえてこれに取り合わなかった故に、左衛門大夫備えの前を、
いかにも静々と押し通った。
その跡より、「井伊兵部少輔」と名乗る百騎ばかりが追いかけてきた。これに対し、惟新自身が太刀打ち
までして追い返し、その合間に下知して静かに退かせたが、すぐに兵部少輔人数は追いつき、殿をしていた
後醍院喜兵衛宗重、木脇休作秋秀と戦闘になった。両人が危うく見えた時、川上四郎兵衛忠兄が取って返し、
下知をして鉄砲を撃たせた、四郎兵衛の若党である柏木源藤と申す者が、鉄砲を以て大将と見えた人物を
撃ち落とし、「川上四郎兵衛!」と名乗った。その時、従っていた人数は撃ち落とされた人物に馳せ集まり、
引き退いた。後にこの人物が兵部少輔直政であったと承っている。
その後惟新は、高き所に備えを立てた所、方々より人数馳せ集まり、ようやく三百ばかりとなり、
これによって帰路についての評議をし、権現様(徳川家康)の御本陣に川上四郎兵衛を差し遣わした
『この度黙視難き次第のために、思いもかけず出陣致した事について、我々が日頃の御懇意を
忘却したのだと考えられては、我らの本意に背きます。只今御陣頭をうち通りますが、
憚りながら使者を以てそのことを申し上げます。委細は国元より申し上げるでしょう。』
そう言上し、それより駒之峠に向かった。
(島津家譜)
関ヶ原の戦いにおける、島津の「鳥頭坂の退却戦」について
慶長五年九月十五日未明、関東勢(東軍)の御先手諸将は関ヶ原に出張して、戦を取り詰めていた最中、
筑前中納言(小早川)秀秋が裏切りを致し、大谷刑部(吉継)備えを切り崩した。故に石田を始め、
(西軍)諸将の備えは尽く敗北致した。
その時惟新の旗本は、先手との間が隔たっていた。そこに中務(島津豊久)が旗本に馳せ来て
「戦も是迄と見え候。それがしこれにて防戦すべし。その間に一方を駆け敗退してください。」
と申し上げた。しかし惟新はこれに
「今度の合戦に於いて討ち死にし、再び国元には帰らないと決意して出陣した以上、一足も
退くことは出来ない!」
と、大いに怒った。中務は重ねて
「家の存亡、この時に有り。よくよく思慮あるべし!」
そう声高に言い捨て
「よし、戦も激しくなってきたようだ。」と、相従う士卒十三騎にて、大勢の中に駆け入討ち死にした。
惟新も続けて駆け入ろうとしたところ、家老の長寿院盛淳が馬を駆け寄せ
「大将が死を軽くせざる事はかねてお知りに成っているはずです!それがしが名代として討死
仕るべし。中務の申した如く、家の為ですから、必ず退いてください!」
そう断って諌め、馬廻りの者共に堅く申し含めた上で、長寿院は大勢の中に駆け入り
「島津兵庫入道惟新!」
と名乗って討ち死にした。この時に、士卒も多く戦死した。
その時、関東勢は左右に分かれ、伊吹山の方に西国勢が敗走しているのを追いかけ、馳せ向かっていた。
そのため、その跡の道が少しばかり開いていた。惟新入道は残った人数をまん丸に備え、福島左衛門大夫正則の
備えの前に押しかけたが、左衛門大夫はあえてこれに取り合わなかった故に、左衛門大夫備えの前を、
いかにも静々と押し通った。
その跡より、「井伊兵部少輔」と名乗る百騎ばかりが追いかけてきた。これに対し、惟新自身が太刀打ち
までして追い返し、その合間に下知して静かに退かせたが、すぐに兵部少輔人数は追いつき、殿をしていた
後醍院喜兵衛宗重、木脇休作秋秀と戦闘になった。両人が危うく見えた時、川上四郎兵衛忠兄が取って返し、
下知をして鉄砲を撃たせた、四郎兵衛の若党である柏木源藤と申す者が、鉄砲を以て大将と見えた人物を
撃ち落とし、「川上四郎兵衛!」と名乗った。その時、従っていた人数は撃ち落とされた人物に馳せ集まり、
引き退いた。後にこの人物が兵部少輔直政であったと承っている。
その後惟新は、高き所に備えを立てた所、方々より人数馳せ集まり、ようやく三百ばかりとなり、
これによって帰路についての評議をし、権現様(徳川家康)の御本陣に川上四郎兵衛を差し遣わした
『この度黙視難き次第のために、思いもかけず出陣致した事について、我々が日頃の御懇意を
忘却したのだと考えられては、我らの本意に背きます。只今御陣頭をうち通りますが、
憚りながら使者を以てそのことを申し上げます。委細は国元より申し上げるでしょう。』
そう言上し、それより駒之峠に向かった。
(島津家譜)
関ヶ原の戦いにおける、島津の「鳥頭坂の退却戦」について
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