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その日に目出度く御祝言を上げた

2022年12月30日 17:13

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/30(金) 13:00:00.90 ID:fPD5q2c/
>>516の続き

それから、岐阜、そのほか国々、城々へ、先の夫婦で社参したいという断りを、下向の時に申した所、
「安き御事に候。来年は夫婦連れにてお下り候へ。分国においては随分御馳走いたしましょう。」と、
方々と約束し、磯伯耆守(磯野員昌)は国へと帰った。そして翌年の六月頃、先に計画していた
調義仕り、乗物七丁の中に、小侍従と申す物書きの上手なる上臈衆を召し連れ、これを内儀のように
もてなし国を出た。

考えていたように、道先の城下においては、城主の裏方(奥方)より音信文など参った。かの小侍従は
物書き故に自らその返事を仕った。
そのように道々を罷り通り、東の四ヶ国の社参を仕り、その後清須まで戻り、信長公の御妹を申し請け、
七丁の乗物の、上臈衆、および三十四、五人の下女、はした共を入れ替え、信長公は御自分の上臈衆、
はした者以下に至るまで、御手廻り衆を御妹子に付け、これに伯耆守がお供して近江へと上がった。

その際、それまで連れていた下女達は清須に置いていったが、先に申した小侍従と申す物書きの女は、
乗物の中に入れた。それは帰国途中の城々より文などが届いた時、先の筆跡と違わないようにとの
配慮からであった。

浅井殿の領分に近づくと伯耆守は、『このように調義仕り、信長公の妹の御供をして罷り上がっております。
ですので御家中の年寄その他残らず、境目まで御迎えに出られますように。』と申し上げた。
このため浅井家中の者たちは残らず御迎えに出、その儀式、残る所無く御輿を迎え取り、御城へ直に
入れ奉り、その日に目出度く御祝言を上げた。
この時、信長公より川崎と申す侍が、商人の姿に変装し、小さ刀すら帯びず、この御祝言を見届けると
清須へと戻った。信長公はこの報告を受けると、「喜悦これに過ぎず」とお祝いされたという。

川角太閤記

お市の方の、浅井家への輿入れについて



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目出度く来年の御祝言、相調いました

2022年12月26日 19:29

516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/26(月) 17:37:30.57 ID:hS9JgHQL
>>665の続き

浅井家の重臣である磯伯耆守(磯野員昌)は内々の分別に、
「天下を、この織田三郎信長が一度は取るという異見がある。また彼には妹が有るという。
備前守(浅井長政)には内儀が無く、方々より縁組について申して来ているが、どうにか分別して頂き、
信長殿の御兄弟に致したいと思っているのだが、信長への通路が敵に塞がれており、分別が成り立たない。
ところで私の煩いが東国へも聞こえたのは確かである。そこで国々へ使者を立て、手引してみよう。」

そう考え、道々の城々へ道を乞うてこのように申した
「私は当春、不慮に煩い存命も定かではない状況でしたが、両親がこれを悲しみ、神々へ命乞いをしてくれた為か、
不慮に助かることが出来ました。この時親は、東は伊豆箱根三島の明神、富士の御山へ立願をかけました。
そして神慮がこのように成ったため、そこまでの道の口を通行することを御赦免して頂きたいのです。
私は今年の六月を心懸、これらへの社参を遂げたいのです。」

そのように使者を立てて申し出た所、小田原までの間の城主は尽くこれに同意し
「御煩いの様子は承っております。さては神々への命乞いでしょうか。神慮に対し仕り通過を許可しましょう。」と、
小田原から江州までの道の口を請う事ができた。
さればとて、その夏に伯耆守は美々しい様子にて社参と称して東国へと下った。道々の城からは残る所無く馳走された。

清須まで到着した時、そこにおいて「霍乱(日射病、熱病)になってしまいました。信長公に御医者を頼みたく
存じます」と申し上げた。すると「御道中であり、安き事である。ここに暫く逗留して養生されるように。」と
御馳走を残る所無く仰せ付けられ。五、三日の間、養生として逗留した。

その夜、伯耆守は佐久間右衛門(信盛)殿をにわかに呼び寄せた。
「談合したい仔細があります。承った所に寄ると、信長公には御妹が居られるそうです。
我が浅井備前も未だ内儀がありません。そこで、御妹を申し請けたいのです。」

このように右衛門殿へ申し渡し、これは信長公の御耳に入ったが、信長公からは
「浅井との間には敵が多い。妹を送る道をどのように仕るべきか。その分別さえ確かに有るのなら
妹を遣わそう。そういう事なので直談したい。」との御返事であった。

ならばとて、伯耆守はすぐに御対面し申し上げた
「この事についての仔細ですが、今回、私はこのあと、東へと通過します。北条殿、義元、その他へこのように申します。

『道の口を通過する御赦免を頂いたおかげで、遂に社参が出来ました。この上、また御詫び言を申し上げたいの
ですが、今度は女たちを召し連れ、夫婦共に社参仕るべしとの立願を成したく、来年は夫婦ともにこちらへ
下りたいのです。』

そのように東の大名衆に御詫び言を申し上げます。夫婦連ねてという事であれば、なお以て別状は無いと、
道の口通過を免除していただけるでしょう。その同意をとりつけた上での帰りに、また御談合いたしましょう。」

翌日、伯耆守は東へと向かい、四ヶ所の宮々への社参を遂げ、北条殿、義元などへ先の御礼を申し上げ、
「来年は夫婦連ねて通行することをお許しください。」と断り申した所、案の定「安き事である。
神慮に対し仕る上は、御心安く来年、夫婦揃って御社参されるように。」との約束を堅く仕った。


そして清須に戻ると、再び霍乱気となったと申し出た。その上で
「東国ではこのように、来年妻たちを召し連れ下ることについてしっかりと申し極めました。
しかし私の妻を召し連れはしません。乗り物七丁、下女はした者に至るまで、三十四、五騎を召し連れ、
これを夫婦揃ってと称して下ります。そしてこの女共を入れ替えて、御妹を申し請けに罷り上がります。
これであれば、少しも問題はありません。」

信長はこれを聞き届け、「ならば妹を御目にかけよう。」と、伯耆守一人を召し連れて奥へ入り、伯耆守は御妹の姿を見奉った。

「目出度く来年の御祝言、相調いました」
そう直談仕り、帰国したという。

川角太閤記

続き
その日に目出度く御祝言を上げた


であれば、私の煩いは東にも響き渡っただろう

2022年12月21日 19:18

665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/21(水) 19:01:33.82 ID:o5VOkXtJ
これは要らぬ義ではあるが、書き付けておく。
『信長記(信長公記)』に書かれていないと言うことなのだが、その仔細は、信長記をあらかた作った、
信長殿の家臣であった太田又助(後和泉守・牛一)が、この当時は未だ若かった故に、日帳を付けていなかった
ためだと承っている。

永禄元年午年、但し信長公二十五歳の御時、尾張一国をようやく御方に付けられたが、岐阜や伊勢などで
御競り合いがあり、尾張の内においても時々競り合いがあった。そのような時期の事である。

この時期、朝倉殿は越前より天下を望み、浅井殿は江州小谷より天下を望んだ。
同国観音寺山には佐々木(六角)承禎が、伊勢、岐阜、清須は信長殿、三州、遠州、駿河の辺り、
殊に駿河は(今川)義元、小田原には北条殿、このように方々に大きな勢力が在った。

そのような時節、信長殿は御妹を以て、江州北の郡の浅井備前守(長政)を妹聟に成されたが、
この事は浅井殿の臣下である磯伯耆守(磯野員昌の事と考えられる。なお実際には丹波守)の
分別故であると言われている。

浅井殿の家中では、この伯耆守は一大名であった故、世間にも聞こえる程の者であった。
例えば正月頃、彼が大病を煩い、もはや伯耆守はあい果てたと、東は北条家まで響き渡った。
しかしその頃、彼の大熱気、傷寒は突然持ち直した。
回復した彼は夢の覚えのような心地をしていて、何事も覚えていなかった。
「煩っていたのか?」と彼が申したことで、周りもそれに気がついた。

親、内儀達は「その事についてですが、殊の他の大熱気でありましたが、このようでは(病気のことを)
覚えておられるだろうか、と申すほどの大変な煩いでありました。」と申した所、伯耆守は心静かに分別し

「であれば、私の煩いは東にも響き渡っただろう。」と。信頼できる者たちに、物参りをする体に変装させ、
東の街道筋で情報を収集させた。彼らに「「磯伯耆守が果てたか」という話がどこまで伝わったか、
東は小田原まで聞き届けて罷り帰るように。」と申し付けて遣わした所、
「浅井殿内伯耆守は大病にて果てた。」と申す所もあり、「いやいや、思いもかけず生き延びたという。
その立願に於いては日本の神々に、『親二人が悲しむ故、立願を以て命を乞うたのだ。』」とも
取り沙汰している所もあった。

使いが帰ると、これらを伯耆守はよく聞き届けたという。

川角太閤記

続き
目出度く来年の御祝言、相調いました


拙者の人数はいよいよ繰り越しで

2022年12月18日 16:21

662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/18(日) 10:10:32.74 ID:ZivHAIKe
関ヶ原の後(色々あって)、九州では立花左近(宗茂)殿の御城は肥後守殿(加藤清正)が接収した。

これに出兵していた黒田如水も、この扱いによって事済んだのだが、その夜に入ると同時に、立花に対した陣を
引き払うと薩摩へと取り掛かり、肥後の先、佐賀関という場所に陣を替えた所で、島津殿は居城へと入った。

この事について、如水の分別によって、金吾殿(小早川秀秋)の御国である筑前の仕置を申し付け、
三千石の金吾殿の御蔵米を借り受けたのだが、それは薩摩陣への用意であると言われた。

三千石の兵糧は早くも佐賀関に到着した。案の定、(徳川家康より)薩摩陣と仰せ出された所で、
肥後守は如水へこのように断りを入れた

「薩摩への入り口は肥後国です。如水の御国は後方ですから。先手は私が仕るべきでしょう。」

これに対して如水の返事は
「我々は(薩摩との国境に)既に到着しております。そちらがこちらに着けば、拙者の人数は
いよいよ繰り越しで先に出陣すべきでしょう。」

この返事について肥後守殿の分別は
「御所様(家康)が現状の御分別を変更し、突然扱い(和平)となる可能性もあるのに、如水は
指し争い早くも薩摩に入ろうとしている。これは指示を受ける下の立場の者が事を破るにも似ている。」

そのように考え様子を見ていた所、案の定、島津陣は来年の春と仰せ出になったために、如水も国へ引き取った。

川角太閤記



親の加賀守の分別を以て

2022年12月16日 19:23

515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/15(木) 22:49:24.71 ID:wmHpMfPX
これは要らぬ義にて御座候へども、そのあらましを書き付けておく。

関ヶ原の時、国大名衆の中でも、分別を以てその家を恙無く存続させた人物としては、
鍋島加賀守(直茂)と申し、今の鍋島殿(勝茂)の親父が有る。その当時までは達者で居られた。

加賀守は御所様(徳川家康)が東へ御馬を出された事を聞くと、
「おそらくその跡で御謀反を企てる衆が出てくるだろう。御所様への御馳走として、
国大名衆はあらかたその御供に参ると聞いている。
我が家は東への御供を仕らないが、国を失わないための分別が有る。

銀子五百貫目を東へと持って下り、尾張国から御所様御分国は申すに及ばず、上杉景勝との境目までの
国々の町方にて、五貫匁程づつ、見合い見合いに兵糧を買うために、その町々の年寄共に預けおくべし。

上方に事が起きたとの情報を聞いた時、御所様へ申し上げる内容としては
『鍋島は御所様への御馳走をする覚悟であった所に、上方が蜂起したため、もはや鍋島がそちらへ
出ることは非常に困難になりました。ですのでこの兵糧は我々には必用がなくなりました。』
そう云って、町々において兵糧を差し上げ奉るように。」

そのように申し付け、奉行三人を東へ差し下した。

御所様がはや宇都宮に到着したのと等しく、治部少輔(石田三成)の謀反の情報が入った。
かの鍋島の者共は御所様に先の御断を申し上げ、早くも宇都宮において兵糧を差し上げた。
そして奥州境目までの兵粮米を買い置いていた事を目録にして、尾張からの兵糧米を進上したという。
この時御所様の御分別にも「さては鍋島、心中は別状無い」と思し召したと聞こえている。

鍋島の奥意は、実際には状況を伺っていたのだと言われているが、親の加賀守の分別を以て
(改易で)国から離れる事が無かったのだと、世間ではその頃専ら申していたという。

川角太閤記



この徳山五兵衛の分別のために

2022年12月12日 19:09

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/11(日) 22:31:18.66 ID:cJv5e76e
慶長二年酉の年、太閤様の御代であったが、その四月の頃、(伊達)政宗殿が洛外において花見の遊山をされたそうだ。
建仁寺の藤を一日中、一両日を過ごし、藤の森の入江の花見を、いかにも密かに、遊び者などを召し連れて遊山の所に、洛中のスリ共がこれを聞き出し、政宗一項をひしひしと取り巻いて

「我々は飢えており、金銀を頂きたいのです。」と申し掛けた所、

「安き程の義である。しかしここには金銀を持ってきていない。」そのように断ったが、

「ならば御腰の物、御供の衆迄のものを下さりますように。」
と申し上げた。これに対して「刀、脇差は如何であろうか。」と屋敷へ人を使わして金を取り寄せ、彼らに取らせてようやくそこから退くことが出来た。

悪事千里と言うが、五日のうちにこの話は京伏見に広まり、世間では「政宗殿が両腰の物まで奪い取られた、との風聞が専ら取り沙汰された。

このような所に、その頃加賀大納言(前田利家)殿と政宗とは、関係があまり良くなかったのだが、大納言殿はこの事を聞きつけられ、使番の北村という若者にこう言い含められた

「政宗殿の所へ参り、『最近承った事には、藤の森にてスリにお逢いに成ったとのこと。笑止(気の毒)に思います。』と伝えるように。」

この時、大納言殿の側廻りに居た徳山五兵衛(則秀)はこれを聞くとこのように考えた

『以ての外の大事なる事を仰せ使わされるつもりだろうか?その使いに対し、定めて政宗殿からは『懇ろなる使、忝なく存じます。そして(我々がスリに遭ったという)証拠を下さりますように。』
と言って来るだろう。そう言われた場合、我々に確かな証拠は無い。となれば伊達家との関係が大事になる事は必定である』

そのように分別し、『そのような使いは御無用にて候』と申すべきだと胸中には思っていたが、大納言殿の癖として、一旦腹(一度言い出したことは反論を聞かない)なる人であるから、
そんな事を言えば猶以て早々に使いを出しかねないと案じ、あえて反対をせず「使いには私が参りましょう。」と申し上げた。
「ならば五兵衛が参るように」と仰せになられると、この使いの事を五兵衛は留めて、二、三日が過ぎた。
大納言殿より「五兵衛、政宗殿の汚き事についてはどうなったのか」と尋ねられたが、これに対し「これは大事の御使であります。伊達家より証拠を求められた時はいかがすべきでしょうか。」
と申し上げた。しかし「スリに遭った事は必定である。五兵衛が参らぬのなら他の者を遣わす」と仰せになった。そこで「ならば私が参ります。」との事に成った。

徳山五兵衛は政宗殿の元に参り、大納言殿の言った通りに申し渡すと、案の定、政宗殿は自身で出てきて書院において対面し、その返事には

「そのような事を能く聞かれ届けられました。願わくばその証拠を出し、我々に下さりますように。」

との事であった。五兵衛は挨拶仕り、「この事は、先に申し上げたように世間がそう取り沙汰している事です。
大納言に対し、証拠を出すようにとの御返事でありますが、そのようば御返事では、私は罷り帰ることが出来ません。使いが不調法であった、という事に成るからです。である以上、慮外ではありますが、
御椽を汚し申します。(椽側で切腹するということ)

五兵衛の覚悟が強く見えたのを、政宗殿はとっさにその気色を悟り、
「そういう事であるのなら、世間の取り沙汰もあるのだろうか、仰せを聞き置こう。それは世間の悪口でもあるのだろうが、御心安く思って頂きたい。そのような事は身に覚えが無い。
御内証、忝なく存じ奉り候」

と、直に返事をされた。徳山五兵衛は分別し、この返事を聞いても証拠が無いと考え、「今暫く、申し上げたい事があります。」と言ってその座を立ち、政宗殿の屋敷に近い、
糟屋内膳殿、土方勘兵衛へ使いを立て『これへ早々御出下さりますように、急用のこと御座候』と申し遣わした所、この両人が参り「このような使いのため、大納言の所より参りました。」と
説明し、この両人を先に立て、再び政宗殿に逢い、

「最前の御返事はあのようでしたが、その後に御言葉が有れば、後の両家の申し事に成ってしまいます。証拠のために、この両人を御前に在られて、御返事の内容を承ります。」
と申し上げた。

この後に取り沙汰されたことには、この徳山五兵衛の分別のために、政宗殿と大納言殿との間に物言いが起こらなかった。これは偏に臣下の徳山のおかげであると、この話を聞く者たちは
五兵衛に感じ入ったと聞こえている。

(川角太閤記)



509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/12(月) 14:01:29.35 ID:r1ZE6v21
ロリコンさぁ

510 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/12(月) 17:23:24.85 ID:AEhmbMhj
五兵衛さんのいい話であり
利家の悪い話でもある

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/12(月) 18:46:55.40 ID:GZ/44Pjx
>>509
つまらん頭してるな

御行儀悪敷御座候

2022年12月04日 16:30

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/04(日) 12:11:43.76 ID:GZ91WaCM
金吾中納言(小早川秀秋)は、小早川隆景の養子となったが、隆景が相果てた後、
御行儀悪敷御座候との秀吉公の御意があり、筑前国が召し上げられ、越前に三十万石にて
遣わされた。その後さらに、丹波へ国替えをされた。越前には青木紀伊守(一矩)が入った。

またこの時、金吾殿の重臣であった山口玄蕃(宗永)は引き離され、秀吉公の直臣として
加賀大聖寺城へ遣わした。

川角太閤記

秀秋は越前北之庄に減知転封の時点でまだ十六歳と考えると、御行儀悪敷御座候という理由は
ちょっとかわいそうな気も



蒲生飛弾殿の家は、代々癖があると

2022年11月29日 19:40

647 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/29(火) 19:04:25.09 ID:5dlPTUwI
これは要らぬ義ではあるが、蒲生飛弾(氏郷)殿の家は、代々癖があると言い習わされている。
飛弾殿の御父は兵衛允(蒲生賢秀)と申すが、彼は殊の外世間に疎い人物であった。
しかしその親(蒲生定秀)は殊の外利発であった。
この飛騨殿は何事にも武道第一と仕り、世に優れた利発人と聞こえている。

このように、代々(優秀な当主と無能な当主が)替るのだと承っている。

川角太閤記



648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/29(火) 20:14:34.32 ID:sl6A3g/j
鍋島藩もそんなこと言われてたっけ>暗君と名君が一代ごと

649 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/29(火) 20:33:47.21 ID:F6uZeBw5
せめて明暗二人づつ出てから言って欲しいわ

650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/30(水) 09:53:53.99 ID:pwvXSIHh
ツルフサの法則のようなものか

651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/30(水) 20:04:03.92 ID:Vlz34xuk
優れてるように見える当主は後継者を見る目がなく
暗愚とされる当主は後継者を見る目があるってこと?

貴所よりは位が上であるのだから

2022年11月26日 14:33

644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/26(土) 09:56:40.14 ID:g5uzaKWU
天正十八年七月十二日、(小田原征伐の結果北条氏は降伏し)北条氏政は切腹、氏直は高野山へ入ると
していたが、大阪で疱瘡に罹り果てた。氏政の頸は京都へ送られ、堀川通戻橋に掛けられた。
小田原城の請取手は黒田官兵衛であった。

それより奥州へ移動する途中、秀吉公は鎌倉を御見物に成った。
若宮八幡へお立ち寄りに成った時、社人が御戸を開くと、左に源頼朝の木造があったのを御覧になり、
御言葉をかけられた

「頼朝は天下友達である。その待遇は私と同等にすべきだが、この秀吉は関白であるから、貴所よりは
位が上であるのだから、待遇は私より下げる。

頼朝は天下を取る筋の人であったのを、平清盛がうつけを尽くして伊豆へ流し置き、年月が経つ内に、
東国では父親である義朝の温情を蒙った侍共が昔を思い、貴所を取り立てたのだと聞いている。
あなたは氏・系図に於いては多田の満仲の末葉であり、残る所のない(完璧な)系図である。

一方この秀吉は、恥ずかしくは思っていないが、昨今まで草刈りの童であり、或る時は草履取りなどをしていた。
故に系図も持っていないが、秀吉は心にとどまらず、目口優れていた故か、このように成った。
御身は天下取りの筋であり、目口が優れている故とは存じない。つまり、生まれ付き果報が有った故
天下を取れたのだ。」

などと御洒落事を仰せに成ったと承っている。

川角太閤記

有名な秀吉の「天下友達」のお話



玉にもぬける一柳か

2022年11月24日 19:01

485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/23(水) 21:44:48.05 ID:NGU3s3zC
豊臣秀吉による小田原征伐の御陣中へは、御公家方の方々より、細川幽斎へ狂歌などが
沢山に送られた。
山中城攻めで一柳(直末)が戦死したが、この事を一女院様より送られたのが、狂歌の初めであった。

 あはれなり 一柳のめも春に もへいで渡る野べのかふりを

幽斎は返歌に

 いとけなく ぐそくをかけて鉄砲の 玉にもぬける一柳か

こういった御狂歌の返歌、また道記などを大帖(大きな屏風)に仕立てて秀吉公の御目にかけた所、殊の外
御感になったと聞こえた。
その道記、狂歌の大帖(屏風)がもし今も現存するとすれば、御出家方の元に有るだろうとの事だ。

川角太閤記


是式の事は中々不苦候

2022年11月23日 19:11

484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/22(火) 20:54:01.75 ID:NkZpqg5g
天正十四年十二月二十日時分に、豊後国より早打ちの飛脚が到来した。その内容は、
豊後国船井という場所の近辺にある、高田川という場所があり、この川を隔てて
仙石越前守(秀久)、長宗我部父子(元親、信親)が陣を取っていたが、川向かいに
薩摩衆が相陣を張った。島津方の大将は、島津中書(家久)と言った。

十二月十七、八日の頃、仙石越前、長宗我部父子はこの川を超えて合戦を仕掛けた。
朝方、戦は味方の両大将の勝ちとなり、頸数五百余りを討ち取った。しかし昼時分より、
豊後国の地の者、尽く一揆を起こし、薩摩方と一つに成って上方勢を中に取り籠め、
裏切りを仕った故に、長宗我部の惣領(信親)も討ち死にした。
それより両大将は敗軍したと、豊前に在った黒田官兵衛の所に報告されたのである。

これを知った官兵衛の分別には
「豊後では敗北したが、これしきのことは問題ない(是式の事は中々不苦候)。
この事を秘密にすれば、帰って陣中は騒ぐだろう。ただ有りの儘に毛利殿陣中に報告するのだ。
仙石越前、長宗我部程度の者が五人三人相果てようと、上様(秀吉)は自身の弱みと成ったとは
思わない。(仙石越前、長宗我部程成者五人三人相果候と申共、上様御弱みと被思召間敷)
定めて上方勢にすぐに命じて、九州へとお下りになるだろう。」

川角太閤記

川角太閤記に見える戸次川の戦いとその敗戦についての黒田官兵衛の反応。



近国の野郎の種を断つことが

2022年11月22日 19:14

642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/21(月) 22:56:41.53 ID:kbOd9V3r
戌の年(天正十四年)は天下の御普請があり、国々の大小名が洛中に満ち満ちて伺候した。
その時までに九州は(秀吉に)属しておらず、そのため毛利(輝元)殿を豊前へ渡海するよう
仰せ付けられ、御横目として黒田官兵衛。豊後へは千石越前(秀久)、長宗我部父子が派遣された。

(中略)

右の陣所より四里隔たった宇留津という城があったが、ただしこれも高橋(元種)に従っていた。
この城主は”かく”と申し、都合三千計りで立て籠もっていた。

この”かく”は野郎大将であり、その国の所々の案内をよく存じていた。そして毛利陣のはしばしへ、
毎夜夜討、強盗を隙き無く仕った故に、以ての外に陣中も騒然と成った。

この時、黒田官兵衛殿の分別には
「薩摩よりこの地の悪党ばらが、この城に立て籠もっていると聞いた。これを残らず
討ち果たせば、近国の野郎の種を断つことが出来る。」
そのように主張し、討ち果たすことに議定した。

十一月六日、毛利殿臣下の吉川、小早川、宍戸、この三人に官兵衛殿同道して小舟に乗り、
城廻りを押し回って視察した。この城は海より十間十二、三町も隔たっており、よくよく
見聞に及んでその日の内に各陣屋へ帰り、談合の次第に、その日の夜半の頃より人数を繰り出し、
明日七日の五ツ時分(午前八時頃)、この城を取り巻いた。

大手口は黒田官兵衛の寄せ口であったが、即時に大手より攻め破った。
毛利陣の者たちはこれを見て攻め掛かり、その日の七ツさがり(午後四時過ぎ頃)には、
一人も残らず撫で斬りにして討ち果たし、頸数二千あまりであった。

その頃の首実検は天下様より派遣した横目付が担当するものであったので、官兵衛殿が
これを行うようにとの挨拶があった。しかし官兵衛殿からは「ただ毛利殿が御実検されるように」と
互いに相手に対しての挨拶が果てなく続いた。
結局、毛利殿より官兵衛殿へたっての御断りがあり、これらの頸は黒田官兵衛殿が御実検された。

また、彼らの妻子どもも翌日八日に、千ばかりも浜の方で磔にされた。

川角太閤記

秀吉の九州征伐の序盤、豊前方面の様子。



内蔵助を攻める軍勢を出すべし

2022年11月21日 19:47

482 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/21(月) 19:01:01.76 ID:kbOd9V3r
「越中国の佐々内蔵助(成政)は、秀吉が四国九州へと軍勢を出すならば、定めて隙きが出来たとして、
油断を突こうとするだろう。であるので、内蔵助を攻める軍勢を出すべし」と御議定した所に、
蜂須賀彦右衛門(正勝)が申し上げた

「内蔵助についてですが、彼は供の者六人を召し連れ、国を急に立って浜松に参ったと承っております。
供は佐々与左衛門、いたわ勘右衛門、松木内匠、その他計六人、そのように承っています。
御分別のため申し上げます。」

これに対し、秀吉公の御意には
「家康卿が律儀である所に目をつけ、内蔵助はすぐに合戦という状況で無いために、直談をすべしと
思ったのだろう。しかし今更家康卿に心置きをしようとするなど、口実を作って却って、
毛を吹いて疵を求むという事と同じだ。事が見えない先に聞き出すような沙汰は、必ず上手く
行かないだろう。

家康卿に表裏はない(家康卿表裏有間敷なり)。丈夫である家康を東の押さえに頼り置く事ができれば、
東国の気遣いは無くなる。であれば越中に馬を出そう。」
との御議定であった。

家康卿へは越中に、『御馬出候、加勢少可給者なり』と仰せ遣わした所、本多豊後に都合三千の兵、
そのうち鉄砲三百挺にて家康卿よりの御加勢として素早く上洛に及んだ。

これによって上様(秀吉)は大阪を、酉年(天正十三年)七月二十七日に出陣された。
この時の御分別には、「内蔵助とはこの間まで、肩を並べる傍輩であったのだから、定めて私に対して
疑いが深いだろう。例えこの秀吉に降参したとしても、悪我を張るであろう。
織田信雄は信長公の御実子であるから、信雄を私の旗本と定めよう。内蔵助は堅物であるから、
信雄に対して降参するだろう。」

そのように思し召し、軍勢の路地すがら信雄に対面した時、自身の御旗本のように執り扱ったのは、
その様子を越中に響かせるためであったと聞こえた。

川角太閤記



483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/22(火) 08:27:03.82 ID:1wYkIu2B
越前と美濃ですら連携に失敗してるのに越中と遠江なら尚更

秀吉の推量は少しも違わなかった

2022年11月16日 19:02

477 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/15(火) 20:41:39.74 ID:bTevtSEj
(小牧長久手合戦後、織田信雄と和睦を成立させたあと)
秀吉は徳川家康卿を御引き付けさせうようと思し召し、そのための御分別、御工夫に悩み、
寝付けないほどであったと聞こえた。

その段々の御分別の次第だが、秀吉は御あつかい(和睦)を掛けるために、家康の様子や手引を見ようと思し召し、
家康卿の国の様子を御聞きに成るために、人を色々に変装させ、三河遠江へ潜入させた。

この時、秀吉の御分別としては、「家康卿は籠城の支度をするなどあり得ない。ただ一合戦とのみ
定めているだろう。」と思し召されていた。

先の目付たちが帰国し、お尋ねに成ったところ、「家康は籠城の用意など全く見えません。
鷹野や川狩りのような慰み事ばかりしています。」と言う。後から参った目付も同様の報告であり、
秀吉の推量は少しも違わなかった。

そこで秀吉は、御あつかいの為に家康に妹を与え、この上は兄弟に成るべきと、御あつかいを掛けた。
その上で家康卿がまだ合点無ければ、母と女ども、さらに妹の三人を家康卿へ人質に出すべきと、
蜂須賀彦右衛門(正勝)や黒田官兵衛、その他二、三人に仰せ聞かせた。

川角太閤記



何事につけても、最も身が危うく見えるのは

2022年11月06日 18:50

474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/06(日) 16:46:48.05 ID:XrQtncg6
(賤ヶ岳の勝利の後、柴田勝家の所領である越前を平定した羽柴秀吉は、彼に従属した前田利家が領する能登国へ入った。)
能登国中を巡検した秀吉は、越中との境目である末森城を取り立てるようにと言われ、さらに
七尾城も見られ、前田又左衛門(利家)に委しく言い含めた。

この時、前田又左衛門が申し上げた
「この勢いで、越中へ取り掛かり、内蔵助(佐々成政)を御退治されるべきです。」

秀吉は返答に
「その事について、思い出したことが有る。何かと言えば、天正三年五月二十一日に、甲斐国武田四郎(勝頼)と
三州長篠において信長公が御合戦成された時、頸数一万二千余り討ち取る大勝利を得たこと、貴殿も御供した
故に能くご存知であろう。

あの時、そのまま甲斐国へ押し込むのだろうと、私も人も考えていた。ところが信長公はそうせず、
そこから帰陣なされた。あの時、御勢い、御利運でこれ以上はないと思われたが、ああ言う時は
天魔の所業というものもあり、五,三年もそのまま捨て置けば、国内に謀反も出来、家中もまちまちに
成ることが聞こえるようにもなるだろう。その時に馬を出して退治するのだ、という御分別であったと
聞いている。

又左衛門殿も皆々も聞いてほしい。勝家に打ち勝った以上、この秀吉もこれに過ぎる安堵はない。
その上で心ならずも慢心することもあると覚える。その上、下々以下に及ぶまで勝ちに乗る体で、
早々勇み悦び、興に乗るような様子である。

佐々内蔵助は剛なる上に手聞の上手である。また合戦の習いとして、勝敗は人数の多少に必ずしも寄るもの
ではない。よって、これより一足先に引き取ろうと思う。その内に、秀吉が再び軍勢を募り出陣してきた時は、
位詰めに成るだろうと内蔵助も、またその家中の者達も考え出すであろうことは必定である。そうなれば
家中にも謀反者が出てくるだろう。

何事につけても、最も身が危うく見えるのは勢いが過ぎている時であり、だからこそ今引き取るべきである。」

そのように申して、加州村山城に入られ、加州半国と能登一国を前田又左衛門利家に与えた。
また能登に於いて長九郎左衛門(連龍)に対し、「前田又左衛門に付け置く。何事も利家次第とするように。」
と仰せ置かれた。

川角太閤記



城介殿が若衆の時に

2022年11月05日 16:31

470 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/05(土) 15:57:25.02 ID:kQd4l8F6
(織田信長の頓死後)柴田(勝家)殿が三七(織田信孝)殿を天下の主に取り立てたいと分別したのは、
柴田殿が三七殿の具足初めを仕られた故であると聞いている。この後契約故に、後に御懇な関係に
成ったのだという。

(羽柴)秀吉については、城介(織田信忠)殿と御懇であったという。その仔細は、城介殿が若衆の時に、
御公家衆などに御恋慕なされ、それを難しく思し召された後気色を秀吉は見て取って、城介殿に

「ならば、私に御目を掛けていると世間に披露して下さい。そうすれば御気難しき事など有りません。
その上私においても、内々に難しいことを申し上げることは有りません。表面上だけでも、そのように
なされるべきです。(外儀を右の通に可被成)」

信忠様も「その通りだ」と思し召され、秀吉は信忠様の御知音のように、世間では認識された。
そして後々も御目をかけるように成られた。

川角太閤記

秀吉が信忠に取り入った(?)お話。これは秀吉が京で奉行をしていたから、秀吉を介して
公家衆と信忠の仲を取り次げる、みたいな話なんですかね。



織田七兵衛殿は日向守と

2022年10月25日 19:19

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/10/24(月) 20:06:31.59 ID:gtM3Sfj3
その頃(本能寺の変の頃)、織田三七(信孝)殿、同七兵衛(津田信澄)殿、丹羽五郎左衛門(長秀)殿、
この三人は大阪に在った。織田七兵衛殿は明智殿の聟であった。

信長公は中国の毛利の様子について羽柴筑前守(秀吉)所に遣わされた堀久太郎(秀政)殿が、備中高松より
敵陣の様子を見および罷り上がり次第、中国へ御馬を出すべしと思し召されていた。
右の三人は大阪より四国へ出船いたすべき者達であった。
ただし一旦出船を見合わせ、状況次第とすると仰せに成っていたのであるが、そのような中で日向守の謀反が
あったので、四国への渡海は中止と成った。

羽柴筑前守殿の所より、丹羽五郎左衛門殿へ密かに遣いが送られたという。その内容は

『織田七兵衛殿は日向守と、奥意は一味同心であると考えている。三七殿と話し合い、七兵衛殿を
討ち果たすべきである。』

との事であった。五郎左衛門殿も内々は筑前守の分別と同意であったため、七兵衛殿の御座所であった
大阪城本丸の外、千貫矢倉へ押し寄せ、鉄砲ずくめで攻撃し、即座に表裏無く討ち果たしたという。

このようであったからこそ、明智の叛乱は収まったのである。

川角太閤記

丹羽長秀たちが津田信澄を滅ぼしたのも、秀吉の示唆があったのか



624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/10/24(月) 20:29:02.69 ID:HhGvH5g8
6/2に本能寺の変
6/5に津田信澄が殺される
京都→備中高松城の秀吉→大阪の丹羽長秀
400kmくらいを3日で踏破?