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山本義純の事

2022年05月02日 21:11

467 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/02(月) 16:15:00.81 ID:vAHEkKsE
上記の「薩州旧伝集」の元となった?「薩藩旧伝集」(1908-1909年に発刊された「薩藩叢書」に収められている)の巻二には
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13210.html
関ヶ原で島津義弘の身代わりとなった長寿院盛淳(阿多盛淳)を討った者として

慶長五年九月十五日関ヶ原敗軍、義弘公も必死におきわまりあそばされ、取って返したまうを、
阿多盛淳長寿、公の鎧をひかえ
「大将軽々しく命は捨てぬ者たり、御旗と御名乗り賜り候え、私御命に代わりもうすべく。落ちさせたまえ」と諌め奉る
「島津義弘討死」と名乗り一戦して松倉豊後重政の家臣、山本七助義純に討たれもうされけるとなり

と、松倉重政の家臣の山本義純の名前が挙がっている

468 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/02(月) 16:19:15.43 ID:vAHEkKsE
「朝野雑載」ではこの山本義純は以下のように書かれている

新羅三郎義光の三世、遠江守兼左兵衛尉義定(安田義定?源義経と同名の山本義経の父親の山本義定は義光の孫で別人)より十九世の孫、
山本左京進義里は江州浅井郡山本郷に居住し、代々佐々木京極に仕えていた。
のちに佐々木六角の家臣となったが、天正十年(1582年)六月三日に明智光秀の兵が江州観音寺城を攻めた時に義里は討死した。
(本能寺の変と観音寺城の戦いを混同?)
義里の息子、山本七助義純は永禄十一年(1568年、観音寺城の戦いの年)に江州甲賀に澤田氏を母として誕生した。
義純は幼少だったので大和の松倉豊後守重政に仕え、重政の主人の筒井順慶が松永久秀と合戦した時には毎度戦功をあらわした。
(松永久秀が死んだのは天正五年(1577年))
中でも天正十二年(1584年)に筒井伊賀守(定次)の手に属し、伊賀国獺瀬城に一番乗りを果たした。
城の陥落後、秀吉公は豊後守に感状を賜り、豊後守は七助(義純)に刀を授けた。
また関ヶ原御陣では島津兵庫入道惟新(義弘)の家臣、阿多盛淳入道長寿の首を取った。
この合戦後、七助は豊後守の下知を受け、主人の妻が島左近の娘であったゆえ島左近の家に置かれていたのを、智計を巡らせて取り返したという。忠節莫大であった。

内容もそうだが、六角や澤田の苗字が出てくると、沢田源内の偽書出典ではないか気になる。

469 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/02(月) 16:25:01.52 ID:vAHEkKsE
なお、湯浅常山「常山紀談」の「山本権兵衛、功名のこと」
では山本義純の息子とされる山本義安について

松倉豊後守重政、後藤又兵衛の陣を切り崩す。
松倉が士、山本権兵衛義安、十八歳にて槍を合わせ首を取りける隙に槍を敵に取られたり。
その槍じるし、敵の中に見えしかば、
「今はこれまでなり、討死せん」といい捨て敵の中へ入り槍を取り返し、その槍にてまた敵を突き伏せ、首を取りて帰りけり

とその勇猛ぶりが描かれている



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武士の討ち死にすべき所はここにあり

2021年03月31日 17:00

52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/31(水) 16:12:19.86 ID:ePGgZhvl
立花道雪の側に仕える女に対し、心を通わす者が有ったのだが、道雪はそれを知りつつ知らぬ体で居た。
ところがこの事を知る者が居り、ある夜の物語の時申した

「東国の大将の、誰とは知らないのですが、寵愛の女に密かに情を通わす者が居たのを誅したそうです。」

そう、あらぬ事を態と言って、道雪の答えを試みた。
道雪はこれに笑い出し

「若き者が色に迷ったのを、必ずしも誅しない事も有る。人の上に居て君と仰がれている以上、
仮初のことに人を殺せば、人が背く基である。国の大法を犯した事とは異なる。」
と語った。
かの者、これを伝え聞いて心に慙じ、また道雪の仁愛に感じ入った。

その後、薩摩との戦で鎧ヶ嶽の城を攻める時、道雪は城を出て戦ったが、大軍が押しかかり危うい状況に
なった。そこにかの者が大音上げて乱れる味方を恥しめて散々に戦った。その間に道雪は城近くへと
引き取ったが、敵はなお厳しく追撃し、城門を閉じることも出来ないほどであった。
そこに、かの者取って返し

「武士の討ち死にすべき所はここにあり!各々、是にて討ち死にすれば、城を敵に奪われまじ!
返せや人々!」

そう言う間に鑓を横たえ踏み留まると、返合する者三人あった。彼らが面もふらず戦って討ち死にする
間に、城門を閉じた。

常山紀談



君臣共に悪逆を共有している

2021年03月30日 18:09

648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/30(火) 17:42:46.03 ID:N0+W4jyb
明智光秀は天正七年六月、修験者を遣わして丹波の守護、波多野右衛門太夫秀治の元に、光秀の母を
人質に出したため、秀治はその弟である遠江守秀尚と共に本目の城に来たのを、酒盛りをして饗し、
兵を伏せ置きて兄弟を始め従者十一人を生け捕りにして安土に遣わした。秀治は伏兵と散々に戦い、
この時傷を蒙り途中にて死した。信長は秀尚以下を安土にて磔とした。
丹波に残った者達は、明智の母を磔にした。
そして明智は終に赤井等を攻め従え、丹波を信長より賜った。

また信長、ある時酒宴して七盃入の盃を以て光秀にそれを呑むことを強いた。
光秀は「思いもよらず」と辞し申しと、信長は脇差を抜き
「この白刃を呑むべきか、酒を呑むべきか」
と怒ったため、光秀は酒を呑んだ。

その後、稲葉伊予守(良通)の家人を、明智が多くの禄を与えて呼び出したが、これに対し稲葉は
返還するように求めたが戻さず、信長からも「戻せ」と下知されたにもかかわらず従わなかった。
信長は怒り、明智の髪を掴んで引き伏せて責められた、この時光秀は
「国を賜り候へども、身の為に致すような事はせず、士を養うを第一としているのです。」
との内容を答えると、信長は怒りながらも追求を止めた。

東照宮(徳川家康)御上京の時、光秀に馳走の事を命ぜられた、種々饗礼を設けたが、信長が
鷹野の時、立ち寄って見て、肉の臭くなっていると草鞋にて踏み散らした。
光秀が又新たに用意している所に、備中に出陣せよと下知された。
これに光秀は忍びかねて、信長に叛いたのだという

であれば、信長の暴なること元より論を待たない。
光秀は土地を攻略するために老母を人質として殺すという不孝を、信長は賞した。
君臣共に悪逆を共有している。終わりを良くせざること、理である。

常山紀談



屍暴戦場唯是天

2021年03月28日 16:15

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/28(日) 13:37:51.94 ID:6RBK85DI
天正元年、織田信長との江北の戦に朝倉が敗れると(刀根坂の戦い)、信長の兵、撤退する朝倉軍を
追撃すること急であった。
朝倉の侍大将である山崎長門守(吉家)、託美越前守は柳ヶ瀬にて踏みとどまり支えると、
これに励まされて返し合わせて、討ち死する者も多かった。
山崎も大軍の中に駆け入って討たれた。

託美越前守はは矢立の硯を取り出し、師を一首書いて落ち行く者に頼んで、故郷に届けさせた。

 萬恨千悲有驀然、唯識今夜入黄泉、故園更莫灑愁涙、屍暴戦場唯是天
(萬恨千悲は急に起こるものだ、私はただ、今夜黄泉へ入ることを知っている、
 故郷の人々よ、嘆き涙を流さないでほしい、屍を戦場に曝すのも、ただこれは天の定めた運命だからである)

かくて散々に戦って討ち死にした。その間に朝倉義景は逃れ、越府(一乗谷)へ引き取った。

常山紀談



これより長政を恐れて

2021年03月26日 18:25

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/26(金) 16:59:53.91 ID:/LJeRXU6
浅井備前守長政が、玉淵川を限りとして、斎藤龍興(実際には義龍か)と合戦をした。
ある時、長政は五百ばかりの兵をよりすぐり、関ヶ原野上の宿に火をかけ、樽井の前にある小川に
柵を造り待ち構えた。

龍興勢一万ばかりがここに出ると、長政はこれを聞いて、百人ばかりを菩提の小道より敵の後ろに廻らせ、
自らは四百ばかりを以て敵の油断している所を夜討ちした。
そこに小道より迂回した兵も馳せ来て、思いもよらぬ所より鬨の声をあげると、龍興は内通の者が有ると
思い、慌てて岐阜へと引き返した。

その後、長政は大垣の周辺所々に火をかけさせると、龍興は「敵が勝ちに乗じて大垣を攻めるのだろう、
いざ助けよ!」と岐阜を出たが、長政は引き返す時に、足軽で物に慣れた者達三十人を樽井の土民の
家に隠した。

龍興勢が樽井に入ると、士卒も疲れていたために、兵糧を使って油断していた時、隠し置いた足軽共、
所々に火をかけて焼いた。そして長政勢は思いもよらぬ所へ押し寄せ、斎藤勢を散々に打ち破り、
やがて南宮山に上って敵を待った。

龍興は二度まで敗北し口惜しく思い、「四面を取り巻いて余さず討たん!」と押し寄せたが、
長政見て「敵は大軍なり、十死一生の戦とはこれなるべし。我が下知無き内は箭の一筋も
射るべからず。」と言って、敵が攻めかかってくるのを待って、山の上より一文字に
切って懸ると、龍興大いに敗軍して、これより長政を恐れて再び合戦すること無かった。

常山紀談



中村新兵衛は近江国の人で

2021年03月24日 18:20

9 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/24(水) 16:07:14.32 ID:0ytyTjY3
佐々木(六角)と三好が合戦をした折、佐々木は糺に陣し、三好は赤山に有った。
三好は使いを以て、

「我が方には中村新兵衛という剛の者がある。我と思わん人あらば出られよ。他人を加えず戦おう。」

そう言うと、佐々木はその家中にて江州に隠れなく、永原安芸守という者をすぐり出した。

二人は修学寺石地蔵の前にて出合い、永原は直鑓、中村は十文字の鑓にて散々に戦ったが、
中村は永原を終に突き伏せ首を取った、

中村新兵衛は近江国の人で、一日に鑓を合わせること十七度、首四十一級を得たことが有り、
世に「鑓中村」と称した。

永原を討ち取った時、室町将軍霊陽院殿義昭が、江州矢島にてこれを聞き召し、感状に朱塗りの物の具、
朱柄の鑓を添えて給わったという。
一説に、彼は摂州半分を領した松山新介(重治)の士であり、唐冠金纓の兜を着けていたという。

常山紀談

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9914.html
この槍中村の別の話ですね



上杉謙信の青竹

2021年03月23日 18:50

5 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/23(火) 16:01:53.24 ID:Dtj72xDC
上杉謙信は、背丈はさほど高くなく、左の足に気腫があって、歩く時足を引くように見えたという。
物の具を着ることは少なく、黒き木綿の胴服を着て、鉄で作った小さな車笠をかぶり、采配を取ることも
少なく、青竹を三尺ばかりにして杖のごとく提げ持って、それにて士卒を下知した。
梁の韋叡の「竹如意(僧が読経や説法の際などに手に持つ、孫の手のような形をした道具)」の
遺風であるという。

(北魏の兵が鍾離城を攻めた時、梁は韋叡を以て後援させた。北魏の将である揚大眼は勇将で、
数万騎を率いて戦ったが、韋叡は素木にて造った輿に乗り、白角の如意を執って
軍兵を下知し、切り勝った事が史書に見える)

常山紀談



「かかる手配りならば、必ず味方敗軍すべし。」

2021年03月22日 17:08

2 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/22(月) 13:05:37.09 ID:LAECT/y2
上杉謙信が小田原城の蓮池まで攻め入り、明日は鎌倉に赴くべしとして、軍評定を行った時、
新発田因幡守治長(新発田重家)、その時十五歳であったが、進み出て申した
「かかる手配りならば、必ず味方敗軍すべし。」

これを聞いた謙信は怒って「舌のやわらかなるままに物を言う!」と怒鳴ると、治長は居直り謹んで
「今日より君臣の義を絶えさせ給わるという事であれば、私は小田原に馳せ参り、北条家の先陣をして
君を追い打ち参らすべし。酒匂川のこなたにて容易く討ち取り奉らんものを」と申した。
謙信はその時色を和らげ、「天晴剛の者よ、神妙にも申したるかな。明日の殿をせよ。」
と命じた。
治長は「軍立てしかじかすべき」とて、やがて事無く小田原を引き取った。

治長は後に景勝の世に及んで二心ありければ、景勝これを討とうとしたが、新発田・五十野両城を
守って、三年を経て城が落ちると、治長は染月毛という馬に乗り、三尺五寸ある光重の刀を
抜き持って、大軍の中に駆け入り討ち死にした。

この馬は極めて色の白い尾であったので、茜の汁を刷毛にて染めると、年月を重ねた後、まるで真紅の糸を
乱し駆けるようであったとか。井筒女之介(尼子十勇士の一人)が、この馬を得て乗ったという。

常山紀談

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