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平塚因幡守の討死の様子

2021年01月11日 17:19

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/11(月) 12:34:05.76 ID:OYdq351k
平塚因幡守(為広)の、関ヶ原での討死の様子を人が語った所によると、関ヶ原の合戦で、味方敗軍に
及んだ時、因幡守は馬を脇に引き退け、自害するような様子に見えた所に敵が来て、

「筑前中納言(小早川秀秋)の小姓、横田小半助!」

と名乗り、歩行にて馬上の因州を一鑓突いた、しかし因幡守は、突かれながら自身の十文字の鑓にて
横田を一打ち二打ち打って、「せがれ(若造)め!」と罵ると、小半助は鑓を引き抜き、又掴みかかろうと
した所に、因州は素早く馬より飛び降り、馬を盾にして小半助と戦い、終に小半助を突き伏せ、
若党に首を取らせ、「この首せがれながら志の者と見えた故に討ち取った。互いにこれが暇乞いである。」と、
大谷刑部少輔(吉継)へ言い遣わした。

その後、因州は殊の外に疲れて、田の畦に腰を掛けて息をつき、自害しようとしていた所に、
山内対馬守(一豊)殿の侍、柏井太郎兵衛(樫井太兵衛)と言う者が馳せ来て鑓にて突いた。

この時、因州は自分の鑓を投げ突きにし、「汝が宝にせよ。」と言って、その場を去らずに討ち死にした。
もし小半助が、一度突いた鑓を抜かなければ、彼が利を得ただろうと言われた。

備前老人物語



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和泉様御鑓先の敵は

2020年01月04日 16:33

478 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/04(土) 14:14:49.52 ID:zP+MkFWP
権現様(徳川家康)は九月十四日の昼時分に赤坂にお着きに成り、先手の上方衆はその夜、青野ケ原へ出て
野陣をし、翌十五日の未明に、いずれも青野ヶ原を御立ちになって関ヶ原へ出られた。
この行程で、藤堂新七郎は先手にまぎれ参り、朝駆けで取った首を取り出して本陣へと向かった。
これは諸手の一番首であったので、権現様へ高橋金右衛門が持って御上げした。

その後、和泉様(藤堂高虎)御鑓先の敵は、大谷刑部少輔(吉継)、脇坂中務(安治)、小川土佐(祐忠)、
平塚因幡(為広)の四人あったが、脇坂中務と小川土佐は和泉様才覚にて裏切りを仕り、大谷刑部少輔人数と
一戦した。刑部少輔家臣の湯浅五助と申す母衣の者を、藤堂仁右衛門が討ち取った。その他敵を数多討ち取った。

そして藤堂玄蕃が討ち死にし、そのほか御家中の者達も多く討ち死にした。権現様衆の村越兵庫殿もここで
討ち死にした。

権現様はこの働きを御忠節に思し召され、後帰陣後、後褒美として伊予半国を拝領に成り、和泉様の所領は
都合二十万三千石となった。

(藤堂家覺書)

関ヶ原に関する藤堂家の記録



479 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/04(土) 14:30:04.66 ID:m4Y0etBc
便乗した朽木は残り
藤堂にあらかじめ内通していた小川は改易とは

戸田勝成「恐らく左近は、」

2015年01月07日 18:52

181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/06(火) 22:38:53.29 ID:Co/gnY+p
備前宰相殿(宇喜多秀家)等は、惟新公の夜襲すべしという意見に賛成なさったが
治部殿とその寵臣・嶋左近(島清興)はこれに反対した。
特に左近の、主人の威を借りての人無げな無礼な物言いには、中務殿(島津豊久)も
大いに怒られたが、惟新公はこれを目で押しとどめてもはや何もおっしゃらず、不快の
念を隠そうとはしなかった。
宇喜多家中の明石掃部(明石全登)が、皆をなだめて軍議は早々に打ち切られた。
陣を立ち去る時、武蔵殿(戸田勝成/重政)が惟新公に「残念なことよ」と声をかけられ、
因幡殿(平塚為広)も同調して、惟新公は心慰められる想いをなされた。
中務殿はまだ憤懣冷めやらず、「嶋左近ごときに何が分かろうか」とおっしゃられると、
武蔵殿は「治部殿は戦の駆け引きに疎く、左近はしょせん大和でわずかばかりの
侍働きをして虚名を馳せただけで、その後は治部殿に仕えていたため、大戦(おおいくさ)
の経験がない。先の戦い(杭瀬川の戦い?)程度の小競り合いならともかく、此度の
ような戦で、あの二人が全軍の指揮を執るのでは、なかなか内府殿のような古強者には
勝てまい」と嘆かれた。
因幡殿が「治部は、左近に我が軍の采配を任せるのでしょうか」と問うと、武蔵殿は
「恐らく左近は、治部殿の家中をまとめるだけで精いっぱいであろう。端武者のごとく
前に出て、早々に怪我をすることになるのではないか。軍配を執ることはあるまい」
と答えられた。
武蔵殿は小身ながら知恵者と呼ばれた人であり、その言葉通り、嶋左近は治部殿の
先鋒を務めて侍大将としては活躍したものの、銃で撃たれて陣内に担ぎ込まれ、
西軍の大敗を見ることなく亡くなったということである。(兵忠記 「慶長合戦のこと」)



183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/06(火) 23:56:54.18 ID:Nenzv4jh
戸田さんは色んなところで褒められてるな

187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/07(水) 04:34:44.96 ID:giNPOH3x
>>181、>>183
島左近は後世の評価が過大評価っぽいよね

・1550年に家督を継いだ幼い筒井順昭を盛り立てたと言われるが、当時の
 家臣団に名前が無く、初登場は1571年
・「筒井家の両翼(右近左近)」と並び称されたと言われるが、順昭が活躍した
 時代の両翼は松倉秀政と松田盛勝で、松倉重信(右近)と島左近はもっと後期
・実質的には定次時代の両翼だが、すぐに筒井家を出奔
 四国征伐には定次とともに従軍したようだが活躍の記録なし
・豊臣秀長・秀保に仕え、九州征伐には参加したが、秀長の病気により小田原
 征伐には参加せず、朝鮮の役でも秀保の渡海は無く、秀保配下の紀伊衆
 とともに水軍として活躍した形跡もなし
・その後に三成に仕官
 よってその戦歴は、ほとんど大和国内または信長-順昭、秀吉-定次配下での
 畿内の戦(紀州攻め・伊賀攻め)がメインで、大規模な戦は定次-四国攻め、
 秀長-九州攻めの2つのみであり、それ以降の10数年は、関ヶ原まで戦場での
 指揮の経験なし
・島氏は大和の在地土豪で、「山県昌景の下で家康が敗走するのを追った」も
 嘘っぽい