平手政秀は優美な男であった

2017年03月16日 21:17

719 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/16(木) 06:35:00.73 ID:IzqYErIF
平手中務丞政秀は思案を廻らし、何とかして清洲勢(織田大和守家)を味方にし、
一国の乱を静めようとして、様々に和睦のことを取り扱ったが、

清洲の家老・坂井大膳、同甚介、河尻(与一)らの同意なくして、年内<天文17年>
は打ち過ぎた。ようやく翌年の春の末に、互いに同意して差し障りなく和睦させた。

政秀はそもそも優美な男であったため、その頃、大膳、甚介方へ和睦珍重の旨の
書札を遣わした。その端に一首の古歌を書き付けたという。

「袖漬ぢて 結びし水の 凍れるを 春立つ今日の 風や解くらん(紀貫之の歌)」

――『織田軍記(総見記)』


スポンサーサイト

すなわち御名を織田三郎信長と付けなさる。

2017年03月09日 20:38

708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/09(木) 04:04:26.09 ID:v5m1NhMr
さて、吉法師殿(織田信長)を名古野(那古野)の城に差し置きなさり、備後守殿
(織田信秀)より、林新五郎(秀貞)、平手中務(政秀)、青山与三右衛門(信昌)、
内藤勝介、この4人が家老に付けられ、もっぱら傳り立て奉った。台所(財政)の
賄いは平手中務が奉行したということである。吉法師殿は内外共に、ことのほか
困窮しておられた。

成長に従い天王坊という寺へ毎日登山して、手習いをなされたが、すでにその頃
から気性は異相にして世の常人とは違っていた。信秀は古渡の新城におられた。
台所賄は山田弥右衛門がこれを勤めた。

かくて天文15年に吉日良辰を選び、吉法師殿は四家老を召し連れ、古渡の城へ
参上なされて、その城内で元服なさった。御歳積もって、13歳ということである。

備後守殿は怡悦なさり、上下の身分とも御祝いの酒宴をなさった。すなわち御名を
織田三郎信長と付けなさる。

翌天文16年、信長公は武者初めとして三河へと御出陣となった。この時、信長公
は紅筋の頭巾と羽織、馬鎧の出で立ちだった。これは、平手中務が計らい申した
ということである。

さて三河へ至り、今川家から人数を籠め置いていた吉良大浜という場所で信長公
は民屋を焼き払い、その日は野陣を張って一宿され、翌日に名古野へ帰陣された。

これが信長公の陣初めである。

――『織田軍記(総見記)』



709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/09(木) 07:48:00.48 ID:577KVNZe
宿舎を焼いて寒空の下で泊まるなんてバカな奴だな

710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/09(木) 08:12:59.84 ID:O8/yWz+H
家康「というわけで信長公にあやかるため、秀忠の傅役には青山と内藤をつける」

織田信長「平手がこのようになってしまったのは」

2016年02月12日 18:53

304 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/12(金) 17:34:40.74 ID:q2GDssgV
平手清秀(政秀)が自害すると、織田信長は大いに嘆き、言った

「平手がこのようになってしまったのは、私の無道を諌めたのを、私が用いなかったためだ!
彼の恩は父と言うにも劣るものではない。あの日はあの場所でこのことを諌め、またこの日は
あのように諌めた。そういう者を、深く考えず用いなかったこと、千悔恥じて居場所もない。
ああ、極諫の士を失ったのは、偏に天からも捨てられたようなものである。

しかし返らぬことは悔いても益はない。詮ずる所、過ちを改め善に移り、軍功を励まし、
世の無道を平らげ、天下一統の仁生を施すことこそ、これまでの非道を天命に歎くには如かじ。」

そう考え、暫くは居室に閉じこもっていた。深く思し召されるお心の程こそ有り難いものである。

そして信長は一寺を建立し、清秀寺と号し、忌日には自ら弔われることもあり、これを見聞きした者達は
「荒々しい人物だったのに、打って変わったようなご風情だ。如何様にもこの大将はただ人では
無いだろう」と、世を挙げて口ずさんだ。

(甫庵信長記)



織田信長と平手政秀・いい話

2008年10月15日 14:11

13 名前:人間七七四年[] 投稿日:2007/02/27(火) 15:02:56 ID:GgaN+b7M
信長が平手政秀を馬鹿にされたことに激怒した話とか

18 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2007/02/28(水) 23:53:20 ID:PobDX/OW
>>13
kwsk


20 名前:人間七七四年[] 投稿日:2007/03/01(木) 11:48:03 ID:XHQnjNAb
>>18

 これは近畿を平定し、信長の勢力が日に日に盛んになっていった頃のことである。

 近臣たちがへつらって「このように強大になるとも知らずに平手政秀が自害した(政秀は若い時の信長の素行
を改めさせようと諫死した)のは短慮でした」というと、信長は顔色を変えて怒り、「わしがこのように弓矢を執れ
るのは、みな政秀が諫死したことのおかげである。自分の恥を悔やんで過ちを改めたからこそだ。古今に
比類ない政秀を、短慮だというおまえたちの気持ちがこの上なく口惜しい」と言った。

 信長は事あるごとに政秀を思い出し、鷹狩りや河狩りに出たときなどは、鷹が捕った鳥を引き裂いては、その
一片を「政秀、これを食べろ」と言って空に向かって投げ、涙を浮かべたことが度々あったという。




115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/02/07(木) 18:32:25 ID:VLBPkDDt
>>20遅まきながらそのエピソード出どころ確認しました ちゃんとした資料なんだな
他にも死んだ平手の事をなじった家来を強く叱責する話もありますね
平手政秀の息子(孫?)を家康へ援軍として送り討ち死にさせてしまった信長の無念が聞こえてくるようです