512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/16(木) 13:29:46.32 ID:kiWIXeCy
徳川家康の家人である平松金次郎は、性質は驍勇であったが、外貌は実に温和であった。
ある時、彼の友人が平松の悪口を言った事があったが、平松は一言もそれに答えなかった。
そのため人々は皆、彼が柔弱であると思った。
その後、平松は朱柄の鑓を拵えたが、これを聞いた人々は皆大いに笑った。これは、白柄の鑓を以て
敵と鉾を交え、鑓に血の付くこと度々に及んだ後でなければ、朱柄の鑓を持たないというのが武夫の法であると
されていたからである。
然るに長久手合戦の時、平松は衆を離れて一人進み、一番鑓を合わせたが、その後に続く者は無かった。
これによって家康公より、新地二百石を賜った。
この時、平松金次郎は衆人の中に出て言った
「男子の勇とするは、ただ戦場の働きにあり。喧嘩を好むは下僕の業である。
私は今度の合戦に、年来出したことのない勇を顕した。そして私の後ろにそれを継ぐ者は無かった。
人は各々、能があり不能がある。私は喧嘩については誠に拙い。しかし敵と相合う時は、人より勝れている!」
これに対して答える者は、更に無かった。
然るに、羽柴秀次公は、平松が徳川家に対して不平を述べていることを聞き召され、一万石を以て招いた。
平松はこれを領掌し、徳川家を出奔した。家康公は坂部権右衛門を召され、「平松を追うて殺すべし。」と
命ぜられた。坂部は承り、直ぐに進んで金次郎を討とうとしたが、平松は却って権右衛門を殺して退いた。
この時、服部半蔵が掛川の城番を代わるため向かっていた道にてこの事を聞きつけ、そのまま鉄砲衆を引き連れ、
平松金次郎が籠もっていた村里を固めた。金次郎は遁れることが出来ないと悟ると、終に切腹したという。
(新東鑑)
徳川家康の家人である平松金次郎は、性質は驍勇であったが、外貌は実に温和であった。
ある時、彼の友人が平松の悪口を言った事があったが、平松は一言もそれに答えなかった。
そのため人々は皆、彼が柔弱であると思った。
その後、平松は朱柄の鑓を拵えたが、これを聞いた人々は皆大いに笑った。これは、白柄の鑓を以て
敵と鉾を交え、鑓に血の付くこと度々に及んだ後でなければ、朱柄の鑓を持たないというのが武夫の法であると
されていたからである。
然るに長久手合戦の時、平松は衆を離れて一人進み、一番鑓を合わせたが、その後に続く者は無かった。
これによって家康公より、新地二百石を賜った。
この時、平松金次郎は衆人の中に出て言った
「男子の勇とするは、ただ戦場の働きにあり。喧嘩を好むは下僕の業である。
私は今度の合戦に、年来出したことのない勇を顕した。そして私の後ろにそれを継ぐ者は無かった。
人は各々、能があり不能がある。私は喧嘩については誠に拙い。しかし敵と相合う時は、人より勝れている!」
これに対して答える者は、更に無かった。
然るに、羽柴秀次公は、平松が徳川家に対して不平を述べていることを聞き召され、一万石を以て招いた。
平松はこれを領掌し、徳川家を出奔した。家康公は坂部権右衛門を召され、「平松を追うて殺すべし。」と
命ぜられた。坂部は承り、直ぐに進んで金次郎を討とうとしたが、平松は却って権右衛門を殺して退いた。
この時、服部半蔵が掛川の城番を代わるため向かっていた道にてこの事を聞きつけ、そのまま鉄砲衆を引き連れ、
平松金次郎が籠もっていた村里を固めた。金次郎は遁れることが出来ないと悟ると、終に切腹したという。
(新東鑑)
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