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大内義隆、方角を忌説

2020年04月24日 17:26

4 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/24(金) 10:24:21.43 ID:T4UpEmkq
大内義隆、方角を忌説


 大内左京太夫義隆は並びもなき大名で、周防国山口に住んでいた。
武道を忘れて、華奢を好んでいた。
常に甚だしいほどのの物忌みを行っており、
家人に屋敷を与える時は、
水性の者は北、木性の者は東、
火性の者は南、金性の者は西と定めていた。
もし木性の者は金性の子を産んだ時は、西の方へ預けていた。

 今按ずるにこれは大内氏のみの話ではない。
今の世(正徳頃)にも、この類はある。
 ある者は家を建てて地を移すのときに、
東北の間は鬼門なり、今年はあっちは金神なり、土用には土は動かさないとしたり、
水神・荒神の祈り、疫病・疱瘡の呪い、矢違・愛敬守、男女の相性、葬送の友引、名鑑・判占い等と忌み、
夢見、カラスの鳴き声、鶏の宵鳴き、犬の長吠え、幽霊、化物、野狐、金花?(ねこまた)などを恐れる。
 尼姥はもとより理に暗い者なのでさもありなん。
武夫がこのようでは、見る目も浅ましく、聞く耳も情けない。
もし書を読み理をわきまえ、吉凶禍福を請い求め逃れ避けようとする思いもせず、
万事万物全て天に任せていたら、宇宙の間に何を疑う事があるだろうか。

(広益俗説弁)

矢違はなんなのかわからないけど、お守りの一種ですかね
武士が迷信にとらわれるなって話なのでしょうが、割と信心深いエピソードありますよね



5 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/25(土) 06:55:07.49 ID:e5r/qk9y
矢違は敵の矢が当たらないという御守りのことですよ

毛利元就が石見の山吹城を攻めたときにこの御守りで九死に一生を得たエピが地元に伝わってます

7 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/25(土) 20:53:04.74 ID:0aAtX73o
>>4
矢違のお守りについて
ttp://www.chofuku-ji.jp/temple
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松田左馬介忠義の説

2020年04月20日 22:13

987 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/20(月) 03:29:16.96 ID:9QHsESdp
松田左馬介忠義の説

 秀吉公が北条氏政・氏直を攻められた時のことである。秀吉公は北条の家臣松田尾張守(憲秀)の方へ書を遣わして説得を試みられた。
尾張守はこれに同心し、嫡子新六郎(笠原政晴)・次男左馬介(直秀)・三男弾三郎を呼んでこのことを語った。
しかし、左馬介はこれに与せず氏政・氏直に告げたので尾張守を殺されたという。
その後氏政・氏照・氏直が降参すると、氏政・氏照は切腹させられたが氏直は命を助けられ高野山に入り、松田左馬介も彼の供となった。
 世ではこの事を挙げて左馬介の忠義を称美している。


 今このことを考えてみるために、『通鑑綱目』の話を引用する。
 昔朱泚という者が唐の徳宗を囲んだ時、徳宗の臣であった李懐光に朱泚を防がせた。しかし、懐光は反逆の心があり軍を進ませなかった。李懐光の子の李?はこれを徳宗に告げた。懐光は死ぬこととなり?もまた自殺した。
また楚の康王が臣の子南を殺そうと思っていた。当時子南の子の棄疾という者は王の御士であった。
 康王は棄疾を見るごとに涙を流した。棄疾が「どうして泣かれるのか?」と尋ねると、王は「お前の父、子南は無道なので討とうと思っている。討った後でもお前は留まって居てくるだろうか?」と返した。
棄疾は「死刑にされた父を持つ子を君はどうして用いなさるでしょうか。ただし、王の命令を洩らして自分の刑を重くするようなことは臣であります私は行いません。」と答えた。
王はついに子南を殺した。棄疾は父の屍を請うて葬り、
「父を棄てて、仇に仕えることに私は忍ばない」と言って首をくくって死んだ。

 これらの話を受けて思うと、左馬介は父の逆意を君に告げる事は李?に同じといえども、李?は父が死んだ時に自殺し、左馬介は父が殺された時に死ななかった。
棄疾は父を棄てて仇に仕えるのを忌みて死んだが、左馬介は父を棄てて仇に仕えても恥じるところなかった。
 古語に”忠臣を求むるは必ず孝子の門においてす”、
とあるように左馬介を忠臣とするのは義にかなわない。この事を考え知るべきだ。

(広益俗説弁)

なんか“忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず”のような話だ



島村弾正左衛門、蟹となる説

2020年04月13日 18:18

977 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/13(月) 03:10:15.56 ID:XFrFh1IY
島村弾正左衛門、蟹となる説

享禄四年、細川晴元と浦上掃部介が摂州尼崎で合戦した。
浦上が敗北しそうになった時、浦上の家臣島村弾正左衛門貴則は敵二人を左右の脇に挟み河に入って死んだ。
その魂はたちまち蟹となった。
島村蟹として甲に人が怒った顔がある蟹がいる、という俗説がある。
〔平家蟹・清経がに・武文がにともいう〕
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6601.html

しかし、これは違う。
傅肱『蟹譜』によると、
“背穀鬼ノ状ノ若キハ、眉目口鼻分布明白、常ニ宝トシテ之ヲ玩ブ”
〔『百川学海』で見た〕
この類であろう。どうして人が死んで蟹となる事があるだろうか。


(広益俗説弁)