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「武家閑談」から庵原朝昌について

2023年03月10日 19:41

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/10(金) 18:25:14.10 ID:BoWZ+Eku
「武家閑談」から庵原朝昌について

ある老人の昔話によれば、庵原助右衛門(庵原朝昌)は駿河の庵原氏であった。
兄の庵原弥平次は武者修行で小田原へ来て、金窪(神流川の戦いの前哨戦)の競り合いで北条氏邦に従っていたが、一騎で突出し土手に乗り上げて討ち死にした。
小田原衆は弥平次を捨て殺しにした。
助右衛門は駿河でこれを知り、小田原に対して遺恨を持った。
小田原の陣ではたびたび手柄があり、戸田勝隆のところで大いに働いた後、井伊直孝に仕えて大将となった。
大坂の陣の五月六日河内若江合戦の時、井伊先手の川手主水が早々に討ち死にしたため、殿軍を助右衛門が指揮した。
大坂勢を切り崩しているところに、木村長門守(木村重成)が白母衣に金の竹刀の白熊の印をつけ、踏みとどまっていたのを、助右衛門自身で十文字槍を持ち、長門と槍合わせをした。
両者の間には二間ばかりの水路で隔てられていた。
助右衛門が横手で槍を長門の母衣へ突っ込むと、長門は直槍で助右衛門の立っている岸を突き、倒れまいとした。
助右衛門が槍を強く引くと長門は横に倒れ、沼に落ちた。

708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/10(金) 18:27:57.91 ID:BoWZ+Eku
助右衛門の郎党たちも沼に飛び込んで長門の首を取ったところに、安藤長三郎(安藤重勝、安藤直次の甥?)が走ってきてその首を奪った。
助右衛門は「若い御仁が殊勝なことだ。
木村長門守と名乗っていたが、長門守には恨みもないし、首になった以上は木村の名が残ることもないだろう。
大坂城も今日明日には落城するであろうし、貴殿もこれほどの首を得る機会もないだろう。その方へ与えよう」
と長三郎に長門の首を与えた。
長三郎が喜んで首を持って行こうとするのを助右衛門は呼び止め、
「この母衣絹で包んで持参されよ。
大御所様の御吟味は厳しく、母衣武者なのに母衣がなければ怪しまれるだろう」
と母衣・脇差まで与えた。
助右衛門の郎党たちは、せめて白熊のついた金の竹刀だけは残しておこうとしたため、今も助右衛門のところにあるという。
さて長門の首実検をしたところ、大御所様は大変御喜びになり、城に長三郎を召して、天下に名高い五代青江という御腰物を下されたという。
助右衛門の家来たちは悔やんだが、助右衛門は
「手前の手柄は直孝殿がよく御存知であるから、悔やまぬでよい」と言ったという。
長門の首を見た人の話によれば、四方白鍬形の兜であり、鍬形の角元は菊唐草模様だったという。
井伊家の家老、木股土佐(木俣守勝)も大剛の兵であり、その子の左京のちに清右衛門(木俣守安。右京のちに清左衛門)も大坂の陣で手柄を挙げた。
土佐の後家を庵原助右衛門が娶り、主税が誕生した。
よって木俣左京と庵原主税は同母異種の兄弟である。

二人の母親は新野親矩の娘だそうだ(姉妹という説も)。
新野親矩は飯尾連龍(お田鶴の方の夫)を攻めている時に討ち死にしたともいうから、直虎の大河に続いて出番があるかも。



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「武家閑談」から朝鮮での加藤清正の用心ぶり

2023年03月09日 18:29

700 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/08(水) 19:50:34.21 ID:5gsbhMFH
武家閑談」から朝鮮での加藤清正の用心ぶり

庵原助右衛門(庵原朝昌)が物語ることには、加藤清正はもちろん抜群な大将であるが、常々もすぐれていたという。
高麗陣のとき、釜山海より二十日ほどの地域は日本勢がかためており、七、八里ごとに城を築いて「繋ぎの城」といっていた。
戸田民部少輔(戸田勝隆)は密陽の城に、清正は全州にいた時に、日本からの指示で清正が帰国することになった。
全州から五日目に密陽には着くことになっていた。
戸田は清正の旧友なのでよろこび、城を掃除して馳走をたくさん用意した。
そして家老である真部五郎右衛門(真鍋貞成)と神谷平右衛門を道まで迎えに出した。
午の刻すぎに真鍋・神谷は密陽の城から四里ほどのところに出ると、清正の先手勢が見えた。
そのころは東西二十日、南北十日の朝鮮の地域は治っており、敵もいなかったため、戸田の家老二人も華やかな羽織袴で鎧を着ることもなかった。
しかし清正の部下たちはいずれもものものしく、箪食(弁当箱)つきの旗指物をなびかせ、鉄砲の火縄にも火をつけ、児小姓まで鎧、面頬までつけていかめしい姿であった。
妙法蓮華教の旗を押し立て、磨いた鉄砲を五百挺真っ先に立てていた。

701 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/08(水) 19:52:41.95 ID:5gsbhMFH
清正は溜め塗りの具足に金の蛇の目を書き、例の銀の長烏帽子の兜の緒を締め、頰当、はぎ当、すね当、飯箪までつけ、草鞋をしめ、
銀の九本馬蘭の馬印を自身の背に指し、月毛の馬に白泡を噛ませて来た。
戸田の家老たちが道を避けて畑の中に下馬しているのを見た清正は
「戸田民部殿の使者か、御大儀である。
おっつけ城に着陣するが、小姓たちも汚れているので、風呂を用意し、下々にまで湯をたくさん浴びせていただきたい。
このよし、民部殿へお願い申す」と声高におっしゃった。
真鍋・神谷は「かしこまりました」と馬に乗り、先に帰って戸田に申し述べた。
ほどなく清正が城に到着したため、戸田が出てみると、大馬印を指していかめしい姿であった。
縁側で戸田の小姓二人が清正の馬藺や草鞋やすね当などを解いたところ、清正が腰につけていた緋緞子袋の口が解けて、座敷の畳に落ちた。
そこには米三升、干味噌、銭三百が入っていてかなり重かった。
戸田はおどろき「十里半里に敵もいないのに、重いものを腰に下げ、しかも馬印まで指すとはいかなることですか」と尋ねると
清正は「そのことだが、とかく一大事は油断より出るものです。
たしかに敵がいなければ安心するものですが、急事が起きて油断するようでは今までの武功も水となってしまいます。
下々の士卒はただでさえ油断しがちなのに、清正の心までゆるむと、下々はよけいに帯の紐が解けて怠けるでしょう。
我が身を顧みず油断がないようにすると、下の者は上の者を学ぶと言いますので、このようにしております。
一人の心が万人に通るとも申しますし」
と言うと、戸田民部は感激して涙を流したという。



庵原朝昌の帰還

2016年10月15日 10:46

247 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/15(土) 00:26:30.80 ID:QmUi7l/K
庵原朝昌の帰還

水野勝成が奉公構えを受けて九州を放浪した後、佐々家に1000石で雇われてた頃
勝成が雇った門番が庵原朝昌である。
当初は身分を隠していたが、ある日勝成が彼の荷物から立派な具足を見つけたので
門番に問い詰めたところ、井伊家を出奔した庵原朝昌である事がわかった。
それ以来、勝成は自分の所領である1000石から200石を朝昌に与えた。
その後、佐々家お取り潰しの際に勝成は井伊直政に朝昌を再雇用出来るように手紙を送り
朝昌は無事に井伊家に帰参する事になった。


250 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/15(土) 07:42:14.63 ID:QmUi7l/K
この話の出典は「放浪武者水野勝成」からの抜粋です


248 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/15(土) 00:41:51.39 ID:qDzPZbFf
井伊話だなー

249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/15(土) 01:00:38.30 ID:9W5iOiCM
葵徳川三代で木村長門討ち取るシーンで出てきたのがきっかけで知ったな~庵原朝晶

井伊家侍大将、庵原助右衛門朝昌の武功
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