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権平の伝承

2021年09月26日 16:17

71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/25(土) 16:05:04.95 ID:LfzgQiPE
権平の伝承

『讃岐国名勝図会』には権平の法名、月山宗薫居士、天正十二年甲申七月十九日、
当初日下氏その祭を司るとある。

また『翁蝋夜話』によると「権平年忌ごとに阿州舟奉行森甚五兵衛の使人日下氏
に来りその追薦を託す。今に至るもなお然り」という。現在、引田町日下氏宅に
位牌が伝えられている。

また、積善坊の過去帳にもその名が残される。その頃、夜中に通りかかった僧が
「これは誰の墓だろう」と言えば、墓の中から「森権平」と答えた。僧は驚いて
読経、回向して通り、近郷に止宿してその趣旨を記し、銘を作って板に書き付け
墓に立て掛けて通った。

また別の僧は、夜中に甲冑を帯した馬上の武士と行き向かい「この馬が執着して
進もうとしない。なにとぞ直して欲しい」と頼まれた。僧が名を尋ねてみると、
墓に向かっていた。僧は驚いて翌日来てその記を見れば「仙石権平一八歳にして
紅鴇毛なる馬に乗」とある。僧はこの誤りだと思い「紅梅鴇毛」と改めて記した。

また何人か分からないが墓に短冊が手向けてあった。「武士の二度の懸して権平
は陣の引田に名のみのこしつ」。今の世に至るまで武士たるものは、墓の前では
下馬して拝すという。若武者の健気な討死が人々の心を悼ませたのだろう。

いま白鳥町伊座に権平の墓を祠る権平庵があり、権平が深田に脚を取られて討死
したとの伝承から、脚痛に効験があるとの信仰を集める。

なお『南海通記』などでは権平の死は天正11年5月となっており『名勝図会』
と合わない。『大内町史』には天正11年の戦いは白鳥の与治山城を陥しただけ
で、天正12年に虎丸城をめぐる再度の戦いがあったとしている。

――『引田町史』



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