71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/25(土) 16:05:04.95 ID:LfzgQiPE
権平の伝承
『讃岐国名勝図会』には権平の法名、月山宗薫居士、天正十二年甲申七月十九日、
当初日下氏その祭を司るとある。
また『翁蝋夜話』によると「権平年忌ごとに阿州舟奉行森甚五兵衛の使人日下氏
に来りその追薦を託す。今に至るもなお然り」という。現在、引田町日下氏宅に
位牌が伝えられている。
また、積善坊の過去帳にもその名が残される。その頃、夜中に通りかかった僧が
「これは誰の墓だろう」と言えば、墓の中から「森権平」と答えた。僧は驚いて
読経、回向して通り、近郷に止宿してその趣旨を記し、銘を作って板に書き付け
墓に立て掛けて通った。
また別の僧は、夜中に甲冑を帯した馬上の武士と行き向かい「この馬が執着して
進もうとしない。なにとぞ直して欲しい」と頼まれた。僧が名を尋ねてみると、
墓に向かっていた。僧は驚いて翌日来てその記を見れば「仙石権平一八歳にして
紅鴇毛なる馬に乗」とある。僧はこの誤りだと思い「紅梅鴇毛」と改めて記した。
また何人か分からないが墓に短冊が手向けてあった。「武士の二度の懸して権平
は陣の引田に名のみのこしつ」。今の世に至るまで武士たるものは、墓の前では
下馬して拝すという。若武者の健気な討死が人々の心を悼ませたのだろう。
いま白鳥町伊座に権平の墓を祠る権平庵があり、権平が深田に脚を取られて討死
したとの伝承から、脚痛に効験があるとの信仰を集める。
なお『南海通記』などでは権平の死は天正11年5月となっており『名勝図会』
と合わない。『大内町史』には天正11年の戦いは白鳥の与治山城を陥しただけ
で、天正12年に虎丸城をめぐる再度の戦いがあったとしている。
――『引田町史』
権平の伝承
『讃岐国名勝図会』には権平の法名、月山宗薫居士、天正十二年甲申七月十九日、
当初日下氏その祭を司るとある。
また『翁蝋夜話』によると「権平年忌ごとに阿州舟奉行森甚五兵衛の使人日下氏
に来りその追薦を託す。今に至るもなお然り」という。現在、引田町日下氏宅に
位牌が伝えられている。
また、積善坊の過去帳にもその名が残される。その頃、夜中に通りかかった僧が
「これは誰の墓だろう」と言えば、墓の中から「森権平」と答えた。僧は驚いて
読経、回向して通り、近郷に止宿してその趣旨を記し、銘を作って板に書き付け
墓に立て掛けて通った。
また別の僧は、夜中に甲冑を帯した馬上の武士と行き向かい「この馬が執着して
進もうとしない。なにとぞ直して欲しい」と頼まれた。僧が名を尋ねてみると、
墓に向かっていた。僧は驚いて翌日来てその記を見れば「仙石権平一八歳にして
紅鴇毛なる馬に乗」とある。僧はこの誤りだと思い「紅梅鴇毛」と改めて記した。
また何人か分からないが墓に短冊が手向けてあった。「武士の二度の懸して権平
は陣の引田に名のみのこしつ」。今の世に至るまで武士たるものは、墓の前では
下馬して拝すという。若武者の健気な討死が人々の心を悼ませたのだろう。
いま白鳥町伊座に権平の墓を祠る権平庵があり、権平が深田に脚を取られて討死
したとの伝承から、脚痛に効験があるとの信仰を集める。
なお『南海通記』などでは権平の死は天正11年5月となっており『名勝図会』
と合わない。『大内町史』には天正11年の戦いは白鳥の与治山城を陥しただけ
で、天正12年に虎丸城をめぐる再度の戦いがあったとしている。
――『引田町史』
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