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元和改元と武家諸法度について

2019年05月01日 16:21

852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/01(水) 09:18:18.75 ID:0cxHtuhD
応仁以来の乱世のよって、その習礼も未熟であったが、慶長の末、東照宮(徳川家康)の命に曰く、
「年号の字は、漢唐の吉例を鑑みてこれを用い、重ねて習礼が整った以降は、本朝の旧式を用いる
べし」と仰られたため、慶長の改元があって、元和が用いられた。

慶長は漢の章帝の年号、元和は唐の憲宗の年号である。これは今の太上皇(後水尾上皇)が御在位の時の
ことである。
(改元物語)

元和令(武家諸法度)を領下された時は、金地院の伝長老(崇伝)に草稿を奉らせた。
その書法は、貞永、建武等の式目に習った。
当時は合戦の後で、世の人々は武事をのみ習い、いまだ文字(漢字)を識れる人は多くなかったため、
世間一般の書法もまた、識字の低さに合わせたものであった。

だが、この元和令が過去の漢文で書かれた式目の書法に倣ったのは、今後は文を以て治を興すという意思を
示されたのだと聞き及んでいる。

そうであるのに、その後の代々に領下された法令は、みな仮名交じりで記されており、これはまた
本朝の文学が、日々に衰えていることの一端であろう。
(折たく柴の記)

元和改元と武家諸法度についてのお話



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元和元年成候。珍重なり。

2019年04月30日 16:09

851 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/30(火) 12:57:51.16 ID:zeoH7ZLI
(慶長二十年)五月二十八日、晴。禁中に於いて改元の日取りのことを仰せだされた。
六月中に決定するとの仰せである。

二十九日、午の刻より雨降る。昨日、改元の日時、勘文相整い、禁中へ進上した。両伝送が
参会し、六月二十日、二十八日が然るべき故を申した。

六月二十日、雨天。改元の日取りが七月十三日と決定した。十七日に勘進して、当初今月二十八日の
予定であったのを延期したためである。

七月八日、晴天。勘者宣下云々。日時は禁中よりの仰せに従い、日を移さず勘進した。近衛右府の
邸宅へ行き、この故を承りに及んだ。

十三日、晴天。改元の初夜である。戌の時(午後八時頃)、上卿として近衛右府(信尋)、十七歳。
仗議の衆として花山院大将、日野大納言、六条中納言、飛鳥井中納言、烏丸中納言、広橋中納言、
徳大寺中納言、西園寺中納言、菊亭中納言、日野宰相。

戌の刻が過ぎると開始され、上卿が着陣され雑事を延べられ、改元が定められ奏聞に及んだ。
日が出る時分に、この義は終了した。珍重である。私や諸公家は夜が明けるまで退かなかった。

元和元年成候。珍重なり。

(土御門泰重卿記)

明日は改元なので、元和改元の時の記録を。



860 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/01(水) 16:57:07.21 ID:nyQWqSCF
>>851
結構淡々としてる感じ…まあ昔はコロコロ年号変ったし今ほど重大事でもないのか

861 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/01(水) 17:33:29.69 ID:zLaAnMy+
重大事だよ

862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/01(水) 18:28:41.75 ID:idjiVlFy
見た感じ日記っぽいし淡々としてるのはそのせいでは?

寛永7年秋9月12日、御即位の事

2016年02月11日 19:07

299 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/11(木) 18:14:26.70 ID:0KPdZYkG
寛永7年秋9月12日、御即位の事(明正天皇)が有った。
これは去年の秋、後水尾天皇が俄にその御位を第一皇女に譲られると決めた事による。

昔、奈良の京において、女帝は数代居られたが、現在の平城(平安京)に移られた後は、
八百年あまりにおいて例のない事であり、この事が江戸に聞こえると、将軍家は大いに驚かれ、

「本朝は神国であり、天照大神は正しく姫神にて、天津日嗣を万世まで伝えられたといえども、
久しく稀なる御事でもあり、もし後世に、外戚の威勢によってこのような譲位をさせた、などと
言われては名誉においてしからざるものである。」

そう慮ったが、後水尾天皇の叡慮は大変硬いものであったため、強く諌めることも出来ず、
兎にも角にも叡心のままと考えられた。
武家(将軍家)が禁裏を崇拝すること他に事にする物で、源頼朝以来、並びなき事であった。

しかし後水尾天皇は御歳も盛りの中、万機の政を厭われた。
かつて堯が舜に譲り、舜が禹に譲ったというが、それらは皆歳が寄ってからの事である。
であるのに今、春秋に富んだ年齢(33歳)であるのに、姑射(上皇の住居である仙洞御所を表す)の雲を眺め、
汾水の風を弄ばれるのは、然るべからざる御計らいであると武家には思えるが、叡心の趣く所は、
武家の政正しく明らかであり、公を敬うものであるから、幼帝であってもそれを助け守るであろうから、安心
であるとして、終に退位されたため、武家としてもどうにも出来ず、止むを得ず、そのようにして今日、
ご即位が有ったのである。

(玉露叢)


徳川秀忠の孫である女帝・明正天皇の即位について、
将軍家の側の、なんとも納得出来ない心情がよく現れた記事である。



300 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/11(木) 19:48:37.66 ID:dm3KUcSq
帝にしてみりゃ「お前ら武家が一々容喙してくるんなら別にワシおらんでもええやないか」て事なんだろうが

301 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/11(木) 20:30:12.04 ID:ihmjMAbp
圧力かけたくせに帝が対抗手段とったら逆ギレする徳川の悪い話では…?

302 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/11(木) 20:38:23.61 ID:vZV3xbC7
帝のちょっといい話だから問題ない
徳川はどうでもいい

303 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/11(木) 20:56:07.05 ID:tNwOvWqd

どうでもよくない奴

雲の上まで飛ぶ蛍かな

2015年10月24日 19:38

875 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/24(土) 11:03:27.52 ID:yKHnJEhe
中院通村公(鍋島光茂の後室、栄正院の祖父)が、後水尾天皇の御代、
勅使として江戸に下向なさったとき、
江戸城の下馬先を馬を下りずに通るとおおせになった。
御番衆が、
「先例ですからお下りくださるよう願います」

と申し上げると、通村公は、

「先例を知らぬ者を例にして、馬を下りる必要があろうか。
 勅使は下乗しないものである。」

と返答された。
けれども、どうにも御番衆が納得しないので、

「それならば勅諚は差し上げられぬ」

と、登城せず、そのままお帰りになった。
これが原因で、三年間蟄居なさった。
通村公の子の通純公は若死になされた。
通純公の子が従一位内大臣の通茂公である。(1/2)

876 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/24(土) 11:22:35.98 ID:yKHnJEhe
仙洞様は御在位中、松木殿の姫君を御寵愛され、
この姫君からお生まれになった五宮様(のちの東山天皇)を、
天皇のお位につけようとお思いになられた。
一宮様は日蝕の日にお生まれになられたということで、
公卿たちが、皇位におつきになられるのはいかがなことかと評議し、
いずれの公卿たちもその評議に同意したが、
ただひとり通茂公は同意せず、

「迷信で物事を判断しては、天下に正しい道が廃れるでしょう」

と申し上げた。
一宮様の母方の叔父である小倉殿は、
日蝕の日に生まれた帝王、聖人の例を、和国中国の歴史から探して、
それを評議の場にて申し上げられた。
けれども、五宮様が皇位におつきなられることとなった。
通茂公はこれが原因で、七年間蟄居なさった。
小倉殿は遠島をおおせつけられたが、
こんな無道な世に生きながらえても仕方ないと絶食をして、
二十一日目に亡くなられた。
御子にはお許しが出て、帰参を命じられた。
そのとき遠島先の流人たちの中にはなむけの歌を贈る者があった。

見隠れし芦間の光あらはれて
雲の上まで飛ぶ蛍かな

【葉隠】

全体的には見識ある公卿の不遇な話だけど、
最後と、流人の心遣いと歌が素晴らしくいい話



880 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/25(日) 10:54:55.47 ID:qwNM48pz
趙翼の廿二史册記に前漢の皇帝が日蝕とか出る度に「朕の不徳だ」って己を罪する詔を出して
正道を心がけるって話があるの思い出したけど
陰陽的には日蝕があったのは在位中の仙洞様のせいになるんだよなぁ
このお方の経歴を見れば成程、御徳がとぼ・・・なんでもない

大阪夏の陣と禁裏

2015年03月06日 18:57

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/05(木) 19:42:17.75 ID:GCUzH/+m
慶長20年(1615)、関東と大阪の、大阪冬の陣での和睦が再び破れると、京都においては、大阪より多勢が上って来て
洛中洛外は一片も残さず焼き払う合戦に及ぶ、との沙汰で持ちきりであった。
このため京の人々は騒ぎ立ち、愛宕山、比叡山、鞍馬山の奥を訪ね、貴賤上下が財貨を隠し、
京の騒動は狼藉に及ばんとする有り様であった。

また禁裏・仙洞御所では、御庭から殿上まで、人々が財貨雑具を運び入れ、草花の園に至るまで、
人々は皆、小屋をかけてそこに籠もった。
帝は歴代、衆生を慈しみの目でご覧になり、無限の御慈悲を持たれていたので、昔よりこういう事が
起こるたびに、身分の後下を問わず、禁中に避難することを許されていたのである。
何とありがたいことであろうか。

板倉伊賀守がこの京中の騒動の有り様を関東へ注進すると、松平下総守(忠明)、本多美濃守(忠政)が
王城を守護するようにと派遣された。

(豊内記)

大阪夏の陣の勃興で混乱した京の様子である。




重宗はこの旨を伝えて、有無を言わさず

2013年02月16日 19:50

592 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/16(土) 17:22:58.71 ID:sqKWkQoJ
ある時、後水尾法皇は高楼に上り、公卿以下の邸宅がひどく傷んでいるのを見た。
そこで、所司代の板倉重宗にこれを修繕させることにした。

ある日、重宗は烏丸光広の邸宅に来て事情を説明し「しばし他に移ってください」
と、頼んだ。しかし、光広は「東廂に雨が漏れたなら西室に避け、そこも傷んだなら
すぐに北舎に移る。我はそれを少しも厭わない。このまま放っておいてくれ」と断った。

重宗はすぐにこれを法皇に奏上した。法皇は「主人に管することなかれ(主人を気に掛けるな)」
と、言った。そこで重宗はこの旨を伝えて、有無を言わさず邸宅を修繕した。

――『近古禅林叢談』




593 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/16(土) 17:33:38.92 ID:TdPGBP3V
…え?

594 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/16(土) 17:54:51.08 ID:XezMpZLU
法皇「そこの邸宅傷んでるから直した方がよくない?」

重宗「把握した。家主追い払って全部修復するわ」

光広「いや大丈夫だから。構わんといて」

重宗「は?」

法皇「家主が迷惑がってるならやめた方がいいよ」

重宗「把握した。家主追い払って全部修復するわ」


・・・こういう事?

595 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/16(土) 17:57:08.52 ID:RrkEA/2p
修繕しましょうかなんて聞いたら公家のプライド?とかが邪魔していらないって言うに決まってるんだから
勝手にやっちゃった方がいいよってことなんじゃない?

596 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/16(土) 18:08:26.52 ID:XezMpZLU
なるほど、そういう事か

598 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/16(土) 19:00:19.10 ID:sqKWkQoJ
>>592
すいません誤訳です。本当に申し訳ありません…。
○「主人に管することなかれ(主人を気に掛けるな)」
道元の言葉にかけてるんですかね…。

599 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/16(土) 19:06:17.32 ID:0Paxqfy/
>>592
強制排除ならぬ強制修繕かよ

601 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/16(土) 20:04:24.94 ID:oe4uA0wP
烏丸さんって、ボロボロの着物でもそのまま着てた人だっけ
確かに壊れようが気にしなさそうだ

602 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/16(土) 21:53:56.62 ID:Xp4iIm19
>>598
ということは>>595さんので正解か。
何にしても公家周辺のはなしは少ないので面白いな