554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/01(月) 18:21:41.22 ID:8IK/SbBS
「大分県郷土史料集成収録」の「日田郡志」から「秀頼薩摩落の事」
とある朝鮮人(李文長か)が平戸の士に言うことには
「日田三隈川の南の河原、北高瀬村の今市河原で後藤又兵衛と予は秀頼公より別れの盃を賜った。
そののち後藤又兵衛と予も散り散りになった」そうである。
そのあとの順路を考えると、秀頼公は真田・木村などの屈強の輩、十二騎を従え、北高瀬村→南高瀬村→大野村→梅野村→肥後国・穴川村→隈府と至ったのではないか。
また秀頼公一行が今市河原にくるまでに山国中摩村の真言宗明円寺で昼御膳を召されたと言う伝がある。
この路程とは外れるが、日田の五馬市には秀頼公宿泊の宿があるという。
後藤又兵衛は秀頼公と別れたのち豊前国下毛郡山国金吉村伊福に隠れ住んだと言う。
傍碑、後藤屋敷、後藤又兵衛の墓があると言う。
後藤又兵衛は伊福で隠棲すること二年、承応三年(1654年)正月二十九日の深更に村人が訪ねたところ、戸を固く閉じ、一人灯の下で古い箱から書簡とおぼしきものを取り出し、一通一通涙を流して書見し、みな火中に投じたという。
翌早朝に村人が後藤又兵衛を訪ねたところ、すでに自殺していたという。
村人は哀れに思い、近くに墓を建てたそうだ。
555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/01(月) 18:36:38.46 ID:8IK/SbBS
ついでに金吉村伊福後藤碑銘
義刃智光居士
居士。俗名又兵衛。
何処の人か知らず。往昔この邑に来たりて寓居すること二年。
其の人となりにおけるや、志気英威、武徳俊高にて眼光人を射る。
ああ諸侯大夫たる者の逆世において謫居する者かな。
承応三甲午歳正月廿九日夜、剣を旨とし自殺す。
歳をへること久しく、石碑闕落す。
これによりて里人、古を慕い新たに石碑を立つ。冥福に資助する者なり。
宝暦十三年癸未歳六月 日
願雲 金吉村伊福 茂助
「大分県郷土史料集成収録」の「日田郡志」から「秀頼薩摩落の事」
とある朝鮮人(李文長か)が平戸の士に言うことには
「日田三隈川の南の河原、北高瀬村の今市河原で後藤又兵衛と予は秀頼公より別れの盃を賜った。
そののち後藤又兵衛と予も散り散りになった」そうである。
そのあとの順路を考えると、秀頼公は真田・木村などの屈強の輩、十二騎を従え、北高瀬村→南高瀬村→大野村→梅野村→肥後国・穴川村→隈府と至ったのではないか。
また秀頼公一行が今市河原にくるまでに山国中摩村の真言宗明円寺で昼御膳を召されたと言う伝がある。
この路程とは外れるが、日田の五馬市には秀頼公宿泊の宿があるという。
後藤又兵衛は秀頼公と別れたのち豊前国下毛郡山国金吉村伊福に隠れ住んだと言う。
傍碑、後藤屋敷、後藤又兵衛の墓があると言う。
後藤又兵衛は伊福で隠棲すること二年、承応三年(1654年)正月二十九日の深更に村人が訪ねたところ、戸を固く閉じ、一人灯の下で古い箱から書簡とおぼしきものを取り出し、一通一通涙を流して書見し、みな火中に投じたという。
翌早朝に村人が後藤又兵衛を訪ねたところ、すでに自殺していたという。
村人は哀れに思い、近くに墓を建てたそうだ。
555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/01(月) 18:36:38.46 ID:8IK/SbBS
ついでに金吉村伊福後藤碑銘
義刃智光居士
居士。俗名又兵衛。
何処の人か知らず。往昔この邑に来たりて寓居すること二年。
其の人となりにおけるや、志気英威、武徳俊高にて眼光人を射る。
ああ諸侯大夫たる者の逆世において謫居する者かな。
承応三甲午歳正月廿九日夜、剣を旨とし自殺す。
歳をへること久しく、石碑闕落す。
これによりて里人、古を慕い新たに石碑を立つ。冥福に資助する者なり。
宝暦十三年癸未歳六月 日
願雲 金吉村伊福 茂助
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