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和製カエサルの末の息子、後藤家信のちょっと情けない話

2011年02月28日 00:01

20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/27(日) 00:27:52.14 ID:ZFtXCcQe
異教徒嫌いのフロイスさんから、和製カエサルとまで言われたわれらが五州太守龍造寺隆信、
龍造寺隆信には三人の息子がいて、長男を政家、二男を家種、三男を家信といった。
長男の政家は家督を継いで、龍造寺政家となり、二男の家種は江上氏を継いで江上家種を名乗った。
そして三男の家信は武雄の肥前後藤氏を継ぎ、後藤家信を名乗ることになった。

家信が継いだ後藤氏の領地武雄は、肥前の中央に位置して大村や有馬なんかのキリシタン大名の領地に
近いところにあって、
家信の先代の後藤貴明も大村氏からの養子だったり、西肥前の影響も強い土地だったと思う。
そのためか、この家信一度キリスト教に入信しようとしてキリスト教嫌いの隆信にこっ酷く叱られてたりする。

さてこの家信、ほかの兄弟と一緒に肥後に出征したりして活躍してるんだけども、
ご多分に漏れず沖田畷の戦いにも出陣して戦ってるんだな。
結果はまぁ、言わずもがなで、家信もまた命からがら逃げだして所領の武雄に戻り、
武雄城から要害住吉城に、その居城を移した。
たぶん有馬や島津の侵攻に備えたんだろうなと思う。
そこまではいいんだけど、この家信。親父が死んでから弱気になったのかまたキリスト教に入信しようとして、
今度は家臣に猛反発されて閉じ込められてしまったらしい。
和製カエサルの末の息子の、ちょっと情けない話


ちなみに、この肥前後藤氏、家信の息子の代から鍋島を名乗って、後藤家はそこで途絶えてしまってたりする。
武雄鍋島は幕末の蘭学研究とかで頑張ってるし、そこは別に悪い話でもないかななんて思ったりしますが。




21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/27(日) 18:08:46.74 ID:xSMMZ71R
なんで龍さん家は漏れなく従筋の鍋さんに何事もなかったかの様に臣従したん?

22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/27(日) 18:26:47.17 ID:3Bm3Jvq3
>>21
臣従したというより、事実上の肥前のオーナー一族である龍造寺一門が
鍋島勝茂をお雇い社長として雇い、めんどくさい事を直茂に全部押し付けたと考えたほうがいい。

直茂は龍造寺一門があまりに勝手に動くので「大名なんて辞めたい」と泣き言を言ってる
書状が残ってる。

鍋島が君主権を確立したのはなんのかんので勝茂の時代。
勝茂が地道に家中改革を行った成果。

23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/27(日) 18:37:24.53 ID:M0dz7/pX
熊さん家臣の無茶っぷりは、ちょっとスレでも結構見かけるしね~
もっと勝茂さんは評価されていいのかもね~

24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/27(日) 18:59:16.39 ID:c77Pe9IX
龍造寺自体が統治の正当性を主張できるほどの名門でもないしな
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後藤家信と加藤清正

2011年02月28日 00:00

7 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/27(日) 00:38:25.99 ID:ZFtXCcQe
ちょっと悪い話に後藤家信の話を書いちゃったのでこっちにも家信のお話を

後藤家信は、文禄の役のとき鍋島直茂に従って渡航して、加藤清正とともに戦った。
慶長の役のときもまた渡航して、兄の家種を失いながらもまた戦った。
このとき蔚山籠城中の加藤清正を救出する際に武功を立てて、
清正が手を取って、「吾死を千百に免れ首頸を全うすることを得たるは一に吾子の賜なり」と謝辞を述べ、
太刀一振り大砲三十丁を贈ったそうな。

後藤家信はその後病気を患って、早めに朝鮮から引き上げるんだけど、
加藤清正とはそれ以来交友を持って、何度か清正が武雄を訪ねて来てるらしい。
清正が没した時は、家信はその死を悼んで清正寺を建立して、
その清正寺は、今でも武雄市若木町に残っている。
そんな武将同士の交友関係の、ちょっといい話