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島津中書の死について

2022年05月07日 14:52

471 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/06(金) 22:31:17.36 ID:Oy1vWUUb
薩藩旧伝集」から島津中書(島津豊久)の死について

後醍院宗重の供のものの一人が、関ヶ原で宗重に遅れ敵中に包囲された。
そこで島津中書(豊久)が討ち死にし槍玉にあげられたのを見届け、その後しばらくして帰国した。
長命であったため宗重の孫たちの子守りをしていた時分、後醍院屋敷から頭殿の踊りを見ようと川上村に行った。
(原注:今では小山田村で踊りを行っているが昔は川上村で行っていた)
蹴合踊りの時には眼の色を変え、
「中書様がお討死にされ、槍玉に上げられ、猩猩緋の御陣羽織がさっさんに裂けた時はまさにこのようであった。
よく見ておきなさい。そして老夫がこう言ったことを覚えていてください」
と、宗重の孫を抱えて跳ねながら言ったという。
なお慶長六、七年(関ヶ原の翌年、翌々年)の頃、押川強兵衛(公近、浜田経重の娘婿で武勇の持ち主)を三虚空蔵参りの名目で中書様の行方を尋ねさせたが、
三年経っても不明だったため帰国したということだ。



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後醍院宗重の息子たち

2022年05月06日 18:13

170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/05(木) 22:36:45.19 ID:2DXCFnUB
薩藩旧伝集」には後醍院が伊勢路を選んだ理由について
「いつも箱に入れて持っていた大黒様が伊勢路を向いていたから」
という話もある

薩藩旧伝集」より後醍院宗重の息子たち
後醍院喜兵衛、入道して淡斎は文禄の役後から島津家に仕えていた。
(相良→島津→佐々→小西→島津のようだが)
惟新様(義弘)が帖佐建昌の城下、餅井田原で鷹狩を遊ばされた時、田舎馬に乗ったみすぼらしい老人に行き当たった。
老人は殿様を見るなり馬から飛び降りおそばに参ったが、
惟新様はことのほか丁寧にご挨拶あそばされた。
老人も「御機嫌を伺いに参ろうと思っておりましたが、こうしてお目にかかれるとは」と申し上げると
惟新様は「帰る時はまたこちらに寄ろうぞ」と御意を示された。
淡斎の嫡男、高橋少三郎はそのとき惟新様のお供をしていたが、お側の衆にこの老人の名を尋ねたところ、
浜田民部左衛門入道英臨(浜田経重)である、と答えられた。
その時、少三郎は興の醒めた顔でいたが、帰宅したのち父の淡斎に対して
少三郎「かくかくというわけで、みすぼらしい身なりをした老人は太閤様にまで名が轟いていた、武辺者の浜田栄臨でありました。
あれほどの武辺者でもあのような暮らしぶりでは、我々の暮らしぶりでは御当家にとって恥といえ、とうてい出世の見込みはないでしょう。
上方へ奉公に出たいと思います」と言うと
淡斎「何事もそなたの了簡次第である」
とのことだったので、少三郎は因幡鳥取に召し抱えられたと言うことだ。
なお淡斎の次男、蔵之介はというと謡(うたい)数寄で夜が白むまで謡を唄っていたため、淡斎は
「武辺者の子がかように遊芸にこるとは、なんと口惜しいことよ。
殿様(島津忠恒)は能が数寄なので、万一謡のせいでそばに召し加えられるようなことがあってはかえって迷惑だ」
と申したということだ。

171 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/05(木) 22:39:45.94 ID:2DXCFnUB
そんな蔵之介であったが、
慶長五年の関ヶ原合戦から六年目、惟新様七十歳の時、吉野で御馬追が行われることになった。
特別に二才(にせ)衆には異様の姿でまかり出ることが許されたため、鹿児島の二才衆がおもいおもいの格好で馬に乗りまかり出る中、
後醍院蔵之介だけは野袴で馬にも乗らずに出てきた。
二才衆は「あの髪と身なりをみろよ」と皆々笑った。
さて吉野で本礼落とし(競馬?)の時、蔵之介は袂から食べ物を取り出し馬に食わせ、さっと馬に飛び乗り二つ三つうちこむと真っ先に駆け出した。
その時「さてもさても淡斎の子だけはある」と皆々が申した。
惟新様も本礼落としをなさったそうだ。



後醍院宗重、関ヶ原にて

2022年05月05日 18:30

169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/04(水) 21:24:12.40 ID:/7YhvoxA
薩藩旧伝集」から
後醍院宗重、関ヶ原にて

・惟新様(島津義弘)は、関ヶ原合戦で味方が敗軍いたしたため御戦死を決意なされた。
しかしいろいろ諌め申し上げて、落ち延びることになった。
しかしどの方角に落ち延びたら良かろうとなった時、後醍院喜兵衛宗重が申し上げたことには
「おっつけ、内府公(家康)は陣場を移動されるでしょうから、その陣頭を突っ切って伊勢路へ落ち延びるべきかと思います」
その言葉にたがわず、内府公は陣場を大谷刑部殿の陣場に移動し始めたので、その陣頭を突っ切って、伊勢路へ落ち延びることができたということだ。

・惟新公が関ヶ原から落ち延びる時、城中の敵にむかって後醍院喜兵衛は
「島津兵庫頭(義弘)、ただいままかり通る!」と声高に申し上げた。
惟新様をはじめみなが「そのようなことを申すな!」と言ったところ
喜兵衛「このようにいえば、皆必死になるので強みが増すでしょう」と答えたということだ。
これについては後醍院ではなく薬丸壱岐(兼成)が言ったという説もある。
それによれば薬丸壱岐殿は伊賀上野の敵城下にて「兵庫頭ただいままかり通る!」と声高に申したため、
「壱岐は厄介者だから後からついてこい」と言われてしまい、列から追い出され、後からついていくことになったという。
上野城ならば敵も少し出てきて戦ったことだろう。

後半は似た話が前に出ていた
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4775.html
1600年、伊賀山中にて



後醍院喜兵衛の話

2022年05月03日 16:00

165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/03(火) 09:46:10.21 ID:rJTBUjzh
「薩藩旧伝集」「薩州旧伝集」より関ヶ原の島津退き口で活躍した後醍院喜兵衛(後醍院宗重)の話

・江戸で火事があった時、薩摩の衆も大勢火消しのために働いた。
みなが火事の風下にまわって作業しているのを見た後醍院喜兵衛は
「おのおの、そこは風下である。風の脇で火を消されよ」と言うと
みなは「弱気なことを言うやつめ、さあ火消し壺になれ、焼け死ね、焼け死ね!」と言いながら消した。
消火がおわり、誰も怪我したものはなかったが
喜兵衛が言うことには「あんな火事で一命を捨てさせてはならぬと思ってああ申したが、逆効果であった。
もっと言葉に気をつけるべきであった」

ある時、喜兵衛が下人に慮外があったため長刀で斬り殺した。
ある人が「下人を殺すのに長道具など使うとは大袈裟な、刀を使えばいいものを」
と言ったところ、
喜兵衛「刀を使って万一怪我をしてはなりませんから長道具を使いました。
戦場ではさすがに下人を相手に長道具や飛び道具などは用いませんよ」と言った。

ある時、家に立て籠っている者がいて、喜兵衛に捕縛が命じられた。
喜兵衛主従はみな具足を着用し押し入って捕縛した。
人々「鎧など着るとは臆病者だ」と非難したが
喜兵衛「このような立て篭もり程度で、万一し損じて怪我をしてはいけませんからな」と答えた。



後醍院宗重の「本藩人物伝」における記述

2021年09月24日 17:00

570 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/23(木) 20:36:13.75 ID:Sox3FW2z
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4775.html
上の「1600年、伊賀山中にて」の逸話で
関ヶ原での退き口の後、薩摩武士として死など厭わないところを見せた後醍院宗重の「本藩人物誌」における記述

後醍院淡路守源宗重入道淡斎
後醍醐天皇第六皇子良懐親王(ママ)八代の後胤である。
親王と妾(菊池武光の妹)との間に生まれた後醍院越後守良宗の子孫で代々肥後に居住していた。
天正の初めは相良義陽に随身し、たびたび戦功(特に佐敷量石での勝利に貢献)があった。
そのため相良氏と同姓の高橋姓をもらい受けたが再び後醍院に戻し、島津忠平(義弘)公の八代城滞在のおり島津の配下になった。
龍造寺隆信との戦の際、島原で弟が戦死。
その後、岩屋城攻めでも活躍。義珍(義弘)公が豊後を引き上げるときには殿軍となった。
太閤秀吉の西征時、長束正家から薩摩の案内をするように言われたが主従関係を縦に断ったところ、
佐々成政預かりとなり母子を人質として差し出した。
成政の悪政のため肥後で国人一揆が発生し、宗重も鎮圧にたびたび手柄を挙げたが成政が切腹したため
清正とともに肥後入りした小西行長の配下となり、文禄の役では平壌城から二里ばかり離れた牡丹台を守備した。
李如松の大軍に行長が敗れた際には森勝介とともに殿軍として戦い(森勝介は戦死)、
忠恒公が唐島に着陣した際、行長に暇を乞い忠恒公に従い、帰国後、正式に島津家に戻った。
惟新(義弘)公にたびたび加増され五百石取りとなり、庄内の陣にもお供した。
上方騒乱の際には惟新公に付き従い、美濃国須俣に着陣。
関ヶ原合戦の際には木脇刑部左衛門祐秀とともに殿をつとめ、
義弘公が戦死しようと決心した時には諫言申し上げ、首尾よく御帰国までお供した。
この功により五十石が加増され、寛永元年甲子四月六日七十四歳で卒した。
常盤村大坪久田村に葬る。

こちらだと上の逸話と逆っぽい話に。
それにしても「懐良親王」を「良懐親王」にしてるのは明史の影響とかだろうか