471 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/06(金) 22:31:17.36 ID:Oy1vWUUb
「薩藩旧伝集」から島津中書(島津豊久)の死について
後醍院宗重の供のものの一人が、関ヶ原で宗重に遅れ敵中に包囲された。
そこで島津中書(豊久)が討ち死にし槍玉にあげられたのを見届け、その後しばらくして帰国した。
長命であったため宗重の孫たちの子守りをしていた時分、後醍院屋敷から頭殿の踊りを見ようと川上村に行った。
(原注:今では小山田村で踊りを行っているが昔は川上村で行っていた)
蹴合踊りの時には眼の色を変え、
「中書様がお討死にされ、槍玉に上げられ、猩猩緋の御陣羽織がさっさんに裂けた時はまさにこのようであった。
よく見ておきなさい。そして老夫がこう言ったことを覚えていてください」
と、宗重の孫を抱えて跳ねながら言ったという。
なお慶長六、七年(関ヶ原の翌年、翌々年)の頃、押川強兵衛(公近、浜田経重の娘婿で武勇の持ち主)を三虚空蔵参りの名目で中書様の行方を尋ねさせたが、
三年経っても不明だったため帰国したということだ。
「薩藩旧伝集」から島津中書(島津豊久)の死について
後醍院宗重の供のものの一人が、関ヶ原で宗重に遅れ敵中に包囲された。
そこで島津中書(豊久)が討ち死にし槍玉にあげられたのを見届け、その後しばらくして帰国した。
長命であったため宗重の孫たちの子守りをしていた時分、後醍院屋敷から頭殿の踊りを見ようと川上村に行った。
(原注:今では小山田村で踊りを行っているが昔は川上村で行っていた)
蹴合踊りの時には眼の色を変え、
「中書様がお討死にされ、槍玉に上げられ、猩猩緋の御陣羽織がさっさんに裂けた時はまさにこのようであった。
よく見ておきなさい。そして老夫がこう言ったことを覚えていてください」
と、宗重の孫を抱えて跳ねながら言ったという。
なお慶長六、七年(関ヶ原の翌年、翌々年)の頃、押川強兵衛(公近、浜田経重の娘婿で武勇の持ち主)を三虚空蔵参りの名目で中書様の行方を尋ねさせたが、
三年経っても不明だったため帰国したということだ。
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