FC2ブログ

多武峰大織冠の破裂

2020年08月14日 17:03

257 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/14(金) 01:21:01.84 ID:5qQQ85oq
慶長十二年7月頃、多武峰大織冠(藤原鎌足)の木像の身体が腫れ、膿んで血くさかった。
七十年前にもこのような事があり、これは天下の凶事であるという。

いつもこのような事については、大和国丹波市という所より、青蓮院に注進して、そこから
朝廷に奏文あるのが作法であるという。今回もこれにより、勅使を立てるべきと成ったのだが
しかし勅使を立てて験が無ければ二度と帰京できない作法があり、使者に成ることを各々辞退した。

またこの山奥で、夜々に城を攻めるような物音があった。これは天狗の仕業と云われた。

『当代記』



258 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/14(金) 01:37:32.79 ID:zVEmdrKj
>>257
大阪冬の陣まではちょっと間が開いてるなぁ

259 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/14(金) 09:06:25.74 ID:zMp4EMZd
高谷知佳「「怪異」の政治社会学」によれば
鎌足像の破裂はもともと鎌足像のある多武峰妙楽寺が興福寺との争いが起きたときに
「大織冠像が破裂した、お怒りになられているから多武峰に有利に裁定すべき」と発信していたのが
いつのまにか多武峰とは関係なく社会不安が起きたときに「破裂したんじゃないか?」「破裂したそうだ」と噂が広まるようになった。
なお破裂と言ってもヒビが入っただけなので気温湿度の関係で普通に起こりうることだとか

260 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/14(金) 09:11:19.40 ID:zMp4EMZd
ついでにこの慶長12年の破裂(最後の破裂)をきっかけに後陽成天皇の要望で広橋兼勝が「大織冠破裂集」を編纂している
スポンサーサイト



或いは彼以前にはかつて見なかった事であった

2019年09月08日 17:13

羽柴筑前殿 Faxiba Chicugendono は日本全国の王 Vo (天皇)より最高の官位と名誉を授けられるため
都に赴いた。すなわち王の次の人である関白殿 Quambacudono となる事であった、信長の努力と勢力、
並びに王に対して尽くしたことも、彼が大いに望んだ右の称号を授けられるに足りなかった。

羽柴は更にその名を高くせんと欲し、老王(正親町天皇)が位を長子に譲るため(実際には孫の
和仁親王・後陽成天皇)、甚だ立派な宮殿を建築した(仙洞御所)。
羽柴は高貴なる大身の一女を養って子となし、実子として父の死後王室を継ぐべき王の孫に嫁しめた
(近衛前久娘・近衛前子)。

羽柴筑前守は甚だ微賤に身を起こし。富貴・名誉及び現世の光栄の頂点に達したが、多数の競争者は
彼が日本の習慣により、車が速やかに廻るように、没落に近づくことを期待している。日本の諸侯は
450年来、絶えざる変革に動かされていたのである。

羽柴筑前殿が右四ヵ国(四国)を占領するため軍を出した時、越中国 Yechu において名を虎之助 toranocuque
佐々成政のことであり、内蔵助の誤り)という他の領主が彼に背いた。彼の領地は70レグワ余り奥地にあり、
羽柴は遠方に居るため攻めて来る事はないだろうと考えた。然るに羽柴は軍隊が勝利を得て四ヵ国より
還った後、途中の労苦艱難を意とせず、自ら六万の兵を率いて彼を攻めた。敵はこれを聞いてその軍勢が
未だ到着する前に降伏し、大阪に到りて勤仕するため、所領の二国をその子に与えることを請い、
その子もまた臣従すると申し出、羽柴はこれを許した。
羽柴が軍隊を率いて北の地方へ行ったため、交盟を躊躇していた他の強力な王侯もまた降伏した。

彼はこのようにして、漸次日本全国の絶対の君とならんとしている。これは今日まで甚だ稀な、
或いは彼以前にはかつて見なかった事であった。

(1585年11月13日(天正十三年九月二十二日)付、パードレ・ルイス・フロイス書簡)

四国征伐前後の、秀吉についての記事



188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/08(日) 15:37:48.97 ID:g09xnFYg
ファクシバ チクジェン ドゥノ