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三郎殿、築山様の事

2021年07月17日 18:18

847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/17(土) 14:01:10.78 ID:g/7Ali2z
一、築山様は関口刑部殿(親永)の御息女、御娵子様は信長公の御息女(徳姫)でかねてより
  御仲も良くなかった。
  
  信康公がヨウシ(「楊枝」か)を落とさせ給いし時、御前様に御取り給われと御申しにな
  るが御返事もなくおられた。信康公は局を大いに御叱りになり、「諸事仕るに付け悪しき
  によりこの如し!」と仰せられた。

  (徳姫は)その事をふくれて、信康公の御事ナケ状を書いて信長公へ遣わした。信長公は
  驚かせ給いて、家康公の御家老へ申し来たり、御袋築山様と御一味の事が顕れて信康公は
  遠州二俣清立寺で、天山山城守が介錯して切腹なされた。

  大久保七郎右衛門(忠世)、二俣の城主平岩七之助(親吉)、この両人が検使、(その他
  に)成瀬吉蔵、服部中務などである。そのため、大久保七郎右衛門と平岩主斗両人ともこ
  の報いにて、相模守(大久保忠隣)と申して小田原にて落居、主斗は跡絶えけり。

  築山様は野中三五郎(今ハ水戸ニ有)、酒井図書(今水戸ニ有)に仰せ付けられ自殺なり。

一、小河城主の石川修理亮、子の豊前守一同に切腹を仰せ付けられ候。  

一、天正3年、参州岡崎にて大岡弥四郎(大賀弥四郎)逆心の事。

一、天正3年の秋、家康公御父子の御仲不和にならせられ、服部半蔵岡崎に仰せて岡崎を退か
  せ給う。年号相違なり。勝頼(武田勝頼)も期日を極めて足助まで来たが、この事を聞き
  付けて甲州に引く。

  三郎殿の御前は信長の御娘にて、京の本多下屋敷にて80に及び死去なり。

  ――『三河東泉記



848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/17(土) 14:20:30.15 ID:eZj1fNgG
信長がこんなことで切腹させるわけないよなぁ
部下の家庭環境にまで気を配るのに格下とはいえ同盟相手にそんな命令出すはずない
秀忠が春に産まれてその秋に腹切らせてるんだから、そもそも後継者として考えてなかった信康が血統的にも邪魔になったから家康が始末したんだろ
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黒田長政の次女、徳姫

2014年06月10日 18:50

487 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/09(月) 20:58:32.37 ID:gEJGF+gQ
黒田長政の次女、すなわち忠之の妹は名を『徳』と言い、容貌優れ、美人のほまれ高かった。
また、その心ばえもあでやかであったので、彼女のことは世間でもよく知られていた。

そこで徳川秀忠並びに御台所(お江の方)は、彼女を嫡男徳川家光の夫人とするように、土井利勝を
通して黒田長政、並びにその内室に仰せ下した。これは秀忠が黒田長政を、家光の後見と
しようとした為であった。

ところが、徳の生まれは丙午の歳であり、世俗ではこれを忌まれているため、長政もそれをおもんばかり
仰せを受け入れなかったため、この話は無き事になった。

その後、この徳姫は寛永元年(1624)に榊原式部大輔忠次に嫁ぎ、翌年正月、女児を産んだが、
産後体調を崩し、享年20歳にて亡くなった。
その息女の名は『萬』。彼女も8歳で早世された。

(黒田家譜)

黒田長政の娘、徳姫についての逸話である。




488 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/09(月) 21:11:04.32 ID:zKHeCYLk
忠興さえ居なければ、黒田家譜を信じちゃう人も居たのかも知れんなぁ