あのようでも良きことがある

2017年02月17日 21:23

655 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/17(金) 06:38:26.56 ID:9lZ0yPv4
彦左衛門(久松彦左衛門)は、大献院様(徳川家光)の時代に、奥の御門番を
仰せつけられた。寿林尼が下人を、夜中に急用があって御出しになったところ、

彦左衛門は、下人を出さなかった。下人が寿林尼のことをかう<かうハ頭カ>
に担いで言うと、彦左衛門は、「俺は寿林という奴を知らぬ」と、言った。

寿林尼はこの事を聞いて、御前で詳細を申し上げ、「あのような者が御番を
致しては、奥方に召し仕える者が急用の時に通路を通れません。近頃、
迷惑なことです」と、言った。

大献院様はこれに、「その方は久松に会ったか?」と、仰せられた。「いいえ」と
寿林尼が申し上げると、「それは仕合せだな。その方が会ったならば危うき目に
会ったことであろうよ」と、仰せになった。

寿林尼が、「左様な片意地者に、御門番を仰せ付けなさるのは、いかがなもの
でしょうか」と申し上げると、大献院様は「あれは、あのようでも良きことがある」
と、仰せになられたという。

――『武功雑記』


同じ名前のせいで、後年には大久保彦左の話になってしまったっぽい。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6626.html



659 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/18(土) 13:42:30.17 ID:WDo31VWI
>>655
三河武士なら誰が門番でも同じように通してくれない説
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この八十島は

2017年02月11日 17:06

614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/11(土) 03:22:48.92 ID:9KjJhSaN
藤堂和泉守(高虎)一代の事を書いた巻物を大献院様(徳川家光)の御前で誰に
読ませなさるべきかとのことになった時、

酒井讃州(忠勝)は「ここに道春(林羅山)がおります」との事だったが、和泉守は、

「私めの一代の大事のことを書いた物ですから、道春などは如何なものでしょうか。
始終を存じている者に、読ませたく存じます。私の家来の八十島助左衛門を召し
連れておりますが、如何でしょうか?」

とのことであった。そこで阿部豊州(忠秋)が挨拶して、八十島を御前へ召し出し、
巻物を読ませなさったのであった。

この八十島は石田治部少輔(三成)の右筆だった。太閤逝去のことを石田方から
源君(徳川家康)へ申し上げた時、そのために遣わした者である。

後に和泉守の家来となり、法体の後に道壽と願い申した。その子もまた助左衛門
と称した。

――『武功雑記』



615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/11(土) 10:10:50.18 ID:C0rHEjqo
関ヶ原であの鬼島津を激怒させた人物だな

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/11(土) 21:09:17.19 ID:Ef6mH3qv
>>614
俺が家光だったら、三成に身近に仕えた奴が来たら
僅か佐和山19万石の身分で西軍を取り仕切ってた
石田三成はどのような人物だったか直接聞きたいわ
高虎の出世自慢話なんかよりもな

619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 10:12:11.42 ID:nMor2Kps
>>618
真面目な話、当時は正軍首脳部に参画していた人間もまだ生きていたのだから、石田三成
どういう立場だったかなんて、自明の理だったと思うぞ。

620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 10:25:57.30 ID:24fLrA8I
七将に狙われて家康に匿ってもらったヘタレです

621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 11:35:04.27 ID:vMpwbjHL
それデマだってな

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 13:09:17.50 ID:PNwm5RpP
伏見の徳川屋敷に逃げ込んだ話の出典がわかれば、このスレに収録してもいいかもね

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 16:32:28.50 ID:V4JJPw4p
結果的には圧勝で終わったように思われてる関ケ原だが
秀忠遅参で内心かなり焦ってたろ糞漏らし

624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 21:02:48.98 ID:WwSHWUY/
>>623
昨今は関ヶ原の決戦に関しては、もう何がどうなっても東軍の勝ち、といった感じだな。

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 22:13:35.16 ID:PNwm5RpP
関ヶ原って、小松山に立てこもった小早川秀秋救援のための後詰決戦だったんじゃないの?

626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 22:13:57.03 ID:eMYpu3XQ
いくらなんでも楽勝って事はないという感じで改めて研究した結果
以前よりも西軍がどうしようもなかった事が判明してより可能性がなくなるというオチ
悲しいなぁ

628 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/13(月) 02:23:30.24 ID:1F6Bnp81
>>626
吉川の位置が悪い

635 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/13(月) 14:49:27.23 ID:6cpqPOvC
>>628
今では毛利の東軍への寝返りは、毛利輝元自身の指示だったという
説まで出ている。

636 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/13(月) 15:23:18.87 ID:JiWMRDCO
岐阜城陥落の時点で負けを見越して生き残る為に動いてるしな

仙石氏の家紋

2017年01月22日 17:15

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/21(土) 20:42:58.70 ID:WWUVYInV
仙石氏の家紋

 仙石氏の家紋に桜の落花を九曜の如くつけたものがある。

 仙石氏の祖先に猷廟(徳川家光)が御幼稚のときに勤めていた者がいた。
ある日、猷廟が花筏の紋の御襖障子を御戯れに引き破られなさり、
直接その紋をその祖先の者が賜ったことから、この家紋が始まったという。

(甲子夜話)

あれ、センゴクの家紋って「無」と「永楽通宝」しか知らないぞ…

参照『九曜桜紋』
design_img_f_1625652_s.png



530 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/21(土) 21:14:32.97 ID:h7vHhvVy
>>529
新訂寛政重修諸家譜によると「丸に無の字」「永楽銭」「五三桐」「九曜桜」があるそうな。

531 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/22(日) 17:28:57.25 ID:fOXl2f80
センゴク権兵衛よりあとだし問題ない

快事

2017年01月12日 08:36

503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/11(水) 20:13:20.91 ID:Y4zAy542
転載元
http://home.att.ne.jp/red/sronin/_koten2/1331kaiji.htm

某サイトからの転載だけどまとめになかったので

※元サイトにて御覧ください


504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/11(水) 21:50:43.36 ID:VqYVO9g7
>>503
誉めるだけで、蟄居の解除は無し?

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/12(木) 08:13:27.32 ID:eKKUJi9N
将軍との情事のときに便意とはな
切腹ものだろ

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/12(木) 12:37:56.52 ID:wsEOh0yg
尾籠なの?

この清水の作の脇差を帯び、

2016年12月08日 17:18

394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/08(木) 00:12:35.81 ID:J91C5wri
>>390の続き

 寛永中、細川三斎入道忠興は、帰国の際に別辞を述べるため猷廟(家光)と対面し
そこで御馬を贈られた。
それから西の丸に登り、台廟(徳川秀忠)の御前に召された。
旅中に服用するようにと御薬を与えられ、直接清水藤四郎の御脇差を下された。
その時の仰せで

「我が前にお前たちと共に太閤の前にいて談話していたときから、お前はこの脇差を見て、
『ああ、この清水の作の脇差を帯び、利休の尻膨れ茶入がある茶事を催せたら、
生涯の至楽に足れるのに』
と申していたな。
その言葉は今も耳底に残っていたのでお前にこの脇差を授けたのだ。」

とあり、忠興は感謝して退いたという。
〔この頃には尻膨れの茶入が既に細川家の物となっていたという〕。


(甲子夜話)



400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/11(日) 10:36:20.98 ID:Db/1OrV5
>>394
これ忠興は利休に散々「茶室に脇差差して入るな」って注意されてたのに
その教えをガン無視して、利休の茶入れで脇差差して茶会やるっていう悪い話でもある

秀元は常人ではない。

2016年12月07日 17:28

390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/07(水) 03:49:39.97 ID:wYJHt4dP
 ある日林述斎と昔の話をしていた中で、台廟(徳川秀忠)の英知をかきたてる御気質を見ることができる話を聞いた。

 台廟が大御所になられた後、毛利右馬頭元就の第五男の毛利宰相秀元は、
故中納言輝元の養子となって家を継いだ。
 昔豊臣太閤が朝鮮を伐したとき、わずか十四歳で大将を承り、
異域に押し渡り武勇を振るったと、かねてから台廟は聞かれていたので、

「秀元は常人ではない。文武の名誉、世にも人にも認められている。
門地といい官品といい、家光の益友にこの右に出る者はいないだろう。」

と常に仰られていた。
日々のように猷廟(家光)の御前に召され、今昔の物語などを聞かれるのを、飽きない御楽しみとなされていたので、
人は皆秀元を御咄衆と呼び、名を言う者はなかったという。

(甲子夜話)

何かいろいろと誤伝が混じっているようですが、秀元と家光の仲がちょっといい話

続き
この清水の作の脇差を帯び、




東海沢庵の事蹟

2016年09月19日 18:46

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/19(月) 16:11:52.63 ID:1AA2sznt
東海沢庵の事蹟

この頃ある僧の話で聞いた。
猷廟(家光)がかわいがって待遇した東海寺の沢庵和尚は、
もとは遠流に処せられていたが、柳生但州(宗矩)の上言で召還されて帰参した。
このときの狂歌で、

上意ゆえ還りたくあん(沢庵)思えども おえど(江戸・穢土)と聞けばむさしきたなし


また沢庵が御茶の御相手に出たとき、御釜の沸湯が蓋の辺りから滴るのを将軍様が御覧になられて

てき(敵・滴)がおつるおつる

との上意があると、応じて

ひつくんで(引く組む・汲む)とれとれ(捕れ)

と言った。その敏捷さはこのようであったと。

林子(述斎)曰く、これは島原陣のときのことであろうかと。
なるほどそうでもあるだろう。

『延宝伝燈録』には

「慶長十四年の春に大徳寺の住持に出世したが、三日だけ山にいて、
退鼓(禅寺で住持が退く時の説法を知らせる鼓)を打って泉南に帰った。
豊臣秀頼公及び一時の侯伯は、招請を重ねてしたが、師は全てに赴かなかった。
寛永六年秋、大徳出世之事により羽州へ貶められた。
謫居(遠方へ流されること)すること四年、欽命(君主の命令)により赦されて還った。
大将軍家光源公東海寺を創って、師に命じて開山祖とした。」

(甲子夜話続編)



古観世大夫の堪能

2016年08月29日 17:08

128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/28(日) 17:32:04.64 ID:1ZZownvI
観世大夫の堪能

ある宴の中である人が話した。

猷廟(家光)の御時の事である。
観世大夫は猿楽に堪能であった。
そこで、猷廟は柳生但馬守(宗矩)に仰せられた。

「観世の所作を見よ。もし彼が心に隙間があり、”斬るならここだ”と思ったら申せ」

但州はかしこまって所作を見届けた。上意で

「いかがであったか」

と問われると、但州が答えた。

「始めから心をこめていましたが少しも斬るべき瞬間はありませんでした。
しかし舞の中で、大臣が柱の方で方向を変えましたとき少し隙間がありました。
あの所でなら斬り遂げることができましょう。」


 観世が楽屋に入って

「今日見物の中に一人、我が所作をじっと見ていた男がいた。何者か」

と言う。傍らから、

「あれこそ名高い柳生殿よ、剣術の達人である。」

と言うのを聞いて観世は

「だから我が所作を目を離さずじっと観ておられたのか。
舞の中で方向を変えた所で少し気を抜いていると、にっこりと笑われので、
理解できないことだと思っていたが、やはり剣術の達人であられたか。」

と言った。

後に猷廟がこれを聞かれて、御感悦されたという。

(甲子夜話)

そういえば、宗矩は能が好きだという話でしたね



129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/28(日) 17:33:46.64 ID:d+dwh2jF
>>128
こういう逸話好きだ

130 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/28(日) 18:13:49.13 ID:5iFImsmR
似たような話が江戸時代にもあるな
渋川流柔術二代目の渋川胤親が初代市川團十郎の歌舞伎を見て
「團十郎の立ち回りの動きは素晴らしい、あの動きなら私でも組み伏せることはできないだろう」
と言ったため、市川團十郎の評判がますます高まった。
しかし元禄17年2月19日、市川團十郎は舞台の上で役者の生島半六により刺殺。
「市川團十郎の動きには隙がないのではなかったのか?」
と尋ねられた渋川胤親は
「役者が隙のない動きを見せると言ってもそれは立ち回りの際の一瞬のことにすぎない
われわれ武道家はそれを絶えず行わなければならないからわれわれの価値があるのだ」
と言ったとかなんとか




140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/01(木) 14:56:02.26 ID:CL0LzVRD
>>128
柳生一族の能好きは宗矩に限ったことではない
柳生一門で武術修業した兄弟弟子に能のプロ金春流宗家金春七郎氏勝がいる
おそらくはこの七郎が、柳生一門の宗矩と同世代の中では、エースだった
柳生兵庫助は、自分の門下で目を惹く才能を感じた逸材に対して「七郎の再来」と期待を寄せたほど

宗矩にとってはかつて身近に能のプロがいて(過去形なのは、七郎は早逝したため)、
なおかつそれが武術の達人であったため、
能の武術的な動きに対する評価は非常に辛いものだと考えられる
そんな宗矩から合格点を出されたと解釈できる

隠逸の気性の事

2016年07月19日 18:48

898 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/19(火) 00:52:27.28 ID:7WZz4ZTv
隠逸の気性の事

坂和田喜六(佐川田昌俊)は、大猷院様(家光)御代までには世にその名が広まっていた。
その頃諸家で文武両道の達人を吟味して、こちらには一人、あちらには二人等と調べることがあった。
そのころ公けでもその御評議があり、

「文武の達人といえば坂和田喜六であろう。」

との上意があり、永井家を召されて

「そちの家来の坂和田は文武の英才である。
眼をかけて遣う様に」

との御意があったので、永井も大いに面目を施して、立ち帰ってさっそく喜六を呼び出した。

「今日、かくかくの上意があった。誠にその方のおかげで家に光輝をなせた。」

と殊のほか喜ばれたので、喜六はこれを聞いて

「未熟な私めにそのように御褒めがあったことはありがたいことです。」

と厚く喜んだ気色であったが、その翌日にどこに行ったのか妻子にも言わず、
家宝を捨て置いて、遁世したという。

どのような所存があったのか、一時の英名があれば、偏執の誹りも出てきて、
かえって英名を落とすことになるとの心であろうか。

(耳袋)




899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/19(火) 12:40:58.35 ID:z7VvuQ5M
>>898
草だったのかな?

900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/19(火) 13:27:09.16 ID:8lILfdzV
そのうち大猷院に召し出されるかもしれないのが嫌だったんでしょ

下風道二斎が事

2016年07月16日 17:49

933 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/16(土) 00:17:26.30 ID:IEecqnnA
下風道二斎が事

 道二斎は宝蔵院の末弟子である。槍術の修練を大猷院様(徳川家光)も御聴きになられ、
御前に召されることになった。
 そのころ素槍の達人の浪人一同に試合を仰せ付けられた。
御前でのことなので、高股立ちや掛け声等は止めるよう御側向きから沙汰があった。
その時は、双方は「かしこまりました。」と承って立ち合ったが、
勝負に臨んでは素槍の浪人は制止に従ったが、
道二斎は高股立ちで、掛け声も十分に叫んでいた。
近習から時々制止がありましたが聞き入れず、
結局、試合は難なく道二斎の勝ちとなった。

 後で先の制止を受け入れなかった訳を御尋ねられると、道二斎は慎んで

「御尋ねられたことはごもっともであります。
随分と慎むよう考えましたが、勝負に臨んではやはり稽古の心で十分に芸を尽くしていると、
御前をも恐れないようになって、制止の声も聞き入れなくなってしまいました。
不届きをいかように仰せ付けられましても是非には及びません。」

とのお答えをされたので、大猷院様ももっともだと思われ、殊の外お褒めになられた。
「下風は名人である」との上意があって御褒美を下されたという。
(耳袋)



梁の武帝が達磨に対面された通りに

2016年06月30日 16:06

897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/30(木) 09:14:07.33 ID:xdkSpOUE
 上様が沢庵和尚をお召されたころである。
如何様に応対するのがふさわしいかと、柳生殿が内々に尋ねられた。
沢庵和尚は

「梁の武帝が達磨に対面された通りにしてください」

と申した。
 その時の応対とはどういうものかと柳生殿は次々と尋ねられると、
甚だ仰山に重々しい事であることがわかった。

「それでは余り御崇敬が過ぎますので、いますこし軽くするべきではないか」

と柳生殿は申されると、和尚は

「あなたはそのようにお思いなられるだろうが、当将軍家を武帝ほどには私は思っていない。」

と申されたという。

 しかしながら、沢庵和尚は元来生臭坊主ではありませんでしたので、
江戸逗留の間は柳生殿の長屋に居られ、登城の際には下男を一人連れるだけだというので、
後に上様はそれは余りに粗末な事だと、別に旅宿を仰せ付けられ、
ついには和尚のために東海寺を御建立された。
末代には稀な智識である。

(本阿弥行状記)



伊達政宗の逝去

2016年06月29日 10:32

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/28(火) 20:16:07.58 ID:B8g3gQ5R
寛永13年5月24日、仙台中納言藤原(伊達)政宗が逝去した。

政宗逝去の前日に、将軍家光が彼の邸宅を訪れ、政宗の病を見舞った。
この時、政宗は病み衰えた状態であったが、手水をとって月代を剃り、髪を結い、
衣装を改め、裃を着し、席を去って家光に平伏し

「御懇の上意、有り難き仕合。今生の思い出、何事かこれにしかん。
政宗は、誠に冥加にかなう武将です。日本国において誰が肩を並べん!」

そう、茫然と叫んだ。

暫くあって家光還御の時、政宗は心しずかに台顔を拝した。
家光もまた、名残を強く惜しんだという。

(玉露叢)



益田修理の色紙

2016年06月24日 16:48

882 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/24(金) 12:41:13.00 ID:SrqavXuK
寛永13年、将軍徳川家光は江戸城外郭の総石垣、見附桝形、並びに総堀普請を諸大名に命じた。
麹町の見附は松平長門守(毛利)秀就の町場であり、ある時、家光は普請の状況を見るため
この秀就の町場を訪れた。

秀就に任命された普請総奉行の益田修理(就固)は、竹杖を横に伏せて平伏しこれを迎えた。
この益田に家光は尋ねた

「益田は所持している小倉山荘の色紙を、今回は持参してきたのか?」

益田謹んで、持参していることを伝えた。

「ならばその掛け物を見るため、茶を行いたい。」

主人の秀就は御礼申し上げ、その町場に仮の御茶屋を造った。
益田修理が所持している小倉山荘の色紙は、能因法師の歌で

『さびしさに 宿を立出で眺むれば いずこもおなじ秋の夕ぐれ』

これが書かれたものであった。
益田修理は公儀御普請の総奉行を命ぜられ参府の所に、思いの外である色紙を持参して、
これを将軍家のお尋ねに預かり、思いの外の冥加に叶う事となった。
ここより、武士たる者は心を配り相嗜むべきと言われるが、この益田が色紙を持参していたのは、
万端の心得が有った事だと、人々は沙汰し合ったのである。

(玉露叢)



沢庵番

2016年06月12日 17:26

828 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/12(日) 01:12:52.81 ID:Bc2GXjZ1
 品川の東海寺には、沢庵番というものがある。
これはかの寺領の農夫が夜毎に寺の門々を守り居ることである。
そのわけを聞くと、沢庵和尚は高徳で猷廟(家光)は殊に帰依なさっていた。
大城へも召し、また寺へも御立ち寄らせなさること度々あった。
しかし、和尚はとにかく永住を欲せず、時として寺を立ち去ろうとする。
公はこれを憂いなさり、人に守らせて出て行くことを止めなさった。
沢庵和尚が遷化の後も例となり、永くその旧例によっている。

 今親しく農夫に
「どうして夜々に寺門を守るのか?」
と問うと、
「私どもが守らなかったら沢庵が逃げ去られるからです。」
と答える。
農民の愚直にして古色を保っているのは、誠に愛すべきことだ。

(甲子夜話)



830 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/12(日) 09:50:09.92 ID:N/XJnpxD
>>828
家光「おじいちゃん、家はここですよ。」

東北鎮護の為であり

2016年06月12日 17:24

829 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/06/12(日) 03:08:16.25 ID:CjzaKTNh
保科正之は寛永14(1637)年1月、江戸城二の丸留守居役として勤務していた。
同年10月、九州にて「島原の乱」が起こると、正之が将軍の名代として九州に派遣されるという風評が立ち、
正之は下命に備えて家臣達に派遣の準備を命じた。だが下った命令は

「二の丸留守居役を免じ、直ちに山形に帰国せよ。」というものだった。

期待していた大役とは違い、家臣らは失望したが、当の正之は至って機嫌が良く、かつて家康が秀忠に教えたという

「東国に変事ある時は西国を固め、西国に変事ある時は東国を固めよ。」という言葉を紹介した。

そして

「この帰国命令は東北鎮護の為であり、藩屏として信任されている証である。」

と家臣に語ったという。



831 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/12(日) 11:09:15.52 ID:5v0A27iF
>>829
奥羽とは言うが東北なんて言葉あったんかね?

御上洛の事は

2016年04月04日 17:42

553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/04(月) 01:47:04.76 ID:6Dxu4mW6
 御上洛の事は権現様と今の上様(家光)は度々なされておりめでたい事だと思われます。
禁裏様を敬いなさるご冥加とありがたく考えられます。
 御代が代わりますとともにこの御掟が変わらないようあってほしく思われます。
(本阿弥行状記)

なお



557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/05(火) 20:41:57.30 ID:bNfoPvEx
>>553
家光って3回しか上洛してない。
つまり、何が言いたいかと言うと…
「秀忠に謝れ」

寛永7年秋9月12日、御即位の事

2016年02月11日 19:07

299 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/11(木) 18:14:26.70 ID:0KPdZYkG
寛永7年秋9月12日、御即位の事(明正天皇)が有った。
これは去年の秋、後水尾天皇が俄にその御位を第一皇女に譲られると決めた事による。

昔、奈良の京において、女帝は数代居られたが、現在の平城(平安京)に移られた後は、
八百年あまりにおいて例のない事であり、この事が江戸に聞こえると、将軍家は大いに驚かれ、

「本朝は神国であり、天照大神は正しく姫神にて、天津日嗣を万世まで伝えられたといえども、
久しく稀なる御事でもあり、もし後世に、外戚の威勢によってこのような譲位をさせた、などと
言われては名誉においてしからざるものである。」

そう慮ったが、後水尾天皇の叡慮は大変硬いものであったため、強く諌めることも出来ず、
兎にも角にも叡心のままと考えられた。
武家(将軍家)が禁裏を崇拝すること他に事にする物で、源頼朝以来、並びなき事であった。

しかし後水尾天皇は御歳も盛りの中、万機の政を厭われた。
かつて堯が舜に譲り、舜が禹に譲ったというが、それらは皆歳が寄ってからの事である。
であるのに今、春秋に富んだ年齢(33歳)であるのに、姑射(上皇の住居である仙洞御所を表す)の雲を眺め、
汾水の風を弄ばれるのは、然るべからざる御計らいであると武家には思えるが、叡心の趣く所は、
武家の政正しく明らかであり、公を敬うものであるから、幼帝であってもそれを助け守るであろうから、安心
であるとして、終に退位されたため、武家としてもどうにも出来ず、止むを得ず、そのようにして今日、
ご即位が有ったのである。

(玉露叢)


徳川秀忠の孫である女帝・明正天皇の即位について、
将軍家の側の、なんとも納得出来ない心情がよく現れた記事である。



300 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/11(木) 19:48:37.66 ID:dm3KUcSq
帝にしてみりゃ「お前ら武家が一々容喙してくるんなら別にワシおらんでもええやないか」て事なんだろうが

301 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/11(木) 20:30:12.04 ID:ihmjMAbp
圧力かけたくせに帝が対抗手段とったら逆ギレする徳川の悪い話では…?

302 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/11(木) 20:38:23.61 ID:vZV3xbC7
帝のちょっといい話だから問題ない
徳川はどうでもいい

303 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/11(木) 20:56:07.05 ID:tNwOvWqd

どうでもよくない奴

講談、寛永御前試合では

2016年01月16日 17:58

974 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/16(土) 17:00:42.28 ID:8PHIYbdq
講談、寛永御前試合では寛永9年(1632年)9月22日に家光の前で
大久保彦左衛門、柳生宗矩、小野忠常を審判として
関口柔心大久保彦左衛門荒木又右衛門宮本伊織
伊達政宗(65歳、秋元但馬守に勝利)たちが試合を行ってるな(信ぴょう性はおいといて)

異説では
穴澤盛秀(大坂の陣で死亡)、柳生宗冬、由井正雪、関口弥太郎(まだ生まれてない)が試合を、
と魔界転生より前に著名な剣士たちが試合を行う話が

なんとなく、幕末に土佐藩御前試合(撃剣会)で坂本龍馬が桂小五郎たちを倒して優勝したとかいうネタ話を連想する



975 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/16(土) 17:16:03.25 ID:xmb79h4y
江戸末期になっても伊達政宗がこんなもんにほいほい出てきちゃう●●だと認識されていたことにry

信玄の旗幟

2015年12月23日 08:20

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/22(火) 22:09:36.43 ID:Qsqv1Uho
駿河大納言徳川忠長が改易された後、この家より武田信玄の旗幟が出てきた。
将軍家光はこれを怪しみ、糾明を命じた所、甲斐国に長遠寺という親鸞宗の僧があり、
この僧は信玄の時代、大阪、長嶋と信玄との間の使いをして、信長を滅ぼす謀を巡らせた。
信玄は彼を悦び、娘を与え婿とした。そして男子が生まれ、これに二位と名付けた。

彼は信玄の外孫であるとして、武田家に仕えていた人々からの崇敬は大変なものであった。
この長遠寺の元にかの旗幟があったのを、忠長に参らせたであった。
これは大変疑わしいことであると、長遠寺父子は佐渡へと流された。
この時は幕府の武田旧臣の人々も大いに恐れたそうである。

この寺院は破却する予定であったのを、東秦院の門跡が請うたため許し、今は改めて
光澤寺と名付け、かの門跡より兼帯輪番の寺となった。

(藩翰譜)



謀叛の廻文

2015年12月22日 07:55

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/22(火) 06:51:58.19 ID:Qsqv1Uho
大御所徳川秀忠が死去した後、諸大名の元にどこからともなく、
『将軍家光を殺し駿河殿(徳川忠長)を新将軍として立て参らせん』との内容の書状が廻ってきた。

この時、伊達政宗が最初に家光の元に参り、このような物が来たと申し上げた。
藤堂高虎がそれに続き、その他の大名も皆この事を告げたが、加藤肥後守忠広父子からは
報告がなかった。また徳川忠長も、この事を知りながら早く報告しようとしなかったため、
彼らは罪を被ることとなった。

実は、この謀は土井利勝より出たものだという。利勝はこう考えた
『今の世の中、普通の大名が謀反を企てても、誰もそれに組しようとはしないだろうが、
御一門の人々が決断すれば、あるいは組するもののあるだろう。』

そこで秀忠が逝去してから、罪を被った風を装い引き籠もって、密かにこの廻文を巡らせたのだ。
加藤父子の罪が定まってから、利勝はいつの間にか再び出仕するようになった。

古き人は、私にこのように語った
「利勝は深い謀のある人で、永き当家の忠臣であった。」
誠にその通りである。

(藩翰譜)