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おうた子に教えられ、川を渡る

2022年09月05日 17:40

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/05(月) 14:50:01.20 ID:SG6/So3y
徳川家光公の御治世に、「万事御政道は、東照宮の通りに成されるべき」と仰せになられたところ、
伊達陸奥守政宗は
「家康公より、百万石を給わらんとの御書付が有りますが、政宗としても現在は御代も代わった事でもあり、
それは反故であると存じていましたが、今度の仰せについて、この御証文の写しを御覧に入れたく思います。」

との御書付を献じられた。

この事は上聞に達し、土井大炊頭利勝を召されて
「陸奥守に百万石を下すというのは、有るまじき事では無いが、これはその当時の御謀であり、このような事を
取り上げていては、他家よりもまた、この類のことを願ってくるだろう、いかがすべきだろうか。」
と御尋ねになった。

利勝はこれに「井伊掃部頭(直孝)に御相談されるべきでしょう。」と言上したため、すぐに掃部頭を召し出され、
これこれの旨を仰せ聞かされたところ、直孝は承って、伊達家に参り、政宗と対面して申した

「只今、風説を承るに、今度仰せ出されたことについて、御先祖(家康)より下された御証文の写しを
差し出されるとの事ですが、これは実説でしょうか?不審に思い、罷り越しました。」と申した。

陸奥守答えて「いかにもその通りである。御代も代わった故に、この御書付も反故と存じていたのだが、
今度の仰せ出されにより、御覧に入れるのだ。」

直孝は尋ねた「その御証文は御自筆でしょうか?」
「全く、御先祖の御筆である。」
「もし出来るのであれば、それを少しばかり拝見仕りたく思います。」

そのように申したため、政宗は家臣を呼び出し、御証文の入った筥を取り寄せ、井伊の前に置くと、
直孝は御証文を出して押し頂き、とくと拝見して政宗に対し

「かような事は御謀であり、貴殿もその事は御存知であるはずです。誠に反故にて候。」

そう言いながらこれを二つ三つに引き裂いた。政宗はこれを見て興醒めして

「なるほど、左様である。これはおうた子に教えられ、川を渡る(負うた子に教えられて浅瀬を渡る)と
申すものであるな。」

と笑われ、種々の饗応あって後に、直孝は伊達家を出てそれより直ぐに登城して、この趣を報告すると、
家光公はご機嫌斜めならず、利勝も大いに感心したという。

(新東鑑)



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周防守は、身を踏み込んで勤る者である

2022年08月31日 18:56

343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/30(火) 07:51:04.79 ID:rNXzoC2O
板倉周防守(重宗)が江戸に下向された時、松平伊豆守信綱がこのように言った

「上様(徳川家光)にも、段々と政務に御心を尽くされています。上方のことも仔細に
聞いてみたく思っておられるようで、今後は仲間に遣わされる書状にも、今少し
御念を入れられ、上方の事を上聞されるようになさるべしでしょう。」
(重宗は何れも上の御機嫌を伺い、さらに堂上方に別儀なき儀ばかりを書いたという)

これを聞いて周防守は
「上方から百二十里隔てている以上、上様がどれほど御発明であっても、その情報は及び腰になり、
御存これ無き儀となります。そのために拙者が差し置かれているのです。ですので、
申し上げるには及ばざる事と存じ奉ります。」
と言った

この事を家光公は聞き召され、「周防守は、身を踏み込んで勤る者である。」と。
御感悦斜めならずであったという。

新東鑑



明の日本への援兵要請の時の話

2022年07月16日 15:58

293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/16(土) 11:08:02.39 ID:T4jJtv0Z
朝野雑載」から明の日本への援兵要請の時の話

家光公の御時、韃靼(清)が中華を滅ぼしたため(1644年、実際には明を滅ぼしたのは李自成)、大明の大将(鄭成功)から日本へ援兵を乞うてきた。
十万の軍勢を出そうと計画したところに井伊掃部頭(井伊直孝)が述べていうことには
「昔、太閤が朝鮮を攻め、大明の援兵と戦った時にすこぶる勝利したのは、日本の兵は久しく乱世であったため戦になれており、
一方、大明の方は久しく太平であったため戦になれていなかったためです。
今、日本の兵は久しく太平で戦を知らず、韃靼の兵は大明を討って戦になれております。
若兵を遣わしたところで勝利は得られないでしょう。
日本の兵がもし敗れたなら、かえって末世まで異国にまで侮りを受けることとなりましょう。」
と申したため、援兵派遣は沙汰止みになった。
一説には上の発言は大久保彦左衛門のものだという(大久保忠教は1639年死亡)



294 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/16(土) 11:15:13.67 ID:WAJ05+SS
鄭成功じゃなくて父親の鄭芝龍か、この時は

295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/16(土) 14:02:53.97 ID:V+56qfjT
>>293
井伊さんおっしゃる通り
そして自称ご意見番のバーバリアンにはこんな見識ないと思う

296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/16(土) 14:42:21.63 ID:hQTuVJNr
ついでに「朝野雑載」の別の箇所に書かれている話では
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1677.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-12676.html
では柳生宗矩や安井算哲のセリフとされている板倉重昌戦死の予言も大久保彦左衛門がしたことになってます
板倉重昌が戦死したのは大久保彦左衛門の死の前年だからこちらはまだ可能性がありますが

ただそのままに差し置かれるべき

2021年11月11日 17:14

175 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/11(木) 14:28:38.25 ID:4d0f0d9e
ある雑記に曰く、大猷公(徳川家光)の御代、老臣の面々に仰せに成られた

「豊国社が現在廃れているが、これは道理に当たらない事だ。秀吉に於いては敵と称する類に非ず、
そもそも当家(徳川家)興立の事も、彼の恩義に寄ってのものである。であるのにかの霊社を捨てるのは
いかがだろうか。頃く修理を加え、祭祀の礼を以てすべし。」

この時、酒井雅楽頭忠世が云った

「上意の趣、謹んで承りました。但しつらつら考えてみた所、神霊は人の敬に集まり、神威はこれより
生じます。これを廃する時は威が無く、威が無い時は祟りを成しません。
今、たとえ上意の如くしてこれを祭ったとしても、正しく社稷の嗣である秀頼公は御敵として亡命しており、
である以上どうして神霊が祭を受けられるでしょうか。
恣に今これを取り繕えば、これ則ち御武威の虚となって、邪気がこれに乗じて禍害を成すでしょう。
ただそのままに差し置かれるべきです。」

この意見を公も信じられ、その後これについての御沙汰は無かったという。

新東鑑

豊国社についての徳川家光酒井忠世のやりとり



さすが才知有る御老中

2021年04月15日 18:36

117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/15(木) 15:04:01.21 ID:0RxHiCDI
天草一揆の時、松平伊豆守(信綱)を上使として遣わされた。寛永十五年二月二十七日、
一揆勢が籠城した原城は落城した。
これにより江戸に早飛脚を下されたのだが、その文箱の中の書状の上書のすみに、石筆にて
『落城申し候』と伊豆守が書き、これを差し上げた。

江戸の将軍家光は文箱を開くとこれを御覧になり、そのまま御機嫌残る所無かったという。
さすが才知有る御老中であり、頼朝の時代の梶原平三景時であってもこれ程は有るまじき、と言われた。

信綱記



118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/15(木) 16:13:56.75 ID:7irQv36e
梶原景時にたとえる、て褒めてるんだよな

そう、容赦もなく言うと

2021年03月05日 17:03

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/05(金) 15:44:26.80 ID:7aTXAXEA
江戸城西丸御殿の普請奉行は佐久間将監(実勝)であった。
普請が大方出来た頃、大猷院様(徳川家光)が御覧のために出御あり、将監も御供の中にあった。
そこにどういうわけか、大久保彦左衛門(忠教)が居合い、大猷院様より「普請を見よ」と
仰せ下された。これに彦左衛門「誠に結構なる御普請の次第に候。」と申した後に、将監の方を見て

「蟹は自分の甲羅に似せて穴を掘るという。ここは、その方の家の如くに御殿の普請も申し付けたのか?
勿論、この城にとって必要のない事ではあるのだろうが、合戦のための作法は、少しは有るべきである。

この鴨居などは兜の立物、又は鑓などを張り上げ申すこと成りかねる。また雪隠なども見たが、身一つ
ですら入りかねる。忙しき時は具足を着ながら脇差指し、肱をいからせても入るものである。
それぞれ、確かに有る習いなるぞ。」

そう、容赦もなく言うと、上様はどう思し召されたのか、何の御返事も無くそろそろと奥へ
行ってしまわれたという。

この話を誰が聞き伝えたのだろうか。世の中では、人が語ることを聞き伝えている。

備前老人物語



丹羽山城、池田勝入討死の様子を語る

2020年12月16日 17:32

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/16(水) 00:15:38.93 ID:12ezX11T
丹羽山城、池田勝入討死の様子を語る

池田家家老の丹羽山城は、四男の兵部を幼少から幕府に証人(人質)として詰めさせていた。
ところが寛永元年(1624年)兵部が18才になったので、76才の山城は江戸に下って
酒井雅楽頭(忠勝)にそのことについて色々嘆いたのでそれが将軍・家光の上聞に達した。

山城には登城とお目見えが仰せつけられて、御前で雅楽頭から
「勝入様(池田恒興)の御討死の様子をくわしく言上するように」
と言い渡されたので、山城は
「慎んで申し上げますが、即座に委細の義を申し上げるのは難しいので考えて言上します」
としばらく考えてから、物覚えの通り有り体に言上した。

そうしたところ、前々から聞いていたことと少しの相違もないので(家光が)神妙にお思いになり
山城は上意で御紋付きの御羽織を拝領した上、証人も御免になったので
兵部を鳥取へ連れ帰ることが出来たという。

――『吉備温故秘録



出羽国上山と『たくあん漬け』由来

2020年03月12日 18:16

745 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/03/11(水) 23:31:19.10 ID:If6NfL2p
上山城でゲットした子供用ワークシートから

沢庵宗彭は紫衣事件により京都を追放され、出羽国上山で暮らすことになった。
上山は沢庵にとって見ず知らずの土地だったが、上山の人々の助けもありそれほど不自由はなく生活できた。
それから3年後、沢庵は罪を許され、江戸で暮らすことになった。
ある時、徳川家光は沢庵が大根で漬物を作っていることを知った。

家光「その漬物の名前は?」
某「名前はないそうです」
家光「沢庵が作った漬物だから『たくあん漬け』でいいじゃん」

こうして大根の漬物をたくあん漬けと呼ぶようになったとか(異説あり)。
沢庵は上山の人々にたくあん漬けの作り方を教えていたそうで、沢庵が住んでいた上山の春雨庵では毎年「たくあん漬込式」が開催されている。



清正公は石垣普請の御上手で

2019年09月12日 16:07

192 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/11(水) 18:57:04.18 ID:l3Y3NM6l
一、清正公は石垣普請の御上手で、熊本城の石垣は他に無いものという。これにより御本丸富士
  見御櫓台の石垣は大猷院様(徳川家光)も御頼みにされており、(かつて)清正公が御指図
  されたものという。

一、諸大名が屋敷の地を御願した所に井伊家の屋敷はあって、その頃に加藤肥後守清正が屋敷に
  御願された所だった。

  御本丸よりも高い山だがら如何なものかと上意があれば、清正は仰せられ「幸い後ろの方は
  深い谷ですから、谷を引きならせば平地となり申しましょう」と御願の通りに済み、かなり
  の人夫が掛かったという。

  表御門は結構な御普請で御門柱は幅3尺、金彫刻は冠木に金で波に犀の彫物。桜田御門から
  見えて甚だ光る結構な御門だという。

――『石道夜話(石岡道是覚書)』



政宗最後の日光参拝

2019年09月05日 17:29

178 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/04(水) 22:33:31.12 ID:Pdzgd4fV
寛永十三年(1636)四月二十五日、六十八歳の伊達政宗は体調の不調をおしての、最後の江戸参府となる途、
政宗の希望にて日光東照宮を参拝する。
将軍徳川家光もこの情報を得ており、旗本・伊丹播磨守(康勝)にその案内を命じていた。
折しも二十五日は公家門跡衆御社参の日でも有り、そのもてなしのため四座の申楽による御能が、本堂の前に
敷舞台を拵え行われていた。

拝殿への参拝が終わると、政宗は伊丹播磨守により奥の院へと案内された。拝殿より左、五十四、五段の
石段を四回、三十七、八段の石段を三回上ると奥の院と成る。
政宗は最後の階段の、奥の院本堂まで後一段という所で転倒した。長袴のくくりの糸が緩み、足に
まとわりついたためだという。政宗が倒れようとした瞬間、右に伺候していた山路八兵衛、先に立つ形で
左に伺候していた青木忠五郎、そして後ろについて政宗の腰を抱えていた木村宇右衛門(この覚書の作者)が
とっさに政宗の体を支えた。このため大きな怪我はなかったが、左手の親指を石に少し擦り、少々出血した。
(御左の御手の大ゆびのふしを石にて少すらせ給ひてち少出る)

政宗は左手親指の血を懐紙にて拭き取りつつ、伊丹播磨守へここまでの案内に礼を述べ
「公方様(家光)への礼は改めて述べよう、あなたは先に御下向あるべし、我等は心静かに拝し、その上で
下向する。」と言い、伊丹を先に退出させた。

すると政宗は、負傷した指を包ませ、何ともなく四方を眺めながら、こう語った

「御本堂にあがり拝し奉るには及ばない。ここで戻ろう。倒れるはずのない場所で倒れたこと、
指より血が出て汚らわしいこと、日光に参るのもここまであるという、お告げなのだろう」
(御本堂へあがり拝し奉るにおよばず。是より御下向あるべし。たをれまじき所にてたをるる事、
ゆびよりち出てけがらはしき事、日光へも是ばかり参れとある御つげと見えたり。)

こう言うと、政宗は「はらはらと御落涙あそばし」、御暇乞いであるとして、三拝して下向された。

木村宇右衛門覚書)

伊達政宗の最後の日光参拝についての記録である。



179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/05(木) 08:35:20.55 ID:j+ZEv0M3
>>178
老いてなおかっこいい…

180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/05(木) 08:51:04.22 ID:lXh1fFMP
政宗無駄にプライド高いからな

181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/05(木) 15:25:38.19 ID:VP8PoBEg
政宗の男振りは老いて尚健在なのか
現代の老害達にも見習ってほしい

阿茶の局

2019年08月09日 17:44

136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/09(金) 01:21:41.59 ID:7qMAvHNA
阿茶の局は飯田筑後(直政)といった者の娘で、今川の家人・神尾孫兵衛忠重の妻である。

天正5年(1577)7月、忠重に先立たれて同7年に東照宮(徳川家康)に仕え奉り、阿茶の局
という。その子の五兵衛は僅か6歳であったのを長丸君(徳川秀忠)の扈従になさった。(原注:
寛永の家譜には、五兵衛守世は天正11年(1583)に初めて見参して15歳であると記す。家
の伝えに誤りがあるか)

この局は殊に出世した人で(家康が)大方御陣中にも召し連れなさる程のことだった。慶長19年
(1614)の冬、大坂の御陣でも常高院殿(初)に連れ添って城中に入り、御調停の事を(家康
の)思召すままにやり遂げ、この局の才覚の程が知られた。

東照宮が神去りませし(逝去した)後、江戸に参ったので竹橋の内に宅地を賜り、また中野村に3
百石の地を宛て行わられた(原注:寛永の系図に清水門の内に『一位様』と記しているのは、この
女房のことである)。

 元和7年(1621)の6月、台徳院御所(秀忠)の姫君(和子)を内裏に参らせなさる時、
 忝くも御母代に参って都に上り、従一位に叙されたので世では“神尾一位”と申した。されど寛
 永の系図にはこの事が見えず、ただ『一位と号す』と記している。

寛永9年(1632)に台徳院が御逝去なされて後、局は出家して“霊光院”という。これより先の
慶長6年(1601)の頃、東照宮の御許しを得て、神田の伯楽町に一寺を営んで“龍徳山光厳教寺
雲光院”と名付けたので、今自らの号をこのように言ったのだろう(原注:この寺は明暦の火の後、
神田田所岩井町に移され、天和3年(1683)に再び深川に移された)。

かくて年は積って83歳、寛永14年(1637)の正月に病重篤に及ぶと(徳川家光は)聞こし
召し、酒井讃岐守忠勝朝臣をもって見舞いなされ「望むことあらば申すべし」とあれば、「雲光院
に寺領を賜りたい」と望み申したので、それならばと50石の地を寄せられたのである。この月2
2日に亡くなった。それから雲光院で後の法要があって御弔いに白金千両を賜われた。

五兵衛守世もしきりに登用なされて、従五位下の刑部少輔になる。母のお陰といいながら、自身も
器量のあった人であるという。弟の内記元勝というのは尼公(阿茶)の養子で、真は松平周防守康
親の家人・岡田竹右衛門(元次)の子であったのを、尼公が布施兵庫の娘に合わせ子になされたの
である。これもしきりに出世して寛永15年(1638)の5月、町奉行の職に補せられ叙爵して
備前守に任ず。寛文元年(1661)に致仕し、同2年に入道して宗休と号す。世に“三老人”と言
われた1人であるという。守世と元勝の子孫は多い。

――『以貴小伝』



人々御固浅まに候得は気違物にて候

2019年07月25日 18:29

113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/25(木) 18:23:13.15 ID:u1VAFNKy
正宗(伊達政宗)御死去の前、大献院様(徳川家光)が御成りになった。仰せには、御若年では
あるが天下の為になる事を何ぞ申し上げよ、とのことであった。

その時に正宗は、「御政道について申し上げるべき事は毛頭ございません。憚りながら、御旅行
の時に御宿陣を、非常に御用心仰せ付けなさるようにと存じ奉ります。人々の御固めが浅いよう
では気違うものです」と、申し上げなさったという。

(御宿陣を随分御用心被仰付候様にと奉存候人々御固浅まに候得は気違物にて候(注釈:本マヽ)
と被申上候由)

――『石道夜話(石岡道是覚書)』



114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/26(金) 08:45:48.13 ID:TiDSc5n9
>>113
常在戦場っぽくていいなぁw

115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/26(金) 09:54:37.73 ID:wvtnv1Jv
まあ当然だよね
ゆるくしてたら民の気までゆるんで言う事聞かなくなる

脇差を御取り寄せて御覧になれば、中身は竹

2019年07月24日 16:32

296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/24(水) 01:11:16.70 ID:qdiUyKEx
ある時、正宗(伊達政宗)は御夜話に登城し御酒宴は長くなったところ、正宗が御見え
申さぬので(徳川家光は)「また外したか」と仰せになった。

しかし、御次の間に脇差があったので退出仕ってはいまいとのことで、所々を探したが
見え申さず、中の御門へ聞きに遣わした。すると、とっくに退出したとの趣を言上した
ので脇差を御取り寄せて御覧になれば、中身は竹だったので御笑い遊ばされたという。

――『石道夜話(石岡道是覚書)』



立花宗茂と舞

2019年07月18日 13:46

92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/18(木) 01:57:19.10 ID:tnxIIaJa
一、正月3日の御謡初に、外様より立花ならびに有馬左衛門佐様などが先例によって今も御登城
  なさる。

  古左衛門佐様(有馬直純)の御話によると、権現様(徳川家康)が駿河に御在城の時、御先
  祖は乱舞を御好みであったので御能をなされた。その折に御相手として呼びなさり、度々登
  城されたという。

  この例によって(有馬家などの当主は)今も御登城なされるのだという。

一、立花飛騨守(宗茂)は大献院様(徳川家光)の御合口で御夜詰にも御登城されたという。

  ある時の御酒宴は長くなって各々順の舞が始まり、品々の芸を尽くして御興を催された。立
  花の順番になり、(家光が)何ぞ御肴に一曲と御所望されたところ、御次の間で支度をなさ
  り、羽織をかぶって尻を端折り(着物の端を折って帯に挟み)、扇を咥えて鷺舞(八坂信仰
  の伝統舞踊)を舞われて出なさったので、甚だ御機嫌であったという。

  久野左門殿(宗辰。御小姓となり一時期御勘気で阿部忠秋に預けられた)の御話である。
  
――『石道夜話(石岡道是覚書)』



94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/18(木) 10:36:52.65 ID:L637dIKf
>>92
ほい

京都・八坂神社にて津和野の鷺舞を奉納
https://www.youtube.com/watch?v=uwCH6lhQS2w


101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/20(土) 10:44:59.33 ID:cnhTDBxw
>>92
宗茂って本当に芸達者だったんすねぇ…

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/20(土) 12:59:56.13 ID:SUvmqEbQ
>>101
文武どころか芸事まで達者とは、ほんと完璧超人

但馬守殿は御あしらいなされ

2019年07月10日 17:16

78 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/10(水) 02:13:00.48 ID:XPK8fwud
柳生但馬守殿(宗矩)は兵法御指南で、ある時に御側向へ「なにとぞ但馬守を打つように」
との(徳川家光の)御内意で、御庭で但馬守殿を竹刀打ちするようにと御所望遊ばされた。

御側向4,5人が御立ち向かったところ、御庭にある大竹5,6本を背にして但馬守殿は
御あしらいなされ、皆打たれたという。

――『石道夜話(石岡道是覚書)』



79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/10(水) 07:58:44.29 ID:EhSynLtZ
5対1で勝つってどんんだけ強いんだ
それとも側衆がヘタレなのか

80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/10(水) 08:36:06.01 ID:CyItAO8a
>>78
囲まれないように後ろを壁にする当たり妙にリアルでいいなw
完全な創作だったら囲まれても無傷で圧倒するだろうし。

81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/10(水) 17:01:12.06 ID:o9MkKrAQ
忖度です

82 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/10(水) 23:08:54.49 ID:hxZg6iqB
ここで剣術の師匠倒したら色々面倒そうやなあ…

たのしみに 命にかへて何かあらん

2019年01月13日 17:41

631 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/12(土) 14:14:41.48 ID:51sqmfoq
大橋龍慶は河内の誉田の者で、片桐且元に仕え、右筆を務めていた。
豊臣秀頼が暴発しないようにと且元が考えている間に、大阪の陣が起こった。
その後大橋は、且元の息子である片桐出雲守(孝利)を頼って江戸へ下り、また故郷に帰るとして
三島まで上ったところで、且元弟の片桐主膳正(貞隆)に会い、主膳正が連れて江戸に戻り、
大炊殿(土井利勝)に近づき、そこから幕府に召し出され、高田に屋敷を与えられ知行五百石を
拝領し、法印に任じられた。

彼は徳川家光が心安く召仕い、踊り歌などを作ること上手で、家光がこの大橋の屋敷へ渡御された
事もあった。家光の日光還御の時、岩槻に一宿された日、先に帰ったため御意を違えたという。

彼が家光より拝領した茶入は、谷出羽守(衛友)の遺物で、有明というものであった。家光は
これを下した時、その名を「命」と変えた。これについて小堀遠州に歌を詠むよう仰せ付けた。
遠州はこのように詠んだ

 たのしみに 命にかへて何かあらん
       なからへて見し有明の月

(武功雑記)



632 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/12(土) 17:33:08.06 ID:Nr1GgLBJ
有明が谷家から幕府へ渡った経緯は悪い話

この私が継いだことは冥利の程にも恐ろしい

2018年09月09日 18:20

107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/09(日) 18:04:43.89 ID:jrybM0LQ
これまで天下のことは権現様(家康)が骨を折られて、矛先において天下を納められ、
沈毅である台徳院殿(秀忠)が御跡を継がれられここまで天下を治められてきた。
このことは唐にも日本にも稀なことであり、
その後を不肖の身であるこの私が継いだことは冥利の程にも恐ろしいことである。
これまでどうにか天下が治まるようにと朝に夕にと工夫してきたが、
あまつさえ近年は病気がちで天下の政事もうまく務められてはいない。
このことについて両御所(家康・秀忠)はどのように御思いになっているだろうかと心配になっている
だから昨日も其方(酒井忠勝)へこの思いを詳しく語って聞かせたのだ。

(小浜酒井家文書)
寛永18年(1641年)8月5日付酒井忠勝徳川家光御内書


人になれ人 人になせ人

2017年12月17日 12:26

510 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/17(日) 11:33:38.32 ID:ucE4xaRX
将軍徳川家光が、久世大和守広之を、嫡子である家綱に付けるという時、家光は
久世を召して、この事を仰せ付けたものの、久世は一切お請け申し上げなかった。
家光の傍にあった堀田加賀守正盛は「早々御請あるべし」と勧めたが、久世は堀田に目を向け
「御辺の知る所に非ず!」と睨みつけた。その表情が普段と異なるのを、家光は見抜き、
不意に立ち上がった。
お傍の人々は「あわやご機嫌を損じたか」と驚き慌てたが、家光は筆を執ると短冊にこう書いた。

『人多き 人の中にも人はなし 人になれ人 人になせ人』

これは大神君(家康)の詠んだ歌であり、これを久世に与えた。
久世は「これならば」と、上意骨髄に徹し、有難く畏まって申し請けた。

(武野燭談)


勝海舟「陸軍歴史」巻28より『寛永御前試合』

2017年10月24日 17:00

180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/23(月) 21:58:16.58 ID:htmCXMy7
まとめの9741「講談、寛永御前試合では」でも触れられてるけど
勝海舟「陸軍歴史」巻28から抜粋

三代将軍家光公御代寛永十一甲戌年九月廿二日於吹上上覧所剣道立合之面々左之通り

   井場泉水軒・下谷御徒町住人

負  浅山一伝齋

鎧勝負
   初鹿野伝右衛門

負  朝比奈弥太郎

   竹内加賀之助・播州住人

負  由井直人・仙台藩

   仙台黄門政宗

負  秋元但馬守

   堀尾山城守

負  菅沼新八郎

   柳生市之丞・和州柳生の住人

負  石川又四郎

   佐川蟠龍齋・芝高輪住人

負  関口弥太郎・紀州郷士

   石川軍東齋・江戸小石川

負  松前帯刀・御取立の御旗本

鎧勝負
   大久保彦左衛門

負  加賀爪甲斐守

   樋口十郎兵衛・上州の郷士

討  中条五兵衛・甲州中郷士

   荒木又右衛門

討  宮本八五郎・豊前小倉藩

   芳賀一心齋・備中の郷士

討  難波一刀齋・遠州の郷士

181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/23(月) 22:02:20.36 ID:htmCXMy7
荒木又右衛門、宮本八五郎(伊織)の名前が見えるのはご愛嬌として、
編者の勝海舟は大久保彦左衛門や伊達政宗の名前が出てくることに疑問はなかったのだろうか
しかもこの「陸軍歴史」って陸軍省が勝海舟に依頼している真面目な本のはずなのに



182 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/10/24(火) 17:38:14.80 ID:f/6URLZ0
>>180
これは魔界転生やってますわ

183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/24(火) 23:07:06.45 ID:skh5btLk
>>181
海舟は政治家だから歴史が正確かどうかには興味なかったのでは

陸奥守政宗は三方を頭に被って踊り申された

2017年09月30日 22:11

265 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/30(土) 02:43:45.97 ID:PbrYLDou
大献院様(徳川家光)は名誉な公方様でござった。御一代の内に御鷹狩をされ、
ならびに島津家へ仰せ付けなさり、犬追物を上覧された。

また安宅丸を仰せ付けなさり、諸大名を召し集められて御遊覧などをなさった。
大方、太閤秀吉の気風を御慕い遊ばされた御様子である。

その安宅丸御遊覧の時、諸大名が舞いを仕るなど、色々の音曲がござった。

松平陸奥守政宗(伊達政宗)は御酒宴のうえで三方を頭に被って踊り申された
という。興に思われる趣のあることであったとの由である。

松平越後守殿(光長)や新太郎殿(池田光政)もその座に御出の方で、以後に
相公様(前田綱紀)へ御参会の折に度々直に御物語りを聞こし召されたとの由、

同年(享保7年)1月12日に仰せになった。

――『松雲公御夜話』