上田宗箇の剛勇

2017年04月21日 10:19

845 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/21(金) 08:55:27.66 ID:uFvNYzkl
上田主水(宗箇)は初め丹羽長秀に仕え、小姓奉公などしていたが、本能寺の変後、明智光秀への関与を
疑われた織田七兵衛尉信澄が大阪城(石山城)の本丸に居たのを、長秀の軍勢で取り巻き、信澄が自害に
及ぶ時、上田主水(当時16,7ほどであった)が城内に飛び入ると、信澄は既に自害しており、
そこでその頸を受け取って退出したという。あくまで剛勇の生まれ付きの者であった。
後に太閤秀吉に1万石で仕えたが、関ヶ原の時三成に属した科を以て、本領を没収された。

ここで、浅野紀伊守(幸長)はかねてより彼を知る好であったので、徳川家康に対し「茶友達」との事で
身柄を引き受けたいと要望した。
上田は三成に属しただけで、事の顕れた悪事もなかったため、家康は免許した。
以後、浅野家に属し1万石を領した。

実は上田は、その頃までさして名を得た功は無かったのだが、浅野の屋敷の近隣にあった
中村式部少輔(一氏)の屋敷に火事が出た時、破風口に一人出て延焼を防ぎ止めた振る舞いは、
只者とは見えず、当時の人達はこれを大いに賞賛した。
また、大阪の陣において柏の井で一番に鑓を合わせた。
以上の人に知られた働き2度のうち、一度は火事の覚悟であったといえる。

大阪冬の陣の時、浅野但馬守(長晟)の仕寄の場所に大筒を設置したが、但馬守の足軽が竹束の間から
外を覗いたところを、大阪城内より鉄砲にて難なく撃ち殺された。
その直後、上田宗箇は大筒に乗り掛かり、顔を出して四方を見回した。

彼をめがけて城中より鉄砲が雨のごとく降り注いだが、彼はまじろぎもしなかった。
類まれな勇者であったといえる。

(士談)



846 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/21(金) 10:06:23.60 ID:Y9xTky+j
戦が少なくなると武士が名を上げるには火事の対応とか無意味に躰を危険に晒すとかぐらいしか無いって、淡く切ないお話しですね

847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/21(金) 16:33:14.29 ID:pNPhOchv
へうげものの武闘派上田宗箇を思い出したけど
大坂冬の陣でこの場面あったっけ

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/21(金) 16:45:51.95 ID:5HHheB3O
敵がくれの茶杓作った位しか出てない
スポンサーサイト

三引の下に山の字を加ふときは、さんざんの唱

2017年04月16日 17:56

825 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/04/16(日) 15:54:11.51 ID:cYLpXntL
山名豊国の話

「豊国大坂御陣の供奉にありしとき、旗の紋三引なりしを、三浦とわかたんがため、
山の字をくはふ。
 東照宮これを台覧あり、三引の下に山の字を加ふときは、さんざんの唱あれば旗の紋
をあらたむべきむね仰により、二引両に山の字を用ふ。
これよりして家紋も二引両にあらたむ。」
「出典 寛政重修諸家譜」


岐阜城攻めのくじ取り

2017年04月14日 16:35

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/13(木) 17:11:05.49 ID:87GdGGbi
岐阜城攻めのくじ取り


岐阜城攻めのとき、(福島)正則と(池田)輝政とで大手搦手の争論があり
井伊直政、本多忠勝が輝政に異見を申したので収まったという様に
旧記等には見られるが、左様ではなかった。

なぜなら大身小身に係わらず敵地へ近いところの領主を
先手と致すのが日本の古来からの武家の定法であるので
尾州清須の城主である正則を一の先手、それに続いて
三州吉田の城主である輝政を二の先手ということにしたのだ。

格別なことなので両人には小山の御陣所で、内府公が
直に仰せ渡したので両人の争論などはなかったのだが
その他の大身小身共には大手七曲り口に向かうことを好み
搦手の寄せ手を嫌うものがいた。

大手、搦手と犬山城の押さえは必要だというのは各々の相談で
決まったのだが、人数割りをどうするかは埒が明かなかったので
井伊本多両人の衆は御列座の衆を二つに分けてくじ取りをさせ
誰は大手、誰は搦手、誰々は犬山の押さえと決めたので
人数割りが差し障りなく済んだという。

この説は旧記とは違うのだが大猷院様(徳川家光)の御代に旗本へ
召し出された大道寺内蔵助[若い時は遠山長右衛門と名乗っていた]は
岐阜城攻めの時は福島正則方にいて大手口で働きなどしていて
老後になってこのくじ取りの物語をしたので書留めた。


――『落穂集』



811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/13(木) 17:22:29.50 ID:6dYoS0ds
苦労してるな

金森長近の質素

2017年04月14日 16:33

813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/14(金) 14:44:24.06 ID:cf+vthNL
金森長近の質素


金森法印(長近)は在所から東照宮(家康)に鮭を献じるときは
藁の苞に包んでいた。

ある時息子の出雲守(可重)があまりにも質素だとして
竹簀で包み替えて捧げられた。

東照宮がご覧になって
「これは父が元々このように包んできたのか
 それとも包み替えたのか」
とお尋ねになると、出雲守はかしこまって
「父が元々藁苞で差し上げようとしたのを
 あまりに見苦しかったので包み替えたのです」
と申したが、公(家康)の仰せに
「汝が父の遅れを取らされるものではないのだから
 一切親のすることは咎めないものだぞ」
とあったのに、上世の淳風を見ることが出来る。


――『野翁物語』



814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/15(土) 13:41:59.22 ID:UBkMLfjt
(´・ω・`)「重要なのは包みが質素かどうかでなく鮭の良し悪しでしょ」

軍令違反者には御宥恕がなかった

2017年04月13日 11:20

732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/12(水) 22:50:47.55 ID:7Xqwitvs
大須賀五郞左衛門康高の甥の弥吉が御軍令にそむき、(高天神城の)勝頼の旗本へ討ち行って高名をなしたところ
(家康は)もってのほかお怒りになった。
弥吉は恐れて本多平八郞忠勝の家に逃げて赦免をお願いしたが、お許しなくついに切腹をおおせつけられた。
(家康は)何事も寛容な方であったが、軍令違反者にはこのように御宥恕がなかった。

「柏崎物語」



733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/12(水) 23:51:14.81 ID:Wv5bFBU9
これで武田の軍門に降る道が断たれたわけですな

狂言、鷺仁右衛門、五徳の紋所。鷺と称する苗字の事

2017年04月06日 16:38

790 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/05(水) 22:38:22.47 ID:eT3s4jQ3
狂言、鷺仁右衛門、五徳の紋所。鷺と称する苗字の事

狂言師の鷺仁右衛門の紋所は五徳〔鉄三脚子〕の形である。
予はあるとき、その紋にはどのような由緒があるのかと問うた。

「これは某の祖が神君の側につかえていたときのことです。
神君は御戯れにハサミで色々な切り紙を遊ばれていた中で、
五徳の御きり形が有りました。
それを某の祖が賜り、続けて
ただちに家紋にせよとの命があったので、今に伝わっているのでございます。」

と言った。ならば御当家の古い賜物であった。
また鷺という苗字のことはどうなのだと問うと、

「これは昔"鷺"という狂言があり、某の祖先がその狂言を披露すると、
仰せで
『後で人に譲るのも口惜しいことだ。
以来はこの狂言は止めてしてはならない。
よって家名を鷺と称すべし』
とのことがありまして、これよりこのように称しています。
故にかの鷺という狂言の一巻は皆封じて今は家宝とし、
それからその狂言は今は演じないことに成りました。」

との答えがあった。
その仰せというのは神君か若しくは太閤であったか、今は忘れた。

『猿楽伝』という書には、
「鷺の家の本名は長命権之丞で、狂言の上手である。
太閤の御意に入れられている。九州名護屋で御宿泊の時、
水辺へ御成りがあって御遊興の時、権之丞は川へ飛び入り、
鷺のドジョウを踏むまねをして、御入興から鷺々と召され、
それから鷺と改めさせなさった。その子は鷺仁右衛門云々」

と記してあった。仁右衛門の言と等しくない。
しかし仁右衛門の言葉はその家の伝えなので、これに従うべきだ。


予はまた、祖先は朝鮮攻めのときには名護屋へ随従したのかと問うと
もちろん随ったとの答えがあった。
ならば名護屋御遊興云々のことも棄却してはならないだろう。

(甲子夜話続編)


家康、結城秀康を上杉景勝の押さえに

2017年04月05日 21:36

786 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/05(水) 18:15:13.56 ID:pFrrz65W
家康、結城秀康上杉景勝の押さえに


いわゆる小山評定の後(家康は)本多佐渡守(正信)一人を側に置き
結城秀康公を召し寄せて
「会津への進発はしばらくやめることにする。
 近いうちに(自分は)上方へ進発することになるので
 上杉の押さえとして差し置かれるべきなのは
 そこもとよりほかにはいないからだ。左様に心得ておくように」
と仰せられた。

秀康公は佐渡守の方へ向かって
「これは思ってもみない仰せで困惑しています。
 今度の上方においての御一戦は大事なことなので、御味方諸大名衆と
 申し合わせ、御先手で軍忠に励む覚悟でおりましたのに。
 上杉家の押さえとして御留守に差し置かれるべしとの仰せには
 たとえお気持ちに背くことになっても何度でもお断り申し上げる覚悟です。
 どうか御免下さりますように」
と申し上げられると、内府公(家康)は
「総じて今度のような大事の合戦に思い立って
 他国へ向かうことがあるとき、留守居の将を選んで残し置くのは
 弓矢の古法である。その上今度我らへ味方する諸大名からは
 証人などを出させてその人質を請け取ることになるのだから
 江戸、小田原の両城の内に差し置くほかなかろう。されば
 皆の安堵のため、確かな留守居でなくてはいけないと思ったから
 その方に申し付けるのだぞ」
と仰せられた。

秀康公が重ねて
「皆の安堵のため確かな留守居を差し置かれたいと思われるのでしたら
 幸い松平下野守(忠吉、秀忠同母弟)がいるのですから
 あの者を差し置かれればいいではないですか。
 私の方を上方へお供仕りますように」
と申し上げられると、内府公はいささか機嫌を悪くして
「皆の安堵のためだけなら、その方が申すごとく下野守でも済むが
 我らが出陣の後に何かが起こらないとは言い切れず
 しかも上杉景勝は我らの留守を見合わせて
 大軍を率いてくることさえあるかもしれないのに
 若輩の下野守で事は済むと思うのか。
 昨夜佐渡守も聞いていたが、その方は
 『今度上方の退治で上る時は、会津の上杉は手強き相手なので
  確かな押さえを差し置くのがもっともです』
 と申したのに、その手強き景勝の押さえをするのを嫌がるのか」
と仰せられた。

787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/05(水) 18:15:35.53 ID:pFrrz65W
秀康公はお困りになられ
「今度の上方の御一戦にまみえることができないのは残念に思いますが
 ただいまの仰せの上は何も申し上げようもなく、畏れながら斯様に
 お請け申し上げるからには、出陣の後も御安心めされますように。
 白河の関よりこちらへ景勝などに顔出しさせることはありません」
と申し上げられたので
佐渡守は承って秀康公のお側へ這い寄り、お膝を叩いて
「さてもさても殿はよくもお申し上げになられた」
と申し、涙を流し泣いていると内府公も涙ぐまれた。

(家康は)御納戸衆を召し寄せ、御具足一領を取り寄せて
御前に置き、秀康公に
「この具足は我の若き時より何度も陣場へ着ていったのだが
 一度も敵に押付(鎧の背の上部)を見せることもなく、秘蔵の具足であるが
 今度大事な留守を申し付けるのでその方へ譲り渡す」
と言って秀康公へ下賜されたという。
 

――『落穂集』


その働きは職分には含まれていない

2017年04月05日 21:36

723 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/04(火) 22:17:41.10 ID:DywoHspw
 駿河で火事の時に、権現様の御秘蔵の御長刀を御茶坊主が持参して火災から逃げたが、
その働きは職分には含まれていないというので、御褒美は無かったとか。


『武士としては』



724 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/04(火) 23:21:28.77 ID:M6hVStVZ
>>723
>その働きは職分には含まれていないというので、御褒美は無かったとか。

「無用な御心づけであったな」

725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/09(日) 12:08:11.60 ID:oswMbq6q
駿府城が火事のとき幼少の徳川頼房を救出して
水戸藩附家老になった中山信吉とはえらい待遇の違いだ

今川家崩壊

2017年03月30日 18:03

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/30(木) 03:58:40.21 ID:4eoO7xGb
12月(永禄11年)、武田信玄は駿河に出張し、当国の主・氏真の近親(瀬名信輝)や葛山(氏元)、
ならびに朝比奈右兵衛大夫(信置)が信玄に属した。氏真は一戦及ばず、遠江掛川へ退きなさった。

掛川城主・朝比奈備中守(泰朝)は氏真の臣下で遠江国の郡代であり、氏真を本城に引き入れて
籠城した。翌年春まで上下の人数に酒肴以下までも怠りなくもてなし、奇特であると言われたという。

その後、小田原に氏真が退きなさった時に連れ立った。氏康・氏政が言ったことには、「臣下として
主人の氏真を相抱えて籠城したこと、人臣の名誉である」との由で、懇志に致しなさったという。

遠江へも信玄より秋山伯耆守(虎繁)に伊那郡(信濃国)の人数を相添え遠江へ出軍させた。すると
山家三方衆(奥平・田峯菅沼・長篠菅沼氏)は信玄に属し、秋山に伴って遠江に出張したのであった。

引間の人数は三方ヶ原へ出て合戦し、三河の山家三方衆と合戦に及んで引間衆は敗北し、数多討ち
取られた。そうして引間衆は懇望して秋山に一味し、氏真は掛川へ籠城しなさった。その勢3千余。

家康はこの冬、遠江へ出張しなさった。同月、三浦右衛門大夫という人は氏真の取り分けての寵人
であったのだが、掛川へ籠ろうとしたところ、日頃から城主の朝比奈備中守と間柄が悪かったため、
城へ入らず馬伏塚を頼って行った。

ところが、かの地の主・小笠原美作守(氏興)は日頃の契盟を違えて右衛門大夫の首を切り家康公
へ献上した。翌年の春、小笠原は病死した。時の人口はもっぱらこれを憎んだ。

さてまた、駿府の氏真の居城には岡部次郎右衛門(正綱)が相籠ったので、残党はこれに従った。

――『当代記』



770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/30(木) 12:44:17.38 ID:Q4RK4yIB
朝比奈泰朝は小田原で死んだのかな

敵を射伏ば自軍の利。後まで苦しめるは不仁の業

2017年03月22日 10:39

739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/22(水) 03:35:29.81 ID:OMqm+fgI
同じ頃(甲斐領地直後)、東照宮(徳川家康)が武田家の士・横田甚右衛門(尹松)らを
召して、信玄の事を物語りさせて聞きなさった時、

「御坊の時は火縄はどのようにしたのか」と、御尋ねになった。

すると、「柿の渋に石灰を入れて火縄を染めますと、年を経ても使えます」と答え申した。
東照宮は横田、または城意庵などに信玄のことを“御坊”と仰せになったという。

また、武田家において鏃をゆるく詰めたのは、敵の肉の中に鏃を残すためであると申す
のを聞きなさり、東照宮は、

「士がいくさに臨むのは皆その主君のためであるのだよ。敵を射伏せば自軍の利となる
であろう。けれども、後まで人を苦しめるのは不仁の業である。今日から我が家の士は
鏃を堅く詰めよ」

と、仰せ出したのであった。

――『常山紀談』



740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/22(水) 07:03:58.34 ID:95mxgnAJ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1963.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5892.html
前にも出てたけど出典はなかったか

用来の用、不用の用、明勝の用

2017年03月18日 18:33

732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/18(土) 18:13:18.57 ID:L9oFZyyh
東照宮の上意に
「天下国家を治めるのに、用来の用、不用の用、明勝の用といって、3つの用事がある。

用来の用というのは、我が家は姓は源にて、氏は新田、別名は徳川である。
従臣には、酒井、大久保、井伊、本多、榊原、安部、奥平、大須賀、水野、平岩、鳥居、菅沼、石川、
安藤、内藤、大井、土井、青山、高力、天野、板倉、阿部、牧野、西尾、久松、
その他一統一統の氏があり、この氏人の子孫、従類は、皆当家の譜代随一である。

そこで、彼らの子孫の内、親たちより生まれつき優れているのは言うまでもなく、親に等しくその用を
勤めるのを、用来の用と言う。

また、その家、その子が、親たちの器量からは殊の外劣っていても、家督を相違なく立て置くのを、
不用の用と言う。
これについて、その家の太郎(嫡男)は用いるに足らずといえども、その家名は捨て難いものであり、
賢くない者の子に、能き者の生まれるのは、和漢ともにその例多い。
我が家の得失というものは、自分自身では計り難いものであるから、賢臣と事を取り計らなければならない。

また明勝(時来の意)の用というのは、来用の用の内にあり、その職責を任せられる人物の無い時は、
埋もれている小身の内なりとも、抽り出して、その者の器量の備わっているのを見て、大身に取り立て、
これを用いることを言う。

ただし、自己を高ぶらず、人を侮らず、一人で威を振るわず、能き事を同役へ譲り、末を考えて、
偽り飾ることをせず、諸人をむらなく愛してこそ、誠に天下・国家の家老というべきである。

家の惣領の子に付けるような者は、別してこの心得第一に選ぶべきである。
惣領の子であっても、その家の風紀に無理に当てはめようとしては、なかなか育てられるものではない。
慈仁を第一にして、それ以外は時に応じ、その器に従って教育していけば、自ずから根の強い、
能き人になるものだ。」

そう仰ったという。

(武野燭談)


733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/18(土) 20:58:25.89 ID:NOKRHnIw
長安事件がなければ
酒井、榊原、井伊、本多、大久保
で徳川四天王だったのかな

734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/18(土) 21:16:05.47 ID:/96KH+RV
>>733
森武蔵が呼んどるで

明主の賢慮は推量し難い

2017年03月17日 07:47

720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/16(木) 23:45:21.45 ID:vrpWz8g8
徳川家康がある時仰せに成った
「右兵衛督(徳川義直)、常陸介(徳川頼宣)の両人に、近日武具着初めをさせるので、
あらかじめ準備しておくように。」

御武具方はこれを承り。黒糸縅の甲冑、ならびに弓矢、陣太刀、鞭、采配、軍配扇など、
注文通りに揃えた。

その頃、この武具着初めについて下々からは
「現在、右兵衛督殿の御爺などと称せられている平岩主計頭親吉は、それほど高名は聞こえないが、
上の御覚え他に異なり、また常陸介殿に付けられている安藤帯刀は、武勇冥加の侍であるから、
きっと両殿の御武具は、この両人が召させるのであろう。

尤も平岩は戦場に勇ある人物ではあるが、安藤と比べては、なかなか同日に論ずることができる者ではない。
そもそも公達などの御武具御召初めは、勇功あって武の冥加ある侍にあやからせ給うようにと、
専らそういう人を選ぶものだ。安藤は一日の内に二人の大将の首を獲た武勇の人であるから、言うに及ばず。
一方の平岩は、上意ではあったが、かつて一家の主親たる水野下野らを討ち、また三郎信康殿の
御母堂築山殿御生害の事を取り計らうなど、あまり吉兆のある人ではない。そういう人に若君などの
御武具召させ初めるというのは、いかがなものか。」

そのように言い合っていたが、当日に至ると、義直、頼宣の武具を、父である徳川家康が自ら
召させるとの上意にて、兄弟は同日御前にて召させられた。下々の予想は全く間違えていたのである。

しかし岡崎三郎殿以降の公達は数多居たと言うのに、家康自ら武具を召させる事は無かった。
それが今度このように計られた神慮は計り難い。兎にも角にも、優れて御愛子ということだろうか。
何れにしても、明主の賢慮を下々は推量し難いということだ。

(武野燭談)


「法度は改め変える事なかれ。年貢は少なく取ろう」

2017年03月17日 07:46

721 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/17(金) 02:42:53.78 ID:cTLi9xmA
勝頼滅んで後、東照宮(徳川家康)は甲斐を治めなさると、

「法度は信玄より用いるところを改め変える事なかれ。年貢は少なく取ろう」

と、仰せ出しなさったので、百姓は大いに喜びあった。小田原(後北条氏)
滅んで後、その地を治めなさる時も、また同じであった。

諸民は大いに喜び、数百年の恩義が相結ばれるに同じであった。

――『常山紀談』



722 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/17(金) 03:09:38.35 ID:QiuwIqqf
百年にわたり善政を行い民百姓との結びつきが強いと言われた後北条氏だが民は年貢を多少割り引いて貰っただけで敵側だった徳川わっしょいになるなんて、所詮はその程度のものだった
穿った見方をすると悪い話し

723 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/17(金) 07:44:17.53 ID:wCCIMaLG
>>722
真面目に言うと、家康は関東に入ってすぐに、水路の整備など、農村の改良事業といった、
戦乱のため北条が「やりたくても出来なかったこと」を大々的に行ってる。

724 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/17(金) 08:40:17.24 ID:nnSE9C2g
>>722
ついでに言うと北条家の家臣はほぼ登用しておりあまり法律とかやり方を変えてないしな。住む方にとってはありがたい。

725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/17(金) 12:03:48.43 ID:ZFO1X/J/
盗賊にまで落ちた風魔がいたね

726 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/17(金) 12:33:44.27 ID:SiKtZsUe
>>724
実はあまり登用していなかったんじゃなかったっけ。
ただ農工商いずれに渡っても領民と徳川の中に入っていって
色々スムーズにしていったとか聞いたことある。

727 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/17(金) 20:38:45.25 ID:bg166cIu
家康は小牧長久手の戦役で15歳から60歳までの男子を総動員している。
農繁期にこれをやっちゃったので、秋の収穫は酷い事になってるんだけどね。
甲斐では家康が統治してからも検地反対の一揆などが頻発してて、民が喜んだなんて嘘っぱちなんだけどなあ。

728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/17(金) 22:56:50.30 ID:gv6zUOc6
>>727
いつどの辺りで起きたの?
首謀者は百姓なの?
それとも武田の旧臣?

729 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/17(金) 23:57:35.83 ID:bg166cIu
当時においては百姓と武士の違いなどあいまいだ。区別はできないな。
そもそも当時の百姓は甲冑槍弓で武装し、場合によっては火縄などまでもってる。

時期は家康が五か国総検地をやった時。
その前も小牧長久手の後遺症で領内が大飢饉に陥っていたけどね。

730 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/18(土) 09:30:45.43 ID:e23UI1NM
妄想?それとも何か文献あるんだろうか。

731 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/18(土) 13:01:10.66 ID:mqYEINS8
龍門寺拠実記によると小牧長久手の戦いで男でがとられて、領内は荒廃して飢饉になり、
老人は口減らしで死んでいた事が記されているよ。

此の方の宛名は何と書いた

2017年03月13日 09:35

717 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/12(日) 21:11:39.63 ID:Ss9DL0Db
慶長19年、大阪冬の陣和睦の際、大阪城からは木村長門守重成を以て、神盟の御判元拝見に
さし寄越された。木村は家康の御座近くに参るための支度はしていたが、彼の気色が怪しいため、
家康側近くの者達は、彼を遠ざけ置いた。

この時、大阪城へも豊臣秀頼の判元を確認するため、幕府より使者が遣わされたが、人々は
「きっと侍大将の中から選ばれるだろう」と噂していた所、『若者のうちより、分別があって
事がもし破れたときに一己の働きのできる忠士』として、板倉内膳正重昌が選ばれた。

家康は重昌を召すと「和睦の誓紙を見て参れ」と命じた。
板倉重昌はこの時18歳。近習として召し使われ、心やすく思っている者であったので遣わされる、
との事であった。
大阪においては「関東勇功の老臣が派遣されるであろう」り心支度していたものの、それは相違した。

さて、板倉重昌は秀頼の御前に出て、御判をされる時、座を立ってその膝元に寄り、左右を顧みて
申し上げた

「右丞相(秀頼)の御器量、関東にて承り及ぶよりも、ことに勇々しく見奉りました。
関東にては秀頼功の御膝が、扇子丈ほどもあると承り伝えられているばかりであります。
このような機会に拝し奉り、関東への土産としたいと思います。」

そう言うと腰の扇子を抜いて座を立ち、膝を計ろうとするふりをして、御判元をしっかりと確認した。

その後秀頼より、「宛名は何処にすべきか」と尋ねられた。重昌は
「その事について特別に仰せ付けられてはおりませんが、関東・大阪御和睦の儀にて候へば、
現代の将軍である秀忠公に宛てるべきでしょう。」と申し上げた。このため宛名は
『江戸将軍へ』と書かれた。

この頃徳川家康は「内膳正に第一に言っておくべきことを忘れていた!」と、大変気にしている様子だったので、
人々は「一体何事だろう」と心配していた所、重昌は程なく帰ってきた。この報告を受けると
家康は御次の間まで出てきて

「どうであった内膳、判元を見て参ったか。
実は第一に申し付けるべきことを忘れていた。此の方の宛名は何と書いた?」

重昌畏まって
「その段、仰せ付けは承りませんでしたが、関東・大阪御和睦でありますから、新将軍家へと
望みました。」

そう申し上げると、家康は甚だ御機嫌にて「でかしたり!でかしたり!」と、大いに喜び、
また全体の首尾が報告されると、一入感じ入ったとか。

(武野燭談)


髪に伽羅を

2017年03月13日 09:34

718 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/13(月) 07:24:37.86 ID:ZXvx5ar4
 秀頼公の乳母子木村長門守(重成)は忠義の士で、二十三歳で忠死をとげた。
かねて討死を心掛けていたので、髪に伽羅をとめていた。
安藤長三郎がその首を挙げまして、家康公が御覧になられました。
空焼きの匂いをかがれて、
「いつの間にかような心付きをしたのか。殊勝な若造だ。」
と上意があったとのことだ。

『武士としては』


三州山中八幡の事

2017年03月11日 09:17

716 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/11(土) 06:45:08.19 ID:c4YBRzER
三州山中八幡の事

 三河国額田郡に山中八幡宮という社がある。
御朱印高百五十石である〔この社は文武天皇三年秋九月九日影向したという〕。
親氏君、広忠君が信仰されて宮を造立された。その時の神職を竹尾二郎左衛門尉という。
神君御誕生のときには御代参として本多平八郎が詣でられたという。
〔本多系図に、忠勝の父、祖父も皆平八郎と称す。この二人のどちらであろう〕

 本願寺一揆のとき白鳩二羽舞い上がった。
これから舞木というのを改められ舞上八幡と称し、
その山を御身隠山と称することという上意があった。
 神主数代は三河州の所々で御戦に随従し、代々に武功戦死の者も出し、今も御感状数通を持ち伝えている。
関東御入国の後は専ら神職を勤めるよう命ぜられ、当代は竹尾但馬と称している。
ただし任官はせず代々無位で武士であるという。
このことを癸未(1823年)の春に、隣宅の但馬が来て語ったのを記した。
(甲子夜話)


山口さんお疲れ様です。

2017年03月09日 20:37

711 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/03/09(木) 11:04:36.36 ID:f+pfhTIu
慶長十七年(1612年)八月、島津忠恒は駿府の大御所徳川家康の歓心を買おうとしたのか、
琉球の草花を献上した。献上された草花のリストは
・仏桑花(ハイビスカス)一本
・山丹花(三段花、イクソラ)四本
・千年草(ドラセナ、幸福の木)一もと
・アダンの木二本
・からすの花三もと
・しろゆり根三十
・よなふ木(ガジュマル?)一本
(『鹿児島県史料 旧記雑録後編四』九四三号)

初めて見る亜熱帯植物に、家康はとても喜んだようで、
側近の山口直友から忠恒に礼状が届いた。
(『鹿児島県史料 旧記雑録後編四』九六九号)
「先度お上せいただいた三丹花(山丹花)や仏桑花を(伏見から)駿府に送ったところ
(家康が)一段とご機嫌」だったとあった。
家康も大いに満足し、来春もさらに気に入った草花数種を送って欲しいと所望している。
面白いのは、続けて「お上せの間に(草花が)枯れかかったので、私の手もとに置いてよく育てました」
とあることです。
ハイビスカスや山丹花が一時枯れかかったのを、山口直友が懸命に手当てして回復させたらしい。
(その時の時期は初冬の頃)
山口さんお疲れ様です。

※山口さんがどんな手当てをしたかというと、部屋に置いたハイビスカスや山丹花の周りに火鉢を
いっぱい周りに囲んで暖めたそうです。
(参考 さつま人国誌、全国都市緑化かごしまフェア 花かごしま2011での展示史料より)


汝はこの夜中にどこに

2017年03月06日 21:04

702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/05(日) 21:45:20.12 ID:opIRsI01
豊臣秀吉の死後、徳川家康伏見在住のとき、或る夜密かに、徳川屋敷にこのような情報が流れた
「今夜大阪より、我が君に御生害を進めに来るようだ。」

家康もこの情報に接し、井伊直政を呼んだが居らず、一時(約2時間)ばかり過ぎて、外より
馬を駆けて帰ってきた。すぐさま御前へとでたが

「汝はこの夜中にどこに行っていた」

と尋ねられると、直政

「されば、今日の暮方より、屋敷内にて、なんとも怪しい風聞を聞きました。それ故不審に思い、
外の状況を確認しに出かけたのです。

流石に殿ほどの御弓取りに対し、大阪より御生害を進められるというのは只事ではありません。
万一にもこれが事実であれば、京・伏見に参勤の大名・小名が、この御館廻り、その他の辻々、所々に
押し寄せるでありましょうから、御館の近辺は申すに及ばず、近郷まで偵察し、少しでも心もとない
場所を見廻りましたが、どこの道も静かで、怪しいことはありませんでした。」

こう申し上げると、徳川屋敷での騒動は忽ち静まったという。

この風聞は江戸でも取り沙汰され、「内府公は御生害された」と言うものまであり、
これを聞いて江戸より、我先にと京へと馳せ登った。
さればその人々は、その日の未の刻(午後2時)から申の刻(午後4時頃)までの間に追々出立したが、
伏見に到着するのは遅速あって、早い者では3日、遅い者は5日で到着した。
瀬田の橋では昼夜3日の間、内府の人数が途切れなかったそうである。

こうして到着した人々が家康に御目見得した所、「お前たちはどうしてこちらに上がってきたのか」と
尋ねられ、しかじかの理由を申し上げると、

「何者がそういう事を言いふらしたのか知らないが、心やすく思うように。ゆるゆると休息し、
上方が初めての者達は、京伏見も見物して帰るように。」

そう仰せ下した。

これだけではなく、秀吉薨去が発表に成ってから、巡礼に出かける関東の百姓や御領分の民たちまで
聞伝えに、我も我もと伏見の御館に馳せ参ったそうである。これは領民たちも、大神君の神恩に
起伏した故なのだろう。

(武野燭談)


岡本大八事件を受けての処罰と処置

2017年03月04日 18:23

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/04(土) 02:29:30.81 ID:CyHrUAAx
3月11日(慶長17年)、小笠原権之丞榊原加兵衛以下、御旗本の輩
5,6人を改易なさった。伴天連の宗門に帰依している族である。

原主水正(胤信)も同罪の者であったが、逐電して行方知れずになった。

この時、大神君(徳川家康)の上意あって、今後旗本の面々は各10人組
とし、相互に吟味を遂げて、もし、その中にかの宗の徒がいれば、言上す
べしとの旨を、仰せ渡しなさったという。

――『関難間記』


岡本大八事件を受けての処罰と処置という話。


見物の群衆があちこちにできたところを、入れ替わりに

2017年03月01日 10:06

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/28(火) 21:57:04.37 ID:8MYd/WuV
 大阪御帰陣の時に、御道筋を船場までと仰せられました。
その後、玉造口までと仰せ出され、また船場口へと仰せ出されました。
小荷駄などはこの道筋をつかうようにと御下知があったので、
見物の群衆があちこちにできたところを、
入れ替わりに堀際をお通りになられたという。
御深意の程ありがたいことです。

『武士としては』