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冥加尽きて逆心があった

2019年08月29日 17:22

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/29(木) 16:48:58.29 ID:idWAWTqs
古田織部は家康公の御意に入り、御懇意だった茶道者である。そのうえで古田は度々功名があった。
しかしながら茶湯の沙汰ばかりで世上の武名は少ない。茶湯は害となるのである(茶湯害ト成也)。

御庭の物数寄を古田が致されたところ、(家康は)円座(敷物)を御手自ら古田へ敷きなさったの
だという。これによって諸大名は殊の外古田を敬った。

駿府で輝政様(池田輝政)を始め、御館で諸大名の列座で料理があった。その中半に古田が来られ
ると、皆が座を立って(古田を)膳に座らせた。その時、茶道が終わって「数寄屋を見なされ」と
連れ立って数寄屋を見せ、脇道から帰ったのだという。

古田は以上の通り諸人の崇敬があったのだが、冥加尽きて逆心があったのだという。

――『烈公間話』



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只今石田を殺したならば

2019年08月28日 15:51

161 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/28(水) 14:17:08.67 ID:9gs3r0Od
秀吉公御卒去の折、諸大名五奉行は大坂に参会した。この時、伏見で石田(三成)をこのついでに諸将は
殺すべく評議した。これに神君(徳川家康)は、密かに石田を御助けして御落としなされた。寄り合った
諸将は石田を重々憎み、殺したく思いなさった。しかしながら、家康公に従い奉るべしとは思わなかった
のだという。

この時に石田を御囲いなされたことは、本多佐渡(正信)の申し上げ故である。佐渡が申すには、

「只今石田を殺したならば諸将は皆公に背き申しましょう。今は石田を憎んで皆公に組しています。石田
の様子は、この分際でいるような者ではありません。大いに催して打ち出ることでしょう。その時に討ち
果たしなさるべきなのです。これ当理の謀なり」

案の如く石田は関ヶ原で大勢を語らい打ち出た。これ皆佐渡の智謀なり。後々年に至り、公が佐渡の申す
ことに御同心無き時に「何ぞ杉戸の際で申したことを御失念なされましたか」と度々申し上げられたのは
この事である。

黒田甲斐守(長政。原注:如水軒)が申されるには、「あの折に伏見で治部少輔を重々殺したく思った。
しかしながら、家康公に従い奉るとは思わなかった」と後々申されたのだという。(原注:右は如水軒が
光政公へ御直談申したのを(光政が)仰せられたと覚え申すものである)

――『烈公間話』




165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/29(木) 13:01:27.64 ID:bI7TkIMY
石田三成がいなくても、宇喜多秀家の動き次第では…。

166 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/08/29(木) 16:35:08.65 ID:lniIquuh
その時は金吾が総大将だな

167 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/29(木) 19:35:06.83 ID:BCVHUVku
それは無いな。宇喜多は内紛でそれどころじゃないし小早川秀秋は家康と争う理由が無い

その時、秀吉公も返事は無く、家康公も御言葉は無かった

2019年08月21日 16:16

330 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/21(水) 15:08:53.88 ID:j7HsFu40
岡野紅雪(板部岡江雪斎)という人あり。これは現在の岡野孫九郎(貞明)の先祖である。こ
の紅雪は小田原北条の旗下であった。小田原落居の時に紅雪は生け捕りで縛められ、秀吉公の
御陣にいた。

秀吉公は仰せられて「そもそも真田御陣の時、この岡野は表裏第一にして不届き者であった!
磔にも致したい者である!(真田御陣の時の)様子委細を尋ねよ!」と、御使をもって尋ねな
さった。紅雪は曰く「この事は人伝では中々申されぬことです。直に申し上げたい」とのこと
で、縄を取って引き立てた。

これを秀吉公は聞こし召され、「苦しからず」と御前へ召し出されて一々を御尋ねなさると、
一々を申し開き仕ったので命を御助けなさり、御咄衆になっておられたという。

ある時に京都において能を御興行の時、家康公が秀吉公へ仰せられて、

「小田原の北条は関八州の大将ですが、長く城も持ち堪えられず幾百日ばかりで落城しました。
降参していればこのような時に御物語りの相手にもなるだろうに、不甲斐なく百日ばかりで落
城したのは心残りの多いことです」

と仰せであった。その時に紅雪は末座にいたのだが罷り出て申し、

「天下の人数を引き受けた北条なればこそ百日は持ち堪えたのです。そのうえで第一の頼みに
存じていた家康が見放し申し上げなさったのですから、やり様もないことです」

と申した。その時、秀吉公も返事は無く、家康公も御言葉は無かったのだという。

――『烈公間話』

太閤能『北条』の時の話だったりして



331 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/21(水) 17:09:24.18 ID:Xyh7xlrF
>「天下の人数を引き受けた北条なればこそ百日は持ち堪えたのです。そのうえで第一の頼みに
>存じていた家康が見放し申し上げなさったのですから、やり様もないことです」

まったくの事実だが、家康も秀吉も黙らされた話って珍しいなw

332 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/21(水) 18:29:25.10 ID:Nl8+tmX0
どこまで名前かわからない人か

335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/21(水) 19:18:26.99 ID:KUwKnP2Z
>>330
痛快だなw

336 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/22(木) 00:41:05.20 ID:aOfLDkKJ
えらい胆力のある人だね

337 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/22(木) 09:07:29.18 ID:sq2PUUTe
>>332
すぐ近くに別の雪斎がいたからなw

赤絵の茶碗

2019年08月19日 18:07

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/19(月) 11:35:25.33 ID:RGdWfBRM
安藤治右衛門家によると、先祖の治右衛門(正武)が大阪御陣の時深手を負った折、家康公が赤絵の茶碗に
薬湯を入れ、御手自ら賜ったという。この茶碗は朝鮮王より太閤秀吉に贈られた三つの品の内の一つで、
その後太閤より家康公へ進ぜられたのだという。その銘に曰く(赤絵染付なり)

 十年窓下無人問 一挙成名知天下

これは治右衛門家が重器として持ち伝えている。虫干しの時に見た人が語った。


(耳嚢)



安国寺肩衝・異聞

2019年08月15日 17:16

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/15(木) 00:16:37.96 ID:ADdXVEMj
一つの肩衝と呼ばれる茶入を、安国寺長老(恵瓊)が甚だ珍重していたのだが、
これを榊原康政が甚だ賞美して、「宝貨に替えん」と思っていたが、安国寺は全く承知しなかった。

しかしながら上杉征伐として大神君(徳川家康)が宇都宮まで御動座あった頃、上方にて石田(三成)の
反逆の事が起こり、奥に上杉、後ろに上方の蜂起と、諸軍も驚き、君にも御心痛有ったが、ここで
康政が満座の中御前に出て

「上方蜂起、さてさて恐悦です。」

と、殊の外喜ぶ様子で語った。

「いかなれば康政はかく申すぞ。」家康が尋ねると

「上杉は旧家と雖も思慮が過ぎ、その上急速に御跡を付けるような事は無いでしょうから、聊かの押さえの
兵を難所に残して置かれれば、決してお気遣いされることはありません。

また上方は烏合の集まり勢ですから、何万騎有ったとしても恐るるに足りません。この康政が一陣に
進めば一戦に打ち崩すでしょう。

そして後勝利の上は、安国寺も石田の余党ですから、御成敗されるでしょうから、その時に彼の肩衝を
この康政の軍賞として頂きたい。」

そう申し上げると御心良くお笑いあそばされ、さらに諸士、諸軍とも勢いいや増しに強くなったという。

関ヶ原の勝利後、願っていたものを御約束通りに、かの肩衝は康政に下され、彼は秘蔵していたのだが、
台廟(台徳院:徳川秀忠)の御代、この肩衝を頻りにお好みになされ、康政に献上するよう命じたものの、

「これは軍功の賞として賜った重宝です、この義は御免を相願う」

と従わなかったため、秀忠も思し召しに任せること出来なかった。

ある時、康政が細川三斎(忠興)を正客として茶事があったとき、康政が水こぼしを取りに茶室を出た時、
三斎はこの肩衝を奪い、馬を乗り跳ばして御城へ出、上へ差し上げた。

康政の所では未だ客も帰らない内に、上使が現れ
『この茶入は兼ねて御懇望のところ、康政が差し上げないのも尤もな事であったので。今回三斎に仰せ付けられ
奪わせたのだ。』

とのよしを仰せ付けられ、康政には黄金何百枚かを下されたという。

この肩衝の茶入は現在は田安殿(御三卿田安家)の御物となり、甚だ大切にお取り扱いに成っていると、
これは肩衝を拝見した者が物語ったものである。

(耳嚢)

>>233 の内容が江戸後期の耳嚢になると、津田秀政だったのが榊原康政に変わっていたり、忠興が
これを奪った理由が徳川秀忠に命じられたために成ってたりと、時間が経つと逸話というものはこんなに変化
すると言うことがよく分かる内容である。

参照
安国寺肩衝


常々変わり者であった故

2019年08月12日 18:49

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/12(月) 18:41:01.21 ID:noQSFKLS
織田左門(頼長。有楽斎の次男)が秀頼(豊臣秀頼)から家康公へ御使に参った時、御当家(徳川
家)の御家老衆が玄関へ迎えに出られた。

左門は家老衆に向かいなさり「出たか」と立ちながら不礼に致され、御書院へ通り上座におられた。
いかにも鷹揚の顔色でおられ、小姓衆は覗き見て(左門が)元来変わり者なので密かに笑った。

その様子を左門は見なさり小姓が茶を持参などすると、いかにも不礼を申されて小姓衆を憎み、大
茶碗に熱き茶を持って来たのを見ぬ顔をして、長くそのままにして小姓衆は耐え難く、難儀させた。

その後大茶碗を取ると熱いまま食らいなさり、「しゃ!」と罵って投げ出し御座敷を汚した(其後
取テアツクテクラワレテ社トテ抛出御座敷ヲヨコシ)。家老衆が出ておられたのにこの通りである。

さて家康公が御出になり御返答が済んで帰る時にまた御家老衆が出られると、「さてさて迷惑を仕
りました。こちらへおいでなされ」と下礼を厚くして(左門が)申されるには、「先刻は上使なの
でやむを得ず不礼の仕方でしたが、今は元の左門になりました」と申されたのだという。

常々変わり者であった故という。

――『烈公間話』

「社トテ」は次の意味にしました
しゃ( 感 )
人をあざけったり、ののしったりするときに発する語。 「 -何事かあらん/浄瑠璃・最明寺殿」



阿茶の局

2019年08月09日 17:44

阿茶局   
136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/09(金) 01:21:41.59 ID:7qMAvHNA
阿茶の局は飯田筑後(直政)といった者の娘で、今川の家人・神尾孫兵衛忠重の妻である。

天正5年(1577)7月、忠重に先立たれて同7年に東照宮(徳川家康)に仕え奉り、阿茶の局
という。その子の五兵衛は僅か6歳であったのを長丸君(徳川秀忠)の扈従になさった。(原注:
寛永の家譜には、五兵衛守世は天正11年(1583)に初めて見参して15歳であると記す。家
の伝えに誤りがあるか)

この局は殊に出世した人で(家康が)大方御陣中にも召し連れなさる程のことだった。慶長19年
(1614)の冬、大坂の御陣でも常高院殿(初)に連れ添って城中に入り、御調停の事を(家康
の)思召すままにやり遂げ、この局の才覚の程が知られた。

東照宮が神去りませし(逝去した)後、江戸に参ったので竹橋の内に宅地を賜り、また中野村に3
百石の地を宛て行わられた(原注:寛永の系図に清水門の内に『一位様』と記しているのは、この
女房のことである)。

 元和7年(1621)の6月、台徳院御所(秀忠)の姫君(和子)を内裏に参らせなさる時、
 忝くも御母代に参って都に上り、従一位に叙されたので世では“神尾一位”と申した。されど寛
 永の系図にはこの事が見えず、ただ『一位と号す』と記している。

寛永9年(1632)に台徳院が御逝去なされて後、局は出家して“霊光院”という。これより先の
慶長6年(1601)の頃、東照宮の御許しを得て、神田の伯楽町に一寺を営んで“龍徳山光厳教寺
雲光院”と名付けたので、今自らの号をこのように言ったのだろう(原注:この寺は明暦の火の後、
神田田所岩井町に移され、天和3年(1683)に再び深川に移された)。

かくて年は積って83歳、寛永14年(1637)の正月に病重篤に及ぶと(徳川家光は)聞こし
召し、酒井讃岐守忠勝朝臣をもって見舞いなされ「望むことあらば申すべし」とあれば、「雲光院
に寺領を賜りたい」と望み申したので、それならばと50石の地を寄せられたのである。この月2
2日に亡くなった。それから雲光院で後の法要があって御弔いに白金千両を賜われた。

五兵衛守世もしきりに登用なされて、従五位下の刑部少輔になる。母のお陰といいながら、自身も
器量のあった人であるという。弟の内記元勝というのは尼公(阿茶)の養子で、真は松平周防守康
親の家人・岡田竹右衛門(元次)の子であったのを、尼公が布施兵庫の娘に合わせ子になされたの
である。これもしきりに出世して寛永15年(1638)の5月、町奉行の職に補せられ叙爵して
備前守に任ず。寛文元年(1661)に致仕し、同2年に入道して宗休と号す。世に“三老人”と言
われた1人であるという。守世と元勝の子孫は多い。

――『以貴小伝』



家康の事は良きように頼み入ります。恐惶謹言。

2019年07月29日 17:29

122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/28(日) 23:37:06.23 ID:wJxV0U2v
(永禄13年)

駿河田中に御逗留の間に、織田信長より佐々権左衛門(長穐)を使者にして御音信があった。唐の頭20・
毛氈3百枚、そして猩々緋の笠。これは4年前に公方の霊陽院殿(足利義昭)と都へ御供仕り征夷将軍に備
え奉った時のもので、「弓矢に縁起の良き笠です」と信長は申されて、信玄へ送り進上なさった。

信長の使者がいる所で土屋平八郎(昌続)にその笠を下され、「信長の武辺にあやかれ」と信玄公は仰せら
れた。唐の頭は奥近習衆に下され、籤取りを仰せ付けられた。そうして2月下旬に江尻へ御馬を寄せなさる
と、江尻までまた織田信長より飛脚を御越しになされた。その御状は、

 三河岡崎の松平家康(徳川家康)は、私めが取り分けて目を掛けている者ですので、御引き回しを頼み
 入ります。そこで、その地に今川殿へ前々より差し置いていた家康の弟(松平康俊)を召し置きなされ
 ているそうですが、幸いですので家康の人質として甲府まで召し連れなさって、御心安く御用などを仰
 せ付けられますようにと、家康も私めの方へ申し越していますのでこの次第です。家康の事は良きよう
 に頼み入ります。恐惶謹言。

   2月18日                           織田上総守
      甲州法性院殿 人々御中                      信長

――『甲陽軍鑑』



山上宗二は顔つきが悪く、口も悪く

2019年07月28日 15:22

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/28(日) 11:58:49.11 ID:81YcgESZ
山上宗二は薩摩屋ともいい、堺の上手であり、物知りとしても超えるものが居ない人であったが、
なんとも顔つきが悪く、口も悪く、人に憎まれていた。
小田原御陣の時、秀吉公にさえも御耳に触るような事を言い、その罪として耳と鼻が削がれた。

彼の子は道七といい、故太政大臣様(徳川家康)の茶堂として御奉公をしていたが、父譲りの
短気な口悪者で、上様が風炉の灰をされたのを見て、それを突き崩してやり直したため、改易と
された。彼は牢人して藤堂和泉守(高虎)殿が伊予に在国されていた折に伊予へ下り、その事についての
申し開きをした。私(久保長闇堂)も居合わせて一冬話したことがある。

(長闇堂記)



大坂との御誓詞の御取り替え

2019年07月20日 16:05

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/19(金) 19:24:59.07 ID:jR8ot1a1
大坂と御和睦が調った折に御誓詞の御取り替えがあり、大坂方より木村長門守(重成)と
郡主馬(宗保)が御血判拝領の御使者にやって来た。

その折に両人は御次の間におり、顔を出すまでで退いたそうで御威光に恐れたのだという。
こちらからは板倉内膳正(重昌)が遣わされた。

(原注:世上では両人が御前を憚らなかったと申すが、その折に村越茂助道半(吉勝。道
伴)が御前に詰めておられて見申されたという。木村は色白い大男で羽織袴だった。郡は
60歳程の小男で、黒羽二重の袖無し羽織を着用していたという)

――『石道夜話(石岡道是覚書)』



直江も腰をかヽめ候迄の由

2019年07月19日 14:59

278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/18(木) 19:31:33.07 ID:wMVJRuAB
外桜田南通の石垣は上杉景勝に仰せ付けられ、権現様(徳川家康)も度々御見分ならせ
られて御指図遊ばされた。

上杉家の家老・直江山城(兼続)が罷り出て御挨拶申し上げれば、権現様は直に肩を御
押し遊ばされて、かれこれと仰せがあった。直江も腰を屈めるだけであったという。

(権現様直に肩を御押被遊彼是上意有之直江も腰をかヽめ候迄の由)

――『石道夜話(石岡道是覚書)』



立花宗茂と舞

2019年07月18日 13:46

92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/18(木) 01:57:19.10 ID:tnxIIaJa
一、正月3日の御謡初に、外様より立花ならびに有馬左衛門佐様などが先例によって今も御登城
  なさる。

  古左衛門佐様(有馬直純)の御話によると、権現様(徳川家康)が駿河に御在城の時、御先
  祖は乱舞を御好みであったので御能をなされた。その折に御相手として呼びなさり、度々登
  城されたという。

  この例によって(有馬家などの当主は)今も御登城なされるのだという。

一、立花飛騨守(宗茂)は大献院様(徳川家光)の御合口で御夜詰にも御登城されたという。

  ある時の御酒宴は長くなって各々順の舞が始まり、品々の芸を尽くして御興を催された。立
  花の順番になり、(家光が)何ぞ御肴に一曲と御所望されたところ、御次の間で支度をなさ
  り、羽織をかぶって尻を端折り(着物の端を折って帯に挟み)、扇を咥えて鷺舞(八坂信仰
  の伝統舞踊)を舞われて出なさったので、甚だ御機嫌であったという。

  久野左門殿(宗辰。御小姓となり一時期御勘気で阿部忠秋に預けられた)の御話である。
  
――『石道夜話(石岡道是覚書)』



94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/18(木) 10:36:52.65 ID:L637dIKf
>>92
ほい

京都・八坂神社にて津和野の鷺舞を奉納
https://www.youtube.com/watch?v=uwCH6lhQS2w


101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/20(土) 10:44:59.33 ID:cnhTDBxw
>>92
宗茂って本当に芸達者だったんすねぇ…

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/20(土) 12:59:56.13 ID:SUvmqEbQ
>>101
文武どころか芸事まで達者とは、ほんと完璧超人

田島の屋敷

2019年07月09日 18:29

235 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/09(火) 15:32:28.95 ID:xtfu1St6
大神君(徳川家康)は忍の近辺で御鷹野をなされた。その節、岩松万次郎殿(守純)は御先祖である
新田の御末葉で、御尋ねになったところ新田に幽居して郷民どもは尊敬し、助力仕っているとの由が
御聞に達した。

そこで御会い遊ばされる旨を仰せ出された。これにより(岩松が)忍に参られて御目見した時、岩松
は、当家は嫡流で大神君は御末葉(当流之嫡流大神君には御末葉)との由を以前から家自慢申されて
おり、御前でも同様で、「内府は結構な御巡り合わせです。目出度い(内府は結構之御仕合目出度)」
との由を仰せ上げられた。

これにより大神君も驚き思し召し、御物も仰せられず内に御入りになったという。その後「餓死せぬ
ように」と仰せ出されて、御代官所より20石ずつを進め来たるという。

忠秋公(阿部忠秋)が忍を御拝領の折、御代官中より申し継いだので此方様方(忠秋)より20石ず
つを岩松殿に進めなさり、その後、厳有院様(徳川家綱)の御代に忠秋公は仰せ上げられ、岩松は御
先祖様の御筋目なので御知行を下されるように御世話をなされた。

当時は万次郎殿(富純か)の御亡父(秀純か)の御代で、御知行の屋敷まで御拝領を仰せ出された。
御知行の場所も良き所を渡すように御代官所に仰せ渡しなさったので、此方様(岩松)は御家の御厚
恩と思し召したとの由で、御知行の所も百石御拝領したところ、3百俵程を納めたという。

屋敷も3万坪あって林の惣囲いだという。“田島の屋敷”と申す。

(原注:義貞公(新田義貞)の御居城は分かっているけれども、御当家(徳川家)御先祖の有親公・
親氏公の御居住の場所は分からないという。もしかすると、只今の万徳寺比丘尼の所に大木などがあ
り、景色は常ならぬ場所というが、「ひょっとして、ここでもあろうか」と岩松万次郎殿は仰せられ
たという)

――『石道夜話(石岡道是覚書)』



236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/09(火) 21:03:41.02 ID:g5uv+C8i
系図貸してって呼び出した時のお話か
岩松は足利義兼の庶長子の出であり且つ源姓畠山の祖でもあるからプライドは高いんだろうなあ

237 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/09(火) 23:28:48.29 ID:AaMMFxaz
岩松家を下克上し、守純にとっては親父の仇・由良氏を召抱えてて
そんなのが新田を仮冒して一門面して会いたいって言ってきたわけで……
皮肉の一つもいいたくなるでしょ

238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/10(水) 07:56:39.66 ID:EhSynLtZ
なるほど
そうでもなきゃ神君怒るよね

安国寺肩衝

2019年07月09日 13:25

233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/09(火) 00:25:24.04 ID:0PpH8yMY
三斎公(細川忠興)は、父幽斎より譲られた肩衝(茶入)を、心にかなわないと安国寺恵瓊へ一千貫で売られた。
その後、安国寺恵瓊が処刑された折、この肩衝は徳川家康公の元に献上された。

ところで安国寺恵瓊の処刑の原因と成った石田三成の乱(関ヶ原の戦い)の時、津田平左衛門(正しくは小平次、
秀政)が家康公に
「天下がお手に入ること必定でしょう、その仕置の際、多数の肩衝が献上されると思います。その中から
必ず拝領をいたしたく思います。」
と申し上げた所、家康公は非常に機嫌よく「そのこと、そのこと」と申された。

合戦後、予想した通りに1日だけで肩衝が16も献上された。この時津田にも新たに領地を与えるとの
上意であった所、「忝ない事ですが、青野ヶ原(関ヶ原)で申し上げましたように、御加増よりも
御茶入を拝領いたしたいのです。」と重ねて言上したため、「尤もである」と、この安国寺肩衝を拝領した。

その後これを三斎公が一万貫で買い取り、中山と銘をつけた。
(筆者注:この時忠興は安国寺肩衝を黙って懐に入れ持ち帰り、後で代銀を届けたという)

この肩衝を見た時、三斎公はこのように詠まれた

 年たけて また越ゆべしと思ひきや 命なりけり佐夜の中山

これは西行法師が関東での修行から帰る時に詠まれたもので、「下るときはまた越えねばならないとは
思っていなかったのだが、今越えることとなった。命が有ればこの佐夜鹿峠のような難所を越えるという
憂鬱な目にも逢うものだ。」という意味である。

この茶入は子息の越中守(忠利)に譲られましたが、後に越中守は金子1600枚で酒井宮内少輔(忠勝)に
売却されたという。

(三斎伝書)

関連
細川忠興と『有明の茶入』
安国寺肩衝・異聞


まったく家康は只者ではない

2019年07月02日 17:36

60 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/02(火) 01:55:04.11 ID:epDKg5+D
ある時、長遠寺の所へもてなしに、馬場美濃守(信春)・内藤修理正(昌豊)・高坂弾正・山県三郎兵衛
(昌景)・原隼人佐(昌胤)・小山田弥三郎、その他各々大身衆が寄り合って1日の雑談があった。

その内、山県三郎兵衛は駿河江尻の城代なので、遠州浜松の家康の噂をよく聞いていて申された。「内藤
殿は関東・安房・佐竹・会津までのことを語りなされ。小山田殿は小田原の近所なので北条家のことを語
りなされ。高坂殿と馬場美濃殿は越後・越中までのことを語りなされよ」とあって、山県は申される。

「さて、家康は義元公討死より以降10年の間、内外の国持ちであるが、駿河の盛りの作法を幼くして見
聞きしたことであろう。信玄公の奉行衆が公事を裁く、その様子に少し似ているようだ。

何であっても公事の落着は目新しいことを聞かないが、それは昨今の家康が国持ちである故で、各々の感
心なさることはまだ10年過ぎてもないことだろう。あの若き家康が申し付けた3人の奉行は、三様の形
儀を言い付けられたと見えて、“仏かうりき・鬼作左・どちへんなしの天野三兵”と浜松で落書が立てられ
たと聞く。

さてまた、ひととせ私めどもが30歳ばかりの時分、信州更科の出家の公事で、武蔵殿と櫻井殿が若き時、
今井殿ばかりが家老で今福浄閑(友清)が中老であったが、4人は歳も形儀も異なっていたのを、奉行に
信玄公は仰せ付けられた。その様子に、これ程の家康が少しずつ似ているのは不思議である」

と山県三郎兵衛が語れば、馬場美濃・内藤・高坂各々は申されて「まったく家康は只者ではない」と言わ
れた。その中で馬場美濃が申されるには、(後略。>>52)

――『甲陽軍鑑(品第四十下 石水寺物語)』



信玄公御座なくば家康を信長ころし候はん

2019年06月30日 15:09

52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/30(日) 14:09:52.24 ID:sks/4Xkg
一、信玄公の御仕置で、諸々の境目の侍大将衆へ近国・他国の大将の行儀・作法・仕形を聞き出して、
  その次第・善悪ともに一書にして言上致せとのことに付き、ある年に遠州犬居の天野宮内右衛門と
  申す侍大将の所より進上仕った書き付けによると、

  「美濃岐阜の織田信長へ周り1尺の桃3つがなったのを枝折りに仕り、霜月中の10日に上げると、
  信長は差し引きの冴えた名大将で、表面は事を破っても内心では時によって一段と練ったことの多
  き武士でいらっしゃった。

  そのため、桃の大きさに心祝いして1つは信長が召し上がり、また1つは嫡子の城之助信忠へ参ら
  せられ、3つ目を遠州浜松の徳川家康公へ送りなさった。家康は『世の常ならずかたじけない』と
  の返事をなされ、その桃を隠して捨てて家康が食う給うことはなかった」

  この事を天野宮内右衛門は書き付けて上げた。一書の多い中でこれは左程の事ではないと存じてこ
  そ、末にいかにも粗相に書いてあるのを信玄公は御覧になった。その書き付けを御手に取りなさり、
  しばらく目を瞑りなさって後に御目を開いて宣うには、

  「家康は今年きっと30歳ばかりであろう。40歳に及ぶ殊に大身の信長に、五位も増して締まり
  所のある分別だ。

  流石に武士の心遣いなき者ならば、『歳相応に似合わぬ』とも申すだろうが、三河国を治めようと
  19歳から26歳まで8年の間に粉骨を尽くし、戦功の誉れ形の如くなれば海道一番の武士と申し
  ながら、日本国にもあまり多くはあるまい。

  丹波の赤井(直正)・江北の浅井備前守(長政)・四国の長宗我部(元親)・会津の盛氏(蘆名盛
  氏)、若手にはこの家康であろう。

  さて時過ぎたる(旬の過ぎた)この桃を捨てた分別は、出世を考えてこうしたのだ。その出世とは
  年明かば吉事なり。この意味は馬場美濃(信春)・内藤修理(昌豊)・高坂(弾正)はきっと合点
  仕るだろう」

  と宣ったのである。

一、(前略)その中で馬場美濃が申されるには、「家康の身の上について私めは見及んでいる事がある。
  美濃の命を今20年生きて、この考えが当たるか試したい。20年生きれば80に今少しだ。鉄の
  鎖で繋いでも成らぬことを願うている」と言って笑いなさった。

  高坂弾正は申して「家康の身の上を何と馬場殿は考え給うぞ」と問えば、美濃は申されて「流石の
  弾正殿ならば、私めより早く考えがあるだろうに」と言った。すると小山田弥三郎は手を合わせて、
  「御両所の考えを願わくば聞きたい」と頻りに所望した。

  高坂は申して「美濃殿の考えを承りたさに、私めが下座から申そう」と、弾正はすなわち言う。

  「家康は今信長と二世までの入魂により両方が加勢を助け合い、それ故2人は堅固なれども信長の
  敵は上方14ヶ国の間で、信長に国を取られないことを基本として、信長の国へ取り掛けようと存
  ずる武士は1人もなき故に、この如く次第に大身となった。家康はいつまでも三河一国と遠州の3
  分の1なので、ついには家康は信長の被官のようになって、後に祝言は致した(終には家康信長被
  官のやうになりて後祝言は申しつ)。

  信玄公が明日にも目を塞ぎなされば(明日にでも死ねば)信長は安堵して、(かつて)今こそ嫡子
  の城介殿と同じに思うと3つの桃を1つ(家康に)送ったけれども、強敵にして大敵の難しき信玄
  公がおられねば、家康を信長は殺すことだろう(強敵大敵の六ヶ敷信玄公御座なくば家康を信長こ
  ろし候はん)。

  それで大事ないのならば、家康の果報は少々の藪神とは考えなりかねよう」

  と高坂が言えば、馬場美濃は大誓文を立てて「私めもそれなり」と言う。内藤修理も同じく誓文し
  てその通りであった。

――『甲陽軍鑑(品第四十下 石水寺物語)』



53 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/30(日) 18:12:33.34 ID:jSCm0gOK
まあ家康の腹のうちは分かるとして
藪神ってなんだろ

54 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/30(日) 21:32:26.64 ID:lN9ljRxX
>>52
傷んだ桃食べたら命に関わるから食べなかっただけじゃないのん?
それは石田三成の逸話か

55 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/30(日) 21:53:44.71 ID:sSNhz914
柿じゃねぇんけ?

56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/30(日) 22:16:13.98 ID:jK95gmra
TERUから秀吉に贈った桃を旬じゃないからって送り返した逸話があった気がする

57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/30(日) 22:39:53.21 ID:SUOfy+Yz
甘いもの好きなノブが桃を貰って捨てるわけがない

58 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/01(月) 00:20:46.00 ID:fSFnRT/t
森忠政「桃で人死なねーだろJK」

信玄の最期

2019年06月18日 16:53

175 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/18(火) 16:18:05.19 ID:XHJKzrW+
元亀3年(1572)12月、信玄は遠州表へ働く。信長・家康はかねて一身となっていたので、尾州よ
り家康へ加勢があった。信玄は井の谷へ押したところを、家康衆が足軽を掛けて合戦を始めて攻め戦った
ところ、家康衆と尾州の加勢衆は敗軍した。これを遠州三方ヶ原の一戦という。

「掘田の郷へ敵をやり過ごして合戦すれば家康の勝ちであったろうに、家康衆を遣って合戦を仕掛けて負
けになった」との批判があった。

その明年正月11日、信玄は三河の野田の城を攻め落とそうとして不慮に鉄砲に当たり、この傷を色々と
養生したけれども叶わず、ついに逝去した。(後略。>>113

――『北条記』


天正元年(1573)正月7日に信玄公は遠州刑部を御立ちになった。(中略)その後、信玄公は御患い
が悪くいらっしゃり、2月16日に御馬を入れた。

家康家・信長家の誰人の沙汰か、信玄公が野田の城を攻めようとして、鉄砲に当たり死に給うと沙汰仕る。
皆虚言である。およそ武士の取り合いでは、弱き方より必ず嘘を申す。越後の輝虎との御取り合いでは、
敵味方ともに、嘘を申した沙汰はついになかった。

たとえ鉄砲に信玄公が御当たりであっても、それが弓箭の瑕(名折れ)になることはない。長尾謙信(上
杉謙信)は武州忍の城において堀の端に馬を立てておられたのを、城の内衆は輝虎と見て鉄砲を寄せて、
いかほど撃ってもついに当たらなかった。その鉄砲に謙信が当たれば、結果強き大将と誉めはすれども悪
くは申すまい。

すでに信玄公が信州川中島において謙信に勝ち給う時、謙信が名馬の放生月毛を乗り捨てられた。これを
長坂長閑(光堅)が取って乗り、「流石の謙信も馬を捨てられた」と長閑が申せば、信玄公は大いに怒り
なされ、「馬がくだびれたならば乗り換えても構わないことだ。そして乗り換えた時に合戦が負けとなれ
ば、中間どもは馬を捨てて逃げることだろうに、それを輝虎が弱いとは一段と無穿鑿な申しようだ!」と、
長坂長閑を悪しく仰せられたのは、3年目に聞こえたことである。

輝虎が川中島合戦の時、和田喜兵衛が一騎で供を仕って退いた。そうして越後へ到着して馬から降りると
同時に、喜兵衛を謙信が手討ちに致されたのを信玄公は聞こし召して、「さては謙信ほどの侍も後れてし
まっては、ちと取り慌てることもあるのだろう。武士は誉めるも謗るも、踏まえ所をもって沙汰するもの
である」と信玄公は仰せられたのである。

――『甲陽軍鑑』



177 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/19(水) 12:22:42.43 ID:Er11dkC4
>>175
たんに長閑を悪く言いたいだけ

逆に刀を抜きにくくするためではないか

2019年06月05日 18:06

976 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/06/05(水) 05:30:40.54 ID:A00DAIsm
伏見彦太夫

977 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/06/05(水) 05:36:08.37 ID:A00DAIsm
おっと、誤って途中送信
伏見彦太夫をggったらこんなのも出て来たわね。
小田原田宮流・居合道日誌
http://odawara-tamiya.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/post-f2c1.html


 太刀は刃を下にして佩き、刀は刃を上にして帯刀します。刃を上にして帯刀するのは抜き打ちしやすいからと、居合の稽古をはじめた当初先輩方から教わりました。
しかしです。稽古が進んでわかったのですが、柄に手をかけてから敵を打つまでの時間を考えたら、刃を下に帯刀しておいて逆袈裟に抜き打つほうが断然早い。
刃を上に帯刀するようになったのは抜き打ちしやすいからではなく別の理由があったのではないか、と小子は考えたのです。
大阪歴史博物館所蔵の「関ヶ原合戦図屏風」(通称津軽屏風)を見ますと、徳川家康をはじめ足軽にいたるまで全員が具足の腹帯に刃を下にして刀を差しています。
大事な戦ですから抜きにくく刀を差すわけがない。
この屏風からわかるのは戦国武士は刃が下のほうが抜きやすいと考えていたということ。ということは刃を上にして差すのは、居合の先輩方の言うこととは逆に刀を抜きにくくするためではないかと疑ったのです。
家康の配下に伏見彦太夫という武将がいました。
彼は三尺五寸の大太刀を佩いていまして、接近戦では刀身の長いほうが戦闘に有利と家康に説明していました。松平甚兵衛信直がこれをまねて大太刀を佩くと、家康は、家柄すぐれた者が軽薄な挙動をしてはならぬ。
今日の身なりは馬の口取りか槍持ちにしか見えない。どうみても大将には見えない。大将が進んで卑賤の者の身なりを真似るとはなにごとかときびしく叱った、という話があります。(以下略)

むしろこれは悪い話かな?

参照
薙ぐのではなく突くのが良い


978 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/05(水) 12:47:58.75 ID:6wmhzr00
そりゃ抜きやすい差し方してたら「こいつ抜き打ちしようとしてんのか?」って思われるからなw
収めてる状態は抜かれてる状態とは明確に違っていなければならんのだよ

979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/05(水) 13:50:13.01 ID:o/rFtl08
吊り下げ式だとあちこちに当たって屋内での生活が不便だから刃を上にするようになったと聞いた

980 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/06/05(水) 13:58:13.14 ID:P9pXNNwO
>>978
>>977の略された後に書いてあるけど、ある意味平和になった時代の新たなエチケットみたいなものかねぇ。

981 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/05(水) 14:06:02.93 ID:6wmhzr00
しょっちゅう斬り合いが起こる世の中の方がそういう事は大事だと思うが

982 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/06/05(水) 14:26:16.20 ID:P9pXNNwO
>>981
家康の元和偃武以前も当然、色々有ったとは思うけど、明文化であったり厳格化していくのは徳川幕府開府以後じゃないかな?
信長が配下に茶の湯を推奨したのも礼法やマナー、コミニュケーションを学ばせる為とか聞き齧った覚えあるけど、中には実際に発狂して上司に斬りかかる例(堀秀政の部下)とかあるし…

985 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/06(木) 11:09:12.75 ID:d8YutnuM
>>979
鞘が割れて足を切る恐れがあるので上にすると聞いたなあ

986 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/06(木) 23:48:22.34 ID:Z73LzRSh
関ヶ原合戦図屏風では見栄えをよくするために当時は廃れてた大鎧着させてて
大鎧の刀の履き方は刃先が下なのでそこだけ当世流にするのも変だから下にした的な美術的嘘の可能性も

987 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/07(金) 07:57:46.02 ID:Y37lKTnG
絵面を考えて盛るのは今も昔もなんやね

996 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/08(土) 10:33:52.10 ID:J0ioPPi1
刃を下にして差すのは甲冑を着た時の作法だゾ
鎧をつけたら腰のひねりが使えなくて、常寸の刀でも抜きにくくなるから
刃を下に差しておいて、上に抜き出すんだゾ

永井白元の健脚

2019年06月04日 17:02

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/04(火) 00:48:00.85 ID:iE7rsSRT
現在三千石で寄合である永井氏の先祖は、大監物、なを白元と言った。初め井伊氏に仕え、それより加藤氏に
仕え、後に御当家(徳川家)に召し出された人である。

この家譜によると、豊太閤(秀吉)在世の時、烈祖(家康)が大阪城に登られた折に、太閤より
「放鷹の時期であるから、下向在るべし」と云われ、未刻(午後2時ころ)ばかりに退出され、町の末より
深尾清十郎が献上した葦毛の馬に乗られたが、御早乗り故、供奉の輩続きかねた。そのような中でも白元と
岡部小次郎の両人だけは遅れず供奉して、伏見の邸に到着したのは酉刻(午後6時頃)過ぎであった。

また関白秀次謀反の時、家康が早駆けにて上洛した時も、この両人は代るがわる御腰物を持って、土山駅まで
供奉したが、小次郎は疲れたのか、この駅に泊まって翌日出立の時、御腰物は監物に持たすべしと命ぜられ、
未刻過ぎる頃伏見に御着きになった。

また忍、河越での御放鷹よりお帰りに成る時、志村台より本多上野介(正純)が献上した鹿毛の馬を召されて
いたが、これが殊の外早く供奉の者続かず、白元一人のみこれに続いて供奉した。そうして府の大橋に
至るあたりで慮外者が現れ、上(家康)に対して「走り競べせん!」と云うまま、御馬に続いて阿部伊予守の
邸の前まで来たところで、監物に対し「その者の腰刀を取り上げるべし」と仰せが在ると、白元は即座に
その腰物を奪い取って、かの物を追い退けたという。
その当時の君臣の健強たること想像るべきであろう。また大橋で現れた慮外者も奇男子である。
この頃の風儀もこの話からまた見ることが出来ると、林氏(林家八代林述斎か)が話されていた。

(甲子夜話)

現在神奈川県横浜市戸塚区にある永井監物陣屋でも有名な永井監物家の祖、永井白元についての逸話。



972 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/04(火) 01:35:14.72 ID:9dQMXq0w
>現在神奈川県横浜市戸塚区にある永井監物陣屋

ググったけど何の遺構も残ってないお

973 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/04(火) 08:53:57.32 ID:yjPfJm9C
要するに現代人(これが書かれた時の)とは比較にならんほど頑健ですということかな?

974 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/04(火) 10:15:04.34 ID:sp0CLkxm
前田慶次が走り競べしたんかな

975 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/04(火) 11:25:22.51 ID:reHBASnN
創作のイメージだと、慶次が腰のものを奪われて追い払われるところが想像できない

984 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/06(木) 00:23:33.62 ID:wGIK0Atm
>>971
>慮外者が現れ、上(家康)に対して「走り競べせん!」と云うまま、御馬に続いて

徒歩で馬と走り競べ?
上は食い逃げでもしたのかな

薙ぐのではなく突くのが良い

2019年06月03日 18:16

965 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/03(月) 16:00:54.42 ID:1XslYMgI
神祖(徳川家康)が遠州袋井縄手にて御鹿狩りの時、御徒士に伏見彦太夫という者があったが、彼は
三尺あまりの長刀を帯していた。これを見た家康が「その刀はどう使うのだ」と尋ねたところ、
彼は「敵の足を薙ぎ払います」と申し上げた。これに家康は「甲冑をしている敵にはそのようにしては
通じない。鑓にして使うべきだ」と仰せになったという。これは「薙ぐのではなく突くのが良い」という
事である。

(甲子夜話)

関連
逆に刀を抜きにくくするためではないか


966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/03(月) 19:11:33.23 ID:20dOUEtw
鹿を突くんですか

967 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/03(月) 19:20:04.31 ID:yPPZs8yN
突くんだったら羊がいいぞ by イギリス人水兵


969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/03(月) 20:54:47.48 ID:rLhGWBlT
御放鷹のおり伏見彦大夫某が三尺五寸の大太刀に、二尺三寸の差添を十文字にさし違ひ、山路を走廻ること平地のこどし。
君(家康)御覧じ、「汝が剛勇比類なし。その太刀抜いて見せよ」と宣ひしかば、
彦大夫直に抜放して二振三ふり打ふりしに、太刀風りんりんとしていとすさまじ。
仰に「汝は尺の延たる刀の利を知るか」とあれば、
「たゞのべかけて敵を一討に仕るばかりにて外に心得候はず」と申せば、
「いやとよ寸の延たる刀は、鎗にあてゝ用ひんが爲なり。向後わすれまじ」と教へ給ひし也。(感状記)

『徳川実紀』引く『諸家感状記』

これだと大太刀は鎗にするのではなく、対鎗用に使うものだと彦太夫に教えてるな
ランツクネヒトのツヴァイヘンダーみたいに槍の柄を切り折るのを想定してると思われる


970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/03(月) 23:19:39.51 ID:Q+e2+3Zc
>十文字にさし違ひ、

ここが図でみたいな