我が孫に似合いたる申し付け様なり

2018年05月25日 20:08

950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/25(金) 14:41:32.99 ID:xEuNUbXd
我が孫に似合いたる申し付け様なり


尼崎城は池田家の縁者で幼少の建部三十郎(政長)が城主だったため
慶長19年5月21日、家康は池田利隆の家臣池田重利を摂津尼崎代官とした。

10月27日、家康は池田利隆を呼んで
「尼崎は西国往来の要路で兵糧運送の喉である。これを大坂に取らせては
 ならないので、早く播州に帰り多くの士卒を尼崎城に入れて守るように」
と指示したので、利隆は家臣の田宮対馬(長勝)*らを送っていた。

ところが大坂の陣が始まると、尼崎城では進軍用の小舟を借りにきた
片桐且元を疑い取り合わなかったので、城の周りの片桐の兵が大野修理亮に
多数討ち取られて、茨木城に帰っていく事態となった。

大いに怒った片桐は使者を板倉伊賀守に送り、板倉が関東に伝えると
大君(家康)も大いにお怒りになり
「武蔵守(利隆)の者共が尼崎にありながら
 どうして片桐の兵を見殺しにしたのか糺明せよ」
と板倉に仰せ付けた。

板倉が西宮に陣取っていた利隆公のところに来てそのことを申したので
利隆公も大いに驚いて
「私はそのことを知りませんでした。尼崎の者共に訳を聞きます」
と言って尼崎に使者をやり穿鑿させた。

尼崎の者共が"そもそも片桐を助けたくても無勢なので助けられなかった"と
返答しようとしたので、田宮が進み出て
「その返答はよくない。ここは要路なので多勢をもって固めるようにとの
 直接の上意だったのに、城中が無勢だったとは申すべきではないだろう。
 それがしが申し分を考えよう」
と言ったので、使者には田宮が考えた以下の申し分を返答した。

片桐の兵が討たれているとき、尼崎城中では助けようとしたが田宮対馬と
申す者が出てきて"お助け無用"と止めてきた。田宮に理由を聞くと
「城をよく固めよとの上意で武蔵守殿が我々を配置したのだし、尼崎は
 海陸に道があるので一方より誘き出され、搦手の納戸のような所から
 攻め落とされたらひとたまりもない。天下の大事に比べれば片桐の者共を
 助けないことは落ち度ではない。この西国咽頭の要害を敵に取られる方が
 主君の弓矢の落ち度になり、天下の大事になってしまうのだ。」

「迂闊に城を出て、敵に足元を掬われたらどうする。ここの難波口木津表で
 中入りによって原田備中(塙直政)は討死し、それで信長公は災難に遭われた。
 勝入公が長久手で敗軍したのも、中入りの手立てが不調に終わったからだ。
 一人も助けに出てはいけない。大体片桐の兵のようではあるが、万が一つ
 我々を誘き寄せる為の大坂の偽兵かもしれないのだぞ」
と田宮が申したので、城兵で相談して片桐勢をわざと見殺しにしました。

使者からこの返答を聞いた利隆公は、この趣を一書にしたためて板倉方に渡した。
大君がこの一書を御覧になって
「輝政は日頃矢に念を入れていたから、下の者もその風を忘れずにいたのだな。
 今度の仕方は、我が孫に似合いたる申し付け様なり。
 尼崎城外で何があろうと出合いはせずよく城を守るように」
と仰せになり事が済んだという。


――『池田氏家譜集成』

* 池田利隆の家臣。のちに家康の命により徳川頼宣の家臣として800石で仕える。
 居合を主とした剣術「田宮流」の2代目とされる。



951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/25(金) 18:29:45.98 ID:4ko1/ESr
抜刀田宮か
修羅の刻で見たような記憶が

952 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/25(金) 20:21:58.17 ID:Lm1qhWqo
充分に兵力を入れていなかったのを、いい抜けた話か。

953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/25(金) 23:54:44.12 ID:cMVWVWaf
片桐の兵共々鉄砲で追い払えば良かったのに

954 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/26(土) 18:48:06.81 ID:HOWgnCDb
そんなことできるのは伊達さんだけ
スポンサーサイト

山中行軍での用心

2018年05月17日 17:55

902 名前:人間七七四年[mage] 投稿日:2018/05/17(木) 14:36:46.05 ID:K//rCD5n
山中行軍での用心

ある時、家康公が山中を行軍されていた際、鐙に足をかけない者たちをお見かけになった。
家康公は丹沢久助を呼んで訳をお尋ねになった。
丹沢は「馬が暴れたとき、ころりと落馬すれば人も馬も大して手負いしないものです。
しかし、馬にしがみつけば人は引きずられ、或いは踏みつけられ、馬はますます狂乱して手がつけられなくなります。
ましてこのような山道では小勢(の攻撃)でも(そのようなことになりやすく、そうなれば)お味方に与える損害は大きなものになります。
そのため鐙に足をかけさせないのです」と答えた。
家康公は「これこそ用心というべきものだ」とお褒めになり、
「鐙用いぬ者の落馬を笑ってはならない」とおっしゃった。



907 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/17(木) 22:17:46.33 ID:mMO4sL5q
>>902
とても良い話だ
俺も馬乗り始めた時、鎧なしで乗せられて内股が筋肉痛になって歩けなくなったが
そんな事を戦国時代にやってるとは思わんかった
目から鱗だわ

909 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/18(金) 08:25:07.72 ID:w7pC9Y0m
>>907
なんのために鐙なしだったの?
転んだとき引きずられるから?

910 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/18(金) 09:22:32.94 ID:XgdJGW5s
踏ん張らずに素直に落ちろってことだろ

911 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/18(金) 10:39:18.36 ID:OhIEcNTF
馬は太腿で挟んで乗るもの、鐙や鞍はあくまでも補助。とか言われて座布団だけ乗っけた馬に乗せられてたな

912 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/18(金) 17:49:39.47 ID:tk8eyJAB
清水某「両足でギュッとしめたら愛馬が死んじゃったでござる」

913 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/18(金) 20:11:27.40 ID:g/ZshpEs
>>909
人馬一体になるためっていきなり鐙は使うなと言われて手綱は持たず両手は水平に伸ばして
内股だけで馬にしがみつくような感じ
鞍だけはつけてくれたw
一日中(10時間位)乗って降りてから駅まで帰る時に普通に歩けなかった

914 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/18(金) 20:34:33.85 ID:KnvGSCC7
>>913
バイクでいうニーグリップだけでバランスを取る感じ?

918 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/19(土) 04:00:31.20 ID:49RyciQl
>>914
ニーグリップってのが分からないが
馬の腹を内股で挟んで上半身は腹を凹ませ胸をこれ以上無理って所まで張って保持
馬の動きに合わせてセックルの女性上位みたいな感じでずっと動くのだけど
その時も又力のみで上半身は張り詰めまくってしがみつく感じ
上半身のバランスを崩したら多分振り落とされる
馬に乗ると姿勢が良くなるってのはおそらくここら辺から来てるのだと思う
ちな、鬼籍に入ったけど母は北海道の出身で裸馬平気な人で鞍も手綱も不必要な人だった
鞍を付けたらもう既に人馬一体な感じで
往年は大井競馬場に犬の散歩がてら行って非開催日に犬も上げて馬に乗ってたw
長文すまん、いつも誰かが載っけた話に勝手に評価してみんなに迷惑かけて済まぬと思ってる
あまりにも良い話に出会ってしまって興奮してしまった
水谷さん大名になってたら立花宗茂並にすげー人だったんだろうなと思いながら眠ります

929 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/19(土) 21:07:35.46 ID:3JuLBCgO
>>902
これは酷い怪我をしないように心がけているのが偉いんじゃなくて、不意の急襲の際に味方へ被害を与えないようにしている心がけが立派ってことなんだろうね。

ところで、家康はなぜ丹沢という人を呼んだんだろう?馬術がうまかったのかな?

930 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/19(土) 21:17:46.12 ID:prsFsTPU
久助は大事な喧嘩友達

938 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/21(月) 17:08:42.13 ID:BQWXmI/o
>>929
鐙使ってない侍が彼の家来だったんじゃない?
旗指物でわかるでしょ。

名も無き奉公人の話 ―鍬の槍―

2018年05月05日 18:01

869 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/05(土) 12:11:15.02 ID:JYFcNoJe
名も無き奉公人の話で恐縮ですが、我が家に伝わる話を書かせて頂きます

我が祖先は三河の百姓でした
戦国時代にそこが敵から攻められたとき、殿様は負けてしまったようです
そして殿様は敵の大将に「私の命は差し上げるから百姓たちを殺したり略奪したりしないでくれ」と言って自害したそうです
敵の大将はおびえる百姓たちにその事を伝え、「お前たちは良い殿様を持った」と言って何もせずに去ってくれたそうです
殿様には息子がいて、逃れて父のあとを継ぎ家康に仕えたそうです

その後、その若殿が遠くの戦に行くと聞き、百姓の中の若者の一部が居ても立っていられずついていく事にしました
私の先祖もその中の一人でした
他の百姓はなんとか武具を調達してきましたが、我が先祖は貧しく武具など手に入らなかったので
鍬の先を研ぎ落して尖らせ、棒の先に結んで槍としたそうです

戦についていったものの所詮は経験の無い百姓の若者、功を立てるどころか仲間たちは次々に死に、我が先祖は生き残るのがやっとでした
不格好な槍もどきを持って何一つ役に立たなかった百姓ですから、ものすごく馬鹿にされて笑われたそうです
しかし若殿が「忠義は誰よりも優れている、その槍は天下の名槍にもひけをとらない」と褒めてくれ、家来にしてくれました
それだけでなく鍬の槍に立派な柄をつけてくれたそうです

その後も我が一族は殿の家に奉公し、武士の最下か奉公人の上くらいの立場で仕えていたそうです(一応江戸時代に苗字を使ってたので)
もちろん、鍬の槍は家宝として大切に伝えられてきましたが、残念なことに長崎で原爆に遭い失われてしまいました
実物を見たことのある曾祖母の話では「スコップみたいな形だった」そうです



870 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/05(土) 13:21:21.79 ID:pQyioftt
良い話だ、感動的だな
だが当時はまだ兵農分離が徹底した時期では無いし、三河は一向一揆も有った国だし百姓兵と言えど言うほど馬鹿にされる事も無かったのでは?

871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/05(土) 13:30:42.29 ID:dq7vQdLg
笑われたのは槍のほうだったんじゃないか

872 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/05(土) 13:48:19.53 ID:pQyioftt
>>871
>不格好な槍もどきを持って何一つ役に立たなかった百姓ですから、ものすごく馬鹿にされて笑われた

槍もだけど、何一つ役に立たなかった百姓だからとあるので両方だったのかなと

874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/05(土) 19:36:57.19 ID:o/J2l0tV
>>869
ちょっといい話45スレにおける勲功一番なり
その忠義の槍を写真で晒すことができれば永久欠番間違いなしじゃったのにのぉ

875 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/05(土) 20:04:13.69 ID:e9VeKDIs
>>869
血が今に伝わっているのだからもっと誇り持って良いでしょう
そんな家臣を持てた殿様は本気で嬉しかったんだろうね

876 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/05(土) 21:04:53.77 ID:TnR7p8TX
まあ平成の世まで家が続いただけでも超絶勝ち組だしな

877 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/05(土) 22:04:54.62 ID:Nfno1L1z
長崎に居たって事は維新後に移住してるのね

878 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/06(日) 10:17:32.19 ID:tjyTIMjC
>>869
若殿もせっかくなら本物の槍を下賜してくれりゃ良かったのに
ピエロ扱いだったのかもw

879 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/06(日) 10:49:42.16 ID:RJCmnk9u
それ余計に恥をかかせることにならないか?

そして明智光秀は本能寺を取り巻き

2018年04月20日 15:55

683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/19(木) 20:26:31.02 ID:A4D8S2I6
織田信長が甲州征伐から帰陣の後、徳川家康の上洛があり、これに対し、明智光秀
その御馳走が命ぜられた。

光秀は「忝なし」と承り、その接待のために珍物を調え、京堺の傘や木履(木靴)まで
買い占め、夥しく用意した。

ところが、俄に役目替えが命ぜられ、家康の馳走は他の者に仰せ付けられ、明智は
羽柴筑前守(秀吉)が安芸の毛利と対陣し難儀に及んでいるとの注進があったため、
「急ぎ加勢にまかり下るべし。横目に堀久太郎(秀政)を差し備える)と仰せ出された。

この時、明智は思った
「諏訪(の打擲事件より)このかた、御目見得も宜しからず。今度の御馳走の事も中途で
他人に仰せ付けられ外聞も然るべからず。」
そう腹立ちに思いつめ、用意した御馳走も調えものも一緒に、安土城下のどどが橋(百々橋)の
下にみな捨てた。ちなみにこの橋は「昼夜人が通うから」と、織田信長が名付けたものだという。

そして明智光秀は、秀吉への加勢に向かう人数にて本能寺を取り巻き火をかけたのである。

(祖父物語)

明智光秀大河決定記念(?)に



684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/19(木) 21:01:04.74 ID:FJu9jTQg
最後はパワハラで終わる大河なんて嫌だ

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/19(木) 21:55:37.04 ID:MP4IvDR6
大河で明智…どうせ信長がスゲー嫌な奴で光秀が聖人のようなキャラクタになるんだろうな
本能寺の変も義挙ってことになるんだろう

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/20(金) 02:15:42.06 ID:bbtGVHM5
オホホ、麻呂が来た意味分かるであろ? は最近使われなくなったな

【ニュース】 <歴史>「大坂の陣」巨大陣図が見つかる 最古級・最大級

2018年04月04日 17:52

752 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/04/04(水) 15:06:01.88 ID:2/N52Qoq
<歴史>「大坂の陣」巨大陣図が見つかる 最古級・最大級
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180404-00000029-mai-soci.view-000

徳川家康が豊臣家を滅ぼした大坂冬の陣(1614年)、夏の陣(15年)の詳細な陣形を記録した
最古級、最大級の陣図が見つかった、と広島県立歴史博物館(福山市)が4日、発表した。
大阪歴史博物館(大阪市中央区)は「主戦場だった城外の部隊配置まで詳しく示された陣図は過去に例がなく、
戦いの様子を知る重要な史料といえる」としている。


DZ6gfe0WAAIhzvf.jpg



753 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/04/04(水) 18:49:19.67 ID:yipZGTqw
この調子で関ヶ原も頼む

調略を討ち果たす

2018年01月21日 17:40

490 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/20(土) 20:36:47.37 ID:0TMGCboN
大阪冬の陣の折、幕府の軍勢が大阪城を包囲している最中、幕府方によって捕縛された
吉河瀬兵衛と言う者が、豊臣秀頼から藤堂高虎への書状を持参していた。

それはすぐに徳川家康の元へ届けられたが、その書状にはこのように書いてあった

『最前より約束のごとく、東(幕府方)人数引き出し候事、秀頼公御感に思し召し候。
いよいよ、後ろぎり(裏切り)の手立て肝要に候。御褒美の儀は、望み次第たるべきと
おおせ遊ばせ候。』

これを読んだ家康は言った

「良き臣下を討ち果たさせるための、昔からこういった調略は、大唐にも日本にもあった。
和泉(高虎)の心は、昔からよく知っている。別心などあるわけがない。ただ一筋に、
我らのためを考えてくれている。
従ってこれは、討ち果たすべき調略である。」

そう考え
「かの瀬兵衛を和泉に引き渡しこう言え、彼の十本の指をすべて切り、額に秀頼と書いた
焼印を当てて、城中に追い返すように、と。」

吉河瀬兵衛を引き渡された高虎は、家康に言われたとおりにせよと命じ、瀬兵衛は
大野主馬の持ち口であるせんばの門前へ送り遣わされた。

(藤堂家覚書)



491 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/20(土) 21:48:33.65 ID:RKYI0gsk
裏切りが真実ならこうするぞ!という脅しか

492 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/20(土) 21:54:13.27 ID:x2e4wzOq
葵でもそのようなくだりがあったな

そして、高虎さんは夏の陣で無茶をするんだよな…

時移り世変じて

2018年01月20日 18:02

489 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/19(金) 22:03:19.61 ID:o+2SsETU
高木主水正正次は殊なる勇士であり、元は水野下野守(信元)の家臣として、戦功隠れ無かった。
また同じく水野の家臣であった神谷金七も、家中において高木と並び称される勇士であった。

水野信元が謀殺された後、その家臣は散り散りとなったが、高木、神谷は勇士の聞こえあり、
徳川家康より召し出したいとの通知があった。

高木はこれに応じ家康の家臣となった。
しかし神谷はこれを断り、織田信雄に仕えた。その頃は織田信長が天下の権を握っており、
その息子で北畠を継いだ信雄には、天下の士は皆、これに仕えることを望んだものであった。

その後、時移り世変じて、徳川家康は遂に天下の主となり、織田信雄は次第次第に漂泊した。
神谷金七はそんな漂泊した信雄家にて没し、その子の左馬助は、かつて父が家康より召された
由緒により、徳川に仕えることになった。

(士談)

ちなみに高木正次は、元和九年に一万石ながら大名になっていますね。


腰は抜けても、先ず今日は

2018年01月14日 21:14

581 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/13(土) 23:13:32.92 ID:C3mIsWFd
大阪夏の陣の時、家康の軍勢が京より出陣する朝、各々行粧を調え、御先手より段々に
押し出す所、板倉伊賀守(勝重)は長袴の裾を繰り上げ、家康の乗馬の、轡の水付きを取って
「今日の御出陣は、是非に思し召し止まらせ給え」
と、引き止めた。

これに家康は甚だ機嫌を悪くし

「臆れ者、それを放せ!」

そう叱りつけたが、板倉は重ねて
「なるほど、臆れ申しました。腰は抜けていても、先ず今日は御滞留遊ばすべし!」
そうしきりに引き止め、遂に家康も出馬を思いとどまった。

その日、京都所司代は京市内で、火付けをしようとするなどした大阪与力の党類を、
多く召し捕った。

これを伝えられ、家康の機嫌は直ったという。

(武野燭談)



582 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/13(土) 23:43:52.36 ID:69AohDFt
ゲヒ殿の手のもの?それとも別口かな

小田原城中に入りたいのです

2018年01月11日 19:01

578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/11(木) 17:19:16.21 ID:b5taQZdQ
小田原の役でのこと。
徳川家康重臣・榊原康政の家臣である伊藤顔助は、大磯の切通の近辺に出て、小田原城に
出入りしようとするものを防いでいたが、下総国住人・山岸主税介という者、籠城に
参加しようと出てきたのを、伊藤が発見し追い詰め戦っていた所、味方の武士も続いて、
遂に生け捕った。

山岸は家康の意向の元、豊臣秀吉の元に遣わされた。
秀吉は彼から詳しく関東のことなどを尋ねると、そのまま家康に返還された。

家康は山岸に言った
「お前の命を助ける。今後我らの味方に属すように。」
しかし山岸は、伊藤顔助を通してこう申し上げた

「大変な御恩だと思います。しかし私は、やはり小田原城中に入りたいのです。」

この望みを聞いて家康は
「今、一人が新たに入城したとして、何ほどの事もない。」
そう言って、山岸が小田原城に入ることを許した。

しかし家康の陣所を出た山岸が小田原城に入ると、城中の者達は彼が体の数カ所に
傷を被っているのを不審とし、敵に誑かされたのではないかと、彼を牢に入れた。

北条氏直が降伏し、小田原城が開城すると、榊原康政が城を請け取り、掟を出して
混乱を防いだ。この時、牢の中に山岸主税介が居ることを知り、彼を獄より出すと、
自らの配下として二百石を与えた。

山岸が小田原城に入った事は、高い志有る話として評判となり、後に三河黄門(結城)秀康が
彼を千石の録を以って招いたが、山岸はこれを受けなかった。
彼は二度にわたる恩に感じ、一生小知のまま、榊原家にて全うしたという。

(士談)


浅井の御娘は秀忠に

2018年01月07日 18:01

574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/07(日) 17:13:42.85 ID:I2+XP7nd
浅井の御娘は秀忠に


良正院殿智光慶安大禅定尼 ふう姫君様は権現様(家康)の姫君で
台徳院様(秀忠)の御姉、御母は西郡殿。初めは北条氏直に嫁がれたが
(氏直と死別した後)秀吉が権現様に
「池田三左衛門輝政が無妻になっているので、淀殿の妹(お江)と
 縁組するのがよいだろうか」
と御相談したところ、権現様が
「願わくば浅井の御娘は秀忠に御縁組されるように、三左衛門輝政には
 私の娘を嫁がせますから」
と仰せられたので秀吉はもっともに存じ、その段を輝政公に申し渡され
文禄三年八月十五日、姫君様が参州吉田に御入輿になられたという。


――『因州鳥取慶安寺略記』


慶長14年元日<甲申>、毎年の如し

2018年01月01日 15:59

426 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/01(月) 02:47:36.61 ID:tVmQDz8f
慶長14年元日<甲申>、駿河・江戸の士が出仕。毎年の如し。

美濃国や伊勢国の先方衆は、駿河で越年しなかったので、
大御所(徳川家康)は無興しなさった。

同日、江戸品川町で火事。

4日、江戸本町で火事。5町ほどが焼失。石川玄蕃(康長)の
家もこの内にあった。<時に信州府中の城主なり>

7日<庚寅>、大御所が鷹狩りをされる。遠江に御出になられ、
そのうえ尾張まで御出になるとのことだったという

――『当代記』



武臣たる者の実義は汝にある

2017年12月26日 18:20

539 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/26(火) 17:42:20.57 ID:0CHlz54H
榊原式部大輔康政は、尾州小牧山御陣の節、豊臣秀吉の不義を誹謗し、所々に高札を立てた

『秀吉は織田家取立の臣でありながら、その主君の公達に敵し、神戸三七信孝を亡ぼし、
今度は北畠(信雄)殿に敵した。誠に八逆罪の者であり、これに与する者に、どうして
天罰が無いだろうか。』

これに秀吉は大いに怒り
「榊原小平太を生け捕った者は、卑賤凡下を問わず、千戸侯を以ってこれを賞する」
そう諸将に伝えた。

その後、秀吉は関白なって京に在り、信雄を通して家康と和睦し、妹を送って縁を結ぶとの
事で、その準備が整うと、「三河殿より結納を遣わされたい。その使者に榊原小平太を
遣わされるように。」と所望した。
家康がこれを伝えると、康政は畏まって受け、早速上京した。

康政が京に到着したその夜、秀吉は彼の旅館を訪れてこう言った
「今度私が汝を名指しして呼んだのは他でもない、先年小牧山対陣の時、この秀吉を誹謗して
高札を立てた憎さよ。私は汝の頸を一目でも見ることを願ったものだ。

しかし今、徳川家と縁を結びに至って、私は其方の忠誠を一入感じ入った。誠に武臣たる者の
実義は汝にある。私はこの事を直接言いたいがために汝を呼び寄せたのだ。
ただし、我が妹を遣わす結納持参の使者が無冠では如何かと思う。」

それから奏達あって、康政は従五位下式部大輔に叙任された。総じて、この頃の徳川家諸将の
官名の多くは僭称であったが、この時康政が初めて式部大輔の位記口宣等を受領した。

秀吉より饗応もなされたが、相伴にと、先に徳川家を出奔した石川数正が、十二万石の大名として
秀吉によってあえて呼ばれた。しかし康政は終始数正と言葉をかわさず、その後御暇申し上げ
三河へと帰国した。人々は康政の節操に感じ入ったという。

(武野燭談)


ホワイトな社風です。

2017年12月23日 10:39

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/22(金) 19:13:54.68 ID:CKRcIiGB
徳川家康が上杉征伐のため小山まで出陣の時、御供の小身衆の内に、妻女が患ったとの
知らせが届いた。そしてその話は家康まで聞こえた。
家康はその者に「早々に罷り帰るように。」と命じた。
この時家康は

「小身者の妻子が患っては、その家滅亡の端である。しかし合戦は今に限ることではない。」

そう伝えたという。

(士談)

徳川家は家族の看護休暇も奨励するホワイトな社風です。



529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/22(金) 23:17:27.69 ID:gForfx/V
変な話、他全員も「ウチも奥さんが病気なんです。帰らせて下さい」って言い出したら家康ははたして「いいよ」と言っただろうか

530 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/22(金) 23:53:05.73 ID:/EONut+W
申告が事実かどうか確かめるくらいはするだろ

531 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/23(土) 10:36:41.81 ID:juvFA36B
神君様のことであるから上杉征伐は合戦にはいたらないと見切っての余裕の処遇であったのである

532 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/23(土) 14:06:23.06 ID:jQhcW3Gv
合戦こそ今に限る話だろうに、この場合は消化試合に近い余裕かね

533 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/24(日) 15:41:46.13 ID:5U6+iqs7
普通に石田を誘うための高度な戦略でええやん

人になれ人 人になせ人

2017年12月17日 12:26

510 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/17(日) 11:33:38.32 ID:ucE4xaRX
将軍徳川家光が、久世大和守広之を、嫡子である家綱に付けるという時、家光は
久世を召して、この事を仰せ付けたものの、久世は一切お請け申し上げなかった。
家光の傍にあった堀田加賀守正盛は「早々御請あるべし」と勧めたが、久世は堀田に目を向け
「御辺の知る所に非ず!」と睨みつけた。その表情が普段と異なるのを、家光は見抜き、
不意に立ち上がった。
お傍の人々は「あわやご機嫌を損じたか」と驚き慌てたが、家光は筆を執ると短冊にこう書いた。

『人多き 人の中にも人はなし 人になれ人 人になせ人』

これは大神君(家康)の詠んだ歌であり、これを久世に与えた。
久世は「これならば」と、上意骨髄に徹し、有難く畏まって申し請けた。

(武野燭談)


最早五十万石を領知する者は

2017年12月13日 19:35

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/13(水) 14:06:45.28 ID:rieLt3zD
最早五十万石を領知する者は


ある時、権現様(家康)の御前で本多上野介(正純)が
松平武蔵守(池田利隆)の噂を申し上げると(家康は)
「武蔵守は筑前中納言(小早川秀秋)によく似ているな」
と上意があったので、上野介は
(関ヶ原で、秀秋が約束通り御味方したことを言っているのだろう)
と考えて
「上意の通り、随分律儀な人ですからね」
と申し上げた。

「いや左様ではない、最早五十万石を領知する者は
 親兄弟にも目をかけることがよいことなのだ。
 律儀だからといって済むことではない」
との上意だったという。


――『岩淵夜話』 



506 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/12/13(水) 18:37:50.95 ID:oD7YlylU
>>505
そう言えば小早川秀秋は西軍について改易された兄を客分として養ってたんだっけか
何故か2人同日に亡くなったらしいが

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/13(水) 20:14:50.18 ID:FMASO97P
>>506
今川氏輝「身内が同日に死ぬとか恐いわ」

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/14(木) 09:17:40.71 ID:gc0M6H9p
これは世話をしろってことなの?油断するなってことなの?

大須賀康高には度量があり

2017年12月11日 16:59

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/11(月) 15:57:56.91 ID:I55SSOBF
大須賀五郎左衛門尉(康高)は、自分で手を下して功を立てることは無く、常に家来や
小姓の中から器量あるものを選んで取り立て、彼らを以って功を立てさせた。

武田勝頼が高天神城に兵を入れて遠州を窺う時、家康は横須賀城を建設し、大須賀にここを任せた。
横須賀は重要拠点のため名のある者が多く集められ、中でも久世三四郎、坂部三十郎、渥美源吾、
丹波弥三、駒岡太郎右衛門、曽根兵衛左衛門、丹羽金十郎、これを七人衆と言った。

大須賀には度量があり、こう言った人々をよく従え、つもりを外すこと無く、傍に仕立てた
者達も皆武功があったという。

また長久手の合戦において、先手が敗北した時、大須賀は「味方の長追いは必ず敗軍の相である」と
考え、あらかじめ準備をし、小高い場所に馬を立て纏を置いて敵の攻撃を踏みこたえた。
このため大きな敗北にならなかったという。

(士談)


もしこの時取り乱せば、

2017年11月20日 12:56

329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/20(月) 09:51:24.57 ID:QuxzyNGx
水野下野守(信元)が、織田信長との間に事あって、三河刈谷から下城し大樹寺にて蟄居した。
信長から密かに、徳川家康へ水野を殺害するよう依頼があり、久松佐渡守(俊勝)を使いとして
水野を招いた。

水野は何の疑いもなく、その上久松が来たのだからと、彼を伴い岡崎へ至ったところ、
平岩七之助(親吉)に命じて水野を殺害させた。

この時、久松はこのような事に成るとは聊かも知らなかった。そのため日々の勤めが薄ければ
必ず取り乱したであろうが、彼は少しも動揺した様子はなく、由々しく見えたという。

しかしながら、久松は自分が人質のように遣わされたにも関わらず、この事について一言の
仰せも無かったため、もしこの時取り乱せば、一生のおくれとなったと、内心遺恨に思い、
以後、御前に出仕せず、死去するまで安居の領地に引き籠もったという。

(士談)



330 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/20(月) 11:03:09.52 ID:VzGyCTru
既に出てるな、出典無しだが。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3749.html

さすが人間ウィキペディア

2017年10月13日 12:52

林羅山   
313 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/13(金) 09:16:20.71 ID:HheWmS3P
ある夜、林羅山徳川家康に侍講する折り、列座の者達、羅山の博識がどれほどのものかを試みようとした。

先ず、岡田淡州が問うた
「蓬莱島という能狂言の中に、『鬼の持ちたる宝は隠れ笠、隠れ蓑、打ち出の小槌、ジヨジヨ、ムジヨムジヨ』
と言う所がある。この『ジヨジヨ、ムジヨムジヨ』とは何なのか?」

羅山答える
「鬼の宝として出た品々は、宝物の中でも上々であり、またこの上に上々無し、という意味で、
『上々、無上無上』と言っているのです。」

次に内田信州が問うた
「鎌倉に『ノツケン』堂という場所がある。昔金岡納言(巨勢金岡:平安期の宮廷画家)がここに来て、この
勝景を写さんとしたが、筆に尽くし難く、筆を捨てノッケに成りたる故に、この堂を『ノッケン堂』と云い、
また『筆捨松』と呼ばれる松も今に存在すると云うが、これは本当であろうか」

羅山これに
「金岡が筆を捨ててノッケになったのではありません。あの堂は金澤より出る山越への坂の右の、高い場所に
あり、坂から仰ぎ見ることから『仰見堂』、これが訛って『ノッケン堂』となったのです。」

堀田加州問うた
「子供の遊びに、左右の手を寄せて『鬼の皿』という事をする。その詞に曰く

『タイドノタイドノ、一モタイドノ、二モタイドノ、タイガ嬢、梶原、アノウン、メクラガ杖ヲ、
ツイテ通ルトコロヲ、サラバ、ヨツテ、ツイノケ』

と歌っているが、これは何を意味しているのか。」

羅山、これも
「これは鎌倉時代の、源頼朝の意にかなう、威勢強き人々を数え並べた歌です。
先ず『タイドノタイドノ』とは、”御台殿”すなわち北条政子の事で、『一もタイドノ二もタイドノ』とは
続けて並べる人が居ない、と云っているのです。

『タイガ嬢』とは”大の嬢”、すなわち頼朝の娘、大姫君という、清水冠者の夫人を指します。

次の『梶原』は平三景時で、これも当時の寵臣です。

『アノウン』とは安明寺といって、北条時政の妻である牧の方の一族で、盲人でしたが、彼は特別に
殿中において杖をついて歩くことを許され、この人に行き合う者達はみな彼を避けて通していました。
故に『サラバ、ヨツテ、ツイノケ』と云うのです。」

その後も様々な問答があったが、羅山はすべて滞りなく答え、皆、彼が細事にまで通じることに
感嘆したという。

(今古雅談)

さすが人間ウィキペディア



314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/13(金) 15:02:58.61 ID:Ohs68rOU
クイズ王とファンの集いかな?

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/13(金) 16:40:34.79 ID:ZTvwgvqs
怪力乱神

家康は利根か

2017年09月22日 19:09

247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/22(金) 15:43:53.29 ID:SmL/qRqe
ある時、穴山梅雪が馬場美濃(信春)の向かって聞いた

徳川家康というのは、人に優れて利根な人物か?」

これに馬場美濃
「なんという不案内なお尋ねか。

謡、舞、或いは物を読んでその理解が早いことを利根といい、
その所作がらが良いのを器用とも利発とも言います。

座配や時宜についての仕様が良く、大身とも小身とも、付き合って一つも軽薄な所がないのを
利発者、あるいは公界者と言います。

芸の理解が良くなく、座配なども良くないが、武義について勝れた者、放し打ちの一度も二度も
致したような者を利口者、
槍脇を勤め首尾の良きこと2,3度有れば甲斐甲斐しき者と言います。
そしてそのような働きが重なれば兵者(つわもの)とも、覚えの者とも言い、
その覚えが重なると、大剛の者、
その人物に、さらに分別工夫が有ればそれを名人と言います。

徳川家康は三河一国から遠江まで手をかけ、日本の弓矢取りの中でも若手の代表格と言えるでしょう。
そういった人物に対し、利根かどうかと尋ねるのは、いかがなものでしょうか?」

この話の内容から考えるに、利根、利発、利口、覚えの者、大剛の者などという区別であるが、
馬場の言っている理屈も正しいとは言い難い。これはその当時の、世俗における理屈を伝えている
だけなのだろう。

ただし、何事でもその道々に定まった言葉というものがあり、その弁えなく使ってしまっては、
その言葉の持つ意味が消えてしまう。
そういった意味で、例えば同じ学問僧を指す言葉であるが、教家においては所化と呼び、
洞下においては江湖と呼び、開山派では衆寮と呼ぶように、その品によってその言が変わるのだと
心に付けて、言葉に気をつけてその説を詳しく説明すれば、みだりな言葉の出ることは無い。

そういった中、「武辺者」という言葉を定まったものとして使う向きがあるが、この意味合いも
東西都鄙によって別であり、家によっても変化する。その文字の字義、理えお正し、言葉をみだりに
致さないこと、これも君子の戒めの一つである。

(士談)

言葉を使う時はその意味や定義をきちんと押さえておかないといかんよ、というお話



248 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/22(金) 16:45:29.09 ID:j6deZQvo
いちいち呼び変えるのって大ふへんだなぁ

249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/22(金) 17:38:47.63 ID:OQHDg4wR
なるほど、儒者の書きそうな書物だ

此の度の戦いにうたれし三河武者、末が末までも

2017年09月20日 18:56

120 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/18(月) 13:56:29.58 ID:OF8oWH05
幕末、坂下門外の変で老中の安藤信正が襲撃された際、
背中に刀傷を受け武士として恥ずかしい行為と罷免されたけど、

部下を身代わりにしたうえ、ウンコ漏らして逃走した権現様の前で
それ言えんのかと思う

121 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/18(月) 15:01:59.92 ID:ITKlOKd1
馬場美濃が「首が我々武田に向かっていた死体はすべてうつ伏せ
浜松に向かっていた死体はすべて仰向けでした」
と家康の家臣が家康を逃がすために懸命に戦ったことを
讃えた逸話が有名なのにそんなツッコミ入れても

122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/18(月) 16:31:59.01 ID:2vMxxcGJ
そもそも脱糞は捏造だし

123 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/18(月) 17:16:14.53 ID:EHDp9M22
>>120
ただのマウンティングだから
気の弱そうな奴とか自分が気に食わない奴にしか言わない

124 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/18(月) 18:25:47.93 ID:+sb4bRcX
江戸末期と戦国時代じゃ価値観が違いすぎる

125 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/18(月) 18:41:21.22 ID:VB9ybVN6
背中の傷は恥って背後から襲われたらアウトじゃんww

126 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/18(月) 18:51:23.18 ID:ln2oHHsQ
>>125
そう
前後から挟み撃ちにされてるってことだから生き延びてるわけがない、てこと

127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/18(月) 19:01:10.23 ID:jyl/7Fs3
理屈じゃないんだよなぁそういうのって

128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/18(月) 19:42:32.81 ID:im4tbZsM
つうか、安藤の話は政敵を追い落とすためのこじつけだし。
安藤は不意打ちで怪我したけど、襲ってきた敵を殲滅して、怪我の痛みに耐えて公務を行った。
これで士道不覚悟とか、ありえないだろ。

129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/18(月) 19:47:07.84 ID:j0qCClEO
戊辰の頃になるとそういう実戦とは無関係の机上の観念論は力を失ったけど、
それまでは妄想しまくった童貞のようにわけわからんこと言っていたからなぁ…

137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/20(水) 01:03:22.99 ID:um2u10wi
>>121
の話がまとめサイト見たらまだ出てなかったようなので「徳川実紀」元亀三年の箇所より抜粋
(家康の伝記の多くに取り上げられてるから有名だけど)
十二月二十二日三方が原の戦い御味方利を失い、御家の軍勢名のある者どもあまた討たれぬ。
入道(信玄)勝ちにのり諸手をはげましておそい奉れば、夏目次郎左衛門吉信が討死するそのひまに
かろうじて浜松に帰りいらせたまう。
(夏目が永禄時代に一向宗門徒に与していたが救われたため)この日御恩に報いんとて○○(家康への欠字)
君敵中に引き返したまうを見て、手に持ちたる槍の柄をもて御馬の尻を叩き立て、御馬を浜松の方へおしむけ、
その身は敵中に向かい討ち死にせしとぞ。
その時敵ははや城近く押し寄せ立てれば早く門を閉めて防がんと上下ひしめきしに
○○君きこしめし必ず城門を閉めることあるべからず。後より追々帰る兵ども城に入るたよりを失うべし。
また敵大軍なりとも我籠もる所の城へおしいる事かなうべからずとて、門の内外に大篝火を設けしめ、
その後奥へわたらせたまい御湯漬けを三椀までめしあがられ、やがて御枕をめして御寝ありしが
御高鼾の声、殿外まで聞こえしとぞ。近く侍う男も女も感驚しぬ。
敵も城の体いぶかしくやおもいけん。猶予するところに鳥居、植村、天野、渡辺等の御家人突いていで追い払う。
その夜大久保七郎右衛門忠世等は間道より敵の陣所へしのびより穴山梅雪が陣に鉄砲撃ちかけしかば、
その手の人馬が機?に陥り踏み殺さるるものすくなからず。
入道(信玄)もこの体を見て大いに驚き、勝ちてもおそるるべきは浜松の敵なりと驚嘆せしとぞ。
また武田が家の侍大将馬場美濃守信房というもの入道に向かいて
「あわれ日の本に越後の上杉入道と○○徳川殿ほどの弓取りいまだ侍らじ。
此の度の戦いにうたれし三河武者、末が末までも戦わざるは一人もなかるべし。
その屍こなたにむかいたるはうつぶし、浜松の方にふしたるはのけざまなり。
一年駿河を襲いたまいし時、遠江の国をまったく○○徳川殿にまいらせ、御ちなみをむすばれて先手をたのみ
たまいなば、このごろは中国九国までも手に立つひとなく、やがて六十余州も大方事行きて候わんものを」
といいけるとぞ。勝戦してだにかくおもいし程なれば、入道つづきて城を囲まんとせざりしもことわりなるべし。