わが国にとって幸いであるのはことさら言うまでもない

2017年07月13日 17:31

945 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/07/11(火) 18:03:36.07 ID:aeyCj/OX
 前田肥前守利長なる者がいる。加賀大納言の子である。前田はその姓である。
大納言は、もともと、家康と官爵勢力ともに相等しかった。
秀吉が死に臨んで、秀頼を肥前守に依託して、「そこもとは、備前中納言秀家とともに、秀頼を奉じて大坂に居られよ。
諸事を調護するのは、そこもとにこれを一任する」と言った。
秀吉がすでに死んで、大納言も戊戌年冬に死んだ。
肥前守が、越中・加賀・能登の三州の地を襲ぎ、秀頼を奉じて、大坂に居し、その威勢は家康に劣らなかった。
高く門楼を建て、それが大坂内城と斉しいほど高かった。
彼はひそかに、上杉景勝・伊達政宗・佐竹義宣・宇喜多秀家・加藤清正・越中守らと、
家康を殺してその土地を分けようと謀り、血を啜って同盟し、盟約がすでに定まってから越中に帰った。
石田治部少輔が、たまたま家康にとがめられて、その領地である近江州に退いていた時に、
その謀を知り、ひそかに書面で家康に告げた。
家康は、己亥年9月9日、秀頼に挨拶するとかこつけて虚に乗じて大坂城に入って拠りどころとし、
肥前の家来を呼んで、その門楼を毀たせようとした。
家臣たちはみな、「わが主君は外におられ、まだ何の命令も聞いてはおらぬ。
死はただ一度のこと。内府の[命]令に違って死ぬとしても、
我が主君の命に違って死ぬことはない」
と言ってその命令に従わなかった。家康の怒りはますます激しくなった。
肥前の妻の甥であった秀家が行って肥前の家臣を喩し、撤去させ、
「そち達の主が私に言いおいた言葉がある。私が責任を取ってやろう」
と言った。
家康は、遂に関東の諸将に[命]令して、肥前が倭京に上ってくる道を塞ぎ、
又、石田治部少輔[三成]に[命]令して、近江州の要害を防備させた。
肥前守も城や隍を修理改築して固守の計を取り、
ひまひまには、狩猟にかこつけて、精兵数万を率いて越中・越後などの地に出没し、
景勝などともひそかに相互援助の盟約を結んだ。
群倭が家康に和解を勧めているが、家康は多分聞き入れないであろう。
思うに、この勢いでは、戦わなければすなわち和解するであろうし、和解しなければすなわち戦うしかない。
和解を、幸いにして、成立させないですませたならば、醜奴[倭]の方城はまさに一つの戦場になるであろうから、
わが国にとって幸いであるのはことさら言うまでもない。

(看羊録)
※前田利家が死んだのは己亥


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此度の功によって我が疑いは晴れた

2017年07月08日 21:07

83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/08(土) 11:11:46.03 ID:PtOrjCfS
 三成は並の者ではないので、今日落ち人となりても明日は又様々な謀略を企むことも考えられる。
したがって田中を一人に捜捕させるのはいかがなものかと私議するものもいた。
しばらくして吉政は石田を捕らえ出て進じた。
その時、田中はかねてより治部と仲がいいゆえに少しも疑いがないとはいかなったが
此度の功によって我が疑いは晴れたと仰られた。
諸人は初めて盛慮の深淵を感じた。
(徳川実紀)


歯を白く、髪も美しく

2017年07月07日 17:40

81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/07(金) 17:09:42.14 ID:ssyeJvnd
神君(徳川家康)は、

「武道を嗜む士は、戦場へ赴くからには必ず死を遂げるという心掛けが
なければ叶わない。白歯の者は、歯が黄色にならないように心掛けて、
髪も香りを留めるのが良い」

と仰せられたということである。

上田主水入道宗古(宗箇)と申す武士は、

「討死の首になった時のことを心掛けるべきである。されば月代が後ろ
下がりでは首になった時に詫び言顔になって見苦しい。

それゆえ、後ろ高(後ろ上がり)に剃るのが良い。その前日には月代を
剃って首を綺麗に致す心掛けが第一である」

と申した。

――『明良洪範』



82 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/07(金) 23:31:50.02 ID:ORWkGDa9
白歯のものってなんつうか初めて聞いたな

我の外孫なれば我が子に准ずべし

2017年06月29日 11:47

920 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/28(水) 21:16:22.21 ID:vqmgz3k8
我の外孫なれば我が子に准ずべし


慶長8年、神君(家康)は池田輝政に備前国を賜い輝政の次男忠継を封じた。
封国が決まると輝政は忠継[このとき5歳]を伏見に連れていき拝謝した。
神君は
「この子は我の外孫なれば我が子に准ずべし」
と言って、吉光の名刀をお与えになった。

輝政は初めに娶った中川清秀の娘からは長男の利隆が生まれ
後に娶った神君の娘(督姫)からは忠継、忠雄などが生まれていたが
関ヶ原の軍功で賜った播磨国は忠継を嫡嗣とし継がせようとしていた。
しかしながら神君はこれを許さず利隆に継がせることにしたため
国主がいなくなった備前を輝政に賜い忠継を封じたという。

このとき一説の言うところでは
関ヶ原の戦いで戦功がなく遺恨があった榊原康政
「天下は既に定まった、しかし秀頼は天下を取ろうと必ず戦を起こす。
 備前は大坂に近いのでもしものことがあれば輝政と力を合わせるはずだ。
 大坂で功を立てたいので(自分の方を)備前に封じて欲しい」
と言ったので、大久保忠隣らもこれを推していた。
台徳(秀忠)もまたその通りとした。神君はこれを許さず輝政に授けた。

恐らく(家康は)舅親であるので、輝政が二心を抱くことはありえない。
輝政は武勇で知られているので、播磨備前を合わせて治めさせれば
その力をもってして大坂の敵になるだろう。輝政もまたその微意を察し
大坂のことを己の任としたのだ。これにより康政は神君に不満を持った。


――『続本朝通鑑』

後半与太ってるので悪い話に。
鍋島とか家康の娘(養女)をもらって前室の子を廃嫡した例は一応あるにはある。



921 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/28(水) 21:32:00.37 ID:JDhJx46R
池田は結局、姫路城の普請だけさせられて転封だから

山村の策略

2017年06月27日 18:40

64 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/27(火) 17:54:58.72 ID:1VN7Msjq
信濃木曾義昌の家臣に、知村、山村という者があった。木曾義昌没落の後、両人ともに流浪していたのを、
徳川家康が関東において堪忍分を与えていた。

関ヶ原の役の折、家康は木曽路の通行の安全を確保するようにと命じ、ここに知村、山村の両名を、
先遣隊として遣わした。

そこで、鳥井峠の”こなたならい”という場所から、山村は福島(木曽福島)方面に手のものを遣わし、
説得することによって大方は徳川方へと属した。しかし未だ完全に徳川方となった状況ではなかったが、

「先ずは木曽福島が別状無く徳川に随身した旨を注進仕る」

そういって飛脚を馳せて、『木曽福島は相違なくこちらに従った」と家康へ言上した。

この時、知村はこれを危ぶんだ
「まだ木曽福島に実際に足を踏み入れておらず、この先どうなるかもわからない。なのにこのように、
逸りすぎて注進を行うのはいかがだろうか。」

しかし山村はこう言った
「勿論、この先どうなるかわからない。だが、我等が今まで接触した者たちの反応がこれほど様子の良い
状況である以上、別状はないだろう。それに、木曽福島を従えることが出来なければ、我等は再び
家康公に対面など出来ない。このような時分は急ぎ注進すべきなのだ。」

これに知村も止め得ず、注進に連署した。

果たして木曽福島に入ると、かつての木曾義昌の居城であった木曽福島城も難なく抑えることが出来た。
この時、木曽福島の者共の人質は、西軍の石川備前守(貞通)の催促により尾張国犬山城に入れ置かれていたが、
「木曽福島城が取られた以上、所々の人質共をここで殺すのも詮無きこと。」と、皆これを開放したという。

山村の策略が完全に当たったわけで、これは才の逞しさによるのであろう。

(士談)



65 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/27(火) 17:57:52.98 ID:Ova7GEms
結構、綱渡り染みたことをする人多いんだな

こんなことを言わずに謀叛すればいい

2017年06月20日 16:47

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/20(火) 01:38:54.99 ID:Xbr5DYuZ
こんなことを言わずに謀叛すればいい


家康が諸大名を集めて名古屋城を築かせたときの話。

皆々が寄り合いしていたとき、福島正則池田輝政にささやいて
「近ごろ江戸や駿府の築城続きで人夫もみな苦労して働いた。しかしながら
 天下の押さえとなる城なのでみな苦労と思う者はいなかった。
 今度は子の居城を築くようにと命じられる為ではないのだ。
 貴殿は大御所の親戚である、我一人の為に言上しろという訳ではない」
と申せば輝政は答えなかったが、加藤清正が奮然として正則を戒めて
「ああ粗忽なことをのたまう人だな、貴殿が普請に苦労することが
 不興ならばこんなことを言わずに謀叛すればいい。謀叛が
 出来ないのなら、命を違え斯様なことを申すべきではなかったな」
と荒々しく言ったので、正則はそれを恥じて何も言わなかった。
輝政は笑って戯言ということにした。

その後神君(家康)がお聞きになってみなの心を推察し
ある日輝政を呼ばれ諸大名に対して
「お前たちが普請を頼まれたくないと言うのを度々聞くが、それならば
 国に帰り城を堅く堀を深くして私が行くのを待つがいい」
と仰せがあったので、輝政がこれを諸大名へ申せばみな大いに恐れ
急に人夫を雇って名古屋城の石垣を築き、土地を四面に開いて
二十万人の人夫でもって西海南海の大名共を伊勢三河の大船で運送し
石垣を築き堀を掘れば不日の間に名古屋の城普請は成就した。


――『武徳大成記』



897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/20(火) 07:31:40.10 ID:DKMfXt+W
これ、面白いな。
有名な福島と加藤だけのバージョンを元にこれができたのか、これを簡略化したのが有名なバージョンなのか、気になる。

898 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/20(火) 18:39:34.42 ID:kl2FAQ/4
イライラ清正

901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/20(火) 21:23:17.42 ID:w64DAeEm
>>896
これで名古屋城に立て篭もれば面白いのに

つまるところ、武士は詞が大事である。

2017年06月18日 16:09

881 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/17(土) 20:23:17.59 ID:5HyAQoSz
中山勘解由

後藤又兵衛が”大軍”で籠城しています」

と申し上げると、権現様は

「”大軍”と言うことはふさわしくない。
城中が残らず出てきてもおよそ七万ほどであろう。
そのような考えでは将軍の使番はつとまらん。」

と言われたという。

 味方より多勢であることを指して、”大軍”と言うべきとのことだ。
つまるところ、武士は詞が大事である。


『武士としては』



882 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/17(土) 22:30:12.13 ID:egWO6U9Y
北条遺臣の中山兄弟の兄
鬼勘解由の祖父

883 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/18(日) 02:55:43.38 ID:FU0BLAHt
>>881
家康も家康で面倒くせーな
事務的な報告なんだから素直に聞いとけ

御鷹の鶴の胆(マル)を上げらるるときの咒文

2017年06月12日 19:11

19 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/11(日) 22:05:45.74 ID:5UlT2XLV
公方様、御鷹の鶴の胆(マル)を上げらるるときの咒文

  ある人がひそかに話してくれた。
公方将軍様が御鷹狩に鶴を獲られて丸肝をあげられたときは、
御上と御小納戸頭取がお供のものと心中で唱えさせる呪文があるという。

「業尽きるの衆生は、放つといえども生ぜず。
故に人仲に宿して、得らるるを以って善果とす。」

これは、禽類でも鶴は大鳥でかつ寿命を保つものなので、
これを害するのは殺生の中でも罪が深いに違いないからとの事である。
きっとこの呪文も確かにあるのだろう。
基本、神祖から受け継がれていたのであろうか、
御代々唱えられている事だと聞いた。

 秘かに神祖の御知遇を考えてみた。
この呪文を生み出したのは大樹寺の登誉上人であろうか。
この人は神祖が天下を取られたころにはもう亡くなられている。
また天海僧正だと、神祖とはちょっとの間にしか会っておらず、
力が盛んだった時期の多くは台猷の二世(秀忠・家光)の頃であった。
ならば増上寺の観智国師であろう。相応の時の人である。
きっとこの国師が神君に差し上げたのであろう。

 しかしこの呪文は仏経の何によるのであろうか、出所はまださだかでない。


(甲子夜話三篇)



20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/12(月) 05:34:25.20 ID:Y/zvUrtP
心の中でしか唱えてないのになんて知ってるのw

牧野成里、池田輝政の仲介により帰参

2017年06月07日 18:54

987 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/07(水) 02:05:06.33 ID:MvKnZtxw
牧野成里池田輝政の仲介により帰参


牧野伝蔵成里は十六歳で父の仇を討って当家(徳川家)を立ち退き
久留米侍従(長谷川)秀一や関白秀次に仕えた。
関白の事があってからは、石田三成に仕え関ヶ原の戦でも石田方にいたが
大敗したので兵十余人ばかりを引き連れ、大敵の中を切り抜けて
池田輝政の所に来たので、輝政は播州に(伝蔵を)伴って帰った。
そのまま輝政の所に身を寄せ、剃髪し一楽斎と名乗った。

(伝蔵が)播州で輝政に(徳川家への)帰参の事を乞うたが、年月を経ても
その沙汰がなかったので、ある時播州から伏見に参り輝政に向かって
「させもが露も年ふりし」*
などとほのめかせば、輝政は
「まだそのような折ではない。成里は先に帰国するように
 我もまた見はからうとしよう」
と言って慰めた。
その後(家康の)御夜話に侍する者に、(輝政は)この後折を見て
成里の事を言い出してくれと頼んだ。

ある夜(家康が)三遠にいらっしゃったときの話だが、いつもより機嫌よく
伺候している者の膝近くまで御座を進められ、近づかれて来られたので
牧野伝蔵と板倉四郎左衛門が縁故のあることに話が及んだときに
「伝蔵は今も永らえているようですよ」
と一人が申し上げた。
君(家康)はどうとも思っていないような様子だったので、みな固唾を呑んだ。

4 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/08(木) 09:44:40.99 ID:49cEHkDI
この時輝政も御次の間の襖際に蹲って仰せを聞いていて
「(この上は加増された備前に代えても伝蔵の事を執り成さねば……)」
と思っていたが、(家康が)江戸の者を呼べと仰せられ
(近臣が)鵜殿兵庫重長がおりますと申したところ
「兵庫を江戸に遣わして
 『ここで勇士を一人掘り出したので差し上げる』と申せ」
と仰せられたので、輝政が喜びを堪えることが出来ず
御次の間から走り出て、上意に対してありがたいと感謝すると(家康は)
「成里は大剛の者なので永らえていて喜ばしく思ったのだ」
と仰せられたので、輝政は
「近日召し連れてまみえさせます」
と申せば
「我が会うまでもない。江戸に遣わし将軍家にまみえさせよ
 幸い明日は酒井忠世が井伊直政を連れて江戸に参るのでそれと同道させよ」
と仰せがあった。

輝政が御前を出ていこうとしたところ、近藤石見守秀用の一族の某が
輝政の袖を引き
「秀用の事もこの機会にお許しを願って下さい」
と言った。輝政は
「牧野の事だってかろうじてお許しをもらったのだぞ。秀用の進退など
 どうして気にされることがあるだろうか。我が力の及ぶ所ではない」
と拒めば
「あの方が今日ほど御機嫌のよいことはまたとないことでしょう
 ぜひともお執り成しになって下さい」
と言ったので、輝政が再び御前に出て申し上げると
すぐに恩免をもらえたので、輝政は言うまでもなく
秀用の喜びも尋常ではなかった。

かくして成里は江戸に参り、還俗して旧名に戻り三千石の新地を賜った。
のちに叙勲して伊予守と称したという。


――『東照宮御実紀』『武徳編年集成』

*百人一首に選ばれている藤原基俊の和歌
「契りおきし させもが露を 命にて あはれ今年の 秋もいぬめり」の隠喩。
基俊が息子の官職を人に頼んだが得られなかったときに詠んだもの。



東照宮物具の御物語 附小野木笠の事

2017年06月03日 14:21

976 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/03(土) 01:38:20.51 ID:I0x5Dvyw
東照宮物具の御物語 附小野木笠の事

東照宮の仰せに、

「物具が美麗なのは無益な事である。また重くするのも無益である。
井伊兵部(直政)は力もあって重い物具を着ているが度々手負いしている。
本多中務(忠勝)はそうではないが、手負いになった事がない。
ただ戦いやすいようにと心がけるべきである。
下級には薄い鉄の笠を着せるのが良い。急な時は飯も炊ける。」

とのものがあったそうだ。
 鉄の笠は甲州でも下級が着ていたという。
畿内の方ではそうではなかったが、丹州亀山の小野木縫殿助(重勝)が
足軽以下の者に鉄の笠を被せたので、その頃は小野木笠と言ったそうだ。

(常山紀談)



977 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/03(土) 11:24:26.85 ID:4Ghf+TWg
家康の着てた鎧がどんなのかって江戸時代はあまり知られてなかったのかな

978 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/03(土) 12:36:01.54 ID:dYQCQZul
本多忠勝

「わが本多の家人は志からではなく、見た目の形から武士の正道にはいるべし」

武具も実用より見た目重視だから

979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/03(土) 13:12:34.08 ID:Mg9NhrRV
>>978
それは「まず形から」って話かと

980 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/03(土) 13:15:57.43 ID:Lh7C7hE7
そう言う忠勝が練習だとヘタだけど実戦ではめちゃくちゃ強いタイプだったりする

981 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/03(土) 14:15:54.11 ID:Ljz3XT3y
平八は本気を出すと人を殺しちゃいそう

982 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/03(土) 19:11:33.78 ID:R/r5VpoW
テラフォーマーかよ

養徳院、孫の池田輝政に宛てた遺言状

2017年05月16日 16:44

養徳院   
904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/15(月) 18:05:48.54 ID:Es7c86KE
養徳院、孫の池田輝政に宛てた遺言状


織田信長の乳母だった養徳院は、慶長13年10月16日に94歳で死去した。
非常に長寿だったために、実子と共に義娘である善応院(輝政母)にも
先立たれた養徳院は、慶長4年には輝政に遺言状をしたためている。

時期ごとに計四通あるが、以下は慶長8年に書いた最後の遺言状。
__________________________________

一筆書き置きます。私は八十九になり時間がありませんので申します。
私が果てましたら、長良の真福寺・鵜飼のあたりの知行八百石は
太閤様(秀吉)の御朱印通り相違ありません。
桃巌様(信秀)、総見院様(信長)より長らく知行されていることを
太閤様が御改めになり、そのまま長良八百石を賜ったのですから
妙心寺の桂昌院と護国院に、私が果てましたら寄付して下さい。
もし不届き者が何か申しましても、堅く仰せ付けて下さいませ。

私が果てましたときには、人の知らない内にすぐに焼いてしまって
志の事はあり次第で茶湯料にもすること
宙外(桂昌院の住持)へ申し置きます。
儀式よろずのこと御無用と、宙外へは堅く申し置きますので
後々の二寺のこと御油断なく御心懸けなさって下さいませ。

総見院様の御為に桂昌院は建てました。
護国院は勝入(恒興)の為、六親(親族全体のこと)の為に建てました。
ですから御油断なく御肝煎りして下さいませ。
其れ様皆々が御繁盛されているのを拝見してから
仏になることに満足しています。
返す返す二寺のことを頼みますので、詳しく申し上げておきます。

慶長八年三月廿一日の天赦日に書き置きます。めでたくめでたくかしく。

なお、今の大府様(家康)も、私に御目を懸けて下さいますので
(このことを)詳しく御申し上げになって下さいませ。
__________________________________

同年の2月12日、家康の将軍宣下の同日に輝政は少将に昇進している。


上田宗箇の剛勇

2017年04月21日 10:19

845 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/21(金) 08:55:27.66 ID:uFvNYzkl
上田主水(宗箇)は初め丹羽長秀に仕え、小姓奉公などしていたが、本能寺の変後、明智光秀への関与を
疑われた織田七兵衛尉信澄が大阪城(石山城)の本丸に居たのを、長秀の軍勢で取り巻き、信澄が自害に
及ぶ時、上田主水(当時16,7ほどであった)が城内に飛び入ると、信澄は既に自害しており、
そこでその頸を受け取って退出したという。あくまで剛勇の生まれ付きの者であった。
後に太閤秀吉に1万石で仕えたが、関ヶ原の時三成に属した科を以て、本領を没収された。

ここで、浅野紀伊守(幸長)はかねてより彼を知る好であったので、徳川家康に対し「茶友達」との事で
身柄を引き受けたいと要望した。
上田は三成に属しただけで、事の顕れた悪事もなかったため、家康は免許した。
以後、浅野家に属し1万石を領した。

実は上田は、その頃までさして名を得た功は無かったのだが、浅野の屋敷の近隣にあった
中村式部少輔(一氏)の屋敷に火事が出た時、破風口に一人出て延焼を防ぎ止めた振る舞いは、
只者とは見えず、当時の人達はこれを大いに賞賛した。
また、大阪の陣において柏の井で一番に鑓を合わせた。
以上の人に知られた働き2度のうち、一度は火事の覚悟であったといえる。

大阪冬の陣の時、浅野但馬守(長晟)の仕寄の場所に大筒を設置したが、但馬守の足軽が竹束の間から
外を覗いたところを、大阪城内より鉄砲にて難なく撃ち殺された。
その直後、上田宗箇は大筒に乗り掛かり、顔を出して四方を見回した。

彼をめがけて城中より鉄砲が雨のごとく降り注いだが、彼はまじろぎもしなかった。
類まれな勇者であったといえる。

(士談)



846 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/21(金) 10:06:23.60 ID:Y9xTky+j
戦が少なくなると武士が名を上げるには火事の対応とか無意味に躰を危険に晒すとかぐらいしか無いって、淡く切ないお話しですね

847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/21(金) 16:33:14.29 ID:pNPhOchv
へうげものの武闘派上田宗箇を思い出したけど
大坂冬の陣でこの場面あったっけ

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/21(金) 16:45:51.95 ID:5HHheB3O
敵がくれの茶杓作った位しか出てない

三引の下に山の字を加ふときは、さんざんの唱

2017年04月16日 17:56

825 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/04/16(日) 15:54:11.51 ID:cYLpXntL
山名豊国の話

「豊国大坂御陣の供奉にありしとき、旗の紋三引なりしを、三浦とわかたんがため、
山の字をくはふ。
 東照宮これを台覧あり、三引の下に山の字を加ふときは、さんざんの唱あれば旗の紋
をあらたむべきむね仰により、二引両に山の字を用ふ。
これよりして家紋も二引両にあらたむ。」
「出典 寛政重修諸家譜」


岐阜城攻めのくじ取り

2017年04月14日 16:35

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/13(木) 17:11:05.49 ID:87GdGGbi
岐阜城攻めのくじ取り


岐阜城攻めのとき、(福島)正則と(池田)輝政とで大手搦手の争論があり
井伊直政、本多忠勝が輝政に異見を申したので収まったという様に
旧記等には見られるが、左様ではなかった。

なぜなら大身小身に係わらず敵地へ近いところの領主を
先手と致すのが日本の古来からの武家の定法であるので
尾州清須の城主である正則を一の先手、それに続いて
三州吉田の城主である輝政を二の先手ということにしたのだ。

格別なことなので両人には小山の御陣所で、内府公が
直に仰せ渡したので両人の争論などはなかったのだが
その他の大身小身共には大手七曲り口に向かうことを好み
搦手の寄せ手を嫌うものがいた。

大手、搦手と犬山城の押さえは必要だというのは各々の相談で
決まったのだが、人数割りをどうするかは埒が明かなかったので
井伊本多両人の衆は御列座の衆を二つに分けてくじ取りをさせ
誰は大手、誰は搦手、誰々は犬山の押さえと決めたので
人数割りが差し障りなく済んだという。

この説は旧記とは違うのだが大猷院様(徳川家光)の御代に旗本へ
召し出された大道寺内蔵助[若い時は遠山長右衛門と名乗っていた]は
岐阜城攻めの時は福島正則方にいて大手口で働きなどしていて
老後になってこのくじ取りの物語をしたので書留めた。


――『落穂集』



811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/13(木) 17:22:29.50 ID:6dYoS0ds
苦労してるな

金森長近の質素

2017年04月14日 16:33

813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/14(金) 14:44:24.06 ID:cf+vthNL
金森長近の質素


金森法印(長近)は在所から東照宮(家康)に鮭を献じるときは
藁の苞に包んでいた。

ある時息子の出雲守(可重)があまりにも質素だとして
竹簀で包み替えて捧げられた。

東照宮がご覧になって
「これは父が元々このように包んできたのか
 それとも包み替えたのか」
とお尋ねになると、出雲守はかしこまって
「父が元々藁苞で差し上げようとしたのを
 あまりに見苦しかったので包み替えたのです」
と申したが、公(家康)の仰せに
「汝が父の遅れを取らされるものではないのだから
 一切親のすることは咎めないものだぞ」
とあったのに、上世の淳風を見ることが出来る。


――『野翁物語』



814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/15(土) 13:41:59.22 ID:UBkMLfjt
(´・ω・`)「重要なのは包みが質素かどうかでなく鮭の良し悪しでしょ」

軍令違反者には御宥恕がなかった

2017年04月13日 11:20

732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/12(水) 22:50:47.55 ID:7Xqwitvs
大須賀五郞左衛門康高の甥の弥吉が御軍令にそむき、(高天神城の)勝頼の旗本へ討ち行って高名をなしたところ
(家康は)もってのほかお怒りになった。
弥吉は恐れて本多平八郞忠勝の家に逃げて赦免をお願いしたが、お許しなくついに切腹をおおせつけられた。
(家康は)何事も寛容な方であったが、軍令違反者にはこのように御宥恕がなかった。

「柏崎物語」



733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/12(水) 23:51:14.81 ID:Wv5bFBU9
これで武田の軍門に降る道が断たれたわけですな

狂言、鷺仁右衛門、五徳の紋所。鷺と称する苗字の事

2017年04月06日 16:38

790 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/05(水) 22:38:22.47 ID:eT3s4jQ3
狂言、鷺仁右衛門、五徳の紋所。鷺と称する苗字の事

狂言師の鷺仁右衛門の紋所は五徳〔鉄三脚子〕の形である。
予はあるとき、その紋にはどのような由緒があるのかと問うた。

「これは某の祖が神君の側につかえていたときのことです。
神君は御戯れにハサミで色々な切り紙を遊ばれていた中で、
五徳の御きり形が有りました。
それを某の祖が賜り、続けて
ただちに家紋にせよとの命があったので、今に伝わっているのでございます。」

と言った。ならば御当家の古い賜物であった。
また鷺という苗字のことはどうなのだと問うと、

「これは昔"鷺"という狂言があり、某の祖先がその狂言を披露すると、
仰せで
『後で人に譲るのも口惜しいことだ。
以来はこの狂言は止めてしてはならない。
よって家名を鷺と称すべし』
とのことがありまして、これよりこのように称しています。
故にかの鷺という狂言の一巻は皆封じて今は家宝とし、
それからその狂言は今は演じないことに成りました。」

との答えがあった。
その仰せというのは神君か若しくは太閤であったか、今は忘れた。

『猿楽伝』という書には、
「鷺の家の本名は長命権之丞で、狂言の上手である。
太閤の御意に入れられている。九州名護屋で御宿泊の時、
水辺へ御成りがあって御遊興の時、権之丞は川へ飛び入り、
鷺のドジョウを踏むまねをして、御入興から鷺々と召され、
それから鷺と改めさせなさった。その子は鷺仁右衛門云々」

と記してあった。仁右衛門の言と等しくない。
しかし仁右衛門の言葉はその家の伝えなので、これに従うべきだ。


予はまた、祖先は朝鮮攻めのときには名護屋へ随従したのかと問うと
もちろん随ったとの答えがあった。
ならば名護屋御遊興云々のことも棄却してはならないだろう。

(甲子夜話続編)


家康、結城秀康を上杉景勝の押さえに

2017年04月05日 21:36

786 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/05(水) 18:15:13.56 ID:pFrrz65W
家康、結城秀康上杉景勝の押さえに


いわゆる小山評定の後(家康は)本多佐渡守(正信)一人を側に置き
結城秀康公を召し寄せて
「会津への進発はしばらくやめることにする。
 近いうちに(自分は)上方へ進発することになるので
 上杉の押さえとして差し置かれるべきなのは
 そこもとよりほかにはいないからだ。左様に心得ておくように」
と仰せられた。

秀康公は佐渡守の方へ向かって
「これは思ってもみない仰せで困惑しています。
 今度の上方においての御一戦は大事なことなので、御味方諸大名衆と
 申し合わせ、御先手で軍忠に励む覚悟でおりましたのに。
 上杉家の押さえとして御留守に差し置かれるべしとの仰せには
 たとえお気持ちに背くことになっても何度でもお断り申し上げる覚悟です。
 どうか御免下さりますように」
と申し上げられると、内府公(家康)は
「総じて今度のような大事の合戦に思い立って
 他国へ向かうことがあるとき、留守居の将を選んで残し置くのは
 弓矢の古法である。その上今度我らへ味方する諸大名からは
 証人などを出させてその人質を請け取ることになるのだから
 江戸、小田原の両城の内に差し置くほかなかろう。されば
 皆の安堵のため、確かな留守居でなくてはいけないと思ったから
 その方に申し付けるのだぞ」
と仰せられた。

秀康公が重ねて
「皆の安堵のため確かな留守居を差し置かれたいと思われるのでしたら
 幸い松平下野守(忠吉、秀忠同母弟)がいるのですから
 あの者を差し置かれればいいではないですか。
 私の方を上方へお供仕りますように」
と申し上げられると、内府公はいささか機嫌を悪くして
「皆の安堵のためだけなら、その方が申すごとく下野守でも済むが
 我らが出陣の後に何かが起こらないとは言い切れず
 しかも上杉景勝は我らの留守を見合わせて
 大軍を率いてくることさえあるかもしれないのに
 若輩の下野守で事は済むと思うのか。
 昨夜佐渡守も聞いていたが、その方は
 『今度上方の退治で上る時は、会津の上杉は手強き相手なので
  確かな押さえを差し置くのがもっともです』
 と申したのに、その手強き景勝の押さえをするのを嫌がるのか」
と仰せられた。

787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/05(水) 18:15:35.53 ID:pFrrz65W
秀康公はお困りになられ
「今度の上方の御一戦にまみえることができないのは残念に思いますが
 ただいまの仰せの上は何も申し上げようもなく、畏れながら斯様に
 お請け申し上げるからには、出陣の後も御安心めされますように。
 白河の関よりこちらへ景勝などに顔出しさせることはありません」
と申し上げられたので
佐渡守は承って秀康公のお側へ這い寄り、お膝を叩いて
「さてもさても殿はよくもお申し上げになられた」
と申し、涙を流し泣いていると内府公も涙ぐまれた。

(家康は)御納戸衆を召し寄せ、御具足一領を取り寄せて
御前に置き、秀康公に
「この具足は我の若き時より何度も陣場へ着ていったのだが
 一度も敵に押付(鎧の背の上部)を見せることもなく、秘蔵の具足であるが
 今度大事な留守を申し付けるのでその方へ譲り渡す」
と言って秀康公へ下賜されたという。
 

――『落穂集』


その働きは職分には含まれていない

2017年04月05日 21:36

723 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/04(火) 22:17:41.10 ID:DywoHspw
 駿河で火事の時に、権現様の御秘蔵の御長刀を御茶坊主が持参して火災から逃げたが、
その働きは職分には含まれていないというので、御褒美は無かったとか。


『武士としては』



724 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/04(火) 23:21:28.77 ID:M6hVStVZ
>>723
>その働きは職分には含まれていないというので、御褒美は無かったとか。

「無用な御心づけであったな」

725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/09(日) 12:08:11.60 ID:oswMbq6q
駿府城が火事のとき幼少の徳川頼房を救出して
水戸藩附家老になった中山信吉とはえらい待遇の違いだ

今川家崩壊

2017年03月30日 18:03

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/30(木) 03:58:40.21 ID:4eoO7xGb
12月(永禄11年)、武田信玄は駿河に出張し、当国の主・氏真の近親(瀬名信輝)や葛山(氏元)、
ならびに朝比奈右兵衛大夫(信置)が信玄に属した。氏真は一戦及ばず、遠江掛川へ退きなさった。

掛川城主・朝比奈備中守(泰朝)は氏真の臣下で遠江国の郡代であり、氏真を本城に引き入れて
籠城した。翌年春まで上下の人数に酒肴以下までも怠りなくもてなし、奇特であると言われたという。

その後、小田原に氏真が退きなさった時に連れ立った。氏康・氏政が言ったことには、「臣下として
主人の氏真を相抱えて籠城したこと、人臣の名誉である」との由で、懇志に致しなさったという。

遠江へも信玄より秋山伯耆守(虎繁)に伊那郡(信濃国)の人数を相添え遠江へ出軍させた。すると
山家三方衆(奥平・田峯菅沼・長篠菅沼氏)は信玄に属し、秋山に伴って遠江に出張したのであった。

引間の人数は三方ヶ原へ出て合戦し、三河の山家三方衆と合戦に及んで引間衆は敗北し、数多討ち
取られた。そうして引間衆は懇望して秋山に一味し、氏真は掛川へ籠城しなさった。その勢3千余。

家康はこの冬、遠江へ出張しなさった。同月、三浦右衛門大夫という人は氏真の取り分けての寵人
であったのだが、掛川へ籠ろうとしたところ、日頃から城主の朝比奈備中守と間柄が悪かったため、
城へ入らず馬伏塚を頼って行った。

ところが、かの地の主・小笠原美作守(氏興)は日頃の契盟を違えて右衛門大夫の首を切り家康公
へ献上した。翌年の春、小笠原は病死した。時の人口はもっぱらこれを憎んだ。

さてまた、駿府の氏真の居城には岡部次郎右衛門(正綱)が相籠ったので、残党はこれに従った。

――『当代記』



770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/30(木) 12:44:17.38 ID:Q4RK4yIB
朝比奈泰朝は小田原で死んだのかな