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汝は何ぞ主人の盟約に背き当国へ乱入するや

2018年12月12日 11:28

516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/11(火) 20:59:48.23 ID:z57RbpQQ
遠江の国人どもは追々降参して御味方に属す輩多し。よって神君(徳川家康)はますます御馬を進められて、
掛川城を攻め給わんと、城下を放火せしめられた。しかしながら今年はすでに歳暮であり、合戦は明年の春
とすべしとして、見付へ陣を御取りになった。

そんなところに武田の部将・秋山伯耆守晴近(虎繁)は信玄の命を受けたのか、信濃より軍勢を引き連れて
遠江を切り靡かんと二俣辺りに向かった。秋山はまず久野城へ使者を遣わし、久野三郎左衛門宗能に「一族
を引き連れて信玄に降参すべし」と勧めた。宗能は先達て徳川家へ帰順していたので、秋山の使者に返事も
せず追い返した。

秋山は大いに憤り「それならば国人どもの見懲らしめに久野城を攻め落とせ!」と平尾村に陣取りして久野
の城に押し寄せんとした。宗能もこれを聞いて鼻闕淵という所へ出て防戦せんとする。神君もこれを聞こし
召して奥平監物貞勝入道道文・菅沼伊豆守満直・同新九郎正員などを援兵として遣わされ、秋山勢を防がせ
なさった。

ところが敵は思ったよりも大軍で、味方は散々に打ち悩まされた。秋山は勝ちに乗じて浜松まで追い寄せる
勢いである。しかも同国の犬居城主・天野宮内右衛門景貫はかねてより武田方の一味で、これも人数を押し
出し、秋山に力を合わせて働いたのである。

神君はこの時すでに浜松城へ御馬を入れられたが、秋山の方へ御使者を送り仰せ遣わされ「汝の主人である
信玄は先に約束を定めて、駿河を信玄が切り治め、遠江を私めに切り治めよと申し送った。私はその盟約を
守り大井川を隔てて互いに経略せんと当国へ働くところに、汝は何ぞ主人の盟約に背き当国へ乱入するや!
甚だもって無礼なり! 早くその地を去らずに事を先延ばすならば、私がただちに出馬して1人残さず首を
刎ねる!」と、仰せ遣わされた。

神君はその後に引き続いて御馬を出され、御勢も追々走り出てすでに秋山の陣へ打って掛からんとする形勢
であった。これを見て叶わないと思ったのか、秋山は早々に人数を引き纏めて信濃伊那口へと逃げ入った。
(原注:『三河物語』では駿河に入ったとする)岡崎勢は1人も逃すまいと追っ掛けたが、甲斐勢は地理に
熟練しているため、捨鞭を打って逃げ延びた。岡崎勢は牙を噛んで「今少し早ければ、秋山を討ち取ったと
いうのに!」と、名残惜しげに浜松城へ引き返した。

――『改正三河後風土記』


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しからば親父に似ないように

2018年12月08日 19:34

510 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/08(土) 18:46:48.59 ID:U/fiPbdI
土岐山城守(定義)の父(定政)の最初の名は、菅沼藤蔵といい、徳川家康の扈従として、武功有る
人物であった。井伊兵部(直政)の具足初めでは、御意にてこれを藤蔵が着せた。これは直政が
藤蔵の武義にあやかるように、との事であった。

ある時、徳川家康の御家人が豊臣秀吉に御目見えする事が有ったが、藤蔵は「私は主君を二人持たず」と、
終に目見えしなかった。

そんな藤蔵がある時、津田長門守(信成)と初めて参会した時このように言い出した
「貴所は津田犬斎とはどういう御関係か」

「私は犬斎の子である」

「しからば親父に似ないように。御親父は長久手の合戦での様子は悪しきものであった。またどこどこでも
悪しかった。」
などと思うままに語るのを、見かねた側に居た物が言葉をかけて言を止めた所、藤蔵は

「酒を給わり酔ってしまった故、色々なことを申してしまった。御免あれ。」
と語ったという。
(武功雑記)



511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/08(土) 20:26:28.86 ID:Ynjz9SsZ
>>510
時事ネタかよw

512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/08(土) 22:27:04.14 ID:5CjIsI5B
やな奴だな

513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/10(月) 08:49:10.44 ID:izyJ+4O5
犬斎は織田信包のことだぞ
信成の父は盛月
いろいろおかしい

徳川家康と井伊谷三人衆

2018年12月07日 13:16

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/05(水) 19:48:55.72 ID:1oZI7Caa
この年(1568)12月、武田信玄が駿河に攻め入るとの旨が聞こえて、神君(徳川家康)は遠江を経略
されんと岡崎城を御出馬され、まず井伊谷城を攻めんと菅沼新八郎定盈、ならびにその家臣・今泉四郎兵衛
延伝に案内者を命じられた。

そもそもこの井伊谷城というのは今川の被官・井伊信濃守直盛の代々の居城であったが、直盛が永禄3年の
今川義元討死の時に同じく討死した後、一族の肥後守直親が遺跡を継いでこの城を守ったが、これも被官・
小野但馬の讒によってあえなく討たれ、幼児・井伊万千代(直政)は三河の方へ漂泊したのである。

神君はこの月朔日、大井川辺りに御陣を張り給うところへ定盈が参陣して、「この城は要害の地に築いた城
なれば、力攻めにせんとすれば虚しく月日を費やして士卒も多く損じることでしょう。某の一族の菅沼次郎
右衛門忠久、ならびに近藤石見守康用・鈴木三郎太夫重時、この3人は井伊谷の豪傑であります。この3人
に恩を施して味方に招きなされば、この城は戦わずして御手に入ることでしょう」と申し上げた。

神君はその申すところもっともであるとし、井伊谷近くへ御馬を進められて菅沼・近藤・鈴木3人に御書を
下され、所領の地を宛がわれた。その御書に言う、

 今回、両三人の計らいにより井伊谷筋から遠江へ打ち出たことは本望である。ついては所々出し置きの
 知行分を長く相違なく不入とし、また扶助するので、もし甲斐よりその知行分について如何様に申され
 ようとも、私の進退にかけて見放すことはありえない。その他のことも申すに及ばず。もしこれを偽る
 ならば、梵天・帝釈天・四大天王、とりわけて富士山・白山、総じて日本国中の神祇による御罰を私は
 蒙るものであろう。よって件の如し。

   永禄11年12月12日
  
            御諱御判

          菅沼次郎右衛門殿
          近藤石見守殿
          鈴木三郎太夫殿

この御書は今も近藤家に伝えている。(原注:井伊肥後守直親の横死後、その被官が7人でこの城を守った
という由なれば、菅沼・近藤・鈴木はその7人の中であろう。鈴木の子孫は現在の水府(水戸藩)の老臣・
鈴木石見守がこれである)

菅沼定盈、ならびに今泉延伝も同じく誓詞を添えて3人の方へ御書を遣わし、3人の方から参らせた誓詞と
人質も定盈が受け取って献じたため、定盈もこの功を賞せられて遠江に新地を下された。またこの3人は後
には井伊直政に付属されて、“井伊谷三人衆”といって武功を人に知られた輩である。

――『改正三河後風土記(近藤菅沼両家譜説)』


氏康が何ぞ悪法師めの油口に誑かされんや

2018年12月07日 13:14

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/07(金) 05:52:50.75 ID:nH7hfDGG
(薩た峠の戦い第二次合戦の時)

信玄は駿河久能に城を築いた。一夫が怒って関を塞げば三軍の帥も通ることを得難きほどの名地である。今福
浄閑父子(長閑斎友清・虎孝)に同心40騎・雑兵3百7十余人を属しここに籠め置いた。小田原では甲斐勢
を追い散らして氏真を救わんと軍勢を催す。

信玄が思われたのは「氏政は我が婿であるから差し障りはあるまいが、氏真は氏康の婿だから底心は心許ない」
と思われ、寺島甫庵という弁舌者を使者にして小田原へ申されたことには、

「氏真は近年政道悪しきゆえ、家康公に国を取られること疑いなし。そこで家老どもと談合致して氏真を追い
出し候」

と言葉を尽くして謝し申したが、氏康父子は聞き入れなさらずに激怒して寺島甫庵を牢舎させ、同12年正月
18日に小田原を出馬し、三島新経寺に本陣を据えられた。

松田尾張守(憲秀)・同肥後守・同右兵衛大夫(康長)・北条新三郎(氏信)・同常陸守(北条氏繁)・同
治部少輔(北条氏秀)・狩野入道・九島伊賀守・大道寺駿河守(政繁)・多目(多米)周防守・荒川豊後守・
橋本次郎右衛門尉・成田下総守(氏長)・千葉介国胤(千葉邦胤)・原式部大輔(胤栄)・同大蔵丞・大石
信濃守(照基)・内藤大和守(綱秀)を先手として、都合その勢4万5千余騎が三島より蒲原まで段々に陣を
取った。

また三崎の城より北条美濃守(氏規)・大道寺孫九郎(直繁)、伊豆の妻良こうらと沼津三枚橋より鈴木・
渡部・富永(政家)・太田・安藤・梶原三河守・間宮新左衛門(康信)などが3百余艘の兵船を揃え三保崎
へ漕ぎ寄せた。その勢5千余騎。

信玄は久能の城に陣を取り、山県三郎兵衛を1千5百余騎で府中に残して山西の押さえとして、武田左馬助
(典厩信豊)を大将として興津清見寺へ出勢する。同25日、氏康・氏政が清見寺表、薩た山へ出張された。
信玄も久能より清見寺へ出張して興津川原で辰刻より未刻まで3ヶ度の合戦があった。

――『小田原北条記』


508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/07(金) 05:53:33.40 ID:nH7hfDGG
その頃また武田信玄は寺島甫庵という者を使者として相模小田原へ遣わし、北条氏康・氏政父子のもとへ申し
送ったことには、

今川氏真は信玄の甥であるが、昏弱にして佞奸の三浦右衛門佐(義鎮)の言葉のみ信用し、一族家人は非道
の政務を疎んで古老譜代の者どもは恨みを含み、軍卒国民は虐政に苦しんだ。そのうえ乱舞酒宴に耽って武備
を怠廃するゆえ、幕下被官ども皆徳川へ内通し、遠江の城々は大半が徳川のために攻め取られた。やがて駿河
をもかの家の所有となるは必定なり。他人のために取られてしまうよりは、信玄の手に預かり置くべきと存じ、
氏真を追放致し候。

このうえは富士郡の川原を境として川より東は北条家で管領なさるべし。川より西は信玄の所属として治め候
べし。このように約束を定めたうえは、両家はますます親睦して互いに患難を相救い申すべし」

信玄がこのように懇ろに申し送ると、北条父子は聞いて激怒し、

「姦賊が例の邪智巧言で欺くとも、氏康が何ぞ悪法師めの油口に誑かされんや! その使者坊主めを帰すな!」

と甫庵を搦め捕って獄屋に繋ぎ置き、甫庵の従者どもにこれを見せて、

「汝らが甲斐に帰って言うべきは『来春は氏康が早々に出馬して駿河に留め置かれた甲斐の将卒は一々に首を
刎ねる! その用意をして待つべし!』と、信玄に申し聞かせ!」

と申し含めて追い返せば、従者どもは怖気おののき早々に逃げ去った。

北条氏康・氏政父子は永禄12年(1569)己巳正月に4万5千余(原注:一説に5万)の軍勢を引き連れ
て駿河へ発向するとして、まず武田信玄より使者に遣わされた寺島甫庵を三島の三枚橋で磔に掛けて、信玄の
無道と甥・今川氏真の家国を奪った罪を鳴らし、その18日には軍勢を進めて三島の心経寺に在陣し、先手の
諸軍を薩た山八幡平より由井・蒲原まで進ませた。

信玄方でもこれが聞こえて、山県三郎兵衛昌景に2千5百人を属し鞠子に砦を構え、花沢・藤枝・伊久美山の
敵を押さえさせて江尻・井上の両砦にも人数を加え、信玄の旗本は久能山に駐屯し駿河の人質どもをかの山中
に入れ置き、今福浄閑に馬兵40騎・歩卒3百5十人を添えて守護させた。先手は典厩信豊を大将に1万8千
の軍勢を興津河原に押し出し、北条勢と日々足軽迫り合いをさせた。けれどもその間には険阻の切所があった
ため、未だ互いに大合戦には至らずに日数を送った。

――『改正三河後風土記』



509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/07(金) 19:40:50.33 ID:WB/8Ev/K
>>507-508
北条視点と徳川視点か、みくらべると面白いね
信玄の酷さは共通してるw

池田忠継 「鬼孫なり」

2018年12月03日 21:03

544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/02(日) 21:57:47.67 ID:c+sukp8m
池田忠継 「鬼孫なり」


龍峰寺様(池田忠継)御歳16歳、慶長19年大坂冬の御陣のときに初陣であった。
とりわけ美男であったが兼ねてから御病身でもあったので
陣中での機嫌(体調)を気遣われていた。
しかしながら、御家老・荒尾但馬(成房)、荒尾志摩(隆重)、和田壱岐(正信)を初め
諸士の大将・諸物頭などを大広間に集めて、御軍令を仰せ渡された。

(忠継は)此度の軍を天下泰平の御一戦と思われていたのか
「御当家は将軍家の御恩により、別に立てることが出来た御家であるので
 此度の御一戦限りと一心に思い出陣すれば、いずれも忠義を遂ぐべし」
と仰せられたので、但馬、志摩を初めみなその御忠志の程に感銘を受け、上下一同
感涙の涙を流したことを、瀏節但馬(荒尾成利・成房の長男)がよく覚えていて
興禅院(池田光仲・忠継の甥)へ御物語申し上げたと、伝えられている。

(中略)

大坂冬の御陣で忠継が大和田を御渡りになるとき、傅役の喜多村織部を先乗りさせ
敵陣を見た後、御馬を(川に)入れて御渡りになった。
御勇気比類なく敵を追い討たれた事を、権現様(家康)がお聞きになり
「鬼孫なり」
と褒め称えられたので、秀忠公より鉄楯を給わったという。


――『因府録抄』

家康は忠継に対して即刻感状を出したため、冬の陣の諸大名と比べて誰よりも早い
11月7日付け(ほかは12月24日付け)の異例の感状が残っている。
(参考:図録『館蔵品選集Ⅱ』鳥取市歴史博物館)


久能山城

2018年12月03日 21:01

545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/03(月) 07:03:54.33 ID:cI3SPXlp
武田信玄は駿府を焼き払わせ自身は久能に在陣した。そのため今川家を亡命した将士どもは降人に出て人質を
献ずる者は日々夜々に絶間なし。信玄は奥津の横山という所に要害を構え、穴山陸奥守信忠入道梅雪をここに
置いて守らせた。奥津に続いている山下という地は梅雪の所領なので、便宜のためにそう定めたのである。

ここにまた今川家の家士に庵原弥兵衛といって小身の者ではあるが、数度の高名比類なき剛の者がいた。特に
山本勘助入道道鬼の第一の弟子である。信玄は弥兵衛を召し出して「小勢で立て籠もり、大敵を引き受けての
防戦が容易な地形はあるか」と尋ねたところ、弥兵衛が申したことには、

「この久能山と申す場所は後ろは山の尾が長く引いて深山に続き、三方は岩石高くそびえて谷深く、そのうえ
用水も乏しくはありません。その中に1つの細道があって羊腸を踏んで雁歯に沿う難路です。秦の函谷、蜀の
剣閣もこれ以上とは覚えませぬ。実に一夫が怒れば三軍の士でさえ押して向かうことはできません。もっとも
要害の名地であります。

この山に城を築いて兵糧を多く蓄え置き、10人の勇士が心を合わせて弓鉄砲を掛け置けば、日本60余州の
総軍勢が残らず押し寄せようとも、容易く落城することはありますまい。

前述のことは先年、山本勘助が浪人して当国(駿河)にいた時に語ったものです」

と弥兵衛が申すと、信玄は大いに喜んで「それならば日を置かずにこの地に城を築かん!」と縄張り地祭りを
執り行い、土木の功が成就すると兵糧や馬の飼料までつぶさに点検して、今福常閑(長閑斎友清)とその子・
丹波(虎孝)に与力40騎を差し添えて、都合3百7十余人をここに籠め置いて守らせ、信玄は一先ず甲斐へ
帰陣したのであった。

また神君(徳川家康)は先年、御異父同母の御弟・松平源三郎康俊と酒井左衛門尉忠次の娘を今川家へ人質に
出されていたが、氏真はかねてよりその家人・三浦与一に預け置いていた。ところがこの度の駿府没落により、
与一も信玄に降参したため、与一は何かしら勤功にしようと思って氏真がかねがね預け置いていた人質を伴い、
甲府へと連れて行った。

これによって信玄は大いに喜び「この人質を我が方に留めて置けば、徳川殿も後々には私めの幕下に属される
ことは必定である!」とその人質を受け取り、甲府で番人に厳重に申し付けて守護させたのである。

――『改正三河後風土記』


フランシスコが正当なる王として

2018年12月01日 16:50

487 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/01(土) 00:49:10.56 ID:lEMylcGS
事情斯くの如きに際し、薩摩の王(島津義弘)及びアウグスチン・ツノカミ殿(Augustine Txunocanmindonio 小西攝津守行長)は
彼等の手兵を治部少輔(石田三成)の前に出せり。
内府様[徳川家康)は之を見るや、兵士を集中してヨカタ川(Jocatangauwa)の河岸に沿ひて下り、其進出を妨げんとせり。
彼は対岸に二人の強き将軍の指揮下に在る新来の援軍あることを、其軍旗によりて知りしかば、此方の河岸に止りたり。
伏兵を恐れしを以てなり。

両軍相対峙して、機会を窺える間に、全日本を通じて党派は二分して互に戦ふに至れり。

豊後の王國に於ては、クアムビオエンド(Quambioiedo 黒田官兵衛孝高)は、其子甲斐守(長政)より送りたる使者により、内府様の軍の
勝報(岐阜城陥落)に接せり。之に気を得て彼は八千の兵を以てフランシスコ(Francisco 大友義統)を襲へり。
彼は故の豊後王(大友宗麟)の子にて、久しく太閤様の爲に都に止められしが、内閣員(奉行衆)の命によりて放たれ、四千の兵を以て
豊後に帰りしなり。
閣員はフランシスコが正当なる王として此地の臣民を其手に附け、よりてカムピオエンドに抗し得んとの希望なりしなり。

然るに予想は全く反対に出で、フランシスコは國に帰るや直に敗績したり。之が爲に豊後の一國は全く内府様の確保する所となれり。
此を初として内閣員は到る處に反抗に遭へり。
(モンタヌス日本誌)

モンタヌス日本誌の関ヶ原についての著述の一部。大友義統は九州に下って即座に敗北した事になっているわこのせいで奉行衆への反抗が続出するわ


姉川勝利

2018年11月22日 18:15

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/22(木) 02:44:20.60 ID:hd5SfMHy
(姉川の戦いの時)

浅井長政も叶い難く小谷を目指して敗走すると、味方は矢島郷の尊照寺・田川辺りまで追い討ちした。安養寺
三郎左衛門経世(氏種)は生け捕りとなり、信長の前に引き出された。信長はかねてよりその名を

聞き知っておられたのでその命を許され、「私はこの軍威に乗じてただちに安養寺に案内をさせて小谷を攻め
ようと思うがどうだ」と問われた。安養寺は答えて「長政は今日は敗走したといえども、父の下野守久政の勢
1,800ほども備えて城を守っていますので、軽々しく押し寄せなさるのは御遠慮あるべきでは」と言った。

信長はその言葉をもっともであるとして、「小谷はまたのことにしよう」と安養寺を助命し、そのうえ願いの
ままに小谷へ送り帰しなさった。かくて今日討ち取った敵の首を数えると3,170級。多くは徳川勢の討ち
留めたところである。信長は神君の大功を感心されて、

 今日の大功は殊更に言うまでもない。前代に比類なく後世の誰が雄を争えようか。当家の綱紀にして武門
 の棟梁というべきものである。(今日大功勝て言う可からず。前代比倫無し。後世誰か雄を争う。当家の
 綱紀武門の棟梁と謂う可き也)

以上の感状に長光の刀を添えて進上された。この刀は光源院将軍(足利義輝)の秘蔵でその後に三好下野入道
謙斎(政勝)が所持した世に優れた名物である。(原注:『柏崎物語』にこの時、信長より源為朝の用いた

矢根を進上され、御当家で槍にされたと見える)その他氏家・稲葉・伊賀の3人(美濃三人衆)も横槍の功を
賞して感状を賜り、諸手の将卒の勲功も漏らさず褒美なされ、姉川で勝利の凱歌を奏せられた。

姉川の戦い大勝により信長は頻りに礼謝の言葉を尽くされ、神君は御勢を引き連れられて三河へ凱旋された。
信長はただちに横山城を囲んで攻めなさった。大野木土佐守・三田村左衛門・野村肥後守・同兵庫頭などは
随分と防戦するも叶い難く、ついに城を渡して小谷に引き取ったため、ここは木下藤吉郎秀吉に守らせ、

姉川で討ち取った首は京都へ遣わして、義昭将軍の実検に備えて六条河原で梟首せしめた。京都では「ああ、
おびただしい首かな」とこれを見る貴賤ともども驚嘆して肝を潰したということである。信長は7月に至り
軍勢を進めて、磯野丹波守(員昌)が籠る佐和山城を囲み攻められた。この城は険阻な要害の地であり、

丹波守はさる老練の宿将で防戦の術を尽くしたので容易に攻め取り難く、そのうえ織田方の軍勢は打ち続いた
合戦で人馬も大半が疲れたため「この城はまた攻めるとする」と城の近辺に獅子垣を結い回し、鳥居・本口・
百々屋敷に向かい城を取って丹羽五郎左衛門(長秀)に守らせ、北方の尾末山に市橋九郎左衛門(長利)、

南方の佐渡山には水野下野守(信元)、西の彦根山には河尻与兵衛(秀隆)などと定め佐和山を押さえさせて
信長は入洛なさり、義昭将軍に謁して姉川の戦い勝利のことを告げられ、7月8日に岐阜城へ帰られた。

――『改正三河後風土記(東遷基業・岐阜記・武徳編年集成・四戦紀聞・織田真記)』


皆々家一つで育った片口者なので

2018年11月22日 18:12

462 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/22(木) 13:45:43.46 ID:kEbWa5TN
皆々家一つで育った片口者なので


若原右京は(池田家臣の)若原勘ヶ由の甥にあたり、関ヶ原の戦で功があった。
段々出世し禄四千石になり、中村主殿と共に国政を執って過分の威勢を持っていた。
国清公(池田輝政)が薨じた後、右京と主殿は奢侈に流れて仕置もよくないと
関東に伝わったので、神君(家康)はとてもお怒りになった。
それにより安藤対馬守(重信)、村越茂助(直吉)両人が上使として姫路に来たる。
時に二(三)月十五日、池田の御一族ならびに老臣物頭どもの列座にて、右京と主殿の
御不審のことなどについて御穿鑿があった。

第一に、右京は四千石の身上で騎馬の士を百人召し抱えているのは甚だ不審である。
第二に、良正院殿は神君の御女であり、その御腹の君達は御孫である。しかし右京は
良正院殿を初め幼君達に対し、無礼過分の振る舞いがあったこと。
第三に、池田の一族、歴代の家老どもを差し置いて、おのれ一人威勢権柄を振るい
諸事ほしいままに執り行ったこと。
この条々について申し分があるかと、村越安藤両人が上意として申し渡した。

右京は承って

「上意の如く心馳せの浪人どもに、後々三左衛門(輝政)直参として召し出されると
 申し聞かせ、優れた百人を自分で召し抱えたことは確かです。これは三左衛門が
 当国を拝領したとき莫大の御恩を忝なく思い、内々思うところがあったのでしょう
 当地は海陸肝要の所でその上関東より御心懸けがある国なので、とりわけ大切だと
 その任に当たるべき者を選ばれ、国法軍法を拙者一人に申し付けられました。しかし
 小身では叶わないからと加増をすると、家老初め譜代の者が恨み憤ることは必至。
 そのため蔵入五万石の地代官に申し付けられ、知行代わりとして心のままに取り
 計らうように命じられたからなのです。浪人どももそのために召し抱えていました」

「第二に、奥方子息などに無礼慮外を仕ったとありますが、これは三左衛門が奥方の
 暮らしが華美に過ぎるときは家の破れる元である、子息の方も同じことだ、左様の
 ことがあれば遠慮なく取り計らうよう、内々に申し付けられたからです。大御所様の
 御姫君、御孫であっても、過分の御振る舞いがあるときは恐れながら諌めましたのは
 確かです。武州(利隆)は別腹の惣領で、左衛門督殿(忠継)は当腹の愛子、その次々の
 子息の方も同じことですが、ややもすれば武州を越えて若輩が奢り、全てのことが
 過分になったときに異見をし、差し止めたので無礼と聞き及びになられたのでしょう。
 不敬と言い立てる程の事柄は、露ばかりもございません」

「第三に、一門家老どもを踏みつけたとのことですが、上意の如く池田出羽(由之)は
 池田の嫡家で一城の主、その他家老どもも多くは城主郡主です。このような一門譜代の
 歴々が国中の仕置などに召し使う才略があれば、それが一番よいことだったのですが
 皆々家一つで育った片口者なので、その任に付けるのは難しかったものですから
 三左衛門の思いのままに、国政軍法を某に申し付けられましたのは周知のことです。
 これについては何の子細もございません」

と申したところ、丹羽山城入道(右京の親戚)が末座より進み出て
「上使の御前にて高声無礼である」
と叱ると、右京は(丹羽の)眼を見て
「なんだ徳入、無礼とは何事か。亡き殿が御在世のときに我に対して、左様のことを
 言い張るべきなのに、今更出てきて我を折檻する方が無礼だ」
と言ったので、丹羽は言葉もなく引き下がった。

右京の申し開きは悉く立ったが、国政に相応しい者ではないと、将軍家は播州から
右京を御改易にし、主殿も同罪になったという。


――『池田家履歴略記』

右京が改易になったせいで、加増や召し抱えが反故になった士も多かったとか。


三越同盟

2018年11月21日 16:45

521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/20(火) 20:07:43.88 ID:nigKKgzI
(姉川の戦い勝利後)

神君(徳川家康)はこれより先に今川氏真の媒介で越後の上杉謙信と音信を通じられたが、この年7月下旬
に至り、遠江秋葉の別当・加納坊光幡とその婿・熊谷小次郎直包を使者として越後に遣わされ、これからは

ますます仰せ合わされたいとの旨で、浜松御城の図・太刀・馬代金10両を贈られた。謙信は大いに喜んで
「今の世に“海道第一の弓取”と伝えている徳川が、私めの武略を慕って使節を送られた事は謙信にとって
これ以上ない大慶である」として両使に引出物若干を与え、徳川家の老臣に書簡で返礼した。

その文によると、

 追って真鳥羽(矢羽に用いる鷲の羽)20尻を、これまで通りに任せて差し遣します。誠に些少の至り
 ではありますが、未だ申し通じてはおりませんので、一筆啓達します。さて、家康よりよくよく使僧を
 遣わされ、これ以上の大慶はありません。これからは無二に申し合わせたいとの心中ですのでよろしく
 取り成しを頼み入ります。なお子細は口上させます。恐々。

   8月2日  謙信在判

     松平左近丞殿

甲斐の信玄方へは翌年に至り越中の椎名肥前守からこれを告げ知らされたので信玄は大いに嘆き苦しんだ。

――『改正三河後風土記(甲陽軍鑑・武徳編年集成)』


人の馬は猶以嫌

2018年11月19日 11:19

453 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/19(月) 10:58:13.61 ID:8WENTLh0
>>450と同じ様な事例

大阪の陣の時、安藤治右衛門に、徳川家康が何方かへの使いを仰せ付けた所、
治右衛門は「馬がくたびれており出来ません(馬草臥候間罷成間敷)」と申し上げた。
松平越中守が「私の馬を貸そう」と申した所、
治右衛門「人の馬に乗って行くことは猶嫌です(人の馬に乗申て行事は猶以嫌)」
と言ったという。

(武功雑記)

大阪の陣の段階でもこんなのばっかりか


加様の時ばかり、又市又市とばかり

2018年11月18日 22:11

450 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/18(日) 09:55:08.45 ID:HHO290R9
小栗又市は、駿府城の火災の時に奥方の御番を申し付けられていたが、避難のための門を開けるのが
遅かったため、御古茶という末の女中が、大勢が逃げる中踏み殺された。この責任により改易された。
当時、知行二千石であった。
大阪の陣の時再び召し出され、五百石を与えられた。

さて、御陣の時、彼は御使に遣わされることになったが、徳川家康は絵図を見ながら
「又市、これからこう参れ」と指示した。しかしこれに又市は「私の馬がくたびれており、参ること出来ません。」
と答えた。
これに本多佐渡守(正信)が、「私が馬を貸しましょう。」と言ったが、又市は

「人の馬を借りて行くのは嫌だ。その上こんな時ばかり、又市又市と仰せになる。何もくれないくせに!」
と言った。
(人の馬を借てはいやなり。その上加様の時ばかり、又市又市とばかり仰られ、なにもくれもせいでと云。)

(武功雑記)

なおこんな事言いながら「若い使番は俺と違って遠くからしか観察しないから役に立たない。」なんて言い放つほど
しっかり仕事していた模様。ちなみに大阪夏の陣で敵に接近しすぎて銃撃を受けその傷が元で翌年死んだ。


「さらば掛かれ!」

2018年11月18日 22:09

451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/18(日) 16:06:44.95 ID:0sQ0peas
(姉川の戦いの時)

これより先に織田方先陣の坂井右近(政尚)は敵に姉川を越させまいと遮ったが、浅井の先鋒・磯野丹波守(員昌)や
その他に高宮三河・大宇大和・山崎源八郎・前田信濃・蓮台寺常陸など5千余騎が突いて掛かった。坂井は小勢ゆえ

突き立てられて嫡子の久蔵16歳や郎等百人ほどが枕を並べて討死した。右近はこれを知らずに味方の陣へ引き取った
のであった。2陣の池田勝三郎(恒興)も散々に切り崩された。浅井方は切り誇り勝ちに乗じて阿閉・上坂を始め

7千余騎が一足も引かぬと突いて掛かる。木下(秀吉)・森(可成)の備も敗れて、整々堂々たる13段の備は11段
まで切り崩され、信長の旗本も大いに騒動してすでに危うくなった。これを神君は御覧になって「さらば掛かれ!」と

御命じになり、越前勢を追い捨てて浅井勢の中に馬煙を立てて喚き叫び駆け入り給う。稲葉伊予守(良通入道一鉄)は
今朝から徳川勢の後陣に備えて手を虚しくし口惜しく思っていたので、良き幸いと同じく馳せ入り突いて掛かった。

横山城の押さえとして備えている氏家卜全・伊賀伊賀守範秀(安藤守就)の3千余騎も横槍を入れ、徳川勢と双方より
激しく攻め立てれば、浅井長政も力を尽くして戦うもついに戦い負けて総敗軍となった。神君は歯噛みをなして衆人を

励まし命じられれば大久保七郎右衛門(忠世)・本多平八郎(忠勝)・酒井左衛門尉(忠次)・小笠原与八郎(信興)
などは先を争って奮戦した。青山虎之助定規はこれより先に討死す。また浅井方では浅井玄蕃(政澄)・磯野丹波守・
阿閉淡路(貞征)が取って返すも、ついに戦い疲れて玄蕃と淡路は引き退き、磯野は手勢3百ほどで

群がる敵を打ち破り佐和山の居城へ引き取る。浅井雅楽助・同斎之助・加納次郎左衛門・同次郎兵衛・安養寺甚八郎・
同彦六郎・細江左馬之助・早崎吉兵衛・上坂五助・同弥太郎・同次右衛門などは討死した。

――『改正三河後風土記(東遷基業・岐阜記・武徳編年集成・四戦紀聞)』


その血は神君の御刀にそそぐほど

2018年11月17日 22:11

449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/17(土) 14:35:48.11 ID:QBvZ1LDM
(姉川の戦いの時)

この戦いの半ばで、誰かは分からないが朝倉方の者が御本陣に紛れて神君(徳川家康)に
近寄ろうとしたが天野三郎兵衛康景と加藤喜右衛門正次が怪しみ2人でともに討ち取った。

その血は神君の御刀にそそぐほど御近くでの出来事であった。

――『改正三河後風土記(東遷基業・岐阜記・武徳編年集成・四戦紀聞)』


6月28日姉川合戦・徳川勢

2018年11月15日 12:10

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/15(木) 01:25:00.65 ID:AH/VRodr
(姉川の戦いの時)

28日の暁に信長が敵陣の様子を見られると、浅井勢は8千ほどが野村に備えて東にあり、朝倉勢1万5千ほどが
三田村に備え西にあって姉川を境に陣を取っていた。信長は徳川殿に使者を立て「昨夜軍議を定めたが、我が恨み
は浅井にあるので私が浅井を討つ。徳川殿は朝倉に向かわれよ」と申し送った。酒井左衛門尉(忠次)がこれを

聞いて「味方はすでに浅井に差し向かっています。今にわかに陣備を立て替えようとすれば隊伍は乱れましょう」
と申せば、神君は「浅井は小勢、朝倉は大勢だ。大勢の方へ向かうは勇士の本意である。とにかく織田殿の仰せに
任せる」と御返答されてその使者を返し、にわかに軍列を立て直し西北に向かい直された。

(原注:『柏崎物語』によると南は横山、東は伊吹山と草野山の間より姉川は流れ出る。堤26丁程の高岸なり)

(中略)

徳川勢先手が弓鉄砲を放ち掛けるのを見て越前勢大将・朝倉孫三郎(景健)が「この手の敵はわずかな小勢なり!
打てばたちまち破れるぞ!」と命じれば、平泉寺の衆徒は心得たと徳川勢に切り掛かり、姉川を追いつ返しつ戦う。
折しも6月28日の極暑であり、馬汗や人汗は流水に異ならず。浅井方では磯野丹波守(員昌)がこれを見て、

「越前勢は早くも槍を入れたるぞ!」と呼ばわり、西南に向かって千5百の勢を押し出した。越前勢大将の朝倉
孫三郎が味方を離れて百騎ほどで平泉寺の僧らが力戦する横合から切り掛かり、徳川勢を追い払わんとするのを
見て、御本陣より本多平八郎(忠勝)が急いで馬を馳せて、雷の如く駆け来たるとこの敵を突き破った。

大久保兄弟(忠世・忠佐)と安藤彦四郎直次も同じく馬で馳せ来たりて奮戦する。朝倉孫三郎も激しく命じ諸軍を
進めて敵を川の向こうへ追い立てようとした。石川伯耆守(数正)は姉川の中ほどで返し合わせ、大塚甚三郎は敵
の槍を引き合ったが、ついにその槍を奪い取って敵を突き伏せ首を取った。この功により“又内”という名を賜る。

内藤正成の子・甚一郎正興(正貞)は槍を敵中に落としたので馬を乗り戻し、その槍を取って帰って来た。この時、
朝倉後陣の勢と浅井勢とがひとつになって進む。神君は御覧になって「これでは織田方は利を失うと見える。旗本
より敵の備を崩し掛かれ!」と御命じになり、本多平八郎は「畏まり候」と槍を引っさげ朝倉の1万余騎の中へ

喚いて掛かる。本多豊後守(広孝)を始めとして徳川勢は「平八討たすな!」と一同に3千ほどが突いて掛かった。
松井左近(松平康親)は左手を鞍の前輪に射付けられながら、その矢を抜いて敵を射倒した。松平甚太郎(家忠。
東条松平家)16歳は良く戦った。朝倉方は魚住龍門寺(左衛門尉)ら8千余騎が御本陣を目掛け突いて掛かると

大久保忠勝の子・新八郎広忠(康忠)を始め大久保党やその他に小栗又一(忠政)・服部一郎右衛門などがこれを
迎え打ち高名す。その中でも大久保権十郎忠直は敵の槍を奪ってその敵を突き伏せ首を取った。よって“荒之助”
という名を賜る。この時、神君の御下知あって、榊原小平太(康政)・本多豊後守に「敵の横を打つべし!」と

命じられた。小平太が左右を顧みると前方に水田あり。底は砂石で渡れるので、小平太が馬を乗り入れたのを見て、
豊後守とその子・彦次郎康重や渡辺半蔵(守綱)・本多三弥(正重)・水野太郎作(正重)も進み突戦す。小笠原
与八郎(信興)も進み戦えば、その手の者の渡辺金太夫・門奈左近右衛門・吉原又兵衛・伊達与兵衛・

中山是非之助など(姉川七本槍)も勇を振るう。越前勢はついに敗北して小林瑞周軒・黒坂備中守(景久)・前波
新八郎・同新太郎・魚住龍門寺などといった主だった輩が討死した。

――『改正三河後風土記(東遷基業・岐阜記・武徳編年集成・四戦紀聞)』


そんな秀吉の元同僚

2018年11月13日 21:16

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/13(火) 00:32:10.68 ID:ZVjC4cpg
日下部兵右衛門は、元は尾張の織田信長の家臣であったが、秀吉が未だ藤吉郎と称していた頃、
信長の命により、二人は堤の奉行をした。この時秀吉は褒美に預かったが、日下部には褒美がなく、
そのため信長の元を立ち退いて徳川家康に仕えた。

彼は関ヶ原の戦いの後、山城国伏見に在番した。この在番の間、常に下々に三度の食を食わせ、
自分の馬に鞍を置き、わらんず(草鞋)を傍に置いて、下々の者たちには身ごしらえを致させた。

彼は普段からこう言っていた
「もし不慮のことあれば、一番に城の大手に乗り出して討ち死にを遂げ、武士の職分を守り、
潔く死を善道に守ること以外は必要ない。」
自身も常に、そのように行動していたという。
(士談)

そんな秀吉の元同僚のお話



510 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/14(水) 00:01:48.69 ID:kj0e+PB+
>>506
かっての同僚が天下人となり
その天下人が築いた城の在番として生涯を終えるってのは、なかなか数奇なめぐり合わせだね

伊予の身において誉れとすべし

2018年11月11日 16:24

497 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/11(日) 03:32:25.39 ID:KKOyQnSl
(姉川の戦いの直前)

終夜火を焚く敵方を見た織田信長は龍ヶ鼻本陣への敵襲を悟り味方の備定めをされた。毛利新助(良勝)を神君御陣
へ使者に遣わし「明日の合戦で信長は越前勢に向かう。徳川殿は浅井に向かいなされ。しかしながら、御勢は多くは

ないので、誰でも加勢を申し付けよう」との口上をした。神君は聞かれ「私がここに来た以上は水をも火をも避ける
わけにはいきません。朝倉・浅井のどちらでも受け取り申しましょう。しかし左様な打ち込みの合戦はまったく本意

ではありません。強敵と覚える一方を受け取り勝負を決します。浅井の8千を我が3千で戦うことは、人数において
不足なし。されども加勢を添えて下さるならば稲葉伊予(良通入道一鉄)を差し遣して下さい」との御返答であった。

新助は帰り、信長はこれを聞かれて「徳川殿は伊予に将略があるのを知られて加勢に望まれた。この事は伊予の身に
おいて誉れとすべし」と仰せられ、伊予守に加勢を命じられ、重ねて織田勢を13段に定められた。1番は坂井右近

(政尚)、2番は池田勝三郎(恒興)、3番は木下藤吉郎(秀吉)、4番は柴田修理亮(勝家)、5番は明智十兵衛
(光秀)、その他に中条将監(家忠)・簗田出羽守(広正)などを堂々整々として備え、また丹羽五郎左衛門長秀・

氏家常陸介卜全・伊賀伊賀守範秀(安藤守就)などは横山城の押手と定められた。徳川勢は酒井左衛門尉(忠次)と
石川伯耆守(数正)を先手になされ、松平甚太郎家忠・松井左近(松平康親)・大須賀五郎左衛門(康高)・高天神

の小笠原与八郎(信興)など総じて2千余騎を2陣となされ、中軍の御大将左右に榊原小平太(康政)・本多豊後守
(広孝)が備え、稲葉伊予守を後軍として都合6千余騎なり。

――『改正三河後風土記(東遷基業・岐阜記・武徳編年集成・四戦紀聞)』


六代の討死にして

2018年11月04日 20:58

454 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/03(土) 22:39:14.16 ID:qOtmps2b
大阪冬の陣、伯楽淵の戦いの時、横川次大夫が取った頸を、箕浦右近が使いとして家康本陣の
茶臼山へ持参し、それが一番頸であることを、本多上野介(正純)を以て言上した。
しかし頸の名字は知れず、名もなき頸であるとして、そのまま白砂に置かれた。

そのような所に、浅野但馬守(長晟)の使者である菅田士郎右衛門という者が茶臼山へ参ったのだが、
その頸を見て、彼の名前を知っていたため、知人としてこのように置かれるべきではないと思い、
頸を取り上げて石の上に置き、感じ入った様子であった。

これを見た箕浦は、彼に近づいて聞いた
「あなたはどちらの御家の方か、あの頸を御存知なのか。」

菅田答えた
「しかじかの者である。この頸は、仔細有って見知っている。これは平子主膳という者の頸である。
この者の父まで、五代討死を致した。そして今日この者の頸を見るにおよび、六代の討死にして、
誠に侍の冥加にあい叶いたる者と存じ、石の上に上げたのだ。」

箕浦これを聞くと再び尋ねた
「確かに御見知候や」

「確かならぬ事を、初めてお目にかかったあなたに申すような事はしない。」

こう言われ、その場で菅田と知人に成り、紀伊国の事などを尋ね、その後箕浦は上野介に
「先程の横川次大夫が討ち取った頸の事、平子主膳の頸であることが解りました。何かのついでにも
仰せ上げられますように。」と申し上げた。本多上野介からは「重ねての披露は難しい。」と言われたが、
それでもと、達って申した所、徳川家康は大いに感じ入り

「平子の頸であると?さては六代まで討死を遂げたのか。冥加の侍と云うべし!」と仰せに成った。

上野介が「平子は御存知の者でしたか」と尋ねると、「彼は隠れもなき者である。」との上意あり、
そしてその頸をとった横川次大夫へは、感状が下された。
これは合わせて、箕浦の使いの致しよう巧者成るが故と、その頃評判と成った。

(士談)

武士にとって討死はむしろ名誉である、という事がよく解る逸話ですね。



455 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/03(土) 23:27:17.93 ID:y/aNoiQu
六代まで討死とか壮絶やな

456 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/04(日) 01:55:48.51 ID:l7DCctIn
息子も大阪の陣で討死しているので、七代…

458 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/04(日) 10:43:15.31 ID:1AjO4BYd
>>456
え?お、おう・・・

459 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/04(日) 11:10:03.90 ID:Tz26sLmg
7代連続討ち死には
平子家の合戦での立ち回りが致命的に間違ってるとしか・・・

460 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/04(日) 12:29:50.41 ID:st2l0x2P
活躍して討ち死にした武士の家は普通重んじられるから、討ち死にが手柄の第一、と言われる By竹崎季長

461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/04(日) 14:59:33.22 ID:WgVotmTC
大御所様は当代の勇士知りすぎ問題

     §         
  ( ゚∀゚)  <話は聞いた その者は紛れもない勇士   
../  /ハ\ 
く_ノ;=8=」レ 
   家康           な、なんだってー!!
                          感状だー!>

462 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/04(日) 17:21:22.46 ID:10fHARKO
>>456
良い話か悪い話かこれもうわかんねえな(錯乱

463 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/04(日) 17:22:43.65 ID:xFrMk15D
7代連続討ち死にとかよく家が保たれたな…
そんだけ死んでれば結構若いうちに死んだのもいそうだが

464 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/04(日) 18:25:40.35 ID:+iuEsOmt
討ち死にではないけど少弐氏当主も横死ばっかしてたよな確か

松村の報告

2018年11月03日 20:56

449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 23:40:43.29 ID:CzSJgcY6
徳川家康へ、豊臣秀吉の妹の朝日姫との婚姻に置いて、秀吉は朝日姫に付け参らせるものを探していたが、
近江の中郡に、元は明智光秀が召し使った松村という者があり、これが才知有るとの事で、輿に副えて
家康の元へと赴いた。

後に秀吉は、この松村を招き家康の家風を尋ねた。松村は畏まって申し上げた

「家康は、世間のことは不調法に見えますが、弓矢の儀は勝れて鍛錬の所多きと見えます。
彼は腹を立てて人を叱るときにも、言葉は明らかで理由を詳しく述べます。
また腰の重い人かと思えば、鷹野にて2、3日も御逗留されます。
しわく吝嗇な人物かと思えば、家中に歴々が多く居ります。
何とも、凡眼にて推量するのは難しい人であります。」

秀吉は松村の報告に感じ入り、「人の言行をこのように細やかに察するものは、これまで聞いたことがない。」
と言ったという。

(士談)



452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/03(土) 08:13:57.12 ID:YbqDkvn8
>>449
間者か!

あの兄弟の働きは良き膏薬

2018年10月31日 19:10

416 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/31(水) 03:54:41.31 ID:CQKUgdKl
(長篠の戦いの時)

5月21日、武田四郎勝頼は夜中より軍勢を追々繰り出した。また曙に備を立てて一備ごとに分かれて攻め
掛かる様子なので、織田・徳川両将はかねて仰せ合わされたように「軍勢は柵外に出てはならない」と堅く

制し、鉄砲3千挺ずつ用意して待ち設けた。信長卿は「今日敵を練雲雀の如くせんものぞ!」と仰せになる。
その頃、徳川御陣では大久保治右衛門(忠佐)が兄・七郎右衛門(忠世)に向かい「今日の戦で当手は本主、

織田勢は加勢である。万一織田衆に戦を始められてはこれ以上の恥辱はありません! 某が進んで足軽戦を
始め候べし! 鉄砲の歩卒を添えてください!」と言うのを、神君(徳川家康)は聞かれ「もっともである」

との仰せにより柴田七九郎康忠・森川金右衛門氏俊・江原孫三郎利金・日下部兵右衛門定好・成瀬吉右衛門
正一らの属兵を大久保兄弟に差し添えて先頭に進められた。成瀬は徳川の御家来であったが、

一度子細あって甲斐へ立ち越し、この年頃武田家に仕えたが、今回御内意あって帰参した。それゆえ武田家
の侍大将どもの旗指物をよく覚えているからと先手に加えられたという。

(中略。大久保兄弟は先陣を切って山県昌景勢と戦い活躍)

今日の大久保忠世・忠佐兄弟の戦場での働きを信長卿は御覧になって、「徳川家の中で金の揚羽蝶と浅黄に
黒餅の指物をしているのは、何と申す男か」と問われ、神君は大久保兄弟と御答えし、信長卿は「徳川殿は
良き人を御持ちだ。あの兄弟の働きは良き膏薬のようだ。敵に付いて離れない」と仰せられた。

(中略)

かれこれする間に神君は岐阜におられた。信長卿は今回の加勢を感謝されて神君を厚く饗応なさり、御供の
人々へも若干の被け物を賜われたが、信長卿は「長篠で見た髭は来ているか」と問われた。その時、大久保

治右衛門が進み出て「兄の七郎右衛門は供に参ってはおりません」と申せば、信長卿は「汝の兄弟は今回の
功抜群なり」と仰り、御自身の手で衣服を取って授けられた。大久保は大いに面目を施され、神君も殊更に
喜びなさって浜松へと帰られた。

――『改正三河後風土記(四戦紀聞・東遷基業・武徳大成記・家忠日記・甲陽軍鑑・武家閑談・三河物語・
   神君御年譜)』

417 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/10/31(水) 06:53:32.42 ID:zbk28BfY
流石は大久保、真田に付いて離れない。

418 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/31(水) 14:02:12.81 ID:hpbAKV9H
>>416
>金の揚羽蝶と浅黄に黒餅
どういう組み合わせだw

419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/31(水) 17:03:16.97 ID:VrOWLq6S
こう、殿様が家臣などを褒めて色んなものを賜るというのがお話でよく出てくるけど
頂いた衣服や刀などなどって飾っておくもの?
馬とかの場合飾る訳にもいかないだろうから、乗ったり使うのが普通なのかな。

420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/31(水) 19:07:11.87 ID:Df67X3vF
>>418
黒餅ってお餅じゃなくこういう黒の円の事だぞw
https://i.imgur.com/zAouSP3.jpg
zAouSP3.jpg

426 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/11/01(木) 10:30:04.24 ID:kmp/q02H
黒丸って言えばいいのに黒餅に見えたなんてよっぽどお腹空いていたんだな
もしかしたら本当に餅をぶら下げていたかもしれん
返り血を浴びて黒くなっていったんだろうな

427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/01(木) 11:33:31.48 ID:KZhZzpkc
菓子好きだから、そっちでイメージが浮かぶんじゃないの

434 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/01(木) 19:25:38.00 ID:VVf5sW8r
>>426
黒丸だと黒で描かれた円(蛇の目)とも取られそうだし、便宜的に餅と呼称したのでは?

435 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/01(木) 19:31:04.15 ID:6GoIIEmA
https://ja.wikipedia.org/wiki/藤堂高虎#/media/File:Site_of_T%C5%8Dd%C5%8D_Takatora_and_Ky%C5%8Dgoku_Takatomo%27s_Positions.jpg
藤堂高虎の旗印(一番右)も「三つ餅」と言われてるな
Site_of_Tōdō_Takatora_and_Kyōgoku_Takatomos_Positions

436 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/01(木) 19:46:51.86 ID:KZhZzpkc
高虎のは餅の逸話からきてるんじゃないの?

437 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/01(木) 23:36:57.17 ID:eJY+p62H
>>436
多分逆。旗印が三つ餅だったから出世の白餅の話が作られた。

438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 08:56:26.72 ID:PhpvOcLA
もしそうなら参勤交代の時に立ち寄る風習ができた吉田の餅屋はマル得だな
あと初期の高虎の逸話を見ると食い逃げが本当でも驚かない