FC2ブログ

狐の嫁入り 宇宙稲荷ver

2020年05月26日 17:58

222 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/25(月) 23:06:27.65 ID:trmhf7vv
狐の嫁入り 宇宙稲荷ver

乾坤院境内のお稲荷さんは、もと緒川城にまつられていたもの。
徳川家康の母、於大は、緒川城で生まれこのお稲荷さんのもとで育ち、
六歳の時刈谷城へ移り、そこから岡崎城主、松平広忠のもとへお嫁入りすることになった。

お嫁入り当日、両家の縁組に反対する者が途中の道で待ち伏せしていることを知り、
お稲荷さんのおふだを持って、行列は少し回り道して安全な野道を行くことにした。

さて、こちらは岡崎に入る道。反対派の一団が花嫁行列を待ち伏せている。
雲もなく晴れわたっているというのに急に雨が降り始めた。
そこへ花嫁の行列が現れ、一団の侍が飛び出したところ、あら不思議。
行列が消えてしまった。
その騒ぎをよそに、野道を行った於大の行列は無事に岡崎城へ入ることができた。

このことから、天気がいいのに雨が降ると「狐の嫁入りがある」と人々はうわさするようになった。

ひがしうらの民謡



223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/25(月) 23:15:41.95 ID:1QEjTTSm
宇宙だの乾坤だの壮大な名前だ

224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/26(火) 01:26:06.66 ID:CpRwLa8R
侯景「板違いの向こうから呼ばれた気がした」
スポンサーサイト



織田信雄、敵を助けた小姓を

2020年05月15日 18:18

179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/14(木) 22:50:40.61 ID:EOK6TkPy
織田信雄、敵を助けた小姓を


丹羽左兵太は織田常信(信雄)の小姓である。
長久手合戦のとき池田の手に石黒善左衛門、常信の手に石黒善右衛門がいて二人は伯父甥であった。
常信の手にいる石黒と丹羽は仲が良かったが、一戦で丹羽は池田の手の石黒と槍を合わせた。

丹羽の下人が「これは味方の石黒とは一家ですよ」と申したので、石黒と仕合を止め
(丹羽は)その先で敵一人に槍を付け首を捕ったが、味方の大兵が来て首を奪われてしまった。
「これ程多くいる敵を討たず人の討った首を奪うか!」と言って先に行きまた敵を討ったという。

その後東照宮(家康)へ(徳川家臣の)西尾丹後が「常信の小姓が、仕掛けた敵を助けました」と
申し上げたので、東照宮はそのことについて常信にお尋ねになられた。
常信は敵を助けたと申すのはどうかと思われて「左様の者はございません」と返答された。

その後東照宮が常信の所へ越されて、長久手での勝利を喜ぶ御話をされた後
「最前にいる御小姓に手柄をいたした者がいるそうですが、何と申す者でしょう」とお尋ねされたので
「只今お酌をしているのは(小姓ではなく)余の倅です」と常信は申されたという。
このとき佐平太[十九歳だったという]は、お酌取りとして御前にいたという。


――『烈公間話



潔きこと誰がこの上に立てようか

2020年05月14日 17:22

172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/14(木) 06:05:02.71 ID:s3NizvQB
本巣郡山口の城主は、

古田左金吾安長、安長弟の同吉左衛門長宗、長宗弟の同兵部少輔長政、長政子の同織部正長脇(古田織部)。

この城は昔、梶原平三景時の居城であった。当城に居住した折に、この場所の鴨を取って頼朝に献上したと
『東鑑』に見えている。また文治(1185~1190)の頃、判官義経を来振寺で調伏したという。この
事は五大尊寺にあるなり。

さてまた古田吉左衛門は羽柴秀吉に仕えて、播州三木の城攻めの折に討死した。その子に古田兵部少輔長幸
(重勝)と二男の大膳大夫長盛(重治)という2人がいた。慶長5年(1600)、勢州松坂の城主となり
6万石を領した。その後、兵部少輔は病死した。

その時に6歳の狐子(古田重恒)がいたが、将軍家康公より大膳大夫に兄の跡目を相続し、兵部少輔となる
ようにとの旨仰せがあった。大膳が承って申すには「有難き上意でございますが、狐子を成長させて父の名
ですので兵部少輔と名乗らせ申したいのです」との由を望んだ。家康公は聞こし召して「今の世には希なる
者かな」と感じなさった。

狐子がようやく成長すると、父の挙具を残らず目録をもって元和6年(1620)の頃に渡し、もちろん6
万石の地をも付与して、自身は物寂しき様子で江戸に住んだ。潔きこと誰がこの上に立てようか。稲葉内蔵
助(道通か)・一柳監物(直盛)なども兄の跡目を名代として相続したが、いずれも古田に及ばないという。

――『美濃国諸旧記』

ちなみに美濃国諸旧記は寛永末から正保中(1624~1648)の成立と言われるが、正保3年に古田騒
動が起こり、その後の慶安元年(1648)に重恒は狂気により自殺したという。



173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/14(木) 14:43:51.84 ID:rbOONCHf
重治とご内室の不義の子だもんな
真実を知って気狂いしたんだろ

三組坂

2020年05月03日 15:39

141 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/02(土) 22:20:22.07 ID:Nsgx4uuo
三組坂

 元和2年(1616)徳川家康が駿府で亡くなり、家康お付きの中間・小人・駕籠方の「三組」
の者は江戸へと召し返され、当地に屋敷地を賜った。駿河から帰ったので、里俗にこのあ
たり一帯を駿河町と呼んだ。
 その後、元禄9年(1696)三組の御家人拝領の地である由来を大切にして、町名を「三組
町」と改めた。
 この町内の坂であることから「三組坂」名づけられた。
 元禄以来、呼びなれた三組町は、昭和40年(1965)4月以降、今の湯島三丁目となった。

文京区教育委員会 平成19年3月



千徳丸の供養墓石

2020年04月25日 15:07

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/24(金) 20:03:13.81 ID:POivbMZQ
喧嘩ばかりしててもアレなんで地元の話を市のHPから一つ。

瓦曽根秋山家の祖は、甲斐国武田家の重臣秋山伯耆守信藤であることを伝えています。
天正10年(1582)武田家滅亡のとき、信藤とその二男長慶は武田勝頼の遺児千徳丸を奉じて
瓦曽根村におちのび潜居しましたが、千徳丸は間もなく病死しました。
長慶はこれを悲しみ、瓦曽根村照蓮院の住職となってその菩提を弔りましたが、
寛永14年(1637)秋山家墓所に五輪塔による供養墓石を造塔しました。これには、「御湯殿山千徳丸」と刻まれてます。
なお、瓦曽根村に潜居した信藤は、家康に仕え小金領(現在の松戸市)1,000石を知行した長男虎康の子昌秀のもとに
引き取られましたが、この昌秀の妹が家康の愛妾「おつまの方」です。おつまの方は家康の5男、
水戸15万石に封ぜられた武田信吉の生母でしたが、天正19年(1591)24歳の小金で病没しました。
また、武田信吉も慶長8年(1603)嗣子をなくして水戸で病没し、この家は断絶しました。
千徳丸の供養墓石は、これら戦国期のさまざまな由緒を秘めた史跡の一つともいえます。

出典:越谷市教育委員会「越谷市の文化財」

よくある落人伝説の類ではあろうが、照蓮院の敷地には幼稚園が建っていて今も子供たちを支えている。



97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/24(金) 21:38:46.01 ID:FAijYLAj
勝頼の子に千徳丸なんて子いたのか

不覚者、兵家に用無し

2020年04月23日 18:19

990 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/23(木) 01:19:38.08 ID:a5yXEBU0
大阪御陣の時、上総様(松平忠輝)は軍功を挙げられず、そのため大阪落城後「御謀叛をなされるか」と
色々御詮議あり、その議論し難かったが、水野日向守殿(勝成)御前に罷り出て申し上げた

「上総殿には、毛頭御逆心などありません。ただ少し御不覚であったのです。」

これによって、上意に「不覚者、兵家に用無し」とて、信州へ御改易と成ったのである。

これを世上に、上総様は伊達政宗の御聟たるによって、内談して御謀叛と云うが、それは全て推量である。
何故なら、御謀叛であるなら、御不憫の御子を御流しになり、他人の政宗をどうして許すだろうか。
ただ不覚は、兵家の大悪なのである。

松永道齋聞書



志岐天草表の手柄

2020年04月20日 19:01

23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/20(月) 10:18:50.04 ID:+n0zh/da
(天草国人一揆の時)
拙者(水野勝成)は小西摂津守(行長)の所に在り、志岐城攻めに加わった。この時肥後守(加藤清正)人数も
小西と同じように志岐城を取り巻いた。

志岐城はすぐに小西が請け取り、その後天草本渡城を押し詰め、朔日より取り掛かって本渡城に仕寄を付け、
二十三日目に乗り落とした。肥後守は山手の方から仕寄を付け、足場が非常に良かったが、小西は東の
水堀の方で、足場が悪く非常に迷惑した。

二十三日に城に乗り込んだ時、私は水堀を越えて堀裏に付き、一番乗りをした。私の跡に続いた
久米兵太夫が声をかけてきて、三間ほど跡を進んだ所で、胸板を鉄砲にて撃ち抜かれ、堀底へと落ちた。
私は堀を乗り越え本城(本丸)まで着いた時、松平三蔵殿(肥後殿にては加藤左助と申候)、この仁は兄弟連
であったが、私の側に参り

「未だ敵と手合わせをしていない。六左衛門殿(勝成)、頼み入るので、何卒手合わせの相手をくれないだろうか」

そう申してきたので「相心得候。私がよく見て、良い相手を見つけましょう。」と答えた。
本城の下にだしがまえ(馬出か)が有り、その門を開いて敵が突き出てきた。この時松平三蔵殿は鑓を合たが、
敵は突き捨てに仕掛け、左のこめかみを突かれたため、彼の弟に私から「早々に蔭に引き込むように!」と申し、
私はそのまま敵に突き入れ、その場にて七人を討ち取った。この内先駆けした者は私が討ち取り、残りの六人は
私の家来である山本次太夫、林志けりのすけ、近藤弥之助が討った。この三人も敵を一人ずつ討ち取った。
その他に歩行の者(足軽)も討った。近藤弥之助は弓にても良き者を射た。

山岡道阿弥がこの陣の様子を詳細に存じており、権現様(徳川家康)が伏見に居られた時、志岐天草表の
私の手柄を詳しく申し上げた所、権現様は殊の外御感になり、後で道阿弥から
「直ぐに召し遣わされるでしょうから、その事についてよくお心得に成って下さい。」
と申してきた。その後程なくして、私は御前に召し出された。

水野日向守覺書

天草国人一揆での水野勝成について。ここに出てくる松平三蔵、三河一向一揆で一揆方に与して牢人となった
人物ですね。



猶々御忠節仕るべき

2020年04月19日 15:47

15 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/19(日) 02:48:39.97 ID:/eXYOJJ0
永禄五年、三州一向宗の一揆が起こった時、本多広孝は土井の城に罷り在った。その近辺の、土呂、羽根崎、
岩松、大学、浦部、八面、佐々、木野寺、櫻井、この村々は皆御敵であり、かの土井城はその中にあり、
最も敵に挟まれてその中にあった。広孝は朝夕取り合い、御忠節を仕った。

三州の諸士は、一向宗ではない輩も御敵に罷り成ったが、広孝は「猶々御忠節仕るべき」と申し上げ、
当時九歳になる嫡子を人質として岡崎に差し上げた。権現様(徳川家康)はお悦びに思し召し、この嫡子の
元服を仰せ付けられ、「康」の御字を下され、「彦次郎康重と名乗るように」との上意であった。
さらに御召しの御馬を下された。

『本多越前守利長家之覺書』

やっぱり一向宗以外にも広がった反乱だったのか



兄の下野に何やら不足を申し

2020年04月18日 18:57

10 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/18(土) 01:11:13.31 ID:+JLDXJgn
三州に一揆が起こっていた頃。拙者親(藤十郎と申し候(水野忠重の事))、兄の下野(水野信元)に
何やら不足を申し、下野の元を立ち退いて、三河鷲塚と申す所に牢人した、相聟の水野太郎作少と、
その親類である村越又一郎という者達と、鷲塚に三人で一所に居た。

このような所に、権現様(徳川家康)の御意に
「一揆殊の外起こり、一代の迷惑であると思っている。このような時であるので、罷り越して万事指図を
してほしい。是非に憑む。」
との御意にて、三州岡崎へ三人ながら罷り越し奉公をいたした。

『水野日向守覺書』

勝成の父親も一度水野家飛び出してるのか。



11 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/18(土) 07:44:10.62 ID:s62VvPh3
その辺は、やはりあの迷惑千万大名の父親だけはある

天正五年十月、和州信貴山城攻め顛末

2020年04月16日 17:15

979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/16(木) 00:12:26.93 ID:FJJW3kJb
天正五年十月、和州信貴山城攻めがあった。
この城主である松永弾正少弼久秀は、大阪の附城を守っていたのだが、信長公に恨みを含み、本願寺門跡、
雑賀の兵を語らい、大阪を退き信貴山城に立て籠もった。それにはこのような理由があった。

家康公御登城の時、久秀も参会したのだが、信長公が家康公に向かってこのように言った

「この翁は松永久秀である。彼については天下に及び難い事が多い。彼は公方足利義輝を弑し奉り、
主君三好義長(義興)を毒殺し、三好一家(三人衆)と戦い東大寺を焼いて大仏を滅ぼした。
また三好長慶次男義継(実際には養子)を欺いて永禄八年より同十一年まで天下を守り大いに奢り、
終に義継を離れこれを殺した。」

久秀は赤面し、額に汗し、頭より烟を立て、その憤りを以て謀反を企んだ。これによって十月、
城介(織田)信忠は大軍を率い和州に御発進され、佐久間信盛、明智光秀、筒井順慶らも大阪の
対城を出て河州より向かい、その通り道であり、久秀の従党である片岡城を攻め落とし、城主・森、海老名を
討ち捕らえ、十月五日に信忠と合流し信貴山城の久秀久通父子を攻めた。

しかし松永父子は激しく防戦し、味方が不利と成った時、佐久間信盛筒井順慶と相談し、雑賀の兵であると
謀って、信盛の兵を交えて城中に入れたいと告げた。そして雑賀の兵に扮した信盛の兵が、順慶の兵と
追いつ返しつつ挑み戦った所に、久秀は予てより雑賀の者と謀り合っていたので、城門を開いて彼らを
引き入れた。

十月十日、信盛、順慶は、先に入れた兵の手引きにより城に入ると火を放った。久秀は天守に上り、
「たとえ骨と成っても信長の最後を見届けようぞ!(タトヘ骨トナリテモ信長ヲ見ハテン物ヲ)」と
言って自殺した。右衛門佐久通は生け捕りと成って斬られた。久秀の悪逆積り、東大寺を焼き
大仏を滅ぼしたのも十月十日であり、その日に滅亡した事も、世に不思議を成すと云われた。

佐久間軍記



980 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/16(木) 11:49:48.22 ID:O4ZY5yYd
義継を攻め滅ぼしたのは誰だったからしらw

981 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/16(木) 21:34:47.03 ID:SRx78Wxe
ノブさんの脳内ではそうなってるのかもしれん…

982 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/16(木) 22:01:43.47 ID:nEUH2pgM
ダンジョー多過ぎ問題

983 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/04/18(土) 17:35:20.90 ID:25IT3XhX
佐久間軍記だから当然かも知れんけど、信盛さんの活躍が記されてるね

984 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/18(土) 23:30:44.65 ID:tlLr7j1U
石田軍記には三成の活躍が?

985 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/19(日) 15:49:05.80 ID:/eXYOJJ0
ある意味「活躍」は描いているな

狼煙を上げ、直ぐに御一戦があった

2020年04月15日 18:17

2 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/15(水) 12:08:07.67 ID:DKMCvcRx
天正三年夏、武田勝頼が三州長篠の城を囲んだ時、権現様(徳川家康)は出陣し、信長が御加勢なされた。
この時権現様と信長、御密談にて夜中、鳶巣山に御人数を廻し、城を攻め落とし勝頼の後ろを取り切って
御合戦なされるべきとの事で、酒井左衛門尉(忠次)、本多豊後守殿(広孝)、松平左近殿、並びに信長衆
相添え差し遣わされた。この時
「出来るだけ忍んで越え、鳶巣山へ登り着いたら狼煙を上げるように。その合図によって合戦を始める。」
と仰せ含まれた。

かの山において竹右衛門(この覚書の作者:岡田竹右衛門)が仰せ付けられ狼煙を上げ、直ぐに御一戦があった。
鳶巣の城は即座に乗取った、この時竹右衛門は高名を仕った。また妹婿の中根新八と申す者、若年にて初陣として
罷り在ったが、この新八にも竹右衛門が指導した。
この竹右衛門が走り廻ったことに対して、権現様より御感の旨を仰せに成られた。

岡田竹右衛門覺書

この覚書だと鳶巣砦攻撃に関して、酒井忠次が進言した話を信長が外に漏れないように激怒した云々、
という話は無いのですね。



8 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/15(水) 15:36:56.91 ID:jv7TOCdb
進言ありました、いつ誰が聞いてるのかもわからないから激怒してカムフラージュって
あまりにもお話として出来すぎ感がある

佐久間軍記の三方ヶ原の戦いの模様

2020年04月14日 18:14

977 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/14(火) 00:34:32.23 ID:UAOt+l7t
元亀三年十二月二十二日、遠州三方ヶ原合戦が有った。
これは、足利義昭公が信長の救いを以て武将(征夷大将軍)に備え給わったと雖も、
信長公は自己の繁栄を先とし守禦の忠、日を逐って衰えたため、義昭公は信長を誅せんと、
密かに武田信玄を招き給うた。信玄は喜び、この年十月軍勢三万を率い遠州へ出、二俣城を攻めた。

この事態に、家康公より信長公へ加勢を請われたため、佐久間右衛門尉(信盛)を大将と成し、
七頭(佐久間信盛に付けられた七ヵ国の寄騎)を差し越させた。

そのような中、信玄は二俣城を攻め落とし、十二月二十二日、三方ヶ原へと進出した。
家康公は浜松を出た。この付近に城が有り、家康公の御備はサイカカケ(犀ヶ崖)に付いて右に有り、
佐久間信盛は七頭を従えその左の備であった。

信玄は大勢で以て信盛の備を手厚く押さえ、家康公の御勢に向かって合戦した。御家勢は終に敗北し、
家康公は犀ヶ崖より引き入れ東の御門より入った。甲州兵はその跡を追い掛かったが、犀ヶ崖へ落ち
人馬重なり死んだ。その間に家康公は浜松の本城に入り、御旗を立てられた。家康公の軍士たちは
浜松へ馳せ入り城を固めた。佐久間信盛、同久六安政も、手廻りばかりにて城中に籠もった。
信玄は城の堅固を見て攻め入らず、二十四日に兵を引き取ると云々。

佐久間軍記

佐久間軍記の三方ヶ原の戦いの模様



978 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/14(火) 01:44:59.17 ID:stkZ0XZE
あ、ちゃんと城を固めたって話になってるんすね
空城の計使ったみたいな話は何が初出なんだろ

979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/14(火) 01:52:57.03 ID:j+0zRzqo
佐久間軍記は大坂の陣の後の、割と早い段階で成立したらしいね。

980 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/14(火) 09:27:50.35 ID:RcQtnd87
信玄がここできっちり徳川にトドメを刺す方向へ決断してたら、後の日本史は大きく変わったに違いない。

981 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/14(火) 09:47:50.96 ID:wKITc2tn
陣没する場所が浜松になっただけ

982 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/14(火) 09:52:14.17 ID:Jf7xcUU/
家康が死んでりゃ、毛利幕府が成立したかもしれないだろ

983 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/14(火) 10:18:30.10 ID:0xdSiPIL
鞆幕府で毛利が義昭に養子を取らせて
その後京都に復帰
形式上は足利幕府存続だったり

984 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/14(火) 13:07:49.42 ID:jIv+KTSX
鞆幕府臣の槙島昭光なんか、義昭、秀吉、秀頼、細川忠興をわたり歩いてるくらいだか、象徴のような人がいれば誰でも良かったんじゃない。

当家続き申す内は、今度の御恩忘れ申しまじき

2020年03月27日 17:44

799 名前:1/2[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 11:21:43.27 ID:zmuEJTUZ
(豊臣秀吉の死後)
前田肥前殿(利長)が、細川忠興様の元を訪れ、このように仰られた

「石田治部少輔(三成)が、大納言殿(前田利家)にこのように申し上げました
『家康の事ですが、早くも我儘を申し、御寄合場へ切々と出てきません。今のままで召し置いておけば、今後
秀頼様の御為には悪しき事になるでしょう。ですので今すぐにでも、討ち果たすべきです。』
そう色々に申したことで、大納言殿も尤もに思し召され、討ち果たすという事になり、大阪より伏見へ御上がりに
なりました。これ程の事をあなたにお知らせしなければ、以後に御恨みが有ると思い、その要体を語り申します。

討ち果たす手立てとして、治部少輔申す所によると、
『家康の屋敷は落窪に有り、向かいの高い場所に有る宇喜多屋敷より火にて焼き立てれば下々騒ぎ出すでしょう、
そこで表に出てきた所を、宇喜多屋敷より出て討ち取る。もし裏から出たならば、我等(石田家)の者達で討ち取る。
兼ねてからそのように考えていたので、家康の屋敷の後ろは私の下屋敷にしてあり、只今佐和山より動員している
人数が四千有り、手間の要ることではありません。』

そのように申しているのです。」

そう肥前守殿が語った所、忠興様はこのように仰せになった
「家康公を討ち果たすとの事ですが、治部少輔の手立てではうまく行かないでしょう。」
「それはどういう御分別で、そのように思われるのでしょうか。」
忠興様のお答えに、肥前守殿はお顔の色が変わられた。忠興様は仰られた
「私を縁者であると思し召し、一大事をお知らせに成ったことが既に、御後悔しているように見えます。
この事は破れるのも、無事に成るのも御父子の御分別次第です。

この事が破と成った時は御身上が逃れたいと思っても、人は逃さないでしょう。
また私の身上も、逃れたくとも人は逃さないでしょう。
破と極まるのであれば、何時も一所と心得ましょう。

私の考えとしては、治部少輔にとって日本に恐ろしいと思っている人物が二人あります。一人は内府であり、
もうひとりの大納言殿は既に病であり、大納言殿が果てられた以後は、己が主人となろうと考え、色々様々に
申しているのです。あなたを批判するような事を言いますが、大納言殿が御死去なされたら、あなたの事は、
今の十分の一も人は用いないでしょう。御分別を専らにするべきです。
今後、内府を主人とするのか、治部少輔を主人とするのか。
私は治部少輔を主人とするなど罷りならぬことだと考えています。」

肥前守殿はこれを聞くと、
「一々至極と承った。然れば大納言殿に御異見を申したいのだが、蓮々御存じのように、私が申すことは
たとえ良いことであっても聞いてくれない。ましてやこの事については既に、治部少輔の言うことを尤もと
思われている。それを、私の無調法な口では中々説得する事は出来ないだろう。是非御同道してほしい。」
そう、たって仰せに成ったため、大納言殿の元へ御出に成った。

大納言殿が居られる又次の間まで進むと、そこからは先ず肥前守殿がお入りに成り、要体を語られた所、
病にて臥せって居られた大納言殿はむくと起き上がり、畳を叩き悪口を仰せになった。これに肥前殿は
「私は口不調法にて、物のあやを申せないため、御合点参らないのでしょう。そのため越中殿をここまで
御同道しました。」
そう仰せに成ると「然らば越中殿を出候へ」と仰せにつき、大納言殿の居られる間にお入りになられた。

800 名前:2/2[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 11:22:02.91 ID:zmuEJTUZ
そうして忠興様が要体を語られると

「其の方の仰せになる所は解ったが、内府が何の御談合にも出てこないという事をしている以上、このままでは
以後秀頼様の御為に成らない。私の息のある内に、家康を討ち果たすべきだと考えている。」と仰せになった。
忠興様はこれに
「批判を申すようですが、御分別を更に重ねられるべきと存じ奉ります。例え家康に対して御談合の場に出ることを
堅く無用と申したとしても、家康が御座有った頃と同じようには出来ません。貴殿が合点していただければ、
家康が出てくるように仕りましょう。そのようにすれば如何でしょうか?」

「家康さえ出てくるのであれば、何も言うことはない。常々、意趣が有ったわけではない。」
大納言殿はそう仰せに成ったため、忠興様は直ぐに、家康公を大納言殿の元へ同道なされ、入魂の御盃を取り交し、
首尾よく家康公は御帰りになった。
忠興様は残り、大納言殿へ仰せになった

「家康の現在の屋敷は無用心であるので、向島へ移されるべきだと考えます。」
「この上は如何様にも。其の方に任せよう。」

そのように仰せに成ったため、即刻向島へお移りになった。

この一ヶ状は三斎様の御物語で承った事である。そして家康公と御老中御連判状に、
『当家続き申す内は、今度の御恩忘れ申しまじき。』とある、六、七人の御連判状を私(細川忠興軍功記の作者)が
預かったことがあり、覚えている。

細川忠興軍功記



802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 12:19:08.70 ID:28ctvBqZ
徳川の治世と豊臣の治世だったら当然豊臣のほうがいいだろうなあ
徳川に味方して得たものはなんなのさw

803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 13:25:20.20 ID:k+lBAxIa
少なくとも領地は広がったな。前田も細川も

804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 13:33:31.03 ID:JVQBGdYo
豊臣だったら領地は増えてないな

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 15:31:27.93 ID:xqag71KY
○ 太閤蔵入地の解消
× 基本的に政権運営に参画できない

国持クラスの大名はともかく、中小の大名なら江戸幕府の方がやりやすいだろうね
まあ、財政的に余裕が無くて悠々と藩経営できてたケースは少ないけど

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 15:48:32.81 ID:SfIo6kA4
大大名も必ずしも政権運営に参画したかった訳でもないと思うぞ
というか極論三成だけが異常にやりたがってたようにも見える

807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 16:18:25.61 ID:pQMysm+j
三成よか輝元のがあやしい

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 17:19:12.35 ID:00FCvUDV
伊達政宗が娘を松平忠輝と結婚させたのは、中央政界への発言力を求めてのことだったのだろうか?

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 17:19:12.35 ID:00FCvUDV
伊達政宗が娘を松平忠輝と結婚させたのは、中央政界への発言力を求めてのことだったのだろうか?

809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 18:22:26.61 ID:SfIo6kA4
政宗が誰を嫁にしようと老中にはなれない
変に梟雄的に取り上げられることあるけど
普通に安定求めた婚姻だわな

輝元は三成に乗せられたお調子者だね
乗せられた分野心あったと言えるが

813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/29(日) 01:00:33.06 ID:rNuJGc1p
参勤交代が藩財政を逼迫させたんじゃないの?
知らんけど

814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/29(日) 02:02:34.16 ID:enxJZdyv
参勤交代は徳川家光の時の政策だし、そもそも江戸在府が基本だった大名への
負担軽減策だったわけで。

815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/29(日) 02:06:14.65 ID:MVE+KsKB
ずっと当主が天下人の城下に屋敷構えて許可ないと全然帰れませんよりよっぽど安く済むらしいわよ、参勤交代
しかも当主が遠国にいるから領国の統治もむずいし下手すりゃ領地で政治執るやつが実権握りかねんし

817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/29(日) 07:19:02.81 ID:EEZk3pD1
>>813
太平の世で大っぴらに出来る貴重な軍務。
我が武威を世間に見せ付けられる場なのでどの藩も行列を豪華にすべく無駄金使ったせいでもあるので。

818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/29(日) 09:16:16.15 ID:Zk6eD4N+
江戸時代の武家財政の逼迫は本質的には
何も生み出さない雇用守らなきゃ行けないから

小野木縫殿頭切腹の事

2020年03月24日 16:41

934 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/23(月) 22:27:15.18 ID:aD4lGeCD
小野木縫殿頭切腹の事

関ヶ原表は家康公の御利運と成ったため、諸大名には御暇が下され、彼らは国々へと帰った。
この時、細川越中守(忠興)が権現様に申し上げた

「小野木縫殿頭の居城は、幸いにもそれがしが在所に帰る道ですから、通りがけに踏み潰し、小野木の首を見て
まかり通るべきと考えます。」
(筆者注:小野木重勝は関ヶ原で西軍に属し、細川幽斎の籠もる田辺城を攻撃し、開城させた)

家康公も「そのように考えていたところだ。忠興の思った通りに成すべき。」と仰せが有り、慶長五年十月十七日、
福知山の城を取り巻いて、ただ一乗にと揉み立てる。
去る十月(原文ママ。正確には七月である)、縫殿頭は田辺城を攻めており、その意趣は甚だ深く、
「小野木の首を見るまでは、日夜を分けじ!」と下知された。

この福知山の城は、巽の方角より差出て、油崎に本城を取っていた。その下は蛇が鼻といって、東西に引き廻した
大河の内に堀を掘り、この堀は要用の堀であるので、その高さは幾尋という限りも無いほどであった。
然し乍らここには浮草が覆い浅く見えたために、細川衆先手の人数は我先にと飛び入った。これゆえ若干の人数が
溺死した。後方が非常に堅固な縄張りであると見えた。

忠興はこの様子を見て、蛇が鼻表は先ず置いて、南の丘より攻めた所に、忠興の旧友である山岡道阿弥(景友)が
馳せ来て両者の扱いに入ったため、小野木は城を開き、自身は剃髪染衣と成って上方へと退いた。
ところが忠興は憤りなお醒めず、また兵に追いかけさせ、亀山にて捕らえ、嘉仙庵という寺にて敢え無く腹を切らせた。

丹州三家物語

細川忠興の福知山城攻めと小野木重勝の最期についてのお話



稲富一夢が事

2020年03月22日 15:34

770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/22(日) 09:49:41.35 ID:+xP3v1b/
稲富一夢が事

稲富一夢(祐直)、初めの名は伊賀である、丹波国の住人にて、一色五郎満信(義定)の家臣であったが、
義定が滅んだ後、細川忠興の侍と成った。
この度、大阪屋敷の留守として忠興が置かれた所に、主人の用に立たず、剰えその行方も知られなかったため、
忠興は深くこれを憎み、何としてもこの者を捜し出し火あぶりにせんと捜索された。

しかし、「稲富が大阪城中に罷り在って、主君の役に立たなかったのは是非無き次第であった。」とも聞こえ、
その故いかにとなれば、稲富伊賀は鉄砲の名人ゆえ、大阪衆の歴々に、弟子である人多かった。故に稲富が
滅びることを惜しみ、鉄砲稽古に事寄せて、予め城中に呼び入れた。この時は未だ敵味方の分色も無い時であったので、
鉄砲の稽古もすぐに済むことだと心得て、稲富が城中へ参ったのも仕方のない事では無いだろうか。

この稲富という者は、奇妙稀代なる鉄砲の上手であった。その妙を語っても、未だ見ぬ人で、「信じられない」と
思わぬ人は居なかった。
稲富が常に用いる鉄砲は、玉目一両より八匁までを限りとし、その町間も八町(約870メートル)以上を好まなかった。
八町以内であれば、火蓋を切って中らずという事無かった。
或いは暗夜に孤狼の声を聞き据えて、闇中に撃ち留める事も、ただ箱の中のものを拾うようなものであった。

稲富は二十五歳の時、橋立大明神に一七日断食して、目くら打という工夫をしたと聞こえる。
十能十藝、古より手練の者は多いが、離切りたる飛び道具を、稲富ほど精緻に扱う者は未だ聞いたことがない。

関ヶ原の戦いが鎮まった後、畏くも権現様(徳川家康)が御直に越中守(忠興)に御詫言あそばされ、頭剃らせて
一夢と号し、世上の師となされた。

丹州三家物語

稲富祐直についてのお話



室賀正武謀殺

2020年03月03日 17:06

875 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/03(火) 00:42:44.47 ID:Zrb3PBKC
かくて(天正壬午の乱の結果)、信州一国は徳川家康公に属し奉ったが、同年(天正十一年)十月、真田安房守(昌幸)は
信州国中を従えんと企み、先ず室賀兵部太夫(正武)を討つべしと、一門が一手になって室賀の館へ押し寄せた。
兵部太夫は自ら討って出て、篠山において火の出るほどに戦い、互いに郎党が討たれ相引きに撤退した。
しかし翌日に安房守勢はとって返し攻めかけたことで、室賀方は内より和を乞い、これを安房守も許して
帰城した。

室賀は真田に屈することを無念に思い、翌天正十二年六月、家臣の高井彦右衛門尉を以て遠州の家康公にに申し上げた所、
家康公より「何としても謀を以て真田を討つべし」と仰せ寄越された。室賀は斜め成らず悦び、真田を油断させるため、
いよいよ以て上田を訪問し彼らに懇切にした。

ある時、上方より囲碁の上手が上田を訪れたため、室賀も彼と囲碁を囲む事に招待された。室賀は「良き時節」と心得、
日限を定めて、同苗孫右衛門を以て、『来月七日に真田が居城へ碁の会に参り候。その時昌幸を討とうと考えており、
御加勢を下さりますように。』と。家康の重臣である鳥居氏の方へ申し使わした。

ところが、この孫右衛門が内々に安房守へ心を通じており、そこから直に上田へ行き、この旨を申した。
昌幸は悦び、孫右衛門を馳走して返した。

室賀は準備が整ったと思い、家の子の桑名八之助、相澤五左衛門尉、堀田久兵衛などを従えて上田に参った。
昌幸は兼ねて用意のことであり、彼を書院へと招いて囲碁を始めた。
この時、昌幸方で、室賀の討ち手は長野舎人、木村戸右衛門と決められており、この座にあった
禰津宮内大輔、麻里古藤八郎、長命寺、安楽寺、などの合図があると、長野、木村は次の間より太刀を抜いて
乱入し、室賀兵部太夫を無情にも殺したのである。

室賀の家臣である桑名、相澤、堀田たちは聞くより早く殿中に斬り入って散々に戦い、三人共に項羽の勇を
顕したが、多勢の敵に取り囲まれ、遂に生け捕りとなった。
この三人は後に心を変じて真田に仕え、無二の忠を尽くした。この時、桑名八之助は深手を負った。

室賀に於いては、この事を聞くと、妻、子供たちは取るものもとりあえず甲州へと落ちていった。

(加澤平次左衛門覺書)

『真田丸』でも描かれた、室賀正武謀殺のお話ですね。




876 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/03(火) 06:27:25.79 ID:pgqA0lOw
黙れ!小童!

877 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/03(火) 08:57:02.26 ID:xH2zkPKl
最期のセリフでいうかと思ったらそのセリフ言わなかった

878 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/03(火) 15:04:15.57 ID:YETpin/L
茶坊主が正解

北条氏所縁の娘、香沼姫

2020年02月29日 17:14

香沼姫   
705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/29(土) 17:03:14.81 ID:boR2oEzY
北条氏所縁の娘、香沼姫


小田原城郭の百姓曲輪跡の西に、地元では"おみともさん"と呼ばれる墓がある。

『新編相模国風土記稿』によると、北条氏綱の娘香沼姫の邸跡であり、終身処女で暮らしていた。
香沼姫は氏直の内室(家康の娘、督姫)と親しく、いつも和歌の贈答などがあった。
北条氏の没落後、香沼姫が(藤原)定家の真蹟歌集を持っていることを家康が知って
督姫から旧好のよしみとして御所望があったので、(香沼姫はその歌集を)献上した。
その褒章として化粧田を賜うようにとの命があったが(香沼姫は)固辞し、居邸の地の
永代の諸役免除を願ったので免許され、家康から直筆の御消息が下されたという。

元和三年四月二十日香沼姫が亡くなったので、その遺言により居邸を山本外記の屋敷とし
その山上に葬られた。そのことを示す石碑が今もある。
山本外記は、元は渡邊外記といって北条氏の命令で傅役となっていたが、香沼姫の側仕えをしていた
山本氏の娘(香沼姫の母方の親戚)が外記に嫁したので、山本姓を名乗ったという。



706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/05(木) 23:57:58.83 ID:zFSGFA/Q
なんだか性格が優しい感じが伺えるね

これは皆、其の方のためではないか

2020年02月27日 17:01

691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/27(木) 01:13:44.70 ID:CSksC/7s
豊臣秀吉公が御他界された時、その嫡子である秀頼公は幼少であったため、御遺言に寄って天下に
四奉行(原文ママ)を定め置かれた。そして東国表に事が起これば家康公鎮め給えと有った。

さて、石田治部少輔(三成)は天下を奪うべき邪念を持っていたが、家康公を先に滅ぼさねばそれは
成り難しと考え、上杉景勝と申し合わせて景勝に反逆の色を立てさせた。これに対して家康公御父子は
軍勢五万八千にて御発向された。そして家康公は下野国宇都宮まで御下向され、秀忠公は同国小山に
御陣を据えられた。

この時、真田安房守(昌幸)も家康公に相従い下野国佐野の天明(現在の佐野市天明町)まで出馬していた。
天明より宇都宮まで上道九里、宇都宮から小山へは天明の方向に向かって四里という場所であった。
ここに於いて、石田治部少輔方より真田へ書状を以てこのように伝えてきた。

『今度景勝反逆の事は、某が申し含めた、家康を討ち取る企てである。其の方もこれに与し、家康を
討ち取るのだ。さすれば、其の方の本国である信州は申すに及ばず、甲州も其の方の故主である信玄の
国であるから、この両州に駿州も加えて与えるであろう。』

そう熊野の牛王に誓紙血判して遣わされた。
これを見て真田は俄に心変わりをし、家康公を討とうと考え、幸いにも子息の伊豆守(信之)が家康の
御旗本に在ったため急使を遣わし『談合すべきことあり、急ぎ天明へ来たれ』と伝えた。
そして伊豆守が天明に到着すると、安房守はこのように言った

「其の方を呼んだのは他でもない、今度の上杉景勝の反逆の事、彼一身の企みではない。石田治部少輔と
牒を合せて、家康を討つという謀計なのだ。景勝の反逆として家康が関東に向かえばその跡より軍兵を
起こして家康を討ち取るという。然ればこの安房守には、景勝と牒を合せて味方すれば信甲駿の
三州を宛行うとの盟誓の状を石田方より差し越した。であれば、其の方のため、又子々孫々のためであるから、
其の方が家康を討ち取るのだ!」

これを聞いた伊豆守は
「最もな仰せであります。ですが其の事は是非に及びません。何故ならば、家康公はその威儀を見るに、
中々謀にて打てるような人物ではありません。逆に石田に与すれば、幾程もなく滅びてしまう事明らかです。
家康公に与し給われば、子孫長く永福となるでしょう。」

これに安房守は
「其の方には分別が無い!どうして三ヶ国を領すると思っているのか。私には既に余命がない。これは皆、
其の方のためではないか!」

そう強く翻意を促したが、伊豆守は頑なに同意しなかった。安房守は仰天し、立腹して
「其の方は妻子に心が残っているのか!これは勇士の業ではない!」と色々の悪口に及んだため、
伊豆守はその座を立ち破り、馬に乗り鞭を揚げて宇都宮に帰り、家康公にこの趣をありのままに申し上げた。
家康公はこれを聞いて

「伊豆守が忠義の程、山よりも高く海よりも深い。これはそれを忘れまじき証拠である。」
として、差されていた脇差の下緒の先を切って伊豆守に与えた。

眞田記

いわゆる「犬伏の別れ」についての内容ですね。この場合は天明という場所ですが。



真田が尤もである。家康の誤りである

2020年02月26日 17:03

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/26(水) 03:13:31.93 ID:ZNrPeW1P
羽柴秀吉公が天下一統に治められた時、真田(昌幸)は秀吉に従った。これに対し徳川家康公は、
彼が後の禍を成すべき者と思われたのか、秀吉公にこのように仰せられた
「真田が息を本多中務(忠勝)の聟にしたいのです。」
秀吉公は「尤も然るべし」と仰せに成り、これによって家康公は真田方へ使節を以て
「その方の御息を本多中務の聟にしたい」
と仰せ遣わされた。ところが真田は使節に向かい
「そんな使いであるはずがない!使いの聞き誤りであろう。急ぎ帰ってこの旨を申されよ!」
と伝えた。これに対し使節はいよいよ「伝える内容はこの通りです。」と云ったのだが、
「いやそうではない」と受け付けようとせず、仕方なく使節は帰り、この事を報告した。

家康公は合点に及ばなかったので、これを秀吉公に御物語された。すると秀吉公の仰せには
「それは真田が尤もである。家康の誤りである。『中務が娘を養い置いているので(養女にしているので)、
某の聟に』とあらば承知するであろう。」と仰せになった。家康公も「御尤である。」として、この趣にて
再び仰せ遣わされた所、真田安房守も同心して、子息伊豆守信幸との祝言があった。
この時伊豆守は十八歳であった。

眞田記

実際には真田信之小松姫の婚姻は、信幸二十三歳頃(天正十七年)だったようですね。



689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/26(水) 09:23:02.04 ID:2mY1Il8v
真田系の作品には必ずと行っていいほど出てくる有名なエピソードやね。

大名の嫡男の正室が他家の陪臣の娘ってなんじゃそりゃというのは、そのとおりだし。

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/26(水) 15:23:12.51 ID:sue4eaxm
東国無双の娘なのにな

池田輝政、関ヶ原本戦での配置について

2020年02月15日 13:56

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/14(金) 22:18:31.52 ID:5WMuj2xH
池田輝政、関ヶ原本戦での配置について


(関ヶ原の戦いのとき)14日に家康は赤坂岡山に着陣し、池田輝政を召された。

明日の合戦には毛利秀元、吉川広家などが南宮山に陣し、内応があるものの
未だに実否(真偽)が分からないので、それに対して陣するようにとの命であった。

そのとき輝政は南宮山の敵を迎え撃つことは本意ではなかったので
願わくは先鋒に進み、石田、島津などと戦うことを望まれたが許されなかった。

「(輝政は)我の後陣なので、ぜひともこれに従うように」(原文:我後陣なればまげてこれにしたがふべし)
と(家康の)仰せがあったので、仕方がなくこれに従った。


――『寛政重修諸家譜

後ろを任されるのは名誉なんだけど……という話。



855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/14(金) 22:32:38.01 ID:do7+uUyC
それ良い話?悪い話?