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秀吉はまことに前代未聞の大将なり

2019年02月16日 17:31

743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/15(金) 18:10:30.03 ID:eLOuuDtR
そうして滝川左近太夫(一益)は秀吉に懇望して身を任せ、長島城を渡すことで許容となった。

このような時(出典の成立年。1583年)に、東国においては徳川家康北条氏政、北国において
は長尾景勝(上杉景勝)、西国においては毛利輝元が、皆秀吉へ方々から寄り集まっている。天下は
秀吉の掌握に帰すといえよう。

漢の高祖が天下を取った時に三傑あり。戦に優れたのは韓信なり。糧を巡らすのは蕭何なり。謀を巡
らすのは張良なり。源頼朝が日本を治めた時に三賢あり。義経は戦功をことごとくし、梶原景時は世
勢をもっぱらにし、北条時政は政道を行った。これはすべて良臣の諫めによって成し遂げたのである。

今は秀吉が一心で謀を巡らし糧を蓄え、戦をもっぱらにする。まことに前代未聞の大将なり。

――『柴田退治記』



744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/15(金) 20:26:06.18 ID:IC6boHOF
義経、景時、時政を頼朝の三賢とかいうと微妙な気分に

義経=韓信といえば白話文学「喩世明言」で楚漢戦争の英雄を三国演義の英雄に転生させる話を元にした
江戸時代の「英草紙」で源平盛衰記の英雄を太平記の英雄に転生させた話でもネタにしてるな

745 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/15(金) 21:44:28.69 ID:L99+733I
>>744
フェイトの元ネタの魔界転生の元ネタの元ネタがあったとは

746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/15(金) 22:15:30.40 ID:02BhZVGW
転生は中国説話じゃよくあるネタだったからなあ
三国平話も転生から始まるし

747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/15(金) 22:51:55.60 ID:boxxZIZV
お腹を空かした虎に自分の身体を投げ出した人の転生体がお釈迦様という話もある

748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/16(土) 13:13:36.59 ID:S0aIoIwN
半兵衛の今孔明も「転生したんじゃねw」って意味で使われた可能性も!
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草履を横さまに御つけ有しとそ

2019年02月14日 19:41

740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/13(水) 20:47:39.56 ID:hVOYUadj
姉川の合戦は東照宮(徳川家康)の勝事なり。信長が朝倉義景と対陣の時、東照宮は先陣を乞うた。信長
は叱って曰く、

「田舎者にどうして良い働きができるか!(田舎者何とて能せん)」

しかし東照宮はしきりに乞いなさり、信長はこれを許した。東照宮は即時に川を渡って敵を破りなさった。
この時、信長の前を去る時に、草履を横様に御付けになられたという(草履を横さまに御つけ有しとそ)。

――『老人雑話』

よこ‐さま【横様/横▽方】
[名・形動]《「よこざま」とも》
1 横の方向。横向き。また、そのさま。「―に倒れる」
2 道理に合わないこと。また、そのさま。非道。「―な要求」


その憤りによって謀叛を企て

2019年02月03日 21:24

719 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/03(日) 18:29:38.39 ID:Jzo4Auel
天正5年(1577)丁丑10月、和泉信貫山城を攻めた。松永弾正少弼久秀は大坂の付城を
守っていたが、信長公に恨みを含んで本願寺門跡の雑賀の兵と語らい、大坂を退いて信貫山城
に立て籠もった。

その故は、家康公が御登城の時に久秀は参会し奉ったのだが、信長公は家康公に向かって曰く、

「この翁は松永久秀である。この翁は、天下に及び難き事を多く行った。公方義輝を戮し奉り、
主君の三好義長(義興)を毒殺して三好一家と戦った。東大寺を焼いて大仏を滅し、三好長慶
の二男である左京大夫義継の間に入り、永禄8年(1565)から同11年まで天下を守って
大いに奢り、ついには義継を離れて殺害したのだ」

久秀は赤面して額に汗をかき、頭からは煙が立った(久秀赤面シ額ニ汗シ頭ヨリ烟ヲ立)。そ
の憤りによって謀叛を企てこの次第となった。

10月、城介信忠は大軍を引率して和泉を御進発され、佐久間信盛・明智光秀・筒井順慶など
は大坂の対城を出て河内より向かい、その途上で久秀の従党である片岡城を攻落し、城主の森
(正友)・海老名(友清)を討ち取った。

10月5日、信忠は信貫山城で会戦して久秀とその子の久通を攻めるが、父子は防戦して味方
に利せず。時に信盛は順慶と相談し、雑賀の兵を謀って信盛の兵を紛れさせ、城中に入ろうと
告げ、順慶の兵と追い掛けたり返したりして挑み戦った。

そのようなところで、久秀は予め雑賀の者と申し合わせていたので、城門を開いてこれを引き
入れ、信盛の兵も紛れて城中に入った。10月10日、その手引きで信盛と順慶は城へ入って
火を放った。

久秀は天守に登り「たとえ骨になろうとも信長の最期を見届けてやる!(タトヘ骨トナリテモ
信長ヲ見ハテン物ヲ)」と言って、自殺した。右衛門佐久通は生け捕りとなって切られた。

久秀の悪逆は積り、東大寺を焼いて大仏を滅したのも10月10日である。その日に至り滅亡
したことは「世にも不思議なことをなした」と言われたという。同年10月、播磨を羽柴秀吉
が賜った。

――『佐久間軍記』



720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/04(月) 08:29:26.29 ID:ab2WtWuB
だれが義継を殺したんだったか
と思ったら佐久間軍記か

721 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/04(月) 16:32:09.53 ID:xX5vEmhQ
久秀に誘われて信長包囲網に加わったのに久秀だけ先に降伏したから久秀に殺されたともいえる

常真を攻めなさろうと思し召し

2019年01月29日 21:41

703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/29(火) 17:46:00.29 ID:Wr+hP5vY
(賤ヶ岳の戦い勝利後)

その年も暮れていけば、秀吉は大坂の城に御入りとなられた。年が明ければ尾張へ取り掛かって、
常真(織田信雄)を攻めなさろうと思し召し、

「私は水攻めで2つも3つも城を落とし遂せたのである。尾張の国は水攻めになる国だぞ。その
故は、ことのほか大河があって、少しの水でも国中へ暴れるからだ」

と秀吉は仰せになり、

「皆々皆々よ、さてさて御気を付けなさるのですぞ! 熱田辺りを丈夫に御塞き止めなされば、
国中は水に落ち込むことであろう。その用意をせよ!」

と御分国の鍛冶に鍬・鎌・斧などを仰せ付けられ、ならびに明俵をおびただしく御用意なさった
と聞こえ申し候。また、伊勢・近江・美濃の山々で枠の木などを仰せ付けられた。

(中略)

その年申の4月9日に、家康卿と秀吉との長久手の御合戦の次第は書き付け申し上げるに及ばず。

秀吉は大坂に御馬を入れられ、家康卿を何とぞ御引き付けなさりたいと思し召された。前述の水
攻めの御謀を仰々しくなされたので、東の常真方では恐れ慄く心をも抱き、

「秀吉が多勢を引率して当国に向かわれることは必定なり。当国は水が国中へ落ち込む国なれば、
ただ秀吉に御従いになられることが御もっともです」

と常真に申し上げれば、常真は悪心得で「さては家中は筑前守に内応でも入れたのか」と前疑い
なさったと聞いている。この事が秀吉に伝わり聞こし召され、秀吉はそれならばと思し召して家
中を御手繰りなさった。

常真の御家中の津川玄番(義冬)・岡田助三郎(重孝)・滝川(雄利)・浅井(長時)・丹宮の
5人に御状を送り付けられて、様々に御手繰りになられた。

この事を常真は聞こし召されたのか、岡田助三郎のことを土方彦三郎(雄久)に仰せ付けられて、
かの彦三郎が天守で助三郎を抱いたところを常真が手討ちになさったのだと、聞こえ申し候事。

――『川角太閤記』


徳川秀忠、池田輝政の屋敷での茶会

2019年01月27日 17:56

656 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/26(土) 23:01:01.56 ID:5v4Tc4E9
徳川秀忠池田輝政の屋敷での茶会


慶長六年元旦、内府公(家康)の体調が悪く大坂の城への参賀はなかったが
同月十五日に快復されたので列侯は悉く登城し、新年の慶賀を申し上げられた。

二月三日、秀忠公は池田輝政の屋敷に御茶会に訪れられた。
先月十八日に、内府公から飛騨肩衝の茶入を輝政が拝領したからであるという。
このおもてなしの次第は、以前とは違い(将軍の)御成の作法と大して変わらないようなもので
関ヶ原御勝利以後、外様大名の屋敷を訪問するのは初めてであった。


――『落穂集』


諸大名を全て国へ帰し、敵対を成すならば

2019年01月26日 20:03

655 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/25(金) 21:59:05.04 ID:736jMRiG
元和二年の正月、相国様(徳川家康)は田中にて御鷹野を行われていた所、俄に御患われ、
次第次第に重くなり、卯月十七日に御遠行となった。御遺言については誰知りたる者は無いが、
人々が申しているところによると、相国様は

「我虚しく成った時は、日本国の諸大名を三年は国へ帰さずして、江戸に詰めさせるように。」

と仰せに成った。この時大将軍(徳川秀忠)のお答えは

「私は御遺言について、一つとして違背することはありません。ですがこの事についてはお許しください。
私としては、もし父上が御遠行成なされた時は、それより日本の諸大名を全て国へ帰し、敵対を成すならば
その国にて敵をさせ、我らが押しかけて一合戦して踏み潰します。どうあっても、天下は一陣せずしては
治まらないのですから。」

その時、相国様は手を合わせて、将軍様を拝まれた
「その事を聞きたくて、あえて申したのだ。さては天下は鎮まりたり。」

そう喜ばれ、そのまま御遠行なされたのだという。

(三河物語)

これが「わしが死んだら天下はどうなると思う」「乱れます」「そう思っているなら安心だ」って話の原型かな?
こっちは「むしろこの機会に敵対勢力を炙り出してやりますよ!」みたいな話だが。



古き武辺者たちは目引き鼻引き笑っているのだ。

2019年01月22日 17:58

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/21(月) 22:07:09.62 ID:y1eQSZez
大阪夏の陣の後、京都にて大坂での働きの良し悪しについての御詮索が行われたが、或いは伝長老
金地院崇伝)に相申したるという人もあり、または宗哲法印(片山宗哲)に相たるという人もあり、
或いは自分たちで互いに言い合って証人に相立ちたる人もあった。事おかしき証人である。

昔は出家や医者などを武辺の証人に立てるような人に対しては、中々付き合いもしなかったものだが、
今の世は末世にも成り、出家と医者が武辺の脈を取り、或いは察すれば武辺と成るようだ。

又は、度々武辺をした者を、昔は武辺の証人として立てたもので、その生きている間に敵の顔が
赤いか黒いかも知らぬような者を、武辺の証人に立てるような事は、笑って腹筋が痛くなるほど
おかしな事である。
(又は度々の武辺したる者を、昔は武辺のせう人には立て有に、一代之内敵のかほの赤きも黒きも
しらざる者を、武辺のせう人に立る事、腹筋のいたきほどおかしき事なり。)

相国様(徳川家康)はもとより度々合戦を経験した、日本では勿論異国までも隠れなき御武辺第一の
相国様であるが、おかしく思われながらもそれなりに対応し打ち置かせられているので、そういった
報告をした者達で自分の説明が通ったと武辺顔をしている者も多い。しかしそれを、古き武辺者たちは
目引き鼻引き笑っているのだ。

(三河物語)


さて、因果というものは

2019年01月20日 19:05

669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/19(土) 21:30:54.95 ID:r3vm1I6O
さて、因果というものは有るものだろうか。太閤秀吉、いにしえは松下嘉兵衛の草履を取っていた者であったが、
織田信長の御取立を以て人となり、今太閤の地位にまで至ったというのに、信長の御恩を忘れたか、
その御子である三七殿(信孝)をぬまの内海にて御腹を切らせ給い、尾張内府(信雄)の御知行を召し
北国に押し込め、御扶持の宛てがいもなく置いた。

さて又、太閤の御子秀頼も、相国様(徳川家康)を打ち奉らんと、大阪にて一度(家康暗殺騒動)、また伏見
にて諸大名に仰せ打ち奉らんと二度目(婚姻問題騒動)、会津御陣の御跡に諸大名を催して伏見の城を攻め殺し、
相国へ向かわせ給い、これが三度目(関ヶ原)、また去年謀反の企てをし諸牢人を扶持して敵対したこと
四度目(大阪冬の陣)、又当年手を出し合戦をし給う事五度目なり。(大阪夏の陣)

相国は御慈悲の有る方なので、四度目まではゆるしたが、助けたいとは思われたが、この上は是非無き次第、
助け置くものならば、又謀反を企てるだろう、よって腹を切り給えとて、御腹を切らせ給ふ。
これを見る時には、因果と言うものは、有るものだと感じる。

(三河物語)


その儀ならば別心か。

2019年01月18日 09:50

658 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/18(金) 00:10:47.32 ID:ePlVzHXh
慶長19年、豊臣秀頼は諸国の牢人衆を抱え、分胴をくずして竹を割り、そこへ鋳流して竹流しと名付け、
牢人たちに与え、十万余りを扶持していると徳川家康にも聞こえた。
そこで家康は「そういう事なら秀頼の御袋(淀殿)を江戸へ下すように。」と仰せ遣わしたが、
「思いもよらず。」との返事であった。そこで「そうであれば他に国を遣わすので、大阪を空けて
新しい領地へ国入りをするように。」と仰せに成ったが、これについても「思いもよらず。」と返答し、
さらに家康のもとには、大阪においていよいよ諸牢人を抱え、大阪城の普請を行い、鉄炮を磨き
矢の根を磨いているとの情報が入った。

「その儀ならば別心か。」家康はそう言った。

この時秀頼の守役である片桐市之正(且元)は秀頼に異見した。「もはや議論をしている時分ではありません。
とにかくどのような事でも、家康公の御意次第にお従いに成り、御袋様を江戸に送られるべきです。」
そう申し上げたが、大野修理、同主馬之助、同道犬、真田左馬助、明石掃部、その他の牢人どもが寄り合って
申した「とにかく御袋様を江戸に送るというのは要らざる事です。市之正は家康に加担し、あのように
申しているのです。市之正を成敗すべきです。」

これに危険を感じた片桐且元は吹田へ引き退き、これによって秀頼の謀反疑いなしとして、東は出羽、奥州、
関東八ヶ国、東海道、五畿内、西は中国、四国、九国、北は加賀、越前、能登、越中、越後と、日本に残り無く
大阪へと押し寄せた。

(三河物語)

三河物語だと大阪の陣の原因は最初から豊臣家の牢人召し抱え問題なのね。



660 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/18(金) 11:46:54.74 ID:xxlwVxsQ
>>658
逐電したと思われていた真田信勝は大坂に潜伏していたのか!

664 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/18(金) 16:23:39.52 ID:HuSd4Mb9
>>658
>分胴をくずして竹を割り、そこへ鋳流して竹流しと名付け、
>牢人たちに与え、
わざわざこんなことしたのはこっそり金与えたって意味?銅銭代わりなのかな。

665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/18(金) 20:45:30.78 ID:/cjd5+Sd
>>664
ここに出てくる分銅ってのは巨大な金塊の事だよ

666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/18(金) 22:38:06.98 ID:HuSd4Mb9
>>665
もっとすごかった!ありがとう~。

668 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/19(土) 19:05:44.45 ID:ffQJv5Ep
>>664
竹流金でググれ

合戦も仕掛けず、人質も出さず、

2019年01月13日 17:40

626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/13(日) 15:43:00.78 ID:Zdhm48/O
石田三成らの挙兵により、徳川家康が宇都宮から江戸へと出立する際、佐竹義宣や秋田城介(秋田実季)
らは、石田三成に一味していると考えられていた爲、『上方と一味に候哉、そうではなく今回
我々に同心するというのであれば人質を出し、我らへの一味の験を顕すように。』と、花房助兵衛、
島田次兵衛の両人を使いとして佐竹へ仰せに成った。

これについて義宣は父親の義重に「これはどうするべきか」と相談した。義重はこう言った

「私は隠居であり、万事はお前の心次第にすべきである。しかしながら上方に既に妻子を人質として
置いているからといって、彼等を不憫に思い、心では家康に一味したいと思いながら、人質故に
上方に一味するような事は有ってはならない。戦国の頃は、人質を棄て義兵を起こす事が武家の習いであった。

もし又、とにかく上方に一味したいと考えているのであれば、上杉景勝、秋田実季と申し合わせ、
早々に軍を起こし家康を食い止めるべきだ。」

しかし義宣はこの言葉を用いず、合戦も仕掛けず、人質も出さず、徒に時を過ごした。

(武功雑記)



630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/13(日) 19:33:32.84 ID:/HqfRDEu
>>626
後世の人間の感覚だと、関ケ原の頃はまだ戦国自体だけど、当時はもう戦国の世は終わったって意識だったんだな

631 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/13(日) 19:48:06.46 ID:mKSNkryl
太閤殿下のおかげやで

636 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/14(月) 03:05:53.78 ID:MKG9TZe7
>>631
惣無事令の有無はさておき、小田原→奥州仕置で天下統一、各大名が実力で領土をぶんどるのはもうありえず、戦国は終わったという認識になるでそ。

ただまあ、戦国的な気風は綱吉が将軍になるまで続くわけだけど。

638 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/01/14(月) 09:53:34.15 ID:xO1Bprze
>>636
>ただまあ、戦国的な気風は綱吉が将軍になるまで続く

(改易しまくる)幕府が悪いよ幕府が~

ムダに浪人増やす事になったのもなぁ

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/14(月) 09:58:48.12 ID:IEDTryi4
改易しないと舐められるしなあ

640 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/01/14(月) 12:21:36.97 ID:2qBLxhgW
>>630
おれは60歳だが、

15歳で関ヶ原に従軍してから、

37年間、弓鉄砲を使う場面は1度もなかった。

その悪しき臭いは安土中へ吹き散らし申した

2019年01月10日 17:45

575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/09(水) 19:56:15.67 ID:O6+KCoqz
天正10年(1582)午の年、信長公は甲斐国の武田四郎勝頼を御追罰のために、近江安土の
御城より御馬を出された。ただし先手は信忠公に仰せ付けられ、城之介殿は岐阜から御出陣なり。

家康卿は駿河口より御入りになられ、その他にも方々口々より飛び入れば、勝頼は甲府の家城を
開け退かれ、同国の田野里山林で討ち果てられた。その後、御仕置を残すところなく仰せつけら
れて駿河国を家康卿に進ぜられ、同年4月初め頃、信長公は安土の御城に御馬を納められた。

そこに家康卿が駿河国御拝領の御礼のため、穴山殿を御同道されて御上洛の由を聞こし召されて、
明智日向守の所をその御宿として仰せ付けられた。

そのようなところに、信長公は御もてなしのあまりにか、肴などの用意の次第を御覧になられる
ため、御宿を御見舞いになると、夏ゆえに用意された生肴は殊のほか鮮度が落ち申していたので、
門へ御入りになられるや風に乗って悪臭が吹き来たり、その香りを御嗅ぎ付けられて、もっての
ほか御立腹された。

信長公は直ちに料理の間へ御成りとなられ、「この様子では家康卿の馳走はできない!」と御立
腹になられて、堀久太郎(秀政)の所へ御宿を仰せ付けられたのだと、その時節の古き衆の口か
ら以上の通りに受け賜った。

信長記(信長公記)には『大宝坊の所を家康卿の御宿に仰せ付けられた』とある。この宿の様子
は二通りあると御心得なさるべきだろう。

日向守は「面目を失った!」と木具膳や肴の台、その他用意した取り肴以下を残らず堀へ打ち込
み申した。その悪しき臭いは安土中へ吹き散らし申したと相聞こえ申し候事。

――『川角太閤記』



576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/10(木) 11:01:21.60 ID:+0PwuB4l
信長「このアライを作ったのは誰だあっ!!」

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/10(木) 15:07:09.56 ID:T4ak4Lvy
お堀ってゴミ捨て場でもあったんだね

兜は念入りにすべきだ

2019年01月07日 21:38

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/07(月) 09:00:32.11 ID:HHEB62gR
家康公が在る時このように仰せに成った。
「小身の武士が装備する具足を作らせる時、胴や籠手などは粗末に作ってもよいが、兜は念入りにすべきだ。
何故ならば、討ち死にを遂げた時、兜は頸と一緒に敵に渡るものであり、つまり死後の為のものでも
あるからだ。」

これについて、上田宗古はこのように語った
「武士は討死を遂げ、首になった時のことを常に心がけておくべきでしょう。であるので、
月代などが後ろに下がっていると、詫言をしているような顔になり見苦しいので、若き衆は必ず、
後高に剃るべきです。明日は必ず合戦があると知れた前日は、頸を綺麗にしておく心得が第一です。」

(常山紀談)



624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/07(月) 18:26:33.70 ID:dprbvp00
地味加藤「ズボンの紐は前で結べ」
三歳様「下半身裸の死体は見苦しいからな」

永禄12年、武田軍駿河撤退と武田重代の家宝・八幡大菩薩の旗

2019年01月06日 19:17

568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/05(土) 18:31:56.44 ID:1kKF9x1m
今川氏真の掛川開城の頃までも、山県三郎兵衛昌景は武田信玄の命を守り、駿府の焼け跡に仮の柵を付けて舎宅を営み
守っていた。神君(徳川家康)は駿河に打ち入って駿府城へ押し寄せなさるが、山県は僅かの柵だけでは防戦叶わずと
知り、城を捨てて甲斐へと逃げ帰った。

神君は小倉内蔵助(資久)をもって、北条氏康父子へ信玄とは永く誼を断ち給う由を仰せ遣わされ、それより氏康父子
と示し合わせて今川氏真を駿府へ帰還させなさる由を懇ろに沙汰された。しかし駿府の城郭は先に信玄のために焼亡し、
住居できる場所もないので、氏真は戸倉城にあって小倉内蔵助・森川日向守に命じ、城郭を修築せしめた。その功が半
ば成就したので、まず岡部次郎右衛門正綱とその弟治部右衛門、安部大蔵元真らに駿府を守らせて、もっぱら作事を営
ませた。(原注:『武徳大成記』『家忠日記』)

武田信玄はこれを聞いて大いに憤り、1万8千の軍勢を催して再び駿府を奪い取らんと、6月12日に甲府を打ち立ち、
富士山中の金王を通り、大宮に出て神田屋敷・蒲原・善徳寺・三枚橋・興国寺の城々には押勢を残し、1万2千の人数
で韮山口まで押し入り、17日に三島社内を侵して近辺を放火する。それから人数を進め、河鳴島に陣を張らんとした。

この時、原隼人(昌胤)は「この場所では水害があるかもしれません」と諫めたのだが、信玄はこれをまったく用いず、
河鳴島に陣を取った。北条氏康もこれを聞き、3万7千余兵を引率して出馬し、信玄と対陣して互いに兵を見繕って戦
いは未だ始まらず。

そんな折の19日夕方より雨が降り続き、夜に入った後に大風が激しくなり、雨はますます篠を突くが如し。甲斐勢は
雨革や渋紙、桐油などで陣屋を囲もうとする間に風はいっそう激しくなり、雨はなおも車軸を流し、本篝と末篝をとも
に一度に吹き消した。視線も定まらぬ暗夜に火打ちと付竹を取り出し、灯を立てようとしても陣屋陣屋の間は野原なの
で風が吹き入れて灯は移らない。とやかくと苦辛してようやく陣屋を囲めば、子刻ほどになっていた。将卒どもは疲れ
果て、甲冑を枕にしばし休息した。まして歩卒どもは宵の普請に労疲し、高いびきして前後も知らず伏していた。

この時、北条方が蒲原・興国寺・三枚橋の城々から信玄の旗本へ入れ置いた忍びの者どもは、密かに陣々の馬の絆綱を
切って捨てた。かねてより示し合わせていた事なので、その城々からの屈強の勇士3百余人は、その頃は世上でも稀な
“雨松明”(原注:一本は“水松明”と書く)というものを手々に持ち、筒の火で吹き付けて陣屋に火を掛け、三方か
ら鬨の声を揚げた。

甲斐勢はこの声に驚き「ああっ夜討が入ったぞ! 1人も漏らすな!」と言うも、すでに洪水が押し来たり、陣営は皆
水となった。「弓よ、鉄砲長刀よ!」とひしめくが、篝火も灯火も皆消えてまったく暗く、兵具の置き場所も分からず、
「敵味方を弁えかねて同士討ちするな!」と呼び喚き取り鎮めようとするところに、河からはしきりに洪水が溢れ出て
陣屋陣屋に流れ入り、しばらくの内に腰丈まで浸れば、諸将卒ともに慌てふためき高い所へ登ろうと騒ぎ立った。

陣々にあった弓・鉄砲・槍・長刀・武具・旌旗・兵糧まで津波に取られて押し流され、諸将卒は逆巻く水を凌いでよう
やく興国寺の峰へと押し登った。退き遅れて水に溺死する者も若干であった。信玄はしばしも滞留することができずに、
早々に大宮まで引き退き、もと来た道を経て甲斐へと帰陣した。この時、甚だ狼狽したものか、武田重代の家宝である
八幡大菩薩の旗を取り落とし、北条方に拾い取られたのである。

――『改正三河後風土記』


569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/05(土) 18:32:29.35 ID:1kKF9x1m
さる程に、永禄12年(1569)6月17日、信玄は御坂越に人数を出して、御厨通りを桃苑という所まで出張した。
先手の者どもは三島へ乱暴して明神の社壇を打ち破り、戸帳を盗み取る。社殿の中を見ると神鏡だけで本尊がなかった。

諸勢どもは「甲斐国は小国だが、どんな小社でもすべて本尊神体がある。これは甲州は神道が正しいからだ。三島は海
道に聞こえる大社であるのに、どうして本尊がないのだろう。なんだか分からぬ石のようなものがあるが、これが明神
の神体であるのか、その他には何もない。ただ宮ばかりで、尊きこともないではないか。このような神もなき宮に何の
罰があろうか。宝蔵をも打ち破り取ってしまえ」と申した。

その頃、吉田の某は浪人して甲斐国へ下り、信玄の手書をしていた。某はこれを余りに不届きに覚え、信玄へ進み出て、
「そもそも神道は陰陽の根元にして易道の本地であり、形もなく影もないところに神秘があるのです。これは皆神秘で
すから、凡人の及ぶところではありません。浅ましい狼藉でありましょう」と、制止したのだという。

信玄は韮山口まで働き、鳴島辺りに陣を取ったと氏康は聞きなさり、3万7千余騎を引率して駿河に発向した。信玄も
2万5千余騎を引率してしばらく対陣した。19日の晩景より雨が降り出し、箱根山の方から黒雲一叢が立ち来たり、
夜に入ると風は激しく篠を束ねて、降る雨はさながら流れ込むが如し。にわかに大水が起こって陣屋に込み入り、しば
らくの内に腰丈まで浸かり、甲斐勢は我先にと高みに登った。

物音はまったく聞こえず、長いこと震動があった。「これは只事であるはずがない。何れにしても三島明神の御咎めな
のではないか」と心ある者は思ったのだという。

その頃、高国寺城の勢が少ないとして、加勢のために福島治部大輔・山角紀伊守・太田大膳ら数百騎が蓑笠を着て松明
をともし高国寺城へ入った。これを甲斐勢の夜廻りの者が「敵が夜討に寄せて来る!」と告げるや、甲斐勢は騒ぎ立ち、
小屋は倒れて兵糧・雑具・兵具まで流し、甚だ取り乱したのだろう、余りに慌てふためいて武田重代の八幡大菩薩の旗
を波に取られてしまった。

その旗は北条家に取られ、氏康に献上された。「誠に信玄一代の不覚」とぞ聞こえける。その旗を九島伊賀守(福島伊
賀守)に賜り、伊賀守家の奇宝とした。

水は次第に増し、逆巻く水に向かってようやく命を助かり、夜もすがら信玄は甲府に引き返された。氏康も小田原へと
帰陣なさった。

――『小田原北条記』


572 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/07(月) 00:30:39.58 ID:aCvm3RMw
永禄12年(1569)6月19日、武田信玄は河鳴島に陣を取り、北条氏康の軍勢と対峙したが、
洪水にみまわれて敗走し、よほど狼狽したのか武田重代の八幡大菩薩の旗を取り落として、北条方
に拾い取られてしまった。(>>568)

氏康は蒲原城に善徳寺曲輪という大郭を築き、その他に大宮・神田屋敷・興国寺・三枚橋・戸倉・
韮山・新庄・山中・深沢・鷹巣・獅子浜などの城塞に援兵3万余人を配分して籠め置き、自身は小
田原へ帰陣した。かくて北条方では、

「流石の信玄も今回はよほど狼狽したと見えて、重代の旗指物を取り落としてしまった!」

と嘲った。これに信玄方では、

「重代の重器であっても、津波のために流れたものをどうして恥としようか! 津波に流れた兵具を
拾い取って、武功手柄のように高言する笑止さよ! 旗が欲しくば、いくらでも製作して授けるぞ!
武略の優劣は戦場の勝負にあり。天変を頼みにして物を拾うを武功と思う浅ましさよ!」

と誹謗した。北条方はまたこれを聞いて、

「信玄が例の巧言曲辞をもって、その過誤を飾るとは片腹痛い! さる永禄6年2月の上野箕輪城
攻めで、信玄の家人の大熊備前(朝秀)は自分の指物を敵に取られたことを恥じ、敵中に馳せ入っ
てその指物を取り返した。その時に信玄は大いに感心して、『無双の高名比類なし』と感状を与え、
その時から大熊を取り立てて騎馬30騎・足軽75人を預けたのだと聞いている。

しかしながら、家人が指物を取られたのを恥じて取り返したことを賞美して、その家重代の重宝で
ある八幡大菩薩の旗は敵が取っても恥ならずと言うなら、大熊に授けた感状は今からは反故となる。
信玄の虚偽はさらさら証しにはできないな!」

と、双方嘲り罵ってやまなかった。その頃、老練の人々はこれを聞いて、

「信玄が洪水のために重代の重宝を流して敵に拾われたことは、天変であるから信玄の罪にあらず。
『河鳴島が卑湿の地で水害があるだろう』と原隼人(昌胤)が諫めたのを用いずに、その地に駐屯
してこの難にあった事こそ、一方ならぬ不覚である」

と誹謗したのだという。

――『改正三河後風土記』



570 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/05(土) 20:16:27.89 ID:VzBE3OlO
>>568>>569
>3万7千
どっちも共通してるんだな、少しぐらい盛りそうなもんだけど。

571 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/06(日) 12:10:41.04 ID:8AG8nNZJ
武田に勝つには倍以上ないと心許ない

573 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/07(月) 14:28:39.05 ID:eQrzQF2I
>>572
レスバトルかな?

574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/09(水) 08:45:56.18 ID:0LSUZlgm
見事なレスバトルやな

同名淡路守・同弾正、並びに采女佐の知行宛行いの事

2019年01月01日 19:32

611 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/31(月) 22:47:04.94 ID:WBFFkdFS
久野三郎左衛門宗能はこの正月の掛川城攻めに際して今川氏真に語らわれ、その一族家人どもは
皆裏切ろうと計った時、宗能一人は同意せず御加勢を待ち受け、反逆の一族家人を討ち滅ぼして
忠義を励み、戦功も多かった。

そのため神君(徳川家康)はその忠勲を賞され、一族らの没入の地を加恩として宗能に賜った。
その時に下された御書に言う。

  同名淡路守・同弾正、並びに采女佐の知行宛行いの事

 右はこの度、かの3人が逆意するも宗能は別儀なき旨、甚だもって忠節である。そこでその
 賞としてかの跡職知行など一円を与える。これは永久に相違することはない。もし同心の者
 どもの不承知があれば、存分に申し付けられるように。またかの同心者が訴訟するとしても、
 許容しないものである。よって件の如し。

   永禄12年己巳8月28日

               家康御判

         久野三郎左衛門殿

――『改正三河後風土記』


すべて信玄の作謀

2018年12月29日 17:14

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/28(金) 19:44:13.74 ID:pBe2OoRD
永禄12年(1569)5月下旬には、遠江一円が神君(徳川家康)に帰順した。かねがね大井川を限りに西は尽く
御領地となさる旨を武田信玄とは堅く盟約されたので、御領地の境を御巡見のため僅かな御供5,6百騎を召し連れ
なさって、榛原郡に赴かれた。

その時、信玄の侍大将・山県三郎兵衛昌景も3千余騎を連れて駿府よりこの辺りに来たり、金谷にて思いがけず行き
違った。昌景は礼をなしてその場を過ぎようとしたが、神君の御供が少ないのを見ると、喧嘩に事を寄せてたちまち
打って掛からんとした。これは内々信玄の密旨を受けており、かねてより虎狼の心を抱いていたからである。神君は
この様子を御覧になって、

「山県は味方が小勢であるのを見て時節よしと思い、かねての約を変じてにわかに備を立て直し、味方を襲い討たん
としている。去年に秋山伯耆守(虎繁)が約を背いて我が国境を犯そうとしたのも、今日の山県の狼藉も、いずれに
しても信玄の偽謀に疑いない。しかしながら味方は僅かの小勢、しかも地の利を得ず。少し引き退いて地利に拠って
戦うべし!」

と仰せになると、兵を5,6町引き退け険路に備えて待ち受けなさった。山県は徳川勢が逃げると思い勝ちに乗じて
暇なく追っ掛けたところ、本多平八郎忠勝が一番に小返りして奮戦した。その手に属する三浦竹蔵・原田弥之助・
桜井庄之助・梶金平(勝忠)・柴田五郎右衛門・大原作之右衛門・木村三七・渡辺半兵衛(真綱)・多門越中・荒川
甚太郎・本多甚六・河合又五郎は同じく進んで槍を入れる。

二番に大須賀五郎左衛門康高と榊原小平太康政が婿舅一手になり、槍を振るい決戦した。両将の手に属す坂部又十郎
(正家)・筧龍之助・久世三四郎(広宣)・筧助太夫(正重)・渥美源五郎(勝吉)・伊藤雁助・清水久三郎・鈴木
角太夫・加藤平次郎も劣るまいと争い進めば、

三番に大久保七郎右衛門忠世・弟の治右衛門忠佐が、また御旗本からは渡辺半蔵(守綱)・服部半蔵(正成)・菅沼
新八郎(定盈)・石川又四郎が馳せ出て槍を合わせ、敵7,8騎をたちまちに突き落とせば、山県はこの戦いに利は
あるまいと知って早々に人数を引き纏め、駿府目指して逃げ去った。

神君は秋山・山県らの狼藉はすべて信玄の姦謀であると御知りになって、これより永く信玄とは誼を断ちなさった。
信玄もこの頃に世上では信玄の姦謀を批難したのでこれを憂い、一旦山県を蟄居させ、その後程なく馬場・小山田ら
が愁訴するからとして山県を許したのであった。これはすべて信玄の作謀の致すところである。

越後の謙信もこれを聞いて「この度、信玄が徳川殿と盟約を変じ、山県をもってその虚に乗じ討たんと計ったことは、
武田家の瑕瑾(名折れ)である」と評したのであった。

(原注:按ずるに応仁以来、諸国割拠の英雄豪傑は少なからず。その中でも、越後の謙信と甲斐の信玄の2人は殊更
胸に六韜三略を明らめ、手に常蛇を制す。兵を用い陣を敷き、城を攻め敵を計る。尽く孫呉と機を同じくせずという
ことなし。天下後世が規則として仰ぐこと泰山北斗の如し。

しかしながら信玄のなすところは、すでに父を追って国を奪い甥を倒して地を掠み、天倫の道は絶えてしまったので
隣国の盟約を背く如きは論ずるに足らず。されどもこの度、盟約は未だ数ヶ月も経ずして山県に密かに計略を含め、
兵の少なきを窺って襲い討たんと計った偽詐姦邪はおのずと国々へ言い伝えて、これより大いに人望を失ったという
のは、そのようになってもっともな事である)

――『改正三河後風土記(武徳大成記・東遷基業)』


掛川開城

2018年12月28日 18:21

606 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/28(金) 01:16:16.37 ID:pBe2OoRD
(掛川城の戦いの時)

掛川城中では朝比奈備中守泰能(泰朝)・小倉内蔵助資久らがとりどりに評議し、

「これまでは今川旧好の輩が馳せ集まり堅固に当城を持ち固めたが、今は遠江一円が徳川殿に帰服し、当城は兵糧が
次第に尽きて飢えに臨んでいる。これでは長く籠城は叶い難し。氏真は小田原に避けなさって北条を頼まれ、開運の
時節を計られるのがしかるべし」

と評議は一決した。しかしながら、氏真は疑念深く未だ決定しないので、小倉内蔵助は諸々に諫言した。折しも奥平
美濃守貞能も神君(徳川家康)を諫めて「氏真を許して御和睦なさり、早く遠江を平均なさるべし」と申すと、神君
はもとより御同意であった。

その時、今川方は朝比奈弥太郎泰勝(原注:子孫は今水府(水戸藩)に仕える)を使者として石川家成・酒井正親の
方まで和睦を申し請うて来た。(原注:『東遷基業』)奥平貞能は久野宗能・浅原主殿助と和睦を相計り、4月8日
に主殿助が御使者として城中に入り、小倉内蔵助と対面して仰せの旨を伝えて仰せ送られたことには、

「家康が幼年より今川義元の扶助を得ていた旧好は、今においてもどうして忘れることだろうか。家康に氏真を敵と
する心はない。如何せん氏真は讒佞を信じて私を仇とし、矛盾に及ばれたのでやむを得ず合戦に及んだが、まったく
もって本意ではない。只今のような状況では、遠江をも駿河と同じく武田信玄に奪われることだろう。速やかに駿河
を私に避けて渡されたならば、私はまた北条父子と相計って氏真を駿河へ還住させ申す」

内蔵助は大いに喜んで氏真を諫め、内蔵助が氏真の使者として双方誓詞を取り交わし御和睦は整ったので、内蔵助は
また小田原へ赴き、北条父子へこの由を告げた。よって北条からは北条助五郎氏規を氏真の迎えに掛川へ遣わした。

氏真は5月6日に掛川を出て掛塚の浦より船で小田原へ赴けば、神君からも松平紀伊守家忠をもって送らしめられて、
海路を守護させなされば、つつがなく伊豆戸倉に着岸した。今川・北条の者どもも「徳川殿は情けある大将かな」と
感心した。

これより掛川城は酒井左衛門尉(忠次)・石川伯耆守(数正)・本多作左衛門(重次)が受け取り守衛したが、同月
22日に神君が掛川に入りなさって軍士を饗応せられ、当城を石川日向守家成に賜った。

これより以前、(三河が)一円に御手に属した時、三河の国人を二組に分け、酒井左衛門尉とこの家成の両人に属せ
られて両人を左右の旗頭と定められたが、家成が当城を賜った後は旗頭を甥の伯耆守数正に譲って、自身は大久保・
大須賀・松井と同じく遊軍となり、本多広孝・本多忠勝・鳥居元忠・榊原康政らは御旗本を警衛した。

(原注:今川と御和睦の事は『武徳大成記』には今川より朝比奈泰勝が使者として申し越したとあり、『東遷基業』
も同じである。『家忠日記』には徳川家より御使者を小倉資久へ遣わされたとある。本文は両書を合わせ意を迎えて
綴ったものである)

この頃に石川に属したのは、西三河の松平源次郎直乗・松平宮内忠直・内藤弥次右衛門家長・平岩七之助親吉・鈴木
喜三郎重時・鈴木越中守重慶。(原注:『東遷基業』では、石川の組に酒井正親・鳥井平蔵・松平三蔵・松平信一を
加える。いずれが是であるかはわからない。よって両説を備える)

一方で酒井に属するは、東三河の松平右京亮親盛・松平内膳家清・松平源七郎康忠・松平玄蕃頭清宗・松平又七郎
家信・松平弥九郎景忠・設楽甚三郎貞通・菅沼新八郎定盈・西郷新太郎家員・松平丹波守康長・奥平美濃守貞能・
牧野新次郎康成。

この輩に加え、また石川伯耆守の弟・半三郎は猛勇の士であったため、先に攻め落とされた堀川を下され、その地に
土着して土人を主宰せしめなさる。よって気賀の徒は屏息して大いに恐れ、この後に一揆を起こす者はいなかった。
(原注:『東遷基業』『武徳編年集成』)

――『改正三河後風土記』


門を開けたままにしておけ

2018年12月27日 14:31

605 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/27(木) 09:21:54.83 ID:3nG+GfMx
豊臣秀吉の死後、徳川家康の伏見屋敷では、晩の七つ時分(深夜3時ころ)になると、ぴたりと門外より
屋敷内を覗いて走り去る者が多くあった。下々は「いかなることか、晩に及んで敵が寄せて来るのでは
無いだろうか」などと疑った。

この事はそのまま村越茂助より徳川家康に報告されたが、家康は「門を開けたままにしておけ。」と
命じた。その上で「夜間の警備に当たる者達の所へ、これを持って参れ」と、火鉢二つを出し、
茂助がこれを承った。いずれも寒気防ぎの為であると思っていたが、実はそうではなく、火縄の火を
急につくるのに、蝋燭などではなかなか付かないものだという家康の考えであった。
これは村越道半によると、森川金右衛門が語ったことであるという。
(武功雑記)


今は速やかに天意人望に応じて降参するべし

2018年12月25日 21:19

599 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/25(火) 19:01:46.98 ID:Ptb2kkHD
(掛川城の戦いの時)

掛川城再攻により、今川方が和睦を評議していると聞こし召し、神君(徳川家康)は岡崎に帰城して人馬を休めんと
された。すると尾藤主膳や気賀一揆が堀川城の旧塁に立て籠った。またこの頃、大沢左衛門佐基胤が再び今川に一味
して遠江敷智郡の堀江城に籠り、中安兵部定安・権田織部泰長らと同じく敵の色を顕した。

(原注:関白道長より四代の中務大輔基頼の子・持明院左京太夫通朝の十代・左衛門佐基久が遠江に居住し、丹波の
大沢を領した。今の基胤は基久より九代である)

そこで3月25日にこれを井伊谷三人衆の近藤石見守康用とその子・登之助秀用、同じく三人衆の鈴木三郎太夫重吉
(重時)・菅沼次郎右衛門忠久、野田の菅沼新八郎定盈らに命じて討手に向かわしめられた。

(中略)

また堀江城は井伊谷三人衆と野田の菅沼定盈が押し寄せ攻めたが、鈴木重吉が討死した。その後、日数を重ねて攻め
囲みなさったが、神君は4月12日に城中へ御使者を立てられて仰せ遣わされたことには、

「大沢は氏真の被官家人でもないにも拘わらず、旧好を忘れずに只今衰運の今川のために籠城し、日を経て苦戦する
その義烈はもっとも感銘を受けるところである。しかしながら、私は今遠江一円を手に入れて掛川も和睦した。今は
速やかに天意人望に応じて降参するべし。本領は相違なく与えよう」

これにより大沢主従はいずれも仰せに従った。よって御誓紙を下されると、大沢を始めとして中安兵部・権田織部も
皆降参した。この時、中安・権田の両人は御家来に召し出された。(原注:『東遷基業』『武徳編年集成』)

――『改正三河後風土記』


三月七日の掛川城攻め

2018年12月24日 15:19

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/23(日) 18:55:13.87 ID:eE9Lsf8D
(掛川城の戦いの時)

神君(徳川家康)は人馬を休められて、3月4日に再度掛川城を攻め給わんと見付より御出馬され、5日には本多
平八郎忠勝・松平主殿助伊忠を先手として攻め寄せ給う。(原注:『武徳編年集成』はこの日の先手を松平甚太郎
(家忠)・松井左近(忠次。松平康親)とする。『東遷基業』『列祖成績』は原書に同じ)

すでに大手は南町口を攻め破り二の門に至る。ここに寒大寺川という大河あり。この頃、春雨は日数を重ねて降り
続けたので水嵩は増し、塩買淵という辺りは平素には歩行渡りの所だったが、水は深くなり寄手は大いに悩んだ。

搦手は水野惣兵衛忠重が西町口より攻め入り、松尾池を隔てて互いに矢砲を飛ばし挑み戦う。また一手は東口より
攻め入り、不動山を右に見て天王小路より押し寄せた。北畷口の一方は掛川城兵の心を一致させないためにわざと
開いて囲まず、城中からは朝比奈備中守泰能(泰朝の誤り)・三浦監物秀盛が天王小路に打ち出て激しく防戦する。

この時、松平主殿助の家士・石原十助が城兵を射たところその城兵は射られても未だ鞍を離れず、十助はまた射て
ついに射落とした。城中の将卒どもはその矢継ぎ早なるを感心し、その矢を金の団扇に乗せて主殿助の陣に送った。

7日には辰刻より朝比奈備中守と三浦監物が天王小路に打って出た。菅沼帯刀・伊藤治部少輔・同掃部介・同左近
左衛門・小笠原七郎兵衛・渋谷右馬允・朝比奈小隼人・同小三郎泰秀・笠原出羽守らは西宿より打って出て「今日
は歩兵には目も掛けず、大将分の者を討ち取らん!」と奮戦した。

敵味方は互いに勇を争った。本多平八郎・榊原小平太(康政)・大須賀五郎左衛門(康高)・大久保七郎右衛門
(忠世)・大久保治右衛門(忠佐)が自ら槍を振るって真っ先に進めば、味方の輩も勇み進んで突戦する。

菅沼三九郎は笠原七郎兵衛を討ち取り、高橋伝七郎は朝比奈小三郎を討ち取り、松下嘉兵衛之綱は菅沼帯刀を討ち
取り、本多三弥(正重。原注:一向乱の時に立ち退いたが、この時に御先手に加わった)は新谷小助を討ち取り、
高力与左衛門清長は粟飯原平左衛門を討ち取り、中山是非之助(姉川七本槍の1人)は伊藤左近元実を討ち取り、
散木某は山崎市兵衛を討ち取り、小林勝之助重直も首級を得たのであった。

“今川家十八人衆”と名を顕した朝比奈小隼人・伊藤治部少輔・同掃部介を始め、屈強の輩38人・雑兵180人
を討ち取る。味方でも中根伝四郎正重・本間五郎兵衛長季・加藤市十郎正重、本多康重の家士・畔柳又次郎を始め、
60余人が討死した。

また本多彦次郎康重16歳と家士の本多左馬助・吉見孫八郎、奥平家士の名倉五郎作、菅沼新八郎(定盈)家士の
菅沼弥太郎・今泉新助・同孫三郎・同久左衛門は皆戦功をはげました。

榊原家士の安松弥之助・菅沼家士の彦坂小作、御旗本では小林伝四郎吉勝が射芸を振るい、弥之助はこの功により
“矢之助”と賜る。小笠原喜三郎貞慶・菅沼藤蔵定政も戦功あり。けれども朝比奈備中守と笠原出羽守はなおも勇
を振るい、残兵をまとって城に引き取った。

松平与一郎忠正は旗馬印を塀際に押し立てて、諸手は竹束を付き寄せ今やすでに城を乗り取るかと見えたところに、
御本陣より「急いで諸手は引き取るべし」との旨が命じられた。よって与一郎が後殿し、早々に諸手の人数は引き
返した。これは今川与力の者も徒党して船に乗り、掛川城を後詰せんと掛塚の港へ着岸するとの注進があったから
である。

そこで榊原・大須賀ならびに鳥居彦右衛門元忠を掛塚に馳せ向かわしめ、かの今川与方力の者どもはこれを聞いて
早々に船に取り乗って逃げようとするところを、御目付に参っていた渡辺半蔵守綱が駆け付け、船に乗らんとする
敵を7人まで突き倒した。大須賀康高属兵の筧助太夫(正重)・久世三四郎(広宣)・坂部又十郎(正家)、榊原
康政属兵の清水久三郎・伊藤雁助も走り来たり首数級を得た。敵は散々に打ち負けて、残兵はようやく船に乗って
逃げ失せたのである。

(原注:『武徳編年集成』はこの両日の合戦を4日・5日とする。『東遷基業』『列祖成績』は原書と同じ5日・
7日とする)

――『改正三河後風土記』


堀川城の戦いの時。掛川城再攻後

2018年12月21日 22:34

537 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/21(金) 18:00:20.31 ID:U9N4TaKs
(堀川城の戦いの時。掛川城再攻後)

掛川城では今川家の主だった勇士が3月5日・7日の両戦で大勢討死し、兵糧も追々乏しくなったので、「徳川家と
和睦して北条を頼み、氏真は小田原へ落ち行き、時節を見て回復の功を図るのがしかるべきか」と評議しているとの
旨を神君(徳川家康)は聞こし召し、「それならばこの地に押さえの勢を残してしばらく岡崎に帰城し、人馬の労を
休むべし」として数ヶ所に砦を設けるよう命じられた。

(中略)

この時、去年3月に遠江堀川城で攻め落とされた大沢左衛門基胤の属将である尾藤主膳(原注:一本には彦四郎)・
村山修理(原注:一本には山村。または村田)、気賀一揆の西光院・宝諸寺・桂昌院を始めとして給人百姓と称する
内山党、その他に寺社・地下人の男女1千5,6百人が堀川の旧塁を取り立てて立て籠もり、徳川家の御帰路を遮り
討ち奉らんとした。

神君はこれをまったく御存知なく、近習17騎・歩卒2百3十人ほどでこの道に通りかかられた。一揆どもはこれを
見たが、御勢があまりに小勢なので徳川家の通行とは思いも寄らず打ち過ぎた。その後に石川伯耆守数正が百騎ほど
で後陣を打って通りかかるのを見て初めて気付き、「さては先に通行した小勢こそ徳川殿であったか!」と後悔した
という。神君は岡崎帰城の後にこの事を聞こし召して、「ならば急いで征伐すべし」と諸軍に命じられた。(原注:
『武徳編年集成』には渡辺図書旨同の謀を用い給い、御先へ小勢で御通行されて古美村から船で浜松へ引き取られた
とある)

(中略)

神君は堀川の一揆を攻め給わんと3月27日に堀川へ押し寄せられ、山の後ろの平松崎という所に御旗を立てなさる。
(原注:ここの“御殿松”という古木は今も存在するという)そもそもこの城は海浜にして潮が満ちれば船で出入り
するが、潮が引いて干潟となれば巉巌峭壁で、陸地ただ一面となるので攻め寄せる便りを得られた。

「この城を只今攻め落とさなければ、その間に潮が来るであろうぞ。ひたすら攻め立てて攻め落とせ!」と御旗本勢
は攻め寄せた。その中で小林平太夫重直(原注:25歳)・その弟の勝之助正次・平井甚三郎・大久保甚十郎(原注:
23歳)・永見新右衛門為重は先頭に立ち、小林・平井・永見は皆討死した。(原注:『武徳大成記』などの諸書は
小林・平井・永見らは去年3月の堀川城攻めの時に討死したとするが、誤りである)

大久保甚十郎は深手を負って帰陣し、諸士の戦功を見届けて味方の輩に物語って落命したので、将卒とも甚だこれを
惜しんだ。榊原康政は勇を振るい、深手2ヶ所を負いながらもますます進んで攻め戦った。その他森川金右衛門氏俊
を始めとして大勢が一面に攻め入って城を乗っ取り、城兵108人の首を討った。その他烏合の一揆7百人は寛仁の
御沙汰により尽く許しなさった。この日、味方でも屈強の輩16騎が討死した。

――『改正三河後風土記』