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家康の米蔵

2018年08月17日 17:15

177 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/16(木) 22:54:37.73 ID:5HD4XDkV
徳川家康の御代のこと。江戸の御蔵に納める米が非常に多く、故に欠米も多かった。
そのうえ、諸国の御代官所より当地までの運送の際の欠損も甚だ多かった。

そこで勘定方の者達より
「江戸の御蔵米の棟数を減らし、産地の近くで保管するか販売すれば、随分の徳と成ります。」
そう申し上げた所、家康は以ての外に機嫌を悪くして言った

「蔵の数が多いため欠米なども多く、私の損になっているという事は、かねてより知っていた。
しかしながら万一の事が起こり、諸国の新穀の、当地への運送が難しくなる、という事もあるだろう。
そのような時は米の値段も高騰し、諸方より集まっている江戸の人々が食料に難儀する事態も
考えられる。そういった時に米の放出が出来るように、江戸に米蔵を多く設置したのだ。

勘定方の者達は、今や天下の勘定頭とも呼ばれている。そういった者達がこんな事を、私のためだと
言い聞かせるような事が有って良いものか!?」

そう、殊の外叱ったという。

(駿河土産)

家康的にこういう損は許容範囲なんだな



178 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/16(木) 23:11:14.81 ID:98ciTnX6
大人口抱える都市は、ほんと備蓄が重要だなぁ…
足りないという噂が出るだけで米価が上がって大騒動になりかねないし。

179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/17(金) 04:11:18.70 ID:2aA0/P+T
損がでるからやめようよってのは今でもよくある話で目的を逸脱してることあるよな。

180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/17(金) 07:00:28.61 ID:g3i+Xb7x
建物を改修すると赤字になるので営業を終了させられた娯楽施設があったなあ

181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/17(金) 07:38:08.45 ID:GgA1qgKB
トヨタ方式で部品在庫を極限まで圧縮したら、東日本大震災でサプライチェーンが止まって、世界中の生産がピンチとかあったな

183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/17(金) 16:11:03.08 ID:0WeGR5bi
>>181
その代わり在庫に被害も出なかったけどね
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流石増田の子だ

2018年08月15日 11:17

168 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/14(火) 22:30:22.72 ID:q6HYpvs1
大阪五奉行の一人であった増田右衛門尉(長盛)は、関ヶ原の後、高力左近(清長)へ御預となり、
武蔵国岩槻に置かれた。

増田長盛の息子である兵太夫(盛次)は、大阪冬の陣の折は将軍秀忠の軍勢に加わり
大阪表へ参ったが、戦いにおいて寄せ手の宜しき噂を聞く度に苦い顔をし、少しでも城方の
宜しき情報を聞けば喜悦していたという。

冬の陣和睦の後、駿府城に置いてこの事を徳川家康の耳に入れた者があった。
家康はこの話を聞くと

「それは近頃、奇特なる心入れであるな。流石増田の子だ。」

これだけを言い、何の咎めも無かった。

夏の陣の折も、もし牢人でいるようなら召し出し、親の長盛への監視も緩やかにせよと命じた。
しかし大阪夏の陣で、増田盛次は大阪城に入り秀頼の家臣として、長宗我部盛親の部隊へ入り、
5月7日、藤堂高虎の部隊と戦い、討ち死にした。

親の増田長盛も後日、武州岩槻にて切腹したという。

(駿河土産)



170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/15(水) 02:16:29.78 ID:5wQcQ5X+
ましたは二重スパイだったという説があるけど、三成寄りというよりは豊臣寄りだったんかな

てんかとりしつめ候

2018年08月15日 11:16

169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/15(水) 00:35:14.43 ID:+pbE6rsn
てんかとりしつめ候


以下は関ヶ原の戦いの後、池田輝政の祖母・養徳院
戦勝を祝う書状と贈り物を送ったことに対する家康の返書の意訳。

お手紙および贈り物を二品お送りいただき、祝着に存じます。
お聞きの通り、天下を取り鎮めました(原文:てんかとりしつめ候)。
三左衛門殿(池田輝政)も一段とご心労があったことでしょう。
何にせよめでたいのは、重ね重ね申される通りでございます。
めでたくかしく

やうとく院(養徳院)     内ふ(家康)


――『林原美術館所蔵池田家文書19号』


律儀なる佐竹義宣

2018年08月13日 18:45

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/13(月) 17:37:35.92 ID:edUVcuNz
権現様(徳川家康)が駿府城にあった時、御伽衆の一人が「誰々は殊の外律儀な人だ」と語った所、
これを聞いた家康は

「律儀なると者というのは極めて稀なものだ。私はこの歳に成るまで、律儀なる人というものは、
佐竹義宣以外に見たことがない。」

そう仰せに成った。しかしこれを御伽衆の者達は皆合点できなかった所、御前に居た永井左近が
「義宣殿を左様に思われるのはいかなる理由でしょうか?」
と申し上げた所、

「その方なども知るように、先年大阪にて石田治部と7人の大名たちの出入りの時(七将襲撃事件)、
治部は大阪を立ち退き、我等を頼み伏見に参った。この時大阪からの道中を佐竹義宣が警護して
上がった。その後、石田治部が佐和山に蟄居と成った時も、その道中において大名たちが語らって
彼を討ち果たすとの風聞があった、そのため私は三河守(結城秀康)に道中の見送りを申し付けたが、
これを義宣は聞き及び、『治部を大名共に討ち果たさせては一身の一分が立ちません!』と、
道中に目付け物聞きを置き、何か事が起これば即座に馳せ出して三河守と一手になって治部を
救援すると、上下とも軍装のまま待機していたという。となれば、律儀の人の実仁に紛れもない。

その後関ヶ原の一戦の時も、大阪方にも我々にも付かず、心底がわからず訝しいと思い、しかし
そのままには置いておけなかった。もし我等に一味して関ヶ原表に出勢し、戦功などあれば、朝熊も
先祖代々の領地であったし、水戸の安堵は相違無かったはずなのに、残念な事であった。

人が律儀というのは、褒めるべき資質で随分良いことでは有るのだが、律儀すぎると、
事に臨んでは一思慮無ければならぬものなのだ。」

そう仰られた。
(駿河土産)

自分も律義者と言われていた家康の考える律儀No.1は佐竹義宣なのね



152 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/13(月) 18:51:56.64 ID:2MDI+lEV
佐竹が関ケ原で東軍について戦功挙げたら、関東と南東北に合わせて100万石クラスの
大大名が登場するわけで、徳川にとって危険極まりないわけだが…

153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/13(月) 19:12:25.13 ID:2pUDfcy6
その場合は中国か九州あたりで大封を与えるんでないの

154 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/13(月) 19:17:19.99 ID:edUVcuNz
佐竹は秀吉に臣従した時は25万石だったのが、太閤検地で領地そのままなのに一気に54万石にされちゃってるんだよなあ。
単純に軍役倍って事だから、豊臣政権ってホントエグいと思う。

155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/13(月) 19:49:33.76 ID:k3r0B2xw
下手に東軍で活躍して大大名になってたら大阪の陣のあと血眼になって粗探しされて改易されてそう

156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/13(月) 20:16:21.87 ID:AaT6or0e
義宣ならやらかさんとは思うが
まあ突っつくなら配下の徳川氏とかか
あそこは将軍家に憚ることなく徳川を名乗り続けたよね

157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/13(月) 20:33:31.48 ID:Fqze60QX
>>155
関ケ原後に川井事件とか、お家騒動やらかしているしねい。
佐竹って小田原後、豊臣大名になってから中央集権化にやっと取りかかれて、
関ケ原後に転封されてからが改革の本番という感じだったから、
まだ家内統制取れていない段階で、しかも転封されずに大封になったら、
いったいどんなことになるやら…

158 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/13(月) 20:38:52.18 ID:T7fOEd4M
人間万事塞翁が馬だな!

159 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/13(月) 21:24:11.74 ID:wsGVjBat
>>154
無役16万石が設定されたから倍にゃなってない
島津の時もそうだけど検地の打出し分で大名の蔵入りを増やすのが主目的だしね

163 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/14(火) 11:12:30.83 ID:BRAOGxPy
>>157
関ヶ原後に転封なし加増ありで大封というと前田氏、最上氏、伊達氏くらいかな
その後を見てると結局は運次第かねぇ

164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/14(火) 11:16:13.37 ID:i/S8w+GS
>>163
基本、どれも田舎の藩だなぁ。

165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/14(火) 11:26:50.19 ID:uVBU3cE+
>>163
加藤

167 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/14(火) 13:34:42.18 ID:+D6JsEd6
>>151
朝熊って伊勢のだよね?ここが先祖代々の領地ってどういうことなの?

東照大権現、明暦の大火を警告する

2018年08月13日 18:43

31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/13(月) 18:23:06.99 ID:2royz9GR
酉年江戸大火(明暦の大火)前の除夜半過の時分、(久能山東照宮において)角材木を板啄に
打ち付けるような音がしたので、いずれの者も驚いた。御神前の番・相田喜左衛門と申す者は

御供所の方からと聞いて見に出ると、御供所にいた神田武兵衛と鈴木次郎三郎は神楽所の辺り
から音を聞いたとのことで、出合わせて見てみたが何ら変わった様子もなかった。

また常々御神前には鼠が多いため、御供えの餅を鼠が食べないように毎年寝ずの番をしていた
のだが、明くる正月3日の晩から突然鼠がいなくなったので火の用心をしていたところ、

18日・19日に江戸で大火事があった。以後また鼠が出るようになった。

――『東照宮御奇瑞記』

東照大権現、明暦の大火を警告するというお話。


まこと山鷹野のいうものには

2018年08月10日 19:01

142 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/10(金) 15:19:56.08 ID:xTnmvI7d
関ヶ原の合戦後、左京大夫(浅野)幸長は、それまでの甲斐より、加増を請け37万石の知行高にて
紀伊国を拝領仰せつかった。

その頃、後藤庄三郎熊野に参拝し、その後江戸表へ下った。
この後藤庄三郎徳川家康は聞いた「その方は先ごろ熊野山に行ったが、その帰りに紀伊国へ
見舞いに行ったか?」

「はい、上意の如く和歌山の城下に10日あまり逗留いたしました。」

「ふむ…。逗留中、紀伊守(浅野幸長)は、何かお主への馳走を申し付けたか?」

「紀伊の川と申して、吉野、高野の麓より流れ落ちる大河がありました。この川に船で出ると、
そのお供をいたしました。網を下ろし魚を取らせている所を見物しました。

その後山鷹野に行かれる時も私も同行いたしましたが、これは殊の外目覚ましき見ものでありました。
しかし、その山鷹野で私には合点の参らない事がありました。」

「それは何か?」

「はい、その時は雉や山鳥、その他鹿ムジナの類まで物数多く獲れまして、定めて幸長様のご機嫌は
良いだろうと考えていたのですが、実際には大いに腹を立てておられ、列卒の奉行を始め、その他役懸りの
者達は散々な目に遭っていました。

そしてまた一度山鷹野がありましたが、この時は何も獲れず、殊の外獲物となる動物も少なく、きっと
幸長様は不機嫌であろうと思ったのですが、実際には一段と機嫌よく、諸役人たちに「骨を折り大義である」
などと声をかけ、褒美まで与えていたのです。」

これを聞いて家康は笑いだした

「それはその方たちが合点できないはずだ。紀伊守はそうしていたか。まこと山鷹野のいうものには、
獲物の多少は関係ないのだ。」

そう仰せに成ったという。

(駿河土産)

では山鷹野は何を目的にやってるんですかね?



143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/10(金) 15:25:31.54 ID:qxtBfCSp
畜生とはいえ張り合いがないので立腹していたんだろう

145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/10(金) 16:41:44.84 ID:NjMSuH7B
>>142
大漁だったのは家臣が自作自演で用意してたのかな?
少なかった時はガチだったので機嫌が良かったとか。

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/10(金) 18:32:35.70 ID:SKO93wDX
武士の感覚で言うとさ

獲物が多い→うわーざっこwつまんねーおもんねー→不機嫌

獲物が少ない→タマ当たんねー逃げるのうめーやり甲斐あるわw→上機嫌

148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/10(金) 19:15:25.23 ID:RFs/7dHc
個人的には>>145の考え
役人たちが獲物を集めてきて放ったのかなと思った

149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/11(土) 00:40:42.42 ID:GyktD+Pu
鷹狩りは軍事演習なので苦労しないと訓練にならないのでは

これより攻め滅ぼさせていただく

2018年08月09日 12:20

18 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/08(水) 21:49:54.59 ID:xiowr2gD
関ヶ原の合戦の後、9月24日、大阪表に徳川秀忠が大名16名を引き連れ現れ、大阪に着陣するや、
すぐに大阪城へ使いを立てた

『今回の戦乱中、伏見城にて討ち死にを遂げた鳥居元忠、松平家忠、同五左衛門三名の首を
当地に取り寄せ実検を行ったとある上は、この一乱、秀頼公の企てであるのは紛れも無い事であり、
これより攻め滅ぼさせていただく。』

この口上に大阪城中は驚愕し、秀頼の母である淀殿はこれを請けて申した

『秀頼は未だ幼年であり、一乱を企てることは申すに及ばず、首実検の事も毛利輝元、その他奉行たちの
仕業であり、秀頼の存ずる義ではない』

そう一々に詫言したため、秀忠は京へ戻った。
そこで徳川家康がこの事を聞き、
「秀頼公については赦免し、今後は御蔵70万石ほど宛行うように。」
と仰せになった。

その発言までは諸家も旗を張り立て一戦の支度をしていたが、秀頼安堵の情報が伝わると、諸手ともに
旗を治め休息した。

(駿河土産)

これはおそらく史実ではないのでしょうけど、ここでも対豊臣強硬派が秀忠で、穏健派が家康なんですね。



19 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/09(木) 06:29:43.59 ID:3X1txoR3
若いのが積極で老人が慎重なのは今昔いつも同じ

私が道悪しき場所で馬より降りるのは

2018年08月08日 19:50

124 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/08(水) 16:17:44.39 ID:xiowr2gD
権現様(徳川家康)ご若年の頃より、少しでも馬が歩きずらそうな場所では馬より降りて
歩いていった。或る時、近習衆へこの事について仰られた。

「私が道悪しき場所で馬より降りるのは、大坪流極意の一伝であるぞ。
まあ総じて、少し危ういと思うような場所では馬には乗らぬものだ。

もしその身が大身で、乗り換えの馬も引かせているのならともかく、今一頭の馬を乗り歩いている
小身侍などは、ずいぶん馬の脚をかばうべきだ。馬に乗れば乗ることばかりを心得、少しも
これを労る心が無く、その足を損じさせて、「ここは馬に乗らなければならない」という場所で
乗れぬようになってしまえば、それは散々のことだ。よく心得ておくべきだ。」

(駿河土産)



136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/09(木) 10:36:35.06 ID:kMUPg0E8
卜伝が暴れ馬を避けて歩いた話と同じく
高度な技術に頼って無意味なリスクを冒すのは
メリットがないからやめろという教え

137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/09(木) 20:18:15.99 ID:rg+LDHpQ
まあ頼朝も落馬で死んじゃったし、危なそうなら降りろってのは正論よね

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/09(木) 22:00:52.70 ID:+U0HYjuh
頼朝って悪路で落馬したの?

139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/09(木) 23:12:53.35 ID:vPCYguTQ
そうすると鬼武蔵の百段ってマジ名馬だな

140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/09(木) 23:24:43.18 ID:Nm+WJLR1
龐統「殿の名馬を借りるンゴw」

141 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/10(金) 00:07:21.92 ID:uv7tQI/c
騎馬民族の最高峰と言えるチンギス・ハーンですら落馬の話あるし、本当に危ない

伊達ノ士濱田治部ノ忠勇

2018年08月05日 18:06

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/04(土) 21:46:26.95 ID:c/zRkiu+
伊達ノ士濱田治部ノ忠勇

伊達政宗は能士を持たれた人である。浜田治部は武功ある者であった。政宗が会津表へ出陣なさった時、
家康公より御使者をもって「早く会津表を引き払い、岩手沢へ帰陣されよ」と御指示があったので、

政宗は家老の片倉備中(景綱)を呼び、「白石城を攻め落としていながら捨て退くのもいかがなものか。
かといって城代を残し置くのも危うい。どうしたものか」と仰せになった。

これに片倉が「近ごろ、白石城に置かれている浜田治部を召して城代を仰せつけると良いでしょう」と
申したことにより、政宗が「浜田を呼び出して言い渡せ」と仰せになったので、片倉は畏まって治部に

言い渡され「白石城において貴辺の武功が優れていることにより、かの城に留め置かれることになった。
此度、内府公の御下知により岩手沢へ御引き取りなさるようにと議定された。これによって白石城を

捨て置くのも口惜しき御事なれば某に守らせるべきかといえども、諸事を御相談のうえで某は召し置かれ
がたいとの仰せである。そこで、御辺をかの城に留め置かれるとの御内談である。望み申す輩も多き中で
御辺がこの城に留まることは武士の本意であろう」

と片倉は浜田に申された。この時、政宗も「近頃の無理な所望ではあるが、他に残し置くべき者もいない
ので其の方が白石の城番を勤めてくれよ」と申された。治部はこれを承るも、「人多き中で若輩の某を

召しなさり、敵地に残し置かれるとは冥加に叶ったことではございますが、もとより不肖の某ですから
どうか功者を残しなさって、某はその指図を受けて城を守り申したく存じます」と言った。

しかし、政宗も片倉も同音に「ただ其の方一人しか留まるべき者はいない」とのことだったので、治部は

「このうえは仰せに任せます。敵がもし攻め掛かってきたなら突き出て討死するか腹を切るまでのこと。
何よりも易きことでございます。このどちらも苦しからぬことですから畏まり申した」と、申し上げた。

政宗は聞きも終わらぬうちに「突き出るのは謀のないようなものだ。堅固に城を持ち抱えて叶わなければ
腹を切ってくれよ。三日籠城してくれれば私が後詰する。愛宕八幡も照覧あれ、見殺しはしない」

と仰せになった。治部はまた返答申して、「某を救うために御出馬されれば内府と御誓約を違えましょう。
ただ御捨て殺しくださるとのことならば御受け申し上げます」と言った。

これに片倉備中が聞きも終わらぬうちに、「そちはそち、殿は殿の勤めをなさることだ」(そちはそち、
殿は殿の勤め有べし)と言うと、浜田は了承して退出したということである。

――『日本戦史 関原役補伝(校合雑記)』


布橋由来

2018年08月02日 13:10

3 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/02(木) 12:40:05.67 ID:s61QDbDi
前に銭取の地名の由来を書いたけど、布橋は書いたっけかな?

三方ヶ原で大敗した徳川軍
何としても一矢報いたいと ある計略を持って武田軍に夜襲を掛ける
大勝利に絶賛油断中の武田軍は後方よりの突然の奇襲に蜂の巣を突いた様な
恐慌状態に
「奇襲じゃ!」「逃げろ逃げろ!」「あそこに橋があるぞ!」「渡って逃げろ!」
「!! うわーー!!」
唯一残る逃げ道に兵達は殺到、しかしこんなところに橋なんてあったか?
そう武田軍に仕掛けた計略はこの橋
実は夜襲の前に谷に布を渡し橋のように見せかけていたのだ
殺到する人馬の勢いは止められず崖の下にはおびただしい数の兵士や
馬の死骸が山の様に積み重なっていたという

局地戦で見事意趣返しに成功した徳川家
しかしその後この崖から夜な夜なうめき声の様なものが聞こえ続け
数年後に慰霊の大念仏を家康が執り行うまで地域の住民を苦しめ続けたという




5 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/03(金) 14:59:15.81 ID:EaDFqGME
>>3
こんなデタラメな言い伝えを残したくなるぐらいに、完膚なきまでに負けたってことなんだろうなぁ…

6 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/03(金) 15:20:42.89 ID:BjQSFajr
本当の伝承は負けて逃げる途中にあった崖に家康が褌を掛ければたちまち布が石になって徳川軍は逃げることができ
追ってきた武田軍が渡る頃には石が元の布に戻り武田の徒士が転落したというもの
地元じゃこの説が有力

7 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/03(金) 15:36:46.83 ID:EaDFqGME
>>6
どっちにしたってあり得ん話やん…

10 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/03(金) 19:10:51.28 ID:8Tj6olph
>>3
まとめの10964
此の度の戦いにうたれし三河武者、末が末までも


で後世の伝承以外が出てた

12 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/04(土) 09:55:46.27 ID:WSX/lJ7W
流石に脳内地元民ではないのかそれ

小出吉政ノ内通

2018年07月19日 17:56

935 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/19(木) 16:28:39.69 ID:byt+X2Jt
小出吉政ノ内通

7月26日(1600年)、忠興君は(細川忠興)“ふき”という宿に御泊りになった。
同27に上蓑<一本ニ上美濃>の方へ赴きなさったところ、向こうから来た者が下馬した。

「誰の御衆で候か。乗り通られよ」と御使者を遣わされたところ、「小出大和守吉政より
家康公へ使者に下り申した。その途上にて(忠興に)御目にかかって次第を申し上げよと

吉政が申し付けました」とその者は申した。「もしや敵方の者が関東の様子を窺おうとの
術ではないか」と忠興君は思し召し、玄蕃殿(細川興元)は吉政と常に睦まじい間柄で

あったので御見知りであろうとして、その旨を仰せ渡された。興元主は在家に入ってその
者と対面なさると、かねてより御存じの者であった。さてその口上は、

「今回心ならず丹後の攻衆に加わり申した。御城中への御用がありましたら大和守の手へ
人を御遣しください。通路を用意仕ります。また大坂の御屋敷は7月17日戌の刻ほどに

火にかかり、御簾中(細川ガラシャ)は御自害されました。忠隆公(細川忠隆)の御奥様
は乗物三挺でこちらの御屋敷の前を御通りになり、前田肥前守殿(利長)の屋敷へ御入り

になったのを見申した」とのことだった。これに玄蕃殿を始め御前様(忠興)は御義心を
感じ、各々落涙された。忠興君もいっそう石田(三成)の無道を御怒りになり、

「すぐにも三成を滅ぼして復讐を果たす!」と、ますます恨み深く思し召されたのである。

――『日本戦史 関原役補伝(細川家記)』


水野勝成さん、水野家出奔から蟹江城攻めまで

2018年07月05日 12:48

907 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/05(木) 09:38:54.04 ID:OR8ekP7n
父・惣兵衛(水野忠重)の家臣である富永半兵衛と申す者が、私のことを惣兵衛に告げ口し
その仲を散々にさせたため、あまりにも迷惑し無念に思い、牢人するのならこの者を斬ってから
牢人しようと心に決め、伊勢の桑名で手討ちにした。

それから私は牢人したのだが、伊勢長島に常真公(織田信雄)が居られたので、伺候して「奉公をしたい」
と申し上げたものの、これを知った惣兵衛より「倅を召し出すのなら、我々は味方をやめ在所に引く!」と
殊の外強く構いをしたため、(当時、小牧長久手の戦いが起こっていた)奉公することは出来なかった。

それから私は小牧山に参った。権現様(徳川家康)へ本多佐渡殿、高木筑後を通して『前々のごとく
召されますよう』と申し上げたが、常真の時と同じように、これを知った惣兵衛が構いを申し上げたため
これも成らなかった。

この時権現様は「そのうちに惣兵衛を説得しよう。それまでは私が存ぜぬ体にて隠れて居るように。」
そう仰られたため、小牧に居るわけにもならず、清須の須賀口の寺に滞在した。

その頃太閤様(羽柴秀吉)は美濃口に出陣という沙汰にて、惣兵衛と丹羽勘助は美濃口のだきという所へ
遣わされた。その時、前田の城主である前田与十郎が常真公を裏切り、滝川一益を蟹江城に引き入れた。
このため惣兵衛、丹羽勘助も急遽こちらに向かい、私も駆けつけた。
6月17日、滝川の子である滝川三九郎が東の大手より出撃した所を、横合いから突撃し、黒母衣で
金の半月の指物の者(その名失念いたし候)と鑓を合わせ、三鑓突いたが、すばやく門内に引き返し
門を閉めたため、討つこと出来なかった。その時私も二ヶ所鑓によって負傷した。

その後、権現様が前田の城の傍に作った堤に馬を立て休憩されていたところに伺候し、先の私の戦いを
詳しく申し上げた所「今に始まらぬ手柄である」と御感なされた。この時、傍に朝比奈左近も居たので、
その様子は左近が詳しく知っている。

(水野日向守覺書)

水野勝成さん、水野家出奔から蟹江城攻めまで


908 名前:sage[] 投稿日:2018/07/05(木) 17:50:05.82 ID:/LwZ2lnk
父親大激怒。

911 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/07(土) 16:33:36.73 ID:i9a9NQi9
どうも、最近の勝成研究では、富永半兵衛は佞臣だった、ということになっているらしい
https://blogs.yahoo.co.jp/tachanace/40076741.html

912 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/09(月) 14:06:32.67 ID:0EAhNFSl
佞臣という言葉がすでに新しくないというかなんというか

鷹に鶴を取らせる心

2018年07月04日 22:41

53 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/04(水) 21:45:13.29 ID:chNAFmln
本多佐渡守(正信)の一族に、本多加信という人が居た。

彼の物語に、ある時権現様(徳川家康)の御前に、あん信という唐人が招かれ、家康はこの唐人に、
唐船の事を詳しく尋ねた。そしてその後、このように言われた

「日本船が唐船と戦うときは、鷹に鶴を取らせる心が無ければ勝利することは出来ない。
例えば、千町の田地に鶴が多く有る時、これを取るために逸物の鷹を千羽求めても、鷹師が下手なら
鶴を取ることなど出来ない。

鷹師が上手ならば、予てからそのための訓練を行い、また当日の天気と風と距離を考え、息を合わせ
調子を合する時は、たとえ一羽であっても鶴を取ること疑いない。
進物の鷹が、どれほど心剛だとしても、その鷹の資質だけでは鶴を取ることは出来ないのだ。

唐船と日本船は、この鶴と鷹のようなものだ。日本船がどれだけ心剛だとしても、それだけでは
彼に勝つことは難しい。将が予てからその戦いを想定していることが必要なのだ。

(松永道齋聞書)

唐船に限らず、合戦すべてに必要な心構えでもあるのでしょうね。



54 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/04(水) 22:20:04.42 ID:jbqGHTD4
まあ、基本的には日本船の性能が劣るからなあ。

57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/05(木) 20:32:30.54 ID:Pi+ZurNJ
>>53
三浦按針ではなかろうか

合戦というものは結局、気負い次第

2018年07月01日 21:07

42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/01(日) 00:49:51.09 ID:QOgqRimO
大阪の陣の時、権現様(徳川家康)はこのように仰った
「何度やっても本当に理解できるものではないが、しかし合戦というものは結局、気負い次第なのだ。
今回ならば、秀頼と組み合い、最後に上になった者が勝つということだ。」

これ以外に、大阪の陣に置いて軍法に関する仰せ出は無かったという。

(諸士軍談)



43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/01(日) 13:56:04.98 ID:xUOsaneP
最後は気合い。

大坂御陣中御支度の事

2018年07月01日 21:07

44 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/01(日) 20:13:07.83 ID:xUOsaneP
大坂御陣中御支度の事

 大坂冬の陣では、諸大名の軍勢に兵糧を給与した。およそ三十万人、一日に千五百石。
遠国の兵には倍を支給した。夏の陣では、家康は、松下浄慶を呼び出し、大坂の賄支度は、
膳米五升、干鯛一枚、味噌、鰹節、香物、少しばかりを用意せよ。それ以上はいらないと
仰せられた。そのため台所用品は、長持一棹のみで事足りたという。

(常山紀談)

 家康ネタを重ねる。
 夏の陣は数日で済むと、最初から見通していたわけか。京都が出撃拠点だから、そのく
らいで充分事足りたのかな。一日一升食べても、5日分。

 おかずが足りないような気がするけど。具なし味噌汁と干鯛一かけら、漬物で山ほどの
飯を食う。天下人として、ものすごい質素だな。それとも、おかずが誰かが献上するのだ
ろうか。



45 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/01(日) 22:01:36.50 ID:ub6eO5wf
鰹節って江戸時代に入ってからだよね?
少なくとも大坂の陣の頃はポピュラーな食べ物じゃない筈

46 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/01(日) 23:03:38.98 ID:syCr0qO5
>>45
花鰹なら15世紀末の包丁書に出てきてる
それのことじゃないのかな
でなければようやく製法が編み出されたいまの鰹節に近いもの

吹かねど花は散るものを

2018年06月20日 20:56

871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/20(水) 08:14:50.40 ID:snSb52k0
石田治部少輔三成は、昔の梶原平三景時を越えた讒臣であった。彼はある時、太閤秀吉に密かに申し上げた
「現在は、御世長久に治まり四海の内に旗を立てる(反乱を起こす)者は一人も居りません。
さりながら、会津宰相(蒲生氏郷)は、謀も優れ、良き侍をも数多持っており、先年九戸一乱のみぎり、
私は現地に下って彼の計略を見たのですが、彼の軍勢の人数、そして実施されている法度の数々には
目を驚かされました。

あのような良将を愛して置いては、虎を養えば必ず踵を返すとも言います。」

秀吉も常々、氏郷を訝しく思っていたため、彼を失わせるための談合評定を行わせた。
その頃、天下一の大名で、殊に武道に優れていたのは江戸大納言(徳川)家康であったが、家康は謀に達していた
故に、秀吉の前では作って凡人を装っていた。

しかし氏郷は錐が袋に収まらぬ風情にて、言葉のはしにも人に指をさされまいと心がけていたため、秀吉が
警戒したのも仕方がないのだが、かといって忠功第一の人であるのでどうにも手出しできなかったため
「人知れず毒飼いをせよ」
という結論に至り、ある時、氏郷に毒を盛った。

この毒が祟ったのだろうか、朝鮮征伐の頃、下血を病み、さらにその頃から気色常ならず、面色は黄色くなり、
頬の肉が痩せ、目の下もすこし浮腫した。
秋頃、法眼正純を召して養生薬を用いたが、その後も腫腫やや甚だしく、名護屋にて宗叔の薬が合うのでは
ないかと言われ、彼を召してその薬を用いいたが、その験無かった。

この年の12月朔日、太閤秀吉は何を思ったか江戸大納言(家康)、加賀中納言(前田利家)に、
「諸医者を集め氏郷の脈を見せよ」と命じた。
両人承って、竹田半井道三以下の名医を集め脈を見せた。彼らは皆「重体です」と答えた。
明けて文禄4年正月まで、宗叔の薬を服用していたが、氏郷の気力は次第に衰え、それより道三の薬を
用いた。しかしながら回復はもはや叶わず、同2月7日、生年40歳で、京都にて朝の露と消えたのである。
この時の辞世の句はこのようなものであった

「限りあれば 吹かねど花は散るものを 心短き春の山風」

未だ勇々しき年歳を一期と見捨てられたこと哀れなる事どもである。近習外様の老若男女、賤男賤女に至るまで
泣き悲しんだが、もはや詮無きことであった。その後葬礼が美々しく取り繕われ、紫野大徳寺の和尚を請して
一時の烟となった。その戒名は『昌林院殿前参議従三位高岩忠公大禅定門神祇』と号された。

(氏鄕記)

有名な蒲生氏郷毒殺説のお話



872 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/20(水) 08:58:13.97 ID:KwLVBxqB
氏郷記って、政宗が毒を持ったという話もあるし、毒が大好きなんだな。

873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/20(水) 11:09:28.61 ID:88yyrNxx
病気で早世したというよりは、有能さを恐れられて毒殺のほうがカッコイイということか。

874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/20(水) 11:10:19.19 ID:9mDsavLx
肝硬変の症状だな

875 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/20(水) 11:20:23.02 ID:aKAhGxdn
肝硬変、肝臓がん、直腸がんなどの説があるねい。
んで、症状や闘病期間から毒殺はまずありえないというのが定説。

876 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/20(水) 14:29:44.68 ID:v/cke0Ys
氏郷の病状は医学天正記にも書いてたな
確かまとめにもあったような…

我が孫に似合いたる申し付け様なり

2018年05月25日 20:08

950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/25(金) 14:41:32.99 ID:xEuNUbXd
我が孫に似合いたる申し付け様なり


尼崎城は池田家の縁者で幼少の建部三十郎(政長)が城主だったため
慶長19年5月21日、家康は池田利隆の家臣池田重利を摂津尼崎代官とした。

10月27日、家康は池田利隆を呼んで
「尼崎は西国往来の要路で兵糧運送の喉である。これを大坂に取らせては
 ならないので、早く播州に帰り多くの士卒を尼崎城に入れて守るように」
と指示したので、利隆は家臣の田宮対馬(長勝)*らを送っていた。

ところが大坂の陣が始まると、尼崎城では進軍用の小舟を借りにきた
片桐且元を疑い取り合わなかったので、城の周りの片桐の兵が大野修理亮に
多数討ち取られて、茨木城に帰っていく事態となった。

大いに怒った片桐は使者を板倉伊賀守に送り、板倉が関東に伝えると
大君(家康)も大いにお怒りになり
「武蔵守(利隆)の者共が尼崎にありながら
 どうして片桐の兵を見殺しにしたのか糺明せよ」
と板倉に仰せ付けた。

板倉が西宮に陣取っていた利隆公のところに来てそのことを申したので
利隆公も大いに驚いて
「私はそのことを知りませんでした。尼崎の者共に訳を聞きます」
と言って尼崎に使者をやり穿鑿させた。

尼崎の者共が"そもそも片桐を助けたくても無勢なので助けられなかった"と
返答しようとしたので、田宮が進み出て
「その返答はよくない。ここは要路なので多勢をもって固めるようにとの
 直接の上意だったのに、城中が無勢だったとは申すべきではないだろう。
 それがしが申し分を考えよう」
と言ったので、使者には田宮が考えた以下の申し分を返答した。

片桐の兵が討たれているとき、尼崎城中では助けようとしたが田宮対馬と
申す者が出てきて"お助け無用"と止めてきた。田宮に理由を聞くと
「城をよく固めよとの上意で武蔵守殿が我々を配置したのだし、尼崎は
 海陸に道があるので一方より誘き出され、搦手の納戸のような所から
 攻め落とされたらひとたまりもない。天下の大事に比べれば片桐の者共を
 助けないことは落ち度ではない。この西国咽頭の要害を敵に取られる方が
 主君の弓矢の落ち度になり、天下の大事になってしまうのだ。」

「迂闊に城を出て、敵に足元を掬われたらどうする。ここの難波口木津表で
 中入りによって原田備中(塙直政)は討死し、それで信長公は災難に遭われた。
 勝入公が長久手で敗軍したのも、中入りの手立てが不調に終わったからだ。
 一人も助けに出てはいけない。大体片桐の兵のようではあるが、万が一つ
 我々を誘き寄せる為の大坂の偽兵かもしれないのだぞ」
と田宮が申したので、城兵で相談して片桐勢をわざと見殺しにしました。

使者からこの返答を聞いた利隆公は、この趣を一書にしたためて板倉方に渡した。
大君がこの一書を御覧になって
「輝政は日頃矢に念を入れていたから、下の者もその風を忘れずにいたのだな。
 今度の仕方は、我が孫に似合いたる申し付け様なり。
 尼崎城外で何があろうと出合いはせずよく城を守るように」
と仰せになり事が済んだという。


――『池田氏家譜集成』

* 池田利隆の家臣。のちに家康の命により徳川頼宣の家臣として800石で仕える。
 居合を主とした剣術「田宮流」の2代目とされる。



951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/25(金) 18:29:45.98 ID:4ko1/ESr
抜刀田宮か
修羅の刻で見たような記憶が

952 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/25(金) 20:21:58.17 ID:Lm1qhWqo
充分に兵力を入れていなかったのを、いい抜けた話か。

953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/25(金) 23:54:44.12 ID:cMVWVWaf
片桐の兵共々鉄砲で追い払えば良かったのに

954 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/26(土) 18:48:06.81 ID:HOWgnCDb
そんなことできるのは伊達さんだけ

山中行軍での用心

2018年05月17日 17:55

902 名前:人間七七四年[mage] 投稿日:2018/05/17(木) 14:36:46.05 ID:K//rCD5n
山中行軍での用心

ある時、家康公が山中を行軍されていた際、鐙に足をかけない者たちをお見かけになった。
家康公は丹沢久助を呼んで訳をお尋ねになった。
丹沢は「馬が暴れたとき、ころりと落馬すれば人も馬も大して手負いしないものです。
しかし、馬にしがみつけば人は引きずられ、或いは踏みつけられ、馬はますます狂乱して手がつけられなくなります。
ましてこのような山道では小勢(の攻撃)でも(そのようなことになりやすく、そうなれば)お味方に与える損害は大きなものになります。
そのため鐙に足をかけさせないのです」と答えた。
家康公は「これこそ用心というべきものだ」とお褒めになり、
「鐙用いぬ者の落馬を笑ってはならない」とおっしゃった。



907 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/17(木) 22:17:46.33 ID:mMO4sL5q
>>902
とても良い話だ
俺も馬乗り始めた時、鎧なしで乗せられて内股が筋肉痛になって歩けなくなったが
そんな事を戦国時代にやってるとは思わんかった
目から鱗だわ

909 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/18(金) 08:25:07.72 ID:w7pC9Y0m
>>907
なんのために鐙なしだったの?
転んだとき引きずられるから?

910 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/18(金) 09:22:32.94 ID:XgdJGW5s
踏ん張らずに素直に落ちろってことだろ

911 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/18(金) 10:39:18.36 ID:OhIEcNTF
馬は太腿で挟んで乗るもの、鐙や鞍はあくまでも補助。とか言われて座布団だけ乗っけた馬に乗せられてたな

912 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/18(金) 17:49:39.47 ID:tk8eyJAB
清水某「両足でギュッとしめたら愛馬が死んじゃったでござる」

913 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/18(金) 20:11:27.40 ID:g/ZshpEs
>>909
人馬一体になるためっていきなり鐙は使うなと言われて手綱は持たず両手は水平に伸ばして
内股だけで馬にしがみつくような感じ
鞍だけはつけてくれたw
一日中(10時間位)乗って降りてから駅まで帰る時に普通に歩けなかった

914 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/18(金) 20:34:33.85 ID:KnvGSCC7
>>913
バイクでいうニーグリップだけでバランスを取る感じ?

918 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/19(土) 04:00:31.20 ID:49RyciQl
>>914
ニーグリップってのが分からないが
馬の腹を内股で挟んで上半身は腹を凹ませ胸をこれ以上無理って所まで張って保持
馬の動きに合わせてセックルの女性上位みたいな感じでずっと動くのだけど
その時も又力のみで上半身は張り詰めまくってしがみつく感じ
上半身のバランスを崩したら多分振り落とされる
馬に乗ると姿勢が良くなるってのはおそらくここら辺から来てるのだと思う
ちな、鬼籍に入ったけど母は北海道の出身で裸馬平気な人で鞍も手綱も不必要な人だった
鞍を付けたらもう既に人馬一体な感じで
往年は大井競馬場に犬の散歩がてら行って非開催日に犬も上げて馬に乗ってたw
長文すまん、いつも誰かが載っけた話に勝手に評価してみんなに迷惑かけて済まぬと思ってる
あまりにも良い話に出会ってしまって興奮してしまった
水谷さん大名になってたら立花宗茂並にすげー人だったんだろうなと思いながら眠ります

929 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/19(土) 21:07:35.46 ID:3JuLBCgO
>>902
これは酷い怪我をしないように心がけているのが偉いんじゃなくて、不意の急襲の際に味方へ被害を与えないようにしている心がけが立派ってことなんだろうね。

ところで、家康はなぜ丹沢という人を呼んだんだろう?馬術がうまかったのかな?

930 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/19(土) 21:17:46.12 ID:prsFsTPU
久助は大事な喧嘩友達

938 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/21(月) 17:08:42.13 ID:BQWXmI/o
>>929
鐙使ってない侍が彼の家来だったんじゃない?
旗指物でわかるでしょ。

名も無き奉公人の話 ―鍬の槍―

2018年05月05日 18:01

869 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/05(土) 12:11:15.02 ID:JYFcNoJe
名も無き奉公人の話で恐縮ですが、我が家に伝わる話を書かせて頂きます

我が祖先は三河の百姓でした
戦国時代にそこが敵から攻められたとき、殿様は負けてしまったようです
そして殿様は敵の大将に「私の命は差し上げるから百姓たちを殺したり略奪したりしないでくれ」と言って自害したそうです
敵の大将はおびえる百姓たちにその事を伝え、「お前たちは良い殿様を持った」と言って何もせずに去ってくれたそうです
殿様には息子がいて、逃れて父のあとを継ぎ家康に仕えたそうです

その後、その若殿が遠くの戦に行くと聞き、百姓の中の若者の一部が居ても立っていられずついていく事にしました
私の先祖もその中の一人でした
他の百姓はなんとか武具を調達してきましたが、我が先祖は貧しく武具など手に入らなかったので
鍬の先を研ぎ落して尖らせ、棒の先に結んで槍としたそうです

戦についていったものの所詮は経験の無い百姓の若者、功を立てるどころか仲間たちは次々に死に、我が先祖は生き残るのがやっとでした
不格好な槍もどきを持って何一つ役に立たなかった百姓ですから、ものすごく馬鹿にされて笑われたそうです
しかし若殿が「忠義は誰よりも優れている、その槍は天下の名槍にもひけをとらない」と褒めてくれ、家来にしてくれました
それだけでなく鍬の槍に立派な柄をつけてくれたそうです

その後も我が一族は殿の家に奉公し、武士の最下か奉公人の上くらいの立場で仕えていたそうです(一応江戸時代に苗字を使ってたので)
もちろん、鍬の槍は家宝として大切に伝えられてきましたが、残念なことに長崎で原爆に遭い失われてしまいました
実物を見たことのある曾祖母の話では「スコップみたいな形だった」そうです



870 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/05(土) 13:21:21.79 ID:pQyioftt
良い話だ、感動的だな
だが当時はまだ兵農分離が徹底した時期では無いし、三河は一向一揆も有った国だし百姓兵と言えど言うほど馬鹿にされる事も無かったのでは?

871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/05(土) 13:30:42.29 ID:dq7vQdLg
笑われたのは槍のほうだったんじゃないか

872 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/05(土) 13:48:19.53 ID:pQyioftt
>>871
>不格好な槍もどきを持って何一つ役に立たなかった百姓ですから、ものすごく馬鹿にされて笑われた

槍もだけど、何一つ役に立たなかった百姓だからとあるので両方だったのかなと

874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/05(土) 19:36:57.19 ID:o/J2l0tV
>>869
ちょっといい話45スレにおける勲功一番なり
その忠義の槍を写真で晒すことができれば永久欠番間違いなしじゃったのにのぉ

875 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/05(土) 20:04:13.69 ID:e9VeKDIs
>>869
血が今に伝わっているのだからもっと誇り持って良いでしょう
そんな家臣を持てた殿様は本気で嬉しかったんだろうね

876 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/05(土) 21:04:53.77 ID:TnR7p8TX
まあ平成の世まで家が続いただけでも超絶勝ち組だしな

877 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/05(土) 22:04:54.62 ID:Nfno1L1z
長崎に居たって事は維新後に移住してるのね

878 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/06(日) 10:17:32.19 ID:tjyTIMjC
>>869
若殿もせっかくなら本物の槍を下賜してくれりゃ良かったのに
ピエロ扱いだったのかもw

879 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/06(日) 10:49:42.16 ID:RJCmnk9u
それ余計に恥をかかせることにならないか?

そして明智光秀は本能寺を取り巻き

2018年04月20日 15:55

683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/19(木) 20:26:31.02 ID:A4D8S2I6
織田信長が甲州征伐から帰陣の後、徳川家康の上洛があり、これに対し、明智光秀
その御馳走が命ぜられた。

光秀は「忝なし」と承り、その接待のために珍物を調え、京堺の傘や木履(木靴)まで
買い占め、夥しく用意した。

ところが、俄に役目替えが命ぜられ、家康の馳走は他の者に仰せ付けられ、明智は
羽柴筑前守(秀吉)が安芸の毛利と対陣し難儀に及んでいるとの注進があったため、
「急ぎ加勢にまかり下るべし。横目に堀久太郎(秀政)を差し備える)と仰せ出された。

この時、明智は思った
「諏訪(の打擲事件より)このかた、御目見得も宜しからず。今度の御馳走の事も中途で
他人に仰せ付けられ外聞も然るべからず。」
そう腹立ちに思いつめ、用意した御馳走も調えものも一緒に、安土城下のどどが橋(百々橋)の
下にみな捨てた。ちなみにこの橋は「昼夜人が通うから」と、織田信長が名付けたものだという。

そして明智光秀は、秀吉への加勢に向かう人数にて本能寺を取り巻き火をかけたのである。

(祖父物語)

明智光秀大河決定記念(?)に



684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/19(木) 21:01:04.74 ID:FJu9jTQg
最後はパワハラで終わる大河なんて嫌だ

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/19(木) 21:55:37.04 ID:MP4IvDR6
大河で明智…どうせ信長がスゲー嫌な奴で光秀が聖人のようなキャラクタになるんだろうな
本能寺の変も義挙ってことになるんだろう

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/20(金) 02:15:42.06 ID:bbtGVHM5
オホホ、麻呂が来た意味分かるであろ? は最近使われなくなったな