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大坂との御誓詞の御取り替え

2019年07月20日 16:05

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/19(金) 19:24:59.07 ID:jR8ot1a1
大坂と御和睦が調った折に御誓詞の御取り替えがあり、大坂方より木村長門守(重成)と
郡主馬(宗保)が御血判拝領の御使者にやって来た。

その折に両人は御次の間におり、顔を出すまでで退いたそうで御威光に恐れたのだという。
こちらからは板倉内膳正(重昌)が遣わされた。

(原注:世上では両人が御前を憚らなかったと申すが、その折に村越茂助道半(吉勝。道
伴)が御前に詰めておられて見申されたという。木村は色白い大男で羽織袴だった。郡は
60歳程の小男で、黒羽二重の袖無し羽織を着用していたという)

――『石道夜話(石岡道是覚書)』



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直江も腰をかヽめ候迄の由

2019年07月19日 14:59

278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/18(木) 19:31:33.07 ID:wMVJRuAB
外桜田南通の石垣は上杉景勝に仰せ付けられ、権現様(徳川家康)も度々御見分ならせ
られて御指図遊ばされた。

上杉家の家老・直江山城(兼続)が罷り出て御挨拶申し上げれば、権現様は直に肩を御
押し遊ばされて、かれこれと仰せがあった。直江も腰を屈めるだけであったという。

(権現様直に肩を御押被遊彼是上意有之直江も腰をかヽめ候迄の由)

――『石道夜話(石岡道是覚書)』



立花宗茂と舞

2019年07月18日 13:46

92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/18(木) 01:57:19.10 ID:tnxIIaJa
一、正月3日の御謡初に、外様より立花ならびに有馬左衛門佐様などが先例によって今も御登城
  なさる。

  古左衛門佐様(有馬直純)の御話によると、権現様(徳川家康)が駿河に御在城の時、御先
  祖は乱舞を御好みであったので御能をなされた。その折に御相手として呼びなさり、度々登
  城されたという。

  この例によって(有馬家などの当主は)今も御登城なされるのだという。

一、立花飛騨守(宗茂)は大献院様(徳川家光)の御合口で御夜詰にも御登城されたという。

  ある時の御酒宴は長くなって各々順の舞が始まり、品々の芸を尽くして御興を催された。立
  花の順番になり、(家光が)何ぞ御肴に一曲と御所望されたところ、御次の間で支度をなさ
  り、羽織をかぶって尻を端折り(着物の端を折って帯に挟み)、扇を咥えて鷺舞(八坂信仰
  の伝統舞踊)を舞われて出なさったので、甚だ御機嫌であったという。

  久野左門殿(宗辰。御小姓となり一時期御勘気で阿部忠秋に預けられた)の御話である。
  
――『石道夜話(石岡道是覚書)』



94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/18(木) 10:36:52.65 ID:L637dIKf
>>92
ほい

京都・八坂神社にて津和野の鷺舞を奉納
https://www.youtube.com/watch?v=uwCH6lhQS2w


101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/20(土) 10:44:59.33 ID:cnhTDBxw
>>92
宗茂って本当に芸達者だったんすねぇ…

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/20(土) 12:59:56.13 ID:SUvmqEbQ
>>101
文武どころか芸事まで達者とは、ほんと完璧超人

田島の屋敷

2019年07月09日 18:29

235 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/09(火) 15:32:28.95 ID:xtfu1St6
大神君(徳川家康)は忍の近辺で御鷹野をなされた。その節、岩松万次郎殿(守純)は御先祖である
新田の御末葉で、御尋ねになったところ新田に幽居して郷民どもは尊敬し、助力仕っているとの由が
御聞に達した。

そこで御会い遊ばされる旨を仰せ出された。これにより(岩松が)忍に参られて御目見した時、岩松
は、当家は嫡流で大神君は御末葉(当流之嫡流大神君には御末葉)との由を以前から家自慢申されて
おり、御前でも同様で、「内府は結構な御巡り合わせです。目出度い(内府は結構之御仕合目出度)」
との由を仰せ上げられた。

これにより大神君も驚き思し召し、御物も仰せられず内に御入りになったという。その後「餓死せぬ
ように」と仰せ出されて、御代官所より20石ずつを進め来たるという。

忠秋公(阿部忠秋)が忍を御拝領の折、御代官中より申し継いだので此方様方(忠秋)より20石ず
つを岩松殿に進めなさり、その後、厳有院様(徳川家綱)の御代に忠秋公は仰せ上げられ、岩松は御
先祖様の御筋目なので御知行を下されるように御世話をなされた。

当時は万次郎殿(富純か)の御亡父(秀純か)の御代で、御知行の屋敷まで御拝領を仰せ出された。
御知行の場所も良き所を渡すように御代官所に仰せ渡しなさったので、此方様(岩松)は御家の御厚
恩と思し召したとの由で、御知行の所も百石御拝領したところ、3百俵程を納めたという。

屋敷も3万坪あって林の惣囲いだという。“田島の屋敷”と申す。

(原注:義貞公(新田義貞)の御居城は分かっているけれども、御当家(徳川家)御先祖の有親公・
親氏公の御居住の場所は分からないという。もしかすると、只今の万徳寺比丘尼の所に大木などがあ
り、景色は常ならぬ場所というが、「ひょっとして、ここでもあろうか」と岩松万次郎殿は仰せられ
たという)

――『石道夜話(石岡道是覚書)』



236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/09(火) 21:03:41.02 ID:g5uv+C8i
系図貸してって呼び出した時のお話か
岩松は足利義兼の庶長子の出であり且つ源姓畠山の祖でもあるからプライドは高いんだろうなあ

237 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/09(火) 23:28:48.29 ID:AaMMFxaz
岩松家を下克上し、守純にとっては親父の仇・由良氏を召抱えてて
そんなのが新田を仮冒して一門面して会いたいって言ってきたわけで……
皮肉の一つもいいたくなるでしょ

238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/10(水) 07:56:39.66 ID:EhSynLtZ
なるほど
そうでもなきゃ神君怒るよね

安国寺肩衝

2019年07月09日 13:25

233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/09(火) 00:25:24.04 ID:0PpH8yMY
三斎公(細川忠興)は、父幽斎より譲られた肩衝(茶入)を、心にかなわないと安国寺恵瓊へ一千貫で売られた。
その後、安国寺恵瓊が処刑された折、この肩衝は徳川家康公の元に献上された。

ところで安国寺恵瓊の処刑の原因と成った石田三成の乱(関ヶ原の戦い)の時、津田平左衛門(正しくは小平次、
秀政)が家康公に
「天下がお手に入ること必定でしょう、その仕置の際、多数の肩衝が献上されると思います。その中から
必ず拝領をいたしたく思います。」
と申し上げた所、家康公は非常に機嫌よく「そのこと、そのこと」と申された。

合戦後、予想した通りに1日だけで肩衝が16も献上された。この時津田にも新たに領地を与えるとの
上意であった所、「忝ない事ですが、青野ヶ原(関ヶ原)で申し上げましたように、御加増よりも
御茶入を拝領いたしたいのです。」と重ねて言上したため、「尤もである」と、この安国寺肩衝を拝領した。

その後これを三斎公が一万貫で買い取り、中山と銘をつけた。
(筆者注:この時忠興は安国寺肩衝を黙って懐に入れ持ち帰り、後で代銀を届けたという)

この肩衝を見た時、三斎公はこのように詠まれた

 年たけて また越ゆべしと思ひきや 命なりけり佐夜の中山

これは西行法師が関東での修行から帰る時に詠まれたもので、「下るときはまた越えねばならないとは
思っていなかったのだが、今越えることとなった。命が有ればこの佐夜鹿峠のような難所を越えるという
憂鬱な目にも逢うものだ。」という意味である。

この茶入は子息の越中守(忠利)に譲られましたが、後に越中守は金子1600枚で酒井宮内少輔(忠勝)に
売却されたという。

(三斎伝書)

関連
細川忠興と『有明の茶入』


まったく家康は只者ではない

2019年07月02日 17:36

60 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/02(火) 01:55:04.11 ID:epDKg5+D
ある時、長遠寺の所へもてなしに、馬場美濃守(信春)・内藤修理正(昌豊)・高坂弾正・山県三郎兵衛
(昌景)・原隼人佐(昌胤)・小山田弥三郎、その他各々大身衆が寄り合って1日の雑談があった。

その内、山県三郎兵衛は駿河江尻の城代なので、遠州浜松の家康の噂をよく聞いていて申された。「内藤
殿は関東・安房・佐竹・会津までのことを語りなされ。小山田殿は小田原の近所なので北条家のことを語
りなされ。高坂殿と馬場美濃殿は越後・越中までのことを語りなされよ」とあって、山県は申される。

「さて、家康は義元公討死より以降10年の間、内外の国持ちであるが、駿河の盛りの作法を幼くして見
聞きしたことであろう。信玄公の奉行衆が公事を裁く、その様子に少し似ているようだ。

何であっても公事の落着は目新しいことを聞かないが、それは昨今の家康が国持ちである故で、各々の感
心なさることはまだ10年過ぎてもないことだろう。あの若き家康が申し付けた3人の奉行は、三様の形
儀を言い付けられたと見えて、“仏かうりき・鬼作左・どちへんなしの天野三兵”と浜松で落書が立てられ
たと聞く。

さてまた、ひととせ私めどもが30歳ばかりの時分、信州更科の出家の公事で、武蔵殿と櫻井殿が若き時、
今井殿ばかりが家老で今福浄閑(友清)が中老であったが、4人は歳も形儀も異なっていたのを、奉行に
信玄公は仰せ付けられた。その様子に、これ程の家康が少しずつ似ているのは不思議である」

と山県三郎兵衛が語れば、馬場美濃・内藤・高坂各々は申されて「まったく家康は只者ではない」と言わ
れた。その中で馬場美濃が申されるには、(後略。>>52)

――『甲陽軍鑑(品第四十下 石水寺物語)』



信玄公御座なくば家康を信長ころし候はん

2019年06月30日 15:09

52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/30(日) 14:09:52.24 ID:sks/4Xkg
一、信玄公の御仕置で、諸々の境目の侍大将衆へ近国・他国の大将の行儀・作法・仕形を聞き出して、
  その次第・善悪ともに一書にして言上致せとのことに付き、ある年に遠州犬居の天野宮内右衛門と
  申す侍大将の所より進上仕った書き付けによると、

  「美濃岐阜の織田信長へ周り1尺の桃3つがなったのを枝折りに仕り、霜月中の10日に上げると、
  信長は差し引きの冴えた名大将で、表面は事を破っても内心では時によって一段と練ったことの多
  き武士でいらっしゃった。

  そのため、桃の大きさに心祝いして1つは信長が召し上がり、また1つは嫡子の城之助信忠へ参ら
  せられ、3つ目を遠州浜松の徳川家康公へ送りなさった。家康は『世の常ならずかたじけない』と
  の返事をなされ、その桃を隠して捨てて家康が食う給うことはなかった」

  この事を天野宮内右衛門は書き付けて上げた。一書の多い中でこれは左程の事ではないと存じてこ
  そ、末にいかにも粗相に書いてあるのを信玄公は御覧になった。その書き付けを御手に取りなさり、
  しばらく目を瞑りなさって後に御目を開いて宣うには、

  「家康は今年きっと30歳ばかりであろう。40歳に及ぶ殊に大身の信長に、五位も増して締まり
  所のある分別だ。

  流石に武士の心遣いなき者ならば、『歳相応に似合わぬ』とも申すだろうが、三河国を治めようと
  19歳から26歳まで8年の間に粉骨を尽くし、戦功の誉れ形の如くなれば海道一番の武士と申し
  ながら、日本国にもあまり多くはあるまい。

  丹波の赤井(直正)・江北の浅井備前守(長政)・四国の長宗我部(元親)・会津の盛氏(蘆名盛
  氏)、若手にはこの家康であろう。

  さて時過ぎたる(旬の過ぎた)この桃を捨てた分別は、出世を考えてこうしたのだ。その出世とは
  年明かば吉事なり。この意味は馬場美濃(信春)・内藤修理(昌豊)・高坂(弾正)はきっと合点
  仕るだろう」

  と宣ったのである。

一、(前略)その中で馬場美濃が申されるには、「家康の身の上について私めは見及んでいる事がある。
  美濃の命を今20年生きて、この考えが当たるか試したい。20年生きれば80に今少しだ。鉄の
  鎖で繋いでも成らぬことを願うている」と言って笑いなさった。

  高坂弾正は申して「家康の身の上を何と馬場殿は考え給うぞ」と問えば、美濃は申されて「流石の
  弾正殿ならば、私めより早く考えがあるだろうに」と言った。すると小山田弥三郎は手を合わせて、
  「御両所の考えを願わくば聞きたい」と頻りに所望した。

  高坂は申して「美濃殿の考えを承りたさに、私めが下座から申そう」と、弾正はすなわち言う。

  「家康は今信長と二世までの入魂により両方が加勢を助け合い、それ故2人は堅固なれども信長の
  敵は上方14ヶ国の間で、信長に国を取られないことを基本として、信長の国へ取り掛けようと存
  ずる武士は1人もなき故に、この如く次第に大身となった。家康はいつまでも三河一国と遠州の3
  分の1なので、ついには家康は信長の被官のようになって、後に祝言は致した(終には家康信長被
  官のやうになりて後祝言は申しつ)。

  信玄公が明日にも目を塞ぎなされば(明日にでも死ねば)信長は安堵して、(かつて)今こそ嫡子
  の城介殿と同じに思うと3つの桃を1つ(家康に)送ったけれども、強敵にして大敵の難しき信玄
  公がおられねば、家康を信長は殺すことだろう(強敵大敵の六ヶ敷信玄公御座なくば家康を信長こ
  ろし候はん)。

  それで大事ないのならば、家康の果報は少々の藪神とは考えなりかねよう」

  と高坂が言えば、馬場美濃は大誓文を立てて「私めもそれなり」と言う。内藤修理も同じく誓文し
  てその通りであった。

――『甲陽軍鑑(品第四十下 石水寺物語)』



53 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/30(日) 18:12:33.34 ID:jSCm0gOK
まあ家康の腹のうちは分かるとして
藪神ってなんだろ

54 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/30(日) 21:32:26.64 ID:lN9ljRxX
>>52
傷んだ桃食べたら命に関わるから食べなかっただけじゃないのん?
それは石田三成の逸話か

55 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/30(日) 21:53:44.71 ID:sSNhz914
柿じゃねぇんけ?

56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/30(日) 22:16:13.98 ID:jK95gmra
TERUから秀吉に贈った桃を旬じゃないからって送り返した逸話があった気がする

57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/30(日) 22:39:53.21 ID:SUOfy+Yz
甘いもの好きなノブが桃を貰って捨てるわけがない

58 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/01(月) 00:20:46.00 ID:fSFnRT/t
森忠政「桃で人死なねーだろJK」

信玄の最期

2019年06月18日 16:53

175 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/18(火) 16:18:05.19 ID:XHJKzrW+
元亀3年(1572)12月、信玄は遠州表へ働く。信長・家康はかねて一身となっていたので、尾州よ
り家康へ加勢があった。信玄は井の谷へ押したところを、家康衆が足軽を掛けて合戦を始めて攻め戦った
ところ、家康衆と尾州の加勢衆は敗軍した。これを遠州三方ヶ原の一戦という。

「掘田の郷へ敵をやり過ごして合戦すれば家康の勝ちであったろうに、家康衆を遣って合戦を仕掛けて負
けになった」との批判があった。

その明年正月11日、信玄は三河の野田の城を攻め落とそうとして不慮に鉄砲に当たり、この傷を色々と
養生したけれども叶わず、ついに逝去した。(後略。>>113

――『北条記』


天正元年(1573)正月7日に信玄公は遠州刑部を御立ちになった。(中略)その後、信玄公は御患い
が悪くいらっしゃり、2月16日に御馬を入れた。

家康家・信長家の誰人の沙汰か、信玄公が野田の城を攻めようとして、鉄砲に当たり死に給うと沙汰仕る。
皆虚言である。およそ武士の取り合いでは、弱き方より必ず嘘を申す。越後の輝虎との御取り合いでは、
敵味方ともに、嘘を申した沙汰はついになかった。

たとえ鉄砲に信玄公が御当たりであっても、それが弓箭の瑕(名折れ)になることはない。長尾謙信(上
杉謙信)は武州忍の城において堀の端に馬を立てておられたのを、城の内衆は輝虎と見て鉄砲を寄せて、
いかほど撃ってもついに当たらなかった。その鉄砲に謙信が当たれば、結果強き大将と誉めはすれども悪
くは申すまい。

すでに信玄公が信州川中島において謙信に勝ち給う時、謙信が名馬の放生月毛を乗り捨てられた。これを
長坂長閑(光堅)が取って乗り、「流石の謙信も馬を捨てられた」と長閑が申せば、信玄公は大いに怒り
なされ、「馬がくだびれたならば乗り換えても構わないことだ。そして乗り換えた時に合戦が負けとなれ
ば、中間どもは馬を捨てて逃げることだろうに、それを輝虎が弱いとは一段と無穿鑿な申しようだ!」と、
長坂長閑を悪しく仰せられたのは、3年目に聞こえたことである。

輝虎が川中島合戦の時、和田喜兵衛が一騎で供を仕って退いた。そうして越後へ到着して馬から降りると
同時に、喜兵衛を謙信が手討ちに致されたのを信玄公は聞こし召して、「さては謙信ほどの侍も後れてし
まっては、ちと取り慌てることもあるのだろう。武士は誉めるも謗るも、踏まえ所をもって沙汰するもの
である」と信玄公は仰せられたのである。

――『甲陽軍鑑』



177 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/19(水) 12:22:42.43 ID:Er11dkC4
>>175
たんに長閑を悪く言いたいだけ

逆に刀を抜きにくくするためではないか

2019年06月05日 18:06

976 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/06/05(水) 05:30:40.54 ID:A00DAIsm
伏見彦太夫

977 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/06/05(水) 05:36:08.37 ID:A00DAIsm
おっと、誤って途中送信
伏見彦太夫をggったらこんなのも出て来たわね。
小田原田宮流・居合道日誌
http://odawara-tamiya.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/post-f2c1.html


 太刀は刃を下にして佩き、刀は刃を上にして帯刀します。刃を上にして帯刀するのは抜き打ちしやすいからと、居合の稽古をはじめた当初先輩方から教わりました。
しかしです。稽古が進んでわかったのですが、柄に手をかけてから敵を打つまでの時間を考えたら、刃を下に帯刀しておいて逆袈裟に抜き打つほうが断然早い。
刃を上に帯刀するようになったのは抜き打ちしやすいからではなく別の理由があったのではないか、と小子は考えたのです。
大阪歴史博物館所蔵の「関ヶ原合戦図屏風」(通称津軽屏風)を見ますと、徳川家康をはじめ足軽にいたるまで全員が具足の腹帯に刃を下にして刀を差しています。
大事な戦ですから抜きにくく刀を差すわけがない。
この屏風からわかるのは戦国武士は刃が下のほうが抜きやすいと考えていたということ。ということは刃を上にして差すのは、居合の先輩方の言うこととは逆に刀を抜きにくくするためではないかと疑ったのです。
家康の配下に伏見彦太夫という武将がいました。
彼は三尺五寸の大太刀を佩いていまして、接近戦では刀身の長いほうが戦闘に有利と家康に説明していました。松平甚兵衛信直がこれをまねて大太刀を佩くと、家康は、家柄すぐれた者が軽薄な挙動をしてはならぬ。
今日の身なりは馬の口取りか槍持ちにしか見えない。どうみても大将には見えない。大将が進んで卑賤の者の身なりを真似るとはなにごとかときびしく叱った、という話があります。(以下略)

むしろこれは悪い話かな?

参照
薙ぐのではなく突くのが良い


978 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/05(水) 12:47:58.75 ID:6wmhzr00
そりゃ抜きやすい差し方してたら「こいつ抜き打ちしようとしてんのか?」って思われるからなw
収めてる状態は抜かれてる状態とは明確に違っていなければならんのだよ

979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/05(水) 13:50:13.01 ID:o/rFtl08
吊り下げ式だとあちこちに当たって屋内での生活が不便だから刃を上にするようになったと聞いた

980 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/06/05(水) 13:58:13.14 ID:P9pXNNwO
>>978
>>977の略された後に書いてあるけど、ある意味平和になった時代の新たなエチケットみたいなものかねぇ。

981 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/05(水) 14:06:02.93 ID:6wmhzr00
しょっちゅう斬り合いが起こる世の中の方がそういう事は大事だと思うが

982 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/06/05(水) 14:26:16.20 ID:P9pXNNwO
>>981
家康の元和偃武以前も当然、色々有ったとは思うけど、明文化であったり厳格化していくのは徳川幕府開府以後じゃないかな?
信長が配下に茶の湯を推奨したのも礼法やマナー、コミニュケーションを学ばせる為とか聞き齧った覚えあるけど、中には実際に発狂して上司に斬りかかる例(堀秀政の部下)とかあるし…

985 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/06(木) 11:09:12.75 ID:d8YutnuM
>>979
鞘が割れて足を切る恐れがあるので上にすると聞いたなあ

986 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/06(木) 23:48:22.34 ID:Z73LzRSh
関ヶ原合戦図屏風では見栄えをよくするために当時は廃れてた大鎧着させてて
大鎧の刀の履き方は刃先が下なのでそこだけ当世流にするのも変だから下にした的な美術的嘘の可能性も

987 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/07(金) 07:57:46.02 ID:Y37lKTnG
絵面を考えて盛るのは今も昔もなんやね

996 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/08(土) 10:33:52.10 ID:J0ioPPi1
刃を下にして差すのは甲冑を着た時の作法だゾ
鎧をつけたら腰のひねりが使えなくて、常寸の刀でも抜きにくくなるから
刃を下に差しておいて、上に抜き出すんだゾ

永井白元の健脚

2019年06月04日 17:02

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/04(火) 00:48:00.85 ID:iE7rsSRT
現在三千石で寄合である永井氏の先祖は、大監物、なを白元と言った。初め井伊氏に仕え、それより加藤氏に
仕え、後に御当家(徳川家)に召し出された人である。

この家譜によると、豊太閤(秀吉)在世の時、烈祖(家康)が大阪城に登られた折に、太閤より
「放鷹の時期であるから、下向在るべし」と云われ、未刻(午後2時ころ)ばかりに退出され、町の末より
深尾清十郎が献上した葦毛の馬に乗られたが、御早乗り故、供奉の輩続きかねた。そのような中でも白元と
岡部小次郎の両人だけは遅れず供奉して、伏見の邸に到着したのは酉刻(午後6時頃)過ぎであった。

また関白秀次謀反の時、家康が早駆けにて上洛した時も、この両人は代るがわる御腰物を持って、土山駅まで
供奉したが、小次郎は疲れたのか、この駅に泊まって翌日出立の時、御腰物は監物に持たすべしと命ぜられ、
未刻過ぎる頃伏見に御着きになった。

また忍、河越での御放鷹よりお帰りに成る時、志村台より本多上野介(正純)が献上した鹿毛の馬を召されて
いたが、これが殊の外早く供奉の者続かず、白元一人のみこれに続いて供奉した。そうして府の大橋に
至るあたりで慮外者が現れ、上(家康)に対して「走り競べせん!」と云うまま、御馬に続いて阿部伊予守の
邸の前まで来たところで、監物に対し「その者の腰刀を取り上げるべし」と仰せが在ると、白元は即座に
その腰物を奪い取って、かの物を追い退けたという。
その当時の君臣の健強たること想像るべきであろう。また大橋で現れた慮外者も奇男子である。
この頃の風儀もこの話からまた見ることが出来ると、林氏(林家八代林述斎か)が話されていた。

(甲子夜話)

現在神奈川県横浜市戸塚区にある永井監物陣屋でも有名な永井監物家の祖、永井白元についての逸話。



972 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/04(火) 01:35:14.72 ID:9dQMXq0w
>現在神奈川県横浜市戸塚区にある永井監物陣屋

ググったけど何の遺構も残ってないお

973 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/04(火) 08:53:57.32 ID:yjPfJm9C
要するに現代人(これが書かれた時の)とは比較にならんほど頑健ですということかな?

974 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/04(火) 10:15:04.34 ID:sp0CLkxm
前田慶次が走り競べしたんかな

975 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/04(火) 11:25:22.51 ID:reHBASnN
創作のイメージだと、慶次が腰のものを奪われて追い払われるところが想像できない

984 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/06(木) 00:23:33.62 ID:wGIK0Atm
>>971
>慮外者が現れ、上(家康)に対して「走り競べせん!」と云うまま、御馬に続いて

徒歩で馬と走り競べ?
上は食い逃げでもしたのかな

薙ぐのではなく突くのが良い

2019年06月03日 18:16

965 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/03(月) 16:00:54.42 ID:1XslYMgI
神祖(徳川家康)が遠州袋井縄手にて御鹿狩りの時、御徒士に伏見彦太夫という者があったが、彼は
三尺あまりの長刀を帯していた。これを見た家康が「その刀はどう使うのだ」と尋ねたところ、
彼は「敵の足を薙ぎ払います」と申し上げた。これに家康は「甲冑をしている敵にはそのようにしては
通じない。鑓にして使うべきだ」と仰せになったという。これは「薙ぐのではなく突くのが良い」という
事である。

(甲子夜話)

関連
逆に刀を抜きにくくするためではないか


966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/03(月) 19:11:33.23 ID:20dOUEtw
鹿を突くんですか

967 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/03(月) 19:20:04.31 ID:yPPZs8yN
突くんだったら羊がいいぞ by イギリス人水兵


969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/03(月) 20:54:47.48 ID:rLhGWBlT
御放鷹のおり伏見彦大夫某が三尺五寸の大太刀に、二尺三寸の差添を十文字にさし違ひ、山路を走廻ること平地のこどし。
君(家康)御覧じ、「汝が剛勇比類なし。その太刀抜いて見せよ」と宣ひしかば、
彦大夫直に抜放して二振三ふり打ふりしに、太刀風りんりんとしていとすさまじ。
仰に「汝は尺の延たる刀の利を知るか」とあれば、
「たゞのべかけて敵を一討に仕るばかりにて外に心得候はず」と申せば、
「いやとよ寸の延たる刀は、鎗にあてゝ用ひんが爲なり。向後わすれまじ」と教へ給ひし也。(感状記)

『徳川実紀』引く『諸家感状記』

これだと大太刀は鎗にするのではなく、対鎗用に使うものだと彦太夫に教えてるな
ランツクネヒトのツヴァイヘンダーみたいに槍の柄を切り折るのを想定してると思われる


970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/03(月) 23:19:39.51 ID:Q+e2+3Zc
>十文字にさし違ひ、

ここが図でみたいな

了的ただいま降り参り候

2019年06月02日 15:21

963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/02(日) 10:58:48.62 ID:fbrKsrrq
神祖(徳川家康)大坂御陣の時、江戸より観智国師(増上寺中興)の使いとして、了的という者が
差し向けられた。

了的が茶臼山の御陣所に至り、その旨を申し述べた所、御次から近かったのか、神祖ほのかにその声を
聞し召され、「対陣の時に了的とはいかがか(的と敵をかけている)」との御沙汰があった。
了的は御前へ走り出てこう言上した「了的ただいま降り参り候。」

これを聞いて神祖は笑われ「よくぞ早く降りた」と、御機嫌であったという。この了的は機活弁才、
人に優れた僧であったという。(増上寺伝説。南渓の寮主定竜話す)

(甲子夜話)



964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/02(日) 17:18:44.54 ID:BkTlaOA4
そりゃ坊主は口うまい

と、信玄公は仰せ渡されたのである

2019年05月17日 17:40

926 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/16(木) 18:22:20.14 ID:ZU05vU4M
百年以来、本当の合戦はさほどない。ただし両度の本当の合戦があるというのは永禄4年酉(1561)の
信州川中島合戦と遠州三方ヶ原合戦、この両度合戦である。

(中略)

しかしながら、(三方ヶ原の戦いは)武田衆ばかりの手柄にあらず。家康衆も信玄公の衆に劣らぬ手柄なり。
その子細は良く働いて勝負を仕り、足並み揃えて逃げないからである。

武田信玄は)「どのように剛の武士が『手柄を仕りたい』と申しても、見崩れで逃げる敵が相手ではこの
ような手柄にはなるまい」とありて、これに付けても家康を「日本で若手の弓取り」と定められ、信玄公が
仰せになられたことには、

「長尾謙信(上杉謙信)と家康の両人は弓取りである。

信長が近江箕作の城を攻め落としたのも家康被官どもの働き故。北近江姉川合戦も信長は3万5千の人数で
浅井備前守(長政)3千の人数に切り立てられ尽く負けたというのに、家康は5千の人数、浅井備前に加勢
した越前の朝倉衆は1万5千だったが、それを家康衆は姉川を押し渡り、無二に掛かって切り崩し、信長の
利運にさせたのは家康が弓矢を強く取る故である。

金ヶ崎発向(金ヶ崎の退き口)の時も浅井が心変わりしたのを聞いた信長は味方を捨て、岐阜へ早々に引き
入った。そのようなところで家康が若狭の敵を切りひしいで、押付を打たれないように致した(信長が追撃
されないようにした)のは家康25,6歳の時分であるが、その時からこのように仕ったのである」

と、信玄公は御先の侍大将衆に仰せ渡されたのである。件の如し。

――『甲陽軍鑑』



927 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/16(木) 20:09:45.63 ID:F9IKVgUD
どういう理屈だw

928 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/17(金) 17:43:16.02 ID:CnyBPqKP
野戦という、総大将が知恵を絞った陣形で勝負が決せられる戦さしか認めない!
という軍学脳かと思った

929 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/17(金) 19:41:33.27 ID:sfWLld3+
足並みがそろってないことをそろってることよりageてるの草

信玄公御時代諸大将之事

2019年05月12日 16:48

21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/11(土) 19:21:19.83 ID:HFu6A9lg
信玄公御時代諸大将之事

御歳増す次第の前に、まずこれを書く。もし反故落散して他国の人がこれを見て、我等の仏尊し(自分
の信じるものだけが尊い)と思われるように書いては、武士の道ではないのである。弓矢の儀はただ敵
味方ともに飾りなく有り様に申してこそ武道である。飾りは女人、あるいは商人の法なり。一事を飾れ
ば、万事の事実がすべて偽りとなるのだ。天鑑私なし。

一、永正12年乙亥の歳に平氏康公誕生。これは小田原の北条氏康のことなり。

一、大永元年辛巳歳、源信玄晴信公誕生。これは甲州武田信玄のことなり。本卦豊。

一、享禄3年庚寅歳、上杉謙信輝虎公誕生。これは越後長尾景虎のことなり。公方光源院義輝公より
  “輝”の字を下されて輝虎と号す。本卦履。

一、天文3年甲午歳、平信長公誕生。これは尾州織田上総守のことなり。本卦蠱。

一、天文7年戊戌歳、北条氏康公の御子氏政公誕生。(原注:一本に「此三人(氏政・氏真・義信)
  本卦の所きれて見えず」とある)

一、同年、今川義元公の御子氏真公誕生。

一、同年、武田信玄公の御子義信公誕生。

一、天文11年壬寅歳、徳川家康公誕生。これは三州松平蔵人公のことなり。本卦大壮。

一、天文15年丙午歳、武田勝頼公誕生。これは信玄四番目の御子、信州伊奈四郎の御事なり。信州
  諏訪頼茂(頼重)の跡目である故、武田相伝の“信”の字を避け給う。信玄公の御跡も15年の間、
  子息太郎竹王信勝が21歳までの陣代と称して仮のことであった故、武田の御旗はついに持たせ
  なさらず、ましてや信玄公尊崇の(原注:孫子)御幡も譲らせ給わず、もともと伊奈にいらした
  時の大文字の旗であった。ただし片時でも屋形の御名代であるからと、諏訪法性の御甲だけは許
  して差し上げなされたのである。

――『甲陽軍鑑』

「きれて見えず」は小幡景憲の筆記だと言われてますね



智者は闇主の為に謀らず

2019年05月10日 16:41

20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/10(金) 14:29:37.95 ID:cHJBuSGn
さて蔵人元康は義元公討死のその影響で、速やかに元康を改めて家康と名乗り給い、その年の暮れに
伯父の野州(水野信元)の仲裁をもって家康と信長の和睦の儀これあり。

「尾州に事が起これば家康公が信長へ加勢し、三州に事が起これば信長公が家康公へ加勢する」と、
互いに起請文を取り交わして、内々に無事を作り給う。

見合わせの儀を今川衆が「家康表裏」と申すことは、まったく不届きなことである。氏真公の政道が
良くおありならば、家康公の表裏でもあろう。氏真公が悪しき大将であるとしても、家康公が今川殿
に伝わる家老ならば、それこそ人が言うのももっともである。

家康公はもともと一城の主なり。時の験に任せて属している大名と申すものである。時の験によって
属している人は、万事を投げ打って時を見合わせ、自身の立身をもっぱらにするものなれば、家康公
は今川殿の家老ではない。ゆめゆめ、表裏であるべからず。

氏真公は御歳33までも月見花見遊山の善し悪しは御存知といえども、武道の直路いささかもおあり
にならず、無下に人を見知りなさらないので、家康公がこの屋形から御心を離されたことは、もっと
も道理に当たるのである。

三略にも『義者は不仁者の為に死せず、智者は闇主の為に謀らず』という。家康公も大方はこの理で
もあったのだろう。家康公は12歳の時に菖蒲切りの勝ち負けを見定め給う。志は今に至るまで誉れ
あって、三河一国と遠江半国の主となり給う。

また時の験に属した侍と譜代の区別を、長坂長閑老と跡部大炊助殿はよくよく御存知である。

――『甲陽軍鑑』



虎生まれて三日にして牛を食うの機あり

2019年05月08日 17:30

900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/08(水) 14:56:44.81 ID:K21g4YNp
徳川家康公12歳、竹千代殿と申し奉る時、中間の肩に御乗りになって五月菖蒲切り(端午の節句に
行うチャンバラごっこ)を見物に御出になられた。一方に人3百ばかり、もう一方には150程なり。

見物の人々はこれを見て「人の少ない方が必ず負ける」と、大勢の方へ立ち寄らない者はいなかった。
そのうちに、竹千代殿を肩に乗せ奉る中間も大勢の方へ立ち寄ろうとした。その時に竹千代殿が仰せ
られたことには、

「どうして我を皆人の行く方へ連れて行くのだ。今叩き合うならば必ず人の少ない方が勝つぞ。あれ
ほど少ない者どもが多勢を軽く思って出張っているのは、よくよく多勢の方を弱く思ったからだ。ま
たは両方が打ち合う時に、多勢で少ない方を助けようと思うこともあろう。いざ少ない方へ行って見
物せん!」

と宣った。御供の者どもは腹を立てて「知らぬことを宣うな!」と言い、無理に大勢の方に留まった。

すると案の如く、打ち合う時に少ない方の後ろから、大勢が駆け付けて新手を入れ替え相手を打てば、
初め大勢いた方は打ち負けて、散り散りに逃げ乱れた。見物の者も我先にと退きふためいた。竹千代
殿は見給いて「言わぬことか!」と宣い、肩に乗せ奉る中間の頭を御手で叩いて御笑いになられた。

『虎生まれて三日にして牛を食うの機あり(大人物は幼少から常人とは違う)』という。この竹千代
殿は今家康と名を呼ばれて“海道一の弓取り”なり。「命長くいらっしゃれば、これぞ後には天下の
主ともなられよう」と、心ある人は言い合ったのである。

――『甲陽軍鑑』

901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/08(水) 16:10:28.30 ID:+Am2AbT8
お供失礼だなぁ

902 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/05/08(水) 18:46:13.83 ID:g9xSGGcI
今川に媚びへつらってたから主君を蔑ろにする習慣が出来上がってたのかもな

903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/08(水) 23:00:28.25 ID:CCUV0RPK
>御供の者どもは腹を立てて「知らぬことを宣うな!」と言い、無理に大勢の方に留まった。

本多正純「してその者の名はなんと?」

【雑談】家康の甲斐侵攻について

2019年05月04日 14:57

965 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/05/03(金) 16:25:31.63 ID:TISqcbEJ
家康が織田政権の承認を得たのはあくまで織田家臣退去後の上野・信濃・甲斐を敵方に渡さないために軍勢を出して確保することだろ

河尻が健在の甲斐に侵攻する許可を得た訳ではないし河尻が政権中央の意向に反した行動を取ったわけでもない

966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/03(金) 16:39:13.93 ID:xjWKeatT
>>965
それを家康は織田政権から委任された以上、家康の指揮命令に従わなかったらそれは織田政権への謀反と
解釈されても仕方ないと思うぞ。

967 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/05/03(金) 16:57:24.06 ID:TISqcbEJ
>>966

もう一回整理してほしいんだが、織田政権は河尻・滝川・森・毛利などの織田家臣が退去したあと、敵方にその知行地の3か国(上野・甲斐・信濃)を渡さないために家康に軍勢派遣を認めてるんだよ

当然、それ以前の家康に河尻等の織田家臣に指揮命令する権利は認められていないし、河尻が家康の命令に従わなかったとしてもそれが織田政権への謀反とみなされる道理がない

968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/03(金) 17:42:08.71 ID:mGxBMjMX
帰国後即甲斐国人に調略開始、穴山旧領を押さえた上で
川尻に「美濃に帰ったらどうです?」って使者送ってんだよな、家康

969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/03(金) 17:51:34.98 ID:PRZ30gr7
>>965
そうだね
以下の書状読んでもその事は一目瞭然だな

天正十年七月七日付羽柴秀吉書状 徳川家康

今度信長不慮之事御座候付而、信州・甲州・上州ニ被置候者共罷退候、然者両三ケ国之儀、敵方江非可被成御渡儀候条、御人数被遣、被属御手候之様ニ被仰付、尤存候、猶追而可得御意候、恐惶謹言

羽柴筑前守

七月七日
秀吉(花押)

家康様
参 人々御中

970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/03(金) 17:54:20.87 ID:hSMBTF6g
穴山梅雪は徳川の刺客に暗殺されたのだ・・・!

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/03(金) 20:41:32.12 ID:RrNc2vL6
穴と雪の女婿はどうしてこうなった

972 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/03(金) 21:23:47.25 ID:m17ZCduB
>>969
そら7月にもなれば清洲会議も終わって秀吉の天下統一が始まってんだから織田もクソもないわな
こんな書状もらう前からコソコソ旧武田領を狙って暗躍する家康さんカッコイいです

973 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/03(金) 22:00:31.75 ID:j1SebWKH
河尻秀隆が死んだ後の書状やん

974 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/03(金) 23:53:38.79 ID:ieTMNxY6
家康のことにまで構ってられないし東国の抑えも必要だから、
仕方なく侵略行為には目を瞑って後付けで領有を認めることにしたってところ

975 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/04(土) 00:33:05.76 ID:9qfooK/C
河尻が健在の頃から武田旧臣相手に河尻の領地内の土地を安堵するって送っちゃってるからね
言い訳は無理だね

976 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/04(土) 00:50:19.81 ID:f7GzcNhS
>>974
>>975
丁度織田家が内紛状態やからなあwwwww何方の側も家康を敵に廻したく無いしね。

建て前が何にしろ、信長死去で甲斐信濃上野の三ヶ国無主に成ったから拾うって事だね。
川尻は、家康視点では逝ける死者、バンパイアぐらいにしか思ってないよ。

弱点を使って退治、日光「国人一揆」、十字架「織田家の事後承諾」、銀の杭「軍事介入」で
退治しただけだな。

「火事場泥棒?持ち主居ないんだから拾っただけ」って言い分ですな、狸の大妖怪主観では。

甲斐は結局信玄の子の代で滅び

2019年05月03日 16:27

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/03(金) 16:23:18.51 ID:g74bPE9v
さて東照宮(徳川家康)は浜松にいらっしゃった。信玄方から度々攻め寄せられて難儀であったのを、
信長が救はれたことにより別条なし。

駿府には穴山(信君)という大名がいた。東照宮とともに信長に帰す。ある時、両人が同道して上京
することがあって、方々を見物し、京から大坂和泉に行くが、堺にいらっしゃる内に明智が謀反して
信長を弑逆する。

これより両人は伊勢路を越え本国へ帰るが、穴山は路次で一揆に殺されたという。また東照宮の所為
であるともいう。

さて駿府も易々と東照宮の御手に入る。甲斐に河尻与兵衛(秀隆)という者がいたが、これも東照宮
が討ち滅ぼして甲斐を取った。甲斐は結局信玄の子の代で滅び、信長に攻め付けられ天目山で自害す。

――『老人雑話』



元和改元と武家諸法度について

2019年05月01日 16:21

852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/01(水) 09:18:18.75 ID:0cxHtuhD
応仁以来の乱世のよって、その習礼も未熟であったが、慶長の末、東照宮(徳川家康)の命に曰く、
「年号の字は、漢唐の吉例を鑑みてこれを用い、重ねて習礼が整った以降は、本朝の旧式を用いる
べし」と仰られたため、慶長の改元があって、元和が用いられた。

慶長は漢の章帝の年号、元和は唐の憲宗の年号である。これは今の太上皇(後水尾上皇)が御在位の時の
ことである。
(改元物語)

元和令(武家諸法度)を領下された時は、金地院の伝長老(崇伝)に草稿を奉らせた。
その書法は、貞永、建武等の式目に習った。
当時は合戦の後で、世の人々は武事をのみ習い、いまだ文字(漢字)を識れる人は多くなかったため、
世間一般の書法もまた、識字の低さに合わせたものであった。

だが、この元和令が過去の漢文で書かれた式目の書法に倣ったのは、今後は文を以て治を興すという意思を
示されたのだと聞き及んでいる。

そうであるのに、その後の代々に領下された法令は、みな仮名交じりで記されており、これはまた
本朝の文学が、日々に衰えていることの一端であろう。
(折たく柴の記)

元和改元と武家諸法度についてのお話



小笠原の行く末は

2019年05月01日 16:20

948 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/05/01(水) 11:43:54.00 ID:Gr038wOZ
小笠原の行く末は

永禄11年、今川氏真は武田信玄徳川家康の攻撃を受け、朝比奈備中守(朝比奈泰朝)の掛川城へ逃げこむ。小原備後守(小原鎮実か)は、小笠原与八郎(小笠原氏助、もしくは父の小笠原氏興)の取次役であった縁を頼み、馬伏塚城へ一族をつれて逃げる。

しかし、与八郎はすでに家康に通じており、小原を妻子ともに討ち取る。さてさてなんとも惨く可哀想なことであった。当時の人は誰もが「小笠原の行く末は良いわけがない」と思ったものである。

(三河物語)