FC2ブログ

藤堂家の大阪夏の陣

2020年01月08日 16:51

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/08(水) 02:03:41.49 ID:EdAeePYM
明夏陣、大阪より京都を焼き払うという風聞が有り、大阪から京都への通路を防衛するため、
和泉様(藤堂高虎)は諸勢にさきがけて四月四日に淀に御着陣され、同二十五日まで淀に御在陣。
その間、淀城の御普請を仰せ付けになった。

権現様(徳川家康)、台徳院様(徳川秀忠)が京伏見へ着座成されたため、淀を四月二十六日に
御陣替えになり、五月五日に千塚に御着陣になった。

五月六日、八尾表に、木村長門守(重成)、長宗我部(盛親)の人数、約一万二千が打ち出た。
和泉様の左備は長宗我部の隊と戦い、終日の働きの末、ついに長宗我部は敗軍し大阪へと追い込めた。
この戦いで藤堂仁右衛門、藤堂勘解由、桑名彌次兵衛、山岡兵部、その他、侍数多討ち死にした、
右備は長宗我部の先手の者に木村長門守人数が加わった部隊と戦い、この戦いで首級数多討ち取った。
我が方においても、藤堂新七、藤堂玄蕃、その他、侍多く討ち死にした。
その夜はその場所、八尾に陣所を据えられた。

六日の合戦で御家中の物頭、その他侍数多討ち死にし、終日の戦のため人馬は疲れ切っていたので、
翌七日の御先手は、新手の人持ち衆へ仰せ付けられるようにと、両上様(家康、秀忠)に和泉様より
六日の晩にお理を仰せ上げられたため、七日は越前宰相(松平忠直)、加賀筑前殿(前田利常)を御先手に
仰せ付けられた。

七日には、敵味方ともに人数を打ち立て互いに鉄砲を撃たせていた。そのような中、台徳院様が御供四、五騎を
召し連れ和泉様の御陣所へ御成になり、戦の御手立てに関する御談合をなされ、御本陣へと帰られた。
その後、惣懸り(総攻撃)という事となり、御家中衆も殊の外稼ぎ、首数数多討ち取った。

両日の首数、都合三千七百七十三を討ち取った。

(藤堂家覺書)

藤堂家の大阪夏の陣について



スポンサーサイト



彼の十の指を切り、額に丸の中に”秀頼”と書いた焼印を当てて

2020年01月07日 15:14

733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/07(火) 11:17:33.65 ID:TMu6ehAY
大阪冬の陣で、大阪城を取り囲んでいる最中、城中よりのそくたく(属託:報酬を払って依頼すること)にて、
秀頼公より和泉様(藤堂高虎)の元へ御書状を、吉河瀬兵衛と申す者が持ち参った。
和泉様はこれを直ぐに権現様(徳川家康)の元に持ち参った。その書状には

『最前より約束の如く、東の人数を引き出した事、秀頼公は御感に思召して居られる。うしろぎり(寝返り)の
手立が肝要である。御褒美の儀は望み次第である。』

このように書かれていた。権現様はこれを見ると
「良き臣下を討ち果たさせるための、こういった調略は昔から大唐にも日本にもあったものだ。
和泉については、昔からその心を知っている。別心などはありえない。彼は一筋に私の為を考えている。
だからこそ、彼を討ち果たさせるため調略を仕掛けたのであろう。」

そうお考えに成り、この書状を持ち来た瀬兵衛についへ和泉様へ
「彼の十の指を切り、額に丸の中に”秀頼”と書いた焼印を当てて城中に追い返すように。」
との御意を仰せになった。和泉様はその御錠の通りに仰せ付け、大野主馬持口であるせんばの門前まで
送り遣わせた。

(藤堂家覺書)

藤堂高虎に対する大阪方の調略について。



734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/08(水) 09:15:27.34 ID:wuaUlWLR
秀頼焼印は夏の陣まで活躍してそう

735 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/08(水) 13:20:37.67 ID:9coiYBvL
>>733
あの時代に指10本切るって酷いな、その後どうなったんだろう…。

その用意をしている内に、和睦となった

2020年01月06日 17:21

488 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/05(日) 23:32:00.28 ID:Np6vwiTb
慶長十九年、大阪陣の刻、和泉様(藤堂高虎)は先手をお受け取りに成り、諸勢の動向に御かまいなく
河内の国府へ十月二十六日に御討ち出られ、それより次第次第に陣替えがあり、和泉様の仕寄場は
天王寺口で、これに対する城中黒川の持口は大野主馬(治房)、矢倉は木村長門守(重成)の持口であった。

この場所は大阪城惣構の近くで、築山を築き井楼を上げ、火矢、鉄砲、石火矢を油断なく昼夜撃たせた。
このため木村長門守の持口である矢倉は打ち破られ、大阪城の人々がそこから出入りする事は出来なくなった。
また、金掘を入れ、堀きわまで掘りつけた。その上竹束も堀きわまで七間(13メートル弱)まで付け寄せた。

極月(十二月)二十日の夜、堀の中に設置されていた柵を引き取るようにと和泉様が仰せ付けられ、
その用意をしている内に、和睦となった。

(藤堂家覺書)

藤堂家の覚書にある大阪冬の陣の記録。大阪城惣構の中への突撃準備が整うまさに直前に和睦がなされたと
ありますね。



489 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/05(日) 23:55:38.58 ID:10v8Qglc
お話なんかじゃ攻めあぐねての和睦ってテイストにされやすいけど
実際はもう落城のボーダーラインぎりぎりね

490 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/06(月) 00:23:26.10 ID:vGqvWph/
真田丸に仕掛けて大敗北した後は、にらみ合い &大砲撃ちまくりというのが通説だけど、
当然、ただにらんでいるだけじゃないわな。

和泉様御鑓先の敵は

2020年01月04日 16:33

478 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/04(土) 14:14:49.52 ID:zP+MkFWP
権現様(徳川家康)は九月十四日の昼時分に赤坂にお着きに成り、先手の上方衆はその夜、青野ケ原へ出て
野陣をし、翌十五日の未明に、いずれも青野ヶ原を御立ちになって関ヶ原へ出られた。
この行程で、藤堂新七郎は先手にまぎれ参り、朝駆けで取った首を取り出して本陣へと向かった。
これは諸手の一番首であったので、権現様へ高橋金右衛門が持って御上げした。

その後、和泉様(藤堂高虎)御鑓先の敵は、大谷刑部少輔(吉継)、脇坂中務(安治)、小川土佐(祐忠)、
平塚因幡(為広)の四人あったが、脇坂中務と小川土佐は和泉様才覚にて裏切りを仕り、大谷刑部少輔人数と
一戦した。刑部少輔家臣の湯浅五助と申す母衣の者を、藤堂仁右衛門が討ち取った。その他敵を数多討ち取った。

そして藤堂玄蕃が討ち死にし、そのほか御家中の者達も多く討ち死にした。権現様衆の村越兵庫殿もここで
討ち死にした。

権現様はこの働きを御忠節に思し召され、後帰陣後、後褒美として伊予半国を拝領に成り、和泉様の所領は
都合二十万三千石となった。

(藤堂家覺書)

関ヶ原に関する藤堂家の記録



479 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/04(土) 14:30:04.66 ID:m4Y0etBc
便乗した朽木は残り
藤堂にあらかじめ内通していた小川は改易とは

太夫殿からの意見

2019年12月16日 18:36

678 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/16(月) 14:57:54.04 ID:r8/T39Ix
慶長十九年八月下旬、片桐市正(且元)は江戸に呼ばれ、家康公より
豊臣秀頼による大仏再建の成し様が悪い。」との事で、御袋(淀殿)か秀頼が江戸に下るように、
との仰せがあった。市正は大阪に帰るとその通りに申し上げたが、御袋様も秀頼も「江戸に下る
事は出来ない。」との意向で、秀頼に至っては、市正が江戸にて心変わりしてこのような事を
言っているのだと思った。その後色々有って、太夫殿(福島正則)の意見を聞きたいという事になり、
太夫殿より、堀田角左衛門という侍が大阪によしみが有ったためこれを上らせ、このように申し上げた

「ここは御袋様が江戸に御下りになり、家康公と御対面あった上でまた大阪に戻るべきです。
御姉妹方(妹のお江の方)へ御挨拶遊ばすという事にすれば宜しいでしょう。」

太夫殿からの意見はこのようなものであったが、全く御同心無く、逆に非常に御立腹されて
「重ねてこのような意見を申してはならない。」との返答をされた。

この返事が持ち帰られると、太夫殿は未だ見ぬ内に、使者の堀田に申し付けた
「大坂からの御返事を頂いた以上、これは直に家康公に差し上げるべきだ。」
こうして返事は家康公の元に届けられ、家康公はこれを一覧すると以ての外に御腹立ちに成り、
即座に京への出陣を命じ、諸大名も尽く軍勢を連れ大阪へと向かった。

この時太夫殿はこのように申し上げた
「私は秀頼を攻めることは出来ません。ですので嫡男の備後守(福島忠勝)を上らせたいと思います。
この太夫には江戸の留守を仰せ付けられますように。」
これを「如何にも尤もな事だ。」と思われ、「備後守を急ぎ上らせるように。」として、
備後守は大阪へと上った。

(福島太夫殿御事)

秀頼から福島正則への返答に家康公激怒し大坂の陣に



毛利の大阪退城も島津の臣従も

2019年12月13日 16:59

409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/13(金) 11:27:07.05 ID:PSwBmWQk
関ヶ原の戦いの後、安芸の毛利(輝元)は大阪に居たのだが、吉川(広家)と申す家老が
太夫殿(福島正則)に徳川家康公と講和のための扱いを成して欲しいと申してきたため、家康公に
その事を申し上げた所、「そういう事であれば扱いをされるように」との事で、吉川と講和の条件を
協議した所、「周防長門の二ヶ国を下される形で扱いを成して頂きたい。」とこ申すに付き、この旨を
家康公に申し上げた所、直ぐに二ヶ国下されることに同意された。
この時太夫殿は

「扱いが成った後から二ヶ国を下される事を違われれば、私が表裏者に成ってしまいます。
ですのでそうお考えの場合は今より私が広島への先手を仕り、毛利を退治いたします。」

との旨を申したため、二ヶ国は相違なく遣わされ、扱いが成った。これにて毛利は周防長門二ヶ国を
下され大阪を明け渡し長門へと参った。

また島津兵庫(義弘)殿からも、「私も太夫殿が扱いをして頂ければ家康公に従いたいと思います。」
と望んできたため、太夫殿は
「申し分が有れば承り、その上で扱いを入れますので、その時は急ぎ畿内に上って下さい。」と、
使いの家老にしっかりと申し遣わした所、島津殿は望みとして「天下普請を免除して下さる形で
扱いを成して頂きたい。」と頼み入り、この事を太夫殿より家康公に申し上げた所、
「確かに遠国の者故、天下普請は免除しよう。」と申されたため、扱いが成り島津殿は御礼に上洛した。
なお、これにより現在も島津殿は天下普請を致されないのだという。

太夫殿は安芸備後の二ヶ国を家康公より遣わされ、五十万石の御役儀を勤めた。

(福島太夫殿御事)

毛利の大阪退城も島津の臣従も福島正則のお陰だった、という内容。



410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/13(金) 12:15:01.35 ID:syHFqi/1
天下普請を免除されたが美濃の堤防や駿河の堤防はやらされたのか。

411 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/14(土) 09:58:28.03 ID:qOQsaKRJ
>>410
美濃の堤防の話はちょっと悪い方に上がってたっけ?
幕府黒すぎだよな

412 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/15(日) 23:59:18.76 ID:yX6xKPHX
薩摩は薩摩で真っ黒だけどね

413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/16(月) 00:39:26.58 ID:YZiNpUgO
>>412
薩摩の琉球・奄美支配はなぁ…

414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/16(月) 01:07:45.88 ID:5BFPRxRK
かといって琉球の元々の統治が良かったかといえば
結構なアレなのがなぁ…

415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/16(月) 21:41:32.62 ID:2dd4nNln
>>412
確かに…

416 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/16(月) 22:02:38.12 ID:54PzpnWo
>>412
黒酢に黒豚か

扨々、聞及たるよりも気違にて候

2019年12月12日 17:46

652 名前:1/2[sage] 投稿日:2019/12/12(木) 11:31:17.84 ID:g+fbVvyj
(慶長五年)九月上旬に、徳川家康公は濃州勝山にお着きに成り、九月十五日に関ヶ原で敗れた
石田治部少輔(三成)は伊吹山へ逃げ隠れていたが、田中筑前守(吉政)の家臣が捕えて家康公の
元に送り、小西摂津守(行長)、安国寺(恵瓊)両人も方々にて捕縛された。
三人共に洛中を引き廻しにされたのだが、この時太夫殿(福島正則)はこの三人に小袖を二つづつ
与えた。中でも治部少輔は「太夫殿の御心指し感じ奉る」と悦び、衣類を着替え、太夫殿の与えた
小袖を着て洛中を引かれ三条河原にて首を切られた。

石田治部の弟である石田杢(石田杢頭(正澄)、実際には兄)、家老の島左近は佐和山の留守居であったが
(島左近は実際には関ヶ原で討ち死にしている)、佐和山城が攻められた折二人共切腹した。
徳川家康公は海手を通られ大津城に在陣され、三左衛門殿(池田輝政)、太夫殿は道中のそれぞれの
宿に制札を立て、百姓や山中に逃げた者達を帰宿させた。

その後太夫殿は山科に在陣し、子息(養子)の刑部殿(福島正之)を北政所様への御見舞に遣わした。
この時、京三条口の番をされていた稲図書殿(伊奈昭綱)の番頭が、ここに柵を付けて鉄砲の者
三百人でこの番所を堅めていた。ここを福島刑部殿は理を入れ京へと通過したのであるが、その後に
刑部殿へ急用があるとして、太夫殿家臣の佐久間嘉右衛門と申す者、知行二百石取りの侍を刑部殿の
元に遣わしたのだが、この嘉右衛門も番所にて、急用であることとを理り申したのだが、当時は
厳しい時分であり、番所では通そうとしなかった。この時嘉右衛門は「慮外では有るがここの番の
責任者である図書様に理由を申し上げたい。」と色々と言ったのであるが、とにかく通さないと申し、
竹杖にて押しのけられた。この時少し竹杖が当てられた。

嘉右衛門は無念に思ったが、多勢に無勢であり、その上番所でも有ることから是非無く、命ぜられた
急用も打ち捨てて太夫殿の元に帰ると、直に罷り出て

「今度のお使い、御急用を打ち捨てて罷り帰った事、なんとも御迷惑をおかけしたと思っています。
しかしながら稲図書殿御番所にて色々とお理りを申し上げたのですが通してもらえず、あまつさえ
竹杖にて押し出され、杖も当たりました。これでは男が罷り成りません。只今より私は切腹仕ります。
相手は図書殿でありますので、哀れと思われ敵を取って頂ければ、有り難く存じ奉ります。」

このように申し上げた。太夫殿は「それは卑下すべき事ではない。多勢に無勢だったのだから
仕方がない。」と言ったのだが、嘉右衛門はそのまま帰って切腹した。

653 名前:2/2[sage] 投稿日:2019/12/12(木) 11:31:45.63 ID:g+fbVvyj
この事を太夫殿がお聞きになると
「さてもさても不憫な事だ。」と涙を流し、この嘉右衛門の首を取り寄せ、井伊兵部少輔(直政)殿の
元ににこの首を送り、先の嘉右衛門についての事を伝え「稲図書の首を見せるべし。」と荒々しく
申し入れた。兵部殿はお聞きになると大いに驚き
「ご立腹は尤もです。しかしこれは稲図書が存じているわけではありません。この上はその場で
番をしていた三百人の者達を首にして進ずるので、それでご納得頂きたい。」と返答したが、
太夫殿はこれを聞き入れず

「嘉右衛門の相手は図書である。嘉右衛門はそう申し置きをした。どうしても図書の首を見なくては
ならない。この事を家康公に申し上げて頂きたい。その上で御同心無いのであれば、御忠節はこれまで
である。おっつけ大津へ向かい、家康公に直にお断りを申し上げるだろう。」

このように申し越してきたため、兵部殿は更に驚き、「さてさえ是非もなき義である。」と思われ、
とにかくそれぞれと相談すべきであるとして、浅野紀伊守(幸長)殿、細川越中守(忠興)殿、
池田三左衛門(輝政)殿、黒田筑前守(長政)殿に、この件の扱いを成されるよう頼んだ所、
この四人も内々に太夫殿の性格を存じており、「家康公に申し上げるしか無いでしょう。」との
意見であったため、これを報告した所、家康公は
「それならば三百の番の者達に切腹させ、それにて堪忍するように伝えるべきだ。」と仰せになった。
兵部殿は「先だってそのように申したのですが、まったく聞き入れず『それならば直にお断り申す』と
言っております。」と申し上げた所、家康公は

「さてさて、聞き及んだよりも気違いである(扨々、聞及たるよりも気違にて候)、今は大事の前の
小事であり、是非に及ばず。図書には切腹させよ。」

との上意にて、稲図書は切腹し、その首は太夫殿の元へ遣わされた。太夫殿は大いに悦び
「このようにして頂いて過分に忝ない。」と、すぐに大津へ御礼に参った。

図書は一万石取りの、直参の衆であった。
(福島太夫殿御事)



654 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/12(木) 12:47:09.85 ID:t+lw0CPa
>>653
>聞き及んだよりも気違いである
酷いけどそのとおりで草
影武者徳川家康でみたなーこの話

655 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/12(木) 21:53:44.99 ID:ZtdUB/mz
だったら番兵三百人の首を送ればいいんじゃないか

今の感覚だと十分気違いだけどな

656 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/13(金) 00:05:02.32 ID:YZgR0DVQ
「七分の一の命事件」
ならぬ
「三百分の一の命事件」
として人権教育のネタにされそう

657 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/13(金) 00:13:10.73 ID:PYMzNtB9
まあ福島さんですし

658 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/13(金) 08:00:56.52 ID:s4xg30G0
三百石と一万石の首じゃ釣り合わんなぁ、三百人犠牲にしろというのもやむなし

659 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/13(金) 10:17:23.42 ID:mPdwyCZg
鉄砲傷受けた直後にこんなことで煩わされるんだから、そりゃ直政も死ぬわな…

660 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/13(金) 13:36:01.77 ID:8Mf1pdbu
WIKIだと

>>この事件はその後に福島正則が改易される遠因となったともいわれる。

そりゃそうだ

661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/13(金) 19:44:49.92 ID:ibMCuezW
稲?伊奈?

662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/13(金) 23:25:36.92 ID:kT2im1w3
しかしさあ、加藤清正も福島正則も加藤嘉明も、
丹羽長秀の最期を知っているはずなのに、
どうしてそこから学ばずに天下取りの野望を持つ者に擦り寄って一時の大領を得る事を選ぶかねえ。

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/13(金) 23:30:59.34 ID:7tRh0pW4
当人に責任があるのは正則だけのような
それに自分が上に立てないなら次の覇者に接近するしかないでしょ

664 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/14(土) 00:43:50.77 ID:B9HMV06b
戦って散れということか

669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/14(土) 18:04:06.30 ID:6Qt5nNWK
>>662
中途半端にすり寄るからじゃないのかな、藤堂高虎ぐらい尻尾を振れば生き残れるのに

たとへ串に指候共男之ひけにハ罷成間敷候

2019年12月11日 16:39

408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/11(水) 09:27:08.05 ID:u570j9EU
慶長三年八月十八日、太閤様(豊臣秀吉)は他界された。その前に示された御遺言では、
徳川家康毛利輝元が一年交代で大阪に詰めて仕置をするように御頼みなされ、その他の諸大名も、
一年交代で大阪に詰めるようにとされ、秀頼に無沙汰ないよう、それぞれに起請文を書かせた。
これにより諸大名は残らず
起請文をしたが、この時家康公は、

「上杉景勝は来年大阪に詰める予定であったのが、越後から奥州への国替えが有ったため三年間の
在京が御免されている。しかしそのため諸大名の中で景勝一人誓紙を出していない。景勝も上洛して
誓紙を出すべきである。」
そう景勝に対し伝えたが、景勝からは
『三年間在京御免となっており、上洛はしない。』
との返事であった

家康公は再三景勝に対し仰せ遣わしたが、とにかく心得る事無く、荒々しい返事を送り返した。
このため家康公はご立腹され、「では私が迎えに参ろう」(我等迎に可参)と、江戸へ御下りになり、
諸大名も「景勝謀反」と、追々関東へ下った。家康公の御先手をする者達は何れも宇都宮まで
出陣していた所、上方では石田治部少輔が謀反を企てていた。

石田が『家康公は私の仕置を成し不届きであり、毛利殿が御上がりになって大坂の御番を成されるように』
と安国寺恵瓊より伝えさせ、毛利輝元は早速大阪に上った。

この事が宇都宮に聞こえると、家康公は諸大名に
「そなたたちは景勝を退治した上で上方に打ち向かおうと申されているが、各々の妻子は大阪に在る。
であれば構わないので、ここから早々に上方に上がり候へ」

そう仰せに成られた時、福島左衛門太夫(正則)が申し上げた
「私に治部少輔と一味する筋目はありません。また大坂の妻子は治部少輔に渡した人質ではありません。
たとえ串刺しにされようとも、武士の躊躇う理由にはならず、捨て置きます。」
(私義治部少輔と一味仕候筋目無御座候。大坂へ妻子治部少輔に渡し人しちにへハ無御座候。
たとへ串に指候共男之ひけにハ罷成間敷候間、捨候)

そう言うと、跡継ぎである刑部(福島正之)をその場に召し、
「これを家康公への人質に進ぜます。これより私は、上方への先手を仕ります。上方に於いての
軍勢の兵糧については、私が故太閤様より十万石を代官所に預かっており、また七年分の米が
尾張に納め置いてありますので、都合三十万石ほど御用に立てることが出来ます。
景勝については先ずは捨て置かれ、上方に御出馬成されるべきと考えます。」

そのように申し上げたのである。このように左衛門太夫様が様々に申したため、細川越中守(忠興)殿、
池田三左衛門(輝政)殿、浅野紀伊守(幸長)殿、田中筑後守(吉政)殿、堀尾信濃守(忠氏)殿、
その他諸大名が家康公にお味方仕ると申し上げた。

(福島太夫殿御事)

いわゆる小山会議のお話ですね



小田原開城後の北条氏直の事

2019年12月06日 16:15

643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/06(金) 09:25:49.12 ID:brHVrkeT
天正十八年七月十二日、豊臣秀吉公の命により、北条氏直は紀州高野山へ蟄居することと成った。
彼の北の方(督姫)は徳川家康公の姫君にて、過ぎし天正十一年七月、小田原にお輿入れ成されたが、
いまや別離の御暇乞いにおよび、紅涙に沈まれていた。その心痛わしい中、氏直は肌につけていた
お守りを取り出し北の方に見せた

「これは高祖(伊勢宗瑞)よりの守護であるとして、当家相伝の重宝である。初代早雲庵が
伊豆国より起こって、明応四年九月十三日、湯坂の城に大森不二庵(藤頼ヵ)を追い落とされた時、
夕方に出陣の身固めをされ食事を取り、勝栗を半分食し、半分を鎧の引合に押し入れて出御されたが、
その夜、難なく本望を遂げられた事により、吉例の物であるとして、この勝栗の方辺を綿襴の袋に入れ、
以後氏綱、氏康、氏政、そして私まで、五代の間持ち伝え秘蔵してきた。

私は今、浪客となった。よってこれはあなたに渡して置く。もしまた、この後一門の中から
世に出て家を継ぐ者が有ったなら、その者に渡してほしい。」

そう言ってこれを渡した。北の方は涙に咽びながらこれを受け取り、以降肌身より離さず所持して
いたが、氏直死去の後、彼女が家康公の仰せによって池田三郎左衛門輝政と再婚する事に成った時、
彼女より北条美濃守氏親へ譲られたという。

またこの時、北条左衛門太夫氏勝も高野山に氏直の供をすると、その準備を調えていたのだが、
家康公より殿下に申し入れがあった
「氏勝は最前に麾下に入り、関東諸城への案内をなし、軍功を励みました。これを無下に高野山へ
遣わされるのは理屈が通りません。そのような事をすれば、今後一体何者が我々に帰降して返忠を
成すでしょうか。枉げて本領を宛行われるべきでしょう。」
秀吉公はこれを聞かれると
「忙しさのあまり気が付かなかった。私の誤りである。」
として、氏勝を留め置き相州玉縄の旧領を与えた。

斯くして同月二十日、氏直は小田原を発った。随行する人々は、太田十郎氏房、北条安房守氏邦、
美濃守氏規、左衛門佐氏忠、右衛門佐氏堯、松田左馬助、内藤左近太夫、福島伊賀入道、堀和佐兵衛尉、
依田大膳亮、山上郷右衛門、諏訪部宗右衛門、大道寺孫九郎、菊地七兵衛、以下三十人、
そして雑兵は三百人であった。家康公よりお見送りとして、榊原康政が差し添えられた。
秀吉公は温情を施され、旅中の差し障りが無いようにと、警護の士、駅路の伝馬、道中の賄いを
充分に宛行われ、高野山に至ると二万人(二百人ヵ)の扶持料を賜り、その他雑用、調度についても
要望どおりに準備させた。そして高野山の山上は寒冷が殊に甚だしいと殿下は聞き及ばれ、
これを労り、翌年十一月十日にこの面々を天野の地に移し、衣服、酒茶の類までも豊かに贈られた。

天正十九年の春、氏直は泉南の興応寺に来て半年ばかり滞在し、その間に秀吉公は
彼を大阪城に招き対面して、北畠(織田)信雄の旧宅に入れ白米三千俵を与え、その後来春には
西国中国の内に一国を宛行う事を約束したのだが、氏直は俄に痘瘡を病んで回復すること無く、
十一月四日、三十歳にて逝去された。あれほどの豪家であり、また家康公の聟君であり、
殿下にも慈悲を加えられていたというのに、誠に是非無き次第である。
舎弟の太田十郎氏房も翌年四月二十日、肥前国唐津の陣中に於いてこれもまた痘瘡を患い、
不孝短命にして二十八歳にて卒去した。ここにおいて、北条家の正統は断絶したのである。

(関八州古戦録)

小田原開城後の北条氏直について



644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/06(金) 10:08:01.62 ID:yzluYGCw
氏康「もっと子作りしとけや」

645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/06(金) 10:39:05.02 ID:LVehz+Z0
>>643
都合良くどんどん死んだな
玉縄って北条綱成の築いた巨城でしょう?そんなとこの旧領を北条氏勝に与えて良かったのかしら?

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/07(土) 04:32:43.45 ID:mZxo5fAk
後詰めもないのに勝てるわきゃねえじゃんヴァーカ

647 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/07(土) 10:55:03.01 ID:AzvJW3Lj
なお、この24年後

北条氏政、氏照の切腹

2019年12月05日 18:31

638 名前:1/2[sage] 投稿日:2019/12/05(木) 18:09:28.65 ID:0N8R+1fU
小田原征伐は和睦と成り、小田原籠城の者達は、七月七日より九日にかけて、夜昼ともなく
引きも切らず東西南北に別れ去り、あたかも蜘蛛の子を散らす如きであった。

この時、豊臣秀吉公より北条氏政父子に使者を以て
『和平の証であれば、一旦下城あるべし。』と伝えてきた。

これを見た氏政父子は憤った
「殿下の言葉とも思えぬ!伊豆相模の両国相違無きと言われた以上、この城にそのまま在るべしという
和睦であったはずなのに、約を変じること心得かねる!」

そのように返答した所、秀吉公より
『そういう事であれば和談を破るという事であるから、元のように籠城せよ。いつでも戦って
攻め落とすであろう。』との返事があった。

これに氏政父子は進退窮まり、どうしたものかと考えたが、士卒たちは尽く退散した後であり、
今更籠城するような力も尽き果て、言語道断なる有様であった。
ここで徳川家康公より榊原康政を以て御異見が加えられ、同九日、北条氏政父子三人、および
氏照、氏邦ら伴って、城下の田村安栖(田村安清:北条家侍医)の居宅に移り、城は井伊兵部少輔(直政)、
榊原式部大輔(康政)がこれを請け取り、番兵を以て七口を警護した。そして殿下の命に任せられ、
翌十日には家康公が御入城された。

秀吉公は家康公にご相談された
「我々が遥々とここまで下向したのは偏に北条一族を根切りにするためである。であるのに
今尽く宥恕せばこれまでの発言への信用も無くなってしまう。である以上、氏政氏照は誅殺し、
氏直はそなたの聟であるのだから、今回のそなたの勲功に鑑みて死刑は宥し置く。氏房、氏邦、氏規も
またこれに準ずるべし。」

家康公はこれに御同心され、同十一日未の刻(午後二時頃)、検使として中村式部少輔一氏、
石川備前守貞清、蒔田権佐正時、佐々淡路守行政、堀田若狭守に、井伊直政、榊原康政を加えて、
千五百余騎にて田村安栖の屋敷を固めた。この時までに氏政父子に従う士卒は八、九百もあったのだが、
この軍勢を見ると等しく、我先にと続々と落ち去って残兵も僅かであった。

639 名前:2/2[sage] 投稿日:2019/12/05(木) 18:09:45.97 ID:0N8R+1fU
検使の面々は席に付くと、中村、石川が進み出て殿下の命を伝えようとしたが、余りに痛ましい事だと
思い、黙して言葉を発することが出来なかった。これを北条陸奥守氏照が察し、言葉をかけた

「各々のここまでの御来臨、定めて当家の一類に対する生害の催促なのでしょう。であれば
暫く沐浴の暇を頂き、その間待っていてほしい。」

中村、石川はこの言葉を得てようやく秀吉公の命を伝え、「心閑に用意有るべき。」と答えた。
その後、氏政、氏照は座に坐り、筆を取って傍の帖紙に辞世の和歌を書いた。

左京大夫氏政
 『雨雲の 覆へる月も胸の霧も はらひにけりな秋の夕風』
 『我身今 消とやいかに思ふへき 空より来り空に帰れは』

陸奥守氏照
 『吹と吹 風ないとひそ花の春 紅葉の残るあらはこそ』

氏照は属鏤匕首を取って腹を十文字に掻っ切った所を、家人が後ろに廻って首を前に落とした。
そして氏政、この時五十三歳も続けて切腹した。この時介錯する者が居なかったが、美濃守氏規が
近づいて介錯した。そして自身も腹を切ろうと太刀を取って肌を押し脱いだ所で、検使の面々が
急ぎ彼を掻き抱き「殿下の命は両将のみである!卒爾の義あらば我々の後日の落ち度とも
なりましょう!」と押し留めた。

この時、陸奥守氏照の侍童に山角平太郎という者があり、ここまで扈従していたのだが、検使の面々が
美濃守を押し留めている隙に氏照の首を抱き取って走り出したが、暫くこれを追いかけて奪い返した。
そして氏政の首と同様に、殿下の実検に備えられると、
「王命を恐れぬ不逞の臣である。朝敵にも等しい。」
として、石田治部少輔三成に下知して京に送り、一条戻橋にて梟首された。

衰勢興亡は世の常の習いであるが、早雲庵宗瑞より既に五代の運を得て、九十余年の暦を伝え、
類葉枝を連ね栄華は関八州に冠たる豪家が一時に滅亡したこと、時節の到来とは言いながら
なんと儚いことであろうか。

また、かの山角平太郎は氏照生害の後にあのような仕儀に及んだことで、井伊直政が召し連れて
陣屋に帰り徳川家康公にお聞かせした所、家康公は
「若年の身でありながら主人の首を奪い取ったその志、殊勝の振る舞いであり、奇特の者である。」
と称賛され、御家人に加えられ、後に武州多摩の関戸の郷に所領を与えられた。

(関八州古戦録)

北条氏政、氏照の切腹について。



640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/05(木) 20:01:24.24 ID:GxYuEQnq
>>638
>これを見た氏政父子は憤った
この期に及んで何を言うとんねん(´・ω・`)

641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/05(木) 21:24:34.25 ID:1Oc8oAjB
嫌じゃ嫌じゃ死にとうない死にとうない

642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/05(木) 22:44:29.39 ID:qdHMo2wl
確かに山角はこんな修羅場ですげえ度胸だわ
多摩の関戸って小田原衆筆頭の松田家が代官するいい所貰ってんだな

小田原開城

2019年12月04日 17:36

392 名前:1/2[sage] 投稿日:2019/12/04(水) 10:54:58.62 ID:olzd/p+3
天正十八年七月三日、小早川隆景は小田原城攻めの本陣である笠懸山を訪れ秀吉公に対し申し上げた
「北条家の分国の城々は尽く麾下に服し、残るは小田原の一城のみという状況に至りました。
であれば、東国の案内者とされている徳川家康公と内談されて、方針を策定されるべきです。」

これに殿下も尤もだと思い、家康公と密談された所、家康公は
「調略のことはたいへん容易いでしょうが、私は北条氏直と縁類でありますから、私が動けば
その事を突いてこの動きが妨害されることも有るでしょう。先ずは上方衆の中からこの計を
入れられ、その上でこの家康も取り計らうべきだと考えます。」

この言葉に秀吉公も再び尤もだと思われ、黒田勘解由孝高は当時四十四歳であり、家督を嫡子の
長政に譲り隠居の身ではあったが、殿下は彼の知勇才覚が世に優れているのを惜しみ、常に召し出して
相談をしていた。よって今度の小田原の役にも伴い武略の助けとしていたが、故にこの事についても
彼を呼んで相談した。

孝高は話を聞くと、家人井上周防守之房の弟である平兵衛を密かに、北条氏直の異母弟である
大田十郎氏房の陣に遣わし、和睦の事を申し入れた。氏房はすぐに同意したが、氏政父子は
これを承諾せず、そこで秀吉公はまた宇喜多宰相秀家に命じて、家老である花房助兵衛職秀に言い含め、
重ねて太田氏房の持ち口に矢文を射込み
『氏政父子が和睦を受け入れるならば、伊豆相模の両国を所領し、氏房には上野一国を与えるであろう。』
との旨を殿下の内意として伝えた。しかし氏政父子はこれを聞くと

「当家は関八州を管領する事年久しいというのに、今僅かに二州を与えられるとは、外聞といい実義と
いい面目なき次第であり、このまま生害に及んだほうがましだ。」

そのように拒絶したが、太田氏房、北条氏照らが
「そこを押して和平を請われるべきです。籠城の面々の一命も助けねばなりません。」
そう一同に諌めた所、氏政父子も
「そういう事であれば各々の分別して良きようにせよ。」
と申したため、漸く和睦に同意したとの、太田氏房の返書が届き、宇喜多秀家、黒田孝高を通じて
秀吉公へこれを取り次いだ。そして北条方に対し「家康公と内談するように」との書状が返された。

同月五日の晩方、北条氏直は松田尾張守憲秀を召し出し、今回の逆心、不忠の義を述べて自身が太刀を
抜いて誅殺した。

翌六日早天、氏直は馬廻りの組頭・山上郷右衛門、諏訪部宗右衛門を伴って、騎馬にて家康公の
陣営を訪れ和議のことを申し入れた。家康公は対面すると
「あなたは類縁ですから、私から口入れするのは難しい。羽柴下総守(滝川)雄利の陣へ行き、
思う所を述べられるのが良いでしょう。」と仰せになり、井伊兵部少輔直政を付けて彼の陣所に
遣わした。氏直は雄利に委細の旨を告げて直ぐに城中に帰った。この時家康公よりの提案で、
殿下の家臣と北条家の家臣が直に談判すべきであるとして、殿下よりの使いである、羽柴下総守、
黒田勘解由に榊原式部大輔康政をを加えて小田原城内に入り、氏政父子、および家中の者達より
神文を請け取り和睦の首尾が成り、翌七日、奉行として脇坂中務少輔安治、片桐市正且元、
毛利兵橘(重政)に家康公より榊原康政を添えられ検使に出され、小田原城の七口を開いて、
立て籠もる諸士、雑卒、男女を思い思いの場所へと退散させた。秀吉公はこの奉行たちに、
必ず籠城の衆への狼藉が無いように、能く下知するよう命じた。

393 名前:2/2[sage] 投稿日:2019/12/04(水) 10:55:49.76 ID:olzd/p+3
その前夜、北条氏直は小田原城の本丸に一族、重臣、侍大将以下を集め言った
「今回、各々が長きにわたる籠城を果たしたこと、忠義の至りであり、未来永劫忘れることは無い。
我ら父子も、従来より城を枕とする覚悟であったが、今となっては大勢の士卒の命を失うこと
見るに忍びず、ここにおいて敵よりの扱いに応じ、名を捨て恥を省みず軍門に降る。
である以上、そなたたちはそれぞれの意思に従い、明日よりこの城を離れ身命を全うしてもらいたい。
もし、この氏直が生き延び、時勢を得て再び家運を起こす時が有れば、旧好を忘れず、お前たちを
必ず呼び集めるだろう。」

そう、丁寧に申し渡すと、人々はみな鎧の袖を濡らし答える詞もなかった。

しかしながら城中の者達は今や溜池の中の鯉、轍の中の魚であり、城中の者達は大水が出た時のように、
主人親類も打ち捨て我先にと落ちていく姿は、目も当てられぬ有様であった。

和平が整うと、北条氏直より黒田孝高へ礼として、日光一文字の太刀、北条家の白貝と名付けられた
陣法螺、並びに頼朝公以来、鎌倉将軍家の治世の間の日記を送られた。孝高はこれを受納し、後年、
太刀と法螺貝は黒田家に留め、日記は家康公に進上した。この書は今まで北条家にのみ秘伝して
他家に披露された事は無く、家康公はご覧になって「天下の権を執り海内の成敗を成すにおいては、
これによらねば徴すること出来ない。末代までの龜鑑である」と大変に喜ばれ、官庫に収納された。
現在、『東鑑(吾妻鑑)』と号され、重要な書籍と評価される実録が、この書である。

(関八州古戦録)

小田原開城について



394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/04(水) 14:09:56.67 ID:JgyQsT3e
>>392
>北条氏直は松田尾張守憲秀を召し出し、今回の逆心、不忠の義を述べて自身が太刀を
>抜いて誅殺した。
もう和議になるって時にこれは…いや和議になるからこそか

395 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/04(水) 14:49:50.46 ID:EJmlAyg0
>>394
交渉相手の堀さんが急に死んじゃったんだよね
運がない人だな

399 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/04(水) 19:15:48.23 ID:U6oPXqDy
結局松田憲秀は
北条が誅殺したのか
官兵衛が不忠として殺したのか
秀吉が殺したのか

忍城開城顛末

2019年12月03日 17:57

637 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/03(火) 06:19:31.82 ID:RCYAL5ym
小田原の役の折

この頃豊臣秀吉公の右筆に、山中山城守長俊という人物が居た。彼は元々、近江源氏
佐々木承禎(六角義賢)に仕えていたが、牢人と成った後久しく殿下に仕え。その文筆によって
優遇を受けた。また彼は連歌を好くし、彼の時々の秀歌は人口に膾炙していた。

忍城の成田氏長兄弟もまた以前より連歌を嗜み、臨江斎(里村)紹巴の元に時々、百韻の批評を
求めてはるばる京まで送るなどしていたため、山中山城守とは面識はないが、風雅の友として
長く文通しており、また了意という連歌の道の達人を上方より招いて扶持を与えていたが、
先年故郷に帰った折に、里村紹巴に誘われて殿下に謁見した時、秀吉公は成田の噂を聞かれて
「関東筋に必要なことがあれば、その時は手引を頼むと、内々に伝えるように。」
と伝えた。

このような事があったので、秀吉公は山中山城守を呼び出して言った
「忍城が未だ落ちていない。汝は成田と旧知であるから、彼に書簡を送って我が方に
帰降するよう勧めてみよ。」
と宣われたため、山城守は直ぐに一書を認め六月二十日、夜に紛れて成田氏長の陣所に遣わした所、
氏長より「一段同心」の返事が送られた。これに殿下は大いに喜ばれ、
「これにて事は成った。敵城の没落ほど、敵を討つための策の基はあるだろうか!」
そう言って徳川家康公へ成田よりの返書をご披見に入れられ、これを北条氏直に見せ、

「関八州の諸将はこのように我が方に服従している。籠城に全く利はない。早く講和すべきである。」

そう調義を入れるようにとし、家康公より小田原城中に向けてこの調略を入れると、城内は色めき立ち
雑説紛々たる状況になった。
北条氏直成田氏長に「議したいことが有るので急ぎ片曲輪に出席するように」と使いを三度まで
出したが、すべて病気と称して出ようとしなかった。そこで医師である田村安栖を彼の持ち口に
遣わし、「そなたに二心の風説が有る。その実否を糺したい。」と言い送った。
これを聞いた氏長は

「敵は大軍を以て忍城を侵し攻め、士卒足軽等に至るまで皆殺しになるかと思うと情けなく、
思うに堪えず、山中山城守を通して降伏を乞いました。虚報ではありません。」
と答えた。これに氏直は怒り、成田の陣所の四面に柵を設置させ、山上郷右衛門の組の侍八十余人に
よってこれを警護させた。

その後、秀吉公より石田治部少輔の元に墨付が送られ、成田氏長が帰降する事を城中へも
知らせるようにと有り、石田より諸将に通達し、龍淵寺の僧を使いとしてこれを城中に伝達
すると、城兵たちもどうすることも出来ず、同月二十七日、浅野左京大夫幸長に対し城を
明け渡した。

(関八州古戦録)

忍城開城の顛末。

前編
彼らを謀ったのである


老翁物語の山崎から小牧長久手合戦まで

2019年11月26日 17:17

610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/26(火) 04:42:36.14 ID:EAOaT5Z9
天正十年六月十三日、明智光秀は山崎にて秀吉公の軍勢が上ってくるのを防ごうと
人数を少々打ち出していた。そのような所に、秀吉公の手勢である羽柴左衛門督(堀秀政)、
中川瀬兵衛(清秀)が山崎の宝寺(宝積寺ヵ)の上に打ち上った。明智の軍勢が山崎の
山八分目程に在った時、早くも秀吉軍の先手は嶺に到着しており、夜が明けるのを待ち受け
嶺よりおろし懸かり、鬨の声を上げて打ち立てた。

明智の者共はたまらず崩れ、勝竜寺城に向けて落ちていった。明智光秀も川を越えて逃げ、
江州坂本城へ向けて落ちて行ったが、山科にて穢多たちが多く出て鑓合いとなり、馬より突き落とされ
相果てた。こうして異議なく秀吉公は本意を遂げ、諸大名衆との関係も大形相調って御在洛になった。

その後、越前の柴田勝家と後取合となり、賤ヶ岳の一戦に勝家は打ち負け、越前は尽く秀吉公の
御手に入った。秀吉公方で鑓の働きで、加藤主計(清正)、同左馬介(嘉明)、糟屋内膳(武則)、
平野遠江(長泰)、片桐市正(且元)、脇坂甚内(安治)、石川兵助(一光)の七人が手柄をなし、
これを七本槍と称した。

上方のことは前後ともに不案内であり、間違っている所も有ると思いますが、お尋ねに背く事も
出来ず、承り及んでいるのはこの様なものです。
(上方之儀前後無案内之儀候條、相違儀も可有候、御尋之旨難背候て、承及所如斯に候。)

この後秀吉公は、徳川家康公との御取合に罷り成り、尾張の小牧にて大合戦があった。秀吉公方の
池田勝入が鑓下に討死、永井右近(直勝)が討ち取った。秀吉公は犬山より撤退し、同国竹ヶ鼻と
申す城を攻めた。ここには織田源吾殿(長益)が家康公方に味方して籠もっていたが、秀吉公の
攻撃がはじまると、源吾殿の懇望によって城を請け取り、源吾殿は京都へと同道された。

(老翁物語)

老翁物語に記される山崎、賤ヶ岳、小牧長久手合戦の模様。「上方のことはよく理解してないので
間違いも有ると思う」と、書いた本人(毛利輝元の右筆であった小田木工丞)が告白しているのが
面白いですね。また賤ヶ岳七本槍から福島正則が外され石川一光が入っているのも興味深いと思います。



611 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/26(火) 06:59:44.30 ID:cw2k9F3T
>>610
あれっ!?山崎が超地味な話だな

八王子城の戦い

2019年11月14日 18:03

571 名前:1/2[sage] 投稿日:2019/11/14(木) 13:09:38.79 ID:LtK+6vTc
武蔵国多摩郡八王子城の城主である北条陸奥守氏照は、秀吉の小田原征伐に当たり小田原城に籠もり、
八王子城はその留守居として本丸には横地監物吉信、中の丸に中山勘解由家範、、狩野主膳一庵、
山中曲輪には近藤出羽守綱秀らが置かれこれを守っていた。

秀吉は北国の両大将(前田利家、上杉景勝)が八王子城へ向かったことを知ると、木村常陸介重茲を呼び、
過日のこと >>567 もあり、利家、景勝が無理な働きをしないよう、すぐに八王子表へ目付として行くことを
命じた。もしそのような事が有れば諌めるように、との事であった。
木村常陸介には太田小源吾一吉が差し添えられた。

四月二十四日、北国勢は朝駆けで八王子の町へ入るや一気に押し破り、道々あさぎりの中に見張っている
足軽たちを撫で斬りにし城壁へ詰め寄った。そしえ本丸を上杉景勝、中の丸を前田利家が攻めると決め、
また松山城で降伏した木呂子、難波田、金子らを先陣として山中曲輪を攻めさせた。この松山衆はその夜、
夜討ちをかけ、山中曲輪を守る近藤出羽守は奮戦するも討死した。寄せ手も若干討たれたが、敵の首級
三百五十余を得た。これを見た本丸、中の丸の雑兵たちは肝を冷やし、大半が逃げ出した。
城に残ったのは中山勘解由配下の七百余騎と、その手の者僅かに百余人、他に軽卒二百ばかりであった。

中山は城に残った者たちにこう言った
「もしこの中に臆病者が居るなら、それは足手まといに成るだけだ。今のうちに落ちるが良い。
我等は久しく陸奥守(氏照)殿の恩沢に浴する身であり、斬死してもここを去るわけには行かない。
今一度言う。生命惜しき輩は落ちよ。私は少しも恨みには思わない。」

しかし誰も逃げ出そうという者は居らず「生死を共に仕らん。」と、喜び勇んで矢弾を飛ばして
寄せ手に挑み戦った。この攻撃に寄せ手では見る間に死傷者が増えた。この時前田利家は配下の
者たちにこう言った

「先に上州の諸城を落とすといえども、関白殿下になんら功を認めて頂けなかった。されば、今度こそ
降伏を許さず粉骨して攻め殺さねば、何の面目が有って秀吉公に再びまみえようか。
もし首尾ならずんば、我等親子(利家・利長)はこの場において自刃する覚悟である。汝らもよくこの意を
体して忠墳すべし。」

この利家の言葉に、山崎長門守、前田又次郎、青山佐渡守らが先陣を承って金子丸を攻め破った。
ここを守る金子三郎右衛門は山崎長門守の郎党・堀角左衛門が討ち取った。
これと競うように、他の加州勢が中の丸を攻めた。城中からは中山勘解由、狩野主膳らが士卒を下知して
打って出て戦った。この時、前田利長の近習である大音藤蔵は、未だ十六歳であったが真っ先に鑓を入れ
組み討ちして敵の首を取った。続いて雨森彦太郎が高名をした。大音は先に前田利長の勘気を蒙り
蟄居の身であったため、首実検には漏れたが。その日の一番首との事で、勘当が許された。

城方の中山勘解由、狩野主膳らは自身で鑓を合わせ、太刀を抜いて戦ったが、もとより多勢に無勢であり、
衆寡敵せず城中へ引き上げた。加州勢が尚もそれを追って攻め立てたが、秀吉より目付として遣わされた
太田小源吾が誰よりも先に塀へよじ登り城中へ押し入った。小源吾もこの功により、後に秀吉より
豊後国国崎郡杵築城三万五千石を拝領した。

572 名前:2/2[sage] 投稿日:2019/11/14(木) 13:09:57.95 ID:LtK+6vTc
中の丸に立て籠もっていた三百余人は多くが討ち取られ、今や十余人となり、そのうえ皆深手を負っていた。
そこで「今はこれまで」と詰の城へ引き籠もり、そこに避難していた足弱(女子供、老人)達を先に刺殺し、
自分たちも心静かに腹を切った。

前田利家は高地に馬を立てて城方の働きを見ていたが、松井田、松山で降った金子、小岩井達を呼んで
尋ねた「城方の者たちは、やがて斬死するか自害して果てるであろうが、あの中に見知った者は有るか。」
「はい、居ります。一人は中山勘解由と言って、武蔵七党の丹党の末裔で、古来より名のある者です。
もう一人は狩野一庵といって豆州の侍で、元は北条氏照の右筆でしたが、才覚あり数度の戦いで戦功を
成し、出世して一廉の武将となり、今は倅の主膳正に家督を譲り、自身は出家しています。」

利家はこれを聞くと「直ぐに馳せ向かい、その者たちが我等の陣に加わるよう説得するのだ。」と命じた。
金子紀伊守の小岩井雅楽介はすぐに八王子城に駆けつけ城門を叩いたが、何の答えもなかった。
彼らは脇門を押し破って中に入ったが、中山も狩野も、既に自害して果てた後であった。二人は致し方なく、
戻ってこれを利家に伝えた。「惜しむべき武士たちである。」利家はそう、彼らの最後を哀れんだ。

後に、徳川家康はこの八王子城での戦いの様子を聞くと、中山、狩野の忠節に深く感じ入り、関東入国後、
武州辺りを放浪していた中山勘解由の嫡子・助六郎照守、次男の佐介信吉を探し出し、召し出して
旗本として取り立てた。そして兄に勘解由、弟に備前守の名を与えた。今もその子孫は続いているという。
また狩野一庵の息子・主膳正も家康によって取り立てられ、慶長五年の庚子の役(関ヶ原の戦い)では
濃州岐阜表で二番鑓の誉れを立てたという。

(関八州古戦録)

八王子城の戦いについて



小田原城、早川口攻めと豊臣秀吉

2019年11月09日 18:28

321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/09(土) 12:33:12.19 ID:vMeEitIm
笠懸山に一夜城を築いた豊臣秀吉は、その高台よりつくづくと小田原城を見下ろすと
「北条家五代の間、面々と工夫をこらし修営を加えた名城だけ有って、塁壁高く、
水流は深く掘られ、要害堅固である。」と感心し、これを力攻めすればいかに多くの損害が
出るか、またそれによって敵に利を与える事を悟った。そこで、後はただ長陣を張って
ゆるゆると攻め落とすことだと考えた。

そうして間断なく攻めはするが無理押しをせず、連日鬨の声を上げて敵を脅かし、矢弾を飛ばすことを
一日も怠らなかった。毎日数万の鬨の声と、数千の銃声が山野にこだまして天地を轟かせ、
磯山嵐か沖津風の如く五里十里の間に響いた。それが昼夜を分かたず行われたのである。

しかしながら城中でも、早雲以来累世の恩を被る関東武者四万五千余りが、既に生命を投げ出して
城の要所要所を固め、大筒を仕掛け、盛んに寄せ手に撃ちかけるので、上方勢も城壁に
近づくことが出来なかった。

秀吉は韮山城攻めに加わっていた北畠内大臣(織田)信雄、細川幽斎・忠興父子、福島左衛門太夫(正則)を
呼び戻して小田原城の攻め口に向かわせた。その中より特に細川忠興を呼ぶと

「小田原城の、早川口の松山に敵は砦を築いた。これまで色々と攻撃したがどうにも落ちない。
そなたが計略を以て落とすように。」

と命じた。忠興は「畏まって候」とこれを受け、早速早川口に向かうと、先ず土嚢を用意し、弾除けの
竹束を作って砦へ近づいたが、その夜、たまたま城兵が打って出たのを、忠興の家人がこれを迎え撃って
戦い、敵の首級三つを得た。

翌日、忠興自身が指揮をして。堀際六、七間ほどまで接近した。

その翌日、笠懸山より早川口を見下ろしていた秀吉が、側に在った大谷刑部(吉継)に尋ねた
「遠くの大松の影に夥しい旗が立っている。あれは敵の旗か?」
「いいえ、あれは細川越中殿の旗印でございます。」
「なんと、よくあれほどの近くまで。」
「細川殿はご自身の働きで、今夜にもあの堀を埋めるのだと申されていました。」
「そうか、あれを落とせば今度の城攻めで一番の手柄である。」
秀吉はそう言ってにっこりと笑った。そしてその通り、程なく忠興は早川口の松山砦を落とした。

しかしこのような長陣に成ると必ずこういった事が起こるように、「徳川家康織田信雄はが
敵方に内通して反旗を翻す。」との噂が流れ、これが秀吉の耳にも入った。しかし秀吉は素知らぬ顔を
していた。

そして天正十八年四月十五日のこと、秀吉は突然、先達の案内も立てず近習の侍童五、六人を連れただけで
家康と信雄の陣を訪ねた。当然ながら家康も信雄も秀吉を快く迎え、陣中に酒宴を張った。
鼓、太鼓の音も心地よく、謡も出て、三人は何の拘りもなく歓談し、秀吉は家康、信雄の陣に
夜明けまでのんびりと過ごした。

これ以降、謀反の噂はたちまち霧散し、誰もが安堵に胸をなでおろした。

(関八州古戦録)

秀吉が細川忠興の活躍を促し、また家康信雄謀反の噂を消す、というお話。



石垣山一夜城

2019年11月08日 17:27

560 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/08(金) 06:28:46.53 ID:kr+sccjl
小田原北条家の宿老である松田尾張守入道(憲秀)は、かねて嫡子である笠原新六郎政尭(政晴)の勧めで
豊臣秀吉に内通していた。先に入道は、秀吉より依頼されていた、小田原城を見下ろせる土地として
笠懸山を選び、この事を堀左衛門督秀政を通じて真覚寺の秀吉本陣へ伝えた。そこは小田原の西南に有る
天然の要害で、風祭村の左に当たる松山であった。

秀吉は箱根より、木樵の通るような険阻な道を通って山上へと上がった。そこは正しく城内を真下に見下ろす
位置であり、ここから攻められれば防ぐこと能わずという高台であった。
秀吉は普請の衆にも物見をさせて、早速ここを切り開き本陣を据えた。すなわち塀を架け、櫓を上げ、
壁には杉原紙の白紙を張って白土の壁に見せかけ、一夜にして城を築いたのである。これが石垣山の
一夜城と呼ばれるものであった。

小田原城内よりこれを見た北条勢は驚き呆れ、一夜のうちに石垣を築き、白壁を塗り、櫓を上げるとは
秀吉はただ人ではない、天満の化身であろうと、舌を巻き身震いをしたという。以後、この山を
石垣山とも、白壁山とも呼ぶようになった。

 啼きたつよ 北条山の 郭公

これはこの時、秀吉の作った発句である、

秀吉は徳川家康を呼んで共に高台へと上がり、小田原城を見下ろしながらこんな話をした。

「見られよ徳川殿、北条家が滅びるのももう間もあるまい。何と小気味の良いことか。」
「左様にございますな。」
「この上は、関八州は貴殿に進ずる事としよう。」

そう約束をすると、秀吉は着物の前をまくり、小田原城の方向に向かって小便をはじめ、家康に対し
「貴殿も共に。」
「然らば」
と、二人並んで小便をした。これより以後、並んで立ち小便をすることを、「関東の連れ小便」と
呼ぶように成ったのだという。

(関八州古戦録)



唐の頭に本多平八

2019年11月06日 17:21

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/06(水) 07:09:48.92 ID:gResndio
元亀三年十月中旬に、武田信玄の将・山縣三郎兵衛(昌景)は信州伊那へ打越、そこから東三河に出て、
武田信玄の遠州表への出陣についての準備をし、また現地の徳川勢との競り合いなどがあった。

信玄が十月中旬に甲府を立つと、遠州のたたら、飯田の両城たちまち落ちて御仕置があった。
乾の天野宮内右衛門に遠州定番の事、良きように申し付け、久野の城を御見回りの時、徳川家康
主要な侍大将たちが三ヶ野で太田川を渡って、四千の人数で打ち出てきた。

信玄は「あれを逃さぬように討ち取れ」と仰せになったが、徳川勢はこれが信玄の軍勢と知ると
引き上げ始めた。甲州武田勢は撤退を許さぬとこれを食い止めようとした。徳川勢に武田軍が迫ろうと
した時、家康の侍大将である内藤三左衛門(信成)はこのように言った

「家康様の八千の総人数の内五千がここまで出ている。そしてこのまま、武田信玄という名大将の、
しかも三万余の大軍と、家康様が出てこないうちに戦ってしまえば、敗北は必定である。
そしてここで負けこの軍勢が討ち取られてしまえば、家康様御手前のみの勢にてどうやって信玄と
合戦するというのか。ここは先ずもって引き取り浜松へ帰り、重ねて一戦を遂げたなら、その時はまた
信長様の御加勢もあるだろうから、それを付けて三河武者八千を以て無二の防戦を遂げる事が出来るだろう。」

しかしながら徳川勢の撤退については、既に武田勢が接近しすぎており、三左衛門の言うようにするのは
無理であると皆は申した。

ここで本多平八郎(忠勝)、この時二十五歳であったが、彼は家康の下で度々の誉れがあり、内々に
武田家でも名の聞こえりようになった武士であった。

平八郎は兜に黒い鹿の角を立て身命を惜しまず敵味方の間に乗り入れて、無事徳川勢を引き上げさせたので
ある。その様子は甲州にて昔の足軽大将、原美濃守(虎胤)、横田備中(高松)、小幡山城(虎盛)、
多田淡路(三八郎)、山本勘助、これら五人以来武田家に於いても多く見ることは出来ないものであり、
家康の小身の家に似合わぬ平八郎であった。

その上三河武者は、十人の内七、八人は唐の頭をかけて出ていた。これも過ぎたるものであると、
小杉右近助という信玄公旗本の近習が歌に詠み坂にこれを立てた、その歌は

『家康に 過ぎたる物は二ツある 唐の頭に本多平八』

(甲陽軍鑑)



316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/06(水) 12:54:26.21 ID:AkN9Xad1
なるほど唐の頭の平八郎ではなかったのか

秀吉の着陣

2019年10月31日 17:20

296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/31(木) 16:45:26.45 ID:yQb9vk7z
豊臣秀吉は天正十八年三月六日、尾州清州城に着陣、暫く滞陣して後、十八日に駿州藤枝の宿に入り、
翌十九日駿府へ入った。徳川家康はこれを待ち受けるため長窪の陣より帰っていたが、これに対し
石田治部少輔三成の寵臣が讒訴した
「家康公に二心有りとの噂が陣中に立っています。駿府城へはお入りに成らないほうが良いと
思われます。」
しかしこれを聞いた浅野弾正少弼長政が
「そのような事あるがずがない、それは風説であります。」
と秀吉に断言した。秀吉もその噂を意に介さず駿府に入城した。
駿府城での家康の接待は至れり尽くせりであり、秀吉も大いに喜び、その後清見寺へ移り、
また暫く滞在した。

家康は秀吉の通行のため、予め富士川に船橋を架けていた。しかしこれに対しても、疑心を持った者が
橋になにか仕掛けがしてあるかもしれないと疑義を唱えた。そこで浅野長政が、先ず自分から試しに
渡り、その旨を秀吉に伝えた。これにて秀吉も安心して船橋を渡ったという。

二十二日、家康は再び長窪の自陣へと戻った。
二十七日に秀吉は沼津に着陣。これを待ち構えていた諸侯は浮島ヶ原へ出て秀吉に謁見したいと
前日より申し出ており、秀吉も征途の途中ながらそれを許し、近侍五、六名を限って召し連れ
対面したが、自分だけは京を出るときと同じ綺羅びやかな服装で出た。
徳川家康を始め、北畠内府(織田信雄)など、諸将、諸士雲霞の如く居並んで秀吉を迎え、その着陣を
祝った。

その後秀吉は竿ヶ原へ出て、昨年北条氏政父子の使者として大阪入りした石巻左馬允康政を拘束し、
牢輿に乗せてここまで連れてきていたが、この場で一命を助けて伊豆相模の境で小田原へ向けて追放した。
これは秀吉の着陣を北条父子に知らせるためである。

(関八州古戦録)



297 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/01(金) 06:45:25.96 ID:Z2BT9e6D
この時期の秀吉さんは自己プロデュースが本当に上手いよなぁ

信長一味の家康が遠き輝虎を

2019年10月29日 16:52

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/29(火) 00:31:24.89 ID:DgcMBnn4
元亀三年正月二十八日、越中の椎名肥前守(康胤)方より(武田信玄へ)注進があった。その内容は、

『去年三月、徳川家康が越後の上杉輝虎(謙信)に二人の使いを以て起請を頼み入れ、謙信もこれを喜び、
家康に対し無沙汰あるまじと誓言したと言うことを確かに承った。家康より謙信への進物は唐の頭一頭、
輝虎は御返礼に月毛馬一疋を進呈した。

この事について長尾家の衆はこのように言っている。今回のこと、定めて家康が味方が信長だけでは頼り少ないと
考えた故であり、輝虎にとって喜ばしいのは、家康を旗下にするという事で、北国は言うに及ばず、都までの
信長の威光が振るわれている国々に於いても、謙信の弓箭が強いからこそ信長一味の家康が遠き輝虎を
頼んだのだと評判に成るであろう、と。

そういう事であるので、今年は謙信が信州に出てくることは無いであろう。』

という注進であった。

(甲陽軍鑑)

武田家に報告された上杉徳川同盟についての情報



287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/29(火) 06:46:32.36 ID:MTRMYDbr
「唐の頭に本多平八」ってやつやな

「助五郎よ」「竹千代よ」

2019年10月21日 17:20

284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/21(月) 14:26:08.65 ID:1elt2ogG
天正十年七月十九日、徳川家康は遠州引間郡浜松城を発進して、同月二十四日に甲州へついた。
柏原の傍らの勝山に旗を立て、そこに服部半蔵正成を残すと、自らは古府中の一条右衛門太夫信龍の
旧宅へと入った。そして若神子口へ大須賀五郎左衛門康高、榊原小平太康政、本多豊後守康秀の
三人を遣わしこれを守らせた。これは敵を古府中へ近づけないためである。

同月二十九日、北条氏直と対陣したが、所々方々で徳川方が切り勝ち北条方は不利となり、
十一月にはこれ以上持ちこたえられないと、北条氏政、氏直父子の命を受け、伊豆韮山城主である
北条美濃守氏規が両家和議のために働き、幸い上手くいって氏直が退陣することと成った。
しかし氏直は退くに当たって旭山に砦を築きそこに番兵を置いたが、これが家康の気分を害した

「氏直のやり方には表裏がある。この上は是非に及ばず、一戦を交えん。そもそも今度の和議を
受け入れたのは、中にはいった北条美濃守が今川義元の全盛の頃、その人質として私も共に
幼少を過ごしたよしみによるもので、本来和睦をしたくはなかったのだ。残念ではあるが
今は運を天に任せて一戦あるべし。」

そして徳川方は物見を出すと、若神子より長浜へかけて陣を固め、その上で家康の意を込めた
書状を朝比奈弥太郎泰勝に持たせ北条方へ遣わした。弥太郎はただ一騎で北条方の陣に向かうと、
平沢あたりに入り乱れて陣を敷いている所に駆け込み、まず大道寺駿河守直繁の陣へ行き、
徳川家康よりの使いの者である。北条美濃守の陣所は何処なりや」と叫んだ。

駿河守はこれを聞いて案内を付け、朝比奈弥太郎を美濃守の陣所へ差し向けた。氏規はさっそく
その書状を読むと氏直に会い、和議の件が相違ないことを確認すると、その証拠として大道寺駿河守の
嫡子である新四郎を人質とし、彼を連れて朝比奈弥太郎とともに家康の陣へ同道した。

新府城に在った家康に、榊原康政が奏者としてその趣を言上すると、家康は承知し美濃守と対面した。
二人は共に幼少の頃より長く今川に人質に取られていた仲間であり、「助五郎よ」「竹千代よ」と、
その頃の話を懐かしく語り合い、飽くことなかった。

やがて美濃守は人質の大道寺新四郎を鳥居彦右衛門元忠に預け陣所を去った。後刻、美濃守は改めて
新府城を訪れ和議が整った。その折に家康が鵜殿長門守(長忠)の娘に産ませた姫(督姫)を、氏直へ
輿入れさせる約束も出来た。かくして北条の軍勢は甲信の陣を払い十一月下旬に小田原へ帰陣した。
それから間もなく、家康は大道寺新四郎を小田原へと送り戻した。

(関八州古戦録)

天正壬午の乱の和睦についてのお話。



285 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/21(月) 15:12:38.61 ID:nRo1POF0
>>277
一益さんの進退も見事だけど
>>284
家康さんもさすが動き速いね