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穴山梅雪の計略

2018年10月12日 18:59

303 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/12(金) 18:33:44.02 ID:b1m9QGCZ
穴山梅雪は曽根内匠と共に駿河江尻城の番手であったが、徳川家康へ内通せんとした。
しかし梅雪の妻子は人質として甲府に有ったため江尻を引き払うことは難しく、しかもその頃は
武田勝頼が梅雪のことを疑っていた。

そこで梅雪は密かに家康に内通を打診した。そして徳川方より『返忠可被仕』との書状を携えた
使節が来たのを忽ちに殺し、その書状およびその頸を勝頼へ送った。
勝頼はこの計略に偽られて、梅雪を疑う心が和らいだため、彼は妻子を引き取ることが出来た。

(士談)



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成瀬正成、名誉の挨拶

2018年10月10日 19:35

332 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 15:33:48.10 ID:ATyzqMd8
成瀬正成、名誉の挨拶


駿府にて東照宮(家康)が加藤清正に、常陸守殿(頼宣)、紀伊殿(浅野幸長)を
御縁者とするよう仰せ付けられた。
これは、常陸守を清正の婿にした以上は他の子息(義直)も同様にするように
(=義直の舅の幸長とも縁者になるように)との仰せ付けであった。

御次の間に清正が出たとき、清正に御当家(池田家)の家臣衆が
「只今の(家康の)仰せられ様には、きっとご満足されたでしょうね」
と申すと、清正は
「もちろんありがたいことですが、秀吉公の昔の厚恩は忘れられません」
と申したので、御当家の老臣はそれに対して挨拶することが出来なかった。

そこに成瀬隼人正(正成)が
「その思し召しは至極ごもっともですが、家康公の御恩を蒙った者も同様に
 家康公の御恩を重く思っているのです」
とたちどころに申されたのは"名誉の挨拶”であった。


――『烈公間話』


何の用にも立たざる氏真へ、くれられ候程用なくば、

2018年10月09日 17:25

288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/09(火) 17:04:02.59 ID:3PE+0Tuk
(武田氏滅亡後)

やがて信忠卿は諏訪へ参向されて父子は対面された。信長公は今回の信忠卿の大功は比類なしと
たいへん御誉めになった。かくて父子は計りなさり、

「徳川殿は駿河の諸城を速やかに攻め抜きなさり、その軍功はまったく軽んじるものではない」

として神君に駿河一円を進上された。神君は厚く感謝されてその上で、

「私めと今川家の旧好は忘れるべきものではありません。駿河は今川の旧領なので半国を分けて
氏真に安堵仕られたく存じます」

と仰せになった。信長はまったく御承知にはならず、

「何の用にも立たぬ氏真へくれてやりなさる程に必要ないのならば、信長が所領する!」
(何の用にも立たざる氏真へ、くれられ候程用なくば、信長所領すべし)

と御怒りになったので、駿河は一円に神君の御領地となされた。

――『改正三河後風土記』



289 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/09(火) 23:46:05.12 ID:9iQGbbh4
後の交流からして意外と家康は本気で今川に恩を感じていたのかもしれない
それにしても到底本気とは思えず対外的なアピールであろうが
それにしても氏真に駿河半国分けたいとか
生き馬の目を抜く戦国の時代に言うとは到底思いがたいな
後世にできた逸話に真偽を問うのは野暮だと判ってはいるが

290 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 10:17:50.10 ID:qxcritGB
秀忠と違ってカミギミは自費不快のです

291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 10:25:59.57 ID:LoT/qsy1
>>289
信長急死後、甲斐信濃手に入れても返してない所から見てもな・・・・・

292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 19:28:27.93 ID:35C0sJ8M
まあ駿河方面への調略に、上手く行かなかったとは言え氏真に協力してもらっていた以上、
心にもない事でも立場上言うだけは言っておく必要があったのかもしれん。

293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 20:19:13.07 ID:dpeX0mQH
>氏真
同盟破った武田は恨んでたけど徳川は別に恨んでないってのは武将らしくて好きw

294 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 21:01:48.05 ID:y0IcR6Me
>>287
それは浪士組として上京して、京都に残るメンバーを選別した時だな
新選組として徴募したときには特に制限してない

295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/11(木) 00:09:20.94 ID:DnnVud2J
>>293
まあ徳川が占拠した遠江はあくまで植民地で、武田が攻めてきた駿河は本国そのものだしな

鵜殿氏の菩提寺・長應寺と絵曼荼羅

2018年09月19日 18:18

西郡局   
293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/19(水) 00:03:49.27 ID:1YeLLr8Q
鵜殿氏の菩提寺・長應寺と絵曼荼羅


長應寺は文明11年(1479年)に三河・上ノ郷城主鵜殿長将によって建立されたが
永禄5年(1562年)に家康が上ノ郷城を落城させた際に焼失してしまった。
鵜殿氏はその後、家康に仕えることになった。

家康の側室の西郡局は鵜殿氏の出身であり、長應寺を再建しようとしていたが
長應寺の当時の住職だった日翁が、一族と共に江戸に来ていることを知り
文禄元年(1592年)、日比谷門内にて長應寺を再建させた。
西郡局が大檀越として寄進したため、その後の長應寺は大寺院となり
幕府から江戸の日蓮宗の取締を勤めるよう命じられるなど、隆盛を極めた。

ところが幕末になり、米英仏露蘭の外交官邸を江戸に設けることになったとき
オランダの公館が長應寺を借り受けることになり、寺としての機能を停止した。
公館は後に別の場所に移転したが、その頃には明治維新などもあり
武士階級は没落し信徒がいなくなり、檀家はわずか30戸余りになってしまった。

明治31年に住職となった日聡は、前年の北海道国有未開地処分法の制定を受け
一念発起して長應寺の敷地を売却し、同32年北海道に法華宗農場を開設した。
当時の北海道では仏教各派の布教活動が盛んで、開拓地の布教に際し
寺院の経営に必要な信徒を北海道に送り込むことは、宗門の意向であった。

農場経営は紆余曲折し、明治41年になってようやく長應寺の建設がはじまり
大正2年、現在の北海道天塩郡幌延町に長應寺は建立された。
ところが日聡の跡を継いだ住職が、同8年に本堂を全焼させてしまい
日聡は長應寺再建のため、同12年には農場を木材商人に売却することとなった。

現在の長應寺では毎年西郡局の命日に合わせて、法要「葵祭り」を開き
鵜殿氏が天文14年(1545年)に奉納した絵曼荼羅8幅を1日限りで開帳している。
同寺は他に西郡局の肖像画や、葵の紋の付いた着物等も所蔵する。


――『芝高輪長應寺記録』『法華宗農場顛末』など

法要を報じるニュース動画のURL
ttps://www.youtube.com/watch?v=SQFnleE7N5w



菅小左衛門、島津家臣に報復した咎により切腹する

2018年09月13日 21:12


133 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/12(水) 21:23:53.83 ID:qWWCnxkC
菅小左衛門、島津家臣に報復した咎により切腹する

慶長12年6月、駿府城の修築のため江戸から神君(家康)の荷物が送られていた。
国清公(池田輝政)は、船奉行の菅小左衛門に荷物の運送を命じた。
駿州清水で島津家の士が池田家の加子(船夫)に狼藉をして、加子四、五人に
怪我を負わせた後、江尻まで逃げていくということがあった。

そのとき小左衛門は陸にいたが後からこの由を聞くと、たった一人駆け出し
跡を追いかけて、島津家の家来が乗っている船に飛び込んだ。
奉行二人の内の一人と、下っ端を四、五人切り殺し、残った奉行を船の梁に
縛り付けて、自分の姓名をしっかり名乗ってから帰った。

当然このことは問題になってしまったが、(池田家臣の中では)
「小左衛門から仕掛けた喧嘩じゃないし、向こうが狼藉をしたんだから
 やむを得ないことなので、小左衛門は助命されるだろう」
という声もあったが、(幕府直参の)三浦志摩守が国清公の方へ参って
「喧嘩両成敗は天下の御法ですので、お助けすることは出来ないでしょう」
と言ったので、国清公もどうにも出来ず、小左衛門に腹を切らせることになった。

小左衛門はこのとき三十一歳だった。
死に臨み友人の安宅次郎左衛門に、遺言状を書き送った。

遺言状(『菅文書』)で小左衛門は父の惣兵衛について
「惣兵衛は年寄りなので、そちらの家に呼んで毎日慰めてあげて下さい。
 一、二年の間だけでもいいのでお願いします」
と、後事を託している。

小左衛門の子の九郎太郎は三歳だったが、父の知行四百石を与えられた。
九郎太郎が五歳のとき、(国清公は)家臣の石丸雲哲に
「あの九郎太郎は成長しただろうか、お城へ連れてくるように」
と仰せられたので、九郎太郎が登城すると国清公は膝元に呼ばれて
懇ろに仰せられたあと、菅若狭に守り立てるように命じられたという。

国清公が亡くなり興国公(池田利隆)が播磨に入ったとき、新参の者は暇を賜ったが
まだ十六歳で無役だった九郎太郎はそのまま仕えることが許されたという。


――『池田家履歴略記』



134 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/13(木) 20:31:03.63 ID:a5yC5vEo
こんなんどうしたら正解だったんや

135 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/13(木) 20:38:59.57 ID:oPuUvg4k
>>133
>加子四、五人に怪我を負わせた
これで五人も殺したのか…と引いてしまうのは現代の価値観かねぇ。

136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/13(木) 20:57:17.33 ID:1fmrxVb6
>>134
黙っていたら腰抜けとして処罰
反撃したら両成敗で処罰
詰みである
…仕掛けられないようにつねに警戒してろって事かな
でも向こう見ずな奴はこっちの警戒とかお構いなしだろうしな

>>135
やられたらやりかえせな精神だなぁ…
こういうの見るとハムラビ法典ってなるほど穏健な方なんだなと思わされる

137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/13(木) 22:03:12.47 ID:MdIF2uXQ
やられたらやり返してよい、ただしそれ以上はやり返すなの精神と
やった方も応じた方も罰なの精神は割りと似ている気がする

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/13(木) 22:25:24.85 ID:uGl7Zatq
長崎喧嘩みたいに徹底的に報復した後、先行して死ぬのが精神衛生上良さそう
どんなに精神強い人間でも沙汰待つ時は辛いだろうし

140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/14(金) 05:13:36.68 ID:joeuWfgB
>>135
綱吉による教化は本当に重要だったんだなぁ…

141 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/14(金) 10:10:59.23 ID:A3TosaDU
>>134
損害賠償を請求すれば良い。断られたら暴れる。

142 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/14(金) 12:04:56.52 ID:ErgQINDx
武士の場合、損害より面目の問題なんだよなあ

143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/14(金) 12:28:59.19 ID:7tKdY49C
鉄砲玉の身分はそうだろうね

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/14(金) 12:30:33.38 ID:uzG3c2Dm
室町時代から「故戦・防戦法」で理由の如何にかかわらず先に手出ししたほうを罪に問う、とやっても
ちっとも紛争を予防できなかった挙げ句の「喧嘩両成敗」なわけでな。

ちなみに江戸期を通じて「喧嘩両成敗」を適応した事例は、実は殆どないらしい。
法執行の側も、これが極めて理不尽な法であることを重々承知していた模様。

145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/14(金) 16:39:09.53 ID:LoLm7Buv
赤穂事件も喧嘩両成敗の対象にならなかったしなぁ
あれは浅野が罰せられるのは当然とも思うが

152 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/17(月) 07:34:05.39 ID:fSDtPYjS
どちらに理があるとか先に手を出したとか理非究明に時間がかかりすぎて評定が滞ったので家中の争いについては喧嘩両成敗にしたと言うのが実情だな

喧嘩両成敗を採用した大名も国衆の争いなんかは相変わらず理非究明をうたってるしね

家康に関連する苗字ネタ2発

2018年09月10日 21:09

265 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/09/09(日) 19:47:35.82 ID:wCzcxmWK
家康に関連する苗字ネタ2発を投下。ソースは自分が持ってる苗字関連の本から。

①勘解由
三方ヶ原の戦いのあと、三州吉田周辺に勢力をもっていた朝倉某に徳川家康は『勘解由』を与えた。
朝倉勘解由と称した彼の子孫の一部は『勘解由』姓と名乗って今に伝えている。
ちなみに、朝倉姓も勘解由姓も実は愛知県豊橋市が人口全国1位である。


②昼間
1591年、九戸政実が南部信直に反旗を翻し、南部領一帯で大暴れする九戸勢に対して豊臣秀吉から討伐を命じられた。
一路九戸へと出陣することとなった家康は井伊直政ら精鋭を引き連れて行った。
6月下旬~7月上旬のある日、家康は河越から岩付に向かう途中、夜中に入間川or荒川の橋を渡ることとなった。(元荒川のほうではない)
しかし、大軍ゆえによる人数分の松明を用意しておらず、渡ることに難儀していた。
そこにたまたま居合わせた近所の村民が対岸より松明を灯して家康軍を迎え入れた。
その明るさはまるで夜中なのに昼間のように明るかったため、無事に川を越えることができた家康は喜び、村民に『昼間』姓を授けた。

余談だが、家康は直政の一族にもある時に『昼間』姓を授けたそうだ。何で?
ちなみに小柴教授をノーベル賞へと導いた昼間輝夫氏は井伊系昼間氏の末裔かな?



266 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/09(日) 20:45:23.91 ID:z+zy6/DF
>>265
朝倉って宗滴が絡んだ騒動の時に越前から流れてきたんだっけか?

267 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/09(日) 21:09:26.35 ID:QLSVHmyP
東三河は勘解由さん普通にいるな
朝倉さんや朝比奈さんも見るけど鶴屋さんは会ったことがないな

268 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/09(日) 21:13:46.44 ID:poCWem/I
大学の同級生で伊地知っていう奴がいて、あ~鹿児島出身だな知ってる知ってる
と聞いてみたら全然違った思ひ出

269 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/09(日) 21:26:12.64 ID:v+y1rya+
>>267
懐かしいラノベネタを

徳島県三好郡にも昼間って地名はあるけど
そっちは涸沼(ひぬま)、沼を干拓したとか聞いた
こっちもそういう地名がもとで家康の名付けは後付かも

270 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/09(日) 21:32:25.78 ID:ZVXW6vWX
>>268
ルーツがそこにあるかも知れんけど子孫までそこ出身とは限らんからな

271 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/09/09(日) 22:38:04.69 ID:wCzcxmWK
>>266
自分もそう思ってたんだけど、わかる範囲内で該当する人物がおらず。
朝倉景高の息子のことかと思ったけども違ったので某にしました。
在地豪族の三河朝倉氏かもしれない。
景高の息子の在重は河内守で他は見当たらず。所領も駿河国。
在重も家康に仕えていたから在重のことだと思い込んでた。

272 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/10(月) 09:43:13.97 ID:96WbM6v2
>>268
まあその名前から見て維新後に役人として東京ほか地方に赴任してそのまま居ついたのかもしれんしな

274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/10(月) 17:58:00.69 ID:/8Q7GE1N
数年前に会った鹿児島出身の伊地知さんて人に会ったら
坂の上の雲のおかげで苗字は覚えてくれるけど印象が悪いと自虐してた

「曲淵討たすな!」

2018年09月10日 21:09

273 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/10(月) 17:51:10.78 ID:EDTskGAK
(天正壬午の乱の時)

北条氏直4万余の大軍が梶ヶ原まで迫り乙骨の徳川諸将は撤退を決した。一番は酒井(忠次)、二番は
大須賀(康高)、三番は石川(康通)、四番は大久保(忠世)、五番は本多(広孝)、六番は穴山、

七番は岡部(正綱)と定まった。ちょうどその折に甲州侍の早川弥惣右衛門(弥惣左衛門尉幸豊か)が
見舞いに来た。岡部正綱が「よくぞ来た。一手立て頼む」と言うと、早川は心得て勝沼郷に10人,

20人ほどずつをもって竹槍を使い大勢の伏兵がいるように見せかけた。また衣類を解いて旗のように
見せ、鉄砲少々を用意して北条勢に向かってこれを放った。北条方は伏兵がいるのではと怪しんだ。

こちらは時刻良しと7隊が段々と陣屋を焼き払って引き取った。北条勢はそれ追い掛けよと大軍が雲霞
の如く嵩にかかって敵を見下し、先を遮らんと競い進んだ。

味方は少しも騒がずに敵を嵩に見て、7隊一度に立ち止まり旗を立てて踏み堪えたため、敵はあぐねて
進みかねているところを、足軽を出して鉄砲を射ち掛けながら引き退き、10町ほど引いてはまた敵に

攻め掛かる風情で旗を立て直し踏み堪えた。北条勢がこれを見て少し挫けたところへ神君(徳川家康
は状況を聞こし召し、石川伯耆守数正を加勢に遣わされた。板垣(信方)の旧臣・曲淵庄左衛門吉景が

案内者となり地形を見定めて数正に備を立てさせた。そのうえ曲淵は北条の使番・山上郷右衛門顕将と
言葉を交わして槍を合わせた。伯耆守は「曲淵討たすな!」と命じ、石川勢が打って掛かれば、

氏直はこれを見て「敵は新手なり! 人数を引き上げよ!」と命じ戦を収めて若神子の方へ廻ったため、
味方は難無く新府へと引き返した。今日、忠次は先に引き取ったが、岡部正綱は後殿し、敵は5万に

近い大軍で味方は3千の人数をまったく7里の間に敵を引き付け、1人も手を負わずに引き取ったこと
は古今あるまじきこととして、後々までもこの6手の将を賞美したということである。

(原注:原書(三河後風土記)では、乙骨において双方大合戦があったように記すが誤りである。いま
武徳大成記・三河物語・柏崎物語に拠って改正する)

――『改正三河後風土記』


この私が継いだことは冥利の程にも恐ろしい

2018年09月09日 18:20

107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/09(日) 18:04:43.89 ID:jrybM0LQ
これまで天下のことは権現様(家康)が骨を折られて、矛先において天下を納められ、
沈毅である台徳院殿(秀忠)が御跡を継がれられここまで天下を治められてきた。
このことは唐にも日本にも稀なことであり、
その後を不肖の身であるこの私が継いだことは冥利の程にも恐ろしいことである。
これまでどうにか天下が治まるようにと朝に夕にと工夫してきたが、
あまつさえ近年は病気がちで天下の政事もうまく務められてはいない。
このことについて両御所(家康・秀忠)はどのように御思いになっているだろうかと心配になっている
だから昨日も其方(酒井忠勝)へこの思いを詳しく語って聞かせたのだ。

(小浜酒井家文書)
寛永18年(1641年)8月5日付酒井忠勝徳川家光御内書


駿河なる 富士の山にて 甲斐喰ひて

2018年09月08日 17:14

264 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/08(土) 13:28:08.62 ID:w0IFeFGc
天正7年(1579)己卯正月の頃、蓑笠之助という者が夢想に発句を感得した。

「駿河なる 富士の山にて 甲斐喰ひて」

この句を目出度き句として(徳川家康は)のし付きの太刀を賜り、その句を買いなさった。
またその頃、内藤四郎左衛門正成が夢中に感得したとして和歌を申し上げた。

「咲花に 和泉河内の 治りて 黄金の橋を わたる米倉」

とりどり目出度きこととして御館の人々は語り伝え、この歌夢を見てより百日に満ちる夜、
三郎君が御生まれになった。これは台徳院大相国(徳川秀忠)の御事なり。

遠江敷地郡浜松城で御生まれになり、御幼名を長丸君と申す。御首服をかえなさり秀忠公
と申し奉る。

――『改正三河後風土記(以貴小伝)』


淡路守の倅

2018年09月02日 13:16

77 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/02(日) 10:07:52.81 ID:QJT0qNQx
長篠の合戦の時、徳川家康勢が多田新蔵を生け捕った。下帯が赤地の唐錦であったため、
「お主は只者ではないな、名を名乗るべし」と問うたが名乗らず、
「ならば雑人の手にかけ殺す。名を名乗るならば切腹を許す。」
そう申した所

「父は若き時分は多田三八郎、この頃では淡路守と云う者の倅である。」

と、答えた。これは只者ではないとのことで、身柄を織田信長の元へと遣わせた。
信長は彼を直に召し出し

「淡路守の子に久蔵新蔵という両人があると聞いた。汝は何れぞ」

「新蔵也」

「名のある武士であるから命を助ける」

「既に縄目の恥の及び候へば、ただ速やかに頸を刎ねられることこそ辱し」

しかし信長は「縄を解け」と、信長の前で小手から縄を切り落とした。

新蔵はそのまま門の外に出たが、そこに長柄の鑓が立てかけてあったのを取ると、
そのあたりの雑人二人ばかりを突き殺し、これによって近くに居た兵士たちが集まり
取り囲んで、新蔵を斬り殺した。

信長はこれを聞くと
「惜しき事をした。そのまま雑人を4,5人も突き殺させておけばよかったのだ。
あたら侍をおのれらが不功者故に失ってしまった」と言ったという。

多田淡路守は信玄の時75人の足軽を預かり、足軽大将の内では、「小幡山城・多田淡路・山本菅助」と
並び称されたという。

久蔵は武田滅亡の折、勝頼に従い田野にて討ち死にした。

(士談)



78 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/02(日) 12:56:20.72 ID:YioYpOEF
>>77
主家が滅んでる以上どうしようもなかったろうな…。巻き添えの雑人カワイソス(´・ω・`)

79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/02(日) 13:03:08.47 ID:MbPSOSiK
>>77
花の慶次にこんな場面あったな

80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/02(日) 18:41:25.70 ID:qGog6piQ
>>77
山本菅助は原文ママ?

81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/02(日) 21:45:03.64 ID:lJxe7x5m
>新蔵はそのまま門の外に出たが、そこに長柄の鑓が立てかけてあったのを取ると、
>そのあたりの雑人二人ばかりを突き殺し、

雑人って門番かな?

82 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/03(月) 01:12:39.68 ID:FdLkwMdD
いきなり下帯ってことは捕まった時に全部脱いでたんだな

83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/03(月) 11:32:09.16 ID:r4ov/e1/
>そのまま雑人を4,5人も突き殺させておけばよかったのだ。


雑人の命軽すぎて泣いた

建部政長、父の所領等を安堵される

2018年09月01日 21:23

247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/01(土) 11:28:42.71 ID:Zzgw7J2Y
建部政長、父の所領等を安堵される


建部政長の祖父・寿徳は信長の家臣として中川重政、丹羽長秀の代官を勤め
本能寺の変後には秀吉家臣として、摂津尼崎三万石の郡代となった。
跡を継いだ寿徳の嫡男・光重は秀頼の近習を勤め、豊臣家の作事奉行として
吉野水分神社をはじめ寺社造営に関わったが慶長15年、33歳で没した。

政長はそのとき僅か8歳だったので、政長の外祖父*にあたる池田輝政
秀頼が幼少を理由に所領等を没収するつもりであることを知り、それを嘆いて
東照宮(家康)や台徳院殿(秀忠)に言上したため、片桐且元に仰せがあり
(秀頼に没収を撤回させて)政長は無事に、父・光重の跡を継ぐこととなった。


――『寛政重修諸家譜』

* 政長の母は池田輝政の異父姉の七条の娘で、輝政の養女として光重に嫁いだ。



248 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/01(土) 18:20:34.68 ID:8csF2RtP
こういう時に頼りになる口を利いてくれる者が人望を集めてくんだろな

249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/01(土) 18:47:59.20 ID:UhKkcb2m
秀頼もたいしてかわらんから、あったとしたら淀か大野か

「ああ天なるかな!」

2018年09月01日 21:21

75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/01(土) 02:23:17.54 ID:raZtNnU0
秀吉の義兵は3万余騎と聞こえ、光秀の狼狽は大変なものであった。丹波亀山の居城を一子・十兵衛光慶に
守らせ安土は明智左馬助に、佐和山は荒木山城(氏綱)に守らせて淀城は修築半ばにして洞ヶ峠まで出張し、

二男の阿古丸といって12歳の者を2度大和の筒井へ送り援兵を請うもやって来ないため、光秀は大いに
恨み嘆いた。味方に来たらずして叶わぬ長岡与一(細川藤孝)も筒井順慶も心を変じてやっては来ない。

織田七兵衛(津田信澄)は討たれ、徳川殿は伊賀路を経て帰りなさると推量しなにとぞ徳川殿を討って来た
者には士農工商の差別なく恩賞をその望みに任せるとその道々へ触れ流し、きっと一揆が取り籠めて

討ち止めるだろうと思ったが、思いのほか討ちもらして捨て置いても害にもならぬ穴山梅雪を討ち殺した。
よもや急には打って上るまいと思った羽柴は大軍、しかも食い止めるか討って上るかと思う毛利も加勢して

羽柴は早くも摂津を打ち立ったと聞こえた。イスカの嘴、このようにまで物事に齟齬が生じたことを光秀は
「ああ天なるかな!」と空を仰いで嘆息し、悔やんで泣きに泣いた。

――『改正三河後風土記』



76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/01(土) 13:55:32.52 ID:EcywMg4w
イスカの嘴
「ああ天なるかな!」

ラノベでありそう(小並感)

今度は遊びに飽きてまた浜松に帰ってきた

2018年08月25日 18:17

219 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/25(土) 13:27:40.22 ID:jvrexpct
今川上総介氏真が小田原を逃げ出て浜松に来たると、神君(徳川家康)は旧好を
思し召して懇意に御扶助なさったが、氏真は、

「近頃の都には歌や連歌、蹴鞠の朋友も多いし、退屈の慰みにもなるだろうか」

と京洛の方に徘徊し、今度は遊びに飽きてまた浜松に帰ってきた。

神君はなおも旧好を捨てなさらず、氏真は今は雲水に任せて浪々としているのを
このように懇意にもてなしなさり、天正7年(1579)10月9日、

浜松城へ氏真を御招きになり、善美を尽くして饗応なされた。御仁心ありがたき
ことなりと、氏真は申すまでもなく見聞きする者で感嘆しない者はいなかった。

――『改正三河後風土記(基業編年大成記)』



大坂冬の陣で家康から感状を得た横河次太夫重陳の話

2018年08月24日 10:15

207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/23(木) 19:10:59.80 ID:t0gJgy7I
大坂冬の陣で家康から感状を得た横河次太夫重陳の話


池田輝政が姫路に入国した際、横河次太夫*は船大将として召し抱えられ
高砂城の築城に際し、巨石を運んだ功があったという。
大坂の陣のときには、輝政の三男で13歳の忠雄の家臣となっていた。

さて、そのときの横河次太夫の水主に高濱十兵衛という人がいた。
この人は元は相撲取りで鉄砧と名乗っていたが、世に優れる大力の持ち主で
あるとき播州の海岸で喧嘩があった際、仲裁し和談をすすめた十兵衛に対して
逆に大勢が掴みかかってきたのを、十兵衛は左右の手に櫓櫂を二つ持って
振り回し、蜘蛛の子を散らすように退散させたことがあったという。

その頃横河次太夫は高砂に住んでいたが、次太夫も相撲好きであった。
それを知った十兵衛が次太夫を尋ねて来たので、次太夫の方も十兵衛を歓迎し
十兵衛は次太夫のところで逗留することになった。
その内に大坂へ出陣する風聞が立ったので、十兵衛が同道したい旨を次太夫に
頼んできたので、水主として次太夫に付いていくことになった。

池田忠雄は、薄田隼人(兼相)が守る博労淵(伯楽淵)の砦を攻めることになった。
隼人はその日神崎の娼婦の家に泊まり込んでいたため、砦を守る兵達も勝手に
知り合いがいる陣屋に行ってしまい、砦には四、五十人程しかいなかった。
蜂須賀至鎮の手勢がまず先に夜討ちを仕掛け、火花を散らして戦ったので
砦の者達の中で犬死を恐れる者がおり、本城へと引き取っていった。

蜂須賀勢も砦を押さえる程ではなく、一旦引き返してくるのと入れ違いで
横河次太夫は川を渡り、向こう岸に着いたと同時に陸に上がった。
夜討ちのときは物が多く落ちているので、逃げ散った者達が戻らぬ隙に
次太夫はなんでもいいから分捕ろうと槍を引っさげて、陣小屋と陣小屋の間を
進んだが城中には一人もいなかった。

実はその頃、本城へと引き取っていった者が三、四十人ほど連れ帰ってきたが
夜は既に白んできており、小屋より上に備前の船印(池田忠継勢)が見えたため
一人も進んでいく者はなく、本城の加勢を頼みに再度退却したという。
次太夫は"一人もやっていない"と言いながら、三、四町ほど追いかけたとか。

さて高濱十兵衛は槍を持たず刀だけ持って、味方の後を少し遅れて付いてきたが
後ろの葦原の中から”やらぬぞ”と声がし、槍で突きかかられた。
十兵衛はそれに気づいて引き返し、突いてきた槍の白刃を左手で引っ掴み
右手で白刃を握り直し手前に引き寄せると、大力の十兵衛に引っ張られて
相手が前の方へうつ伏せでべったり倒れたので、片手討ちにしたという。

そこへ敵を追うのを諦めた次太夫が帰ってきたので、十兵衛はこの旨を告げ
「我は新参の無名の者なので、自分の功には出来ません」
と次太夫に首をあげて辞退しようとしたところ、次太夫は
「その方の働きにて討ち取った敵の首を、次太夫が討ったことには出来ない。
 十兵衛が首を取って、その方の功名にしなさい」
と言ったので、十兵衛が手をかけてその首を取ったという。

208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/23(木) 19:11:23.07 ID:t0gJgy7I
甲を脱がせると五十過ぎの老法師の首に見えたので、何の用にも立たない首でも
今日戦った証になるだろうと、敵の帯びた刀脇差を分捕り本陣へと引き取った。
この次第を申し上げたところ、心馳せの働きをしたことには変わりなく
大御所様への御奉公の証拠になるので、住吉の御本陣で言上するようにと
言われたので、首を高濱十兵衛に持たせ横河次太夫が遣わされることとなった。

大御所様がこの首をご覧になると
「よく討った、これは平子主膳めの首である」
と上意があった。
この平子主膳という者は、年若き頃より大御所様に恨まれるようなことをし
お憎みが深い者だったので、兼ねてからその行方を尋ねられていた者だったが
此度大坂に籠城して、十兵衛の手にかかり討たれたという。
老いても世に聞こえる大剛の者で、容易く十兵衛に討たれるような者ではないが
急な夜討ちで味方が逃げるのに遅れ、息を切らして葦原に伏していたところ
物音を聞いてガバっと起き上がり、槍を引っさげて十兵衛に声をかけたのだろう。
戦い疲れた老武者が、足が弱って引き倒されたことこそ、運の尽きであった、と。

このときに良正院様(督姫)の御女中から、横河次太夫に御感状が出たが
良正院様は御子様の御初陣に、御家人どもに功名させたいと思われていたので
程なくして大御所様へもその功を仰せあげられたという。
御姫様の御頼みなので、家中では敵の番船を乗っ取った箕浦勘右衛門と共に
次太夫も、大御所様から感状を下されたという。

十兵衛が平子主膳を討ち取ったこともお尋ねになり、事細かに上聞に達したものの
無名の者なので功名にはならず、次太夫の功名になったという。
しかし十兵衛は真実平子主膳を討ち取ったということで、御直参に召し出され
御知行五百石取りになり、子孫も御家中(鳥取藩)では知らぬ者はいないのである。


――『雪窓夜話』



209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/23(木) 20:52:17.21 ID:kogqW73A
>>207
>十兵衛は左右の手に櫓櫂を二つ持って
>振り回し、
宮本武蔵より強そう( ゚Д゚)

家康の米蔵

2018年08月17日 17:15

177 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/16(木) 22:54:37.73 ID:5HD4XDkV
徳川家康の御代のこと。江戸の御蔵に納める米が非常に多く、故に欠米も多かった。
そのうえ、諸国の御代官所より当地までの運送の際の欠損も甚だ多かった。

そこで勘定方の者達より
「江戸の御蔵米の棟数を減らし、産地の近くで保管するか販売すれば、随分の徳と成ります。」
そう申し上げた所、家康は以ての外に機嫌を悪くして言った

「蔵の数が多いため欠米なども多く、私の損になっているという事は、かねてより知っていた。
しかしながら万一の事が起こり、諸国の新穀の、当地への運送が難しくなる、という事もあるだろう。
そのような時は米の値段も高騰し、諸方より集まっている江戸の人々が食料に難儀する事態も
考えられる。そういった時に米の放出が出来るように、江戸に米蔵を多く設置したのだ。

勘定方の者達は、今や天下の勘定頭とも呼ばれている。そういった者達がこんな事を、私のためだと
言い聞かせるような事が有って良いものか!?」

そう、殊の外叱ったという。

(駿河土産)

家康的にこういう損は許容範囲なんだな



178 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/16(木) 23:11:14.81 ID:98ciTnX6
大人口抱える都市は、ほんと備蓄が重要だなぁ…
足りないという噂が出るだけで米価が上がって大騒動になりかねないし。

179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/17(金) 04:11:18.70 ID:2aA0/P+T
損がでるからやめようよってのは今でもよくある話で目的を逸脱してることあるよな。

180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/17(金) 07:00:28.61 ID:g3i+Xb7x
建物を改修すると赤字になるので営業を終了させられた娯楽施設があったなあ

181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/17(金) 07:38:08.45 ID:GgA1qgKB
トヨタ方式で部品在庫を極限まで圧縮したら、東日本大震災でサプライチェーンが止まって、世界中の生産がピンチとかあったな

183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/17(金) 16:11:03.08 ID:0WeGR5bi
>>181
その代わり在庫に被害も出なかったけどね

流石増田の子だ

2018年08月15日 11:17

168 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/14(火) 22:30:22.72 ID:q6HYpvs1
大阪五奉行の一人であった増田右衛門尉(長盛)は、関ヶ原の後、高力左近(清長)へ御預となり、
武蔵国岩槻に置かれた。

増田長盛の息子である兵太夫(盛次)は、大阪冬の陣の折は将軍秀忠の軍勢に加わり
大阪表へ参ったが、戦いにおいて寄せ手の宜しき噂を聞く度に苦い顔をし、少しでも城方の
宜しき情報を聞けば喜悦していたという。

冬の陣和睦の後、駿府城に置いてこの事を徳川家康の耳に入れた者があった。
家康はこの話を聞くと

「それは近頃、奇特なる心入れであるな。流石増田の子だ。」

これだけを言い、何の咎めも無かった。

夏の陣の折も、もし牢人でいるようなら召し出し、親の長盛への監視も緩やかにせよと命じた。
しかし大阪夏の陣で、増田盛次は大阪城に入り秀頼の家臣として、長宗我部盛親の部隊へ入り、
5月7日、藤堂高虎の部隊と戦い、討ち死にした。

親の増田長盛も後日、武州岩槻にて切腹したという。

(駿河土産)



170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/15(水) 02:16:29.78 ID:5wQcQ5X+
ましたは二重スパイだったという説があるけど、三成寄りというよりは豊臣寄りだったんかな

てんかとりしつめ候

2018年08月15日 11:16

169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/15(水) 00:35:14.43 ID:+pbE6rsn
てんかとりしつめ候


以下は関ヶ原の戦いの後、池田輝政の祖母・養徳院
戦勝を祝う書状と贈り物を送ったことに対する家康の返書の意訳。

お手紙および贈り物を二品お送りいただき、祝着に存じます。
お聞きの通り、天下を取り鎮めました(原文:てんかとりしつめ候)。
三左衛門殿(池田輝政)も一段とご心労があったことでしょう。
何にせよめでたいのは、重ね重ね申される通りでございます。
めでたくかしく

やうとく院(養徳院)     内ふ(家康)


――『林原美術館所蔵池田家文書19号』


律儀なる佐竹義宣

2018年08月13日 18:45

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/13(月) 17:37:35.92 ID:edUVcuNz
権現様(徳川家康)が駿府城にあった時、御伽衆の一人が「誰々は殊の外律儀な人だ」と語った所、
これを聞いた家康は

「律儀なると者というのは極めて稀なものだ。私はこの歳に成るまで、律儀なる人というものは、
佐竹義宣以外に見たことがない。」

そう仰せに成った。しかしこれを御伽衆の者達は皆合点できなかった所、御前に居た永井左近が
「義宣殿を左様に思われるのはいかなる理由でしょうか?」
と申し上げた所、

「その方なども知るように、先年大阪にて石田治部と7人の大名たちの出入りの時(七将襲撃事件)、
治部は大阪を立ち退き、我等を頼み伏見に参った。この時大阪からの道中を佐竹義宣が警護して
上がった。その後、石田治部が佐和山に蟄居と成った時も、その道中において大名たちが語らって
彼を討ち果たすとの風聞があった、そのため私は三河守(結城秀康)に道中の見送りを申し付けたが、
これを義宣は聞き及び、『治部を大名共に討ち果たさせては一身の一分が立ちません!』と、
道中に目付け物聞きを置き、何か事が起これば即座に馳せ出して三河守と一手になって治部を
救援すると、上下とも軍装のまま待機していたという。となれば、律儀の人の実仁に紛れもない。

その後関ヶ原の一戦の時も、大阪方にも我々にも付かず、心底がわからず訝しいと思い、しかし
そのままには置いておけなかった。もし我等に一味して関ヶ原表に出勢し、戦功などあれば、朝熊も
先祖代々の領地であったし、水戸の安堵は相違無かったはずなのに、残念な事であった。

人が律儀というのは、褒めるべき資質で随分良いことでは有るのだが、律儀すぎると、
事に臨んでは一思慮無ければならぬものなのだ。」

そう仰られた。
(駿河土産)

自分も律義者と言われていた家康の考える律儀No.1は佐竹義宣なのね



152 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/13(月) 18:51:56.64 ID:2MDI+lEV
佐竹が関ケ原で東軍について戦功挙げたら、関東と南東北に合わせて100万石クラスの
大大名が登場するわけで、徳川にとって危険極まりないわけだが…

153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/13(月) 19:12:25.13 ID:2pUDfcy6
その場合は中国か九州あたりで大封を与えるんでないの

154 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/13(月) 19:17:19.99 ID:edUVcuNz
佐竹は秀吉に臣従した時は25万石だったのが、太閤検地で領地そのままなのに一気に54万石にされちゃってるんだよなあ。
単純に軍役倍って事だから、豊臣政権ってホントエグいと思う。

155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/13(月) 19:49:33.76 ID:k3r0B2xw
下手に東軍で活躍して大大名になってたら大阪の陣のあと血眼になって粗探しされて改易されてそう

156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/13(月) 20:16:21.87 ID:AaT6or0e
義宣ならやらかさんとは思うが
まあ突っつくなら配下の徳川氏とかか
あそこは将軍家に憚ることなく徳川を名乗り続けたよね

157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/13(月) 20:33:31.48 ID:Fqze60QX
>>155
関ケ原後に川井事件とか、お家騒動やらかしているしねい。
佐竹って小田原後、豊臣大名になってから中央集権化にやっと取りかかれて、
関ケ原後に転封されてからが改革の本番という感じだったから、
まだ家内統制取れていない段階で、しかも転封されずに大封になったら、
いったいどんなことになるやら…

158 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/13(月) 20:38:52.18 ID:T7fOEd4M
人間万事塞翁が馬だな!

159 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/13(月) 21:24:11.74 ID:wsGVjBat
>>154
無役16万石が設定されたから倍にゃなってない
島津の時もそうだけど検地の打出し分で大名の蔵入りを増やすのが主目的だしね

163 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/14(火) 11:12:30.83 ID:BRAOGxPy
>>157
関ヶ原後に転封なし加増ありで大封というと前田氏、最上氏、伊達氏くらいかな
その後を見てると結局は運次第かねぇ

164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/14(火) 11:16:13.37 ID:i/S8w+GS
>>163
基本、どれも田舎の藩だなぁ。

165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/14(火) 11:26:50.19 ID:uVBU3cE+
>>163
加藤

167 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/14(火) 13:34:42.18 ID:+D6JsEd6
>>151
朝熊って伊勢のだよね?ここが先祖代々の領地ってどういうことなの?

東照大権現、明暦の大火を警告する

2018年08月13日 18:43

31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/13(月) 18:23:06.99 ID:2royz9GR
酉年江戸大火(明暦の大火)前の除夜半過の時分、(久能山東照宮において)角材木を板啄に
打ち付けるような音がしたので、いずれの者も驚いた。御神前の番・相田喜左衛門と申す者は

御供所の方からと聞いて見に出ると、御供所にいた神田武兵衛と鈴木次郎三郎は神楽所の辺り
から音を聞いたとのことで、出合わせて見てみたが何ら変わった様子もなかった。

また常々御神前には鼠が多いため、御供えの餅を鼠が食べないように毎年寝ずの番をしていた
のだが、明くる正月3日の晩から突然鼠がいなくなったので火の用心をしていたところ、

18日・19日に江戸で大火事があった。以後また鼠が出るようになった。

――『東照宮御奇瑞記』

東照大権現、明暦の大火を警告するというお話。


まこと山鷹野のいうものには

2018年08月10日 19:01

142 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/10(金) 15:19:56.08 ID:xTnmvI7d
関ヶ原の合戦後、左京大夫(浅野)幸長は、それまでの甲斐より、加増を請け37万石の知行高にて
紀伊国を拝領仰せつかった。

その頃、後藤庄三郎熊野に参拝し、その後江戸表へ下った。
この後藤庄三郎徳川家康は聞いた「その方は先ごろ熊野山に行ったが、その帰りに紀伊国へ
見舞いに行ったか?」

「はい、上意の如く和歌山の城下に10日あまり逗留いたしました。」

「ふむ…。逗留中、紀伊守(浅野幸長)は、何かお主への馳走を申し付けたか?」

「紀伊の川と申して、吉野、高野の麓より流れ落ちる大河がありました。この川に船で出ると、
そのお供をいたしました。網を下ろし魚を取らせている所を見物しました。

その後山鷹野に行かれる時も私も同行いたしましたが、これは殊の外目覚ましき見ものでありました。
しかし、その山鷹野で私には合点の参らない事がありました。」

「それは何か?」

「はい、その時は雉や山鳥、その他鹿ムジナの類まで物数多く獲れまして、定めて幸長様のご機嫌は
良いだろうと考えていたのですが、実際には大いに腹を立てておられ、列卒の奉行を始め、その他役懸りの
者達は散々な目に遭っていました。

そしてまた一度山鷹野がありましたが、この時は何も獲れず、殊の外獲物となる動物も少なく、きっと
幸長様は不機嫌であろうと思ったのですが、実際には一段と機嫌よく、諸役人たちに「骨を折り大義である」
などと声をかけ、褒美まで与えていたのです。」

これを聞いて家康は笑いだした

「それはその方たちが合点できないはずだ。紀伊守はそうしていたか。まこと山鷹野のいうものには、
獲物の多少は関係ないのだ。」

そう仰せに成ったという。

(駿河土産)

では山鷹野は何を目的にやってるんですかね?



143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/10(金) 15:25:31.54 ID:qxtBfCSp
畜生とはいえ張り合いがないので立腹していたんだろう

145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/10(金) 16:41:44.84 ID:NjMSuH7B
>>142
大漁だったのは家臣が自作自演で用意してたのかな?
少なかった時はガチだったので機嫌が良かったとか。

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/10(金) 18:32:35.70 ID:SKO93wDX
武士の感覚で言うとさ

獲物が多い→うわーざっこwつまんねーおもんねー→不機嫌

獲物が少ない→タマ当たんねー逃げるのうめーやり甲斐あるわw→上機嫌

148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/10(金) 19:15:25.23 ID:RFs/7dHc
個人的には>>145の考え
役人たちが獲物を集めてきて放ったのかなと思った

149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/11(土) 00:40:42.42 ID:GyktD+Pu
鷹狩りは軍事演習なので苦労しないと訓練にならないのでは