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さらに心の許されぬ男である

2021年02月28日 17:04

617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/28(日) 14:44:02.56 ID:uwKv/9gu
ある人の言ったことによると、信長公が明智に滅ぼされたのも、尤もな事であった。
その故は、この殿は心猛くして、智浅くあられた故に、後難を顧みず、人の悪行をてきめんに
宣われたこと度々であった。

ある時、家康公が信長にまみえられた時、松永弾正(久秀)がその座に有った。
家康公は松永に対し、礼譲を厚くされていたのを、信長は見られて

「いやいや、あの弾正は左様にあしらわれる者ではない。元来弾正はわずかなる小身の身であったのを、
三好が取り立て大身に成した。しかるに聊かの恨みを含み、旧恩を忘却して、たちまち謀反反逆を企て、
三好を滅ぼした。そうして天道に背きし故に、戦に利を失い、流浪の身と成って、今、我を頼んで
ここに来ている。されど、さらに心の許されぬ男である。」

そう、苦々しく宣われたため、松永は面目を失い顔を赤らめてそこに在った。
その恨みを思ったのか、公方(足利)義昭に御謀反を勧め、信長に敵対したが、微運によって
望みを遂げずして滅んだ。
明智も信長公に遺恨が有ったのだという。

これに聞きどころ有り、心を付くべきものなりと言う人がある。ただ人は、恨みを受けぬように
ありたきものであると言った。

備前老人物語



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上様は毛嫌いを

2021年02月25日 18:43

611 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/25(木) 16:55:00.29 ID:J/vuJaWh
慶長六年九月十五日の昼過ぎて、家康公は表に出御された。御機嫌良く、色々様々の御咄があった。
堀尾帯刀(吉晴)、大島雲八入道、猪子内匠、船越五郎右衛門が御前にあり、船越がこう申し上げた
「去年の今日、御合戦(関ヶ原の戦い)の日もあめが降りましたが、今日も雨降りです。」
これに家康公は御機嫌良く、お笑いに成った。

猪子内匠が申し上げた
「田中(吉政)の人衆は敵に遭い、三町余り敗軍しましたが、誰かが『返し候へ!』と下知した
ようにも見えなかったのに、引き返し敵を追い崩しました。田中の軍勢の働きは、見事でございました。」
そう申した所、家康公は仰せに成った

「あの時田中勢の間近くに、金森法印(長近)が吹貫を立て備えを成していた。しかしこれを敵と心得て
田中勢は馬を寄せなかった。法印の手勢と知っていれば、先へ押し出し、法印の居た所に馬を寄せて
いただろう。そうであったなら、敵を一人も洩らすこと無かったのに、法印の備えを知らなかった故に、
そのように苦戦したのである。」

総じて、家康公は弓矢の御咄などは、あえてなさらぬ人であった。相手によって、弓矢噺となった場合も、
脇からその事について存じている者が話し出すとそれにまかせ、御咄も止められた。
それを御小姓衆は、「上様は毛嫌いを遊ばされている。」と言っていた。
鶏を合わせた時、向かいの鶏を見て一方の鶏が退く場合、その事を下々では(相手の毛並みによって
好き嫌いをする、という事から)『毛嫌い』(これという理由もなく、わけもなく嫌うこと)と申していた。

慶長年中卜齋記



権現様が上総殿になされたことを御覧になっているので

2021年02月12日 17:45

554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/12(金) 00:57:21.20 ID:GC8RmT/X
権現様が上総殿になされたことを御覧になっているので

細川忠興が徳川家光の弟・忠長の乱行と処分について述べた条を抜粋して意訳。

一、駿河大納言殿(忠長)はこのごろ御手討ちが重くなり、小浜民部(光隆)の子を御成敗し、その後
  御伽の坊主も御成敗したとのことです。きっと並大抵でない曲事があったのかもしれませんが
  民部は西国の船頭に仰せ付けられているのに、あまりにひどいことです。これ以前に御年寄衆から
  固く意見を申されて(手討ちを)しない約束をしたのに、こんなことになっています。その上
  切った者を(切ったことを覚えておらず)次の日に呼ぶこともあるらしく、言語に絶します。
  この分だと一白殿(松平忠直)のような御身上になるのではないかと上下で取り沙汰されているので
  相国殿(秀忠)は何とも御沙汰をしにくいのではないかと思います。しかしながら、権現様が
  上総殿(松平忠輝)になされたこと(対面禁止処分)を御覧になっているので、不安です。
  他の例は置いておいて、(きちんと)罰せられるようにと思います。

――『細川家史料 細川忠興文書 八六四号』

忠興の危惧した通り、秀忠が生きている間は重い処分が下ることはなかった。



555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/12(金) 14:53:28.33 ID:7LaluMsR
忠興にここまで言われるって狂うにも程があるだろ

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/12(金) 17:41:28.60 ID:RJrUUo6C
秀忠も家老の朝倉宣正の力不足ということで一件落着させようとしたが
忠長が宣正は無関係って訴え出たということで本人の蟄居処分だからなぁ

単なる発狂と切って捨てるには色々事情がありそうだったりする

これが江戸瓦葺きの始めである

2021年02月11日 17:34

934 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/11(木) 14:46:00.13 ID:i3xmU3oN
当君(徳川家康)の江戸御打ち入りよりこの方、江戸の町は繁盛し、家居多く出来た。
しかしながら皆草葺であり、頻繁に焼亡した。

そのような中、慶長六年霜月(十一月)二日の巳の刻(午前10時ころ)、駿河町の職人の家より
火が出た。この時の大焼亡で、江戸の町家は一宇も残らなかった。

この時、御奉行の仰せに
「町中草葺であった故に、家事が絶えない。これを幸いとして、このついでに皆板葺きにすべし」
と言う由の御触れがあったため、町は尽く板葺きにて再建した。

そういった所に、瀧山彌次兵衛という者、諸人に秀でた家を作ろうと工み、街道の表の棟を
半分瓦にて葺き、後ろ半分を板で葺いた、人々が沙汰したことには
「本町二丁目の瀧山彌次兵衛は家を半分、瓦で葺いた、さても珍しき奇特である。」
そう褒め称えて、彼を『半瓦彌次兵衛』という異名で呼んだ。これが江戸瓦葺きの始めである。

古歌に「瓦の松」「軒の瓦」「瓦の屋」などと詠じている。瓦屋を「心かはらや」と、心の変わるに
寄せて詠んだ歌もある。件の彌次兵衛が人に「心かはら屋」した事、古今異ならない。

(以下瓦の歴史の解説が続くため中略)

然れば、家康公が興された江戸城の殿主は五重、鉛瓦にて葺き給われた。
それは富士山に並び、雪の峰に聳え、夏も雪かと見えて面白い。

今は江戸町は栄え、皆瓦葺きと成った。よろず広大に有って美麗なること前代未聞。
明け暮れに、人々皆見ることであるので、記すに及ばず。

慶長見聞集

江戸の瓦葺きについて



935 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/02/11(木) 20:29:56.99 ID:kTxHvqDA
江戸の町家は一宇も残らなかった。

これもう滅びてるじゃん

936 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/11(木) 23:27:28.73 ID:NT+lrpGI
>明け暮れに、人々皆見ることであるので、記すに及ばず。

今じゃ摩天楼だらけだから、記しておいて欲しかったなあ

以前TVで幕末の江戸パノラマ写真をカラー再現していたっけ?

このような大船を作り海に浮かべる事

2021年02月05日 18:12

916 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/05(金) 15:56:54.37 ID:sorY1wLB
慶長年中、徳川家康公は唐船(唐船とあるが、家康がウィリアム・アダムスに作らせた西洋式帆船の事と
考えられる)を作らしめ給い、浅草川の入り江に繋がれた。
このような大船を作り海に浮かべる事、渚からでは人力も及び難いだろう。一体どのような手立てがあって
浮かべたのか、私の分別に及ばない。

先年、江戸の御城の石垣を築かれるため、伊豆国にて大石を舟に積むところを見た。
そこでは、海中に石にて島を築き。水底の深い岸に船を付け、陸と舟との間に柱をうち渡し、
舟を動かす平地のような道を作り、石を台に乗せて、舟の中に巻き車を仕付けて、台につなげた
綱を引き、また陸からは梃子棒を持って石を押し遣り船に乗せる。
船中の巻き車の工夫は大変奇特である。

古歌に「わが恋は、千引きの石の泣く計り」と詠まれているが、千人で引くほどの石を千引きの石と言った。
今の時代には、大名衆が西国の大石を船に積み、江戸へ持ち来て、千人引きはさておき、
三千人、五千人引きの石を、幾千とも数しれぬほど引かれる事、実に夥しいものである。

さてまた、唐船を海中に出すことについて、海に綱や引き車を立てることも難しい。
陸で梃子棒を使っても及び難い。

されば昔、源実朝の時代に、鎌倉の由比ヶ浜において唐船を作られた。これに仔細有り(以下源実朝の
唐船作りの経緯と進水の失敗が延々と書かれているが中略)

先年作られた浅草川の唐船は、伊豆国伊東という浜辺の在所に川があり、これこそ唐船を作るべき
地形であるとして、その浜の砂の上に、柱を敷き台として、その上に舟の敷を起き、半作りの頃より
砂を掘り上げて、敷台の柱を少しづつ下げ、堀の中に舟を置き、この船を海中に浮かべる、という時に
至ると、河尻を堰き止め、その河水を船のある堀に流し入れ、水の力を以て海中へと押し出したのである。

こういった工夫を、昔の鎌倉の人は知らなかったのだろう。

慶長見聞集



これも鑓同前に

2021年01月30日 18:26

895 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/30(土) 16:17:40.34 ID:/QYGEpXb
長久手合戦の時、鑓(一番鑓)を入れたのは家康公の御方では、平松金次郎大脇七兵衛であった。
但し七兵衛は弓であった。

合戦後、家康公の仰せに「今度の鑓は平松金次郎である。」として、御座をお立ちになった所に、
七兵衛が御跡に付いて申し上げた
「私もその場に在りましたが、弓を仰せ付けられていたため、その役を守り矢を二筋放ちました。
これも鑓同前に成らないのでしょうか?」

家康公は御思案され、
「いかにも、汝が申す通りである。その証拠にせよ」
と、丁度手に持っておられた矢二筋を下されたという。
大脇七兵衛は良く申し上げたものである。

これは前田二郎兵衛という武功の人が語った事である。

備前老人物語



豊島の洲崎に町を建てん

2021年01月27日 17:31

879 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/27(水) 12:22:36.02 ID:K+heH9n3
かつて当君(徳川家康)が武州豊島郡江戸に御打ち入られてよりこの方、町は繁盛したが、
地形が広くなく、これによって、豊島の洲崎に町を建てんとの仰せがあり、慶長八卯の年、
日本六十余州の人夫を寄せ集め、神田山を引き崩し、南方の海を、四方三十余町埋めさせ、
陸地となし、その上に在家を立てられた。

昔、平相国清盛公は、津の国兵庫の浦に新京を建てんと、七ヶ国の人夫を集め、島を築かれたが、
崩れて島成就し難く、その後、石面に一切経を書写し、その石にて築いた所、誠に竜神が
納受されたのか、島は成就し、これによって経ヶ島と名付けた。そしてその島の上に
三町ほどの在家を建て、末代まで名を残した。
しかしこれを、今の豊島と比べれば、わずか十分の一に及ぶ程度である。

この新たな町はその外まで家が居続き、広大なること、南は品川、西は田安の原、
北は神田の原、東は浅草まで、町が続いている。
豊島の名の通り、民が豊かに栄えること、震旦(中国)の都は家居百万間というが、中々これと
比べるには足りない。

天地開闢より慶長までの世を考えるに、この(現代の)御代には及ばない。
上一人の御恵み深ければ、下万民、みな栄華に誇る。
「君が代は 千代に一度ゐる塵の 白雲懸る山となるまで」
(君の世が、千代に一度落ちる塵が積り、白雲のかかる山と成るまで)
久しかれぞと、人々は祝い侍った。

慶長見聞集



汝はどうして、他の者と共に行かなかったのか

2021年01月22日 17:53

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/22(金) 13:37:59.34 ID:5jChY7Bo
徳川家康公が有る時ふと、広間に御出に成られたが、この時広間には、番衆がただ一人しか居なかった。

「どうして番の者共は広間に詰めぬのか!?」

そう仰せに成り、御機嫌もよろしく無かった。
かの一人だけ在った者が申し上げた

「たった今までここに詰めていたのですが、皆相撲見物に出てしまったのです。」

これを聞くと家康公は
「汝はどうして、他の者と共に行かなかったのか。」
と仰せに成り、奥へと入られた。深きお考えの有る言葉であったという。

(備前老人物語)



860 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/22(金) 23:25:58.77 ID:yPt2QclP
>>857
予定外の時間に出てくんなってことだな
社長がふらっと予告なしで一般社員のフロアに出てきたらちょっと迷惑だしな

861 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/23(土) 17:34:28.59 ID:Fh3YuJ7t
>>860
最近の研究で出てきた人の良い家康さん像だと
最初の発言は「勤務中に役割を疎かにするとはけしからん!仕事に励むべきでは!?」と取れるし
その後の発言は「え!?相撲見物なら仕方ないね!そういうときは君も同僚に付き合った方がいいよ!(本当に必要なら小姓に探しに行かせるし)」みたいな発言とも取れる。

あるいは「たった今まで」という発言を「同僚を庇った」と解釈して「そういうときは君も行っていいんだよ(=同僚を私は責めない)」と言ったようにも取れる。
そうじゃないと三河者は責任者クラスがすーぐ腹を切ってお詫びしちゃうので。

というか本当に深い考えあったのか?
無理に持ち上げてない?

862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/23(土) 17:53:25.11 ID:WKvEYzad
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1502.html
番衆が城内で相撲取ってどったんばったんしてるとこに出くわした家康が
「相撲を取るときには畳を裏返すのだぞ」
と諭した話も出てたっけ

863 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/01/23(土) 17:53:49.45 ID:VockI350
いつもどおりの気持ち悪い神君持ち上げ
言論の自由なんてものがない江戸時代に
生殺与奪権を握られてる人を正確に評価できるわけがない

864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/23(土) 23:58:03.41 ID:LnvKmP+G
>三河者は責任者クラスがすーぐ腹を切ってお詫びしちゃうので。

こういった「殊勝な三河者」も後世つくられたものだよね

865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/24(日) 21:10:05.29 ID:EgpbTEhE
>こういった「殊勝な三河者」も後世つくられたものだよね
この点は全く否定しない。ただし

本多作左衛門が三方ヶ原の敗戦後に篭城後の兵糧どうすんの?荷駄は三方ヶ原に放棄したじゃん、って話をしているときに
「それがしが密かに蓄えた米がありもうす!」
と言ったけどそこで「お前、それ横領じゃあ…」と誰かが言ったら作左衛門さんは間違いなく罪を認めてその場で腹を切るし
三河者は家康含めて空気を読んで、「さ、さすがは作左殿じゃあ!」した話は好き。
家康さんは下手したら懲罰沙汰のインシデントに出くわした時に、丸く収める方法をよく存じておられた。

866 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/01/25(月) 01:15:26.05 ID:vUkIGv8n
まさにそういうのが「殊勝な三河者」だわな
たぶん後世の創作(少なくとも天下とった後
大半が松平家に歯向かった黒歴史とか封印してたんだろ

867 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/25(月) 09:49:11.79 ID:hHw/MJ1q
秀康の小姓として付けた自分の息子を無断で甥に交代させた本多重次だぞ
役を放棄しても自ら罪を被らない人間が、
その程度で罪を認めて腹を切るとは思えない

一里づかつき給ふ事

2021年01月20日 17:29

853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/20(水) 14:34:13.11 ID:shinWrHe
一里づかつき給ふ事

今は国が収まり、土民までも安楽である。世は澆季(末世)に及ぶと言えども、君は順徳を施し給われ、
仏法王法共に繁盛する、有難き御時代である。

然れば日本の五畿七道は、人王三十二代、用明天皇の御宇に定まった。六十六ヶ国に分けられた事は、
四十二代文武天皇の御宇である。道については四十五代聖武天皇の御宇に、行基菩薩が六町一里として、
王城よりみちのく東濱に到って、三千五百八十七里に極め、また長門西濱に到って千五百七十八里と、
くわしく図書に記し置かれたが、その境は定かではなく、これによって当君の御時代に、一里塚を
作るべきよしを仰せだされた。

日本橋は慶長八年、江戸町割の時節に新しく出来た橋である、この橋の名を、人間は名付けておらず、
天より降ってきたのか地より出てきたのか、諸人一同にこれを「日本橋」と呼ぶようになったのは
稀代の不思議とされた。そして、武蔵国はおおよそ日本東西の中間の国に当たるとの御諚があり、
江城日本橋を一里塚の起点と定め、三十六町を道一里として、これより東の果て、西の果て、五畿七道
残る所無く一里塚を築かせられた。

日本は年久しく治まらず、諸国乱れて辺土遠境の道は狭くなり、また曲がっていたが、そういう所を
見計らい、直線にし道を広げ、牛馬の蹄が労せないように、石を除き大道の両辺に松杉を植え、
小河には尽く橋をかけ、大河には船橋を渡し、日本国中、民間往復のたよりに備えられた。
これは慶長九年の事である。
万民喜悦の思いを含み、万歳を願いあった。
このような将軍国王の深恩に、末代までもどうしてこれを疎かに出来るだろうか。

見聞集



去る七日、大阪落城致したので

2020年12月29日 17:58

515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/29(火) 15:11:47.50 ID:udP4YAK5
元和元年の夏、秀頼が又叛逆(大阪夏の陣)をした事について、本多上野介(正純)より書状が
差し越され、『軍勢を催し、一報があり次第まかり登るべし』という内容を申し来たため、
その一報を待っていた所、上野介、駿河守(山口直友)より、卯月(四月)二十日の書状で
『五月の初めに到来するよう、早々に出陣するように』と申し越したため、
五月五日、島津家久(忠恒)は一万三千の軍勢を召し連ね、鹿児島を発し、領内の京泊という所から
出船し、肥前平戸に舟をかけた所で、駿河守方より、五月九日付の書状で、

『去る七日、大阪落城致したので、軍勢は残し置いて、手廻りばかりにて早々に罷り出るように』

と申し越した旨が、同十九日に到来した。そこで兵船を平戸より返し、家久は手廻りばかりにて
罷り上がり。六月二日、尼崎に着船致し、伏見に於いて権現様(徳川家康)に御目見得仕った。
行平の御太刀、正宗の御脇差、御馬ニ疋を拝領仕った。

同月二十七日、二条城に於いて舞楽を仰せ付けられた。七月朔日、御能が有り、同八日、
伏見の御城に於いて御能が仰せ付けられた。何れも家久は召し出され、見物を仰せ付けられた。
有り難き上意共であった。

島津家譜

大阪夏の陣における、島津の遅参について



516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/29(火) 16:11:07.65 ID:IlJRnCay
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5369.html
この逸話では島津義弘が天文を見ながら「ああ、大坂城の命、旦夕に迫る
自分が城中にいれば」
と嘆いてるけど、とてもそんな様子じゃないな

秀頼よりの使者

2020年12月28日 19:18

512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/28(月) 17:08:37.03 ID:haa7VbwK
慶長十九年、大阪御陣の前、豊臣秀頼より高屋七兵衛と申す者が薩摩に差し下され、
島津家久(忠恒)に味方を頼むとの内容の、九月二十三日の日付の書状と、
長銘正宗の脇差を相添えて到来したが、家久はこの書札と、それに「同心仕らず」とした
返書の文案を添えて、京の板倉伊賀守勝重まで差し上げ、家康、秀忠が御出陣なさる場合は
必ず馳せ参ると、伺い申した所、その返事に

「軍勢を相催しての上洛は、状況次第で致すべきです。たとえ両御所が出馬されたとしても、
下知が有る迄罷り上がってはいけません。」

と、伊賀守は申し越して来たため、家久は軍勢を揃えた上で一報を待った。

その後、秀頼より北川勝左衛門と申す者を差し下し、書札を以て、是非に頼み入るという旨を
申し来たが、家久は
「前の返事で申し遣わした通り、同心仕らず。重ねて使札を送ってこないように。」
と申し返した所、秀頼よりまた、武井理兵衛と申す者を差し下して来たため、家久は
この理兵衛を絡め捕り、秀頼よりの書状を添えて、山口駿河守直友方まで差し上げた。

島津家譜



琉球出兵について

2020年12月27日 17:28

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/27(日) 16:54:25.91 ID:E1J1ggJF
琉球国は島津家久(忠恒)十代の祖、陸奥守忠国に、普広院殿(足利義教)より拝領され、
永享年中より薩摩に従っていたのだが、近年それを懈怠いたし、殊更、島津家より権現様(徳川家康
への御礼を申し上げる旨を申し付けたのだが、了承に至らなかった。そのため軍勢を差し向けて
退治するという旨を、山口勘兵衛直友を通じて言上いたした所、たちまち御免頂いたため、
慶長十四年三月上旬、家久は家老の樺山権左衛門久高、平田太郎左衛門増宗に申し付け、
軍勢三千、兵船百余艘を差し渡らせた。家久も山川と申す湊まで出馬し、下知をした。

権左衛門、と太郎さえもんは先ず大島に手を付け、徳島へと参ったが、島の者共がこれを
防ごうとしたため、数百人を討ち取った。そのため永良部島は異議なく従った。

それより琉球の地に押し掛かり、四月一日、海陸より、国王の居城である首里という城に
取り掛かった。そして国王の尚寧が降参仕ったため、早舟を以てこの事を家久に申し越した。
これを使者を以て言上した所、権現様、台徳院殿様(秀忠)は御感斜め成らず、感状を下され
琉球国を永く家久に下すという旨を仰せに成られた。龍伯(義久)、惟新(義弘)にも同前に
御感状を頂戴した。

権左衛門、太郎左衛門は、尚寧を連行して、五月五日、薩摩に帰着いたした。

島津家譜

琉球出兵について



禁中より蘭奢待を賜ひ、家久に遣わす

2020年12月26日 18:29

797 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/12/26(土) 17:46:43.11 ID:1Nc7UExF
蘭奢待は信長以降だと『当代記』(寛永年間)、『新武者物語』(宝永年間)によれば、徳川家康本多正純大久保長安を派遣し
正倉院宝庫の調査を実施したが、実際には切り取らなかったといわれているが・・

近衛信尋本源自性院記』寛永5年10月1日条に「嶋津家久を訪ふ」、「禁中より蘭奢待を賜ひ、家久に遣わす」とあるそうで、
これはいつのものになるんだろうか?




西村義明「寿徳院玄由の閲歴について」『日本医史学雑誌』第四十六巻第2号より

798 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/12/26(土) 17:48:31.14 ID:1Nc7UExF
本源自性院記』のこの蘭奢待の記述は、テレビの「なんでも鑑定団」で取り上げられたこともありましたね、そういえば。



799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/26(土) 20:10:46.33 ID:IA6pxhFd
家久が京都に留学して公家と仲良くなってたよな
アレは何のためだったんだろう?

800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/27(日) 00:49:30.72 ID:MrQcvooJ
伊勢参りの話か

807 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/12/31(木) 11:35:21.92 ID:dvxsBnop
>>798
これは、「なんでも鑑定団」に自分は蘭奢待を持ってるって出場者がいて、肝心の鑑定結果は贋物(香木としては本物)という顛末でした。
その番組中に天下人以外でも入手した例として、本源自性院記の記述が紹介されたとのことです。

809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/31(木) 22:18:33.20 ID:VGYMyiZN
>>797
史上に切り取った記述があっても、その時切り取った分の全部が下賜された、とは書いてないので、
下賜した分と別に宮中にストックされてるんじゃね?

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/01(金) 02:25:15.50 ID:fcuIiM/Y
>>809
明治の時のは粗方下賜してしまったらしいが、殆ど小さい粒状か髪の毛の様な細く刻んだものばかりだったとか。
そういやある茶道家元所有の蘭闍待もそんな感じだった。
貴重過ぎて大きく刻めないのだろう。

824 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/05(火) 09:49:01.48 ID:Zpts00sW
蘭奢待といえばあの糸川英夫が香りを全化学合成しようと研究してたってほんとなんだろうか

宇喜多秀家の身柄受け渡し

2020年12月25日 17:00

509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/25(金) 15:58:29.84 ID:I0dSoLUQ
慶長七年、島津忠恒は上洛し関ヶ原での事を謝罪、家康は島津を本領安堵とした。
そして御暇を下され帰国の時、島津家との取次である山口勘兵衛(直友)に対し、このような内談をした

「備前中納言(宇喜多)秀家は、関ヶ原の敗北以後、薩摩に逃げ下り我らを頼って来た故に黙し難く、
領地の端に押し籠めています。どうか彼の一命を御助けに成るよう、次回にも御訴訟申し上げたいの
ですが、いかが仕るべきでしょうか。」
これに対し勘兵衛は「これについては本多佐渡守(正信)と内談し、重ねて申し越します。」と申した。

その後、勘兵衛の与力である和久甚兵衛が差し下され、『秀家を直ぐに差し上がらせるように。訴訟に
ついては本多佐渡守が取り持つ。』との旨を忠恒方に申し越した。
これにより、家臣の桂太郎兵衛という者に警護致させ、正興寺文之と申す出家を相添えて、秀家を
差し上らせた。慶長八年、八月六日に薩摩を発足し、同月二十七日、伏見に到着し、山口勘兵衛の
所まで案内した。

その頃、本多佐渡守は関東に下っていたが、本多上野介(正純)まで勘兵衛より連絡すると、
上野介より上聞に達し、
『秀家については、叛逆の棟梁であり本来は助け置くべき者ではないが、島津家よりの訴訟
黙し難く思し召され、死罪を宥し、駿州久能に召しおくべき』旨の上意があった。
これにより、忠恒より、一族の島津摂津忠政を以て御礼申し上げた。

その後秀家については、八丈島に流罪になったと承っている。

島津家譜

宇喜多秀家の身柄受け渡しについて



島津勢の、伏見入城について

2020年12月23日 17:27

782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/23(水) 13:57:37.67 ID:brU/Qaa4
惟新(島津義弘)の家老である新納旅庵、並びに本田助之丞と申す者は、関ヶ原の敗北後、出京して
鞍馬の寺中に忍び居た所を、探し出され生け捕りと成った。

検使の山口勘兵衛(直友)はこの両人をよく存じていた者故、惟新が逆徒に与した理由を委細に尋ねた。
これに旅庵は申し上げた

「惟新は権現様より御懇意にされていましたが、殊に伏見の御城に関して、御預かりに成るように、
予てより上意もありましたので、御味方申し伏見に籠もる旨を、私を以て鳥居彦左衛門(元忠)、
内藤彌次右衛門(家長カ)に申し遣わした所、彼らは『上意はそうであったかも知れないが。現在
伏見城は家康公より、両人に御預けに成られている以上、他人を籠めるというのは罷り成るまじき。』
と申し切られた故、是非無く敵に加わったのです。」

山口勘兵衛よりこの内容が上聞に達した所、惟新、疎意有るまじきと思し召されたと、非常に良い
反応であった。殊に、「龍伯(島津義久)、忠恒は在国のためこの事を知らないだろう、早々に
御断を申し上げるように」と、井伊兵部少輔(直政)、山口勘兵衛方よりの書状を相添えて。
本田助之丞を国元に差し下した。

島津家譜

島津勢の、伏見入城についてのお話



783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/23(水) 14:05:04.01 ID:5tzL6S0O
鳥居が島津を伏見城に入れなかったのはなんでなんだろうな
単なる連絡ミスか、このように島津が西軍につかざるを得なくする遠謀か(考えすぎか)
そもそも当時関東の監視役で上杉攻めに連れて行ってもおかしくない鳥居を
伏見城に入れて使い捨てにしたのもよくわからん

784 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/23(水) 14:20:09.68 ID:TT5hiS0Z
これ島津の言い訳で本当に伏見城に入ろうとしたのかかなり怪しい、西軍首脳になる連中と連絡取り合ってたはずでしょ義弘
そしてそもそも乱がおきるとかこれっぽっちも思っていなかったから、信用できる部下を使い捨てにするわけないでしょ
後世でこそ乱がおきるのを予期してたって扱いにされてるが、そもそも気づける訳ないだろと

785 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/23(水) 15:00:44.43 ID:5tzL6S0O
>>784
上方で乱が起きない前提で上杉討伐に行ったのなら、なおさら関東に領地を持つ鳥居を連れていかないのはおかしな話じゃないか
先鋒として使うだろうし調略にもいた方がいいだろ

家康と鳥居が別れの前の夜に酒を酌み交わしたとかって話は信憑性低いんだっけ?

787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/23(水) 17:01:06.36 ID:IBgVS5v+
>>785
信憑性低いよ
信用できる人間に政務で重要な伏見城の留守任せることがそんなにおかしいか?
万が一の為の留守番はかなり重要な役目でよほど信用できる人間じゃないと任せられないぞ
ただ、それは使い捨てとは言わない

788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/23(水) 17:07:03.62 ID:IBgVS5v+
逸話の信憑性もろくに見ないで今まで語られてたのがなくなってきただけの話でしょ
それをファンタジーとか言っちゃう時点で、ろくに史学の研究がどう進んだのかもわかってない無知ですってひけらかしてるよ

789 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/12/23(水) 17:16:35.25 ID:H68PMpJI
神祖様の天下が270年も続いたのになんで都合の悪い逸話くらい消せなかったの?
やっぱり反感持たれてたんじゃないのw

790 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/23(水) 19:51:01.53 ID:A/TETz5b
乱が起こると思ってたら息子くらい国に残すだろ

791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/23(水) 20:08:57.02 ID:RJRIPgSi
だいたいが後日談だろ

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/24(木) 09:40:05.63 ID:BF3EMBhL
>>789
「神祖でも誤る事があった」→「だから現役の俺らが誤る事もあり得るよね」
という理屈の為に積極的に訂正せず残していたという説は聞いた事がある。

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/31(木) 22:15:47.90 ID:VGYMyiZN
>>787
家康が西の丸に移ってからは大坂城が政治の中心も兼ねてて、伏見城の重要性はかなり下がってると思う。
だからこそ、忠誠心は厚いだろうけど、家康の留守中に代理が務まるような能力や格の持ち主じゃない鳥居を城代として置いて行ったんだろ。

何の方便もなく一戦の上、討死に相究めたり

2020年12月21日 16:57

777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/21(月) 16:07:51.96 ID:6LzXeZVW
権現様(徳川家康)が奥州に御発進(会津征伐)の跡に、五奉行たちが諸大名を相催し、権現様に
背き奉る企てが有るとの風聞が有った。

七月中旬、初めて惟新(島津義弘)の所に五奉行より、自分たちに一味するように申し越してきた。
惟新は「存じよらぬ儀であり、一味仕ることは出来ない。」と、二度にわたって返答したが、
その時奉行より

「今度のことは全く私の遺恨ではない。偏に秀頼様の為の企てである。あなたも最前、
秀頼に相背きまじきことを誓紙にし、かつ又、太閤の厚恩を忘却していないのであれば、
この度に及んで異議はありえないものである。もし同意しないのなら、あなたの今までの儀は
皆表裏に似たものである。」

このように、余儀のないことであると申しかけてきた。惟新は誓紙を黙視できないと考え、
是非無く五奉行に同意した。

この時、惟新の甥である島津中務太輔豊久は惟新に対して
「今度の合戦の勝負を考えてみましたが、権現様が御利運を得られるのは確実だと存じます。
詮無きことに与し、家を亡ぼされるのは嘆かわしい事です。その上権現様の、多年の我らに対する
御懇意は、並々ならぬものでした。早々に権現様へ御味方に参り、家を立てるべきです。」
そのようにたって諫言を申し上げた。これを惟新は承り

「其の方の申す通り、私もそう考えている。しかし余儀なく申し懸けられ、結果的に誓紙を破って
しまっては、たとえ権現様に味方申し上げたとしても、権現様は頼もしく思し召さず、
またそれ以後、島津家の誓紙誓言は偽事と考えられ、長く家の疵とも成るだろう。

私はあえて、これまでの御芳志を忘れ奉るのではない。これによって国元より人数を召し集めず、
有り合わせの人衆ばかりで出陣いたし、何の方便もなく一戦の上、討死に相究めたり。
さてまた、家の事は龍伯(義久)、忠恒が在国しており、この事についてはまったく存じては
居ないのだから、この事は重ねて御訴訟申し上げればよい。」

と、申し切られた。

島津家譜



778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/21(月) 16:57:30.84 ID:YtiveTFr
弁明のための創作なのは(恐らく当時でも)明白だからなぁ

義弘君が、死人に口無しをいいことに作った自分(と島津家)に都合のいい話だな

髪結職分は「一銭職」と唱えるべし

2020年12月15日 18:50

759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/15(火) 12:49:16.88 ID:Q4CyFfTC
北小路藤七郎は正長年中より元亀の頃、美濃国金華山岐阜に流浪した。
遠州三方ヶ原において、東照宮(徳川家康)が甲駿の武田大膳大夫晴信と御一戦あそばした頃は、
元亀三年十月十二日(実際には十二月二十二日)の事であったが、東照宮が東海道見附宿の袋井腋、さつ原へ
御帰城の際、大風雨にて天竜川は満水に及び、舟で渡ることも叶い難く、御難儀の所、丁度北小路藤七郎
行きかかり、川を見て浅瀬の瀬踏みをし、御案内したことで、恙無く川を越えられた。
御喜悦浅からず、これによって浜松城にお入りに成った。この時、殿を勤められたのは本多平八郎忠勝殿であった。

御引き揚げが済み、北小路藤七郎は三州原村までお供をし、そこで東照宮の御髪を揚げた事に対し、
御褒美として金銭が一銭、笄一対が榊原小平太康政殿を以て頂戴仕った。これによって、以後髪結職分は
「一銭職」と唱えるべし、という旨の台命を蒙った。そしてすぐにお暇を下され置き、それ以来、
一銭職の者たちは、諸国の関所、川々に至るまで、相違なく通過出来るようになった。

また慶長八年に江戸に御入国された時に、北小路藤七郎をお召に成り、「先年の御褒美」として、
青銅千疋を、伊那熊蔵殿を以て拝領した。

髮結職由緖之事

権現様、三方ヶ原では髪結にまでピンチを救われていたとは。
実際に髪結は江戸時代「一銭職」とも呼ばれていたようで。




763 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/12/16(水) 16:56:20.08 ID:JZwQXhxJ
一銭職にはこういう言われもあるわけで・・・

世界大百科事典
「髪結」
髪結にはまた一銭職(いつせんしよく)という異称があった。これは享保年間(1716‐36)に
髪結仲間が公儀に差し出した《壱銭職由緒之事》によると,三方原(みかたがはら)の戦のさい
髪結職の北小路藤七郎なる者が徳川家康の危急を救って賞されたことに由来するとしている。
しかし実際は,髪結発祥期に路傍に床を置き,通行人の求めにより月代をそり,髪を結ったときの
賃銭が1文で,一文ぞりと呼ばれたことに起因し,それから一銭ぞり,一銭職となったものと考えられる。

wikipedia
藤原采女亮政之(ふじわらうねめのすけまさゆき、1335年(建武2年)4月17日[1]または7月17日[2]または10月17日[3]没)は、
日本における理美容業の祖といわれる。昭和のはじめ頃まで全国の理美容業者は采女亮の命日である17日を毎月の休みとした[2]。
功績により従五位[1]。

采女亮の子孫は代々髪結を業としていた。徳川家康が武田信玄の勢に押され敗退の際、17代目北小路藤七郎が天竜川を渡る
手助けをしたことから褒美と銀銭一銭を賜り一銭職と呼ばれるようになった(なお理美容業の定休日が17日だったのは
家康の命日が4月17日であるためという説もある[2])。その後「御用髪結」を務め、21代幸次郎の時に江戸髪結株仲間(組合)を
申請した[6]。史料は亀山天皇時代の出来事から書き始められ、吉宗や大岡越前も登場する[書 3]。



なお北小路家本家は維新後華族となったとのこと。

本阿弥家と家康のつながり

2020年12月14日 17:32

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/14(月) 16:38:26.61 ID:oxFqGjix
本阿弥光二が次郎左衛門と名乗っていた頃、権現様(徳川家康)は駿府の今川義元の元に有り、
竹千代様と申されていた。その頃、光二は竹千代様の道具の御用を勤めており、朝夕に御膳を
召し上がる時には、いつも御相伴を仰せつかっていた。

ある時、竹千代様に義元より御脇差を下される事があり、その刀身について光二が仕った。
彼は駿州島田國房に二腰打たせ、出来の宜しい方を御差上げた。残った一腰は、義元より光二に
下された。これは現在も本阿弥家が所有している。

後に権現様が駿府を領有された頃、本阿弥のことを浅からず思し召され、光二の筋目をお尋ねになられ、
本阿弥光悦の倅である光瑳を、別して懇意にされた。
その頃、上様の所持する刀には、本阿弥の差料もあり、上意には光瑳の金剛兵衛の刀が、ひときわ
よく切れると申されていた。
そして家臣への御褒美の時、この刀は松平右衛門太夫殿(松平正綱)に下され、首尾よく御服も拝領
したという。

(本阿弥次郎左衛門家伝)

本阿弥家と家康のつながりについて。本阿弥光二は実際に駿河の今川家に出入りしていたようですね。



其方之者と不可存候、天下之者と可存

2020年12月08日 18:02

756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/08(火) 17:27:09.40 ID:wHMS4+2V
(大阪夏の陣、四月二十九日の樫井の戦いの後)同日夜に入り、但馬守殿(浅野長晟)より、
大隅(亀田高綱)と上田宗箇に同心して山口まで罷り越すように申し来た。
早々に参上した所、但馬守殿は

「両人ながら呼び出したのは、今日の鑓の、一、二を改めたく思ったためである。両人共に、
今日の合戦での次第を有り体に申すように。先ず亀田より述べよ。」
との事であったので、大隅が合戦の次第を申し上げた

「上田とそれがしが鑓を入れたのは、多分同時であったと思います。しかし、あの時私の周りは
騒がしかったので、分明ではありません。」

そう申した所、上田宗箇は
「いや、左様では無かった。大隅は私よりも、五、六間先に行っていました。」

もう申し上げたため
「そういう事であるのなら、一番鑓は大隅、二番鑓は宗箇である、という事だな。」
と仰せになった。その夜はまた、和歌山へ罷り帰り、この次第は浅野家の諸侍何れも承っている。

大阪落城の後、上田宗箇と大隅は京の二条城に召された。家康公の御前へは、大隅が先に
召し出され、直に樫井合戦の次第をお尋ねに成られた。そして但馬守殿を御呼びになり、こう仰せに成った

「この亀田は、当代に至り、両度御用に立った者である。彼をただ、その方の家臣と存ずべきではない。
天下の者と存ずるべきである」
(此亀田儀ハ当代に至り両度御用に立候條、其方之者と不可存候、天下之者と可存)

誠に以て有難き御諚であると存じ奉り、涙を流して御前を立ちかねるほどであった。

その次に上田宗箇が雄目見得いたしたのだが、今度の骨折りによって(関ヶ原で西軍についたことの)御勘気が
御免となるとの御諚であった。

その日、将軍様(秀忠)にも御目見得をし、一番は上田宗箇であった。「茶の湯は上がられるか?」
とのお尋ねがあり、罷り立った。次に大隅が罷り出でると、今度の働きを聞き届けられて居られた。
これにて御振る舞いが下されたのだが、たいへん騒がしい時期でも有り、兵衛様(徳川義直・浅野幸長の娘婿)に
申し付けたので、早々に参上するように、との御諚であったので、罷り立った。
その日、上田宗箇は既に但馬守殿の元から立ち退いていたので、大隅一人が兵衛様の元に参上仕り、
御振舞を下された。保昌五郎の御脇差を拝領した。これは現在、善右衛門に遣わし置いてある脇差の事である。

(亀田大隅守高綱泉州表合戦覚書)

大阪夏の陣、樫井の戦いでの亀田高綱の活躍とその評価について



「相馬利胤と競馬」

2020年11月10日 16:15

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/10(火) 10:19:40.67 ID:4Md3hubl
「相馬利胤と競馬」(『中泉記』より)
関ヶ原の合戦後、佐竹氏と親密な関係を結んでいた相馬氏は、佐竹の与力大名と目され改易を申し付けられた。
家中は佐竹を頼って秋田へ行くべき派と、先祖代々の地を枕に討ち死にする派で分かれたが、若き当主利胤は家臣たちを制して
「私が直々に江戸に行き、内府様に弁明する」と主張、江戸に出立した。
上杉と対陣した証拠を以て、相馬は徳川に弓を引いてはいないと説明する利胤に対し、家康は取り合わない。
しかし本多忠勝や本多正信は若い義胤に同情し、家康に執り成しをした。
すると家康は「儂の馬と相馬殿の馬とで競馬をし、相馬殿が勝てば所領安堵しよう」と言った。


競馬勝負の当日、家康が用意したのは南蛮渡来のアラブ馬。
一方義胤が駆るのは国産の小型馬。
馬力はさておき、競争をすれば前者が勝つのは目に見えていた。
仕切り役の忠勝の号令を合図に二頭の馬は走り出すも、障害の空堀をひょいひょい飛んでいくアラブ馬に対し義胤の馬はどんどん置いて行かれる。
その時、一発の銃声が鳴り響いた。予め忠勝が用意していた空砲である。
家康のアラブ馬は驚きつつそのまま駆けていったが、義胤の馬は空堀の中に落っこちた。
すると忠勝が「勝負あった」の法螺貝を吹いた。
「この競馬勝負、相馬殿の勝ちである」

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/10(火) 10:23:19.39 ID:g76GPFP8
納得いかないのは家康である。
「儂の馬の方が先を走っているし、相馬の馬は堀に落ちているではないか!?」
それに対し忠勝
「殿、戦場で銃声が聞こえた際にそのまま駆け抜ければ馬も主人も死に申す。
 銃声を聞いて馬と共に穴に身を隠すことこそ優れた馬術です」
忠勝に仕切りを任せた以上文句の言えなくなった家康は、仕方なく義胤の主張を認め、相馬氏は
宇多・行方・標葉三郡の所領を安堵されたのだった。

相馬が助かった話としては政宗の執り成しが有名だけど、本多忠勝・正信の助力もあったという逸話。
後世の創作だろうけれど、十代の若い義胤とそれを応援する忠勝と正信という組み合わせが実に「いい話」だなと思ったので。



690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/10(火) 12:17:45.87 ID:DY8T00l1
利胤と忠勝と正信の3Pがまず思い浮かんだ

691 名前:人間七七四年[saga] 投稿日:2020/11/10(火) 16:58:23.22 ID:wpOwM4Wp
義胤と利胤がごっちゃになってる気もしますが利胤の方が先に亡くなったんだっけ。