人々は康政に

2017年02月10日 14:10

610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/09(木) 19:29:50.26 ID:s+N83Bmb
榊原康政は尾州小牧山の陣の折、秀吉の不義を誹謗し、所々に札を立て、

『秀吉は織田家取り立ての臣であるのに、その主君の公達に敵し、神戸三七信孝を滅ぼし、
今度は北畠殿(信雄)に敵した。八逆罪の者である。これに与する者には、どうして天罰を
被らないことがあるだろうか。』

そう書いて人々に見せた。
これに秀吉は激怒し、
「榊原小平太を生け捕りしてきた者は、卑賤凡下を問わず、千戸候を以てこれを称する!」
そう諸将に触れた。

その後、秀吉が関白に任官し京都に滞在していた頃、織田信雄を通じて、徳川家康
秀吉は和睦をした。秀吉は妹を送って縁を結ぶとの事に成り、その事相調い三河より結納を
遣わすことに成ったが、このとき秀吉は、「その使者として榊原小平太を遣わすように」と
所望した。家康がこれを康政に伝えると、彼は畏まり、早速上京した。

康政が京に到着したその夜、秀吉が突然、康政の旅宿へ現れた。
「今回の使節に汝を名指しして呼んだのは、他でもない、先年小牧山対陣の時、この秀吉を誹謗して
高札をたてた憎さよ!汝が首となった姿をひと目実たいとずっと思っていた。

しかし今、徳川家と縁を結ぶに至り、あらためて其方の忠誠を一入感じ入った。まことに汝には
武臣としての実義がある。
私はこの事だけを言いたくて汝を呼び寄せた。但し、だ。我が妹を遣わす結納持参の使者が、
無官というのはいかがであろうか?」

そう言うと即座に奏達し、康政は従五位下式部大輔に叙任された。総じて徳川家の諸将の官名は、
この頃まではその殆どが僭称であった。しかし榊原はこの時初めて、式部大輔の位、口宣等を
受領したのである。

その後、秀吉よりの饗応も善美を尽くしたものであり、そこには相伴として、先に三河を出奔し、
十二万石の大名となっていた石川伯耆守数正が、あえて馳走に出されていた。
しかし康政は終始、数正と一言も口をきかなかった。
その後、秀吉に御暇申し上げ、三河へと帰った。
人々は康政に、節操を感じた。

(武野燭談)



『徳は善政に在り。善政は民を養うに在り』

2017年02月07日 15:26

592 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 20:41:30.36 ID:lRnEA01U
三州柏崎の百姓が、公事の不正を言い立てて訴訟に及んだが、終に負けとなった。
この時の町奉行は本多作左衛門重次であったが、この百姓「判決は依怙贔屓である」と、
方々にて悪口を吐き、あまつさえ落書などして誹謗した。

本多作左衛門はこれを聞いて、重ねてその公事人を呼び出し再審査を行ったが、
それでも判決は変わらず、今度は不正を言い立てたこの百姓を斬って捨てた。

その後、酒井河内守重忠が同じような公事を沙汰した。
公事の不正を言い立てて負けた百姓が散々悪口しているということを酒井は聞くと、
彼は地下人達を呼びつけ、どうしてそういう判決に至ったかを順々に説明し、敗訴した側にも
どこに非があったのかを言い聞かせ、得心するように理を解いた上で、悪口した百姓も
そのまま差し許した。

徳川家康はこの二つの裁判について、両人にその道理を尋ねた。
本多作左衛門は
「上を侵す者をそのまま差し置いては締まり無く、悪事も募りますから、毅然として申し付けました。」
と答えた。

一方酒井重忠
「こんな事で人を殺していたら、今後の奉行は必ず威を振るい、驕りが出てしまうでしょう。」
と答えた。

両人それぞれの政道であり、家康はこの事について、物を知る者に尋ねた。彼が申し上げるに
「上に逆らう者を刑罰するのは、定まった決まりですが、殺さずに治まることであれば、
殺すべきではありません。人を殺すというのは、やむを得ぬ上に行うものです。
尚書にも『徳は善政に在り。善政は民を養うに在り』と見えます。」

これを聞いて家康は、酒井重忠を一層大切に思ったとのことである。

(武野燭談)



595 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 22:44:49.94 ID:tjUQOI5Q
>>592
>それでも判決は変わらず、今度は不正を言い立てたこの百姓を斬って捨てた。

さくざがしかる(物理)

永禄六年〔足利氏の末〕諸役人附鈔書付考註

2017年02月07日 15:24

593 名前:1/2[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 21:56:10.18 ID:l0/11MB8
永禄六年〔足利氏の末〕諸役人附鈔書付考註

 塙(保己一)の『群書類従』の中に、『永禄六年諸役人附』というものがある。
これは足利氏の時代末期のものである。今その所載を抄書する。

「〔上略〕
外様衆 大名在国衆〔号国人〕
    山名次郎義祐改名左京大夫
御相伴 北条相模守氏康        御相伴 今川上総介氏実(真)  駿河
    上杉弾正弼輝虎  越後長尾      武田大膳大夫入道晴信 甲斐
    畠山修理大夫義継 能登之守護     織田尾張守信長    尾張
    嶋津(島津)陸奥守貴久         同修理大夫義久
相伴  伊東三位入道義祐 日向  
    毛利陸奥守元就            同少輔太郎輝元    安芸
    吉川駿河守              松浦肥前守隆信    肥前
    河野左京大夫通宜 伊予        有馬修理大夫義真 
    同太郎義純    肥前        嶋津(島津)薩摩守義俊
    宗刑部大輔    対馬        伊達次郎晴宗     奥州
    松平蔵人元康   三河        水野下野守      三河

関東衆〔以下略〕」

私、松浦清が説明を加える。
・山名義祐は、今交代寄合の山名靭負義問の祖先であろう。義問は六千七百石である。
・北条氏康は、今の相模守氏喬の先祖であろう。氏喬は狭山領主一万石。
・今川氏実は今の高家、侍従刑部大輔義用〔千石〕の祖先である。
・上杉輝虎は、米沢侯斉定の先祖、今十五万石。
・武田晴信は、今の高家、侍従大膳大夫信典〔五百石〕の先祖であろう。
・畠山義継もまた、高家で、侍従飛騨守義宜〔三千百石余り〕の先祖であろう。
・織田信長は、右大臣、今の羽州村山領主、若狭守信美の祖で、今二万石。
・嶋津貴久、義久は、薩摩侯隅州斉興の先祖で、今七十七万八百石。
・伊東義祐は、飫肥侯修理大夫祐相の先祖であろう。今の五万千八百石余り。
・毛利元就、輝元は、長州侯大膳大夫斉元の祖先で、今三十六万九千石余り。
・吉川駿州は、今の長州の属臣、吉川監物の祖であろう。防州岩国の城に居り、六万石を領している。
・松浦隆信は、わたくし清の十世の祖で、道可殿であられる。
・河野通宜は、今の久留島侯、予州の通嘉の祖先であろう。通嘉は今、豊後森領主で一万二千五百石である。
・有馬義真、義純は、今の丸岡侯徳純の祖先で、今越前で五万石。
・嶋津義俊は、誰か未詳だが、きっと今の薩摩侯の先祖であろう。
・宗は、今の対馬侯の先祖であろう。祖先の中に刑部大輔の称を見たことがある。
・伊達晴宗は、今の仙台侯の祖先で、元祖政宗の先祖であろう。今、斉邦は六十二万五千六百石余りを領している。
・松平元康は、かたじけなくも神君であられます。元康は始めの御諱であられる。
・水野下野守は、今水野越州、羽州、日州の先祖であろう。三氏は今それぞれ六万石、五万石、一万八千石。

594 名前:2/2[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 21:56:34.61 ID:l0/11MB8
 以上のことを見よ。世の興廃はかくの如しだ。これは足利が公方と称したときの外様衆である。
しかし、かえって今は主君であった足利がわずかに御旗本の輩に入っているだけで、
大名在国衆なる者も、あるいは旗本または外藩護衛の身分となっている。

 予の先祖の公や有馬伊東の輩が、恐れ多くも神君の上にあれども、
今となっては皆、御当家を敬拝尊従することに至っている。
これというも、神君の御高徳は仁義知勇を備えられておられる御大勲で、
いわゆる立身行道し、名を後世に揚げて父母を顕す者であられるからだ。
上杉武田の両雄、織田の威顕もいつのまにか跡形もなく、
毛利嶋津伊達の強大も、今はわずかにその旧を保つも結局臣伏し、
ただ水野氏は御当家に新属し、かえって古より富めるに至ったのであろう。

 これというも、日光権宮の御深仁である。
明智は論ずるに足らず。
豊太閤は、まだこの時匹夫で名も無い。しかし、たちまち広大になって、
ついには外国を掠奪するに至っても、その道半ばにして身を喪った。
天がなしたのであろうか。
 我が隆信君の子の法印公(鎮信)君は、豊閤遠伐の役に随われ、
出色の勇武であったが、ついに外国で賊徒の名を負われた。
いまこのように太平の時に随従できて内外で非義不仁の名を負う事が無いのも、
まことに神祖の大恩・大恵に違いない。


(甲子夜話三篇)



601 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/07(火) 07:07:58.26 ID:DeSn+Eio
>>593
山名義祐って赤松義祐のこと?

岡崎殿御生害之こと併異聞

2017年02月06日 17:55

580 名前:1/2[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 00:52:51.46 ID:l0/11MB8
岡崎殿御生害之こと併異聞

以前の類焼の後に、蔵書も多く燃えたので所々から本を借りて読んでいる。
その中には『三河記』という本がある。その本には以下の記述がある。

 八月〔年号は分からない〕、三郎殿〔神祖の御長子、信康君。岡崎殿と称していた〕が
神君〔原本には家康と書いてある。ここでは憚って改めた。下記も皆同じくした。〕
の御気に違わせられて、御牢人〔牢は浪と改めるべきだ。今は原本に従って改めない。〕
を連れて二俣へ出かけられた。
 この子細は、三郎君がわがままで、
宛へ〔宛は恐らく剰えの誤りであろう。あまつさえと読む〕神君の御意見にも従われない。
そのうえ家老の衆さえ、

「勝頼と一緒になられて、野心を企てています」

と申し上げるので、神君はこれらを聞かれると

「親に弓引く事は類例少ない次第だ」

と、服部半蔵に仰せ付けて失いなされた。
三郎殿は

「仰せ置きはなんとも悲しい。親に弓引く事は、ただ両説〔両はおそらく風の誤り。今は原本に従って改めない。〕の事なのに、家老の者が陰口を言うからと親が子を殺すのは、前世の因果と見える。
『我は大敵を滅ぼして天下の主となるべき』、と常に思いかけていたが、
あなたのような親にどうしてか子と生まれ死ぬ事の無念さよ。
二人の息女の事は、絶対に悪くあってはならない。
(『柳営譜略』には、信康君の長女は小笠原兵部大輔秀政室、次女は本多美濃守忠政室)」

と仰せられた。大久保一族その他の人々にも御形見を出し、

「我ゝ(このゝは、おそらく"が"の誤り)後生の事どもは、大樹寺を頼り、よろしく供養してくれ」

と、念仏十篇ばかり唱えながら、腹を十文字に掻き切った。

「服部半蔵! 介錯!」と迫るが、半蔵は

「三代相恩の主君にどうして太刀を当てれましょう。」

と刀を捨て激しく泣き悲しみ倒れ臥した。

「早く早く!」と仰せられるので、遠州住人の天方山城守が、泣く泣く御首を打ち落とした。
御年二十一歳と申すのは〔"は"はおそらく不要〕、花の想いを引き替えて〔"想"、恐らく"姿"の誤り〕、
朝の露と消えられた。

このことを、神君は聞かれて、御涙を流された。
後によくよく聞かれると、ただ偽りを申したため、支えを失われたと
神君の御後悔、御嗔り(いかり)は限りなかった。」

581 名前:2/2[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 00:53:15.31 ID:l0/11MB8
さて、ある人の言ったことを聞くと、
東都の中、渋谷の東北寺というところの後ろの山に、岡崎三郎殿の古墓というものが在る。
東北寺の地はもとは大久保侯〔今の小田原侯〕の別荘であったが、後に寺へ寄附されたという。
かの墓が在るのは、三郎殿が生害のとき、内実は大久保氏の先祖と謀り、
害死したと執り成したが、秘かに大久保氏が逃し後まで匿い置いて、
ついに寿命により終わられたので、その荘中に埋葬した跡であると相伝している。
他の書と照らし合わせるべきだろう。今のところは異聞としかいいようない。

またいわく、このようなので『三河記』に載っていた御生害の御年季と、
御墓標の御遺号が違っているという。

また、後年になってこの墓所につき御茶湯料のことを東北寺から願い出たが、
「たとえ真実であっても、今まで知られていないことを、
このように表に出すのは却ってよくない。」と宣告は容れられなかったと聞いた。

(『江戸砂子補』には、禅河山東北寺妙心派は、下渋谷に在るとある。この地のことだ。)

(甲子夜話三篇)



582 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 00:57:51.02 ID:IMsa1VVG
謀反を恐れて殺したのにノブのせいにするウンコ漏らし

583 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 16:39:04.29 ID:r2/kuP1d
>>580
誤字に対する注釈が面白い、今も昔もかわらんなー

584 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 17:53:59.41 ID:lRnEA01U
>>582
おまえこの本文全く読んでないだろ

585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 19:24:05.84 ID:PLy9AzSu
最近、秀吉厨と家康厨が活発にやりあっていてどこも荒れぎみだね

586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 19:46:03.96 ID:H2xryelB
まあ信長の武田恐怖症は異常だしな
岡崎が織田を捨てて武田に走る気持ちも分かる

“淫乱の人跡”とはいったい…

2017年02月04日 17:37

573 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/04(土) 03:17:10.72 ID:RWhjGdVD
権現様(徳川家康)が中原御殿におられた折、夜中、にわかに犬が
吠えたので、「誰か見て参れ」と仰せになった。

すると小姓衆が「見に参ります」と言い、御前で手をつき通ったので、

「斯様の時の礼は、かえって無礼ぞ。少しでも早く出て見るものぞ」
と、仰せになった。

さて、犬が吠えたのは“淫乱の人跡”と見えたので、詳細を密かに
仰せ上げられると、権現様は「良きぞ。黙れ」と、仰せになった。

(扨犬の吠たるは淫亂の人跡とみへたる故。委細ひそかに仰上られ
たれば。よきぞだまれと上意なり)

――『武功雑記』


“淫乱の人跡”とはいったい…




574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/04(土) 09:46:46.25 ID:dvy1U+wC
ギシアンかアッー!(ボソッ!

575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/04(土) 11:46:12.00 ID:iA9RwaR5
獣姦の詳細なんぞ聞きたい奴おるん?

576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/04(土) 12:10:27.53 ID:8RyG3zgi
>>573
>よきぞだまれと上意なり
これ素直に訳すと「解ったもういい黙ってろ。」って事だな。
家康が苦虫噛み潰したような顔でこれ言ったと想像すると結構面白い

一備の将たる者は、

2017年01月28日 09:19

545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/27(金) 19:20:26.74 ID:KqZEt9y/
一、一備の将たる者は、並の武士の作法に準ずるべきではありません。能く柔と剛を兼ねなければ、
  将たる道には至りません。
  一鑓合いの武士は強勇を表として、主のために命を惜しまないことを名誉とします。
  しかし一備の将たる者は、命を全うし、諸卒を懐かせ、駆け引きの作法を示し、勝つべきを
  見て進み、勝てないのを見れば引き取って後の勝ちを得ることに専念する。これは将にとっての
  法です。この心を忘れず、老功の者達とも評議し、尤も妥当な判断に従うようすべきです。

一、其方は若輩ではありますが、甲信両国の武士を与力として預かる上は、どんな剛敵と言えども
  防戦を致し、越度を避けねばなりません。心に及ばぬ所は、石原、孕石、廣瀬といった老臣たちと
  相談し、進退に道理を以て、諸卒をそれぞれに差し遣わさねばなりません。

一、どんな諸芸も習わなくては知らぬものです。それが戦の道であればなおさらな事です。
  その作法、方便、謀、進退、そういった事を知らずに行う合戦は、危ういものです。
  私は国を争う戦を度々行いましたが、その一度一度の勝負についての経験から、知らねば
  持つことの出来ない道理を獲得しました。そういう思いもあって、其方には三人の武功の者、
  そして合戦の場数を踏んだ武士たちを与力として預けたのです。
  この者達に二六時中(当時は一日を十二支で分けている)戦の道を尋ね、極め、武の事を
  心から忘れないようにして下さい。

右の条々について、油断があっては成りません。如件。

 徳川家康在判

    井伊万千代(直政)殿

(松のさかへ)

「赤備え」を井伊直政に預ける事に関して、徳川家康が直政に送った書状。
ほとんど守ってないような気がするが。



武道については、これ、御覧なされよ

2017年01月27日 16:37

544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/27(金) 02:22:29.29 ID:bVYcwTXE
鳥居金次郎は不調法者で、御鷹狩りの御供をも勤めかねるということで、
権現様(徳川家康)は度々御叱りになられた。

その金次郎が長久手で首を取り黙っていた時、権現様は「そちは如何か、
仕合せは?」と、仰せになった。

その時、彼は、「私のことは御尋ねには及びません。鷹野こそ不調法で
ございますが、武道については、これ、御覧なされよ」

と言って、首を上覧に入れた。

――『武功雑記』



547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/28(土) 09:28:00.75 ID:7uxGVJ5X
>>544
三河者のテンプレみたいな話w

惜しいなあ、九郎兵衛とは名が古い

2017年01月27日 16:35

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/26(木) 23:44:09.77 ID:h+IZe1XV
 大坂陣で蜂須賀(至鎮)の者の稲田九郎兵衛(植次)が若年での働きがあった。
それを聞いた権現様は
「惜しいなあ、九郎兵衛とは名が古い。幼名にすればよいのになあ。」
と上意されたという。

 九郎兵衛とだけ聞いても、年若な者の働きとは分かり難い。
名もその時に相応のものにするべきものである。


『武士としては』



553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/27(金) 00:02:29.67 ID:IMLDCitB
てっきりおかしな名前を名付けた話かと思ったわ

554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/27(金) 08:50:18.71 ID:UQlJ97ei
http://iiwarui.blog90.fc2.com/?mode=m&no=6672
見覚えがあるとおもったら徳川実紀が出典で出ていた
徳川家康「名前はよく考えろ」

555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/27(金) 09:44:27.72 ID:0W/94KwA
幼名は梶之助か。

膳も飯碗も

2017年01月25日 09:23

536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/24(火) 22:04:30.02 ID:LDvcfYRS
伏見城にて豊臣秀吉が諸大名と雑談するとき、料理の出る時間と成ると、
ここには茶の湯坊主が10人ばかり居たのであるが、そのうちの3人から5人くらいが
給仕をした。

この時、秀吉の膳は掛盤であった。そして徳川家康も同じ掛盤。飯の鉢も秀吉のものと
全く同じであった。その他の相伴衆は普通の鉢と平膳。前田利家も家康と同じ組の
咄の衆であったのに、平膳であった。

徳川家康の膳は秀吉のものと少しも違わず、雑談のときも「家康公」と呼んでいた。

(慶長年中卜斎記)

秀吉の、家康に対する待遇についてのお話。



537 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/24(火) 22:09:26.68 ID:Uf4J9IDv
これはかなり興味深い話だね

秀頼の件を考えると、「ちょっといい話」とは言いがたい気がするけど

538 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/24(火) 22:56:41.64 ID:mdUNMSiV
妹を家康の嫁にやって秀康を養子にして江を養女にして秀忠の嫁にして秀忠の娘と秀頼が婚約して、
遺言の事とかも考えると秀吉は家康というか徳川を自分の一門と思ってたんじゃないだろうか。

539 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/24(火) 23:18:03.47 ID:UecvBDf4
>>538
忘れられがちだが信吉は木下勝俊の娘を娶ってる。

三成は亭主として

2017年01月24日 08:37

532 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/23(月) 20:39:35.21 ID:92lx1g3g
石田治部少輔が七将襲撃事件の結果、佐和山に引退した後、徳川家康
伏見城より柴田左近を三成への使いとして出した。

柴田左近が佐和山に到着すると、三成は柴田と格の合う家臣の屋敷に彼を
案内させた。柴田が休息を取り行水も済ませた頃、三成が自身でこの屋敷に参り
「大儀であった。」
と、持参した弁当で彼をもてなした。これは佐和山城より持ってきたものだという。

後刻、城に上がり家康よりの遣いの内容を伝えた。その後
「風呂を焚かせたので入浴するように」との使いが来た。三成は客人を迎える
亭主として、欠けるところ無い振る舞いであった。

翌日、柴田左近は日の出の頃、佐和山を出立しようとしたが、そこに何と、三成自身が
見送りに来た。居室でしばらく雑談をし、出立するときは表に出て、門まで彼を見送った。
この別れのとき、三成は「これは葛籠ですが、馬に付けてお帰りなされ」と、
渋紙で包細引きで念入りに結ばれた物を柴田に渡した。
宿に着いた後それを開けてみると、そこには念の入った造りの小袖が5つ、良き拵えの
脇差しが一腰あり、それには『百貫』との折紙が付いていた。

この頃、百貫の脇差しなどというものは希少で、また小袖5つの土産なども聞いたこともない
時代であった。
この時代の百貫というのは、現代の千貫よりも価値が高かった。
また本阿弥の折紙が添えられているのも、殊の外稀なことだったのである。

現代のように上使というような事も、奉書などというものも無かった。
慶長4,5年の頃を覚えている者は、『ここに言われている通りだ』と答えるだろう。
現代ではこういった重々しいもてなしは多く有るだろうが、当時は沙汰もなかったのである。

(慶長年中卜斎記)

石田三成が家康からの使者を心を尽くしてもてなしたお話。
一般的な三成のイメージとはだいぶ違いますね。



533 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/23(月) 21:17:07.44 ID:GCNAERFQ
細かいくらいに気を利かせるけど、それがうまく嵌まることが極々稀な印象がある

534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/23(月) 22:57:20.58 ID:znPyROKP
>>532
>「風呂を焚かせたので入浴するように」
慶次「三成は気が利くな~」
義朝「…」

535 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/24(火) 00:54:45.81 ID:kFsSwOgq
義朝さん、お土産には木刀入れときますね

真田幸村の智謀

2017年01月18日 10:08

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/17(火) 19:09:15.70 ID:qJMrCMga
真田幸村の智謀

上田籠城の時、織田、徳川、北条の三将、二十余万の大軍を以て百重千重に取り囲み、水も漏らさぬばかりに
ヒシヒシと取り詰め、哀れ上田城は粉々に踏み崩されんとしていた。
これには流石の真田昌幸も、城兵僅かにニ千余り、今は防御の術も尽き、如何にすべきかと思案し、苦慮して
いた所、倅の幸村、当年十四歳であったが、彼が『鶏卵煎り砂の謀計』を考えだした。

彼は鶏卵を二つに割り、中身を取り除いてこの中に煎り砂を入れて合わせ、水に浸した紙を割口に巻いた。
これを数万作り出し、それぞれの櫓に十籠、二十籠づつ取り備え、寄せ手を遅しと待ち構えた。

頃は天正十年三月二十五日の朝(ちなみに実際の第一次上田合戦は天正十三年閏八月である)、
織田徳川北条の軍勢はどっと鬨の声を作り押し寄せ、鉤縄打ち掛け勇みに勇んで攻め立てた。
城中よりは「時分はよし」と、件の鶏卵を合図とともに投げつけた。

兜面頬があっても、当たれば砕け、煎り砂は兵士の眼に入り、さしもの勇者たちも暗夜をたどるに
異ならぬ有様。城中よりはこれをみすまし、「時分は良きぞ」と、松本口の織田勢には真田源次郎(信之か)、
軽井沢口徳川勢には隠岐守信尹、笠ヶ城北条勢へは与三郎幸村、何れも三百余人を率いて鬨を作り
攻めかかれば、盲目に等しい寄せ手の面々は戦うことも出来ず、我も我もと敗走し、同士討ちするものも
あり、踏まれて死ぬものもあって、二十余万の大軍が、雪崩掛かって落とされたのは、たいへん見苦しい
有様であった。

この状況に信長は、如何にすべきかと思慮を巡らしたが、今だ良き工夫もつかぬ所に家康が現れ、
「鶏卵煎り砂の目潰しを防ぐためには、竹束を以て盾とし、鎧の袖を額にかざすより他、術がないでしょう」
そう献策した。
これにより夥しい竹束を用意し、またもや押し寄せた。

しかし幸村は「煎り砂に懲り果てた敵兵は、今度はこれを防ごうと竹束の盾を必ず用意してくるであろう。」
と推察しており、あらかじめ多くの投げ松明を用意していた。
果たして先手は竹束を束ね、、後ろに太い棒を取り付けた物をひっさげ、目潰しの鶏卵が今や降ってくるかと
待つ所に、城中は静まり返って音もせず、寄せ手充分に近づいた所で、一発の銃声が響くとともに、三方の
櫓より松明が投げつけられた。
すると油を注いだかのように、竹束はみるみるうちに燃え上がり、寄せ手の者達驚き騒ぎ、消そうとするも
うまく消火もできず、散々となって我先にと敗走した。

(芳譚)

何故か甲州征伐とごっちゃになっている上田合戦のお話



528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/17(火) 21:11:13.13 ID:n+P9kTbE
>>527
鶏卵数万w

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/17(火) 21:11:38.99 ID:/3OBSLpx
幸村が活躍するなら、そんなことはどうでもいいんじゃないの
物語なんてそんなもんでしょw

一段の事である。そのまま夫婦にせよ

2017年01月13日 11:31

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/13(金) 03:54:25.69 ID:FY55/4W4
小笠原越中に罪あって、大久保七郎右衛門(忠世)に御預けになった時、
また女子に罪あって同所に御預けの者がおり、女子と越中は密通した。

この件が権現様(徳川家康)の御耳に達したところ、御意に、

「一段の事である。そのまま夫婦にせよ。越中もすぐに呼び出して、召し
使うとしよう」と、仰せられたという。

――『武功雑記』


○ 安藤帯刀物語

御意に違えた女を家康公は大久保七郎右衛門に御預けになられ、二俣
の城へ遣し置いた。

その後、小笠原権之丞<後に越中と云ひしなり>が御意に違えたのをも、
七郎右衛門に御預けなさったところ、この者は二俣で以前の女と一所に
なり、夫婦となった。

「とりわけて御咎めなさるべきです」と、申しあげたところ、家康公は御機嫌
にて、「そういうこともあろう。権之丞も召し帰すとしよう」とのことで、

すぐに召し帰しなさり、御使いなさったということだ。寛仁大度なり。

――『山鹿素行先生精神訓』


追放された権之丞の父親の話か。



509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/13(金) 12:06:57.31 ID:uhhPYp01
御意に違えた
つまり身籠ってしまったのがいけなかったんだな

510 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/13(金) 14:48:30.25 ID:WQ/oJQJy
女のほうは朝日姫の侍女だな、孕んでたんで越中にお下げになったのだろう

“骨食”

2016年12月28日 09:40

467 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/28(水) 01:48:32.30 ID:O/gQl5bU
同月28日(慶長20年6月)、秀頼所持の薬研藤四郎〈吉光〉の太刀
は“骨食”と号して、長さは1尺9寸5分である。

これを河内の農民が拾い得て、本阿弥又三郎に見せた。これにより、
本阿弥は即座にこれを大神君(徳川家康)に献上した。

御覧の後に、これを又三郎に返し下された。後日に秀忠公へ進上し、
御受納あって黄金5百両、白銀2千枚を本阿弥に賜った。

――『関難間記』



主水正捕縛

2016年12月03日 08:59

381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/03(土) 01:54:55.08 ID:6W60OM/7
同月13日(慶長19年9月)、囚人の原主水正(胤信)が駿府へ来着した。

天主教の宗門に傾倒し、その災いを恐れて去々年に逐電、東国に隠れて
いたのを、(徳川家康の)御下知によって捜索して搦め捕ったものである。

すなわち町司の彦坂九兵衛(光正)にお命じになり、主水正の額に火印を
当てて両手の指を切り、「この者を挙用する輩は曲事である」との旨の
胸札を掲げさせて、追却しなさった。

ところが、岡越前守貞綱が主水正を介抱したとの旨がお耳に入り、
御糾明になったところ、倅の平内が良友の好みにより、

領地に抱え置いたのだが、越前守は存じていないとの旨を陳謝したので、
同19日に平内は改易なされ、貞綱は無事であった。

また、駿府の耕雲寺に主水正が寄宿したのを訴え出た者がおり、住僧を
放逐なさった。

――『関難間記』



「かさねての日本人の渡海は無用」

2016年12月02日 17:46

378 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/02(金) 02:41:54.64 ID:eDwPX00e
この頃(慶長15年5月)、京都の町人で米屋の“りうせい”という者は、

大御所(徳川家康)のご命令によって、ノビスバン(メキシコ)に渡海し、
売買を思うがままにして帰国した。

猩々の皮を多く持って来たが、金銀は聞き及んでいたほどではなかった。
とはいえ、他の国や他の島よりは多かった。

しかし、「かさねての日本人の渡海は無用」との旨を、ノビスバンの者は、
かたく日本人へ示した。

――『当代記』




垣築地騒動

2016年11月27日 08:26

357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/26(土) 19:56:41.38 ID:rZZPmzCC
石田三成と、徳川家康の屋敷は、道を隔てて隣に面していた。
徳川屋敷で垣築地を築いた時、石田屋敷との境目の普請をしていると、三成の下々の者4,50人ほど
出てきて、徳川方の垣築地を築く者達と諍いを起こし、治部少の下々の者は叩き出され逃げた。
この時、築地の普請をしている者たちは500人だったという。

その後、三成方より徳川家の阿部善右衛門(正勝)の所に、『迷惑を仕ったので、今回の騒動に
関わった者を処分してほしい。』と要請された。
阿部善右衛門は徳川家康にこの事を申し上げた所、家康は「如何様にもそなた次第に申し付けよ」
と言ったため、善右衛門はそれを三成方に伝えた。

すると三成方より「普請奉行に対して処分を行ってほしい」と要求された。しかし善右衛門は
これに「普請奉行は十余人おります。何れの者を処分するのか、指示して下さい」と返事をした。

善右衛門は、石田三成の要求をハッキリと拒否するのは難しいと判断し、当時騒動のあった場の
責任者の奉行は普請場に出さず宿に居させて、その他の者に普請奉行を命じ現場に出させた。

このため石田家の者たちは、普請場で当時の普請奉行を見つけることが出来ず、またその奉行の名も
知らなかったため、以降何も言ってこなかった。

(慶長年中卜斎記)



六間堀神明、雁披の事

2016年11月27日 08:24

359 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/27(日) 01:15:15.71 ID:erM4z9uc
六間堀神明、雁披の事

 或る人が言うには、六間堀の神明はその鎮座の初めは詳しくわかっていない。
文禄元年九月十五日、その辺に台廟(秀忠)が御鷹狩りでの御成りがあった。
その日は「オビシヤ」といって、新米をウブスナへ供え村長やその他の者どもがうち寄って酒などを飲む日だった。
うち寄った者どもが筵上で肴も無く酒を飲んでいるのを、台廟が御覧になられて
御拳の雁を『肴にせよ』と下された。
また領国繁盛のめでたい祝いであると、
社に昇られ、御懐から三条院御宸筆の天照大神とある紙片を取り出されて、
御自らほこらの中に納められた。
今も神体としてあがめ奉っているという。


 『江戸砂子補』に云う。
「葛飾郡西葛西領、深川六間堀。
大川のすこし東、川幅およそ六間ばかり。
神明宮が六間堀にある。別当は猿江の泉養寺が兼帯している。
慶長年中、泉養寺開山の秀順法印があらたなる神異があって鎮座させた。」
『砂子補』では慶長を鎮座の年としている。
しかし既に文禄の始めにこの祠があることと見てきた。
ならば『砂子』の説は再び神異があったのをこのようにいったのか。

 「オビシヤ」は宴のようなことである。
今も蝦夷では、このように集まって飲むことを「オムシヤ」というとか。
きっと同じ言葉であろう。

 『武家事紀』及び『豊臣譜』を案ずると、この頃は朝鮮の役が既に起こり、
秀吉は東照神君と共に肥前名護屋に着いていた。
後に大政所の病により秀吉はすぐに京へ帰り、神君は秀吉の命に従って肥州に在留された。
また『武事紀』には、台廟はこのとき、大政所逝去の弔問として八月に上洛になった。
秀吉は喜び権中納言に昇らせた。
これから十月〔文禄元年〕上旬に江戸に帰られたと見える。
なので台廟の御帰りは九月より後になるので、この事はどうであろうか。
しかし『武事紀』の伝本は誤写が多い。
この十月というは、もしくは九月の誤りだろうというのも知ることができない。


(甲子夜話続編)



駿府城本丸女房局に火をつたるの間

2016年11月26日 16:32

355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/26(土) 11:23:43.02 ID:OzW44tgt
>>310
当代記巻五
(慶長十四年)六月小朔日(辛亥)
駿府城本丸の女房が局に火を付け、炎上してしまったが鎮火させた。
この女の仕業として、下女を二人火あぶりにした、
また局の女房衆二人を遠島に処した。

「駿府城本丸女房局に火をつたるの間、焼上処、
されとももみけしける、是女人の態成とて、下女を二人あぶり被害、
局女房衆二人可被遠流と也」

たしかに「我(家康)はどこにも行っていない」けど

関連
我はどこにも行っていない


356 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/26(土) 11:38:39.95 ID:eOyRqtsW
暗殺未遂か

亀ヶ谷山結成寺の墓

2016年11月25日 08:18

354 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 23:49:36.04 ID:vINaWRIA
 安部川の向府中より一里、内巻村というところに亀ヶ谷山結成寺がある。
工藤左衛門祐経の開基で、その村に工藤屋敷というものもあるという。

 神君が御在世のとき、大岩臨済寺の弟子智岳観公という人が、時々お召しがあり仕えていた。
殊にお気に入りで、度々御狩等の時もその寺にお越しになられた。
あるとき

「其の方が死んだら墓所を建ててやる。もし我が先に死んだら、其の方が我を葬れ」

との上意があった。
その時和尚は

「それがしが生きている間に墓所を建てたい」

と申し上げ、願いの通り建てられた。
その墓は三尺で四方に石で棟を建て祠のようであり、前には石の唐戸がある。
その中に塔があり、銘には従一位源朝臣とあるという。
脇には五輪の塔がある。工藤左衛門の墓であるという。

 また寺の中には古の狩の槍という六尺ばかりの柄の槍が一本、外にも同じく一本ある。
その村の農夫に、昔池で投網をしていた人がいた。
御狩の時に御預かりした槍を私宅に置くことを憚って、かの寺に納めたという。
寺門の脇に、工藤の胸当八幡というものがある。
長さ四寸、幅六七寸ばかり、厚さ二三分ばかりの板金である。
この地は工藤祐経が、富士の巻狩の前に、しばらくこの村に閉居した所と言い伝えられている。

(甲子夜話)



三宅辰介親子3人を生害なさった。

2016年11月25日 08:15

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/25(金) 03:24:07.43 ID:TdsZYUS0
(慶長13年12月)三河国足助山家代官・三宅辰介親子3人を生害なさった。

知行の年貢の使い込みがあったことにより、さる夏中から押し込めなさった
のだが、いまこのようなことになった。

嫡男は近年、大御所(徳川家康)の小姓をした近習であった。美男であり、
とりわけ心を選んで神妙な者であった。上下の輩とも、彼を惜しんだ。

――『当代記』



349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/25(金) 08:13:50.14 ID:MC95tTf0
寵童どもの争い