垣築地騒動

2016年11月27日 08:26

357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/26(土) 19:56:41.38 ID:rZZPmzCC
石田三成と、徳川家康の屋敷は、道を隔てて隣に面していた。
徳川屋敷で垣築地を築いた時、石田屋敷との境目の普請をしていると、三成の下々の者4,50人ほど
出てきて、徳川方の垣築地を築く者達と諍いを起こし、治部少の下々の者は叩き出され逃げた。
この時、築地の普請をしている者たちは500人だったという。

その後、三成方より徳川家の阿部善右衛門(正勝)の所に、『迷惑を仕ったので、今回の騒動に
関わった者を処分してほしい。』と要請された。
阿部善右衛門は徳川家康にこの事を申し上げた所、家康は「如何様にもそなた次第に申し付けよ」
と言ったため、善右衛門はそれを三成方に伝えた。

すると三成方より「普請奉行に対して処分を行ってほしい」と要求された。しかし善右衛門は
これに「普請奉行は十余人おります。何れの者を処分するのか、指示して下さい」と返事をした。

善右衛門は、石田三成の要求をハッキリと拒否するのは難しいと判断し、当時騒動のあった場の
責任者の奉行は普請場に出さず宿に居させて、その他の者に普請奉行を命じ現場に出させた。

このため石田家の者たちは、普請場で当時の普請奉行を見つけることが出来ず、またその奉行の名も
知らなかったため、以降何も言ってこなかった。

(慶長年中卜斎記)



六間堀神明、雁披の事

2016年11月27日 08:24

359 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/27(日) 01:15:15.71 ID:erM4z9uc
六間堀神明、雁披の事

 或る人が言うには、六間堀の神明はその鎮座の初めは詳しくわかっていない。
文禄元年九月十五日、その辺に台廟(秀忠)が御鷹狩りでの御成りがあった。
その日は「オビシヤ」といって、新米をウブスナへ供え村長やその他の者どもがうち寄って酒などを飲む日だった。
うち寄った者どもが筵上で肴も無く酒を飲んでいるのを、台廟が御覧になられて
御拳の雁を『肴にせよ』と下された。
また領国繁盛のめでたい祝いであると、
社に昇られ、御懐から三条院御宸筆の天照大神とある紙片を取り出されて、
御自らほこらの中に納められた。
今も神体としてあがめ奉っているという。


 『江戸砂子補』に云う。
「葛飾郡西葛西領、深川六間堀。
大川のすこし東、川幅およそ六間ばかり。
神明宮が六間堀にある。別当は猿江の泉養寺が兼帯している。
慶長年中、泉養寺開山の秀順法印があらたなる神異があって鎮座させた。」
『砂子補』では慶長を鎮座の年としている。
しかし既に文禄の始めにこの祠があることと見てきた。
ならば『砂子』の説は再び神異があったのをこのようにいったのか。

 「オビシヤ」は宴のようなことである。
今も蝦夷では、このように集まって飲むことを「オムシヤ」というとか。
きっと同じ言葉であろう。

 『武家事紀』及び『豊臣譜』を案ずると、この頃は朝鮮の役が既に起こり、
秀吉は東照神君と共に肥前名護屋に着いていた。
後に大政所の病により秀吉はすぐに京へ帰り、神君は秀吉の命に従って肥州に在留された。
また『武事紀』には、台廟はこのとき、大政所逝去の弔問として八月に上洛になった。
秀吉は喜び権中納言に昇らせた。
これから十月〔文禄元年〕上旬に江戸に帰られたと見える。
なので台廟の御帰りは九月より後になるので、この事はどうであろうか。
しかし『武事紀』の伝本は誤写が多い。
この十月というは、もしくは九月の誤りだろうというのも知ることができない。


(甲子夜話続編)



駿府城本丸女房局に火をつたるの間

2016年11月26日 16:32

355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/26(土) 11:23:43.02 ID:OzW44tgt
>>310
当代記巻五
(慶長十四年)六月小朔日(辛亥)
駿府城本丸の女房が局に火を付け、炎上してしまったが鎮火させた。
この女の仕業として、下女を二人火あぶりにした、
また局の女房衆二人を遠島に処した。

「駿府城本丸女房局に火をつたるの間、焼上処、
されとももみけしける、是女人の態成とて、下女を二人あぶり被害、
局女房衆二人可被遠流と也」

たしかに「我(家康)はどこにも行っていない」けど

関連
我はどこにも行っていない


356 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/26(土) 11:38:39.95 ID:eOyRqtsW
暗殺未遂か

亀ヶ谷山結成寺の墓

2016年11月25日 08:18

354 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 23:49:36.04 ID:vINaWRIA
 安部川の向府中より一里、内巻村というところに亀ヶ谷山結成寺がある。
工藤左衛門祐経の開基で、その村に工藤屋敷というものもあるという。

 神君が御在世のとき、大岩臨済寺の弟子智岳観公という人が、時々お召しがあり仕えていた。
殊にお気に入りで、度々御狩等の時もその寺にお越しになられた。
あるとき

「其の方が死んだら墓所を建ててやる。もし我が先に死んだら、其の方が我を葬れ」

との上意があった。
その時和尚は

「それがしが生きている間に墓所を建てたい」

と申し上げ、願いの通り建てられた。
その墓は三尺で四方に石で棟を建て祠のようであり、前には石の唐戸がある。
その中に塔があり、銘には従一位源朝臣とあるという。
脇には五輪の塔がある。工藤左衛門の墓であるという。

 また寺の中には古の狩の槍という六尺ばかりの柄の槍が一本、外にも同じく一本ある。
その村の農夫に、昔池で投網をしていた人がいた。
御狩の時に御預かりした槍を私宅に置くことを憚って、かの寺に納めたという。
寺門の脇に、工藤の胸当八幡というものがある。
長さ四寸、幅六七寸ばかり、厚さ二三分ばかりの板金である。
この地は工藤祐経が、富士の巻狩の前に、しばらくこの村に閉居した所と言い伝えられている。

(甲子夜話)



三宅辰介親子3人を生害なさった。

2016年11月25日 08:15

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/25(金) 03:24:07.43 ID:TdsZYUS0
(慶長13年12月)三河国足助山家代官・三宅辰介親子3人を生害なさった。

知行の年貢の使い込みがあったことにより、さる夏中から押し込めなさった
のだが、いまこのようなことになった。

嫡男は近年、大御所(徳川家康)の小姓をした近習であった。美男であり、
とりわけ心を選んで神妙な者であった。上下の輩とも、彼を惜しんだ。

――『当代記』



349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/25(金) 08:13:50.14 ID:MC95tTf0
寵童どもの争い

家康が茂助を遣わしたのは

2016年11月22日 09:34

337 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/21(月) 21:26:40.39 ID:vJTZkj8O
慶長5年8月末、美濃まで進出した東軍の先手は、徳川家康の軍勢が江戸から出立しないことに苛立ち、
特に福島正則は殊の外立腹、池田輝政と口論となり、その場に在った本多忠勝井伊直政がどうにか
宥める有様であった。

その翌日、村越茂助が家康の使者として参着した。福島正則は茂助に対し「家康公はどうして出立
されないのか!?」と詰問すると、茂助は

「ご出立されないわけではありません。ですがあなた方が敵に対して手出しをなさらないため、
ご出馬が無いのです。手出しさえ有れば、即急に御出馬されるでしょう。」

これを聞いて正則は、扇を広げ茂助の顔を2,3度仰ぎ
「尤もな事だ。すぐに敵を攻撃し、それそ注進していただこう!」
そう答えた。

本多忠勝井伊直政は、正則と輝政が口論をした翌日であったので、このやり取りに手に汗握り、
茂助の言った事も非常にぶしつけではないかと諸人も思った。

茂助は事前に、忠勝、直政に使いの内容を一言も喋らなかった。家康がこの大事の使いに茂助を遣わしたのは、
茂助が自分の言った内容を有り体に伝えると、よく見知っての事であった。
日本国中の心ある武士たちは、この事について有り難き積りであると語り合った。

9月朔日、家康は出馬した。

(慶長年中卜斎記)



我々両名はここを抜け出し

2016年11月21日 17:33

333 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/20(日) 18:48:03.06 ID:xqceRrEW
慶長4年正月19日の夕方、徳川家康の屋敷に、石田三成が大将となって攻めかかってくるとの沙汰があった。
徳川屋敷では俄な事でも有り、屋敷の角々に材木、石、棒などによって縄からけの櫓を掛け、敵が
攻めてくるのは今か今かと待ち構えていた。

この時、本多大和守(政重)と本多三弥(正重)は、こう話し合った
「屋敷のうちでどれだけの働きをしても、家に火をかけられ、煙の下で果てるのは口惜しい事だ。。
敵の軍勢が来て屋敷に火をかけてくれば、我々両名はここを抜け出し、その時治部少輔は城の大手広庭に
腰を掛けて下知をしているだろうから、そこに『家康内の者、降参人』と名乗り出よう。
そうすれば、屋敷の様子を聴くために、呼び出されるであろうから、その時二人のうち一人でも、飛びかかって
治部を刺し殺そう。」

このように言い定めたが、その夜、軍勢が攻めかかってくることもなく、翌日から世の中も、
普段と変わりない様子であった。

(慶長年中卜斎記)



335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/21(月) 09:29:13.20 ID:hkhrhd0c
>>333
本多政重はこの時期どの家中よ?

336 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/21(月) 20:47:42.74 ID:177qegiu
例のやらかしで徳川家出奔中なんだけど、この時期だと大谷なんだか宇喜多なんだか

338 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/22(火) 16:12:52.35 ID:JNcF8IPW
>>336
宇喜多騒動は何月だっけ?

慶長年中卜斎記もそういうところは研究ってされてるのかね

城地革変甲冑論

2016年11月20日 17:37

林述斎   
326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/20(日) 00:16:12.28 ID:u73Z9G9W
城地革変甲冑論


 林子(述斎)曰く、
城地はその時代により移り行くものなので、作り替えねばならぬ物であるという。
山城などは水地と違い地勢もかわらないが、その時の敵のある所で用不用がある。
例えば、照祖(家康)が三遠におわしました時は、
金谷駅の上にある諏訪原(牧野原とも言う)の城は真の要害であった。
これは甲州の押さえの為であった。
甲州が亡んだ後はこの城は用が無くなったので廃城となった。
世人はこのような訳も知らず、深い考えもなく、
「あの所の古城跡は天険の地なのに、なぜ廃したのか?」などと言い出すのは笑ってしまいそうだ。

 また慶長中、伏見の城を淀に移されたのは、その頃淀川の水道が今と違い、
城からの川の水位は低く、水車で城内へ水を汲み入れていた。
百余年を経て川床が高くなり、水車は景色ばかりとなって実用すること無くなり、
出水ごとに、淀城はいつも氾濫の患を被らないことはなかった。
これは河道の変化によるもので、城築の時の地勢によるものではない。

 古今の変化に通じなくて、城の利不利などを評する人が往々にしている。嘆くべきことだ。
その他に海を要害にした城だったが、今は海があせていつのまにか田となったものもある。
また、城門の前の間地も、後に間近くに家を建て列ねているものも多い。
これらは事に臨むときに身を滅ぼす元ととして成る程便利であろう、と林子は言われた。
西方への旅行の時、諸国の城地を目撃して意中に心得がたいことが多かったのだろう。

 そもそも城のみでなく、着具なども同じことである。
先祖の具足と貴び所蔵するのはいい。
それを自分も着るものだと思う輩がまた多い。
そもそも人に大小肥痩があるので、今に当たって自分が用いる乳縄(※胴の乳の辺りの寸尺)
で製作しなかったものは用に立たないものだ。

 私は若いときは痩せて、中年から肥えた。年少の時の乳縄は今とはかなり違う。
一人のものでさえこのようなのだ。
これらは分かりきっていることなのに心にも付かず、着具を作り変えることも知らないまま、
いたずらに月日を過ぎる武家は実に太平の余沢に豊かに過ごしているといえよう。
(甲子夜話)


こういう「当時と地形が全然違うだろ」って突っ込みが頭の中にあるから
あんまり古城めぐりには乗り気ではないんですよね



327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/20(日) 09:56:03.54 ID:sN07tgQU
郷里で再会した同窓生の嫁をみて、伴侶とした理由を聞くようなものですねw

328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/20(日) 14:25:06.85 ID:FttclQe/
>>326
クラウドファンディング「そんな貴殿にVR、当時の地形も再現致しますぞ」

東照宮聚樂にて秀吉公に御対面の事

2016年11月17日 10:32

330 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/17(木) 00:45:43.15 ID:nsYOTjzX
東照宮聚樂にて秀吉公に御対面の事


 東照宮が聚楽で秀吉に御対面され饗礼が有った日に、
秀吉は白い紙子を羽織に縫ったものを着られていた。
その頃三十二歳だった蒲生氏郷が狐紙子と名付けそう呼ばれていたという。

浅野弾正長政が東照宮に「その羽織を御所望してください」とささやいた。
東照宮はみだりに人の物をもらう事となるからと断ったが、

「御所望されましたら秀吉様は大いに喜ばれるでしょう。
この羽織はもともと具足の上に着るために仕立てられたものなので、
一旦は断られるかもしれませんが、そこをなんとか羽織を求め手に入れてください。
秀吉様はこれにまさることがないほど喜ばれるでしょう。」

と長政は重ねて申してきたので、
東照宮はやむをえず言葉に従うことになった。

 そして聚楽の城門で毛利宇喜多を始めとした者と居並んで拝謁し、
さて茶を献上された後、東照宮はかの羽織の事を仰せられた。
秀吉は喜んで羽織を自ら着せられ、大名に向かって、
「わたしに具足を着させまいとの事である。
秀吉は誠に天の冥加に叶ったものである。」
と語られた。

 東照宮は帰られた後、長臣達に聚楽の事々を話されたときに、
「私に羽織を贈った後に秀吉は『私に具足を着させまいとの志である』と
諸大名に向かって言われた。
『これからは私が具足を着て出向くことになるのだから、秀吉の鉾先に向かうこと誰ができようか。』
と中国四国に語りつがせるためである。
広く世人の口にされることとなり、筑紫の末まで聞かれることになるだろう。
天下の大名に威を示す謀略である。
その遠大な謀をたやすく計ることはできない。
秀吉のこの計略には力で推し量ろうにも及び難い。
されども私が志すところは別にある。」
との仰せがあったという。
(常山紀談)


秀吉にいいようにつかわれ、プロパガンダに利用される家康....
この年は天正14年(1586年)なので、蒲生さんは三十一歳なのでは?



331 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/17(木) 07:56:39.35 ID:GDJQT7/A
>>330
聚楽第だったという設定なら天正15年だから合ってるでしょ。

「松川合戦 政宗福島城を攻める事」および東国太平記について

2016年11月15日 21:29

323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/14(月) 22:40:54.84 ID:GNgMpSHW
東国太平記巻之十五
「松川合戦 政宗福島城を攻める事」
政宗は度々上杉に打ち負かされていたため無念この上なかった。
前年七月に江戸から中沢主税が(家康によって)遣わされ「この度は景勝と合戦することはならん」
と堅く制止されていたのだが、慶長六年四月十七日、片倉景綱、伊達成実、国分盛重、
伊達阿波守、屋代景頼、茂庭綱元、高野壱岐守、桑折宗長など二万五千を引率し、白石城に到着した。
ふたたび福島城を攻めようと、誰か物見に遣わそうとしたところ
伊達成実が名乗りいで、十騎ばかり鉄砲三十挺ばかり引き連れて、上杉の守る福島城についた。
成実は、城から十三町(1.4km)手前に味方を残し、自分だけ城の堀端に乗り付け大音声で
「私は政宗の物見の者である。政宗様から城中の将兵の名を尋ねて参れ、と命令を受けた。
名のある者は名乗りいでよ」と呼ばわった。

上杉方の士卒は「なんという剛の者だ」と感心し、矢鉄砲で狙うのをやめた。
すると櫓に上杉の将である本庄繁長、その息子の充長、甘糟景継、杉原親憲、
百川(芋川?)縫殿助、岩井信能、鉄上野が各々名乗りいでたため、伊達成実は静々と帰っていった。

324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/14(月) 22:42:37.80 ID:GNgMpSHW
政宗は二十一日、白石城を立ち、小山というところに出陣。
上杉方は杉原、甘粕、本庄、岩井、鉄上野、岡野左内ら六千騎で福島城を立ったが
途中で商人と高野聖が来て「伊達の軍勢は三万ばかり、これでは小勢すぎます」
と言ってきたため、はたして防戦すべきか、こちらから間の松川を渡るべきか
と論争になったが、伊達軍が川を途中まで渡った時に奇襲しようということになった。
しかし岡野は、杉原や宇佐美が制止したにもかかわらず、四百ばかりで川を渡り、
向こう側の河原にいた伊達軍に大音声で名乗りいでて突入していった。
岡野の奮戦に激怒した政宗はただ一騎で岡野と太刀を交えたが
岡野に太刀を折られ、二、三間(4,5m)後退。
岡野は具足から葉武者だろうと思い、追撃せず戻っていった。
その後上杉勢は伊達勢と交戦するも多勢に無勢で敗色が濃くなり福島城に逃亡。
政宗は後を追ったが、青木新兵衛の十文字槍により兜の三ヶ月を折られてしまい、
政宗はいそいで引き返した。
逃げる伊達軍を、福島城から出撃した本庄繁長が二千余で追い、隈川で散々に打ちすえ
伊達軍二百余を討ち取った。
その頃、会津にいた上杉景勝は、政宗が小山に出陣したという報告を受けたため、
八千騎の軍勢で援軍にかけつけた。
それを知った政宗はわずか十騎で、取るものもとりあえず白石城へ逃げていった。
この際、伊達軍は本庄親子・杉原をはじめとした上杉勢により首級七百余を討ち取られ、
辺り一面、伊達の人馬の死骸や着物や槍や刀で足の踏み場もなくなってしまった。
上杉軍のこのたび得た伊達方の首は千二百九十余で、上杉家の手柄は天下の美譚として語られた。

325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/14(月) 22:44:09.26 ID:GNgMpSHW
・・・と「東国太平記」には書かれているが、この「東国太平記」、
江戸後期の本屋松沢老泉によれば「仙台藩に版木が買い取られ絶版になったと聞いている」そうだ。
また、紀州藩の漢学者、榊原篁洲によれば
「北越太平記、東国太平記は紀州の宇佐美竹隠というのが名前を隠して書いたものであり、
宇佐美駿河守(定満)の末裔なので、東国太平記で宇佐美を褒めまくっている」
とのこと

要は宇佐美流軍学を流行させるために上杉家、宇佐美ageのデタラメを軍記に
書いたということらしい。
政宗にとっては子孫や考証家のおかげで恥ずかしい話が広がらずにすんだいい話ってことで。



368 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/01(木) 12:12:38.69 ID:J2ItkSTT
>>323
この当時の伊達成実は石川昭光の預かりだったはず
国分盛重は既に佐竹氏に出奔している

理由としては、成実が伊達氏の分家で一番の家柄で石高も一番高かったのだが
外様大名だった叔父の昭光が、奥州仕置で改易されて、伊達家中に入ることになって
成実の伊達分家が、二番目の家柄になった。また、伊達領が秀吉によって3分の1に
減らされたのに昭光の石川家を抱えることになって家臣団が困窮した。
会津討伐で一番手柄をかけた伊達分家と、
政宗からすれば、人取橋で、敵側にいたとはいえ調停役を引き受けて伊達家を救った
昭光の石川家が対立。
伊達分家が伊達宗家に謀反を起こして、成実の配下は撃ち取られるも
成実は政宗も昭光も一族なので、謀反を起こさず出奔した。
政宗とは歳も近く兄弟のように育った国分盛重は、伊達宗家から国分氏に養子に行くも
大崎合戦の後、家中がまとまらず、政宗が会津を秀吉から取り上げられると
国分領のすぐ近くの北目に軍事拠点を置いたことから、国分家の家臣団は
危機感を覚え反抗する。政宗は、苦肉の策として、盛重に忠節を誓う面々と
ライバルではあるが、盛重の妹正室の佐竹氏に行くことをすすめ
盛重に反抗する国分一族を討ち果たし、国分氏の城であった千代に城を移す。
もちろん、盛重の長男は手厚く保護して、古内氏の養子となり
後の仙台藩の名家老古内主膳になる。

青竹二本

2016年11月15日 21:27

328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/15(火) 02:26:23.09 ID:02+9kijt
 神祖が御鷹狩に宮ヶ崎の町辺りを通られたとき屋根普請をしている町屋があった。
ちょうどその家の前を通られると板切れが四、五枚御笠の上に落ちてしまった。
しかし神祖は笑われるのみでそのまま御通りしたということがあった。

このようなことがあったにもかかわらず御帰城後御咎めもなく、
これからは屋根普請の事があればその家に長い竹二本立て置くように、との上意があった。

 この例から、駿府では今でも屋根普請の所には青竹二本立てて目標としているという。

(甲子夜話)




東寺観智院密教御朱印の事

2016年11月14日 17:32

291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/14(月) 00:55:44.29 ID:5M7DLXjN
東寺観智院密教御朱印の事


 東寺の観智院に、真言密教の疏が百冊入っている箪笥が五百あった。
神祖の命があり
「密教なので門外不出にするべし。
ただし高野はその本なので、ここには送るべし。」
との御書付が今も有るという。
またこの経疏により永伝の料として別に五百石の御朱印を下されたという。
これは普門律師(円通)の語ったことである。

 どうして神祖の御事は何もかもこのように広大なのかと敬感される。
しかし律師が言うに
神祖の命もこのようであったが人情は釈徒も同じことで、
東寺はついに高野に送らず今に及んでいるとのことであった。
(甲子夜話)


東寺と高野山の仲がちょっと悪い話



神祖、袋井縄手にて長剣用法の御論

2016年11月13日 16:06

318 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/13(日) 13:13:17.99 ID:tyyfjzbP
神祖、袋井縄手にて長剣用法の御論


 神祖が遠州袋井縄手で御鹿狩のとき、
御徒士の伏見彦大夫というものが三尺余りの長刀を帯びて居た。

「その刀はいかに使うのか」
と仰せがあったので、

「敵の脚を薙ぎ払います」
と答えた。上意に

「甲冑をする敵にはそのようにしたらよろしくない。
槍にして使え。突くのがよろしい」
とのことであった。
実に尊慮である。
(甲子夜話)



319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/13(日) 13:39:42.65 ID:JOhTF91K
あれ、実戦では刀は突くけど、槍は叩くのが主流とか言われてなかったっけ
「槍にして使え」ってことは戦国時代でも、槍は突くのが主流だったのか

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/13(日) 14:31:45.82 ID:JHl+I+yf
持ち槍と長柄は別物

321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/14(月) 11:18:18.11 ID:LU0UmJPI
なるほど人間無骨とは骨が無くなるまで叩くからそう名付けられたのか

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/14(月) 12:11:45.83 ID:VAYihwqT
延沢満延あたりなら本当にやりそうだ

大阪御帰陣のとき神尾局早く御熨斗鮑を奉りし事

2016年11月12日 15:58

阿茶局   
314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/12(土) 00:00:23.39 ID:Azqxj2FA
大阪御帰陣のとき神尾局早く御熨斗鮑を奉りし事

 或る人が言った。
大坂夏御陣御凱旋のとき、御本陣茶臼山から二条の御城へ
遷られるのが神速であったので誰も来ると思っていなかったところ、
神尾の局は早くも御のしあわびを三方に載せて捧げていた。
これに神祖は殊に御感があったという。

 この局は後に東福門院の御母代となり、特別に一位の勅授があった。
雲光院殿と申すは彼女のことである。
(甲子夜話続編)


そんなに凱旋の行進が速かったのですかね




315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/12(土) 00:30:57.26 ID:GlCndA1b
勝ったとはいえ付近に敗残兵が潜んでいるかもしれないし
万が一のために早急に安全な場所に避難したということだろう

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/12(土) 01:09:12.96 ID:nPnZFCQB
(ノ∀`)アチャー

昔、坪内と申した者がいたが、

2016年11月12日 15:56

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/12(土) 12:43:04.26 ID:AVrj43lU
豊臣秀吉が庶人の時、秀吉は坪内玄蕃(利定)に、「其の方は利発者である。
それがしが天下を取ったら、其の方を家人に使うぞ」と、言った。

玄蕃はこれを聞いて、「そちは何事を言うのか。そちをこそ、それがしが使う
ことだろうに」と、言った。すると秀吉は、

「あまりそのように申すな。わからないぞ」と、言ったとのことである。

秀吉が天下を取った後、玄蕃は徳川家康のところに来て隠れており、家康は
玄蕃を関東に匿った。その後、秀吉は家康に向かい、

「昔、坪内と申した者がいたが、この頃は見てないな」と言った。家康はこれに
答えて、「それはどうしたことでしょうか。私は存じません」と、言った。

関ヶ原陣の時、玄蕃はすでに亡くなり、子の惣兵衛(家定)の代になっていた。
家康は惣兵衛に、「其の方は美濃者だ。在所へ行って一揆を起こせ」と命じて、
惣兵衛を美濃へ遣したということである。

――『武功雑記』




我はどこにも行っていない

2016年11月09日 13:36

310 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/09(水) 12:04:08.86 ID:wqb2rX6X
 駿府の近くで神祖が御鷹狩をされていたとき、
道端に老女が児を連れて泣いていた。
彼女らを御覧になられて、

「何者だ。何故に泣いているのか?」

と御傍に御尋ねさせた。老女が申すに、

「向こうの村の者ですが、夜前に火を出し家を焼いてしまいましたところ、
御代官から火の元の不注意をしたとのことで、所払を仰せ付けられました。
よって家を立ち退かされました。
しかし、どこにも心当てが無いのです。」

とのことであった。そこで、

「火を出した者を所払いにするのか。
近年二度城内から火を出したことがあるにもかかわらず我はどこにも行っていない。
そのことを代官によく言い聞かせよ。
老女は幸せ者だな。
目にかかったので不憫に思ったのだ。

老女には家を作って与えてやれ。」

との仰せがあったという。
(甲子夜話)

関連
駿府城本丸女房局に火をつたるの間


ただ暁七つ頃に

2016年11月06日 21:00

297 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/05(土) 20:21:59.69 ID:ueBpyrnR
 駿府城の外の横内という所に町家が少しある。
その町の端を横内田町と称し、今では家が四、五軒ある。


 神君が御在城のときに七十余の老婆が一人暮らしをしていた。
御通行のときに、
「婆は独居して寒いだろう、何か望みを叶えてやろう」

と御尋ねられた。御答えに

「この年になり何も望みはない」

と申し上げた。

「それでも何か望みがないことはないだろう」

と押して問われたので、

「他に望みはありません。ただ暁七つ頃に牛車が通ってやかましいです。」

と言上した。
それでは望みどおりにしてやろうとの上意でその後から今に至っても横内町の辺りは牛車は通行できないという。
また田町分は、この婆以来無年貢地であるとか。
(甲子夜話)




298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/05(土) 20:39:06.85 ID:8flbgxTM
老婆「あんたが立つと日陰になるからどいてくれ」
と言えば賢者として後世に名が残ったのに

299 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/05(土) 22:29:00.11 ID:rk9RTDsG
なんだそのキュニコス派の婆さんはw

本懐の至り

2016年11月06日 20:59

300 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/06(日) 11:39:21.97 ID:C7Hhmnd0
徳川家康は、若年の頃より軍陣のある前には、いつも佩刀を取り出させて
帯びてみるのが常の事だった。

大坂冬の陣でも家康は例の如く太刀を取り出させて帯びた。この時、家康は、

「わしは、年老いてこのまま席上で朽ち果ててしまうのは、心残りの多いこと
であると思ったものだが、この事が起こったのは、本懐の至りだ。速やかに
馳せ上って敵どもを討ち果たし、老後の思い出にするぞ!」

と言って太刀を抜き、牀(寝台)の上へ躍り上ったので、その様子を見た者は、
英気の老いて盛んであることに感服し、だれもかれも勇気を一層増したという。

――『徳川実紀(慶長見聞書)』




慰めのために小寺といっても

2016年11月04日 17:12

293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/03(木) 22:16:54.40 ID:6qGSgdgh
 駿府城に安倍川の水を御池へ引くようにとの上意があった。
奉行は水道を見立てて、印杭を立て置いていたところ、
御鷹狩に出られたとき御覧なされた。
奉行は寺の境内を通して水道の杭を立てていた。
それが神君の思し召しに叶わず、
「寺を潰して水を取ることはいかがなものか。
慰めのために小寺といっても潰すことはしてはならない。」
と水道を外に移されたという。


(甲子夜話)



御羽織屋

2016年11月03日 15:14

284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/02(水) 21:47:51.73 ID:lfNZXcD+
 宇都谷峠の手前、宇都谷村立場の茶屋は昔はひどく貧者で、
馬の沓などを作って暮らしていた。
そこに神君が大阪御陣のときに、その家で馬の沓を見たので、
神君自ら


「ここの親父、沓一足くれよ」


と仰せられた。茶屋はかしこまりました、と沓を片方差し上げた。


「片方はどうしたのだ」


とお尋ねがあると


「片方は御帰陣のときに差し上げたいと思います。」


と申し上げると、神君は御喜悦で、


「出陣の吉事である。よく申した。何なりとも相応の望みを申せ」


と上意があった。


「あなた様のめされています御羽織を拝領したい」


と願われましたので、すぐに着られていた錦の御陣羽織をその者に下された。
よって今も大切に家の宝物として伝わっている。


 しかし御羽織を大名方が通行のとき拝見したいとのことで持ち出したときに、
望む人には二三寸程ずつ切り取らせているので、
今では御羽織は半分ばかりになったという。
この家名を御羽織屋と称しており、今は善右衛門という。
(甲子夜話)