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徳川忠長のこと

2022年06月01日 15:04

朝野雑載」から徳川忠長のこと

寛永八年十一月(1631年12月-1632年1月)、駿河大納言忠長卿は駿河国浅間において猿狩をするという触れを出した。
御家人ら「浅間山はいにしえより殺生禁断のところです。願わくば御遠慮ください」
とおのおの諌め申したけれども忠長卿は御承知せず
「かの山も我らが領分なれば、なにを咎められることがあろうかあ
と同月十五日、浅間山に入って猿狩を行い、千二百四十余を狩猟した。
こうして帰路に赴かれたとき、駕籠の窓から手を出し、駕籠かきの男の上腕を削刀で突き通しなさった。
駕籠かきが驚きあわてて逃げ去ったのを、近習に申し付けてすぐに誅殺なさった。
これが卿の人殺しのはじめである。
これより後は常に心にむらが起きて、近習のともがらはもちろん、奥方の女中にいたるまで、とがなきものをしばしば打擲なさったため、人々は愁い苦しんだ。
同年十二月二十一日、狩にいでたまい、ある寺で休息なさっていると、
小浜七之介という侍が馬に乗って、眼前三丁(330mほど)あまり隔てたところを通り、この寺に来た。
(以下
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9685.html
と同じ話)
こうして酒狂か、浅間山の祟りかと噂になったが公儀を恐れて内密にしていた。
しかしとうとう上聞(家光の耳)に達したため、寛永九年九月五日、甲州に籠居を命じられたが、その後、領地を召し上げられ高崎城主・安藤右京亮重長預かりとなった。
安藤重長は忠長卿を厚遇し、御殿の外に鹿垣を廻らせて、その内は自由に歩行できるようにさせた。
しかし寛永十年九月、上使として阿部対馬守重次が高崎城に赴き、上意を申し渡した。
上意の仔細はしれないが、重次が一旦江戸に戻ってまた高崎に来たため、世に出回った話では、

阿部重次「忠長卿の御乱行が収まらないため御自害に誘導するように」
少し考えたあと、安藤重長「将軍家のお墨付きはございますか?」
重次「それがしが上使として来たからには御証文の必要はないでしょう」
重長「もちろん上意に逆らうわけではありませんが、忠長卿は将軍御連枝で、御証文もないのに御自害をお勧めするわけにはいかないでしょう。
はやくら江戸に帰って御証文をご持参してください」
そのため重次は江戸高崎を往復したという。

その後、重長が鹿垣を御殿の縁際まで狭め、御殿の外に出られないようにしたところ
忠長卿「なぜこのように鹿垣を結ぶのだ?」と尋ねられたため
重長「将軍家の御下知にてこうしております」
それ以降、忠長卿は御殿の外に出なくなり、女中たちにも暇をやり、御前には十二、三歳の童二人だけが仕えるようになった。
ある日、忠長卿は童二人に台所に酒をとりに行かせ、一人になった。
童たちが御酒と肴をとって帰ってくると、忠長卿はみずからの脇差で自分の首を半分ほど斬り、うつむいて倒れていた。
そののち、御目付衆がきて、そのままにされていた死骸を検死し、御自害ということになった。
忠長卿は十五日ほど前から、財産、宝物の整理をし、反故は全て焼き捨てていたという。



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権現様が上総殿になされたことを御覧になっているので

2021年02月12日 17:45

554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/12(金) 00:57:21.20 ID:GC8RmT/X
権現様が上総殿になされたことを御覧になっているので

細川忠興が徳川家光の弟・忠長の乱行と処分について述べた条を抜粋して意訳。

一、駿河大納言殿(忠長)はこのごろ御手討ちが重くなり、小浜民部(光隆)の子を御成敗し、その後
  御伽の坊主も御成敗したとのことです。きっと並大抵でない曲事があったのかもしれませんが
  民部は西国の船頭に仰せ付けられているのに、あまりにひどいことです。これ以前に御年寄衆から
  固く意見を申されて(手討ちを)しない約束をしたのに、こんなことになっています。その上
  切った者を(切ったことを覚えておらず)次の日に呼ぶこともあるらしく、言語に絶します。
  この分だと一白殿(松平忠直)のような御身上になるのではないかと上下で取り沙汰されているので
  相国殿(秀忠)は何とも御沙汰をしにくいのではないかと思います。しかしながら、権現様が
  上総殿(松平忠輝)になされたこと(対面禁止処分)を御覧になっているので、不安です。
  他の例は置いておいて、(きちんと)罰せられるようにと思います。

――『細川家史料 細川忠興文書 八六四号』

忠興の危惧した通り、秀忠が生きている間は重い処分が下ることはなかった。



555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/12(金) 14:53:28.33 ID:7LaluMsR
忠興にここまで言われるって狂うにも程があるだろ

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/12(金) 17:41:28.60 ID:RJrUUo6C
秀忠も家老の朝倉宣正の力不足ということで一件落着させようとしたが
忠長が宣正は無関係って訴え出たということで本人の蟄居処分だからなぁ

単なる発狂と切って捨てるには色々事情がありそうだったりする

信玄の旗幟

2015年12月23日 08:20

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/22(火) 22:09:36.43 ID:Qsqv1Uho
駿河大納言徳川忠長が改易された後、この家より武田信玄の旗幟が出てきた。
将軍家光はこれを怪しみ、糾明を命じた所、甲斐国に長遠寺という親鸞宗の僧があり、
この僧は信玄の時代、大阪、長嶋と信玄との間の使いをして、信長を滅ぼす謀を巡らせた。
信玄は彼を悦び、娘を与え婿とした。そして男子が生まれ、これに二位と名付けた。

彼は信玄の外孫であるとして、武田家に仕えていた人々からの崇敬は大変なものであった。
この長遠寺の元にかの旗幟があったのを、忠長に参らせたであった。
これは大変疑わしいことであると、長遠寺父子は佐渡へと流された。
この時は幕府の武田旧臣の人々も大いに恐れたそうである。

この寺院は破却する予定であったのを、東秦院の門跡が請うたため許し、今は改めて
光澤寺と名付け、かの門跡より兼帯輪番の寺となった。

(藩翰譜)



謀叛の廻文

2015年12月22日 07:55

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/22(火) 06:51:58.19 ID:Qsqv1Uho
大御所徳川秀忠が死去した後、諸大名の元にどこからともなく、
『将軍家光を殺し駿河殿(徳川忠長)を新将軍として立て参らせん』との内容の書状が廻ってきた。

この時、伊達政宗が最初に家光の元に参り、このような物が来たと申し上げた。
藤堂高虎がそれに続き、その他の大名も皆この事を告げたが、加藤肥後守忠広父子からは
報告がなかった。また徳川忠長も、この事を知りながら早く報告しようとしなかったため、
彼らは罪を被ることとなった。

実は、この謀は土井利勝より出たものだという。利勝はこう考えた
『今の世の中、普通の大名が謀反を企てても、誰もそれに組しようとはしないだろうが、
御一門の人々が決断すれば、あるいは組するもののあるだろう。』

そこで秀忠が逝去してから、罪を被った風を装い引き籠もって、密かにこの廻文を巡らせたのだ。
加藤父子の罪が定まってから、利勝はいつの間にか再び出仕するようになった。

古き人は、私にこのように語った
「利勝は深い謀のある人で、永き当家の忠臣であった。」
誠にその通りである。

(藩翰譜)




このように科無き者を

2015年12月20日 17:20

791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/19(土) 18:10:06.18 ID:YHu7a5p5
寛永2年(1625)、駿河大納言徳川忠長が鷹狩に出向いた所、空にわかにかき曇り寒風甚だしく
吹き荒れたため、とある庵室にて休憩をとった。

この時、家臣の一人、小浜七之助という者が、忠長がこの庵にいることを知らず、馬に乗ったまま
軒先まで乗り付けた。忠長はこれをキッと睨みつけ、顔色も少し損じた。

小浜は、ここに忠長がいると聞いて、馬を乗り放ちにし慌てて御前に伺候した。
忠長は小浜を召して命じた。
「囲炉裏の中に木をくべて、火を炊くように」
そこで住持の僧が薪柴を持って来た。しかし薪はその頃降り続いていた雪のため、みな湿っており
なかなか火が着かず、小浜は囲炉裏の方を向いて火を吹こうとした、

そこを忠長は佩刀にてただ一打ちに頸を打ち落とした。

「これを打ち捨てよ」
忠長の言葉に清水八郎右衛門という武士が参って小浜の死骸を取り収めた。すると今度は
「汝、この火を炊け」
普段近くに参らない者に命じた。

彼は恐る恐る這い寄り、薪をくべて火を炊こうとした。しかしその手は震え、息も切れ、
柴をかき乱し火を吹こうとしても息出ず、その上湿っているので火は燃えなかった。

男は生きた心地もせず、御前に伺候している人々も、『今斬られ参るか、今斬られ参るか』と、
魂が抜けるような思いをした。
しかし、この時は何のお咎めもなく、忠長はそのまま立ち出た。

このように科無き者を忠長自ら斬られた事、この年だけで6,7人に及んだという。

(藩翰譜)



792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/19(土) 18:22:16.89 ID:I/EI524C
小浜光隆の子の話か

大井川の浮橋

2014年09月27日 18:44

380 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/27(土) 14:01:50.52 ID:KdeACkG4
寛永3年7月、徳川家光上洛の折、大井川を渡る時、

徳川忠長はその川に浮橋を渡した。その往来はやすらかで平地の
ようであったため、身分の高い者も低い者も、こぞって忠長の
巧智に感心した。

ところが、家光はその橋に臨むと、にわかに表情を変えて、

「箱根大井は、海道第一の険要にして、関東を隔てているのだと、
神祖(家康)も大御所(秀忠)も、常に仰せられた場所である。
それなのに、このような浮橋を設けて、往来を自由にさせるのは、
あってはならないことである!」

と、甚だ憤った。後年に至り、忠長が罪を蒙ったのも、この時の
事より起こったということである。

――『徳川実紀(坂上池院日記)』




382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/27(土) 15:22:29.29 ID:q9ICDCm3
いざとなりゃ焼いちゃえばええのよ。わたってるとこに大筒でもいいけど

台徳院殿が駿河殿を

2013年04月30日 19:54

465 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/30(火) 17:30:56.69 ID:iq9Ay5af
台徳院殿が駿河殿を世継にしようと思し召されたとの世上の沙汰は大きな虚説である。

ある時、駿河殿は西の丸の御堀で鉄砲を使って鴨をしとめられた。
鴨は大御台所へ献上され、それが料理されて、台徳院殿へも御上げなされた。

(大御台所が)「これは国が初めて鉄砲でしとめたのですよ」とのいきさつを
仰せになると、台徳院殿は駿河殿の御附の某を御呼び出しになり、

「西の丸は神君御縄張であり、御世を手前へ御譲りの後はその西の丸におられた。
そして、只今は竹千代を差し置いておる。

それを、国松の分際でこの城へ向けて鉄砲を撃つなど、不届きな行為であるぞ!
附けておいた者どもの心得が悪いからこういうことになったのだ!」

と、たいそう御叱りになったということだ。この事から、台徳院殿が世継を
替えさせようと思し召しにはならなかったことが知れよう。

――『責而者草、鳩巣小説』



467 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/30(火) 18:32:06.62 ID:STMvl791
葵徳川三代にあったな。

468 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/30(火) 23:07:12.87 ID:PYRrWnfp
権力の中枢にいると、ちょっとした言動も命取りになる
政権側にとっても、こういうちょっとした事を放置して積み重なると瓦解に繋がる事がある
一見するとつまらない事で咎められたように思えるけど、小さな配慮はとても大事な事なんだよな
秀忠の言う様に、御付きに気が回る者がいなかった事は国松にとって不幸であった

徳川忠長と池田三郎左衛門貞長

2010年11月07日 00:02

172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/06(土) 00:07:12 ID:Wr9ORYFs

徳川家光の弟、忠長の側近に、池田三郎左衛門貞長という男が居た。
貞長は忠長に大変重用されていたのだが、それを妬んだ者の讒言により、藩を追放
という処分を下されてしまう。

駿河を追われた貞長は、武蔵国岡村(埼玉県深谷市)に蟄居し、私財を投じて荒れ
た神社仏閣を改築するなどして、現地の人々に慕われていたと言う。

やがて忠長は家光との確執や、自身の問題行動などによって改易・切腹とされてし
まう。

切腹に当たり、忠長は自らが追放した貞長を思い出し、
「貞長を追放したのは間違いだった。今更謝っても許してはもらえぬだろうが、も
し許してもらえるなら、自分の菩提を貞長に弔って欲しい」
と言い残し、命を絶つ。

この遺言を聞いた貞長は、これを最後の主命として岡村に全昌寺という寺院を建立
し、荒れ果てていた岡上神社に新しい社殿を奉納する。

これらの寺社の落成を見届けた貞長は一人、真新しい社殿の前で、主君の後を追っ
て切腹して果てたと伝わっている。


あまり評判の良くない駿河大納言。
そんな彼にも殉死してくれる忠臣がいたんだね。

貞長が切腹した岡上神社は現在、周辺の神社を合祀し、岡廼宮神社と改称して存続
しています。




駿府城のタブー

2010年09月15日 00:00

987 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/14(火) 01:20:45 ID:+VUY7ex5
その昔駿府城では、城内で謡曲の“芭蕉”を謡ってはいけない、というタブーがあった。
この曲は内容的には、年老いた女の姿をした芭蕉の精霊が、僧侶に世の中の無常を語るというだけの、
謡曲としては珍しくないテーマのものなのだが、
無常を謡うものだから、あまり景気のいい曲ではない。

桶狭間合戦の出陣前夜、これを今川義元が駿府館で謡った。
「よしや思えば定めなき、世は芭蕉葉の夢のうち」
それを聞いた家臣の松田左膳は、歌詞が不吉だと窘めたが、興を削がれて怒った義元はそれに怒って
左膳を手討ちにした。

そして合戦が始まり、義元が桶狭間に陣を据えると、どこからか左膳が謡う声がした。
「よしや思えば定めなき、世は芭蕉葉の夢のうち」
たちまち雨が降り始め、風が吹き荒れた。
どうしたことと驚く義元の眼前に、織田の軍勢が殺到した。

以降、駿府館が駿府城と呼ばれるようになってからも、城内で「芭蕉」を謡うのは不吉とされた。
ところが時代が下り、家康の子息達が駿府城に入るようになると、彼らはこういう噂を軽んじ、徳川忠長
城内でこの曲を演じさせた。
すると、たちまち風雨が起こり、雷鳴がいななくと共にどこからともなく男が謡った。

「よしや思えば定めなき、世は芭蕉葉の夢のうち」

しばらくして忠長は甲州へ送られ遂に高崎で切腹となった。
以降、幕末まで、駿府城内では「芭蕉」は口ずさんだりすることさえ固く禁じられた。




994 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/14(火) 18:12:08 ID:oaB6VEox
>>987
その話、徳川頼宣も同じように芭蕉を演じさせたけど、
家臣に咎められて途中でやめた。
しかし直後紀州に藩変えになった。
という話を見たことがある。

家臣の名前は見てないけど、なんとなく脳内で安藤さん変換した。

995 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/14(火) 20:52:06 ID:pkTV6tzX
安藤さんそんな迷信的じゃないと思うけど・・・

996 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/15(水) 13:33:44 ID:9mmGDCg4
迷信と科学なんて親戚みたいなもの
今現在最先端の科学って言われてることでも
後の世になったら迷信って言われてるようになる

997 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/15(水) 14:37:15 ID:CKnqUdWF
そうそう。
地動説なんて、完全に迷信だったもんな。

998 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/15(水) 15:24:35 ID:Vs0xM6cH
天動説のことを言っているのか、
それとも計算が簡単にできるために現在では「地動説」を使っているだけで、
座標をどこに取るかは本来自由だ、ということを言っているのか

999 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/15(水) 15:42:55 ID:K/2hezId
>>996-997
それは、程度の違う話をごちゃ混ぜにしてるだけ。

呪術・祈祷・亡霊・妖怪等、電波飛びまくりの不思議社会だった室町時代から、
迷信を排した合理的な江戸時代の社会まで、人間の意識はかなり急速に切り替わっている。
150年間の戦国時代はその過渡期だ。
戦国初期の人と、末期の人ではものの考え方が全然違う。

吉凶や占い、神罰仏罰を無視した信長とその部下たち。
出陣の吉日選びをせずに戦争に勝ち続け、仏を信じず、神を脅迫した秀吉。
呪いをかけられても無関心だった家康。

誰かが、誰かに影響を与え合って時代の流れができていくわけで、
歴史ってつながってるんだよね。