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さてさて、上様はお人持ちであらせられる

2023年04月05日 19:05

775 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/04/05(水) 09:50:46.44 ID:OzRsC2U6
お詫び(?)に『異説まちまち』から松平忠輝のいい話を

忠輝公に蟄居を仰せつけられる使者として中山助六が遣わされた。中山、無刀で忠輝公の御前にまかり出て蟄居の旨を申し上げると、忠輝公、「その方が刀を差してわが前に出てきたならば切って捨てようと思っていたが、無刀で出てきたことは天晴だ。お請けしよう」と仰った。
助六すぐさま後ろに飛び退って、「若様のご返事次第ではかように覚悟しておりました」と懐剣を出してお見せすると、忠輝公、「さてさて、上様はお人持ちであらせられる」と感服されたということだ。



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「武家閑談」より大坂夏の陣の時の徳川秀忠の様子

2023年02月21日 19:09

672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/20(月) 20:17:28.56 ID:XEaRtdGo
武家閑談」より大坂夏の陣の時の徳川秀忠の様子

大坂の陣での五月七日の合戦前に秀忠公は味方の軍勢を巡見なさった。
黒田長政加藤嘉明については独立した部隊ではなく本多忠純(本多正信の三男)の部隊に属していた。
七日の昼前、大軍が備えているところに誰からともなく「将軍様御成」と言い出したため、長政と嘉明はお目見えのために通路へ出た。
秀忠公は一騎で黒い鎧、山鳥の尾の羽織兜をめされ、桜野という七寸三分の馬に孔雀の尾の鐙をかけて召されていた。
武具は十文字の長刀、そのほか徒歩の士二十人ほどがお供していた。
黒田長政加藤嘉明をご覧になり両人の方へ乗りかけられたため、両人は馬の左右の口についた。
秀忠公は「敵を打ちもらし城へ引かれたのは残念だ」とおっしゃったが
両人が「そのうち敵はまた人数を出すので、冥利にお叶いになるでしょう。思いのままの御一戦となりましょう」
と言うとご機嫌もよくなった。
長政・嘉明に「もう戻ってよいぞ」とおっしゃられたため、両人は備えに戻った。
途中、本多正信が具足も兜もつけず、団扇で蝿を払いながら乗物に乗って通った。
黒田長政が「将軍様はいつもと違い軽い様子だな」と申すと
加藤嘉明は「いかにもいかにも、このように軽いのは御家の癖だろう」と答えた。
長政は深く感心し「秀忠公は常々御行儀正しいが、軍法においては万事軽く行うということか」
と賞賛したという。



「武家閑談」から第二次上田合戦

2023年01月31日 19:23

594 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/30(月) 19:59:21.02 ID:r6sM9i9Y
>>576の続き
武家閑談」から第二次上田合戦

本多正信からの下知により攻め手を引き、牧野康成も中の手に向かって下がっていたところ
真田昌幸は信賀(原註:真田幸村)ら八十騎と、物見をおびき寄せに出てきた。
牧野康成とその子、牧野忠成はこれを追いかけた。
真田兵の湯田又右衛門ら十余人がしんがりをして退いた。
牧野康成の兵の雨尾又六、辻茂左衛門、今泉次郎作、福島九太夫らがなおも追いかけた。
この時、二町ばかり先で真田父子と真田兵八十ばかりが手鼓を打って高砂を謡った。
榊原康政はこれを見て「さても悪しき仕方である。こちらを屑(もののかす)とも思っておらぬ」
と馬を引いて手勢二千余で真田の跡を切り取らんと駆け、渡辺重綱は道筋に鉄砲を撃ち込んだ。
真田父子・侍は色めきだち松沢五左衛門に榊原康政軍への備えをさせ次々と城内に退いた。
こうして真田に高砂を途中で切り上げさせて城中に追い払ったところで、再度引き取るようにという下知があった。
榊原康政、牧野康成も引き取り、軍評定があって関ヶ原への進軍が決まった。
こうして森右近大夫(森忠政)、日根野筑後守(日根野吉重)、石川玄蕃頭(石川康長)を真田表に残し、秀忠公は美濃へお急ぎになられた。
木曽へは本多正信隊は和田峠を避け回り道し、榊原康政の一手の二千騎は旗を押し立てて和田峠を越えた。
こうして真田の策は天の与えと伝えられているが、一人も欠けることなくことごとく秀忠公に奉侍した。

595 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/30(月) 20:15:34.60 ID:r6sM9i9Y
というわけで巷間伝えられている第二次上田合戦と比べると地味な感じではある。
秀忠軍が大敗北したとしても書けないだろうけど、徳川方の上田七本槍の活躍も盛られてなさそうだ。
ついでに上田七本槍の中山照守の父親は>>530の中山家範で中山照守も八条流馬術の名手(将軍家指南役?)
小野忠明は小野流一刀流の開祖で秀忠の剣術指南役



「真田七本槍」(第二次上田合戦の上田七本槍)

2023年01月23日 19:34

575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/22(日) 21:45:38.06 ID:vbYgp9gn
>>571の続き
武家閑談」から「真田七本槍」(第二次上田合戦の上田七本槍)

また後の真田陣(第二次上田合戦)は慶長五年(1600)年九月六日であった。
台徳院秀忠公が御発向し、真田昌幸をお攻めになられた時、城の北の門は根津長衛門が受け持っていた。
御旗本の浅見藤兵衛が一人で夜に堀の深さを測っていたところ、城中から鉄砲玉が雨のごとく降り注いで撃たれた。
朱の十二引の指物もずたずたになり、浅見は地に伏せた。
そんな所に御味方の小栗治右衛門もつづいてやってくると、城門から真田の甲兵二十余が門を開いて浅見・小栗両人に鉄砲を打ちつけ、鉄砲煙がはれたところで槍を突き立ててきた。
浅見の小者の虎若が刀を抜き槍下をくぐって二人の元に行ったところ、小栗は胸三箇所を撃たれて討ち死にしていた。
浅見も胸を撃たれて地に伏していたのを、虎若は浅見の両足をとって引き出した。
浅見は「兄の小栗を退けよ」と命じたが、虎若は腹を立てて「主人を捨てて他人を退ける者がおりましょうか」と背負って退却した。
虎若から指物について問われた浅見は
「槍合わせの時に落とされたと見えるが、取り戻すわけにもいくまいな」と言うと
虎若は「退却時に落としたのであれば武官の落ち度となりましょうが、槍合わせの時に落としたのであれば問題はないでしょう」と引き下がった。

576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/22(日) 21:48:58.23 ID:vbYgp9gn
城方は手始めに相手方の二人を殺し、負傷させた、ということで真田兵の山本清右衛門と依田兵部がただ二人で追い打ちをかけにきた。
両人が二町ばかり離れた堤の上に立って偵察したところ、台徳公(徳川秀忠)の御旗本の武者、二、三十騎が騎馬の鼻を並べてやってきた。
山本・依田を見た旗本衆は、「今、槍を持ってこっちに来る真田方の斎藤左大夫とその弟子二人だ、逃すな」とかかっていった。
なかでも小野次郎右衛門(小野忠明)、辻太郎助(辻久吉)がひと足先に駆け寄ってきたため、斎藤左大夫は城に逃げ帰った。
小野と辻はそこで堤際へ行き、依田・山本を相手にすることにした。
こうして堤の上と下でそれぞれ槍を突き合わせた。
そこへ朝倉藤十郎(朝倉宣正)、中山助六(中山照守)、戸田半平(戸田光正)、鎮目一左衛門(鎮目惟明)、太田甚四郎、斎藤久右衛門(斎藤信吉)が続いて槍を合わせた。
(太田甚四郎以外の五人と小野・辻が上田七本槍)
こうして依田兵部は朱具足で奮戦したが倒れ伏した。
小野と辻が依田の首を取ろうとしたところ、山本清右衛門が二人を打ち払い、依田を肩に担いで城中に引き返した。
入れ違いに城中から駆け出してきた真田兵三十余人に対し、太田甚四郎は鉄砲を脇より撃ちかけた。
さすがの真田もひるんだところを、中山・朝倉・小野・辻・鎮目・戸田・斎藤が槍を持って追撃しようとしたため、真田はことごとく城に引き返した。
そこで本多正信は城を攻めても寄せ手の被害が生じるだけだと下知した。
(このあとは第二次上田合戦についての記述)



この御用を蒙ること、全くその武功に寄るもの

2022年08月27日 18:40

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/27(土) 18:28:50.89 ID:nJHAYYUM
元和二年四月十七日、東照大権現が御他界されたことで、駿府詰めの面々は皆江戸へと帰った。
同五年夏、台徳院殿(徳川秀忠)御上洛され、伏見において福島左衛門(正則)の領国を
召し上げる時、その家老である福島丹波が明け渡しを拒否致した故に、中国四国の大名が
芸州広島へ発向することとなり、安藤対馬守(重信)、永井右近太夫(直勝)、戸川肥後守(達安)が
三奉行として出陣した。彼らに対して中国四国の列侯が、崇敬すること斜めならぬものであった。

しかし、安藤、永井は将軍家昵懇の家柄であるのでさもありなんが、肥後守は外様の身分でありながら
この御用を蒙ること、全くその武功に寄るものであった。

この時、加藤左馬介(嘉明)に先鋒が仰せ付けられたのだが、嘉明は
「正則は在国しておらず、国元は家来ばかりなのですから、私一人でも打ち潰すことは容易の事です。」
と申し上げた。

これらの事は伏見において仰せ付けられ、諸家段々に広島へ押し詰め、重ねての御下知を待っていた所、
伏見より花房志摩守を使いとして江戸に遣わし、江戸の福島正則に仰せ遣わされた所、正則は心服して、
滞りなく御請け申し上げ明け渡すように、とする証文を正則の自筆にて広島へ遣わした。
福島丹波はこれを見て、「然る上は」とて無事に城を渡した。

正則は越後に蟄居し、四万石がくだされた。

戸川記

福島正則改易についての戸川記の記事



老後の面目、何事がこれに等しいだろうか

2022年08月16日 18:48

337 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/16(火) 18:36:12.91 ID:3gjOkIHM
慶長二十年(元和元年)、両公(徳川家康・秀忠)は正月末に御帰府されたが、程なく大阪との
御和睦破れ、同三月、御陣令があり、速やかに出陣すべきとの由にて、四月、諸大名悉く上方へ登り、
両御所も四月末上洛された。

内藤紀伊守が尼崎御番を仰せ付けられ、肥後守(戸川達安)并びに備中組は残らず尼崎加番を仰せ付けられ、
各々そこに詰め番所を構え、往来を改めた。

五月始め、諸勢大和口より押し詰め。国分、道明寺、松坂に陣した。五月六日、両公御出馬され合戦が始まり、
同七日朝五時前注進があった。肥後守はこれを聞くやいなや、尼崎で松平宮内少輔へ見廻りと申し断って、
花房助兵衛(職秀)と申し合わせて天王寺表へ馳せた。
しかしその途中にて早くも阪城に火が掛かり、御勝利となった。

そこで茶臼山の御本陣へ参上し、與庵法印の取次にて家康公に御目見え申し上げた。
肥後守はこの時直に「尼崎の御番を仰せ付けられましたが、御旗本について心もとなく思い、推参
仕りました。」と申し上げると、上意に「何の尼崎」と仰せになられ、御機嫌良かった。

さて、花房助兵衛(この時六十六歳)は駕籠より抱き下ろされて肥後守の側に在った。
「花房助兵衛も参上しています。」と肥後守が披露申し上げると、大御所はご覧になり

「汝、若き時より軍好故、その躰にても出陣、奇特である!」との御意があった。

両人平伏して御前を退くと、助兵衛は肥後守を拝んで

「今、この御言葉を被った事、偏に君のおかげであり、生々世々忘れない。
老後の面目、何事がこれに等しいだろうか!」

そう、大変に喜んだ。
それより大樹公(秀忠)の岳山本陣へ参上し御目見得仕り、尼崎へと帰った。

肥後守の弟である戸川主水は御旗本に在ったが、榊原太郎左衛門佐(後飛騨守)と一緒に大阪城へ乗り込み、
桜の御門まで至った所で、城内に火が満ちて入ること叶わず、この事を中山勘解由に確認してもらい、
後に御旗本御検議の時、中山が証人に立った。

戸川記



朝野雑載」から知恵伊豆こと松平信綱の話

2022年07月24日 13:53

310 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/23(土) 22:04:08.06 ID:46b6DecW
朝野雑載」から知恵伊豆こと松平信綱の話

江戸大火事(明暦の大火)の節、御天守に火が移り焼き上がってしまった。
御城の女中が外に出ようとしたが、道がわからずあわてふためいた。
それを見た伊豆守は御玄関から奥まで畳二枚分の道を空けさせ
「畳のないところをたよりに出られよ」と申されたという。

また伊豆守九歳の時、秀忠公の御機嫌に触れたため、秀忠公に宿直(とのい)袋に入れられてしまい、封をされてしまった。
秀忠公は御台様(江)のもとに袋を預け、そのまま御放鷹に出御された。
伊豆守殿は袋に入っておとなしくしていたが、そのうち小便がしたくなったため「袋を開けてくだされ」と女中衆を呼んだ。
御台様も女中衆も困惑して「将軍様が手づから封をなされたので、開けることはならぬのです。どうしましょう」と言った。
伊豆守は「縫い目をほどきなされよ。それがしを出しなさって、小用が終わればその後にそれがしを入れて元のように縫合なさればいい。」
おのおの名案だと大いによろこんで伊豆守を出した。
伊豆守は小便を終え、また袋の中に入ろうとしたところ
御台様は「将軍様がお帰りになられるまではこのまま遊ぶとよいでしょう。」
とお菓子やその他さまざまな物をくだされ、懇切に遇された。
秀忠公が帰城された時、伊豆守はまた袋の中に入り、女中衆は縫い目を元のように縫合した。
やがて「将軍様御預けのものを御返しください」と御使いが来たため、袋が秀忠公の元に戻った。
秀忠公は袋の中の伊豆守に
「その方、向後忠勤を励むか?」とお尋ねになられ
伊豆守もおそれいって「御奉公、油断なくつかまつります」と申し上げたところ、秀忠公は御手づから袋より伊豆守を出されたということだ。



311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/24(日) 08:29:14.50 ID:Hx8mz+Tr
玉袋だったんだな

「朝野雑載」から福島正則改易

2022年07月12日 19:29

539 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/12(火) 19:22:02.94 ID:q/RBtAIe
朝野雑載」から福島正則改易

秀忠公が御家中の老中におっしゃることには
福島正則の身上を取り潰せという家康公の上意であるが、当家に対して不忠もないのに身上を潰せとはどういうことであろう」
すると本多佐渡守(福島正則の改易自体は家康と本多正信の死後のはず)が進み出て言うことには
「仰せの通り、三成への七将攻めの折には家康公の裁定に従い、関ヶ原の折には黒田長政の勧め通りに居城を家康公に明け渡して御本陣にいたしました。
また秀頼公の二条城会見の折には、秀頼公が一番に頼りにした将でありながら仮病で罷り出でませんでした。
これらは徳川家に対して二心がないゆえであります。
しかし仁心がなく、武勇一辺倒であり、悪逆無道の挙動のみ多い方です。
とくに嫡子八助(福島正之)を殺したのは不仁の至りです。八助に罪があったとはいえ骨肉分身の儀を少しは思うべきです。
また入国の時に水主に「今日の風はなんという風だ?」と尋ねたところ
水主が「地あらし、という風でございます」と答えたため
「入国の際に地が荒れるとは何事だ!」とたちまち水主を誅戮したことがありました。
また、備後名物の畳を上様に進上したところ、他の大名たちより畳表が悪かったため、畳問屋を畳の上にうつ伏せにして、大槍で諸人の前で突き殺したことがありました。
このようなことは数えきれず、家中の士も大小に関わらず、心に叶わなければたちまち殺害、あるいは自身で打擲されました。
このゆえに福島正則の領地では歴々の士や人民を問わず、みな八大地獄の苦しみを味わっているということです。
かくなるうえは正則を滅ぼして人民を救うことこそ、天命に叶っていると言えるでしょう。
徳川家に忠であるからと言って天命に背くわけにはいきません」
と申したところ、秀忠公も納得し福島正則滅亡と決まった。
しかしながら世の人はこの趣きを知らないため、「福島正則が武勇に優れたのを忌みなさって無理やり滅ぼしたのだ」と言っている。



別記に、天海大僧正は

2022年05月27日 18:20

天海   
205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/27(金) 15:18:13.77 ID:1yQqJgug
元和三年二月二十一日、故・徳川家康に対し、東照大権現の贈号がなされた。

或る記に、始めは大権現ではなく大明神の神号然るべきとの計議あって、それに決定せんとしたのだが、
天海僧正はこれを聞いて、「明神は非なり。権現とあって然るべし。」と言ったのだが、その場の衆は皆
「権現は(神仏)習合なのだから如何か。」と言った。
そうではあったが、天海の言う所も無視するわけにはいかず、事決せずして結論は延引された。

この事について、徳川秀忠公は老中をして議定せしめ給うたが、この時も皆、明神号を以て是なりとし、
将に定まらんとした。しかしこの時天海は黙して何も発言しなかった。そのため老中は再三天海
尋ねられた所、彼は
「豊国大明神、幸ありや。」
と言った。

これに何れも答えること出来ず、権現に定まった。

後に神体を、吉田(吉田兼起カ)に命じて鎮斎しようとしたが、天海
「吉田何をか知らん。愚僧勧請せん」と言ったため、皆疑って、この言葉を秀忠公に申し上げた。
そこで秀忠公は老中を以てこの事を尋ねられた所、天海は一軸を献じた。それは後陽成院帝より
天海に賜った、神体勧請伝の宸筆であった。殿中の者達、大いに驚いた。

今の東照宮の神体は、天海上人が鎮斎したものである。
総じて東叡山寛永寺の僧徒が神体を勧請する事を得るのは、その縁である。

天海がこの勅伝を得た経緯は、慶長の末に家康公、豊臣秀頼公を伐たんと思し召し、後陽成帝に
請い給う所、帝は愍みに思し召され、東西を和解なさしめんとの叡慮を持たれていた。故に
秀頼征伐の執奏が再三に及ぶと雖も、許し給わなかった。これに家康公は御憤あり、故にこの事を
後老中も皆恐れて敢えて言い出す者は無かった。

この時、天海は家康公を諌めた。その辞は甚だ激しく、終に家康公も後承引あった。
天海はすぐに上京し、この事を帝に奏聞した。帝は天海の功を奇とし、「その願う所を訟えよ」との
勅定があった。天海はすなわち、この神体勧請伝を以て奏じた。帝はそれを許し給うたという。

別記に、天海大僧正は足利公方・義澄公の末子であり(一説に、俗姓三浦の末葉・鈴木氏であるという)、
母は会津蘆名盛隆の娘で、永正七年に誕生、義澄公薨去に付き、母と同道し会津へ下向し、外祖の氏を
称して平氏となり、寛永十九年十月二日に寂した。百三十四歳であったという。

慶安元年四月、慈眼大師と諡を賜ったという。

新東鑑

天海僧正、明智光秀どころか足利将軍の落とし胤説まで有ったんですね。



206 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/28(土) 19:00:22.20 ID:13JLuMtD
噂でもいいんだけど天海ちゃん本人はどう思ってたのかねえ
本人に聞く奴も結構いたと思うんだよね

207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/28(土) 19:37:58.79 ID:OVmpUAW9
ほっとい天海とか思ってたんじゃないの

208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/28(土) 19:48:02.73 ID:13JLuMtD
豊国大明神、幸ありや
ひどい豊臣憎しの言葉だな

209 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/05/28(土) 22:20:06.53 ID:BBDU84zs
天海「権現、私の好きな言葉です」

210 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/28(土) 22:36:46.38 ID:FtB32KSb
出生関連には「お前が思うならそうなんだろ、お前の中ではな」的な返ししてなかったっけ天海

211 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/05/28(土) 22:52:19.77 ID:BBDU84zs
川中島合戦史仲裁案「拙僧がソース」とかもね

秀忠と政宗と酒井忠世

2022年05月26日 16:35

204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/25(水) 23:28:29.94 ID:8WaBkeoQ
槐記享保十年十月二十二日の記事より 秀忠と政宗と酒井忠世

進藤夕翁の話に「台徳院殿の御時、酒井雅樂頭(恐らく忠世)と奥州の政宗が御相伴になって、台徳院殿自らが放った鷹で獲った雁を二人に下されたが、二人ともにその雁を褒めたところ、その時分俳諧が流行っていたのであろうか、『一句詠めるか』とお尋ねあるとすぐさま雅樂頭、
 下さるる 御汁いくたび かえる雁
と詠まれた。御感心のあまり『政宗、脇を付けよ』とご所望あれば、政宗、
 遅き給仕の あたまはる風
と付けると、おおいに面白がられた。『なにとぞ第三句はお上がお付け下さいませ』と二人が申し上げると、
 山々は こぶしの花の 盛りにて
と付けられたとのことです」
家煕様も「昔の人は」と大笑いされたが、三人の性格の違いがまざまざと表れているのは実に驚くばかりだ。



第二次上田合戦時の戸田左門の進言

2022年05月24日 16:48

196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/23(月) 19:42:12.20 ID:tGyeQDo6
朝野雑載」より、第二次上田合戦時の戸田左門(戸田一西)の進言

慶長五年(1600年)九月二十三日の夜、本田上野介(正純)から
「内府公(家康)、御持病も御快癒されましたので、明日秀忠公に御対面なさいます。
また今度御供に召し連れた面々にも御目見の御沙汰があります」
と申し送りされたため、翌朝秀忠公は大津の城に赴きなさって、家康公と御対面された。
御供に召し連れた輩も御眼前にひかれた。
秀忠公「関ヶ原に遅参してしまい、大切の御一戦に参加できず、御迷惑におぼしめされていることでしょう」
家康公「参陣の時節を申し上げた使者が口上を誤った以上、いたし方のないことであるが、
総じて天下分け目の戦というものは囲碁の勝負と同じことで、碁にさえ勝てば、相手方に石がいくらあろうが相手の用にはたたぬものである。
われわれが関ヶ原の一戦に打ち勝つならば、真田ごときの小身者がいかに城を堅固にしようと、結局は城を明け渡して降参するよりほかにないのだ。
お前の後ろに控えている者どものうちに、そのように申した者は一人もいなかったのか?」と尋ねられた。
秀忠公が「同じことを戸田左門(一西)も申しておりました」
と仰られたところ、
家康公は「なんと申したのだ?」と重ねてお尋ねになったので
秀忠公は左門の進言の委細を仰られた。
家康公は御家人列座の方を御覧なさり左門を召されたが、末座にいたため聞こえなかったのか反応がなかった。
そこで秀忠公は声高に「内府公は左門をお召しだ!」と仰られると、左門はすぐ御前近くに出た。
家康公はおそばに召し寄せ、御両手にお菓子を山盛りにすくい、お手ずからお菓子を賜い
家康公「その方、小身にて口がきけぬか、すぐに口がきくようにしてやろう」とおっしゃった。
左門はあまりのありがたさにお礼もいえなかったため
秀忠公が代わりに「左門ですが、けっこうの御意をこうむり、かたじけないしあわせに存じております」と仰られたという。



198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/24(火) 15:39:42.57 ID:emE/uutk
>>196
家康が約束した通り
戸田一西は翌年近江で三万石の大名になり、小身ではなくなる

199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/24(火) 17:26:34.67 ID:bJqQkG0r
本多正信も進言したのになかったことにされてる

秀忠関ヶ原途上の上田攻めの時の話

2022年05月23日 17:21

194 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/22(日) 20:19:15.64 ID:U8GqlHSQ
朝野雑載」から秀忠関ヶ原途上の上田攻めの時の話

慶長五年九月八日、秀忠公は本田佐渡守(正信)を召して、昨日兵が真田方に煽られて戦をした一部始終を聞かせ給うたところ
佐渡守「大久保忠隣牧野康成の配下の者どもが下知なく兵を進めたのは処罰するべきです。
軍法を破るものは不忠であり、不忠の者はその罪を逃れません。
大久保・牧野の物頭に腹を切らせるべきです」
と諌めたところ、秀忠公も同意されたため、大久保・牧野にその旨を言い渡した。
両人は仕方なく家人に腹を切らせようとしたところ、牧野康成の息子、新次郎(牧野忠成)は
「手柄を立てた家来に腹を切らせては、誰が身命を捨てて働くでしょうか」
と独断ということにして、小姓掃部を召し連れて陣中を立ち退いてしまった。
これにより康成も逼塞していたが、秀忠公若君誕生により新次郎は御赦免され、康成も元のように出仕した。
新次郎が立ち退いたと聞いた大久保忠隣の息子の新十郎(大久保忠常)も、旗奉行の杉浦惣左衛門久勝を召し連れて出奔しようとしたが、
惣左衛門は承諾せず「御志は身に余りますが、我が命を救うために御主君が浪人するというのは本意ではありません。命は義よりも軽いのです」
と言ってたちまち自害してしまった。
杉浦の嫡男や次男の命は助けられ、長男・平太夫久成はのちに大久保忠常に仕え、
次男・十兵衛久真は、惣左衛門の志をお聞き届けになった秀忠公に召し出されたということだ。



「鑓」について

2022年04月17日 17:07

126 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/17(日) 16:54:42.08 ID:sJ6g5wvU
或る本に、大阪夏の陣、五月七日の合戦で、徳川秀忠公の御先鋒・青山伯耆守(忠俊)の組の
土方宇右衛門、花房又七郎が先駆けして鑓を合わせた時、味方二人が突き伏せられ、さらに敵兵が
掛かってきたところを、土方、花房はその手負いの味方を肩に掛けて退いた。
この事を人々は「両人とも鑓を突いた」と申したが、家康公がこれを聞かれ、
「七日の合戦、総て鑓は無し。両人の者、鑓を突きたるにはあらず」
と仰せになられたが、各々に千石の加増があった。

古には弓箭にて戦ったが、楠木正成が異朝の鉾戦を模して、鑓を用い始めたのだが、猶弓箭についての
評価はしても、鑓についての評価はなかった。
武田信玄の時代より、専ら鑓についての穿鑿がされるようになった。

凡そ、敵味方が備を立ち寄せ、弓鉄砲にて迫り合い、その後戦いが激しくなってなって弓鉄砲も放ち難き時は
鉾矢形(ほうしぎょう)となる。その時進んで鑓を入れるのを「一番鑓」と名付けた。
それより二番鑓、或いは太刀鉄砲にて一番鑓の脇を結ぶのを「鑓脇」といい、またその時首を取ったのを、
鑓下の功名と言う。
又、この場で負傷した味方を肩にかけて退くことを、「場中に高名」と言い習わした。
又、敗軍の時、敵が小返しして働くのを突き伏せて首を取ることは「印」と言い、鑓とは言わなかった。
何れにおいても、強き働きのことを「鑓」と名付けたのである。

されば天文十一年八月、今川駿河守義元と、織田備後守信秀の合戦の時、三州小豆坂に於いて合戦があったが、
今川勢の四万騎が、一度に咄と討って掛かった所、織田勢の四千騎、乱れ立って敗北したが、
信秀の先陣である織田孫三郎引き返し討って向かった。続いて織田造酒之丞、下方左近、岡田左近、
岡田助右衛門尉、佐々隼人正、同孫助の七騎進んで敵を突き立てた、故に「七本鑓」と名付けられた。

又天正十一年四月、秀吉公と柴田勝家の合戦で「賤ヶ岳の七本鑓」と言うのも、敵兵が崩れて色づいた時の、
総懸かりの鑓である。

また未森城攻めで、前田利家卿の家人・山崎六左衛門は小太刀、山崎彦右衛門、野村巳下は鑓で戦ったが
(これは天正十二年、敵は佐々内蔵助(成政)である)、六左衛門が一番に首を取った事で、
利家卿より一番鑓の感状、並びに一万石の加増があった。
この時彦右衛門が「それがしこそ一番鑓なり」と争ったが、利家卿は御許容なく
「太刀は鑓よりも短い、故に先に進んでいたこと分明である」
と批判された。

また、垣越、狭間越、投突は「犬鑓」と言って弱き鑓とされているのだが、狭間より鉄砲を撃ち出す時に、
鑓にて狭間を閉じるに於いては「鑓」とすべき。又垣越もその時の状況によって判断される。
又投突も、合渡川の戦いの時杉江勘兵衛は踏み止まり、激しい戦いの場であったので投突にしたが、
これは犬鑓とは言い難いとされた。

さて、家康公が五月七日の戦いに「鑓は無し」と宣われたのは、仮にも秀頼公は主君である故の
ご思慮であったと言える。それは冬夏両度の御陣を、「相手は淀殿」と仰せになっていた事からも
思い量るべきである。名将の御一言は表向きの事ではなく、深い御智計があるものだと云われている。

新東鑑

「鑓」についてのお話



故に我等は、一番に攻め入って

2022年01月17日 16:50

963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/17(月) 14:26:17.50 ID:1irRVzBy
或る記に、真田伊豆守信之の家来である、矢澤但馬守、半田筑後、榊原石見といった輩は
度々武功のある者共であったので、大阪冬の陣において、敵の鉄砲が雨よりも猶繁く降り注ぐ
場所でも、一番に進んで仕寄を付けた所、この日、将軍家(秀忠)が御巡見あり、

『真田河内守(信吉)の仕寄は他に異なり、甚だ城に近い』

との御諚があった。これに御目付衆が畏まって申し上げた

「この事、私共も先達て真田家に対し批判した所、河内守はこのように申しました。

『この手は城中の木村長門守(重成)の持ち口です。もし今にも総攻めとの御触が有れば、
ここで木村は手痛く働くでしょう。

かの長門守と私の叔父である左衛門佐(真田信繁)は、刎頸の交わりであると承っています。
故に我等は、一番に攻め入って長門守と勝負を決する覚悟をしており、そのために諸陣に勝れて
仕寄を付けたのです。もし御咎めが有れば、この事を言上し、切腹仕ります。』

そのように申したために、我々もそのままに差し置きました。」

と言上したという。

新東鑑

大阪方に付いた叔父の親友の持ち口だからこそ決死の覚悟をしていたという、真田信吉のお話



甲斐の徳本一服十六銭

2021年11月18日 18:41

796 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/18(木) 18:24:01.44 ID:Iw0YGaJa
明治大正の国学者、宮地厳夫による「本朝神仙記伝」から「甲斐徳本」
甲斐徳本は、永田氏なり、その父母及び生国を知らず。
伊豆、武蔵の間を行きめぐひ、薬籠を負いて、甲斐の徳本一服十六銭と呼びて薬を売り歩く。
江戸に在りける時、徳川大樹(秀忠)病あり。
典薬の諸医手を尽くせども、験(しるし)なかりけるに、誰が申しけむ、徳本を召して治療をなさしむ。
不日にして平癒したり。是に於いて大樹の喜悦ひとかたならず。
賞を遣わすべしとて、種々の物を与えられけれども、敢えて受けず。
ただ例の十六文に限る。薬料をのみ申し下したりければ、人皆その精白を称しあえり。
されば大樹にも此よしをや聞かれけむ。何にまれ願う事あらば、申し出よとの命しきりに下したりければ、
されば我が友のうちに、家なきを悲しむものあり。これに家を賜らば、なお吾に賜るがごとくにならむと申しし程に、
即ち甲斐国山梨郡の地に、金を添えて賜りぬ。
やがて其の者を呼びてとらせ、その身はまた薬を売りて行方知らずなりしとなむ。
この老翁の著述、「梅花無尽蔵」と題する書あり。
上梓して世に伝えられたり、薬方古によらずすこぶる奇なり。
薬名もまた一家の隠名を用う。けだし仙人の化身なるべしといえり。

秀忠の病気を治療しても十六文しか受け取ろうとせず
秀忠がもっと褒美を出したい、と言ったところ、友人のために家をもらい自分は去っていった清廉な名医・永田徳本の話。
中里介山「大菩薩峠」には十八文しか受け取らない道庵先生といえ名医が出てくるが、そのモデルかも。




797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/18(木) 20:32:27.34 ID:9NtCvpnO
>>796
著名な話ではあるが原文で読むと味わい深いね
16文はざるそばの価格

799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/18(木) 22:11:30.14 ID:c0Qw0QiZ
トクホンの由来である

池田兄弟の活躍

2021年06月28日 19:16

282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/28(月) 18:32:44.66 ID:5p3QGKF9
大阪冬の陣の際、
池田武蔵守(利隆)は、播州姫路より尼崎に取り付き、神崎川を渡り、中津川を越えようとした時、
御検視であった城和泉守(昌茂)がこれを止めようとし、池田家の家老と武論の言い合いをし、
武蔵守は止まること無く、船橋・投げ筏を以て中津川を越え、天満表より仕寄った。
後の城和泉守改易はこの為であった。

池田左衛門督(忠継)は備前より軍を発し、これも神埼。中島筋より取り寄せ、自身の采配にて、
大和田の渡を越えて、大阪より出撃した敵を数多く討ち取り、尽く追い崩して、野田・福島を取りしぎ、
その後仙波へ廻り、蜂須賀と陣を列した。
緒軍に勝れた働きによって両御所様(家康・秀忠)より御感状が下された。彼はこの時十六歳であった。

管窺武鑑

大阪冬の陣の緒戦における、池田兄弟の活躍について


徳川秀忠の正妻・崇源院について

2021年03月17日 18:05

978 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/17(水) 16:48:19.52 ID:aThDU7wJ
御所(徳川秀忠)の御台所は贈中納言藤原の長政卿(浅井備前守殿の御事なり)の御娘にて、御諱は
達子と申す。御母は織田右府(信長)の御妹である。(諸書に記す所、みな妹としているが、渓心院という
女房の消息を見ると、信長のいとこであるとしている。もしくは、いとこであるのを妹として披露して
長政卿に嫁がせたのであろうか。)(筆者注:『渓心院文』の事か)

御兄右府のはからいにて長政卿に嫁ぎ、姫君三人をもうけ給う。長政卿越前の朝倉を助けて
織田殿に背かれたが、ついに近江国小谷の城にて滅び給う。正妻であった小谷の方(お市の方)は
織田殿の元に帰り給い、家人の柴田修理亮勝家に賜り、姫君たちを伴って越前国北ノ庄に移られた。

天正十一年の夏、勝家は羽柴筑前守秀吉のために、近江国賤ヶ岳で戦い負けて、北ノ庄に逃げ帰り、
腹切って失せた、この時、小谷の方は息女と共に落ちたまえと、勝家はひたすらに諌めたのであるが、
さらに聞き入れずして共に空しくなられた。
子供たちのことは、「筑前守の元に渡されるべし。織田殿の厚恩を受けた人であるのだから、まさか
悪しくはしないでしょう。」と、自ら文を書いて、姫君三人を輿一つに召させて、女房たちも残らず
添えて、城より出されると、敵の兵たちは中を開けて確認した上で通した。
秀吉は息女たちを迎え取ってよく労り、大切に養い育てた。

その後、時移り世改まって、姉君は豊臣太閤(秀吉)の思者となられた。淀殿と申されている人が
これである。
次女は京極宰相高次の室となり、後に常高院殿と申す。
御末は御台所にておはします。太閤は彼女を大切に養い育て、文禄四年の九月、御所にあわせ参らせた。
後に大御台所と申し奉る。大猷院御所(家光)をはじめ奉りて、若君姫君、あまたもうけさ給えり。

一説に、大御台所ははじめ、尾張国大野の城主・佐治与九郎一成に嫁いだが、一成太閤の心に
違うことが有ったため、室を奪い取り丹波の中納言(羽柴)秀勝に娶せ。姫君が一人産まれられた。
その後朝鮮の戦起こって、秀勝も大将を承って押し渡ったが、文禄二年に彼の国にて失せにければ、
内室やもめとなりし給いしを、台徳院御所に参らせたのだという。この時、(秀勝との間にもうけた)
姫君も御所の養女とされて、九条関白殿(幸家)の政所となられた。摂政殿(九条道房)の御母である。

また佐治一成が太閤の不興を得たのは、天正十二年、小牧山の戦いが終わり、東照宮(家康)が浜松に
帰られる時に、佐屋の渡りにおいて、一成己が船を以て渡らせ参らせた事によって所領を失ったのだという。
然れども、この年大御台所はわずかに十二歳にておはしませば、一成の妻と成ったというのは覚束ない。

以貴小伝

徳川秀忠の正妻・崇源院について。なにげにお市の方の信長の実妹否定論の根拠も入ってますね。



吉光の刀

2021年03月09日 18:36

620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/09(火) 16:25:26.53 ID:rJk2FzJg
大阪夏の陣に於いて、石川主殿(忠総)の部隊が回収した名作の吉光の刀を、京都において
権現様(徳川家康)に献上した所、殊の外の御機嫌にて

「この刀は秀頼より明石掃部(全登)に授けられたものである。これを持った者を討ち取った時、
どのような様子であったのか」

とお尋ねに成ったため、この吉光の刀を取ってきた権太夫という者が急ぎ京都に召された。
しかし御問について「(明石掃部という人物は)見知り申さず候」との事であったので、その通りに
申し上げた。

その後、五、七年も過ぎた頃、台徳院様(徳川秀忠)の御咄に
「大阪で回収された吉光の刀は、明石掃部が所持していたものであった。その後、明石掃部の行方は
解らぬままであり、である以上、その時討ち果たされた者の中に有ったと考えるべきであるのだろうが、
あの刀を回収した主殿頭の者共は三河筋の者達で、上方の侍を見知らぬ故に、惣首数の内に押し込めて
しまったのだろう。」との上意であった。

『冬夏難波深秘録』



権現様が上総殿になされたことを御覧になっているので

2021年02月12日 17:45

554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/12(金) 00:57:21.20 ID:GC8RmT/X
権現様が上総殿になされたことを御覧になっているので

細川忠興が徳川家光の弟・忠長の乱行と処分について述べた条を抜粋して意訳。

一、駿河大納言殿(忠長)はこのごろ御手討ちが重くなり、小浜民部(光隆)の子を御成敗し、その後
  御伽の坊主も御成敗したとのことです。きっと並大抵でない曲事があったのかもしれませんが
  民部は西国の船頭に仰せ付けられているのに、あまりにひどいことです。これ以前に御年寄衆から
  固く意見を申されて(手討ちを)しない約束をしたのに、こんなことになっています。その上
  切った者を(切ったことを覚えておらず)次の日に呼ぶこともあるらしく、言語に絶します。
  この分だと一白殿(松平忠直)のような御身上になるのではないかと上下で取り沙汰されているので
  相国殿(秀忠)は何とも御沙汰をしにくいのではないかと思います。しかしながら、権現様が
  上総殿(松平忠輝)になされたこと(対面禁止処分)を御覧になっているので、不安です。
  他の例は置いておいて、(きちんと)罰せられるようにと思います。

――『細川家史料 細川忠興文書 八六四号』

忠興の危惧した通り、秀忠が生きている間は重い処分が下ることはなかった。



555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/12(金) 14:53:28.33 ID:7LaluMsR
忠興にここまで言われるって狂うにも程があるだろ

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/12(金) 17:41:28.60 ID:RJrUUo6C
秀忠も家老の朝倉宣正の力不足ということで一件落着させようとしたが
忠長が宣正は無関係って訴え出たということで本人の蟄居処分だからなぁ

単なる発狂と切って捨てるには色々事情がありそうだったりする

「寿徳院玄由の閲歴について」

2021年01月03日 17:30

817 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/01/03(日) 12:51:10.01 ID:fMufmaQf
曲直瀬玄由(寿徳院、寿徳庵)は名医・曲直瀬道三の高弟、道三の孫娘(別の高弟の未亡人)と再婚した人物


薩摩の島津義弘は元和4年春から中風に罹って意識不明が続くことがあり、それを聞き及んだ将軍秀忠は同年3月25日付で
問い合わせの御内書を送り、義弘側から4月22日に返答している
島津家久へは本多正純を遣わして見舞いの言上をさせ、薩摩の国元へも見舞いの上使を派遣したという

『徳川実紀』元和4年には、同年秋の寿徳庵の薩摩への下向とあり、近衛信尋の元和五年6月3日付見舞状には
「寿徳庵下向之事候間、一書申入候」とあるので、2度の下向が推測される

東京大学史料編纂所所蔵の『島津家文書』では、元和三年六月の将軍秀忠の上洛に家久も上京し、十月初めまで滞在した折に、
義弘の国元での病を聞いた秀忠が心配して玄由を薩摩へ遣わしたとある
なお、この滞在中に家久は参議任官、松平姓の名乗りの許可を得、西洞院家を通して後陽成上皇崩御の経過を知ったとのことです

この時期、徳川将軍家の有力大名への配慮の一端がうかがえる話でありました



西村義明「寿徳院玄由の閲歴について」『日本医史学雑誌』第四十六巻第2号より



後に玄由は琉球からの留学生・山崎休意を弟子にしているので、島津家つながりで交流が続いていたものか?
琉球の禅僧は多くが京都で修行していたので、そちらのつながりも可能性ありそうですが

休意はまとめサイト『島津の琉球侵攻とある日本人武者』の山崎二休の息子ですが、コメント欄での考察にあるように越前山崎氏の一族かもしれない
朝倉と山崎の名がクローズアップされた、今回の大河の話ができる今しかネタにできないかw



819 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/01/03(日) 20:34:14.17 ID:bJHzZg13
>>817
まとめ過去記事のそれ、コメントの皆さんは越前山崎氏であることを確信していたようだが、どうしてそんなに断言できるものかなあ。
まあ当時の人ってそういう生まれの背景ないと学問身に付かないんだろうけど。
二休の記録は琉球にしかないからわからんね。

820 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/03(日) 21:54:40.89 ID:ubGXdGN/
球陽 附巻5

「日本山崎二休、克く忠義を操り、以て重罪を累ぬ。」
山崎二休は、名乗は守三と称し、日本越前の人なり。
其の人と為りや、生資純粋にして、学は精密に徹す。而して少幼の時より医術に志して、他方に遊ぶ。
茲に球邦は中華に往来すること歴年已に久しと聞き、意想へらく、扁鵲の妙法、球国に遺在する有らんと。
乃ち故里を辞去し、本国に来到して那覇に住居し力を国に効す。
(このあと島津との戦いについて)

「山崎」「越前」「学問に通じて琉球まで遊学できるくらいなら裕福」
→越前山崎氏かな?
だろうね

821 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/01/03(日) 23:11:34.10 ID:T+Y1+Z45
うん、そう。球陽のそれしか記録がないよね。
推論すると当然そうなるだろうが、結論づけていいものかな?