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権現様が上総殿になされたことを御覧になっているので

2021年02月12日 17:45

554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/12(金) 00:57:21.20 ID:GC8RmT/X
権現様が上総殿になされたことを御覧になっているので

細川忠興が徳川家光の弟・忠長の乱行と処分について述べた条を抜粋して意訳。

一、駿河大納言殿(忠長)はこのごろ御手討ちが重くなり、小浜民部(光隆)の子を御成敗し、その後
  御伽の坊主も御成敗したとのことです。きっと並大抵でない曲事があったのかもしれませんが
  民部は西国の船頭に仰せ付けられているのに、あまりにひどいことです。これ以前に御年寄衆から
  固く意見を申されて(手討ちを)しない約束をしたのに、こんなことになっています。その上
  切った者を(切ったことを覚えておらず)次の日に呼ぶこともあるらしく、言語に絶します。
  この分だと一白殿(松平忠直)のような御身上になるのではないかと上下で取り沙汰されているので
  相国殿(秀忠)は何とも御沙汰をしにくいのではないかと思います。しかしながら、権現様が
  上総殿(松平忠輝)になされたこと(対面禁止処分)を御覧になっているので、不安です。
  他の例は置いておいて、(きちんと)罰せられるようにと思います。

――『細川家史料 細川忠興文書 八六四号』

忠興の危惧した通り、秀忠が生きている間は重い処分が下ることはなかった。



555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/12(金) 14:53:28.33 ID:7LaluMsR
忠興にここまで言われるって狂うにも程があるだろ

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/12(金) 17:41:28.60 ID:RJrUUo6C
秀忠も家老の朝倉宣正の力不足ということで一件落着させようとしたが
忠長が宣正は無関係って訴え出たということで本人の蟄居処分だからなぁ

単なる発狂と切って捨てるには色々事情がありそうだったりする
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「寿徳院玄由の閲歴について」

2021年01月03日 17:30

817 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/01/03(日) 12:51:10.01 ID:fMufmaQf
曲直瀬玄由(寿徳院、寿徳庵)は名医・曲直瀬道三の高弟、道三の孫娘(別の高弟の未亡人)と再婚した人物


薩摩の島津義弘は元和4年春から中風に罹って意識不明が続くことがあり、それを聞き及んだ将軍秀忠は同年3月25日付で
問い合わせの御内書を送り、義弘側から4月22日に返答している
島津家久へは本多正純を遣わして見舞いの言上をさせ、薩摩の国元へも見舞いの上使を派遣したという

『徳川実紀』元和4年には、同年秋の寿徳庵の薩摩への下向とあり、近衛信尋の元和五年6月3日付見舞状には
「寿徳庵下向之事候間、一書申入候」とあるので、2度の下向が推測される

東京大学史料編纂所所蔵の『島津家文書』では、元和三年六月の将軍秀忠の上洛に家久も上京し、十月初めまで滞在した折に、
義弘の国元での病を聞いた秀忠が心配して玄由を薩摩へ遣わしたとある
なお、この滞在中に家久は参議任官、松平姓の名乗りの許可を得、西洞院家を通して後陽成上皇崩御の経過を知ったとのことです

この時期、徳川将軍家の有力大名への配慮の一端がうかがえる話でありました



西村義明「寿徳院玄由の閲歴について」『日本医史学雑誌』第四十六巻第2号より



後に玄由は琉球からの留学生・山崎休意を弟子にしているので、島津家つながりで交流が続いていたものか?
琉球の禅僧は多くが京都で修行していたので、そちらのつながりも可能性ありそうですが

休意はまとめサイト『島津の琉球侵攻とある日本人武者』の山崎二休の息子ですが、コメント欄での考察にあるように越前山崎氏の一族かもしれない
朝倉と山崎の名がクローズアップされた、今回の大河の話ができる今しかネタにできないかw



819 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/01/03(日) 20:34:14.17 ID:bJHzZg13
>>817
まとめ過去記事のそれ、コメントの皆さんは越前山崎氏であることを確信していたようだが、どうしてそんなに断言できるものかなあ。
まあ当時の人ってそういう生まれの背景ないと学問身に付かないんだろうけど。
二休の記録は琉球にしかないからわからんね。

820 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/03(日) 21:54:40.89 ID:ubGXdGN/
球陽 附巻5

「日本山崎二休、克く忠義を操り、以て重罪を累ぬ。」
山崎二休は、名乗は守三と称し、日本越前の人なり。
其の人と為りや、生資純粋にして、学は精密に徹す。而して少幼の時より医術に志して、他方に遊ぶ。
茲に球邦は中華に往来すること歴年已に久しと聞き、意想へらく、扁鵲の妙法、球国に遺在する有らんと。
乃ち故里を辞去し、本国に来到して那覇に住居し力を国に効す。
(このあと島津との戦いについて)

「山崎」「越前」「学問に通じて琉球まで遊学できるくらいなら裕福」
→越前山崎氏かな?
だろうね

821 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/01/03(日) 23:11:34.10 ID:T+Y1+Z45
うん、そう。球陽のそれしか記録がないよね。
推論すると当然そうなるだろうが、結論づけていいものかな?

其方之者と不可存候、天下之者と可存

2020年12月08日 18:02

756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/08(火) 17:27:09.40 ID:wHMS4+2V
(大阪夏の陣、四月二十九日の樫井の戦いの後)同日夜に入り、但馬守殿(浅野長晟)より、
大隅(亀田高綱)と上田宗箇に同心して山口まで罷り越すように申し来た。
早々に参上した所、但馬守殿は

「両人ながら呼び出したのは、今日の鑓の、一、二を改めたく思ったためである。両人共に、
今日の合戦での次第を有り体に申すように。先ず亀田より述べよ。」
との事であったので、大隅が合戦の次第を申し上げた

「上田とそれがしが鑓を入れたのは、多分同時であったと思います。しかし、あの時私の周りは
騒がしかったので、分明ではありません。」

そう申した所、上田宗箇は
「いや、左様では無かった。大隅は私よりも、五、六間先に行っていました。」

もう申し上げたため
「そういう事であるのなら、一番鑓は大隅、二番鑓は宗箇である、という事だな。」
と仰せになった。その夜はまた、和歌山へ罷り帰り、この次第は浅野家の諸侍何れも承っている。

大阪落城の後、上田宗箇と大隅は京の二条城に召された。家康公の御前へは、大隅が先に
召し出され、直に樫井合戦の次第をお尋ねに成られた。そして但馬守殿を御呼びになり、こう仰せに成った

「この亀田は、当代に至り、両度御用に立った者である。彼をただ、その方の家臣と存ずべきではない。
天下の者と存ずるべきである」
(此亀田儀ハ当代に至り両度御用に立候條、其方之者と不可存候、天下之者と可存)

誠に以て有難き御諚であると存じ奉り、涙を流して御前を立ちかねるほどであった。

その次に上田宗箇が雄目見得いたしたのだが、今度の骨折りによって(関ヶ原で西軍についたことの)御勘気が
御免となるとの御諚であった。

その日、将軍様(秀忠)にも御目見得をし、一番は上田宗箇であった。「茶の湯は上がられるか?」
とのお尋ねがあり、罷り立った。次に大隅が罷り出でると、今度の働きを聞き届けられて居られた。
これにて御振る舞いが下されたのだが、たいへん騒がしい時期でも有り、兵衛様(徳川義直・浅野幸長の娘婿)に
申し付けたので、早々に参上するように、との御諚であったので、罷り立った。
その日、上田宗箇は既に但馬守殿の元から立ち退いていたので、大隅一人が兵衛様の元に参上仕り、
御振舞を下された。保昌五郎の御脇差を拝領した。これは現在、善右衛門に遣わし置いてある脇差の事である。

(亀田大隅守高綱泉州表合戦覚書)

大阪夏の陣、樫井の戦いでの亀田高綱の活躍とその評価について



徳川秀忠の追善供養に対する違和感

2020年12月01日 19:49

467 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/29(日) 21:35:00.62 ID:w2E/PteA
徳川秀忠の追善供養に対する違和感


将軍・秀忠が亡くなった際、譜代衆を始め国持大名の中でも追善供養をする動きがあった。
ただ家康が亡くなった際は追善供養をしていなかったこともあり、細川忠利は父・忠興に
追善供養を申しつけられるまで指図を待つことを伝えている。【細川忠利文書 四九〇号】

以下はその後の続報を意訳して抜粋。【細川忠利文書 四九八号】

一、相國様(秀忠)の御弔に、右衛門佐(黒田忠之)・松阿波守(蜂須賀忠英)・浅但州(浅野長晟)
  なども千部経を修したことについて、森作州(森忠政)が申されたので、残らず左様に
  (申し付けられるのならば)どうするべきかと話しました。(忠政は)
  「このほかははっきりと存じませんが、私は不要と強く思っていたので申し付けられませんでした。
   三斎様(細川忠興)も(不要だと思っているので)仰せつけられないでしょう」
  とのことでした。
  
――『細川家史料

大阪夏の陣、戦闘が終わった後の出来事

2020年10月04日 17:10

394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/04(日) 12:11:40.63 ID:ODrWroWV
慶長二十年五月八日
辰刻(午前八時頃)、片桐市正(且元)の使者が言上した所によると、秀頼并びに御母(淀殿)は、
大野修理(治長)、速水甲斐守(守久)をはじめ、その他究竟の士と共に二之丸帯曲輪に引き籠もって
いるという。幕府(秀忠)は使いとして安藤対馬守(重信)に参上するように申し、彼に
「秀頼并びに御母、その他が帯曲輪に籠もっているが、彼らに切腹を申し付けるよう。」と仰せに成った。
午刻(正午)に井伊掃部助直孝を召し、秀頼母子、その他帯曲輪に籠もる者達は切腹有るべしと
仰せに成ったという。

(中略)

また戦場に於いて首実検があった、真田左衛門佐(信繁)首、御宿監物首、大野道犬首を、
越前少将(松平忠直)が持ち来たという。

十一日
長宗我部宮内少輔(盛親)が八幡あたりに置いて蜂須賀蓬庵(家政)の従者によって生け捕りにされ、
二条御所西御門前に、長宗我部は搦められたまま晒された。諸人これを見て「猪のようだ」と言ったという。

十二日
今回の大阪からの落人が国々に逃げ散っているため、これを速やかに搦め捕って引き出すようにと、
諸代官、守護、地頭に仰せ遣わされた。
今日、秀頼の息女(七歳)が京極若狭守(忠高)によって探し出され捕らえられたとの注進があった。
秀頼には男児が有るとのことも内々に聞き召され、急ぎ尋ね出すようにと、所々に触れられた。

十四日
今日、大阪奉行であった水原石見守が、二条御所の近辺に忍んでいるのを訴える人があり、
藤堂和泉守(高虎)が討手を遣わした所、石見守は覚悟を致してこれと戦い、寄手三人が切り伏せられ
戦死した。そして石見守の頸は西御門前に晒されたという。

十五日
今日、長宗我部宮内少輔が一条の大路を渡され、六条において梟首、三条河原に晒された。
また大阪残党七十二人が、粟田口、并びに東寺辺りで梟首されたという。

二十日
大野道犬が大仏の辺りで生け捕られ、真田左衛門佐妻が、紀州いとの郡に忍び居たのを、浅野但馬守(長晟)が
これを捕らえ差し出した。真田は黄金五十七枚を秀頼より給わり、また来国俊の脇差を所持していた。
これは御前に差し出されたが、但馬守が賜ったという。

二十一日
秀頼の子息(八歳)、伏見農人橋の辺りに忍び居た所を捜し出され、捕らえ出された。容貌美麗という。

二十三日
伏見より、将軍家(秀忠)が二条御所に御着きになり、御密談に刻を移され、午刻に幕下は還御された。
未刻(午後二時頃)、秀頼子息(八歳)、六条河原に於いて殺し給わった。
乳母の夫である田中六左衛門も同時に誅された。乳母は命を赦されたという。

二十八日
井伊掃部助、藤堂和泉守を幕府(秀忠)が御前に召され、金銀の千枚吹、分銅二宛が拝領された。
その上、御知行が下されることを直接に仰せに成られた。これは今度の大阪表、六、七日の合戦の
働きの功によるものである。

今日、片桐市正且元が病死した(歳六十)。駿府より申し来たという。

駿府記

大阪夏の陣、戦闘が終わった後の出来事



395 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/04(日) 12:27:43.11 ID:LT28x8Lw
大野道犬は2度死ぬ

『当代記』より、大阪冬の陣の和睦

2020年09月15日 16:47

537 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/15(火) 00:24:06.07 ID:NWu9CDs1
慶長十九年十二月十四日、
大阪冬の陣は、これ以前より和睦の扱いが有った。秀頼公よりは、四国の内二ヶ国を給われば、大阪を退城する、
との条件を出し、大御所・将軍(家康・秀忠)からは、安房・上総の両国を進ずるとの案を出した。
しかし関東への下向は全くありえないと秀頼は堅く思われ、この和睦は調わなかった。

大御所は阿茶局(雲光院・家康側室)を召され、陣中に参られた。

同日、女性である阿茶局が、若狭衆(京極忠高)の大阪城に対する仕寄に参り、大坂城中からも、
大蔵卿局、并びに若狭宰相老女(常高院)が出合、対談に及び、専ら和睦について語った。

十九日、また両度、先の女性衆出合、和睦が調った、これによって大御所将軍より、起請文を以て
異変有るべからずの旨を示した。

城中より、織田有楽の息子・武蔵守、大野修理(治長)息子・信濃守が、証人(人質)として出された。
これに対し、後藤庄三郎(銀師、四、五年大御所の近習の如き人物である)、并びに本多上野(正純)の
両使を以て、この証人を請取、すなわち上野の陣所へ同道した。

この和睦については、惣構、并びに三の丸は破却され、秀頼公も母台(淀殿)も、関東下向の事は
沙汰無く、領地も以前のまま、本丸二の丸は前々のごとく破却沙汰は無かった。

城中について、兵糧は沢山あり、その他も特に欠けたものはなかったが、その中で鉄砲薬は欠乏していたという。
その故は、城中では皆大鉄砲を用いたためで、これまでに八百石の弾薬を消費したという。
彼らは三匁筒などはほとんど用いず、十匁、二十匁、三十匁、五十匁、百匁の鉄砲を撃ち、そのため
欠乏に至ったという。

この度の籠城の最中、秀頼はいつも惣構を廻り、少しのことでも精を入れて働く者には、その内容によって
褒美が有った。人々はみな、これを美談としないものは居なかった。

今回、大坂城中の兵たちは、『六本鑓の衆こわき』などと云って悪口した。
これは大工大和(中井正清)、後藤庄三郎(銀師)、永仁(京町人)、同茶屋又四郎らで、彼らは皆
大御所の宿直の者共であった。

大阪三の丸、惣構は破却された。

二十四日、大御所は茶臼山を立たれ上洛され、二十五日に入洛された。

『当代記』

大阪冬の陣の和睦について



徒者取締の事

2020年09月06日 17:26

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/06(日) 13:40:20.72 ID:J6DlKxxS
慶長十七年、江戸に於いて徒者たちが集まり、人を斬るという事が絶えなかった。
六月二十八日、柴山孫八(上口奉公の人也)が、そういった者共の一人を成敗した所、
彼の党類がその柴山の所にも奉公しており、「我が類を斬った」として、主人である
孫八を斬り殺した。

江戸中にもこういった徒者が、三百ほど有ると云われた。諸国で奉公しているこの類の者たちは、
合計で三千人とも云われた。

このような中、江戸中で穿鑿が行われ、九十人ほどが搦め捕られ、牢に入れられた。
かの柴山孫八を斬った者は、彼の小者であったのを取り立て、侍にして懇切にしていたのに、
その重恩を忘れ主の頭を斬るなど、是非に及ばぬ次第である。

かの者を生け捕り、類を尋ねた所、大将分は大鳥居一兵衛、大風嵐の介、大橋すりの介、
風吹はちり右衛門、天狗郷右衛門、などという名であった。
その白状に任せて捜索し、悉く搦め捕って成敗が行われた。

そうして京都に下知があり、大阪、堺、その他の国々に於いてかの一類を成敗有るべしとの事であった。
しかしこれによって、この頃無縁の者たちに対し宿を貸さなくなり、旅人はこのため迷惑した。

江戸の大将分であった大鳥居一兵衛は相撲を能く取り、兵法も能く使ったため、彼が若衆かぶきとは
知らずに近づいてきた者たちに、罪科を行わせ国々に遣わしたという。

当代記



曲直瀬道三の治療記録

2020年08月24日 18:03

461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/23(日) 22:46:24.30 ID:xUNySztR
医学天正記』より
戦国最高の医師、曲直瀬道三の治療記録を抜粋。順番は「史籍集覧」そのまま

天正11年
片桐且元(40余歳)、酒を飲み過ぎて吐き、風邪の症状。右の手が張って脈はやや速かった
徳川秀忠(30歳)、風邪の症状で頭痛、声はかれて咳と痰が出る
豊臣秀吉、大坂において風邪の症状、涙が流れて声はかれて乾き、喉に痛み
慶長7年
浅野幸長(30余歳)、寒気を覚え、その後に左の腹に痛みを覚える。下痢
織田有楽斎の女中の老母(70余歳)、寒気があって汗が多く出る。脈は少し速い
天正(16日)
誠仁親王、撹乱し、前日の飲酒が過ぎていた。早朝に吐いて悶絶した。半井通仙軒が脈を診た。
半井はひきつけと診て、心臓と肝臓が弱っていると伝えた。諸臣は納得せず下がった。
また、盛方院浄勝は熱射病と診断し、葯(よろいぐさ?)を献じた。一日一夜献じたが、吐いて苦しむことは変わりなかった。
私(曲直瀬)が診たところ、熱射病だけではなく、肧と腎を悪くしていて、その上に飲酒が過ぎたので撹乱した。酒の毒を消す葯でなければ効果はないと診察したところ、諸臣は納得した。
葯を処方すると、翌日症状は治まった。私は法眼の号をたまわって再三辞退したのだが、堅く宣案をいただいたので頂戴した。
天正15年春
毛利輝元(35歳)、秀吉の命令で島津討伐に出陣し、豊前小倉にいたとき、下痢と下血が止まらず、心臓の下が堅くなっていた(?)。
左足のすねは腫れ、骨は痛んで歩けず、私は秀吉の命令で小倉に赴き、これを治療すること十数日。
輝元の足の痛みはほぼなくなり、馬に乗って豊後をへて日向に入り、私はこれに従ってさらに治療した。
島津征伐の後に軍を引き、輝元は安芸吉田に帰り、秋には回復。そのため私は京に帰った。
大野治長(30余歳)、長年の下痢が再発、大便のあとに血が出た
慶長5年
小早川秀秋(18、9歳)、酒を飲んで嘔吐。胸が苦しくまったく食事をせず。尿は赤く舌は黒く乾き、脈は細い
勧修寺晴豊(50余歳)、酒食が過ぎ、小腹が痛く吐き気がする、大便はできず不通、脈は少し速い。薬を飲んだ後、二時間後に吐いて大便が出て腹痛が止まった。
文禄2年
豊臣秀次、長らく上顎を痛めている。熱があり、顔は赤くむくんでいる
豊臣秀次、気が滅入る感じがあって、熱海に湯治。はじめの6、7日はかなり食事も進んで気力が改善した。
ところが入浴が過ぎたために気が逆に上って胸を塞ぎ、痰とぜんそくが現れて寝ることもできなくなった。
その後に私を召して脈を診るに、血管は緊張しており、脈はうつろだった。足は冷えて膝にいたり、心臓の上に気があって、その下は虚弱。
ぜんそくの声は四方に聞こえ、薬を与えると少し止まり、もう一薬で回復した
慶長3年10月2日
淀殿(30余歳)、気鬱して食事が進まずめまいを覚える
11月1日
淀殿、気鬱で胃が痛み、食べることができずに頭痛がしていた
近衛前久、気鬱、恐れおののき、酒が過ぎる。胸が熱くてもだえる。脈は少し速い

医学天正記坤』
太田牛一(80歳)、風邪の症状で発熱、汗が多く喉が渇いて水を飲みたがる。人事不省に。脈拍は多く力なし
山名禅高、常に酒を過ぎる。たんが胸に滞る
「松平陸奥守殿」(伊達政宗)、常日頃から酒が過ぎ、咳と声がれが長く続く
加藤清正、酒が過ぎ、「黄水」を吐く
黒田長政、酒が過ぎ、胸が熱く、しばしば痛む
豊臣秀頼、ぜんそくを煩い、吸引のときにうずく。食事は進まず腹は硬く腫れる
片桐且元、背中にこぶができ、頭痛がして食は少なく、味は苦く感じる
佐竹義宣、左の脇の下が赤く腫れる、痛くもかゆくもない

このほか正親町天皇や蜂屋頼隆、蒲生氏郷(まとめ過去記事にあり)ら、そうそうたるメンツや庶民も出てきます



462 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/23(日) 23:17:50.98 ID:My3xLEfl
病人多すぎ

463 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/24(月) 00:14:31.02 ID:LeK7E6P0
酒毒怖すぎる

464 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/24(月) 08:34:57.75 ID:KAicSMY6
豊臣家は呼吸器が弱いのかな?

465 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/24(月) 13:47:36.86 ID:3DJQ4Clv
つっこむのも野暮かもしれんが
片桐・秀忠・秀吉の症例は天正11年の話じゃないぞ
医学天正記』は「症例別」に道三本人が後年に編集したものなので、他の年号も同様の可能性が高い

もし達ってその儀に及べば、

2020年08月06日 18:40

淀殿   
242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/06(木) 16:36:58.69 ID:R/RiIQk5
慶長十年五月の七、八日頃、大阪では下民がしきりに荷物を運び出そうとし、人心が非常に動揺していた。
これはこの頃、徳川秀忠の将軍任官の祝儀として、豊臣秀頼公が伏見に上がられ、その上で上洛して頂きたい
との事を、右府家康公の内存があり、この旨に京都の大政所も従った。これは故太閤の北政所である。
そして大阪にこれを伝えた所、秀頼公の母台(淀殿)はこれを拒否し、

「そのような儀は有るまじき事である。もし達ってその儀に及べば、秀頼公を生害し、我が身も自害する。」

と頻りに宣われたため、これを聞いた下民達は大変に慌てふためいたのだ。
また秀頼公が伏見に上がられるのは勿体ないと、上方大名共の中より、大阪に内通した者もあると
噂された。これによって秀頼公の上洛は引き延べとなった。

当代記



但し、江戸右大将秀忠公は

2020年08月04日 18:04

430 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/04(火) 12:29:43.74 ID:Uy3KwZat
慶長八年、このころかぶき躍りという事が有った。これは出雲国の神子女(名は国、但し非好女)が
仕出し、京都に上った。タテは異風なる男の真似をして、刀脇差、衣装以下殊の外異相であった。
この男の風体をした者が、茶屋の女と戯れる体を演じた。京都の上下はこれを大変に賞翫した。
伏見城にも参上し、度々躍った。その後、これを学んだかぶきの座が幾らと無く出来て、諸国へ降った。

但し、江戸右大将秀忠公は、ついにこれを見られなかった。

当代記



431 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/04(火) 15:03:44.23 ID:8cEBySTL
秀康は阿国を天下一の女と絶賛しているのに
秀忠は堅物

432 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/04(火) 18:47:32.57 ID:2cuxrYOJ
そら鼻も欠損するわな

433 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/04(火) 23:11:15.32 ID:ySs8Uqbm
さまざまに幕府に規制されていまの形になるわけだからね
宝塚の走りみたいなもんだけど

434 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/05(水) 10:01:21.84 ID:CZe8s72w
京の町衆「あら^~」

三人目は事の外きらひ申事の由

2020年08月02日 18:15

千姫   
239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/01(土) 18:43:07.48 ID:M3sPawsy
三人目は事の外きらひ申事の由


豊臣秀頼の正室であった千姫徳川秀忠の長女)は、大坂の陣の後本多忠刻に再嫁した。
しかし寛永3年(1626年)に忠刻も亡くして、また寡婦となってしまった。
ところが三年後の寛永6年(1629年)、前田利常との縁談の噂が持ち上がった。【細川忠興文書 七五一号】
利常は千姫の妹の珠姫と結婚し嫡男もいたが、元和8年(1622年)に死別していた。
実際は千姫本人や利常の母である寿福院が嫌がって再婚することはなかったが
その理由について細川忠利が忠興あての書状に書き留めている。【細川家史料 細川忠利文書 三三一号】

一、加賀筑州(前田利常)へ播磨の御姫様(千姫)がおましになる話(縁談)は、筑前殿御母儀(寿福院)が
  事の外迷惑がっています。子細は秀頼様・中書殿(本多忠刻)が亡くなられてしまったので
  三人目になってしまうのをとりわけ嫌がっていて[原文:三人目は事の外きらひ申事の由]
  それが並大抵ではないためまだ済んでいません。その上御姫様も迷惑がっています。

忠興は「迷惑がるのはしょうがないが、嫌と申すような事ではない。もっとも筑州の母だから申し上げた
のかなと嘲笑されるようなことだ」と返書で反応している。【細川忠興文書 七六七号】
千姫は翌年にもいとこの松平忠昌と再婚する噂が出たが、続報はなかった。
この二つの縁談は恐らく、寛永9年(1632年)に亡くなる父・秀忠の意向だったのだろう。



これよりいよいよ沢庵の墨跡が流行った

2020年04月17日 17:13

9 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/17(金) 01:29:47.12 ID:dNnHEo9X
乱世(大坂の陣)の後、二条にて上様(徳川秀忠ヵ)に、紫野(大徳寺)の好月(江月宗玩)、
玉室(玉室宗珀)、沢庵(沢庵宗彭)が御目見えした時、御所様はこのように仰せになった

「もはや春屋国師(春屋宗園)の弟子もこの三人のみである。むやみに掛け物など書かぬように。」

このような御意があったと沙汰され、それよりこの人々の手跡を、大小名衆も望むようになった。
その中でもとりわけ沢庵を用いたのは織田有楽殿で、判金百枚にてその墨跡を求めたが、それが偽物であると
目利きし、伏見にて御上洛の際、御前にて御詮索があり、いよいよ偽物と極まり、
「今より掛け物を買って、これを沢庵に見せるように」
との御意があった。これよりいよいよ沢庵の墨跡が流行ったという。

長澤聞書



藤堂家の大阪夏の陣

2020年01月08日 16:51

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/08(水) 02:03:41.49 ID:EdAeePYM
明夏陣、大阪より京都を焼き払うという風聞が有り、大阪から京都への通路を防衛するため、
和泉様(藤堂高虎)は諸勢にさきがけて四月四日に淀に御着陣され、同二十五日まで淀に御在陣。
その間、淀城の御普請を仰せ付けになった。

権現様(徳川家康)、台徳院様(徳川秀忠)が京伏見へ着座成されたため、淀を四月二十六日に
御陣替えになり、五月五日に千塚に御着陣になった。

五月六日、八尾表に、木村長門守(重成)、長宗我部(盛親)の人数、約一万二千が打ち出た。
和泉様の左備は長宗我部の隊と戦い、終日の働きの末、ついに長宗我部は敗軍し大阪へと追い込めた。
この戦いで藤堂仁右衛門、藤堂勘解由、桑名彌次兵衛、山岡兵部、その他、侍数多討ち死にした、
右備は長宗我部の先手の者に木村長門守人数が加わった部隊と戦い、この戦いで首級数多討ち取った。
我が方においても、藤堂新七、藤堂玄蕃、その他、侍多く討ち死にした。
その夜はその場所、八尾に陣所を据えられた。

六日の合戦で御家中の物頭、その他侍数多討ち死にし、終日の戦のため人馬は疲れ切っていたので、
翌七日の御先手は、新手の人持ち衆へ仰せ付けられるようにと、両上様(家康、秀忠)に和泉様より
六日の晩にお理を仰せ上げられたため、七日は越前宰相(松平忠直)、加賀筑前殿(前田利常)を御先手に
仰せ付けられた。

七日には、敵味方ともに人数を打ち立て互いに鉄砲を撃たせていた。そのような中、台徳院様が御供四、五騎を
召し連れ和泉様の御陣所へ御成になり、戦の御手立てに関する御談合をなされ、御本陣へと帰られた。
その後、惣懸り(総攻撃)という事となり、御家中衆も殊の外稼ぎ、首数数多討ち取った。

両日の首数、都合三千七百七十三を討ち取った。

(藤堂家覺書)

藤堂家の大阪夏の陣について



両名共上手である

2019年12月26日 16:40

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/26(木) 00:02:03.79 ID:MjkcHwi4
秀忠公は剣術を柳生但馬守と小野次郎右衛門の両名から習っていた。
秀忠は次郎右衛門との稽古で、柳生に習った太刀を以て次郎右衛門に撃ちこんだがついに当たらず、また柳生との稽古では次郎右衛門に習った太刀で柳生に撃ち込んだがついに当たらず、両名共上手であると常々我々に仰られていた。

秀忠の近習だった永井直重が残した覚書『元和寛永小説』の中の逸話



444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/26(木) 01:16:26.92 ID:Ea5Ja01t
>>443
ここで「どちらの教えも役に立たない」とキレないのがいかにも秀忠らしいな。

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/26(木) 04:18:30.60 ID:NaeV5kyq
二人を戦わせて勝った方に教わるんじゃ駄目なのか

447 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/12/26(木) 06:24:31.77 ID:qAsgelBv
>>446
師を競わせて教わる相手を絞るより複数の達人から教わる方が、色々気付きが有ったりして良いんじゃないですかね?

452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/26(木) 16:56:36.07 ID:HJrn4SsC
>>443
どっちも立てるのがいかにも秀忠っぽいな
この噂を聞いた柳生と小野もいい気分になれるだろうし
非の打ち所がない。

安国寺肩衝・異聞

2019年08月15日 17:16

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/15(木) 00:16:37.96 ID:ADdXVEMj
一つの肩衝と呼ばれる茶入を、安国寺長老(恵瓊)が甚だ珍重していたのだが、
これを榊原康政が甚だ賞美して、「宝貨に替えん」と思っていたが、安国寺は全く承知しなかった。

しかしながら上杉征伐として大神君(徳川家康)が宇都宮まで御動座あった頃、上方にて石田(三成)の
反逆の事が起こり、奥に上杉、後ろに上方の蜂起と、諸軍も驚き、君にも御心痛有ったが、ここで
康政が満座の中御前に出て

「上方蜂起、さてさて恐悦です。」

と、殊の外喜ぶ様子で語った。

「いかなれば康政はかく申すぞ。」家康が尋ねると

「上杉は旧家と雖も思慮が過ぎ、その上急速に御跡を付けるような事は無いでしょうから、聊かの押さえの
兵を難所に残して置かれれば、決してお気遣いされることはありません。

また上方は烏合の集まり勢ですから、何万騎有ったとしても恐るるに足りません。この康政が一陣に
進めば一戦に打ち崩すでしょう。

そして後勝利の上は、安国寺も石田の余党ですから、御成敗されるでしょうから、その時に彼の肩衝を
この康政の軍賞として頂きたい。」

そう申し上げると御心良くお笑いあそばされ、さらに諸士、諸軍とも勢いいや増しに強くなったという。

関ヶ原の勝利後、願っていたものを御約束通りに、かの肩衝は康政に下され、彼は秘蔵していたのだが、
台廟(台徳院:徳川秀忠)の御代、この肩衝を頻りにお好みになされ、康政に献上するよう命じたものの、

「これは軍功の賞として賜った重宝です、この義は御免を相願う」

と従わなかったため、秀忠も思し召しに任せること出来なかった。

ある時、康政が細川三斎(忠興)を正客として茶事があったとき、康政が水こぼしを取りに茶室を出た時、
三斎はこの肩衝を奪い、馬を乗り跳ばして御城へ出、上へ差し上げた。

康政の所では未だ客も帰らない内に、上使が現れ
『この茶入は兼ねて御懇望のところ、康政が差し上げないのも尤もな事であったので。今回三斎に仰せ付けられ
奪わせたのだ。』

とのよしを仰せ付けられ、康政には黄金何百枚かを下されたという。

この肩衝の茶入は現在は田安殿(御三卿田安家)の御物となり、甚だ大切にお取り扱いに成っていると、
これは肩衝を拝見した者が物語ったものである。

(耳嚢)

>>233 の内容が江戸後期の耳嚢になると、津田秀政だったのが榊原康政に変わっていたり、忠興が
これを奪った理由が徳川秀忠に命じられたために成ってたりと、時間が経つと逸話というものはこんなに変化
すると言うことがよく分かる内容である。

参照
安国寺肩衝


阿茶の局

2019年08月09日 17:44

阿茶局   
136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/09(金) 01:21:41.59 ID:7qMAvHNA
阿茶の局は飯田筑後(直政)といった者の娘で、今川の家人・神尾孫兵衛忠重の妻である。

天正5年(1577)7月、忠重に先立たれて同7年に東照宮(徳川家康)に仕え奉り、阿茶の局
という。その子の五兵衛は僅か6歳であったのを長丸君(徳川秀忠)の扈従になさった。(原注:
寛永の家譜には、五兵衛守世は天正11年(1583)に初めて見参して15歳であると記す。家
の伝えに誤りがあるか)

この局は殊に出世した人で(家康が)大方御陣中にも召し連れなさる程のことだった。慶長19年
(1614)の冬、大坂の御陣でも常高院殿(初)に連れ添って城中に入り、御調停の事を(家康
の)思召すままにやり遂げ、この局の才覚の程が知られた。

東照宮が神去りませし(逝去した)後、江戸に参ったので竹橋の内に宅地を賜り、また中野村に3
百石の地を宛て行わられた(原注:寛永の系図に清水門の内に『一位様』と記しているのは、この
女房のことである)。

 元和7年(1621)の6月、台徳院御所(秀忠)の姫君(和子)を内裏に参らせなさる時、
 忝くも御母代に参って都に上り、従一位に叙されたので世では“神尾一位”と申した。されど寛
 永の系図にはこの事が見えず、ただ『一位と号す』と記している。

寛永9年(1632)に台徳院が御逝去なされて後、局は出家して“霊光院”という。これより先の
慶長6年(1601)の頃、東照宮の御許しを得て、神田の伯楽町に一寺を営んで“龍徳山光厳教寺
雲光院”と名付けたので、今自らの号をこのように言ったのだろう(原注:この寺は明暦の火の後、
神田田所岩井町に移され、天和3年(1683)に再び深川に移された)。

かくて年は積って83歳、寛永14年(1637)の正月に病重篤に及ぶと(徳川家光は)聞こし
召し、酒井讃岐守忠勝朝臣をもって見舞いなされ「望むことあらば申すべし」とあれば、「雲光院
に寺領を賜りたい」と望み申したので、それならばと50石の地を寄せられたのである。この月2
2日に亡くなった。それから雲光院で後の法要があって御弔いに白金千両を賜われた。

五兵衛守世もしきりに登用なされて、従五位下の刑部少輔になる。母のお陰といいながら、自身も
器量のあった人であるという。弟の内記元勝というのは尼公(阿茶)の養子で、真は松平周防守康
親の家人・岡田竹右衛門(元次)の子であったのを、尼公が布施兵庫の娘に合わせ子になされたの
である。これもしきりに出世して寛永15年(1638)の5月、町奉行の職に補せられ叙爵して
備前守に任ず。寛文元年(1661)に致仕し、同2年に入道して宗休と号す。世に“三老人”と言
われた1人であるという。守世と元勝の子孫は多い。

――『以貴小伝』



敵が寄せて来れば、牛起きに起きて突いて掛かれ!

2019年07月12日 16:47

84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/12(金) 01:30:11.98 ID:NXcn6hNJ
御四男の左馬助忠吉公(阿部忠吉。正勝の子、忠秋の父)は、慶長19寅年(1614)の
大坂御陣(冬の陣)の折は御知行2千5百石の御従頭で、駿河に御詰めなされた。江戸の御
屋敷は西丸大手際で、後に三枝摂津守がおられた屋敷である。

翌卯年の大坂御陣(夏の陣)で前将軍・家康公の御先を御勤めになり、大坂から毛利豊前守
(勝永)が打ち出た時に、東兵は敗走する。

味方が崩れ掛かるのを忠吉公は御覧になり、道を要意してとある在家の後ろを回って御組中
ならびに御家臣を引き連れ、小高き所に鳥毛の三階笠の馬印を押し立てると、槍衾を作って
「敵が寄せて来れば、牛起きに起きて突いて掛かれ!」と、膝を敷いて待ち受けた。

御旗本が足を乱して敗北(敗走)する中でも踏み留まった面々は、忠吉公の言葉を聞いたこ
とを後の証拠とした。将軍家(徳川秀忠)は、忠吉公は御眼前で天晴な御振る舞いであると
の由を仰せであった。

正勝公よりの附人は河野半右衛門・加藤半次郎。

――『石道夜話(石岡道是覚書)』



世上で金銀がたくさんとなったのは

2019年06月25日 15:44

44 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/25(火) 00:35:13.79 ID:Qzaauj/K
世上で金銀がたくさんとなったのは、今から50年以来のことである。

台徳院殿(徳川秀忠)の時、作馬不閑(不干斎。佐久間信栄)という者が所持する“雲山”と
いう茶入を金森法印(長近)が黄金百錠で求めた。これが台徳院殿の御聴に達し「その価を
与えよう」と宣った。

折しも金30錠はあったが70錠は不足していたという。今の世と甚だ相違している。

南都東大寺の奉加で頼朝(源頼朝)は「金50両を寄進する」と言われたけれども、その年
は干ばつで調わなかったいうことが『東鑑』に見える。

――『老人雑話』



45 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/25(火) 08:35:45.23 ID:ZgS036DP
太田牛一「秀吉公が出世ののち日本国中に金銀山野に湧き出で」

一季居、耶蘇教、負傷者、煙草、屠牛ニ関スル禁令五ヶ條

2019年06月09日 09:27

134 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/09(日) 03:07:24.08 ID:cxXeu6pY
  六日、幕府、一季居、耶蘇教、負傷者、煙草、屠牛ニ関スル禁令五ヶ條ヲ頒ツ

 『令條』

  条々

一、一季居(一季で雇われた者)の事。堅く停止された以上は、侍はもちろんのこと中間・小
  者に至るまで抱え置く輩は速やかに罪科に処される事。

一、伴天連門徒は御制禁なり。もし違背のある族はたちまちにその科を逃れられない事。

一、手負いの事。上下に関わらず傷付いた者がいれば、その場所の給人・代官に詳細を申し届
  けなければならない。ならびに他の場所から手負いの者が来たならば、すなわちその手負
  いを留め置き、交名を註して必ず言上すること。万一隠し置けば、重科に処される事。

一、煙草を吸う事。制止とされるに至り、その上で売買する者までも見付けた輩がいたならば、
  双方(売る者と買う者)の家財を、見付けた輩に下されるものである。もしまた、路次に
  おいて見付けた場合は、煙草ならびに売主をその在所に押し置いて言上せよ。付いて来た
  馬・荷物以下は改め出した者に下される事。

  付いてはどこの地においても煙草を作ってはならない事。

一、牛を殺す事は御制禁なり。おのずと殺すような輩には一切(牛を)売ってはならない事。
 (牛を殺事御制禁也、自然殺へき輩には、一切売へからさる事)

  この趣を領内に必ず触れさせるように。この旨を堅く仰せ出されたものである。よって
  件の如し。

     慶長17年(1612)8月6日        青山図書助(成重)
                            安藤対馬守(重信)
                            土井大炊助(利勝)

            藤田能登守殿(信吉)

(原注:幕府が一季居を停止したことは慶長14年正月2日に。煙草を禁止したことは、同年
7月是月に。また耶蘇教を禁じ、京畿の耶蘇寺院を破壊せしめたことは、本年3月21日に。
また一季居などに関する法令を頒布したことは18年3月是月に各々その条あり。参照すべし)
                      
――『大日本史料』

その7日後>>129



135 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/09(日) 21:52:07.77 ID:mD08Q13s
キリスト教については分かる
煙草もなんとなく分かる
その他はどういう理由なんだろうね

140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/10(月) 12:58:13.75 ID:Cv0VNwoU
>>134
牛を殺すことの禁止はキリシタン弾圧の一環かな

141 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/10(月) 13:30:40.56 ID:E0Guiztx
キリシタン弾圧って言うより、牛を食うという行為が農民から相当嫌悪感を持って見られてたらしい。
秀吉のキリシタン追放令の理由の中にも「牛を食うこと」が入ってる。

142 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/10(月) 13:44:22.19 ID:ZI8DPZsm
自分の親が牛に転生してるかも、と思うと食えないな

143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/10(月) 14:56:31.46 ID:YuoSwCCz
カムイ伝みたら穢多が死んだ牛食ってた

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/10(月) 16:54:35.54 ID:/xDs3wXj
彦根藩の特産品は干し肉と味噌漬けだったりする。
彦根藩から届く肉を楽しみにしていた大名は多く徳川斉昭もその一人だったが
井伊直弼が藩主になると肉食を禁じてしまう。
しつこく肉をねだる斉昭と頑なに断わる直弼の仲は険悪になり
安政の大獄や桜田門外の変の遠因になったとかならなかったとか…

145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/10(月) 17:30:23.91 ID:n8keEJU7
食べ物の恨みは怖いな

148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/10(月) 18:30:43.06 ID:ZI8DPZsm
>>144
慶喜「父上も近江牛がなければ豚を食べればいいのに」

作州は即日に京の町人から借りていた銀を返しなされ

2019年04月23日 18:37

森忠政   
818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/23(火) 18:16:07.38 ID:dWsJWe3M
難波の役の冬陣(大坂冬の陣)で大名たちに白銀を分かち下された。加賀・仙台・薩摩などは
取り分けての大名なので、台徳院殿(徳川秀忠)から白銀3百枚、東照宮(徳川家康)からは
2百枚、合わせて5百枚ずつを下された。

森作州(忠政)などの大名には2百枚と百を合わせて3百枚を下された。作州はその時、即日
に京の町人から借りていた銀を返しなされ、人々は感心した。

――『老人雑話』



819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/23(火) 18:46:17.16 ID:xWlDplvi
コーエーのゲームだと金も米も腐るほど余るけど、実際の台所事情はどこも厳しかったんだろうね
毛利なんかも、隆元が亡くなったあとは信用がなくて商人から金が借りられないって嘆く逸話があるし