森川重俊の殉死、それに纏る事ども

2017年02月22日 21:32

607 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/21(火) 21:11:47.83 ID:CscOQyRT
森川出羽守重俊が、徳川秀忠の薨去に付き殉死する時、息子伊賀守重友以下、親類を招き集めて
庭訓した

「弓矢の臆れは少しでも大事になってしまうものだ。先年、大相国(秀忠)が独座されていた時、
ため息をされたのを御次の間にて承り、「これは天下の大事でも起こったのか」と胸騒ぎしたが、
その後御機嫌を伺った所、先のため息について「真田表のことは…」と仰られた。
あれ式の事さえ、相国様は御身の臆れのように思われていたのだ。

汝ら、構えて自余の事は愚かであっても、武士道の規範を外れ、軍法を破ることなどは、殊に
不忠の第一であるぞ!」

そう遺言して、秀忠の御供をした、

この時、徳川家光は側の者達に「出羽守はどうした?」と尋ねた。殉死した旨を申し上げると
「とても生きては居ないだろう。もし存えていればいいのだが。」と言った。

これを承った人々「これは興味深い御言葉である。どういう理由であのように言われたのだろう?」
そう不思議に思っていると、古くから仕える人が言った

「その事だが、かの出羽守は昔、新将軍(家光)が未だ幼少の頃、いたずら遊ばされた時に、
拳で殴りつけたことがあったのだ(拳の障りし事ありし)。その時家光公は
『これを覚えていろよ!』とのお言葉を発せられた。それは御幼少ながら甚だ鋭いものであった。
もしかすると、その事について言われたのではないだろうか。」
そう推測した。

(武野燭談)


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井上正就、及びその父のこと

2017年02月17日 21:22

603 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/16(木) 20:56:20.04 ID:ytr5iFmx
幕府老中であった井上主計頭正就の父は、井上半右衛門(清秀)という、知行僅かに150石の子であると
されているが、実はそうではない。

井上半右衛門には長男があり、太左衛門といった。この太左衛門も母が身罷った後、故あって
阿部定吉の妾が懐妊していたのを、井上半右衛門の妻として、程なく出産したが、これが
井上正就であった。この妻は続いて筑後守政重を産んだ。
つまり正就と政重は、同腹別種の兄弟である。しかし正就は異父の苗字を称し、実父の阿部を
名乗らなかった。これには以下のような理由がある。

阿部定吉は徳川家における老功の人であり、松平清康に仕えていた。ところがその子・弥七郎(正豊)が
率爾の行動によって清康を殺してしまった。(森山崩れ)
しかしこの事に、父・定吉は全く関わっていなかったため、彼はその後も恙無く松平家に仕えた。

だが定吉は、我が子が主君を弑した逆罪を悔い嘆き、一生養子もせず、妊娠した妾すら、
他人に遣わし、清康・広忠・家康三代の老臣として、あえてその名字を断絶させたのである。

後に井上正就が半九郎と称していた時、大相国(徳川秀忠)が彼を召し出し、この仔細を
教えたという。

そして段々と登用され、奉書・連判の席に加わり、顕職の人となったが、彼は居間に
『井上半右衛門子半九郎』
と書き付け、朝暮れにこれを見るようにしており、この事を、心易い人にはこう言っていた

「私は(徳川の老臣・阿部定吉の子ではなく)150石の微臣である井上半右衛門の子、半九郎に過ぎない
ということを忘れないように心がけているのです。こうすることで御奉公にも、また
家の祈祷にもなると考えています。
かつて石田治部少輔は、そもそもが石田佐吉であったことを忘れ、諸侯に奢り、大志を志して滅びました。
我が願いはただただ、この御恩を無にせぬようにと、そういう心がけなのです。」

そんな彼であったが、寛永年中に殿中で豊島信満に討たれた。これもまた時の運であろうか。

(武野燭談)



604 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/16(木) 21:25:00.04 ID:op0NtBCx
>>603
オチが・・・・・・

台徳院様が三河田原で御狩りをなさった時

2017年02月08日 10:35

587 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/08(水) 03:35:26.83 ID:407AQT02
○ 台徳院様(徳川秀忠)が三河田原で御狩りをなさった時、猟師の中に
“あたり筒”を持っている者がいた。

これを岡部八十郎が借りようと先約した。ところが、中川八兵衛も借りよう
として、口論になり、

八十郎は即座に八兵衛を討った。八十郎の若党が八兵衛を討ったという。


○ 右の御狩りの時、九鬼図書(成隆)は御見舞いに参られ、御狩りを見物
致されて、本多中書(忠勝)に会い、

「おびただしき御人数かな。8,9万人もいるのではないだろうか」と挨拶した。

中書は曰く、「いや左程はあるまい。およそこのように山の方から平地へと
続いている人数は大勢に見える。谷底などの人数は小勢に見えるものだ」

――『武功雑記』



588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/08(水) 18:41:40.50 ID:x9+MGLZ0
流石忠勝さんはいつも冷静だな

589 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/09(木) 08:21:08.96 ID:i7dwTuub
>>587
そもそも当時の日本で、視界内に8~9万人も入る状態が起こり得たんだろうか

590 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/09(木) 18:14:53.87 ID:uZ8rMyA2
俺の財布でもそんなにいないな

591 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/09(木) 19:28:19.30 ID:IuYwlBQ0
大げさなこと言ったら真面目に返されたんじゃない?

秀忠は、参勤してきたとの注進を聞くと

2017年02月02日 22:37

572 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/02(木) 21:40:18.02 ID:zmgUxsFx
徳川秀忠は、江戸へ大名が参勤してきたとの注進を聞くと、必ず品川、千住口、
それぞれの筋道に遣いを送った。これらは皆重臣たちの役割で、大名より下の位の
者には、段々に軽い役人を上使としていた。

特に越前黄門秀康が江戸に参向してきた知らせを聞くと、必ず即座に自身で迎えに出て、
同道して江戸城に入った。

総じて将軍家においては、諸家が重んじている諸侯参勤については、いつごろ江戸に入ると聞かれると、
自然を装って鷹狩に出かけられ、その道筋であり江戸に近い千住、品川あたりで待ち、その場で大名に、
直に参勤を労り、それは作法の一つのように考えられていたが、いつの頃からか、それぞれの家まで上使が
向かうようになった。

(武野燭談)



573 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/02(木) 21:44:27.35 ID:VVlWoBW2
あの兄弟は仲良かったのか
ちょっといい話

元日に将軍に出仕した衆は2日に大御所へ、2日に出仕した衆は3日に大御所へ

2017年01月01日 17:04

481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/01(日) 10:03:13.19 ID:zqydozcU
慶長19年正月朔日、江戸にて両御所(家康・秀忠)が越年なさった。

朔日、例年の如く将軍(秀忠)に皆々が礼を遂げた。なかれを皆々が
頂戴したうえに、御服一重があまねく宛てられて拝領した。

これは近年に大御所家康公の時からこのようにしていた。今の大御所
(秀忠)にはこの慣例はない。今日、大御所に将軍が勤行なさった。

2日、在江戸の上方の大名・小名が将軍に出仕した。昨日のように、
なかれと御服を拝領した。元日に将軍に出仕した衆は2日に大御所へ
出仕し、2日に将軍へ出仕した衆は3日に大御所へ出仕した。

2日夜、毎年の如く将軍が謡初をなされた。

――『当代記』



この清水の作の脇差を帯び、

2016年12月08日 17:18

394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/08(木) 00:12:35.81 ID:J91C5wri
>>390の続き

 寛永中、細川三斎入道忠興は、帰国の際に別辞を述べるため猷廟(家光)と対面し
そこで御馬を贈られた。
それから西の丸に登り、台廟(徳川秀忠)の御前に召された。
旅中に服用するようにと御薬を与えられ、直接清水藤四郎の御脇差を下された。
その時の仰せで

「我が前にお前たちと共に太閤の前にいて談話していたときから、お前はこの脇差を見て、
『ああ、この清水の作の脇差を帯び、利休の尻膨れ茶入がある茶事を催せたら、
生涯の至楽に足れるのに』
と申していたな。
その言葉は今も耳底に残っていたのでお前にこの脇差を授けたのだ。」

とあり、忠興は感謝して退いたという。
〔この頃には尻膨れの茶入が既に細川家の物となっていたという〕。


(甲子夜話)



400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/11(日) 10:36:20.98 ID:Db/1OrV5
>>394
これ忠興は利休に散々「茶室に脇差差して入るな」って注意されてたのに
その教えをガン無視して、利休の茶入れで脇差差して茶会やるっていう悪い話でもある

秀元は常人ではない。

2016年12月07日 17:28

390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/07(水) 03:49:39.97 ID:wYJHt4dP
 ある日林述斎と昔の話をしていた中で、台廟(徳川秀忠)の英知をかきたてる御気質を見ることができる話を聞いた。

 台廟が大御所になられた後、毛利右馬頭元就の第五男の毛利宰相秀元は、
故中納言輝元の養子となって家を継いだ。
 昔豊臣太閤が朝鮮を伐したとき、わずか十四歳で大将を承り、
異域に押し渡り武勇を振るったと、かねてから台廟は聞かれていたので、

「秀元は常人ではない。文武の名誉、世にも人にも認められている。
門地といい官品といい、家光の益友にこの右に出る者はいないだろう。」

と常に仰られていた。
日々のように猷廟(家光)の御前に召され、今昔の物語などを聞かれるのを、飽きない御楽しみとなされていたので、
人は皆秀元を御咄衆と呼び、名を言う者はなかったという。

(甲子夜話)

何かいろいろと誤伝が混じっているようですが、秀元と家光の仲がちょっといい話

続き
この清水の作の脇差を帯び、




駿河台化物屋鋪の事

2016年12月01日 16:17

366 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/01(木) 01:57:58.39 ID:k7JJ4AC1
駿河台化物屋鋪の事

 或る人が語った。
 駿河台は元は土居際から鈴木町というあたりまで竹が多く生い茂り、
人家は無く宅地がただ一つあった。
その宅は妖怪がいると住む者は屋敷を差し上げて退去した。
 台廟(徳川秀忠)はこれを聞かれて、

「松下嘉兵衛はかつて戦場を経て落ち着いた能者である。そこでその宅に住ませよ。」

と仰せられた。
 そこで嘉兵衛は住んでみると、ある夜に宅の後ろの竹林がサッサッと鳴り出し、
背丈の高い入道で、眼が三つあるものが竹林中から出てきた。
松下は怪しいと思い目を開いてよく見ると、かの入道は空を歩いているようである。
その下に小さな狸が歩いてきている。
松下は思った。
『これは狸の妖であろう』
すぐにその狸を生け捕りにすると、入道はたちまち消えうせた。
松下は狸に向かって、

「お前はこのような変化をしたのには必ず理由があるのだろう。私はお前に対し考えがある。
お前は昔からここに住んでいるので、素より地主である。
私は新たに来たが、官から賜った所なのでまた地主である。
ならばこれからはお前を扶持しよう。よって米をいくばくか分かち与えよう。
これを元手として三年経ったら、ここを立ち去れ。」

と言い聞かせれば、狸はうなずいて逃げ失せた。これから妖怪は絶った。
このことを台廟は聞かれ、

「やはり松下の振る舞いは、我が注文にかなったか。流石武士よ。」

と御賞美あったが、年を経て狸は遂に居なくなったと。

 今も松下の屋敷は駿河台にある。鈴木町から南である。
予が若年の頃は松下隠岐守と称して、御先手頭であった。その子孫であろう。
しかしこの家は享保中紀州から陪従した人であるという。
今松下の家は三軒ある。嘉兵衛と称するは三千石で築地に居宅している。
駿河台は千石と聞く。
先祖の松下が賜った化物屋敷は別所で、その家も隠岐守とは別である。
築地の方が本家であるか、また同族かは未詳である。


(甲子夜話続編)

この松下嘉兵衛って松下之綱のことかな?
だとすると、遠江にいるはずなのでおかしくなる



367 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/01(木) 08:14:19.30 ID:Hjp9nzNE
戦場を経て
駿河台で
化物つかまえて
千石とり

なんか某小説を思い出した

六間堀神明、雁披の事

2016年11月27日 08:24

359 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/27(日) 01:15:15.71 ID:erM4z9uc
六間堀神明、雁披の事

 或る人が言うには、六間堀の神明はその鎮座の初めは詳しくわかっていない。
文禄元年九月十五日、その辺に台廟(秀忠)が御鷹狩りでの御成りがあった。
その日は「オビシヤ」といって、新米をウブスナへ供え村長やその他の者どもがうち寄って酒などを飲む日だった。
うち寄った者どもが筵上で肴も無く酒を飲んでいるのを、台廟が御覧になられて
御拳の雁を『肴にせよ』と下された。
また領国繁盛のめでたい祝いであると、
社に昇られ、御懐から三条院御宸筆の天照大神とある紙片を取り出されて、
御自らほこらの中に納められた。
今も神体としてあがめ奉っているという。


 『江戸砂子補』に云う。
「葛飾郡西葛西領、深川六間堀。
大川のすこし東、川幅およそ六間ばかり。
神明宮が六間堀にある。別当は猿江の泉養寺が兼帯している。
慶長年中、泉養寺開山の秀順法印があらたなる神異があって鎮座させた。」
『砂子補』では慶長を鎮座の年としている。
しかし既に文禄の始めにこの祠があることと見てきた。
ならば『砂子』の説は再び神異があったのをこのようにいったのか。

 「オビシヤ」は宴のようなことである。
今も蝦夷では、このように集まって飲むことを「オムシヤ」というとか。
きっと同じ言葉であろう。

 『武家事紀』及び『豊臣譜』を案ずると、この頃は朝鮮の役が既に起こり、
秀吉は東照神君と共に肥前名護屋に着いていた。
後に大政所の病により秀吉はすぐに京へ帰り、神君は秀吉の命に従って肥州に在留された。
また『武事紀』には、台廟はこのとき、大政所逝去の弔問として八月に上洛になった。
秀吉は喜び権中納言に昇らせた。
これから十月〔文禄元年〕上旬に江戸に帰られたと見える。
なので台廟の御帰りは九月より後になるので、この事はどうであろうか。
しかし『武事紀』の伝本は誤写が多い。
この十月というは、もしくは九月の誤りだろうというのも知ることができない。


(甲子夜話続編)



この事について、台徳院様が

2016年10月27日 17:57

254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/27(木) 02:00:58.95 ID:TnWOS/cS
(大坂夏の陣の時、)玉造で源君(徳川家康)は、杖をおつきになり、
諸大名に御言葉をかけなさって、のさのさと御通りになられた。

台徳院様(徳川秀忠)は御駕から御出になられ、御腰をかがめなさり、
諸大名へ御挨拶なされて、御通りになられた。

この事について、台徳院様が敵方からの矢玉を御避けになっていた
ように取り沙汰し仕ったとのことである。

――『武功雑記』



江戸御旗本・尾張・紀伊は“御三人”と称され

2016年10月19日 16:24

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/19(水) 01:36:00.64 ID:Kwj3E/7X
東照宮(徳川家康)の御子達多き中で、紀伊頼宣君は、その御器量天才
にして、只の尋常の御性質ではあられず、

そのところを東照宮は御覧になられて御寵愛は浅からず、尾張の義直卿
と紀伊頼宣卿とは、「天下左右の固めであると思し召されるように」と、

堅く御遺言なさったことにより、江戸御旗本(徳川将軍家)・尾張・紀伊は
“御三人”と称され、三家一体の御高家であった。

――『南竜言行録』

水戸家ェ…



226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/19(水) 02:18:39.13 ID:M/r/pRYO
当初は水戸の立ち位置が不確かだったような
今ではそんな水戸の血筋が宗家だけど

227 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/19(水) 04:25:34.69 ID:gmsZuxDH
>>225
元々そうでしょ
悪い話でもなんでもない。
途中から将軍家除いて水戸を加えた方がいい話だか悪い話だかになるんじゃないのかな

228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/19(水) 15:21:25.87 ID:2lnbE035
そりゃ水戸家は紀州家の分家扱いだったって言われるぐらいの格下だしな
まったくのフィクションだと分かっていても水戸黄門でじーさんが紀州に乗りこんで偉そうにしているの見て、哀れに見えたわ

230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/19(水) 20:04:17.78 ID:vD6BiNk0
>>226
今の徳川当主は会津松平家だけどな

231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/19(水) 21:00:20.81 ID:qTJ2VxIA
男系血統的には水戸徳川→高須松平→会津松平→徳川宗家という流れ

232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/19(水) 21:26:49.25 ID:qTJ2VxIA
尾張徳川は鍋島血統の堀田が継ぎ
紀伊徳川は断絶の危機
水戸徳川は現在も男系血統が続き、宗家も含め各連枝にも水戸血統が多い

どうしてこうなった

233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/19(水) 22:39:27.14 ID:eiQrfX7O
>>232
だいたい烈公斉昭のせい

この人も公私に渡ってDQN四天王に次ぐアレさ…

大砲の功

2016年09月20日 17:05

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/20(火) 14:17:48.59 ID:b/22oOZi
大阪冬の陣のとき、菅沼左近定芳は、本多美濃守忠政の組にあって、備前島に仕寄を附けた。
ここは大阪城の近辺であったため、徳川家康より大砲数十挺が下されていた。
しかしここでの大砲による攻撃は、思ったような戦果を上げなかった。

このような中。定芳は御鉄砲方の井上外記正純、稲富宮内重次、牧野清兵衛正成にこう言った
「この頃放つところの鉄砲は、城の上を越して効果がありません。今後は、
石垣の下、水際の上辺りを狙って放つべきでしょう。」

先の三人は定芳のこの指図を守って大砲を放つと、案のごとく命中し、城の塀、櫓を破壊した。
これに大阪城中にあった女子供は肝を消し、魂を失ったという。
この後、和議が入りついに和平となった。

その後、将軍徳川秀忠は伏見城において菅沼定芳を召し、大阪城攻めにおける大砲の功を大いに賞賛し、
御前において黄金二十枚を下賜されたという。

(菅沼勲功記)





徳川秀忠の御咄の衆(安西衆)

2016年08月20日 17:38

92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/20(土) 06:20:58.88 ID:AuGd7sRl
徳川秀忠の御咄の衆(安西衆)

立花立斎(宗茂)…九州のことを良く知っている。

九鬼大隅守…水軍のことを良く知っている。

脇坂中書(安治)…四国のことを良く知っている。

平野遠江守(長泰)…太閤のことを良く知っている。

佐久間備前守(安政)と同大膳(勝之)
…北国ならびに奥州のことを良く知っている。

細川玄蕃頭(興元)…上方のことを知っている。

――『武功雑記』




93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/20(土) 07:20:42.29 ID:eKeT/cdb
で、どういった話を聴いていたのかな?

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/20(土) 09:34:13.86 ID:if6gLazI
>>92
丹羽長重「あれ、僕は・・・」

95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/20(土) 10:07:10.99 ID:s01bNQ/W
>>94
秀忠<「棚倉で藩主にしてやっただろ。不満?」

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/20(土) 11:07:08.14 ID:p+lYpupN
>>92
九鬼大隅守って蘇ったのか?

人々はみな自分の悪を忘れて

2016年07月23日 07:53

970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/23(土) 04:23:28.57 ID:2iesiE+O
徳川秀忠の仰せによると、「人はただ我が身が他人より劣っていると
知って、諸事を慎むべきである。

愚人は蛤の貝の片一方を持ってその対を探し求めている時に、合わな
ければ、たちまち怒って持っている貝を捨てる。先程から持っている
貝が劣っているわけでもない。自身の心の仕業である。

人々はみな自分の悪を忘れて、友を恨み嫉むのだ」とのことであった。

この物語りは、阿部備中守(正次)が聞き覚えていたものである。

――『武功雑記』



台廟御馬、岩浪の事

2016年07月18日 09:44

940 名前:1/2[sage] 投稿日:2016/07/18(月) 03:04:46.14 ID:UAan42eF
台廟御馬、岩浪の事

 増上寺の教誉僧正〔典海〕は、予は少年の時から知っている人であり、
かの寺の住職となった後もしばしば対面していた。

 ある日の彼との会話の中で出た話である。

 元和二年、神祖が駿府で御病気が重なっていることを、江戸で台廟(秀忠)がお聞きになられた。
すぐに御出立なされ、一昼夜の間で駿府にお着きになられて御対面された。
神祖は非常に嬉しそうな顔つきをされたという。
 その時乗られた御馬は、”岩浪”という駿足のもので、昼夜をかけて馳せられたので、
駿府へ着かれると息絶えて死んだという。
台廟は憐れに思われて、これを埋められた所に馬頭観音の像をたてて、
そのしるしとなされた。
 今でもその跡があるとのことであった。

 予はその御馬を埋めた跡を訪れたいと、年頃思っていた。
増上寺の山中にあって、その所を心光院というと聞いたので、
今年品川に行ったついでにかの地を尋ねると、
この院は今は増上寺の山外、赤羽根の川辺にあった。
御馬の遺跡には一堂あって、中央に石像の観音があった。
高さは四尺を超すだろう。
守僧に問うと正観音という。いかにも古色でその頃の像であろう。
後にしばしば火災に遭ったというので、石像に石灰を塗って鼠色に見えた。

 またかの守僧の言う所では、
「この御馬は名を”布引”といって、台廟に殊に愛されていた。
大坂の御陣にもこれを召されて、台廟が薨去された時も葬儀に従い、
そのまま増上寺に繋がれていたが、御中陰満(四十九日)の日に死んだ。
よって荼毘にして山内に埋め、仏像をその所に建てた」
とのことであった。

941 名前:2/2[sage] 投稿日:2016/07/18(月) 03:05:08.84 ID:UAan42eF
 予は思うに、守僧の言といえども信じれないのは、
大坂冬の陣は慶長十九年で、台廟の御他界は寛永九年である。
この間十九年で、大抵の常馬の寿命を考えると、
寛永九年に十九歳とすると、冬の御陣ではその馬の産年となる。
この年に四歳としても、御他界の年には馬寿は二十二である。
たまたま長寿の馬はないわけではないが、おそらくは違うだろう。
またその寺中で死んだので、荼毘にして埋めたというのもいかがであろうか。
それならば僧正の語ったように、台廟がかの駿足を憐れみなさって、
駿州で倒れた馬を火葬にして、御帰りのときに増上寺に埋められたものであろう。
そうでなかったらすぐに駿府で埋めたのであろう。
 また御馬の名を”布引”というのも、おそらくは違うであろう。
それは今も速足の馬には、四方手に布一端をつけて乗るので、布は空を曳いて地に着かない。
これを布引の馬と称するのである。
かの御馬は千里の駿足であるが、布を引くのは言うまでもないだろう。
その名は僧正の言うように”岩浪”であるはずだ。
守僧は武事を知らないまま伝承したのだ。
 また駿府まで、一昼夜で着かれたというのも、後藤庄三郎〔光次〕が記した『政事録』にいう所では、
『二月朔日、将軍家江戸御発駕。日以て夜に継ぎ、二日御駕御駿府に着く。』
と有るので、江戸から駿府まで四十六里なので、かの駿馬の力に依らないと、
このような神速の行はできなかっただろう。
いずれにしても、かの御馬は今でも吾輩にさえ憐れみの念に堪えるものだ。

 また心光院は、初めは今の本坊の側の新道というところにあったが、
火災に度々罹ったので、ついに今のところに移されたという。
ならば初めは御馬を埋めたところは今のところではない。心光院はもとは方丈の内道場と言う所であったのであろう。
(甲子夜話)


東京タワー側の心光院、お竹如来以外にもこんないい話があったんですね



942 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/18(月) 08:32:41.95 ID:smVtlRxu
馬は4年ぐらいでも立派な大人の馬だが、
寿命だけなら20年(現代では30年)くらいも生きられる
というので、二十二というのはあながち間違いというわけでもなさそう。

943 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/18(月) 12:33:33.95 ID:bzKhQP9H
赤兎「わずか二十二で亡くなるとか、主人に不忠じゃのう」

944 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/18(月) 12:57:39.89 ID:MTCAvQpS
江戸から駿府を一昼夜で走ったら22じゃなくても逝きそう

945 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/18(月) 13:59:36.75 ID:Jho+/2z/
>>940-941
その時代にも逸話を真面目に検証してるのが面白いな。

医療も馬の環境も充実してる現代ならともかく、昔に22まで生きたのが信じられないのは当然かも。

徳川秀忠も同意であり

2016年06月14日 17:48

835 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/14(火) 02:34:32.03 ID:VPNrXKgR
徳川家康武田勝頼のことを、「若気ゆえに強ちすぎて、終に滅亡した」と
言い、殊に惜しんだ。徳川秀忠も同意であり、勝頼の子孫を尋ねたところ、

宮原右京(晴克)の母は勝頼の娘である旨が申し上げられ、秀忠は喜んだ
様子で、「初めて聞いた。その他にはいないのか?」と、言った。

家名の絶えたことを憐れんでのことである。

――『明良洪範』



836 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/14(火) 03:12:55.53 ID:G40Fhy1X
清和源氏足利基氏の血筋なり。上杉憲寛、上杉義勝、宮原義照と続き
義照の実弟義久を養子とす、兄弟同母が真理谷信政の娘なり。
義久、家康より勝頼娘貞との結婚と嫡子は宮原姓、庶子は穴山姓を名乗ることを命ぜられる。
高家なり。


837 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/14(火) 07:08:30.30 ID:ym6v2zfR
>>835
甲陽軍鑑のせいだけど家康、勝頼は数えで4つしか違わないので
完全に同年代なんだよなぁ。

838 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/14(火) 08:00:59.65 ID:twXBwpVX
真理谷信政ということは武田信長の子孫か

839 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/14(火) 08:10:57.18 ID:X1xNTxNG
真理谷には信玄の子供が養子に入ったという伝承があったような

道器一致の旨にかなう

2016年06月09日 17:11

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/08(水) 21:37:51.16 ID:fbNcmqXW
 前に、増上寺虫干しのとき、台廟(徳川秀忠)の御具足を出し、
その御鎧に銃丸の痕が所々有ることを言った。
予は台廟は御戦場でこのように銃を蒙りなされたこと無かったと疑った。

 然る後に、軍講者の宗耕に会う。このことを語ると、
「不審もっともでございます。それは関が原の御合戦の時、
小山御陣で台廟が御物見として通りなさったところを、真田が山上から銃を連ねて撃ったときのものです。
このとき御側衆には、討ち死にの人が二、三人有ったとの事です。」
と話した。

予は聞いて歎息し恐れ入った。これらは(坂本)天山が伝える所の、道器一致の旨にかなう。
(甲子夜話三篇)

道器一致ってなんでしょうかね



695 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/08(水) 22:01:15.68 ID:etFF9G+S
道器、道具、甲冑

696 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/08(水) 22:06:27.62 ID:xCyA6pUL
同母弟のがほぼ同時期に狙撃されたのは偶然なのか

697 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/09(木) 12:03:16.65 ID:Acm8aK/8
暗殺だよ。

台徳院が着られた御具足

2016年06月08日 17:08

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/08(水) 00:49:24.05 ID:fbNcmqXW
 芝の宿坊雲晴院は、増上寺で役を勤めた者で、年をとって引退し故里因州に帰っていたが、
故あってまた私の宿坊の住持としている。
 この僧はかつて方丈の虫干しに関わった者なので、よくそのことは知っている。
虫干しの品も数多いことゆえ、御朱印部類、御甲冑部類、御刀剣部類など唱えて、
御代々御寄附等の品々をよく干していたという。

 分けて御秘蔵の品として伝わる物は、方丈の書院に干す。
その中に、台徳院(徳川秀忠)が着られた御具足があった。その御背の所に、銃丸の痕が所々あったという。
恐れ入ることである。台廟は、神祖のように御戦場の話はあまり聞き及ばないが、どこでこのような危うい御事があったのだろうか。
これが御秘蔵の御物なのはしかるべきことであろう。

 宗耕曰く、『慶長外伝』に中に書いてあるそうだ。
『慶長五年九月七日、江戸中納言[台廟]、信州上田へ御出勢なされましたとき、
城中から真田勢が打ち出で、その他、山からの手勢と合わせまして、
御旗本へ鉄砲を撃ち掛けましたので、御勢は三町まで繰り上げましたという。』
これによれば、この御具足は正しくはこの時のものである。
この時御側の輩にも、不慮の討ち死に等が有った。
との話である。

(甲子夜話三篇)

今でも残ってはなさそうですねえ




687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/08(水) 01:16:10.80 ID:vr887YWi
当たっただけで貫通はしてないのかな

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/08(水) 05:35:28.46 ID:YdrSKFuN
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3852.html
遺骨調査によると骨まで達した銃創痕があったとか
真田のせいだとしたらそりゃ九度山下山を許されませんわ

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/08(水) 10:03:38.48 ID:YCJF0dkB
>>688
第二次上田合戦で秀忠が負傷した記録は、伝承も含めて一切存在しないし、
仮にそんな重症を負ったら、逆にあんなに早く家康のもとに駆け付けられない。

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/08(水) 11:41:35.45 ID:8tzKO/kN
隠蔽したんじゃないの?ひと揉みに攻めたら反撃くらって負傷とか跡目相続に関わる事件だわ

691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/08(水) 12:36:54.76 ID:CmxE+Ops
隠蔽って便利な言葉だな。

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/08(水) 13:07:12.04 ID:mrEuZqdb
まあ、この話も甲冑に弾の痕とはあるけど怪我したとは書いてないね
軽傷くらいは負っていそうだけど、骨に残るような銃創ていつ負ったんだろうね

693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/08(水) 15:40:34.79 ID:EuFT9BDA
>>688
こういう逸話を思わせるのいいね、ロマンだわ(実話とはいってない

徳川秀忠へ譲られた七宝

2016年06月01日 18:22

779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/01(水) 03:56:01.37 ID:ywUkHrR1
以下は徳川家康から徳川秀忠へ譲られた七宝である。

捨子(茶器)
薬研藤四郎
義元左文字(三好政長が所持したので宗三左文字ともいう)
投頭巾(茶器)
円座(茶器)
円悟
ちすいほねはみ(小さ刀)

秀忠の他界は24日の夜4時であった。その昼の七つの頃、秀忠は
前述の七宝を徳川家光へ譲った。(使者・秋山修理正重)

そしてこの他にまた1つ譲られた。それは土井大炊頭利勝である。
利勝は長年心安く側に召し使われ、他界に及んで落髪などすれば
惜しいことと秀忠は思ったので、その時より差し上げたのである。

秀忠は「以前から長く召し使っていたもの同然に思し召されよ」と、
家光に告げたのであった。

――『武功雑記』

隙を見て豊臣秀頼を暗殺いたさん

2016年05月25日 19:50

765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/25(水) 15:33:00.47 ID:K18+45UD
悪い話スレとどっちかいいのかわからなかったんだけどカキコ

慶長十九年十一月、大坂の陣の直前のことである。
駿府から出陣した大御所・家康と合流していなかった将軍秀忠は、
側近の土井利勝を家康のもとに遣わした。

「以前ご勘気を被って蟄居していた山口重政
 『大坂城に入場し、隙を見て豊臣秀頼を暗殺いたさん』と
 申しております。 いかがいたしましょう?」

しかし家康はこの案を容れず、徳川方と豊臣方は全面対決することになる。
この時の家康、秀忠、重政の心境はどんなものだったろうか?
蟄居の身の山口重政はどうしても幕府と大御所に恩を売りたかっただろう。
秀忠にしてみれば、秀頼が暗殺されれば
千姫がどうなるか気になっていただろうし、
それは家康も同じだっただろう。
それとも、幕府の威信にかけて正々堂々勝負すべきとして
家康は重政の提案を退けたのだろうか。
戦国の最後を飾る大舞台、人々の思案をめぐるお話。