明主の賢慮は推量し難い

2017年03月17日 07:47

720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/16(木) 23:45:21.45 ID:vrpWz8g8
徳川家康がある時仰せに成った
「右兵衛督(徳川義直)、常陸介(徳川頼宣)の両人に、近日武具着初めをさせるので、
あらかじめ準備しておくように。」

御武具方はこれを承り。黒糸縅の甲冑、ならびに弓矢、陣太刀、鞭、采配、軍配扇など、
注文通りに揃えた。

その頃、この武具着初めについて下々からは
「現在、右兵衛督殿の御爺などと称せられている平岩主計頭親吉は、それほど高名は聞こえないが、
上の御覚え他に異なり、また常陸介殿に付けられている安藤帯刀は、武勇冥加の侍であるから、
きっと両殿の御武具は、この両人が召させるのであろう。

尤も平岩は戦場に勇ある人物ではあるが、安藤と比べては、なかなか同日に論ずることができる者ではない。
そもそも公達などの御武具御召初めは、勇功あって武の冥加ある侍にあやからせ給うようにと、
専らそういう人を選ぶものだ。安藤は一日の内に二人の大将の首を獲た武勇の人であるから、言うに及ばず。
一方の平岩は、上意ではあったが、かつて一家の主親たる水野下野らを討ち、また三郎信康殿の
御母堂築山殿御生害の事を取り計らうなど、あまり吉兆のある人ではない。そういう人に若君などの
御武具召させ初めるというのは、いかがなものか。」

そのように言い合っていたが、当日に至ると、義直、頼宣の武具を、父である徳川家康が自ら
召させるとの上意にて、兄弟は同日御前にて召させられた。下々の予想は全く間違えていたのである。

しかし岡崎三郎殿以降の公達は数多居たと言うのに、家康自ら武具を召させる事は無かった。
それが今度このように計られた神慮は計り難い。兎にも角にも、優れて御愛子ということだろうか。
何れにしても、明主の賢慮を下々は推量し難いということだ。

(武野燭談)


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大人・公子の御身として、幽霊女の真似など

2017年03月14日 17:39

665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/14(火) 17:34:44.98 ID:T6KbAzrH
ある年のこと、尾張大納言徳川義直の元に酒井讃岐守忠勝が訪問した時、馳走にと
嫡男五郎太殿(後の徳川光友)による能興行があった。
この時、五郎太の手の舞い、足の踏む所、自らの拍子を、『讃岐守はきっと感賞するであろう』と、
義直は自慢げに見せるのを、忠勝は一切褒めず

「勿体なき大事の御身でございます。どうぞ余人に仰せ付けてください。すでにご器用なのはよく解りました」
(勿体なき大事の御身にて候。只余人に仰せ付けられ候へ。最早御器用の程は見え申したり)

と、しきりに止めようとした。立ち返ってから

「武家は何度も武を賞賛されることこそ本意である。大人・公子の御身として、幽霊女の真似など、
全く益がないではないか。」
故に全く感心できなかったのでやめるよう言ったのだと、成瀬隼人正正成に語ったそうである。

(武野燭談)


666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/14(火) 21:27:44.11 ID:BQ1j7HGy
でも武を見せつけると謀叛の疑いをかけらるんだろ

江戸御旗本・尾張・紀伊は“御三人”と称され

2016年10月19日 16:24

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/19(水) 01:36:00.64 ID:Kwj3E/7X
東照宮(徳川家康)の御子達多き中で、紀伊頼宣君は、その御器量天才
にして、只の尋常の御性質ではあられず、

そのところを東照宮は御覧になられて御寵愛は浅からず、尾張の義直卿
と紀伊頼宣卿とは、「天下左右の固めであると思し召されるように」と、

堅く御遺言なさったことにより、江戸御旗本(徳川将軍家)・尾張・紀伊は
“御三人”と称され、三家一体の御高家であった。

――『南竜言行録』

水戸家ェ…



226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/19(水) 02:18:39.13 ID:M/r/pRYO
当初は水戸の立ち位置が不確かだったような
今ではそんな水戸の血筋が宗家だけど

227 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/19(水) 04:25:34.69 ID:gmsZuxDH
>>225
元々そうでしょ
悪い話でもなんでもない。
途中から将軍家除いて水戸を加えた方がいい話だか悪い話だかになるんじゃないのかな

228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/19(水) 15:21:25.87 ID:2lnbE035
そりゃ水戸家は紀州家の分家扱いだったって言われるぐらいの格下だしな
まったくのフィクションだと分かっていても水戸黄門でじーさんが紀州に乗りこんで偉そうにしているの見て、哀れに見えたわ

230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/19(水) 20:04:17.78 ID:vD6BiNk0
>>226
今の徳川当主は会津松平家だけどな

231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/19(水) 21:00:20.81 ID:qTJ2VxIA
男系血統的には水戸徳川→高須松平→会津松平→徳川宗家という流れ

232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/19(水) 21:26:49.25 ID:qTJ2VxIA
尾張徳川は鍋島血統の堀田が継ぎ
紀伊徳川は断絶の危機
水戸徳川は現在も男系血統が続き、宗家も含め各連枝にも水戸血統が多い

どうしてこうなった

233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/19(水) 22:39:27.14 ID:eiQrfX7O
>>232
だいたい烈公斉昭のせい

この人も公私に渡ってDQN四天王に次ぐアレさ…

だからこそ、神君も常に

2014年06月14日 19:08

132 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/14(土) 16:04:01.80 ID:bFC8NySH
さて、慶長年中に秀頼公と神君(徳川家康)との御対顔があり、
その時、秀頼公が大坂城から神君の御在所の二条の城へ行く途中、
加藤清正と浅野長政とが高股立ちの姿で秀頼公の乗輿の左右に付いた。

二条の城から御迎いとして神君の御子息の義直卿、頼宣卿の御両人が
途中まで出られたのだが、日傘を使っておられたのを清正は見て、
「無礼です。その日傘をお止めなさい」と言って止めさせた。

当時、神君の御威勢に向かってそんな事を申す者が他に誰がいるだろうか。
万一申す者がいるとしても両卿がどうしてその言葉に従いなさるだろうか。
清正だからこそ、そのような事をも申し、両卿もその言葉に従いなさって
日傘を止められたのである。

この一事で清正が尋常ではないことを万事察知できる。
だからこそ、神君も常に清正を御褒めになったのである。

――『明良洪範続編』




133 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/14(土) 16:44:56.69 ID:Fbc8clkM
だからこそ、次の代で家を御滅ぼしになったのである。

本当にご苦労なされることだ

2013年10月18日 19:05

366 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/18(金) 11:12:41.90 ID:z502H7GH
大阪冬の陣でのこと

士寄(攻城用陣地)の構築や、合戦における諸事の手立てについて、藤堂高虎は巧者であるため
見習うように、との徳川家康からの上意で、家康の息子である尾張徳川義直、紀伊徳川頼宣、水戸徳川頼房
3人が同道して、藤堂高虎の士寄場を見学した。

この頃藤堂高虎は、ためし兜にためし具足(仮の武装ということだろうか?)を付けて、
毎日昼夜を問わず、銃弾避けの竹束の下に出て、士寄の工事に関わる全てのことを現場で下知していた。
この事に工事をしている下々も

「もうお年も寄られているというのに(当時58歳)、本当にご苦労なされることだ。」

と、感じ入ったそうである。

(西嶋留書)

さすが藤堂高虎は戦国の土木建築の巨匠なのである。




368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/18(金) 14:04:41.12 ID:si0X43mw
たぬき「いや、実用的なものじゃないといけないだろうjk」

369 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/18(金) 14:27:24.17 ID:ZfsiqCJa
士寄と書くのは初めて見るけど原文からそうだったんだろうか

水野家の家風

2013年09月13日 20:24

311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/13(金) 09:17:32.35 ID:FJ+vx4u1
まとめに載ってる話の別バージョンを見つけたので

水野家の家風

岡崎城主水野忠善は、朝は4時から5時のあいだに起き、冬は自分で氷を割って頭を洗い髷を結う
明け六つの太鼓を待ち構え乗馬訓練。毎日2、3頭は乗りこなし
質実剛健を合言葉に、家中にも厳しく武芸の訓練を言い渡した

ある日、名古屋城の掘端を、深編笠の不審な男が、しきりに城の様子を探っていた
鉄砲玉を結びつけた紐を掘りに投げ込み、大胆にも堀の深さを測り始める
それを見た徳川義直は怒鳴る
「こんな大それたことをする奴は、岡崎の忠善しかおらん!何者であっても打ち殺せ!」

忠善は、岡崎までの道中に用意しておいた七頭の馬を乗り継ぎ
追っ手を振り切って一目散に逃走
岡崎城の大手門を通り抜けようとした時
「何者だ?待て!」と門番の武士が追いすがり、たてがみを掴んだ
忠善は構わず馬を走らせ、門番は引きずられながらも手を離さない
二の丸近くになって、主君と気づき手を離した門番に
「下馬所まで手を離さなかったら、百石ほど増してやったのに」
と流れる汗も拭いもせず、のたまったそうだ。

--『岡崎の歴史物語』より--

大手門から二の丸まで1km弱あるんだが…




312 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/13(金) 10:04:09.96 ID:sbwWR3sQ
名古屋城を探るって何を考えてたんだろ?
それも城主の目の前で。

313 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/09/13(金) 11:59:23.41 ID:WzibEuwq
水野忠善が堀を測る話は、池波正太郎の『戦陣眼鏡』って短編が好きだな。
戦が終わった時代に産まれた殿様の哀れさというか、かわいさというか、そんな感じがよかったなー。

314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/13(金) 12:27:33.25 ID:72lGd9ja
この頃にはもう御三家なんて将軍家から見ると逆に安心出来ない存在になってたんじゃないだろうか

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/13(金) 12:32:27.55 ID:dJ/wW2me
尾張と紀伊は覇気に満ちた性格してるしなw

正成が日頃望んでいたのは

2013年07月07日 19:02

629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/07(日) 18:41:06.62 ID:ZcdGcfU1
成瀬正成徳川家康の近臣で、尾張の徳川義直に付けられ、
義直に対しても忠勤を尽くして仕えた。

正成が日頃望んでいたのは「恐れ多いことだが、死後には尊神(家康)の
御かたわらに侍りたいと思う」ということだった。

程なく正成が身罷ると、義直はその志を思って遺言に違えず亡骸を日光山に送った。

その死の三日前の事。天海は「今朝神祠に参ったところ、正成がここに来て
神君の御前に侍っているのを見た。正成は近いうちにきっと身罷ると思う。
まもなくやって来ることだろう。本当に哀れなことだ」と言って涙を落とした。

――『東叡山開山慈眼大師縁起』





諸大名への拝借金顛末

2012年08月18日 20:50

46 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/18(土) 14:04:03.68 ID:q5nYetVq
権現様(徳川家康)は(将軍職を秀忠に譲って)駿府に移られる際も、万事質素に隠居成されたため、
御他界なさるまでに百萬両に達する貯金を作られた。
その内から尾張殿と紀伊殿に三十万両づつ、水戸殿へ十万両を御遺金として進呈され、残りの三十万両は
江戸の御金蔵に入れておくべきか伺いを立てたところ、そのまま駿府に残しておくように、とのことであった。

大納言忠長卿(秀忠次男)が駿河を拝領された時、この三十万両はおそらくお城に付いているものであると
皆思っていたが、この資金の所属についての明言がなかったので、忠長は幕府の御金を預かるのは迷惑であると
申し入れ、久野の御宮に御金蔵を作りそこに移した。これを世間では久野の御金と呼んで莫大な額があるように
言っていたが、ただ三十万両ではなかった。
それは尾張殿の江戸上屋敷が失火で消失した時の普請料として十万両、紀伊殿の和歌山城普請の時に十万両、
水戸殿には三万両を、それぞれ拝借が認められ、その後少しずつでも返済いただきたいと、幕府の勘定方から
お願いすると、尾張殿からの返答は

「私が拝借した御金はもともと権現様がご隠居料の中から貯えられたものであり、ご他界された時、遺金として
我々兄弟三人への御譲金の残りであり、それを我々が拝借したのだから返納する必要はない!」

と拒否し、紀伊殿、水戸殿も拝借金に対しては沙汰無しとなってしまった。

当時はその他の大名衆にも拝借金が認められていて、それぞれの借金は決まった通りに必ず返済されていた。
ところが伊達政宗の借金返済が滞ったので、これまた幕府勘定方より催促したところ、陸奥守忠宗からは

「私の代では拝借をしておらず、亡父政宗の代に借金があったとのことですが、どういう経緯で借金をしたのか
今は解りません。親の代に借りた御金ですから、親が生存しているうちに返上を申し付けられるべきなのに、
その時は放置しておいて私に返上しろとは、全く迷惑な話です!」

そう言って返済しようとしない。
また譜代大名の松平越中守の方でも拝借金返済が滞っており、これにも勘定方から催促すると、越中守は

「前に拝借した時、私の方からさし上げた証文があるはずなので、それを見えてもらえるか?」

と言うのでこれを取り寄せると、越中守はそれを見て

「うむ!私の覚えているとおりだ!皆もここに見えているように、『御貸し下され有難く存じ奉る御金の事』と書かれている。
これは『拝借を仰せ付けられた』とは私の解釈では『拝領を仰せ付けられた』ということなのだと考え一言書いたものである。
従ってこれは、返上の必要はないと思う。」

と、これもまた返済しようとしない。
この様なことがあったので、幕府からは今後もう、諸大名への拝借金は認めない、と言うこととなった。
(駿河土産)

言を左右にして何とか借金から逃げようとする大名たちのお話である。




47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/18(土) 14:15:07.86 ID:XzgT6NJu
これが武断政治の実体か・・・

48 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/18(土) 14:17:17.73 ID:uY5jsbIY
ジュニア世代も立派に育ってるなぁ、感動した;;

49 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/18(土) 14:30:28.20 ID:HjX195iS
福島正則の改易とか結構厳しいイメージがあったから意外だった
借金を理由に伊達を取りつぶせばよかったのに
抵抗したら奥州征伐で。あの時代の武士って戦無かったからちょうどいい演習になるしな

50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/18(土) 14:33:13.22 ID:lBc6ZGAR
あの時代だからこそ穏便にすまそうと思ったんじゃないの

戦を経験した人も少ない時代だろうし

51 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/18(土) 14:38:59.19 ID:54p/53yT
>>49
取り潰されるのは五人目の四天王。
四天王は潰されない。
完璧超人だからw

52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/18(土) 15:28:20.03 ID:UpumMJAU
津山は取り潰されたじゃん

53 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/18(土) 15:52:49.91 ID:Wbfacg1H
江戸の人口を仙台からの米が支える構図がこの時期どのレベルだったかよく知らんけど
幕府が伊達とケンカして米の流通滞ったら物価経済の混乱で借金額なんぞとは
比較にならん損失出るんじゃね?

54 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/18(土) 16:42:22.73 ID:nlJ9mhVm
でも下手すると直轄地にされる諸刃の刃

55 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/18(土) 23:04:37.98 ID:aSk0UUbR
借金踏み倒すってなんかムカつくな
全部取潰してやればよかったのに

56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/19(日) 02:10:15.36 ID:v7aAzoIl
金は卑しいものという意識が当時はあったみたいだし
幕府としても、金のことで揉めるのはみっともないという考えがあったのかもね。

現代の感覚だと借金はどんなことをしてでも返さないといけないって感じだけど
当時の感覚とは相当な隔たりがあるんだろうな。

57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/19(日) 03:45:56.60 ID:wK/xOXfA
犬千代さんなら追込み掛けるんだろうな…

58 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/19(日) 04:00:28.72 ID:VzY311M/
犬千代さんなら政宗が死んだ段階で借金の証文を燃やすだろ

59 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/19(日) 10:06:15.52 ID:+GSIWw/p
まつ「うちの旦那なら…」

60 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/19(日) 10:53:47.82 ID:7Kz0Em/i
あれ?細川さんどちらへ?