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続武家閑談より「洛中放火の企て顕れて悉く斬戮の事」

2023年02月07日 19:11

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/07(火) 18:36:01.12 ID:m1SOtcLP
続武家閑談より「洛中放火の企て顕れて悉く斬戮の事」

古田織部正は徳川方の陣から敵に内通し、味方の事情を矢文で城中に送っていた。
その事は権現様はご存じでなく素知らぬようになさっていたため、大坂方はこれ幸いと間者に用いなさっていた。
権現様が大坂夏の陣にお立ちになる時、織部は茶友の宗喜に「大坂方から洛中に放火せよとのことだ」と実行を頼んだ。
しかし法制が厳しく、尾張義直(徳川義直)の陪臣である甲斐庄三郎、金井伊兵衛両人に放火犯二人をからめとられた。
成瀬隼人正(成瀬正成)に言上させ、伊賀守勝重(板倉勝重)が五更から明け方にかけて罪人を召し捕り、七日のうちに徒党をことごとく斬刑にした、
ほかにも助力している者どもがいるだろうということで、五月三日より上杉景勝に命じ八幡山に布陣させ、遊軍させなさった。

甲斐庄三郎は「管窺武鑑」「佐久間軍記」などでは甲斐庄三平のようで(甲斐庄が苗字)
続武家閑談の作者・木村高敦か書写した人物が「甲斐庄」という苗字を知らず「甲斐・庄三郎」と思ったのかもしれない

693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/07(火) 18:50:43.34 ID:m1SOtcLP
冒頭は「続武家閑談」だと
古田織部正は吾陣より敵へ内通し味方の事城中へ矢文ありしけれども其事権現様御ぞんじなかりしが左あらぬ様になされこれを幸ひと間者より用ひ給ふ也」で

管窺武鑑」だと
「此織部、旧冬の御陣の時、御方にて御供し、味方の事を聞いて、矢文を射て城中へ告げたるを、権現様御存なれども、御存じなき体になされ、御武術になさる。
是れ反間を用ひなさる御名将の微妙なり。」

「給うなり」がついてるから「管窺武鑑」のように反間という意味が正しいと思います。
「ぞんじなりし」を「ぞんじなかりし」と間違えたのかもしれない



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夏の陣を控えた権現様の癇癪

2022年10月12日 19:05

621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/10/11(火) 22:09:11.88 ID:qTLjFlHc
村越道伴物語留書』より
夏の陣を控えた権現様の癇癪

慶長二十年四月六日、家康は駿府を立った
(徳川義直の婚儀で)尾張を訪ねたついでに上洛(して大坂方を討伐)する企てだった
そのころ、去年今年と両度の出陣で旗本は困窮していたので、「少しは金銀でも下さるだろうか」と各々が愚痴を言っていたところ、本多正純が内々に耳にし、「もっともなことだ。おあちゃの局様が御前でよろしく沙汰されるべきだ。そのときに我らも言上に及ぼう」と内談した
あるとき家康が御咄の間に出てきて老中を召し、いろいろ話をした
あちゃは「笹ちまきの風味がよくございます」と三方に載せて御前へ差し出し、「去年の御出陣も首尾よく終わり、誠にめでたきことにございます。御婚儀も万端奉祝も終わり、諸侍に何か拝領されてはいかがでしょうか」
すると家康はにわかに機嫌を損ね、「言いたいことは分かるが、いまさら金銀を与えれば敵に恐怖したのかと万民が口にするだろう。金銀を与えなかったからといって逼迫して供もできない輩は好きにすればよい。わし一人でも上洛するわ。長篠のときも味方の軍勢を頼らず信長の軍勢を先に立てて勝利を遂げた。あるいは小田原攻めも粉骨砕身し、関ヶ原のときだって人の力を頼らず計策を以って勝利したのじゃ」
これらの話を引いてもっての他に激怒した
あちゃは言葉なく、「めでたしめでたし」とばかり口に出して退出した
「勿論本多上野介其外の面面、言語を発っせざるなり」

あちゃも旗本も見捨てる釣り天井の悪い話



紀州大納言 vs 尾張大納言 with 真田のお兄ちゃん

2021年09月25日 15:55

573 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/24(金) 23:51:44.97 ID:AIMjDuGE
紀州大納言 vs 尾張大納言 with 真田のお兄ちゃん

南紀徳川史』より、島原の乱が起きた時のこと。

将軍・徳川家光のお召で徳川御三家の三人に大名旗本巧者の面々が登城した。

その席で尾張大納言・徳川義直は島原蜂起の一報に対し

「何物ぞや百姓どもの分際にて何程のこと有るや。踏みつぶすに手間取るまじき」

と述べた。これに対して紀州大納言・徳川頼宣曰く

「左様にては無之候。古の諺にも外の百人を以て内の一人を難窮と申候に万斗の凶徒ら必死に立て籠もり候を手軽にはなり兼申候
 殊に天草富岡城攻、本渡合戦の仕方聤兒志桓にての勢配り唐子表より陣払いの躰嶋原にては瀬野合戦三江杉谷表の兵糧論の体百姓計の
 仕方と不存候如何様御手間入可候」

要するに天草の一揆軍を愚民の反乱(プゲラ)ザーコザーコと完全に侮る尾張大納言と、伝え聞く一揆軍の戦いぶりは舐めたらアッカッンー(舐めたらアッカッンー)と
諫める?(反論する?)紀州大納言の構図である。

これを近くで聞いていた人物がいた。

信州松代藩主・真田信之(71)であった。二人の言い分を聞いていた信之は

「軍の儀は左様にては無御座ものにて候。むかし亡父の安房守・昌之御意違ひ権現様より御譜代歴々一万五千にて信州上田城へ御取懸被成候我等二十三歳にて
 父安房守昌幸か先手致し候一戦に打勝候御人数を加賀川迄追討に四百計首を取申候御譜代歴々の鎧の推付を見申候其時の様子尾張さま御家老成瀬隼人可存候。
 我等了簡には紀州さま御意御尤と奉存候」

このように述べた。

意訳するとお前らの親父の譜代の兵一万五千に攻められたとき俺二十三歳で親父の先手務めたけど、勝って首400取ったわ。尾張大納言の家老・成瀬隼人がその時のことよく知ってんよ。
あ、俺たちの考えとしては紀州大納言の意見が尤もだと思いますよ。

尾張大納言はこれを聞いて咳をした。

お兄ちゃん、成瀬隼人正正成は12年前に死んだでしょ。と思ったけど知らなかったのかもしれないし名将言行録由来の話のようだし、あからさまに南龍公贔屓な内容だと
思うのでその辺も考慮する必要はあるかと思うが、島原の蜂起に対して楽観視する尾張大納言・徳川義直とそれに異を唱えて慎重論を唱える紀州大納言・徳川頼宣に、それに加勢しつつ
自家の武功をガッツリアピールする信濃のお兄ちゃんであった。

自らを慕ってくれる南龍公をアシストしつつお家自慢も交える真田信之の要領のいい?お話。




576 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/25(土) 11:30:43.08 ID:X1yrL8my
>>573
これ作り話で、真田ごときがこんな事言ったら取り潰しです

577 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/25(土) 12:24:03.58 ID:J4tl1FN+
>>576
逸話スレでそんな野暮天言いなさんな

578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/25(土) 14:30:19.10 ID:rYrwbmjl
>>576
こういうのは「じゃあ何でこういう話が伝わったのか」を考えるのが大切

579 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/25(土) 14:48:59.86 ID:aHWiSKfx
なんで?>南龍公をageたい
問題点>碌に実戦経験が無いのは南龍公もだから反論の説得力に欠けるな
解決策>ベテランの戦国武将に同意させれば説得力が生まれるな
対象者>南龍公と関係があって徳川とも戦った真田信之が適任であろう

こんな感じで産まれたんだろうか

581 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/25(土) 15:04:37.24 ID:yrJbFXGK
>>579
南紀徳川史自体が明治に紀州徳川当主によって編纂されたものだし、この逸話も本編末くらいにある様に名将言行録ベースの逸話なので紀州徳川ageのためそう言う風に書かれているとは思う。

尾張徳川義直の発言も実際はニュアンスが違ってたかも知れないけど、恣意的に思うし。

真田信之は自家が権現様の大軍相手に大勝した例を出して、一揆を侮ってはいけないと言う風に諭してるのだと思う。

でも、事実を言ってるだけなのでこの程度では>>576の言う風にお取りつぶしにはならない気もする

尾張家はこのように、御入魂であったのである。

2021年05月03日 19:08

146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/03(月) 16:53:05.12 ID:xtvZpTjR
池田輝政様の御逝去の時、武蔵様(池田利隆)は江戸に在った。
帰国のための御暇を得る時分であったため、武蔵様にはこの事を申し上げず、お聞き無きように、と
御老中の内意であったため、御暇が出た後にお聞きになり、これへの御愁傷は大方成らないものであった。

直ぐに帰国の途につき、成宮にて尾張大納言殿(徳川義直)より、成瀬隼人正が御使として出られ、
その他にも御家来衆が武蔵様を迎えるために御出になった。

武蔵様の御愁傷の様子を隼人正は見て
「左様に御愁傷されていては、幼少の御舎弟たちを、今後お取り立てなさることも出来ません。
御酒を参らせられますように。」
と、御酒を乞い、先ず自分が中椀にて二つばかり呑み、武蔵様へ進上した。武蔵様が無理に呑まれた時、

「そろそろ潮時が良いでしょう。早く御船に召してください。」

と言って、実は未だ潮時の前であったのだが、御船を召された。しかし潮時前であったので
船が出されぬままであったのを、隼人正は股立を高く取り自身海に飛び込み、武蔵様が召した船を
押し出した。隼人正がこのような体であったので、他の尾張家の諸士も各々海に飛び込み船を押した。
これにより船は浮き出た。

池田輝政公の御妹は浅野紀伊守(幸長)の室であり、また尾張殿は紀伊守の聟君であった。
然れば、尾張殿の御内室は武州様の姪子である。それ故に、尾張家はこのように、武蔵様に対して
御入魂であったのである。

烈公間話



其方之者と不可存候、天下之者と可存

2020年12月08日 18:02

756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/08(火) 17:27:09.40 ID:wHMS4+2V
(大阪夏の陣、四月二十九日の樫井の戦いの後)同日夜に入り、但馬守殿(浅野長晟)より、
大隅(亀田高綱)と上田宗箇に同心して山口まで罷り越すように申し来た。
早々に参上した所、但馬守殿は

「両人ながら呼び出したのは、今日の鑓の、一、二を改めたく思ったためである。両人共に、
今日の合戦での次第を有り体に申すように。先ず亀田より述べよ。」
との事であったので、大隅が合戦の次第を申し上げた

「上田とそれがしが鑓を入れたのは、多分同時であったと思います。しかし、あの時私の周りは
騒がしかったので、分明ではありません。」

そう申した所、上田宗箇は
「いや、左様では無かった。大隅は私よりも、五、六間先に行っていました。」

もう申し上げたため
「そういう事であるのなら、一番鑓は大隅、二番鑓は宗箇である、という事だな。」
と仰せになった。その夜はまた、和歌山へ罷り帰り、この次第は浅野家の諸侍何れも承っている。

大阪落城の後、上田宗箇と大隅は京の二条城に召された。家康公の御前へは、大隅が先に
召し出され、直に樫井合戦の次第をお尋ねに成られた。そして但馬守殿を御呼びになり、こう仰せに成った

「この亀田は、当代に至り、両度御用に立った者である。彼をただ、その方の家臣と存ずべきではない。
天下の者と存ずるべきである」
(此亀田儀ハ当代に至り両度御用に立候條、其方之者と不可存候、天下之者と可存)

誠に以て有難き御諚であると存じ奉り、涙を流して御前を立ちかねるほどであった。

その次に上田宗箇が雄目見得いたしたのだが、今度の骨折りによって(関ヶ原で西軍についたことの)御勘気が
御免となるとの御諚であった。

その日、将軍様(秀忠)にも御目見得をし、一番は上田宗箇であった。「茶の湯は上がられるか?」
とのお尋ねがあり、罷り立った。次に大隅が罷り出でると、今度の働きを聞き届けられて居られた。
これにて御振る舞いが下されたのだが、たいへん騒がしい時期でも有り、兵衛様(徳川義直・浅野幸長の娘婿)に
申し付けたので、早々に参上するように、との御諚であったので、罷り立った。
その日、上田宗箇は既に但馬守殿の元から立ち退いていたので、大隅一人が兵衛様の元に参上仕り、
御振舞を下された。保昌五郎の御脇差を拝領した。これは現在、善右衛門に遣わし置いてある脇差の事である。

(亀田大隅守高綱泉州表合戦覚書)

大阪夏の陣、樫井の戦いでの亀田高綱の活躍とその評価について



秀頼と家康の二条城会見について

2020年08月31日 17:17

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/31(月) 13:27:20.93 ID:ybV1B4VU
慶長十六年三月二十七日、豊臣秀頼公が大阪を発って淀に到着され。これの迎えとして
右兵衛(家康公息、年十二歳(義直))、常陸介(家康公息、年十歳(頼宣))、并びに
池田三左衛門(輝政)、加東肥後守(清正)が淀に参向した。
秀頼公が大阪を発つ時、虚空が光ったと云々。

二十八日辰の刻(午前八時頃)、秀頼公は入洛され、すぐに家康公の御所である二条に御越しになった。
家康公は庭上まで出られ、秀頼公も慇懃に礼謝された。

家康公が座中に入られた後、秀頼公は庭上より座中に上がられ、先ず秀頼公が御成の間に入られ、
その後、家康公の出御があった。
互いの御礼有るべきとの旨を家康公は仰ったが、秀頼公は堅く斟酌有り、家康公が御成の間に
出奉り、秀頼公は礼を遂げられた。

膳部はかれこれ美麗に出来ていたのだが、還って隔心があるだろうかと言うことで、ただお吸い物
までであった。
大政所(これは秀吉公北の方也)も出られ相伴された。

その後、秀頼公はすぐに発たれ、右兵衛督、常陸介が途中まで送った。
秀頼公は直に豊国社に参詣され、大仏を見られ、伏見より船にて、その日の酉刻(午後六時頃)、大阪に
帰着された。大阪の上下万民については申すに及ばず、京畿の庶民の悦びはただこの事であった。
この時も大阪に光が出たと云々。

当代記

秀頼と家康の二条城会見について



どこもかしこもみなやけ申候

2019年01月05日 18:20

566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/04(金) 21:11:35.24 ID:+NkA4Ls3
どこもかしこもみなやけ申候


以下は元和7年1月に江戸の徳川義直の新邸から出火した火事について
13歳の池田光政が国元にいる父・利隆の乳母・栄寿尼に報じた手紙。

________________________________________

一ふて申し参らせ候。
こゝもと正月廿四日のなゝつぢぶんからおわりのちうなごん様(徳川義直)、
なへしま(鍋島)、くない(池田忠雄)、扨、まさむね(伊達政宗)、もりいまさか(森忠政)、
おれかやしきはかりやけす候、さこん殿(池田輝澄)、うきょう殿(池田政綱)、
てらさはしま(寺沢広高)、廿四日の七つちふんからひるの四つしふんまてやけ申候、
どこもかしこもみなやけ申候めてたく、かしく。

   正月廿四日        新太  幸隆(花押)
      うはゑいしゅ 参

     おわり(尾張)     みと(水戸)       きの(紀州)
       △            △            △
              このふたついゑはのこり候

めんめんに文にてもかへすかへす申候、はんすれとも
いそかしく候間まつ此むきにて候、かしく。
________________________________________

大名屋敷が25軒も燃える大火事で他にも上杉、毛利、島津などが焼けたらしい。



567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/04(金) 21:35:36.19 ID:0RJw0w3F
子供にまで"まさむね"と書かれるのか

成瀬正成、名誉の挨拶

2018年10月10日 19:35

332 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 15:33:48.10 ID:ATyzqMd8
成瀬正成、名誉の挨拶


駿府にて東照宮(家康)が加藤清正に、常陸守殿(頼宣)、紀伊殿(浅野幸長)を
御縁者とするよう仰せ付けられた。
これは、常陸守を清正の婿にした以上は他の子息(義直)も同様にするように
(=義直の舅の幸長とも縁者になるように)との仰せ付けであった。

御次の間に清正が出たとき、清正に御当家(池田家)の家臣衆が
「只今の(家康の)仰せられ様には、きっとご満足されたでしょうね」
と申すと、清正は
「もちろんありがたいことですが、秀吉公の昔の厚恩は忘れられません」
と申したので、御当家の老臣はそれに対して挨拶することが出来なかった。

そこに成瀬隼人正(正成)が
「その思し召しは至極ごもっともですが、家康公の御恩を蒙った者も同様に
 家康公の御恩を重く思っているのです」
とたちどころに申されたのは"名誉の挨拶”であった。


――『烈公間話』


明主の賢慮は推量し難い

2017年03月17日 07:47

720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/16(木) 23:45:21.45 ID:vrpWz8g8
徳川家康がある時仰せに成った
「右兵衛督(徳川義直)、常陸介(徳川頼宣)の両人に、近日武具着初めをさせるので、
あらかじめ準備しておくように。」

御武具方はこれを承り。黒糸縅の甲冑、ならびに弓矢、陣太刀、鞭、采配、軍配扇など、
注文通りに揃えた。

その頃、この武具着初めについて下々からは
「現在、右兵衛督殿の御爺などと称せられている平岩主計頭親吉は、それほど高名は聞こえないが、
上の御覚え他に異なり、また常陸介殿に付けられている安藤帯刀は、武勇冥加の侍であるから、
きっと両殿の御武具は、この両人が召させるのであろう。

尤も平岩は戦場に勇ある人物ではあるが、安藤と比べては、なかなか同日に論ずることができる者ではない。
そもそも公達などの御武具御召初めは、勇功あって武の冥加ある侍にあやからせ給うようにと、
専らそういう人を選ぶものだ。安藤は一日の内に二人の大将の首を獲た武勇の人であるから、言うに及ばず。
一方の平岩は、上意ではあったが、かつて一家の主親たる水野下野らを討ち、また三郎信康殿の
御母堂築山殿御生害の事を取り計らうなど、あまり吉兆のある人ではない。そういう人に若君などの
御武具召させ初めるというのは、いかがなものか。」

そのように言い合っていたが、当日に至ると、義直、頼宣の武具を、父である徳川家康が自ら
召させるとの上意にて、兄弟は同日御前にて召させられた。下々の予想は全く間違えていたのである。

しかし岡崎三郎殿以降の公達は数多居たと言うのに、家康自ら武具を召させる事は無かった。
それが今度このように計られた神慮は計り難い。兎にも角にも、優れて御愛子ということだろうか。
何れにしても、明主の賢慮を下々は推量し難いということだ。

(武野燭談)


大人・公子の御身として、幽霊女の真似など

2017年03月14日 17:39

665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/14(火) 17:34:44.98 ID:T6KbAzrH
ある年のこと、尾張大納言徳川義直の元に酒井讃岐守忠勝が訪問した時、馳走にと
嫡男五郎太殿(後の徳川光友)による能興行があった。
この時、五郎太の手の舞い、足の踏む所、自らの拍子を、『讃岐守はきっと感賞するであろう』と、
義直は自慢げに見せるのを、忠勝は一切褒めず

「勿体なき大事の御身でございます。どうぞ余人に仰せ付けてください。すでにご器用なのはよく解りました」
(勿体なき大事の御身にて候。只余人に仰せ付けられ候へ。最早御器用の程は見え申したり)

と、しきりに止めようとした。立ち返ってから

「武家は何度も武を賞賛されることこそ本意である。大人・公子の御身として、幽霊女の真似など、
全く益がないではないか。」
故に全く感心できなかったのでやめるよう言ったのだと、成瀬隼人正正成に語ったそうである。

(武野燭談)


666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/14(火) 21:27:44.11 ID:BQ1j7HGy
でも武を見せつけると謀叛の疑いをかけらるんだろ

江戸御旗本・尾張・紀伊は“御三人”と称され

2016年10月19日 16:24

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/19(水) 01:36:00.64 ID:Kwj3E/7X
東照宮(徳川家康)の御子達多き中で、紀伊頼宣君は、その御器量天才
にして、只の尋常の御性質ではあられず、

そのところを東照宮は御覧になられて御寵愛は浅からず、尾張の義直卿
と紀伊頼宣卿とは、「天下左右の固めであると思し召されるように」と、

堅く御遺言なさったことにより、江戸御旗本(徳川将軍家)・尾張・紀伊は
“御三人”と称され、三家一体の御高家であった。

――『南竜言行録』

水戸家ェ…



226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/19(水) 02:18:39.13 ID:M/r/pRYO
当初は水戸の立ち位置が不確かだったような
今ではそんな水戸の血筋が宗家だけど

227 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/19(水) 04:25:34.69 ID:gmsZuxDH
>>225
元々そうでしょ
悪い話でもなんでもない。
途中から将軍家除いて水戸を加えた方がいい話だか悪い話だかになるんじゃないのかな

228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/19(水) 15:21:25.87 ID:2lnbE035
そりゃ水戸家は紀州家の分家扱いだったって言われるぐらいの格下だしな
まったくのフィクションだと分かっていても水戸黄門でじーさんが紀州に乗りこんで偉そうにしているの見て、哀れに見えたわ

230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/19(水) 20:04:17.78 ID:vD6BiNk0
>>226
今の徳川当主は会津松平家だけどな

231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/19(水) 21:00:20.81 ID:qTJ2VxIA
男系血統的には水戸徳川→高須松平→会津松平→徳川宗家という流れ

232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/19(水) 21:26:49.25 ID:qTJ2VxIA
尾張徳川は鍋島血統の堀田が継ぎ
紀伊徳川は断絶の危機
水戸徳川は現在も男系血統が続き、宗家も含め各連枝にも水戸血統が多い

どうしてこうなった

233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/19(水) 22:39:27.14 ID:eiQrfX7O
>>232
だいたい烈公斉昭のせい

この人も公私に渡ってDQN四天王に次ぐアレさ…

だからこそ、神君も常に

2014年06月14日 19:08

132 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/14(土) 16:04:01.80 ID:bFC8NySH
さて、慶長年中に秀頼公と神君(徳川家康)との御対顔があり、
その時、秀頼公が大坂城から神君の御在所の二条の城へ行く途中、
加藤清正と浅野長政とが高股立ちの姿で秀頼公の乗輿の左右に付いた。

二条の城から御迎いとして神君の御子息の義直卿、頼宣卿の御両人が
途中まで出られたのだが、日傘を使っておられたのを清正は見て、
「無礼です。その日傘をお止めなさい」と言って止めさせた。

当時、神君の御威勢に向かってそんな事を申す者が他に誰がいるだろうか。
万一申す者がいるとしても両卿がどうしてその言葉に従いなさるだろうか。
清正だからこそ、そのような事をも申し、両卿もその言葉に従いなさって
日傘を止められたのである。

この一事で清正が尋常ではないことを万事察知できる。
だからこそ、神君も常に清正を御褒めになったのである。

――『明良洪範続編』




133 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/14(土) 16:44:56.69 ID:Fbc8clkM
だからこそ、次の代で家を御滅ぼしになったのである。

本当にご苦労なされることだ

2013年10月18日 19:05

366 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/18(金) 11:12:41.90 ID:z502H7GH
大阪冬の陣でのこと

士寄(攻城用陣地)の構築や、合戦における諸事の手立てについて、藤堂高虎は巧者であるため
見習うように、との徳川家康からの上意で、家康の息子である尾張徳川義直、紀伊徳川頼宣、水戸徳川頼房
3人が同道して、藤堂高虎の士寄場を見学した。

この頃藤堂高虎は、ためし兜にためし具足(仮の武装ということだろうか?)を付けて、
毎日昼夜を問わず、銃弾避けの竹束の下に出て、士寄の工事に関わる全てのことを現場で下知していた。
この事に工事をしている下々も

「もうお年も寄られているというのに(当時58歳)、本当にご苦労なされることだ。」

と、感じ入ったそうである。

(西嶋留書)

さすが藤堂高虎は戦国の土木建築の巨匠なのである。




368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/18(金) 14:04:41.12 ID:si0X43mw
たぬき「いや、実用的なものじゃないといけないだろうjk」

369 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/18(金) 14:27:24.17 ID:ZfsiqCJa
士寄と書くのは初めて見るけど原文からそうだったんだろうか

水野家の家風

2013年09月13日 20:24

311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/13(金) 09:17:32.35 ID:FJ+vx4u1
まとめに載ってる話の別バージョンを見つけたので

水野家の家風

岡崎城主水野忠善は、朝は4時から5時のあいだに起き、冬は自分で氷を割って頭を洗い髷を結う
明け六つの太鼓を待ち構え乗馬訓練。毎日2、3頭は乗りこなし
質実剛健を合言葉に、家中にも厳しく武芸の訓練を言い渡した

ある日、名古屋城の掘端を、深編笠の不審な男が、しきりに城の様子を探っていた
鉄砲玉を結びつけた紐を掘りに投げ込み、大胆にも堀の深さを測り始める
それを見た徳川義直は怒鳴る
「こんな大それたことをする奴は、岡崎の忠善しかおらん!何者であっても打ち殺せ!」

忠善は、岡崎までの道中に用意しておいた七頭の馬を乗り継ぎ
追っ手を振り切って一目散に逃走
岡崎城の大手門を通り抜けようとした時
「何者だ?待て!」と門番の武士が追いすがり、たてがみを掴んだ
忠善は構わず馬を走らせ、門番は引きずられながらも手を離さない
二の丸近くになって、主君と気づき手を離した門番に
「下馬所まで手を離さなかったら、百石ほど増してやったのに」
と流れる汗も拭いもせず、のたまったそうだ。

--『岡崎の歴史物語』より--

大手門から二の丸まで1km弱あるんだが…




312 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/13(金) 10:04:09.96 ID:sbwWR3sQ
名古屋城を探るって何を考えてたんだろ?
それも城主の目の前で。

313 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/09/13(金) 11:59:23.41 ID:WzibEuwq
水野忠善が堀を測る話は、池波正太郎の『戦陣眼鏡』って短編が好きだな。
戦が終わった時代に産まれた殿様の哀れさというか、かわいさというか、そんな感じがよかったなー。

314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/13(金) 12:27:33.25 ID:72lGd9ja
この頃にはもう御三家なんて将軍家から見ると逆に安心出来ない存在になってたんじゃないだろうか

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/13(金) 12:32:27.55 ID:dJ/wW2me
尾張と紀伊は覇気に満ちた性格してるしなw

正成が日頃望んでいたのは

2013年07月07日 19:02

629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/07(日) 18:41:06.62 ID:ZcdGcfU1
成瀬正成徳川家康の近臣で、尾張の徳川義直に付けられ、
義直に対しても忠勤を尽くして仕えた。

正成が日頃望んでいたのは「恐れ多いことだが、死後には尊神(家康)の
御かたわらに侍りたいと思う」ということだった。

程なく正成が身罷ると、義直はその志を思って遺言に違えず亡骸を日光山に送った。

その死の三日前の事。天海は「今朝神祠に参ったところ、正成がここに来て
神君の御前に侍っているのを見た。正成は近いうちにきっと身罷ると思う。
まもなくやって来ることだろう。本当に哀れなことだ」と言って涙を落とした。

――『東叡山開山慈眼大師縁起』





諸大名への拝借金顛末

2012年08月18日 20:50

46 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/18(土) 14:04:03.68 ID:q5nYetVq
権現様(徳川家康)は(将軍職を秀忠に譲って)駿府に移られる際も、万事質素に隠居成されたため、
御他界なさるまでに百萬両に達する貯金を作られた。
その内から尾張殿と紀伊殿に三十万両づつ、水戸殿へ十万両を御遺金として進呈され、残りの三十万両は
江戸の御金蔵に入れておくべきか伺いを立てたところ、そのまま駿府に残しておくように、とのことであった。

大納言忠長卿(秀忠次男)が駿河を拝領された時、この三十万両はおそらくお城に付いているものであると
皆思っていたが、この資金の所属についての明言がなかったので、忠長は幕府の御金を預かるのは迷惑であると
申し入れ、久野の御宮に御金蔵を作りそこに移した。これを世間では久野の御金と呼んで莫大な額があるように
言っていたが、ただ三十万両ではなかった。
それは尾張殿の江戸上屋敷が失火で消失した時の普請料として十万両、紀伊殿の和歌山城普請の時に十万両、
水戸殿には三万両を、それぞれ拝借が認められ、その後少しずつでも返済いただきたいと、幕府の勘定方から
お願いすると、尾張殿からの返答は

「私が拝借した御金はもともと権現様がご隠居料の中から貯えられたものであり、ご他界された時、遺金として
我々兄弟三人への御譲金の残りであり、それを我々が拝借したのだから返納する必要はない!」

と拒否し、紀伊殿、水戸殿も拝借金に対しては沙汰無しとなってしまった。

当時はその他の大名衆にも拝借金が認められていて、それぞれの借金は決まった通りに必ず返済されていた。
ところが伊達政宗の借金返済が滞ったので、これまた幕府勘定方より催促したところ、陸奥守忠宗からは

「私の代では拝借をしておらず、亡父政宗の代に借金があったとのことですが、どういう経緯で借金をしたのか
今は解りません。親の代に借りた御金ですから、親が生存しているうちに返上を申し付けられるべきなのに、
その時は放置しておいて私に返上しろとは、全く迷惑な話です!」

そう言って返済しようとしない。
また譜代大名の松平越中守の方でも拝借金返済が滞っており、これにも勘定方から催促すると、越中守は

「前に拝借した時、私の方からさし上げた証文があるはずなので、それを見えてもらえるか?」

と言うのでこれを取り寄せると、越中守はそれを見て

「うむ!私の覚えているとおりだ!皆もここに見えているように、『御貸し下され有難く存じ奉る御金の事』と書かれている。
これは『拝借を仰せ付けられた』とは私の解釈では『拝領を仰せ付けられた』ということなのだと考え一言書いたものである。
従ってこれは、返上の必要はないと思う。」

と、これもまた返済しようとしない。
この様なことがあったので、幕府からは今後もう、諸大名への拝借金は認めない、と言うこととなった。
(駿河土産)

言を左右にして何とか借金から逃げようとする大名たちのお話である。




47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/18(土) 14:15:07.86 ID:XzgT6NJu
これが武断政治の実体か・・・

48 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/18(土) 14:17:17.73 ID:uY5jsbIY
ジュニア世代も立派に育ってるなぁ、感動した;;

49 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/18(土) 14:30:28.20 ID:HjX195iS
福島正則の改易とか結構厳しいイメージがあったから意外だった
借金を理由に伊達を取りつぶせばよかったのに
抵抗したら奥州征伐で。あの時代の武士って戦無かったからちょうどいい演習になるしな

50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/18(土) 14:33:13.22 ID:lBc6ZGAR
あの時代だからこそ穏便にすまそうと思ったんじゃないの

戦を経験した人も少ない時代だろうし

51 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/18(土) 14:38:59.19 ID:54p/53yT
>>49
取り潰されるのは五人目の四天王。
四天王は潰されない。
完璧超人だからw

52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/18(土) 15:28:20.03 ID:UpumMJAU
津山は取り潰されたじゃん

53 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/18(土) 15:52:49.91 ID:Wbfacg1H
江戸の人口を仙台からの米が支える構図がこの時期どのレベルだったかよく知らんけど
幕府が伊達とケンカして米の流通滞ったら物価経済の混乱で借金額なんぞとは
比較にならん損失出るんじゃね?

54 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/18(土) 16:42:22.73 ID:nlJ9mhVm
でも下手すると直轄地にされる諸刃の刃

55 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/18(土) 23:04:37.98 ID:aSk0UUbR
借金踏み倒すってなんかムカつくな
全部取潰してやればよかったのに

56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/19(日) 02:10:15.36 ID:v7aAzoIl
金は卑しいものという意識が当時はあったみたいだし
幕府としても、金のことで揉めるのはみっともないという考えがあったのかもね。

現代の感覚だと借金はどんなことをしてでも返さないといけないって感じだけど
当時の感覚とは相当な隔たりがあるんだろうな。

57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/19(日) 03:45:56.60 ID:wK/xOXfA
犬千代さんなら追込み掛けるんだろうな…

58 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/19(日) 04:00:28.72 ID:VzY311M/
犬千代さんなら政宗が死んだ段階で借金の証文を燃やすだろ

59 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/19(日) 10:06:15.52 ID:+GSIWw/p
まつ「うちの旦那なら…」

60 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/19(日) 10:53:47.82 ID:7Kz0Em/i
あれ?細川さんどちらへ?