fc2ブログ

「武家閑談」から徳川頼宣の詩歌

2023年02月26日 16:26

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/25(土) 20:25:06.11 ID:iwVM1kCD
武家閑談」から徳川頼宣の詩歌

頼宣公、江戸御参勤のみぎりに伊勢の高見山(神武天皇の八咫烏の導きによる東征伝説の舞台)を越えられた時
頼宣公「武士(もののふ)の弓箭(ゆみや)とる名の高見山、猶幾度も越んとぞおもふ」
また芳野へ花見に登山なされた時、雨が降り旅宿で手持ち無沙汰となったため、浜田という医師などが御伽として連句を行った。
浜田は当座に
「不思廬山雨、為君開百花(思わざりき廬山の雨、君の為に百花を開かんとは)」※「不憶廬山雨、為君湛百花」というバージョンも
と一句をつかまつると、頼宣公は
「堪斟盤谷水、対客喫新茶(斟むに堪えたり盤谷の水、客に対ひて新茶を喫す)」
と詠まれたという。

浜田が使った字が「湛」の場合、「堪」「斟」とわざと「甚」がつく漢字を使ったことになる
また「盤谷」で検索するとタイの首都バンコクの漢字表記と出てきたが、韓愈の「李愿の盤谷に帰るを送る序」に出てくる
「太行の陽(みなみ)に盤谷あり。盤谷の間、泉甘く土肥ゆ」の方だろう。



スポンサーサイト



「武家閑談」から島原の乱の時の徳川頼宣

2023年02月24日 19:17

679 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/23(木) 19:40:08.37 ID:0RbDe1Xr
武家閑談」から島原の乱の時の徳川頼宣

寛永十五年(1638年)二月二十一日の夜、島原の城から黒田、寺沢、鍋島勢に夜討がなされ、黒田忠之の究竟の侍数十人が討死にしたと江戸へ注進があった。
鍋島も「井楼や竹束なども焼かれた。なかなか城方の一揆勢は強い」と告げてきた。
御三家もそのため江戸城に登城し、諸大名も皆どうしたものかと思案していると、
紀伊大納言頼宣卿、御一人はその知らせを聞き
「さてもめでたい事である。近日中に城は落ちるだろう。
鍋島は井楼を焼かれたとはいえ、城内におる者どもの武官としての器量のほども知ったと見える」
とおっしゃると、諸大名は皆々こころえぬ顔をしていた。
そうこうしているうちに落城を告げる使者が来たため、諸人は頼宣卿に深く感心したという。



予が十四歳の事が複あるべきか

2022年04月28日 18:12

160 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/28(木) 15:35:02.06 ID:HeXbkUKV
慶長二十年(1615)五月七日、大阪夏の陣、徳川頼宣卿は大御所(徳川家康)の元に向かうため
頻りに諸軍を進めていたが、喉の乾きを凌ぎかね、馬上より水を乞われた所、三浦長門守邦時の付け人である
柾木清兵衛という者が、馬柄杓にて水を汲んで差し出すと忽ち飲んだ。

大御所に御対面されると、大御所は頼宣卿の髪を撫でられ
「今日はその方等に首を取り飽かせる事が出来なかった。残念である。」と仰せになった。

頼宣卿答えて
「御先手を承らなかった故に、詮無き道に刻を移し、戦に臨めなかったこと、無念至極です。」
と申された。

これを聞いた松平右衛門太夫(正綱)が、
「今日、手に合わすことが出来なかったとしても、御若年なのですから、今後幾度も合戦に遭うでしょう。」
と慰めたのだが、頼宣卿は

「私が十四歳のこの時は、再びは無いのだ!(予が十四歳の事が複あるべきか)」
と、頻りに落涙あって、怒り給いけるとかや。

新東鑑



161 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/28(木) 15:51:14.83 ID:9a1G/Nyl
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-709.html
徳川頼宣の初陣・いい話

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3364.html
徳川頼宣「わーん!わーん!」

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9708.html
遅しとあるは、上意とも存じ奉らず

似たような話はいくつかあったっけ

横田大学の事

2021年09月27日 17:54

74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/27(月) 12:55:44.38 ID:RPHVWC63
徳川家康による会津征伐への発向前、藤田能登守(信吉)取次にて、御所様(家康)より上杉家中において
御存知の輩には、御内通の御書を下され、今度は沼田を限り、奥へ御働きなされることにより、
『裏切りの手を合わせ候へ』との御意があったが、上杉家中の面々は御書を反し進じた者もあり、
また有無の御返事を申さなかった輩もあった。

横田大学は年来御所公と懇意であったので、殊更この時、御懇ろに書を下されたのであるが、
大学はつくづく考えた
「私は、古は大身であったが、秀吉公が関東に打ち入られ、その時本領を放れて浪人した。
今は僅かに二千石だが、上杉景勝に懇意にして頂いている。

只今景勝は小勢であり、御所は数万騎にてこれに取り懸かる。侍たる者が主を捨て、敵方に書を通ずる
ような事は、有るべき儀ではない。」
そう思い、御請の書状を差し上げなかった。

関ヶ原合戦の後、景勝は小身になられ米沢に移られたため、大学も浪人し、駿河へと参った。
そしてその事は城和泉守(昌茂)の取り持ちで、家康公の御耳に達したのだが、召し抱えられることは
無かった。
しかし大阪御陣の時、家康公は南光坊(天海)に対して「横田大学は現在何方に居るのか」とお尋ねに
なられた。その時分、彼は出羽に下り居た。

御所様も大学を勇者と思し召されていることを、この時紀伊大納言頼宣卿が聞き召された。
その時分は常陸介と申し奉り、未だ十三歳であったが、勇知厚き御器量にて、名のある武功の侍を
御所望の御心深く、「何卒、大学を召し抱えたい」と思し召し、板坂卜斎を以て柳生但馬守(宗矩)に
内意を仰せ入れられ、そして但馬守は伊達政宗に大学のことを尋ねた。
但馬守は、あたかも自分が聞きたいために尋ねているようにしたが、これを政宗聞いて

「この大学は人も知りたる者です。一万石ばかりにて堪忍致されるのであれば、私も望みに存じます。」
と返答した。
「奥州においては千五百、二千の大将になり、度々の合戦に勝負致し、敵城をも攻め落とし、我が城も
攻め落とされたこと数十度であり、慥かなる武士です。」と、政宗は物語した。

但馬守はこれを卜斎に語った。卜斎はこの事を常陸介頼宣も(以下欠)

(杉原彦左衛門覚書条々)

原典で最後の方が欠落しているらしく、このあとどうなったのか解らないお話。



75 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/27(月) 13:30:37.94 ID:AugSLeoP
>>74
https://aizufudoki.sakura.ne.jp/zakki10.htm

こちらによると、「新編会津風土記」には最上家に仕えて例の騒動の時にお家存続のために色々頑張ったけど甲斐なく最上家は改易。「横田系譜」では62歳で病死したとか

あと、山内一豊と同一人物説を説くものもあるとか。

76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/27(月) 15:46:21.69 ID:MAPLbMjJ
天海、蘆名氏つながりで蘆名家臣の横田大学(山内豊政)とも親しかった説

79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/27(月) 21:49:18.14 ID:8YXrZf7I
横田大学本人ではないが、
大学の孫が真田松代藩に仕官してる
重文・旧横田家住宅はその旧居

島原の乱勃発時の諸侯の議と紀州藩が派遣した武士十八人について

2021年09月26日 16:21

591 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/26(日) 10:22:41.39 ID:mrf8lI+2
島原の乱勃発時の諸侯の議と紀州藩が派遣した武士十八人について

何か荒れてるので一応、南紀徳川史、巻二の寛永十四年十一月の記録の引用をコピペしますね。
(武将言行録ベースでないと思われる。)

十一月、嶋原賊起、将軍召三親藩、及諸侯議、
義直公曰、何者愚民及敢驌聚、可一鼓而屠也、
公曰、不然、彼戦有法、決非愚民所能、未易軽也、
眞田信幸曰、紀候言是也、臣父嘗以孤城、抗大兵大、
頗有斬獲、小寇豈可食侮哉、
於是使板倉重昌討之、命西海諸侯、公、遣長尾一在、山中友俊、市川清長、荒木高重等、赴役、

ここから注釈
(按ニ此時役ニ赴シハ長尾勘兵衛父子三人、吉田三右衛門、山中作右衛門、中嶋勘兵衛、荒木十右衛門、
 岡崎治左衛門、黒木興一左衛門、戸田興一、向井五郎八、芦川権太郎、森角左衛門、畔柳五郎右衛門、
 稲生長兵衛衛、片桐市大夫、山本市右衛門、市川勘右衛門等、
 余少カラス而シテ長尾勘兵衛、山中作右衛門ハ最軍功ヲ顕シ片桐市大夫ハ石川左門手ニテ討死、
 又井関又助男六助、四男彦三郎、五男孫四郎兄弟三人共、又助壱封ヲ残シ置出張、
 松倉長門守手ニ属シ六助彦三郎共討死孫四郎ノミ帰国、軍功ニヨリ新規五十石ニ被召出ノ事アレバ、
 子弟壮年ノ輩ハ、働稼キノ為、競テ出張ノ者モ多カリシナルベシ悉クハ知ルベカラズ)

注釈部分の前半十八人の内数名はやや名前が異なる者がいるものの、
松平信綱の嫡男輝綱がまとめた『嶋原天草日記』にも紀州公から遣わされ、
信綱一向に同道して現地へ赴いたという記載があるようなので紀州藩の記録としては
後世の改ざんとかは無い様に思われます。

あと、記録されてないけど後半に名前が出ている井関又助の息子3人以外にも勝手に出張って現地で戦った者が紀州藩にはいるみたいです。
先に書いた尾張大納言と紀州大納言の発言、そして真田信之の発言をただの逸話と見るか、実際の出来事と見るかは
各々の判断かと思いますが、南紀徳川史にはこういう記録も記載されているようです。

600 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/26(日) 14:33:41.85 ID:mrf8lI+2
>>591追記

寛永十四・十五年(島原の乱)当時の藩と島原の乱出兵状況(稿)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/sgba/6/0/6_KJ00008545539/_pdf/-char/ja

こちらを読むと、北は仙台藩、東は水戸藩、南は紀州藩と土佐藩、西は長州藩などが島原の乱に使者を派遣し、中には使者なのに討伐軍に混ざって戦った記録がある様です。

ちなみに徳川義直公の尾張大納言家からは使者の派遣・参戦記録は無い様です。

仙台藩の使者の1人は戦後に加増、紀州藩からは18名が参戦したほかに徳川頼宣公の指示で軍船が大坂に派遣されて輸送の役を負ったりしたほか、井関又助の息子3人の様に勝手に参戦した藩士が多数居るみたいです。
あと、戦後松倉家の家臣だった佐野惣左衛門と息子の七左衛門を召抱えたりしたとのこと。佐野親子の戦いの記録は『嶋原覚書』とか『佐野弥七左衛門覚書』として『南紀徳川史』と『島原半島史』に所収されているとのこと。

ちなみに徳川頼房公の水戸中納言家から派遣された使者は戦後、勝手に戦ったことを理由に罰せられたそうです。
水戸家の使者(´・ω・)

水戸家などの使者について参考資料(2P目の(3)部分より)
https://kaken.nii.ac.jp/file/KAKENHI-PROJECT-20520198/20520198seika.pdf
※PDF注意



紀州大納言 vs 尾張大納言 with 真田のお兄ちゃん

2021年09月25日 15:55

573 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/24(金) 23:51:44.97 ID:AIMjDuGE
紀州大納言 vs 尾張大納言 with 真田のお兄ちゃん

南紀徳川史』より、島原の乱が起きた時のこと。

将軍・徳川家光のお召で徳川御三家の三人に大名旗本巧者の面々が登城した。

その席で尾張大納言・徳川義直は島原蜂起の一報に対し

「何物ぞや百姓どもの分際にて何程のこと有るや。踏みつぶすに手間取るまじき」

と述べた。これに対して紀州大納言・徳川頼宣曰く

「左様にては無之候。古の諺にも外の百人を以て内の一人を難窮と申候に万斗の凶徒ら必死に立て籠もり候を手軽にはなり兼申候
 殊に天草富岡城攻、本渡合戦の仕方聤兒志桓にての勢配り唐子表より陣払いの躰嶋原にては瀬野合戦三江杉谷表の兵糧論の体百姓計の
 仕方と不存候如何様御手間入可候」

要するに天草の一揆軍を愚民の反乱(プゲラ)ザーコザーコと完全に侮る尾張大納言と、伝え聞く一揆軍の戦いぶりは舐めたらアッカッンー(舐めたらアッカッンー)と
諫める?(反論する?)紀州大納言の構図である。

これを近くで聞いていた人物がいた。

信州松代藩主・真田信之(71)であった。二人の言い分を聞いていた信之は

「軍の儀は左様にては無御座ものにて候。むかし亡父の安房守・昌之御意違ひ権現様より御譜代歴々一万五千にて信州上田城へ御取懸被成候我等二十三歳にて
 父安房守昌幸か先手致し候一戦に打勝候御人数を加賀川迄追討に四百計首を取申候御譜代歴々の鎧の推付を見申候其時の様子尾張さま御家老成瀬隼人可存候。
 我等了簡には紀州さま御意御尤と奉存候」

このように述べた。

意訳するとお前らの親父の譜代の兵一万五千に攻められたとき俺二十三歳で親父の先手務めたけど、勝って首400取ったわ。尾張大納言の家老・成瀬隼人がその時のことよく知ってんよ。
あ、俺たちの考えとしては紀州大納言の意見が尤もだと思いますよ。

尾張大納言はこれを聞いて咳をした。

お兄ちゃん、成瀬隼人正正成は12年前に死んだでしょ。と思ったけど知らなかったのかもしれないし名将言行録由来の話のようだし、あからさまに南龍公贔屓な内容だと
思うのでその辺も考慮する必要はあるかと思うが、島原の蜂起に対して楽観視する尾張大納言・徳川義直とそれに異を唱えて慎重論を唱える紀州大納言・徳川頼宣に、それに加勢しつつ
自家の武功をガッツリアピールする信濃のお兄ちゃんであった。

自らを慕ってくれる南龍公をアシストしつつお家自慢も交える真田信之の要領のいい?お話。




576 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/25(土) 11:30:43.08 ID:X1yrL8my
>>573
これ作り話で、真田ごときがこんな事言ったら取り潰しです

577 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/25(土) 12:24:03.58 ID:J4tl1FN+
>>576
逸話スレでそんな野暮天言いなさんな

578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/25(土) 14:30:19.10 ID:rYrwbmjl
>>576
こういうのは「じゃあ何でこういう話が伝わったのか」を考えるのが大切

579 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/25(土) 14:48:59.86 ID:aHWiSKfx
なんで?>南龍公をageたい
問題点>碌に実戦経験が無いのは南龍公もだから反論の説得力に欠けるな
解決策>ベテランの戦国武将に同意させれば説得力が生まれるな
対象者>南龍公と関係があって徳川とも戦った真田信之が適任であろう

こんな感じで産まれたんだろうか

581 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/25(土) 15:04:37.24 ID:yrJbFXGK
>>579
南紀徳川史自体が明治に紀州徳川当主によって編纂されたものだし、この逸話も本編末くらいにある様に名将言行録ベースの逸話なので紀州徳川ageのためそう言う風に書かれているとは思う。

尾張徳川義直の発言も実際はニュアンスが違ってたかも知れないけど、恣意的に思うし。

真田信之は自家が権現様の大軍相手に大勝した例を出して、一揆を侮ってはいけないと言う風に諭してるのだと思う。

でも、事実を言ってるだけなのでこの程度では>>576の言う風にお取りつぶしにはならない気もする

名誉の返答であった

2021年04月19日 17:40

126 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/19(月) 14:59:21.84 ID:GCe/x5AD
加藤清正は常陸守殿(徳川頼宣)の御縁者を仰せ付けられた。
東照宮(家康)の仰せに(駿府に於いての事也)
「常陸守の事、清正の婿に申し合わせた上は、諸事子息同然に心得給え。」

清正が退出し御次間へ出た時、彼に御当家(徳川家)の家臣衆が申した。
「只今の仰せについては、定めてご満足であったでしょう。」

清正は云った
「尤も、忝なく存じています。さりながら、昔の秀吉公の御厚恩は忘れ奉りません。」

御当家の老臣達は返答の仕様もなく居た所に、成瀬隼人正(正成)が間に入り
「その思し召し、御尤も至極であります。又家康公の御恩を蒙った者も、またその通りに
家康公の恩を重く存ずるのです。」

と申した。名誉の返答であった。

烈公間話



129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/22(木) 00:58:17.21 ID:Tox4w0bR
>>126
なんで徳川の縁者になったら秀吉の御恩を忘れるということになるの?
秀頼自体が徳川の縁者なのに

130 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/22(木) 07:34:02.37 ID:ard2cif5
表面しかモノが見れないのね

131 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/22(木) 08:16:09.72 ID:0Qbsx+fU
そもそも秀頼なんて秀吉の種じゃないだろって当時の人も思ってそう

謡を忘れないように

2020年11月26日 16:49

725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/25(水) 22:49:42.84 ID:yU8rReX6
謡を忘れないように


慶長14年(1609年)4月28日、駿府城の三の丸で、家康の息子の徳川頼宣(このとき8歳)と
池田輝政の息子で家康の孫にあたる忠継(11歳)、忠雄(8歳)、輝澄(6歳)で能が行われた。
このとき、忠継は母や兄弟と共に駿府に来た後、一度江戸に上りまた駿府に下って能をし
同年5月には四品に叙せられた礼として参内しているので江戸での叙任のお祝いとしての興行だったのだろう。
(寛政重修諸家譜によると叙任したのは慶長13年としているが間違いだと思われる。)

『伊達文庫 古之御能組』によると、能組は三輪・船弁慶・皇帝を頼宣、翁、鶴亀、江口、葵上を忠継、
車僧・経政を忠雄、猩々を輝澄が務めたという。(いずれもシテ)
この催しに関する池田輝政の書状が残っている。能が武将の嗜みとして重要だったことが窺える。

【鳥取県立博物館蔵池田輝政書状】
今春(金春)と話しましたが、近頃はいよいよその通り(能稽古を)専一にしているそうですね。
常陸殿(頼宣)も能をされるそうなので、事前に能組を尋ねた後でこちらの能組を決めて
内々に(家康の)御目にかけてもよいよう、万事落ち度のないようにするのがもっともです。
(こちらが)源氏供養をするのは無用かと存じます。また、能はまちがいなく一日中でしょう。
勝五郎(忠雄)は車僧がよいですが、常陸殿がされるのならば仕方ありません。
謡を忘れないように合間合間に油断なく稽古をするのがもっともです。

  卯月十九日    三左衛門(池田輝政
         おしん 参る
                  以上
尚々能の数なども事前にどれだけかその意を得て、おりへ、伊予に右の通り藤松(忠継)の
稽古のことを申して下さい。已上



秀頼と家康の二条城会見について

2020年08月31日 17:17

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/31(月) 13:27:20.93 ID:ybV1B4VU
慶長十六年三月二十七日、豊臣秀頼公が大阪を発って淀に到着され。これの迎えとして
右兵衛(家康公息、年十二歳(義直))、常陸介(家康公息、年十歳(頼宣))、并びに
池田三左衛門(輝政)、加東肥後守(清正)が淀に参向した。
秀頼公が大阪を発つ時、虚空が光ったと云々。

二十八日辰の刻(午前八時頃)、秀頼公は入洛され、すぐに家康公の御所である二条に御越しになった。
家康公は庭上まで出られ、秀頼公も慇懃に礼謝された。

家康公が座中に入られた後、秀頼公は庭上より座中に上がられ、先ず秀頼公が御成の間に入られ、
その後、家康公の出御があった。
互いの御礼有るべきとの旨を家康公は仰ったが、秀頼公は堅く斟酌有り、家康公が御成の間に
出奉り、秀頼公は礼を遂げられた。

膳部はかれこれ美麗に出来ていたのだが、還って隔心があるだろうかと言うことで、ただお吸い物
までであった。
大政所(これは秀吉公北の方也)も出られ相伴された。

その後、秀頼公はすぐに発たれ、右兵衛督、常陸介が途中まで送った。
秀頼公は直に豊国社に参詣され、大仏を見られ、伏見より船にて、その日の酉刻(午後六時頃)、大阪に
帰着された。大阪の上下万民については申すに及ばず、京畿の庶民の悦びはただこの事であった。
この時も大阪に光が出たと云々。

当代記

秀頼と家康の二条城会見について



成瀬正成、名誉の挨拶

2018年10月10日 19:35

332 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 15:33:48.10 ID:ATyzqMd8
成瀬正成、名誉の挨拶


駿府にて東照宮(家康)が加藤清正に、常陸守殿(頼宣)、紀伊殿(浅野幸長)を
御縁者とするよう仰せ付けられた。
これは、常陸守を清正の婿にした以上は他の子息(義直)も同様にするように
(=義直の舅の幸長とも縁者になるように)との仰せ付けであった。

御次の間に清正が出たとき、清正に御当家(池田家)の家臣衆が
「只今の(家康の)仰せられ様には、きっとご満足されたでしょうね」
と申すと、清正は
「もちろんありがたいことですが、秀吉公の昔の厚恩は忘れられません」
と申したので、御当家の老臣はそれに対して挨拶することが出来なかった。

そこに成瀬隼人正(正成)が
「その思し召しは至極ごもっともですが、家康公の御恩を蒙った者も同様に
 家康公の御恩を重く思っているのです」
とたちどころに申されたのは"名誉の挨拶”であった。


――『烈公間話』


花も久しく出来るのならば

2018年01月08日 11:50

575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/08(月) 09:57:48.58 ID:bdvzPBDu
或る年のこと。紀州大納言徳川頼宣は、朝顔の花で午の刻(正午ごろ)まで美しく咲いているのを
見つけると、これを母である養珠院の御目にかけようと遣いを出した
「朝日を待つ間の花と言われていますが、このように盛ん久しく咲いております。」

養珠院はこれへの返答に
「珍しき槿花の事が書かれていましたが、花も養い方次第で、このように久しく咲かせることが
出来るのなら、あなたの御身も養生次第で長生あるべき事でしょう。
あなたは若き人ですから、壮年の頃より養生されれば、きっと長命を得るでしょう。
家中を養うのも、花の手置と異なることがあるでしょうか?
ついでながら申し入れました。」
そのように教訓された。

この事を後年、頼宣はいつも語っていたという。

(武野燭談)



576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/08(月) 15:23:13.38 ID:5cwNbSx6
正直ウザい母親だと思ったw

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/08(月) 16:18:41.27 ID:MXGBOqy6
自分から報告しに行って何言ってやがる

明主の賢慮は推量し難い

2017年03月17日 07:47

720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/16(木) 23:45:21.45 ID:vrpWz8g8
徳川家康がある時仰せに成った
「右兵衛督(徳川義直)、常陸介(徳川頼宣)の両人に、近日武具着初めをさせるので、
あらかじめ準備しておくように。」

御武具方はこれを承り。黒糸縅の甲冑、ならびに弓矢、陣太刀、鞭、采配、軍配扇など、
注文通りに揃えた。

その頃、この武具着初めについて下々からは
「現在、右兵衛督殿の御爺などと称せられている平岩主計頭親吉は、それほど高名は聞こえないが、
上の御覚え他に異なり、また常陸介殿に付けられている安藤帯刀は、武勇冥加の侍であるから、
きっと両殿の御武具は、この両人が召させるのであろう。

尤も平岩は戦場に勇ある人物ではあるが、安藤と比べては、なかなか同日に論ずることができる者ではない。
そもそも公達などの御武具御召初めは、勇功あって武の冥加ある侍にあやからせ給うようにと、
専らそういう人を選ぶものだ。安藤は一日の内に二人の大将の首を獲た武勇の人であるから、言うに及ばず。
一方の平岩は、上意ではあったが、かつて一家の主親たる水野下野らを討ち、また三郎信康殿の
御母堂築山殿御生害の事を取り計らうなど、あまり吉兆のある人ではない。そういう人に若君などの
御武具召させ初めるというのは、いかがなものか。」

そのように言い合っていたが、当日に至ると、義直、頼宣の武具を、父である徳川家康が自ら
召させるとの上意にて、兄弟は同日御前にて召させられた。下々の予想は全く間違えていたのである。

しかし岡崎三郎殿以降の公達は数多居たと言うのに、家康自ら武具を召させる事は無かった。
それが今度このように計られた神慮は計り難い。兎にも角にも、優れて御愛子ということだろうか。
何れにしても、明主の賢慮を下々は推量し難いということだ。

(武野燭談)


思う事 一つ叶えば又二つ

2017年02月18日 10:19

657 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/18(土) 08:41:13.19 ID:ljycbWKM
寛文年中の事。紀伊大納言・徳川頼宣の乗る船が、遠江沖にて荒天に出会い、海上は
茶臼を回すごとく荒れた。

しかし頼宣は顔色も平生に変わらず、船に酔った近習の者達を自身で救うなどした。
この時常の心持ちなど、ふと口ずさまれていた。題知らず

 思う事 一つ叶えば又二つ 三つ四つ五つ 六つかしの世や

人生の願い、絶え間のない実情を詠まれていた、頼宣公は高貴公達の御身であったが、かくの如き
方であった。

(武野燭談)


徳川頼宣「動いて見給え。忽ち刺し申すぞ!」

2017年02月05日 13:58

586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/04(土) 19:46:57.69 ID:5MePCLra
紀伊は山国であり、深山には色々と怪しい事ども多かったが、徳川頼宣はまるで気にしていなかった。

ある時、友島に猟に出かけ、臥木(倒れている木)に腰を掛けると、その臥木にわかに動き出し
龍の形となった。
しかし頼宣は少しも驚かず、志津の長刀をその蛇頭と思わしきところに差し当て

「山神であるのなら、どうして腰掛けただろうか!臥木の姿であったからこそ、臥木であると思ったのだ。
なんと見苦しき振る舞いだろうか!動いて見給え。忽ち刺し申すぞ!」

そう怒って叫ぶと、本の臥木へ戻ったという。

(武野燭談)



しかしながら、忠輝卿は

2017年01月22日 17:11

535 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/22(日) 02:28:04.25 ID:lYSVfIwg
またある時、紀伊頼宣卿(徳川頼宣)が忠輝卿(松平忠輝)を御招きになり、
饗応があった折、いかなる故にか忠輝卿はとにかく機嫌がよろしからず、

頼宣卿は心配なさって自ら盃を進めるなどしなさったが、忠輝卿は酒も飲み
なさらなかった。ところが、頼宣卿が用事あって、正木小源太という小姓を

呼び寄せなさると、忠輝卿はその小姓・小源太を御覧になられて、頼宣卿に
所望なさった。これに早速、頼宣卿の御承知があったので、それより

忠輝卿は大いに機嫌がよろしくなりなさり、興に乗じて、側に有り合わせた
大砂鉢を取り寄せ、酒をなみなみと注がせて、2度まで飲みなさったという。

この小源太は後年に忠輝卿が将軍家(徳川秀忠)の御不審を蒙り、条々の
御咎めがあった時に、忠輝卿に切腹を勧め奉ったのだが、

忠輝卿は仰せになり「命さえあれば身はいかようになり行くとも、また面白き
こともあるだろう」として、切腹仕りなさらなかった。

しかし、小源太は強く切腹を勧めて、「私が御先を供に仕らん!」と言って、
忠輝卿の眼前で切腹して相果てた。しかしながら、忠輝卿は切腹仕りなさら
なかったので、小源太は犬死になった。

――『明良洪範』



536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/22(日) 05:52:52.32 ID:cyXxn47K
ひでぇw

537 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/22(日) 10:15:10.59 ID:CwRxEV7E
オチがあるとはw

538 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/22(日) 16:53:29.04 ID:x1e3RZKr
犬死にww

江戸御旗本・尾張・紀伊は“御三人”と称され

2016年10月19日 16:24

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/19(水) 01:36:00.64 ID:Kwj3E/7X
東照宮(徳川家康)の御子達多き中で、紀伊頼宣君は、その御器量天才
にして、只の尋常の御性質ではあられず、

そのところを東照宮は御覧になられて御寵愛は浅からず、尾張の義直卿
と紀伊頼宣卿とは、「天下左右の固めであると思し召されるように」と、

堅く御遺言なさったことにより、江戸御旗本(徳川将軍家)・尾張・紀伊は
“御三人”と称され、三家一体の御高家であった。

――『南竜言行録』

水戸家ェ…



226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/19(水) 02:18:39.13 ID:M/r/pRYO
当初は水戸の立ち位置が不確かだったような
今ではそんな水戸の血筋が宗家だけど

227 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/19(水) 04:25:34.69 ID:gmsZuxDH
>>225
元々そうでしょ
悪い話でもなんでもない。
途中から将軍家除いて水戸を加えた方がいい話だか悪い話だかになるんじゃないのかな

228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/19(水) 15:21:25.87 ID:2lnbE035
そりゃ水戸家は紀州家の分家扱いだったって言われるぐらいの格下だしな
まったくのフィクションだと分かっていても水戸黄門でじーさんが紀州に乗りこんで偉そうにしているの見て、哀れに見えたわ

230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/19(水) 20:04:17.78 ID:vD6BiNk0
>>226
今の徳川当主は会津松平家だけどな

231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/19(水) 21:00:20.81 ID:qTJ2VxIA
男系血統的には水戸徳川→高須松平→会津松平→徳川宗家という流れ

232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/19(水) 21:26:49.25 ID:qTJ2VxIA
尾張徳川は鍋島血統の堀田が継ぎ
紀伊徳川は断絶の危機
水戸徳川は現在も男系血統が続き、宗家も含め各連枝にも水戸血統が多い

どうしてこうなった

233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/19(水) 22:39:27.14 ID:eiQrfX7O
>>232
だいたい烈公斉昭のせい

この人も公私に渡ってDQN四天王に次ぐアレさ…

この時、頼宣君の御物語りよると

2016年09月04日 14:18

148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/04(日) 04:22:58.78 ID:X8gZXZyP
この時、頼宣君の御物語りよると、両御所様の御前へ諸大名が追々
に参られ、(大坂夏の陣の)御勝利の御祝儀を申し上げ、また銘々が
自身の働きを申し上げなされた。

その中で畠山夕庵が参上致すと、権現様(徳川家康)は御覧になって、
「夕庵、これへこれへ」と御呼びになり、夕庵は御前近くへ参ると、

「今日の御勝利が思し召しのままになりました御事、めでたき御儀で
ございます」と、御祝儀を申し上げなされた。すると権現様は夕庵の
籠手を付けた手を御取りになられ、

「また勝ったわ」と、仰せになった。「これは関ヶ原のことを仰せ出し
なさったのであろう」との、頼宣君の御物語りである。

――『南竜言行録』




頼もしき家来の事

2016年07月21日 17:16

955 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/21(木) 00:27:49.69 ID:uZgz+BuU
頼もしき家来の事

紀州南龍院(徳川頼宣)様は、ある日和歌山で御物見に入られ往来をご覧されたことがあった。
御出になられたとも知らずに御家中の者は大勢往来していた中で、
ある御家来が供侍、草履取り、挟み箱持ち、槍持ちを従えて通りかかった。
御側に居た者が

「あれがかの噂となっている男ですか。」

と笑ったのをお聴きになられた。

「どのような噂があるのか?」

と言われたので、御側の者共はやむを得ず話した。

「かの者は身の上が苦しいとのことです。そうなのですが他に取り計らい方もあるでしょうに
甚だ不束なことをしているのでございます。」

「どのようなことをしているのか?」

「かの者が召し連れています侍はかの者の次男でございます。
草履取り、挟み箱持ち、槍持ちはいずれも三男四男、あるいは世話をしています甥などです。」

「それは頼もしい家来である。予は大勢召し連れているが、かの家来に劣らぬ草履取り、槍持ちがいるかというと心もとない。
家計の苦しさは関係のない事だ。」

程なくかの者を御取り立てられて、子供も相応の役に付けられたそうだ。

(耳袋)



長持ちアサガオ

2016年01月13日 22:41

184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/12(火) 20:11:24.02 ID:nH5mbrsG
お万の方。紀州家頼宣(家康10男)を生み、水戸家頼房(家康11男)を生む

頼宣。のちに南龍公と呼ばれる、紀州家の暴れん坊殿様も、
まだ子供のころは、無邪気な少年であった
ある日、遠乗りに出かけたら、アサガオが昼過ぎになっても咲いている
珍しいや、と取って、母親(お万の方)あての手紙に添えて送った

しばらくして、母から返事が来る
「長持ちアサガオなんて珍しいものをありがとう。
花の寿命も、人の寿命も、同じね
もとが短くったって、
適切な管理がハマれば、このように長生きするのよ
この現象は、しっかり肝に銘じておきなさい
家中や国家のマネジメントだって、同じことなんだから
適切にケアすれば長持ちで問題なく続くのよ」
……母親は(一応)喜んでくれたようである
個人の修身=国家運営。論語ですな
けっこう教育ママさん

頼宣「朝間の花、午を過ぎて猶ほ栄ゆ。一粲に供する所以なり」
お万「朝花の贈りもの、奇観喜ぶべし。抑も人寿も猶ほ此の花のごとし。
苟しくも其の養を得ば、短き者も亦た之をして長からしむべきなり。
之を勉めよ之を勉めよ。即ち家国を養ふも、亦た唯だ此の心にて之を視ば、
国祚何ぞ長久ならざるを患へんや」



186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/13(水) 09:17:42.59 ID:x5ZvWWHA
>>184 既出があった
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-1097.html
昨日の身延山話は、別人あつかいになってる
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-1838.html

遅しとあるは、上意とも存じ奉らず

2016年01月02日 17:31

867 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/02(土) 01:24:16.30 ID:7a9ptBXh
大坂陣の時、4月末に二条城へ徳川秀忠が入り、徳川家康と相談して大坂表での戦闘について
取り決めた。この時、14歳の徳川頼宣は御前へ出て、「御先手を仰せ付けてくださいませ」
と望んだ。これに家康は機嫌よく、

「もっともな望みだが、大坂表は将軍が先手を致されるので御気遣いなさるな。大和・紀伊・和泉・
河内の地侍どもは皆々秀頼へ一味し、攻め手の後ろより襲われるかもしれないので、後陣が
心許ない。義直と其の方と永井右近(直勝)や安西組は後陣に控えて、後ろからの敵を切り崩せ」

と、言ったので、頼宣はやむをえず退出した。

(中略)

頼宣が茶臼山へ上ったところ、家康は床机に腰をかけ、秀忠は敷皮にいた。そこへ出た頼宣を
見た家康は、「合戦があったのに今になって参ったのか。遅い!」と言った。

これに頼宣はこらえずに、「これを思っていたからこそ、二条の御城で御先手を望みましたのに、
それを御許容なされず後陣に御置きなされて遅いとは、仰せとも思えません」と恨み申し上げた。
これに家康は困って「わしの誤りであった。其の方が道理じゃ」と言った。

(遅しとあるは、上意とも存じ奉らずと、御恨仰上げられ候へば、権現様御困りなされ、
我等の誤り、其方が道理じやと上意遊ばされ候)

――『南竜言行録』



868 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/02(土) 12:18:22.01 ID:QoXbpbGz
家康 痴呆症だったかw

869 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/02(土) 12:20:05.05 ID:vVBhAP4s
秀忠もこのくらい言い返してたら

870 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/02(土) 17:49:30.88 ID:szi0CsCr
秀忠(…物覚えが悪い話しか……)

871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/02(土) 19:45:06.24 ID:HHIRukF0
後陣が後詰の役割ちゃんと果たしのに怒られるとは
家康マジでボケてんじゃん