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鼻の色はかはりにけりな異な面に

2017年02月16日 17:16

651 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/02/16(木) 00:02:05.81 ID:rG1cVaCH
ある日(島津)忠恒公が徳田大兵衛(侏儒どん)の宅へ御出でになるという仰せがあった、
そこで大兵衛は屋敷を清めるやら庭の掃除の下知をするやら忙しかった、
さて自分も湯に入って潔斎したのち、今か今かとご来駕を待っていた、けれども
仰せでになった時間までにいかなる御都合かして、御出でが無いので、
待ちくたびれて大兵衛は縁側へ寝入ってしまった。
その後程経てから殿様の乗り物がやっと徳田の屋敷に着いた。
すると大兵衛は心地よさげにすやすやと良く寝入っている始末であるから、
近侍の者共が大兵衛を起こそうとする、殿様は「しばらく待て」と制しながら
硯を取り出させ、筆にタップリ墨を含ませて、大兵衛の鼻へ一杯塗り付けさせられた
然る後ち近侍の者をして大兵衛を揺り起こさせられた、大兵衛が不覚の眠りを
詫びるのには耳を貸さずに殿様は
「大兵衛鏡を見ろ」との仰せである。何かは知らねどご上意のまま
自分の顔を鏡に映すと、鼻が真っ黒く塗られている。
殿様は笑いながら、「大兵衛どうじゃ、即座に一首仕れ」と言われると、
例の侏儒のことであるから、言下に次の歌を詠んだ。

鼻の色はかはりにけりな異な面に わが身湯に入り長寝せし間に

これは言うまでも無く、百人一首の中にある小野小町の和歌を詠みかえたのである。
(日当山侏儒戯言)


参考
花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに
小野小町




654 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/16(木) 06:18:07.98 ID:vJ8/2DEi
>>651
何が起きるかドキドキした
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薩隅の戦国食べ物? ねったぼ

2016年12月21日 17:25

447 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/20(火) 23:24:58.34 ID:hzpAUNNI
薩隅の戦国食べ物? ねったぼ

ねったぼは蒸した唐芋(サツマイモ)と餅、砂糖などで作る餅で、ぼったぼったと練ってつくことから
その名がついたといわれる、鹿児島県や宮崎県の都城地方などで食べられている郷土料理です。
(砂糖の入ったきな粉をまぶして食べます。餡子が入っている場合もあります)
地域により、からいもんねったぼ、からいものねったぼ、からいもねったぼ、ねったんぼ、ねったくり、
からいも餅、ねりくりとも呼ばれます。

サツマイモの食べ物の話だと、スレ違いではと思われるかもしれませんが、
徳田大兵衛(侏儒どん)のことを書いている文で気になるものがありましたので・・・

「大兵衛殿は五十歳余りの時、都之城なる北郷殿宅にて年かさの餅を喰はせられ、咽喉に引き懸かり、
即ち相果てられし人にて候由」(薩藩舊傳集)

侏儒どんが現在の宮崎県都城市の北郷殿の屋敷で出された「年かさの餅」を咽喉につまらせて
なくなったとありますが、鹿児島で「年かさの餅」(鹿児島弁では「とっかさ」)とは
正月の餅を搗くとき、最後の一くぼ(餅米一臼分)に、煮たさつまいもを入れて搗きあげたもので、
ねったぼと同じものなのです。昔と今とでは違うのではと思われるかもしれませんが、
侏儒どんの話がまとめられている「日当山侏儒戯言」にも、
「年かさの餅とは薩摩独特の唐芋と餅とを搗きまぜたものだという説もあり」と書かれています。
(侏儒どんがなくなったのが、寛永十一年正月十六日(1634年2月13日))

前に鹿児島大学の焼酎学の先生から、
1611年に琉球征伐の後始末に残っていた薩摩の兵が薩摩芋を土産に持ち帰った。
1615年には琉球から種子島家に薩摩芋が送られた。
と聞いたことがあるので、栽培は出来てなくても手に入れることは出来たようなので、
貴重なものとして、正月用の祝いの餅にまぜこんだのかもしれません。

「日当山侏儒戯言」では、
「侏儒が正月北郷殿へ行って餅か出た時、ナニ此の位のなら唯一口で喰はれるとか何とか言って
喰ったところが、ソレが咽喉に閊へて遂に命を落としたのではあるまいか、若し予の想像通りとすれば、
彼は遂に滑稽の為に死んだのである」と書いてあって切ない。



448 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/21(水) 06:47:03.33 ID:Ex3Uxlra
>>447
餅は古来よりの殺人食ってはっきりわかんだね

下野の野州野州と申せども

2016年12月01日 16:19

365 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/11/30(水) 20:45:41.79 ID:NL2AuYia
島津家久(忠恒)時代の国老島津下野守は知行一萬三千石、権威並ぶものなし、
而も長大肥満の人なりしか。かつて徳田大兵衛(侏儒どん)に向かい
「徳田めが 大兵衛とは 名のれども 名には似合はぬ 小さき人かな」
大兵衛これに応して曰く
「下野(しもつけ)の野州(痩せう)野州(痩せう)と申せども
名には變(かは)りて肥えた人かな」
(日当山侏儒戯言)

※侏儒どんの名前の由来の一般的な方の説では、生まれたときから
小さかったので大きくなるよう願いをこめて両親が大兵衛と名付けたとあります。

※別な本には、侏儒どんと島津下野守は同じ連歌の会に出ていたりするので、
こんなことが言い合えるほど仲が良いのかもしれない。



侏儒どんの年齢

2016年01月30日 17:45

230 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/01/29(金) 19:34:58.61 ID:9p1svj2Z
侏儒どんの年齢

侏儒どん(徳田大兵衛)は小男のうえに、いつも朗らかな性格であったので、いつまでも若々しくて
年取った様子が見られません。
それでいつも人が集まると、侏儒どんの年齢が話題となっておりました。
ある十五夜の月見の宴の席上で、また侏儒どんの年齢が話題になりました。
「どうにかして侏儒に年齢を言わせてみようじゃないか」
「よかろう、しかし簡単に言うような奴じゃないな、どうやって言わせるかな」
良い方法がないかと一同協議を始めますが中々良い案がありません。
やがて殿様(島津忠恒)が、
「よし、俺に任せておけ、俺が言わせて見よう」
そこに丁度折りよく侏儒どんが入ってまいりました。
「侏儒よいところに来た。今お前の年齢が問題になっているが歌で答えられるか?」
かねてから負けず嫌いの侏儒どんのこと策に乗せられるとも気付かず、即座に
「暗の夜の梨の梢に虫が寄り、今宵の月には波は引くなり」
と声高らかに口ずさみました。
一同は何が何やらわからずポカンとしております。やがて殿様が
「侏儒!!そんな歌ではわからないではないか」
「わかりませんか、さてさて・・・」
侏儒どんは仕方がないと云わぬばかりに説明を致します。
「暗(八三)の夜(四)の梨(七四)の梢に虫(六四)が寄り(計三十六)、
今宵の月に(十五夜で十五、合計五十一)そして波(七三)は引くなりで、
五十一から七三(十)を引いて実際の年齢は四十一歳でございます」
これには一同、大爆笑、大拍手
(日当山侏儒どん物語抜粋五編集)



231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/30(土) 01:28:37.70 ID:rSbT1qMA
そはだいよw
いっと知らんがおw

234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/30(土) 09:04:34.70 ID:vzsMFvWl
>>230
こんなんあらかじめ準備してたんじゃね?ってレベルですごいわ