“嶺の松雪に圧さるる”

2017年01月06日 17:17

490 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/06(金) 02:32:46.80 ID:nc1d7jPq
石川日向守家政殿(家成)は、神君(徳川家康)の三方ヶ原御戦の折は、
掛川城にいたのだが、敗軍を聞いて、兵を率いてやって来た。

神君はこれを御喜びになった。そして家政は曰く、

「戦に先達て、私は夢を見ました。その夢で一人の老翁が一句の和歌を
詠じました。その詞に、“嶺の松雪に圧さるる”という意がありました。
翁は続けて、その意味を解しました。

『雪は信玄である。松は家康である。一旦、松を圧するとしても他日には
必ず雪は消えることだろう』と、言いました。

夢が覚めてその事を語ると、衆人は皆、不思議に思いました。しかし今、
我が軍が敗れて衆人はこれを信じました。その上、老翁の告げによって、
他日に主君は、必ず利を得なさることでしょう」

と言い、頼もしく思いなさった。

――『責而者草(君臣言行録)』



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日本の諸大名はこの日初めて、

2017年01月05日 09:38

493 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/05(木) 09:07:42.57 ID:dqYqzxuP
慶長3年7月に、太閤秀吉は、西国の侍は伏見、東国の侍は大阪に詰め秀頼を守り立てるべし、との遺言
を定め、これについて諸大名は徳川家康の屋敷に集まった。
徳川家康が現れると、日本の諸大名はこの日初めて、家康を半ば主人のように敬った。

この人々の中では特に、増田長盛と徳善院の両使は「御意のとおりに致します」と、家康に手を付き、
主人であるかのように敬い申し上げたのである。

五大老五奉行もこの日に定まった。この日の上座は毛利宰相(秀元)であり、彼の振り回しで酒宴となった。
上杉景勝、佐竹義宣、伊達政宗3人の仲直しもこの日であった。
徳川秀忠は勝手に座っていた。

一日間を置いてこの人々は前田利家の屋敷に集まり、霊社上巻の起請文を書いた。

(慶長年中卜斎記)

秀吉死後を見据えて、諸大名の家康への認識が変わった瞬間について。




元日に将軍に出仕した衆は2日に大御所へ、2日に出仕した衆は3日に大御所へ

2017年01月01日 17:04

481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/01(日) 10:03:13.19 ID:zqydozcU
慶長19年正月朔日、江戸にて両御所(家康・秀忠)が越年なさった。

朔日、例年の如く将軍(秀忠)に皆々が礼を遂げた。なかれを皆々が
頂戴したうえに、御服一重があまねく宛てられて拝領した。

これは近年に大御所家康公の時からこのようにしていた。今の大御所
(秀忠)にはこの慣例はない。今日、大御所に将軍が勤行なさった。

2日、在江戸の上方の大名・小名が将軍に出仕した。昨日のように、
なかれと御服を拝領した。元日に将軍に出仕した衆は2日に大御所へ
出仕し、2日に将軍へ出仕した衆は3日に大御所へ出仕した。

2日夜、毎年の如く将軍が謡初をなされた。

――『当代記』



この両説は、確かには分からない。

2016年12月27日 17:40

476 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/27(火) 04:54:42.37 ID:M9KwdTmq
さきの土井大炊頭(利勝)は、

権現様(徳川家康)の御乳人の召使いに“松”という女がおり、これを
榊原の家来・土井氏と出合わせて持った子である。

一説には大方様(於大の方)の女房たちの子であるという。であれば、
水野下野守(信元)の落胤だろうか。

この両説は、確かには分からない。

――『武功雑記』



士は終わる所に強い意地が

2016年12月26日 16:02

463 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/26(月) 13:14:43.95 ID:1WIkHi0K
 小田原陣の仲立ちとして、北条新九郎氏直から伊豆韮山の城主北条美濃守氏規へ自筆の書状を送った。
そこには『しかたがないが城を渡すべし』との事が書いてあった。
「しかしながらただ今まで、城に向かって矢玉を打ってきた人へはっきりとした理由無く
城を渡すのは本意ではない。家康公の家人を遣わされましたら渡しましょう。」
との趣旨を申された。
秀吉もその志が強く意地が爽やかなのを感じて、家康公から内藤三左衛門(信成)を遣わされて韮山の城を受取られた。
 とにかく士は終わる所に強い意地がありたいことである。
(武士としては)

結城秀康の死去/家康怒りの改葬

2016年12月25日 17:11

463 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/24(土) 14:37:00.84 ID:TsTbPz9n
結城秀康の死去/家康怒りの改葬


結城秀康は慶長12年には父家康により伏見城番に任じられたものの病が重くなり
3月1日に伏見から越前に帰国したものの、同年閏4月8日に34歳で死去した。
嫡男の忠直が江戸にいたため葬儀は大幅に遅れてしまい、わざわざ北庄まで
弔問にきた毛利輝元も痺れを切らして帰国してしまったという(『毛利家文書』)。

秀康は結城家菩提所の曹洞宗の寺、福井孝顕寺(結城氏は代々禅宗だった)に葬送され
孝顕寺殿吹毛月珊大居士と称したものの、それを聞いた家康が
「我が家の者は浄土宗である、結城を名乗っているのならともかく
 既に復姓し松平となっているのに、このたび禅宗に改めるとは何事か!」
と激怒した為家康の意向により、知恩院から満誉大僧正を導師として下向させ
満誉を開基とした浄光院(のち運正寺)を同年中に建立し、浄土宗へ改葬させて、
法号も浄光院殿と改められたという(『知恩院古記録』)。


――『福井県史』など



464 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/24(土) 16:11:14.91 ID:tyQB9IgX
増上寺は浄土宗だけど寛永寺は天台宗なんだが...

愛宕に武運を

2016年12月23日 21:10

454 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/22(木) 22:21:14.83 ID:QUkoz0tZ
徳川家康と豊臣秀頼の二条城会見が終わって後日のこと。

家康は近臣と雑談している時、こんな事を言った
「去る三月、加藤清正は秀頼に供奉して上洛したが、彼は退出の時、西天の方に目を注いだ。
これについてお前達は何故だと思うか?」

しかしこの問に、答えられるものは一人も居なかった。

暫くして家康は言った
「秀頼の上洛に供奉するのは非常に大切な役目であった。だから清正は、二条城の西方にある愛宕山に
大願を掛けたのだろう。そして、恙無く帰城に及んだ。故に心の中で、愛宕の方を拝したのであろう。」

後に清正の家臣であった中井氏の著述した爲人妙という書にも、愛宕の勝軍地蔵において、この時清正が当山の
大善院で護摩を執行し、秀頼の武運を祈ったと書かれている。

(慶元記)



終に往く道をば誰も知りながら

2016年12月23日 21:09

455 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/23(金) 01:02:42.42 ID:bjWOvYiP
 小日向の竜興寺は、高所で富嶽遠眺の勝地である。
寺に桜樹がある。神祖が御詠み短冊に書かれたのを収蔵しているという。
この地は初め桜野といって、桜樹が多くあった広い地である。
神祖が御遊覧のときの御詠を桜樹につけ置かれていて、
その辺に釈迦文院という真言の小院があって、御帰りのあとにその御詠を取り収めていた。
寺の開山玄門和尚が創建のときにここを見立てて暫く釈迦院に寓していて、
そこで御詠を請い受け、竜興営造のとき寺の鎮守として小祠をたてて御短冊を神体として祭ったという。
御詠は

終に往く道をば誰も知りながら 去年の桜に風を待ちつつ

〔竜興寺で聞いて記した〕

 このときの御成りに従った左右の中で、杉浦吉右衛門はこの御詠の御書き損じを拝領して伝襲している。この孫が、今杉浦備後守と称して御小姓である。竜興寺の檀家という。

〔近頃、日向国の拙堂和尚という者がこの寺に宿して賦した詩がある。
地の勝趣を知ることができるので、ここに記す、

下界人家天上雲、芙蓉八朶望中分、
尾侯第隔青松見、護国鐘蔵緑蔭聞、
万里清秋霽漂渺、一輪紅日暁氤?
結句は今忘れた。〕

(甲子夜話)



中村家廃絶の話 ~正室、於さめの方側室の子を嗣子と認めず~

2016年12月23日 21:06

450 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/23(金) 19:45:13.14 ID:uDiWfu+v
中村家廃絶の話 ~正室、於さめの方側室の子を嗣子と認めず~

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9105.html

にも少し書いてある話になるが、

中村一忠は11歳で家督を継ぎ、伯父で執政家老の横田内膳が政務を取り仕切っていた。独裁的であったようだが、米子城を完成し、新たに城下町をつくり、現在の米子の基礎固めを行っている。
重臣の安井清一郎や、茶道の師である天野宗把など、内膳のやりかたに不満のある者たちが、一忠にそろそろ政務をご自分の手に、とそそのかした。
これにのった一忠は、慶長八年(一六〇三)十一月十四日に、一忠と於さめ姫との許婚の儀が米子城で盛大に行われたあとで内膳にいきなり斬りつけた。
しかし、一忠は仕損じてしまい、次の間に控えていた家臣がようやく斬り伏せ殺害した。
直後、横田内膳の息子や柳生但馬守宗矩の兄、五郎右衛門らによる米子騒動が起き、隣国出雲月山富田城城主、
堀尾吉晴の助けもあって事態は一忠側の勝利で収集したものの幕府は、安井、天野の両人に切腹を命じた。
また江戸へ呼び出された一忠はさまざまに弁明したものの、品川宿で謹慎を命じられた後許されている。
一忠の叔父中村一栄(かずよし)は、家臣の梅里伯清の娘を一忠の側室にと推挙し慶長九年(一六〇四)、梅里の娘は十四歳で米子城へお国御前として上がる。
正室於さめ姫は江戸屋敷に常住した為お国御前は正室に次ぐ格があった。

一忠には京にも京屋敷があり、これは豊臣時代からの屋敷で一忠の生まれ育った所であった。

京屋敷の家老矢野正倫(まさとも)も京の側室を推挙した。庄屋の娘であったが、美人で物腰やわらかな、明るい娘であったようだ。

余談だが家康は大名たちの側室の人数について、大名は八人という目安をもうけている。一忠も江戸、京、米子と、上屋敷、下屋敷に八人くらいの側室はいたのかもしれない。

元服の際一忠は、松平の称号を許され、将軍秀忠の諱名を賜り、忠一と名乗りを改めた。

於さめ姫には、姫つきの女中があまた随ってきたが、それとは別に忠一付きの側女中が二人、どこからか配置されてきた。この二人はこまめに忠一の身の回りの世話をした。周囲の者に明かすことのできない、重要な任務を帯びて中村家に乗り込んできていた。

側女中の二人がきてより、忠一の体調はしだいに悪くなり、疲労感が色濃くなっていった。

江戸屋敷にいる於さめ姫は、忠一が江戸にあっても、別棟の御主殿にいて、昼間は忠一と会うことはなかったが、輝姫という女の子を産んでいる。ついで、京の側室も出産し、こちらは男子で小武と名づけられた。

慶長十四年(一六〇九)五月、江戸、京、とまわって米子へ帰国した忠一は、だれの目にもわかるほど衰弱していた。

旅の道中に例の側女中もつき従い、十二分に忠一の面倒をみたが、お国御前の側室が側女中をあやしんで、見張り役を派遣したが、確証は得られなかった。

川狩りに行くと気分もよく元気が出るような気がして、忠一は最後の川狩りに出かけた。だがほどなく帰ってきた忠一は、すぐ寝所に入った。近習がかけつけた時、忠一はすでに死んでいた。いまだ二十歳の若い藩主の死去であった。

忠一の顔には薄く斑点が浮き、それを消すためにか、側女中は顔や身体中をなでさすっていた。これをとがめられた側女中は逃げ出して再びその姿を見た者はいなかった。

この後藩主の亡くなった米子城に幕府の裁定が下り、中村家は子なき故断絶と決まった。

京の側室には、男子の小武がありながら、また米子の御国御前も当時忠一の子を妊娠していたのにである。
これは正室である於さめ姫が「おおかた、どこからか連れてきた子であろう。けしからぬことだ」
と、柳眉をさかだてた鶴の一声の為であり、この為十八万石の米子中村家は、お取り潰しになってしまった。
中村忠一の死後、妊娠していた米子の御国御前も隠棲して男子を産んだがこれらの子らのその後に関しては九州方面の大名の家臣となったり、京都で出家したり、
また中村一氏の正室は池田信輝の子で あった事から池田家と親籍となり、鳥取池田家に迎えられたと言う。
正室、於さめの方に関してはこの四年後の慶長十八年(1613年)に毛利秀元の継室(浄明院)として嫁いだとされる。

(因伯戦国時代の女性たち、鳥取県史より)

451 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/23(金) 19:58:11.05 ID:uDiWfu+v
>>450
追記として、米子騒動の横田内膳は既出の話にある通り藩主を蔑ろにした奸臣と言う風に中村記などの中村家側の資料に書かれているが、
実録が伝える村詮専横を忠臣が藩主とともに絶つという筋からは、到底こういう処分にはなるはずがない。幕府では実録が伝えるのとは、まったく違う見方をしていたのだった。
「徳川実紀」では、忠一(一忠ではない)15歳、その行いは凶暴であり、横田内膳(村詮)が何度も諌めたが、これに怒った忠一が宴にことよせて自ら殺害、
更に居城飯山に立て籠もった一党を隣国堀尾の軍勢を得て鎮圧した、と記すという。
新井白石の「藩翰譜」もほぼ同様であるといい、この騒動を聞いた家康は、幼弱な藩主一忠を諌めるべき家臣が、その責を果たさずに迎合し、騒動を引き起こしたことを厳しく咎め、安井らに腹を切らせたとされている。



452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/23(金) 20:56:32.91 ID:iLzbCdiU
自分が任命した補佐役の村詮を殺されたから家康は怒ったんでしょ?

453 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/23(金) 21:06:02.20 ID:TmvAbk2q
よくあることとはいえまるっきり話が違うw

454 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/23(金) 21:14:22.59 ID:uDiWfu+v
>>452
それも有るし、養女とは言え娘の婚礼の宴を利用して功臣の排斥行ったらそりゃあもう味噌様だって怒りが有頂天でしょうよ

465 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/24(土) 16:53:28.04 ID:+Oh64i4Z
>>454
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8378.html

466 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/24(土) 19:43:17.14 ID:RwZ7R4NO
>>454
まてまて「怒りが有頂天」は無いだろう。
「怒り心頭」とか「怒髪天を衝く」がごっちゃになってるよ

467 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/24(土) 20:17:22.79 ID:B+sxctzO
>>466
ネットスラングだよ。こういうスレで使うのもどうかと思うがw

468 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/25(日) 06:35:18.93 ID:DQ39pmTE
怒りが頂点に達した時に使用するネットスラング。

元ネタはブロントさんと呼ばれる2chネトゲ実況版に書き込みを行っていたユーザーの書き込みから。


75 名前:既にその名前は使われています投稿日:03/10/30 16:38 ID:QcBxXqoc
お前らは一級廃人のおれの足元にも及ばない貧弱一般人
その一般人どもが一級廃人のおれに対してナメタ言葉を使うことでおれの怒りが有頂天になった
この怒りはしばらくおさまる事を知らない


76 名前:既にその名前は使われています 投稿日:03/10/30 16:39 xu+t+yG6
有頂天になるんか。

http://d.hatena.ne.jp/keywordtouch/%B2%B6%A4%CE%C5%DC%A4%EA%A4%AC%CD%AD%C4%BA%C5%B7





ブロントさんが初めて使ってから13年か…
知らない人も出て来る時期なんだなぁ…

京都総検校の蔵、神祖拝領壺の事

2016年12月22日 17:16

453 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/22(木) 03:19:20.72 ID:RpS+JZ5X
京都総検校の蔵、神祖拝領壺の事

 豊川勾当の話に、京の総検校の所に、かつて神祖から賜った御物が有るとのことである。

一つは色付きの大壺で〔色は忘れた〕葵の御紋がついている
この壺の由縁は、そのはじめ三宅検校〔称は忘れた、正さなければならない(※栄一とのこと)〕が賜ったものである。
そのとき検校は

「この壺の名は何と申すのでしょうか?」

と申し上げると、

「名は無い。今はこのように治平の世となったので、泰平の壺とでもいえばよい。」

とお答えになられた。

検校はかたじけなく拝領したそうである。それから今にその御名が伝わって、年首の行事には検校勾当の盲人が皆この御物は拝み、中に入っている酒を頂戴して礼飲するという。

 また鳴戸と名付けられた御琵琶も同じ検校が賜って今に伝わっている。
これも上意として

「戦争の際にはこのようなものは役に立たない。今治安となったので、平曲〔平家のことである〕のようなものも心安く聴けるだろう。」

と下されたという。今に至って総録所の伝宝となった。
盲人の坐までにも御手の届くこと、不思議なばかりである。
(甲子夜話)



本意に背く事はしないほうがいい

2016年12月21日 17:29

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/21(水) 02:21:23.64 ID:R5M42y2K
 小田原の陣の時、秀吉は近習の侍十四、五騎で宿泊された。
この時に有馬兵部法印則頼が家康公へ進言した。

「これは天が与えた幸事です。押し寄せて討ちましょう。」

「このたびの秀吉の行進は私を頼っての事だ。
とりわけ秀吉の妹は私の室だ。もっとも三年以前(三か月の誤記?)に亡くなったが。
また北条氏直は私の妹婿であるのに、秀吉は私に心を許されている。
そんなところに、飼鳥の首を絞めるようなむごい事を武士はしないものだ。
武辺はその身の生まれつきだが、天下を知る事は果報次第である。
とにかく武士は意地を第一に綺麗にするものである。
本意に背く事はしないほうがいい。」

則頼も恥じ入ったとのことだ。
(武士としては)




四足門

2016年12月17日 21:17

423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/17(土) 19:45:56.50 ID:tgoET9yr
 安部川の下前浜辺りに萩原というところがある。ここにはある古百姓がいる。
その先祖に大力を持つものがいた。神君が御在城のとき、外出の途中で荷を抱えた牛を両手に抱えて道脇にどけたので、何者か尋ねてみよとの上意があった。
「何村の某」と申し上げると、
「珍しい力だ。何か望みがあらば取らせよう。」との仰せがあった。
その頃はかの家が豊かだったので、
「望む物はありません。
ただなにとぞ四つ柱の門を建てたい」
と願いをしたら、お許しが下りた。
またその他に望みはあるかと上意があると、
「苗字を称して、家紋に日の丸をつけたい」
と申し上げると、それもお許しが出た。
そのうちに四足門を建てたという。
しかし昔から門は開け放っており、戸は無いという。
今はこの家は貧窮しているとか。

 また昔その所に土手を築いた。それを今は萩原土手と称し、その家も萩原と呼ぶという。

(甲子夜話)



「門松をやる。」

2016年12月14日 16:57

418 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/14(水) 12:09:46.27 ID:TPR3JAZq
お正月も近いので、門松関係の逸話を

江戸時代、諸大名のなかで、
唯一将軍家から門松を拝領していた藩があります。

奥州磐城平藩安藤家です。

安藤家の先祖、安藤重信は、家康の囲碁の相手をよくしていました。

ある年末の夜のこと、いつものように家康と囲碁をしていたところ、家康が勝たないので退出時間を過ぎても帰城させてくれませんでした。

そこで、重信が「屋敷に帰宅し、門松の準備を致したいのですが。」と言うと、
家康は「門松をやる。」と言いました。

家康が勝ったので重信が屋敷に帰りますと、将軍家と同じ門松が届いていました。以来、毎年門松の拝領がありました。



駿府にて毎夜、

2016年12月05日 15:39

383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/05(月) 02:37:06.96 ID:7mzLMEnB
この頃(慶長13年9月)、駿府にて毎夜、人を切ること甚だしかった。

金が掛けられ、申し出るようにとの旨が下知されたけれども、未だに
その沙汰もなかった。

また、日々喧嘩があって、互いに死傷に及んだ。

――『当代記』




日本国の衣装が結構な物になったのは、家康公より始まったのである

2016年12月04日 10:34

374 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/04(日) 01:53:06.16 ID:1PUt7qNp
徳川家康は、豊臣秀吉全盛の頃、家臣に小袖を与える場合、その品を呉服屋栄仁、茶屋四郎次郎と
いった者たちに「小袖一つに羽織を添えて作るよう」と申し付けた。

呉服屋の方から「小袖はどのような仕立てをすべきでしょうか?袖の裄丈はどれほど、綿をいかほど
入れるべきでしょうか?」と問われると、家康は好みを指定したが、そうやって造られたものは
通常の小袖より、五割から倍も高価な物となった。

家康は年間に小袖を、少ないときでも九つ、多い年では十四、五も下し渡した。
小身の者の中には「小袖はいりません。小袖にかかる金額をいただきたい。」と呉服屋に申し請い、
その場合呉服屋の方は家康に回す勘定の時、小袖と書いて、金が渡ったとは言わなかった。
小袖を下すのは毎年のことであったので、このような場合、呉服屋は完成した小袖も取り、その代金も
取ったわけである。

ところで今のように小袖が世に広まったのは、天正の末から文禄年中にかけてのことである。
実は日本国の衣装が結構な物になったのは、家康公より始まったのであるが、こういった事は
世間では知られていない。『家康公は吝い人』と世上申しているが、そもそも気の大きな人であった。

衣装の中でも小袖が結構になったのは、豊臣秀頼より始まる。それは関ヶ原の合戦で徳川家康が
勝利した後、その年の暮、諸大名が秀頼に、小袖を進上したのである。その年から翌年までには、
非常に結構な物となった。そして年を経るほどに尚善くなり、諸士の下々、町人まで小袖を
着るようになった。これも御代長久の故であろう。

(慶長年中卜斎記)



375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/04(日) 02:22:16.00 ID:7soxLXqH
わしがやった小袖はどうしたのだ?って聞かれなかったのかな

376 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/04(日) 04:35:47.65 ID:dEFAfBZk
現代でも嫌われる上司の言動だよ。それ。

378 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/04(日) 08:37:04.87 ID:ZFMNpLuG
>>375
子孫は小袖をもらっておけば、神君からご拝領の品、って言えたのにって愚痴ったか、
小袖を偽造して「これがあの時拝領した小袖です」と言い張ったか、どちらかだな

歌舞伎「盛綱陣屋」

2016年12月03日 09:00

379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/02(金) 19:13:10.64 ID:vLLxwyfB
歌舞伎の「盛綱陣屋」という作品のあらすじ読んだら(歌舞伎なので登場人物の名前を含め、本来は鎌倉時代が舞台)

大坂の陣で真田信之の息子が真田大助を生け捕ったため、信之が大助を家康に見せると家康は大喜び。
そこへ後藤又兵衛が乗り込んできて「大助はまだ子供なのだから返せ!」と言ってきたため
信之は又兵衛をとりあえず家康のところに送る。
思案した信之は、このまま大助がこちらにいたのでは弟信繁の戦闘意欲がそがれる、いっそ切腹させようということに。
信之は信之・信繁の母親の山手殿を呼んできて、大助に切腹をすすめさせるが大助は泣いて切腹を嫌がる。
そこへ大坂城から信繁の妻が息子を思って兵に変装して駆けつけるが、その光景を見てあせる。
そうこうしているうちに信繁戦死の報告。家康は信繁の首を持ってきて信之に首実検をさせる。
心中悲嘆に暮れる信之だったが、首桶のなかの首はなんと偽首。
しかし次の瞬間、大助が「ととさまのところに行く!」と切腹。
実は後藤又兵衛も信繁の妻も、大助がちゃんと計略どおりに切腹するかの監視役だった。
信之も大助の心中を察し、家康に「まさしく弟・信繁の首です」と報告。家康もすっかり騙される。

信繁ってこんな計略を使う武将だと思われていたのか・・・



連歌その心自然に顕るる事

2016年11月30日 17:27

358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/29(火) 19:23:34.64 ID:OIDdaizr
連歌その心自然に顕るる事

 古い物語であろうか、または人の作り話であろうか、それは分からないが、
信長、秀吉と、恐れながら神君が御参会の時、
四月だというのにまだほととぎすの鳴き声を聞かないとのお話が出たので、

信長は 鳴ずんば殺して仕まへ時鳥 とあり
秀吉は 鳴ずとも鳴せて聞ふ時鳥  とあり
      なかぬから鳴時聞ふ時鳥  と詠まれたのは神君であったという。

 これらからその御徳によって感化される程に温順であられたり、
また残忍であったり度量が広かったりすることが自然とわかり、本性を顕している。 
 紹巴もその席にいて、

    鳴かぬなら鳴ぬのもよし郭公

と吟じたという。

(耳袋)


歴代の発句

 夜話のときある人が話したことである。
人が仮託して出た者であるが、その人の情実がよくあてはまっている。

郭公を贈ってきた人がいた。しかし鳴かなかったので、

なかぬなら殺してしまえ時鳥 織田右府
鳴かずともなかして見せふ杜鵑 豊太閤
なかぬなら鳴まで待よ郭公 大権現様

このあとに二首が添えてある。
これは憚る所あるうえに、もとより仮託のことであるので作家は記していない。

なかぬなら鳥屋へやれよほととぎす
なかぬなら貰て置けよほととぎす

(甲子夜話)


有名な三句に続きがあるとは知らなかった
甲子夜話の匿名の二句は、戦国三傑と対比して
当時の大名の拝金さを揶揄したものか、不甲斐なさを嘆いたものか…




359 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/29(火) 19:24:59.91 ID:S9zniyzk
鳴かぬなら それでいいじゃん ほととぎす 織田信成

織田信成のセンスは里村紹巴並であったか

363 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/30(水) 09:46:10.75 ID:Buw+pmGC
ホトトギスがいつのまにかカッコウに...。

366 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/30(水) 10:44:40.18 ID:3XLWPfr6
鳴け聞こう我が領分のホトトギス 加藤清正
なんてのもあったな

豊臣関白北條征伐出陣の事

2016年11月29日 09:07

360 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/28(月) 22:58:38.33 ID:GUK5L/Vi
豊臣関白北條征伐出陣の事

 秀吉が北条を討たれに行った時、諸将は浮島が原で並び居て秀吉を待っていた。
秀吉は糸緋威の物具を着て、唐冠の胄をかぶり黄金をちりばめた太刀を帯び、
大きな土俵空穂に征矢を一筋指し、仙石権兵衛が持ってきた朱の滋藤の弓を持って、
七寸ある馬に金の瓔珞の馬甲をかけ、静かに歩かせて打通られた。
東照宮が信雄と共に出迎えられたのを見て馬から降り、

「いかに、二心あると聞いたぞ。いざ一太刀で参らん」

と太刀の柄に手を懸けられた。東照宮は左右の人に目を向けられて、

「戦始めに太刀に手を懸けられとは、めでたいことですな。」

と高らかに仰せられると、秀吉は何も言わずにまた馬に打ち乗って通られた。
(常山紀談)



361 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/28(月) 23:05:09.17 ID:HNq+lJTq
権兵衛、許された直後なのに出張ってるな

362 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/29(火) 00:01:06.99 ID:BqHMB20x
いや、時系列おかしいだろ。