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「大いに快きかな!」

2022年03月17日 18:20

397 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/17(木) 18:07:38.72 ID:JSQj1OF4
加藤清正の股肱の臣である庄林隼人(一心)、森本義太夫(一久)は共に直鑓を好んだ。
庄林は黒鳥毛を以て鞘とし、森本は白鳥毛を以て鞘とした。時の人は彼等を並び称して、これを
「黒鳥白鳥」と云った。

加藤清正が木山弾正の居城である天草城を攻めた時、森本は清正の前での軍議の序において、
「臣は小勇なれども、組討する事は壮力によりません。ただ心を剛にしてその術を知ること、
それだけです。」と申した。

清正は、森本の勇をたのむの気を抑えようとされたのか、「組討の勝敗は偶然である。必ずという
事はない。」とその言葉を制した。
その翌日、森本は衆を離れて敵と遭遇すると、彼は馬上の達者であったので、敵を横ざまに乗り倒し、
飛び下って忽ち首を掻き落とした。そして清正に「臣が言葉、違っていたか否か!」と申すと、
清正も感嘆したという。

朝鮮の役の時、流れ矢が森本の尻に当たった。庄林がそこを駆け過ぎようとしたのを森本は呼びかけた
「矢に当たって耐えられないほど痛い!この矢を抜いてくれ!」
庄林は立ち返ってこれを抜いた。すると森本は

「大いに快きかな!」

との言葉も言い終わらぬ間に自分の馬を引き寄せ騎乗し一鞭打って
「庄林殿、跡に続かれよ!」
と即座に駆けて一番に首を獲った。

志士清談

加藤家三傑とも言われた森本義太夫(一久)についてのお話




398 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/17(木) 19:10:43.42 ID:r/VwdZXg
常山紀談にもあるようだ
志士清談のほうが時代的に早いっぽいけど
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8669.html
「なんとまあ、快いことだ!」

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巨盗に下されるのと同じこと

2022年03月12日 16:33

84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/12(土) 12:58:33.65 ID:fmgbaJGW
長久手の役にて、池田勝入(恒興)、および嫡男の紀伊守(元助)が戦死したが、これに対し秀吉は、

「勝入は我に属すと言えども、その心中を察するに忠実では無かった。嗣を絶って勝入の家臣である
伊木清兵衛に六万国を与えよう。」

と、伊木清兵衛へその内意を伝えた。この伊木、元の氏は香川であったが、これより先、尾州伊木山の
群賊を滅ぼすという大きな武功を為した事を以て、苗字を伊木に改めたのである。

秀吉の内意に対し伊木は
「嫡男であった紀伊守様が既に没したと言えども、次男である古新様(輝政)には、将たるの器量が有ります。
願わくばこの古新様に勝入様の領地を賜り、池田の家を継がせて頂ければ、それは私のような田舎者を
大国に封ぜられるより超異の御恩となります。」

そう伝えたが秀吉は聴かず、これを受け入れるようしばしば厳命が下った。

伊木は大いに悩み
「命に従えば富貴を得、命に違えば死を選ぶか、追放されて亡ぶかのどちらかでしょう。
しかし主君の遺跡が絶えるのを患わず、自利を得るというのは、貧暴邪匿の凶人の成すことです。
そしてそのような者に郡邑を下されるというのは、偏に巨盗に下されるのと同じことであります。」

そのように歎き訴え続けると秀吉も、伊木の類い少ない忠貞節義に感じ入り、これによって
池田家の後継ぎとして古新を立てたのだという。

(志士清談)


二ノ谷は一ノ谷に並び、銕蓋は一ノ谷より上なりという

2022年02月26日 18:58

66 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/26(土) 15:45:14.97 ID:d3tQWrTi
美濃菩提の城主竹中半兵衛重治が一ノ谷、明智左馬助秀俊が二ノ谷、柴田伊賀守勝豊が銕蓋が峯、
この三冑、二ノ谷は一ノ谷に並び、銕蓋は一ノ谷より上なりという心をもって名付けたり。
矢田作十郎が鯉ノ冑、浦野若狭守が小水牛、黒田筑前守長政の大水牛、日根織部正が唐冠、
原隠岐守が十王、福島正則の四股鹿角、本田中書の忠信が冑、蒲生氏郷の鯰尾、伏見久内がワリ蛤、
細川三斎の山鳥、武田信玄の諏訪法性、秀吉公の八日ノ月、加藤清正の長烏帽子、藤堂新七郎が帽子、
秀忠公の角頭巾、各名ある?なり。
志士清談

志士清談からの引用が多いようなので、その投稿者さんとは別の者ですが同じく志士清談から。

志士清談』は岡山藩士南条正修(1655-1724)の作で、蝦夷地探検で有名な近藤重蔵(1771-1829)が刊行本に寄せた
序文によれば、岡山藩の儒学者熊沢淡庵(1629-1691)が、同藩の吉田源之丞家の文書を整理したものが『武将感状記』で、
その残余を編集したものがこれであるという。


しかしながらほぼ同じものが過去まとめにあります。

総じて名物の兜というものは
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-11825.html

こちらの引用先『安斉随筆』は伊勢貞丈(1718-1784)の著作。これは貞丈が冒頭で『武隠叢話』の引用と書いてますね。

過去ログにも解説されていましたが、『武隠叢話(武辺話聞書)』は、会津陣物語(杉原彦左衛門物語)、近世軍記などのタイトルと共に、
それぞれ延宝8年(1680)上杉景勝ファンを自称する近江大津の国枝清軒が諸文献をまとめたものであります。


元ネタが何処にあったか、どう書写されていったか、いろいろ考えてみると楽しいかもしれません。

68 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/26(土) 16:59:07.48 ID:d3tQWrTi
>>66
末尾の文字化けは「務」の下に「金」で読みはボウです。

67 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/26(土) 15:48:23.18 ID:d3tQWrTi
挟箱は明智日向守光秀が製に初れり、昔は竹に挟て持たせけるによって、挟箱の名に負けるとなん
志士清談


69 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/26(土) 21:06:14.15 ID:C/KFd0uw
貝原益軒朝野雑載」だとこんな感じ

秀忠公ご所望にて、細川越中守忠興より御召しの御胄差し上らる。
角頭巾の角屹と立たる形なり。その御胄を土井大炊頭利勝披露ありしに、秀忠公御意に叶い、御感ななめならず。
すなわち越中守を御前に召され、御懇意の御会遇なり。
御胄の忍の緒に、ねりくりの打緒を附けたるをよく見給いて
「忍の緒は麻布のくけひもがよきと聞き及びたり。此打緒がよきか」と御不審有しに、
越中守大炊頭に向いて、「打緒を付置候は御祝儀にて御座候。是は御肌に付候物故、別に仕置候」とて、
麻の忍の緒を入たる桐の匣を懐中より取出して差し上られければ、秀忠公いよいよ御機嫌克ち、「越中守心遣い満足なり」と仰せらる。
此御冑を大阪御陣にも召されけるとなり。
是より先、関ヶ原御陣の時、御先手より細川忠興ただ一騎御旗本へ参られけるが、山鳥の尾の冑に、銀の天衝の差物なり。是を遠見するに、さながら舞鶴の如し。
家康公御覧なされ「忠興武具のこのみ勝れて見事なり。なかんずく冑と立物の取合よし」と仰られしが、其後銀の天衝の差物は家康公御所望なされ、秀忠公へ進ぜられしとなり。

摂州一の谷二の谷は、ならびてそびえけるが、一の谷の絶頂を鐵蓋が峯というなり。
竹中半兵衛重次が胄は一の谷という。
明智左馬介が胄は、かの一の谷の胄に推ならびたる名物なりとて、二の谷という。
柴田伊賀守勝豊が胄は、一の谷より上なりとて、鐵蓋が峯という。
およそ世に名高き冑は武田信玄の諏訪法性、秀吉公の八日の月、加藤清正の長烏帽子、浦野若狭守が水牛、日根野織部が唐冠、原隠岐守が十王頭、休木久内が破蛤、
竹中半兵衛が一の谷、明智左馬介が二の谷、柴田伊賀守が鐵蓋が峯、矢田作十郎が鯉の冑、藤堂新七が帽子、蒲生氏郷の鯰尾、福島正則の鹿の四股角、本多忠勝の忠信が冑、黒田長政の大水牛、細川忠興の山鳥、秀忠公の角頭巾の御胄、
これらはみな世に隠れなき重器なり。



73 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/27(日) 21:47:00.75 ID:4i6LJsXj
>>66
ついでにそれぞれの逸話

黒田筑前守長政の大水牛
竹中半兵衛の一の谷(福島正則に贈られた)
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1543.html

日根織部正が唐冠
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3358.html

本田中書の忠信が冑
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1989.html

蒲生氏郷の鯰尾
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-11462.html

武田信玄の諏訪法性
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1162.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-11578.html
秀忠公の角頭巾
>>69

高国の謀

2022年02月24日 20:30

53 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/23(水) 20:12:51.68 ID:weA6aU+C
細川澄元細川高国は管領の職を相争い、畿内に於いて双方の与党の交戦が止むことは無かった。

ある時、高国が京都を去って丹波に逃れた事があった。澄元は威勢を京都に振るったが、高国は
散らばった兵を集め壮士を募って攻め上がり、船岡山に於いて相戦った。

この折、高国は謀として、弱兵を一陣とし、屈強の者達を二陣、強弓を選んで遊兵とした。

戦に当たり高国が激励したことで、一陣も弱兵ながら気を新たにし、敵と接するに及んで
一陣は澄元の前備えを衝き崩したが、中備えのために切り立てられた。
しかしこれによって澄元勢の前備え中備えが混乱している所に、高国の二陣の鋭兵が、
既に戦闘をして疲労していた澄元勢に当たった事で、澄元の部隊はいよいよ疲弊した。

ここに遊兵とした強弓の部隊が鏃を揃えて連ね放ち、箙を敲いて声を揚げ、軍勢甚だ盛んとなった。

澄元の兵は大いに敗れ、死傷者は数知れぬ程であった。

志士清談

戦に弱いと言われがちな細川高国が、巧みな戦術で細川澄元を破ったお話。



54 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/23(水) 20:35:47.11 ID:fLcecSJp [2/2]
船岡山合戦のことなら大内義興と陶興房、尼子経久の率いる中国オールスターズが居ることを考慮したら高国側は負ける要素低い気もしないでもないですがどうでしょう?

釜ヶ淵の化生

2022年02月19日 15:52

23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/18(金) 21:17:33.64 ID:Y94FHw/O
天文三年(1534)、芸州吉田、釜ヶ淵に化生の者が出て、近辺の男女児童を掴んで淵に引きずり込んだ。
民間の者達は恐れ、この地域の往来が絶えた。
大江(毛利)元就はこれを聞くと、「早く退治すべき」と下知をしたのだが、家中の者達は
「大蛇か、鬼のたぐいか」と衆議喧々にして、あえて進み出る者は無かった。

この時、荒源三郎元重という者が、「大蛇、鬼の類であっても、壮勇を以て退治すれば容易いことだ。」と、
この役目を引き受けた。彼は身長七尺(約210センチ)、十人力と言われる大男で、太刀を取って
釜ヶ淵に行き、裸に成って下帯に太刀を差し、水の中に入ると

「この淵の化生、確かに聞け!人民を悩ますその咎によって殺害の為、荒源三郎元重、主命を
承ってここへ来た。出て勝負せよ!」

そう大音に呼びかけると、淵の底鳴り響き、逆波立って水は岸に溢れ、源三郎の両足が水中より
ひしと取られ引きずり込まれんとした。源三郎は足を掴んでいるその両手を取って引き合ったが、
まるで山の如く動かなかった。その者の面を見ると、それは淵猿(河童)であった。

源三郎は兼ねて『淵猿は、頭頂部のくぼんだ所に水があると力があるが、水のないときは力がない』と
聞いており、これの頭を執ろうとしたが、滑って非常に執りにくかった。しかしどうにかして終に
頭を掴み、逆さまにして振り回すと、頭上の水が溢れて力が弱った。これを持ち上げて岸に上がり、
縛って城中へ連れ帰った。

元就は源三郎の勇猛を賞して、加増五十貫、来國行の太刀を賜った。しかしこれに源三郎

「私は数度の戦で敵を討ち取りましたが賞禄は少なく、ですが更に不足とは思いませんでした。
今、この畜類を生け捕ったとして過分の恩賞を頂くのは、却って不快です。」

そう打ち笑って、恩賞の刀を置いて退出した。源三郎にとってその功は誇るべきものでな無いのだろう、
と云われた。

志士清談



24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/18(金) 21:53:49.13 ID:lZwU7FsR
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3822.html
柳田國男も書いてるようだから調べたら
山島民譚集の「河童駒引」に「老媼茶話」にその話があると書かれていた。(自分が読んだ「老媼茶話」にはなかったが)

ついでに柳田國男によれば、
この話は仁徳天皇の御代に吉備の川島河の縁において笠臣の祖縣守という勇士がミズチを退治した話とよく似ているが偶然だろう。
「武家高名記」「陰徳太平記」「志士清談」にも同じ話があり(南方熊楠氏のご教示による)
芸藩通志の高田郡吉田村釜淵の条には、荒源三郎(井上元重)がカワワラワを生捕りした故跡と書かれている、らしい

怯者が負け勇者が勝つだけのことだ

2022年02月04日 18:00

6 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/04(金) 00:55:25.95 ID:93vQYRHj
豊後の臼杵に、吉田一祐という者があった。力は片手で百斤(60kg)を挙げても重いとも思わず、
鎧は銃弾が穿つことも出来ないほど厚いものを着し、二尺七寸(約81cm)の腰刀、一尺八寸(約54cm)の
短刀は、それぞれ厚さ三寸半(約10cm:本文ママ)に作り、刃は蛤貝の耳の如くであり、挟み抜いて
これを振るに、竹を振るよりも軽々としていた。

ある年、薩摩の軍が豊後を攻めた時、味方が敗走した。これに一祐は怒り、声を上げて逃げる味方を
叱咤し励ましたがなお止まず、そこで一祐は彼等より先に走り退いて、土橋の前に来ると、
自身の三間柄(約5.5㍍)の鑓を横たえ、土橋を渡ろうとする味方を推し留めようとした。

鑓の柄の所まで逃げ掛って来た者が三、四十人。一祐は鑓の柄を握り、鎧の胸に当て、
「曳け!」という声とともに推し還すと、三、四十人の者達は後ろ足に成って推し還されること
二十歩ばかりであった。一祐は大声で呼びかけた

「私がここに在る以上、この橋を渡すことは出来ない。この橋を渡らねば、川は折節秋水漲り、
底も知れぬほど深い。ここに堕ちて溺死するか!
敵も人なり、我も人なり。怯者が負け勇者が勝つだけのことだ。どうして父祖の姓を汚し、子孫に
辱めを残すということを考えないのか!」

そう、跳ね上がり、地を踏み鳴らして諌め立てると、皆引き還し、迎撃に出て薩摩軍を退却させた。

(志士清談)



豊後の佐伯太郎惟定は、驍勇智謀の将であった

2022年01月31日 17:10

2 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/31(月) 12:35:08.62 ID:H6kEBq4H
豊後の佐伯太郎惟定は、驍勇智謀の将であった。

豊薩合戦の際、島津兵庫頭義弘は、その甥である島津中務大輔豊久をして使いを遣わし、
彼に降伏することを説いたが、惟定はこれを聴かなかった。
豊久は再び使いを還し、利を以てこれを誘ったが、惟定はこの使いを斬って大友宗麟
二心無きことを示した。豊久は怒り、多兵を以てこれを攻めた。

惟定は使いを斬ってから、豊久が必ず来襲することを慮り、その策臣である山田土佐入道匡徳と計り、
伏兵を置いてこれを待った。
先ず、徒歩の者を三ヶ所に置き、一見深く隠しているようにして、少しばかりその形成が顕れるようにした。
豊久は斥候を以て探索し、三ヶ所の伏兵を発見し、直ぐにこれを攻撃した。

三ヶ所の伏兵たちは、惟定が兼ねて命じていたとおりに、攻撃を受けると急ぎ走って逃げ去った。
三ヶ所の伏兵は命に従って死を免れた。そして薩摩の者達は、これによって他に伏兵はいないと考え、
再び探索することをせず、佐伯惟定を軽んずる思いを持った。

この時、惟定は騎士の伏兵を道路より二、三十町下がった山間に置き、豊久の軍が通過するのを待って、
廻ってその後ろに出た。

豊久の軍に対し、惟定は地の利を利用してこれを防いだ。豊久の軍は破ること出来ず徐々に疲労した。
これを窺って合図の法螺が吹かれた。一の騎馬の伏兵、法螺を聞いて左より俄に起き、豊久軍の横を
断とうとした。豊久の兵がこれに当たろうとすると、ニの騎馬の伏兵右より起こり、それぞれが
左右を衝こうとすると、そこに三の騎馬の伏兵が中より起こった。
ここで本陣の匡徳正兵となり惟定奇兵となって即座に進んで縦伐した。
豊久の兵は目が眩み志奪われ、大いに敗れ潰走した。

志士清談

佐伯惟定の策謀について



3 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/31(月) 13:46:28.92 ID:7kjVdDgC
戦国期、西国は騎兵使わない戦闘が多いと聞くが、この物語だと騎兵使ってるのね

我に均き者は誰ぞや

2022年01月23日 16:40

977 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/23(日) 14:41:00.24 ID:bLWM9gEP
戸次(立花)道雪は豊後の鎧岳の城主であった。能く士を愛護した故に、士卒は度々殊功を立てて
彼の危難を救った。

道雪には寵童があった。しかしこれに近侍の士が密かに情を通じた。道雪はこれを知れども
問い糾す事はしなかった。
近侍の士の友人が、道雪が近侍の士と寵童との関係を知っていることを識り、近侍の士を諌めて
出奔するよう促したが、近侍の士はこれを聴かなかった。しかし友人は近侍の士が刑せられることを
恐れて、道雪への夜話の中に、このような事を語った。

「誰とは知りませんが、東国の大将に愛幸の侍童が有りました。しかし大将の昵近の臣が、この侍童と
深夜枕を並べていたのです。大将は怒って昵近の臣に腹を切らせ、侍童は放逐しました。
これは主君の目を晦ました者ですから、理でありましょう。ただこれは商人が物語ったものですので、
その始末は詳細にはわかりません。」

と、作り話をして、道雪の返答を試みようとしたのである。
道雪は曰く

「大将たる者、忌妬の心がある時は狭窄となり、物を容れる度量が無くなる。
物を容れる度量が無ければ、士は悦服しない。
その他の理由で戦うのと、悦服して戦うのとでは、その強靭さは同日にも語れないほどの差がある。

暴悪の如きに対しては国法によって規制されるが、有り難い世俗の習いに染まって、その非を識らないという
類は、詐偽、欺瞞に比すべきではない。どうして命を断つに至るだろうか。」

友人は退いて、これを近侍の士に語った。近侍の士は感嘆斜め成らなかった。

ある年、道雪が薩摩の軍に攻め掛かられる事があった。道雪は城を出てこれを防いだが、薩摩軍に
中を絶たれて城に還り入ることが出来なくなってしまい、士卒の多くが壊乱した。

この時、かの近侍の士が大声で叫んだ

「鏃刀を帯びるのは畳の上で酒茶を喫するようなものだと思っているが、弱敵を破る事に何の
気勢があるだろうか。我等はこのような強敵に遭って命を損じ名を留めようと、兼ねてから言っていたでは
ないか!
今、俄に期せる事が来たのだ。面々、ここを逃げて誰に再び面と向かうことが出来るのか!」

そう勇んで敵を防いで大いに驍勇を奮った。この姿に壊乱していた者達も励まされて踏み留まり、
次々と闘死した。この間に道雪は城に還り入ることを得た。

ここでまた、近侍の士は叫んだ
「悉く城に還り入ろうとすれば。門を閉じることが出来ずこれに付け込まれ攻め落とされる事が有るだろう。
五人でも十人でも、ここで必死を極めて城を全うすれば稀世の忠義たるべし!
私は今、ここに残る。我に均き者は誰ぞや!」

そう言って鑓を膝の上に置いて平座した。これを見て残った者は三人。彼等は皆、敵五人七人を斬って
戦死し、両軍の目を驚かせた。

道雪がこの急難を免れたのは、近侍の士のおかげであった。

志士清談



978 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/23(日) 15:44:09.34 ID:uoK+KPRM
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2351.html
立花道雪 、若者は斬らず


似たような話を前に見たと思ったけど
近習が女中と不義密通したところ道雪から許されて勇敢に戦死した話だった

979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/25(火) 00:21:45.24 ID:mGEpN3uT
東国の大将って芦名さんかな

980 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/25(火) 20:03:27.94 ID:inYP3U+d
まあ作り話なんで、ここではないどこか遠くの話、ですな

981 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/26(水) 03:34:17.84 ID:nDDm0RyX
フェナリナーサ?

願わくばこの旨を台聴に達し

2022年01月21日 17:03

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/21(金) 16:27:07.07 ID:i+8pRNNV
関白豊臣秀次が二十八歳の時、文禄四年七月十五日、高野山の青巌寺に於いて御切腹された。
これにより秀次の柄臣寵臣も所々にて自殺する中に、木村常陸介(重茲)は検使である松田勝右衛門に
向かって言った

「今度関白が聚楽を出て伏見に赴かれることに決まった時、私は秀次公に
『太閤(秀吉)に御対面さえあれば、至親の御仲ですから、讒間の事も明らかになるでしょう。
しかし対面もされず、中途に於いて僻地遠島に追放されるか、甲斐なく御身を白刃に割らせられるか、
必ずこの二つのどちらかになるでしょう。
ですので、太閤の使者を斬って棄て、諸大名の妻子で聚楽に在る者達を人質とし、罪が無いという事を
糺させ給えば、和となっても固く定まり、また戦となっても勇を遺します。であるのにどうして、
巣穴を離れて猟人の箭鏃にかかろうとなさるのですか!』

そう、二度にわたって諌め申し上げたが、秀次公は『私がどうして太閤に敵するだろうか』と、
終に御承引無かった。然れば、関白に於いて太閤に対する異心が全く無かった事を推測されるべし。
願わくばこの旨を台聴に達して頂ければ、その恩は泉下に至っても忘れない。」

このように言ったのを、松田は折を見て太閤に語った。太閤はその志を愍んで、妻子に米百石を
賜った。妻子たちは京都誓願寺の近所に居住していた。

志士清談



上様日和

2022年01月19日 16:47

969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/19(水) 15:09:16.75 ID:uKh5wzsJ
小田原の役の折、九鬼大隅守嘉隆は艟艨(軍船)である日本丸を乗り廻し、豆州下田の城を抜いて
それより小田原に来たりて、海辺の通路を断った。それまで小田原城周辺の巡見は成り難かったのだが、
これより豊臣秀吉もいよいよ北条を呑んで。小田原城を巡見し嘉隆の船に乗った。

この舟の棹郎(船頭)に、十兵衛と云って長大壮力、見るも驚く程の者があった。
秀吉は彼に

「そこの男、我を背負って船に乗せよ。船内は歩きづらい。」

と、十兵衛の肩に手をかけると、十兵衛はこれを背負って歩み、労を助けた。
「嬰児になったような心地がするぞ!」
秀吉は大いに笑われ、十兵衛は金銭を賜った。

小田原沖は本来荒海で東風が強く、巨波山の如しであるのだが、この時の五、六十日の間は
風は穏やかで波も静かであった。これより後、この時の天候を『上様日和』と言い伝えたという。

志士清談



970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/19(水) 16:25:39.18 ID:DfHJPi8E
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-11325.html
上様日和は常山紀談の話が前に出てたけど志士清談のほうが詳しいな

これより盲船の法として

2022年01月18日 17:08

966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/18(火) 16:04:56.07 ID:bEd+8sDn
大阪冬の陣に、九鬼長門守守隆は大船を数多乗り集めた。この頃、加藤肥後守清正が建造した
唐船作りの大きな川船が兵庫浦に逗留されていたのだが、明石掃部助全登がこれを取って、
軍船に改造し九鬼守隆と戦ったが、守隆の将である渡邊数馬がこの船を乗っ取り、そのため
明石全登は城に引き返した。この時全登の十文字の馬印を、渡邊は獲った。
しかしその折に渡邊は負傷し、源君(徳川家康)は本多上野介正純を以て守隆を労し、渡邊に金瘡の
妙薬を賜ったのだが、回復せず死んだ。

源君は守隆に、大阪城の隅櫓より発射されるフランキ砲を防ぐよう命じた。守隆は盲船を造り
水底を潜航して遂にフランキ砲を以て隅櫓を打ち破った。これより盲船の法として世に伝わったものは、
九鬼家が始めて製造したものである。

志士清談

九鬼の盲船の活躍について



967 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/18(火) 16:10:44.34 ID:84x5JFhP
潜航だけなら隠密航行したのかとも思ったけど、水底をって書かれてるのか

968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/18(火) 17:05:54.36 ID:wBbPDQNK
潜水艦!?

六家老はこの様子を見て

2022年01月16日 16:45

959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/16(日) 15:09:55.05 ID:0r6Ad8VC
豊臣秀吉は島津家の不逞不義を怒り、島津征伐を行った。島津修理太夫義久は敗れて降伏を請い、秀吉は
これを許した。

義久並びに島津家の六家老は皆剃髪し、寸刀も帯びずに来謁した。秀吉は諸大名を左右に列し、自身は
中正に床几を置いて腰を掛けて謁を受けた。彼はこのように声をかけた

「天子を軽侮するの罪、自己に驕り恣なるの咎、氏族を夷滅せんと欲すれども、刑戮を降伏に加えるに
忍びない。故にこれを宥す上は、今より旧悪を棄て本領を安堵する。その詞の印に両刀を与えるべし。」

と。自身が帯びていた長刀短刀を外し、刀の柄の方を義久に取らせた。六家老はこの様子を見て、
秀吉の大勇広量に驚嘆したという。

志士清談

秀吉が臣従してきた相手に自分の両刀を持たせたというのは、伊達政宗の話が有名ですが、
島津相手にも似たような話があったのですね。



960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/16(日) 15:32:39.15 ID:6ofPMtyB
戦国無双2Empiresのイベントでもあったっけ
秀吉「義久は新参でまだ不案内じゃろ?わし直々に案内してやろうぞ
んじゃ、わしの刀を持ってついて参れ」
島津義久「味方について日の浅い私に刀を預け、丸腰で、私に背を向けるとは…
斬れるならば斬れということか、全面的に信用しているということか、いずれにせよ、秀吉の将器…大きい」
(政宗も名前を変えただけのイベントあり)

薩摩川内市の泰平寺公園の島津義久像が秀吉に降伏している場面なのは少しかわいそうではある

961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/16(日) 15:55:29.66 ID:z0WZzppy
ドリフターズのせいで空気読まずに襲いかかる島津を想像してしまうw

「人殺しだ!」と叫んだ

2022年01月15日 17:08

278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/15(土) 16:27:52.40 ID:CFXpItV1
南都(奈良)の奉行である中坊飛騨守(秀祐)・美作守(秀政)父子に仕えていた、
柴田角兵衛、田村源兵衛という兄弟の勇士があった。

ある日、兄弟は連れ立って木津川を渡ったのだが、この渡は武士からは船賃を取らない事になっていた
にもかかわらず、この時の両人の風体が春日社の禰宜に似ていたため見誤り、船賃を乞うた。
渡守は川の中程で舟を止めて、彼等に対し「船賃を出さねば渡さない!」と悪口に及んだため、
兄弟は水棹を取って一人の渡守を打ち倒すと、もう一人は水に飛び込んで遁れ、木津の町に入ると
「人殺しだ!」と叫んだ。

この町は浪人なども居住していた地であったので、鑓長刀を持って数多の者達が兄弟に向かって
出合った。兄弟は刀を抜いてこれと当たり、数箇所に傷を負い、兄弟の間も隔てること半町ばかりであった。
源兵衛は血で朱に染まり、また角兵衛は溝に踏み込んでしまい危うかったが、町の者共も彼等の勇気に
辟易し、近づく者も無かったため自ら起き上がった。そして取り囲んでいた者達も次第にまばらになったので、
彼等は木津の町へと向かった。

すると町は騒動して木戸をさし堅めて彼等の侵入を阻止しようとした。しかし潜り戸より婦人が
彼等を覗いているのを見つけるとこれを人質に取ってその家に入り込んだ。この婦人は所の長の
妻であったので、様々に扱いとなり、これは当分の難を遁れるためであったので、約を定めて
婦人を解放した。その内に彼等兄弟が奉行所の士であることが解り、木津の町の者達は却って
打ち詫び、怠状(謝罪状)を書いて出した。

死者六人、負傷者は数を知れず。兄弟は大難を遁れた。

(志士清談)

船賃を取る取らないで死者六名負傷者多数の騒ぎになったというお話。



これを以て察したのだ

2021年12月22日 17:43

905 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/21(火) 20:19:38.84 ID:xcIPBiIw
寛永十五年、肥州島原の乱でのこと。二月二十一日、黒田家の家臣である竹森石見貞幸が、
同僚である吉田壱岐守(重成)の陣屋へ夜話に行き、その帰りに及んで
「今夜必ず夜討ちがあるだろう。怠ること勿れ。」
と戒めた。その夜、賊徒が黒田の陣所に忍び来て夜討ちをしたが、兼ねて準備をしていた黒田方に
打ち負けて撤退した。

ある人が貞幸に、なぜ事前に夜討ちのことを知っていたのか問うた所、彼はこのように答えた

「前日に城中が物騒がしく、殊に夜に入って婦女の泣き声が聞こえてきた。これを以て察したのだ。」

二月二十八日、諸手が本丸を攻め破った時、貞幸は一番に黒田の旗を本丸に入れて先登した。

(志士清談)

黒田二十四騎の一人とされる竹森次貞の息子、貞幸の島原の乱での活躍について



富田信高の妻

2021年12月18日 15:44

898 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/18(土) 11:58:52.21 ID:HqeQe7BJ
勢州安濃津の城主、富田信濃守信高の妻は、宇喜多安心の娘であった。

石田三成の乱(関ヶ原)の時、西軍の毛利秀元長束正家安国寺恵瓊等が安濃津の城を攻めること急であった。
城中に、富田信高に対し追手が切って出、敵は気負い掛かって引き取り難く、既に危ういとの知らせが聞こえると、
信高の妻は甲冑を着け、片鎌の手槍を以て出撃し切って廻り、毛利秀元の士である中川清左衛門という
大剛の武者を突き殺し、五、六人を手負わせ、信高と共に本丸に引き入った。

その後、高野の與山上人(木食応其)の扱いによって、信高は西軍に城を明け渡し、同国一身田専修寺に入り、
剃髪して高野山に在ったが、この戦功によって、関ヶ原合戦の後召し出され、豫州宇和島十万石を賜った。

志士清談

安濃津の戦いでの、富田信高の妻の活躍についてのお話



899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/18(土) 12:53:24.30 ID:6b3dO41e
そして妻の縁戚の坂崎直盛のせいで改易に
ついでに江戸の儒学者榊原篁洲「榊巷談苑」の本文の最後には
「このくににて、女の軍したるは、巴・板額ぞ世人もよくしれり。
北越太平記に、富田信濃守が妻の安濃の津にて軍したることをのせたり。本より據なきことなり。信ずべからず。
北越太平記・東国太平記は、紀州の宇佐美竹隠がつくりて、その名をばかくしけり。
おのれ宇佐美駿河守が末なりければ、件の太平記の中にも、事に寄せて駿河守をほめかがやかしけるとぞ。
さて景勝は大御所の神武にもまさり、政宗などは物の用にもたらぬ人の様にかきなしたり。」
と書かれている模様

900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/18(土) 16:25:40.08 ID:6b3dO41e
ついでに井上泰至「江戸の発禁本」によれば
篁洲が富田信高の妻の話を創作と断じたことについて
「関ヶ原軍記大成」の著者、宮川忍斎が安濃津城の戦いについて収集した家録類にはまったく見えず、後人の文飾ではないか、としていることをあげている。
なお宇佐美竹隠(定祐)が「北越太平記」や「東国太平記」の安濃津城の戦いについて用いたものは、内容のいい加減さで有名な「石田軍記」の以下の記事の丸写しだとか

その胆力を惜しんだという

2021年12月12日 16:33

堀直寄   
233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/12(日) 14:17:03.91 ID:IsRXlB3n
越後村上の城主である堀丹後守直寄は、堀監物直政の二男で、幼名を三十郎と言った。彼は豊臣秀吉公の
児小姓であり、後に丹後守と改めた。
直寄は自身の九万石の領地の内、一万石の禄を与えて能勢右近を招いたほどの人材好きであった。

彼の家中に梅田佐五右衛門という武士が有り、大坂の陣でも武功があり、それ以前からも名のある者であった。
彼は勇荘大力であり、口径が三、四寸ばかり(10~12センチほど)の大丈夫筒(大筒)を持ち上げるほどであった。

ある時、丹後守が制札を出した。これに『小唄・尺八・男色等禁制』とあったのだが、佐五右衛門は
この部分に墨を引いて塗りつぶした。丹後守はこの行為に激怒し、二名の討ち手を遣わして彼を殺させた。
佐五右衛門が城の端に何気なく立っている所に、一人が近寄って短刀で刺した。佐五右衛門は騒がず
この者を捕って引き寄せたが、その時もう一人も彼を刺した。しかし佐五右衛門は両人を左右の脇に挟み、
二十間あまり(約36メートル)の縁を走り出たが、その間に再び突かれて殺された。

彼のこの死に様を聞いた丹後守は、その胆力を惜しんだという。

志士清談

自分で殺させておいて惜しむというのも何というか。



234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/12(日) 15:10:40.45 ID:6rYzIKm+
やっちゃいけない事する以上仕留めないといけないけど、それはそれとしてこんだけの豪の者を仕留めるのは惜しいってのは矛盾しないと思う

235 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/12/12(日) 15:23:50.95 ID:UcxeYvzn
太田道灌を殺った扇谷定正にはこんな気分はあったろうか…。

私は若き時より、敵に向かって臆したことは

2021年12月08日 17:38

862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/08(水) 12:12:17.53 ID:+KDTAwgV
黒田長政の家老である黒田美作一成は、幼名を玉松、後に三左衛門と呼ばれ、晩年に美作と改め、隠居して
睡鴎と号した。彼は肥前島原の役の時に六十八歳であったが、正月十七日、福岡を出陣し島原に至った。

この時、松平伊豆守(信綱)は軍議をしようと彼を召したが、美作は先に城下を打ち廻ってよくよく地勢を
見終わってから、伊豆守の陣所へ行き、
「今日ここに至り、もし愚意を問われても当城の形勢を知らなければ何を申し上げることが出来るでしょうか。
所々を行って廻り見分仕ったにより、すぐには参上しませんでした。」

このように申すと、伊豆守も「さすが老功の者」と賞美した。そして城へ乗り込む時期について問われると、
こう申し上げた

「只今、城へと乗り込むのは然るべからず。この城を力攻めにすれば、勿論即時に乗っ取ることは
出来るでしょうが、敵の弾薬も沢山あり、寄せ手に多くの死傷者が出るでしょう。今はただ取り巻き
兵糧攻めにして、弾薬を徒に尽きさせ、食も尽き、疲弊した時に乗っ取る事こそ然るべきです。

これについて、もし敵を恐れて申しているのだと思われるかも知れません。しかし私は若き時より、
敵に向かって臆したことはありません。現在、他に変は無く、孤立した一揆の孤城に対して
御人数の死傷者が多いというのは宜しからざる、そのためこのように申しているのです。」

これに伊豆守も諸大将も、一成の意見に同心したという。

志士清談



この湯に浴しただけでも傷が癒えた

2021年12月06日 19:01

220 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/06(月) 15:48:26.53 ID:cTQQ2Jd/
秦桐若は黒田孝高に従い度々勇名を得、首三十一を取った。播州の近国の者達は、彼の、長さ一間半ある
唐団扇の指物を見知っており、戦場で近づくことがなかった。秦が指物を隠して敵に近づき、俄にそれを出すと
それだけで敵勢は忽ち敗走したという。

天正十年の山崎合戦の折、彼は重い傷を負い、治療して過半癒えたが、未だ十分に回復していなかったことで、
翌年摂州有馬温泉で湯治をした所、不日に平癒した。この時秦は

「この湯に浴しただけでも傷が癒えた、これを飲めばその効能はいよいよ速やかであろう。」

と、三勺飲むと、腹痛暴泄し程なく傷口が再び破裂して忽ち死んだ。

志士清談

有馬温泉の湯を飲んだばかりに急死した黒田家の勇士のお話。




221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/06(月) 18:23:16.75 ID:DoAv82So
当時は湯も不衛生だったのだろうな

222 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/06(月) 18:55:09.70 ID:OH6D94Dy
いや、当時の衛生観念とか考えて妥当の判断だとは思うんだけどね?
どうしてもバカにつける薬飲んだって話思い出しちゃうなこれ

223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/07(火) 03:02:12.04 ID:iiyy02JR
温泉は湧き続けてたり殺菌効果があれば泉質は保たれるし
山崎合戦の時代なら現代ほど人で賑わう訳でもないだろうから
湯の衛性さには問題は無かったんじゃないか?
この場合むしろ問題だったのは泉質なんじゃないか?
飲める温泉も多いけど含有成分によっては飲んで体調悪化するものもあるだろう