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庄内失地

2015年07月18日 16:59

75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/18(土) 14:38:27.52 ID:2AhyKDAD
庄内失地

天正16(1588)年春、東禅寺義長の治める庄内に、越後揚北の本庄繁長が突如として侵攻を開始した
旧庄内の領主大宝寺派の国人等も越後勢に呼応し、庄内の地は一挙に騒然となった
大崎合戦の始末で虚を突かれた最上義光は近臣草苅虎之助を大将に数百騎を庄内に派遣し、自身も後詰めとして近習馬廻を召し連れ山形城を発し、各地の諸将士軍勢には「急ぎいくさ仕度をし、庄内境で合流すべし」と早馬を飛ばした

中山境の里見民部は対伊達への牽制で動けず
延沢満延軍は大崎家支援のために陸奥名生にあり、
氏家、志村、鮭延、日野、安食等の郎党たちが次第に庄内境に詰めてきたが、そこには庄内からの敗報が櫛の歯を欠く様に入って来ていた

庄内からの早馬「尾浦の城落城!」

芳しくない報せに義光は血眼になり「無念この上ない!今いる兵だけで構わないから急ぎ押し寄せ味方に合流し、越後勢を留めよかし」とおっしゃったが
氏家守棟志村光安等は「この度はにわかな出陣で号を掛けた領内の兵もまだ馳せ集まっておりません!数百の兵では数千に及ぶ越後勢に敵わぬのも自明の理、地理もまた不利にて難所越えをして戦うのも兵をあたら失う事必定です!」と諌言をした

そこに別な早馬が二三駆けてきて報告した

早馬「地安(千安)黒瀬で東禅寺軍敗北!東禅寺勝正(東禅寺義長の弟)様討ち死に!草苅虎之助様も討ち死に!」

義光は守棟をきっと睨んだが、次の伝令が言葉を続けた

「…氏家様御子息、氏家光棟様、討ち死に!」

守棟「…殿、寡兵では越後勢に敵いませぬ
時期を待ち軍を調え、その上で本懐を遂げさせ玉(給)え」

どちらかが折れなければ収まりがつかなかったが、守棟のこの言葉に義光が折れた

最上義光物語」

その後庄内は上杉領となり、庄内の地が最上家のものとなったのは慶長6(1601)年の関ヶ原始末以降の事である

間に合わなかった援軍の話



76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/18(土) 15:59:15.71 ID:kMIIe4Qf
貴重な鮭の補給地が

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最上光忠

2015年03月11日 18:52

547 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/03/11(水) 04:26:16.11 ID:RRi7Q4HR
最上光忠

天正8(1580)年頃、山形の最上義光は志村九郎(志村光安)に出羽打ちの鎗、青鷹、名馬を持たせ徳川家康を頼り安土の織田信長に正式な「出羽守」を認めて貰える様謁見を願い出た

志村光安の弁舌をもって織田信長は「地方の事には疎い事もあり、白鳥某が出羽の有力者と勘違いをしておった
最上『出羽守』義光殿にはすまぬ事をした」と
志村光安に多くの土産物を持たせた

義光(´・ω・`)「それでこれだけたくさんの宝物を貰って来たの?」
氏家守棟「信長公から『出羽守』の正当性を認める書状!これで当初の目的は果たしましたが、色々と光安殿は持ち帰りましたな
…櫃には兜と鎧…絹に巻物
目録では他に刀…おお!これは!」

光安が土産として信長から義光宛てに安土から持ち帰ったものの中には信長愛用の「光忠」の太刀があった

この光忠は元は足利義輝の物であったが、信長が頂き、最上義光の手に渡った

最上家の宝としてこの太刀には「最上光忠」の名が当てられた

「山形の昔話」

…しかしこの話には続きがあり、
義光の手にあった光忠は訳あって豊臣秀吉に献上され、その子秀頼から徳川家康の手に渡り、秀忠を経て江戸の初期に復た最上家へと戻った※

その後しばらく行方がわからなくなっていたが、1952年に文化庁の重要文化財証明認定時に所持者は最上家の家老職を先祖にもつ人物が所持者になっていたが、
2014年の文化庁の重文確認では現・所持者と合わせ所在不明となってしまっている

※秀忠から仲の良かった家親に渡されたとも、福島正則屋敷収公の手柄として家信(義俊)にくだされたとも、別件で下賜されたとも説がある




義光が上杉家から恨まれる様になった理由

2015年03月03日 18:39

496 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/03/02(月) 23:47:57.54 ID:SOa/h9Hp
義光が上杉家から恨まれる様になった理由

太閤豊臣秀吉の死後、石佐(石田三成)は天下に反逆を企て様として会津黄門(上杉景勝)と謀を共にした
上杉景勝は会津に下り、ひそかに伊達や佐竹、相馬といった隣国の諸将を味方に引き入れ様と画策をした
景勝は山形へも使者を遣わし
「この度徳川家康の天下勝手に憤りを感じ、豊臣秀頼公を扶け此を排する試みである。山形(最上義光)殿も同心するなら是非とも徳川攻めの先手をお頼みしたい
会津の隣国の誼で格別昵懇にいたしたい」という趣の書状を寄越された

最上義光は嫡子義康と弟の楯岡光直、その他本城豊前(楯岡満茂)と志村九郎(志村光安)、鮭延秀綱を召し集め評定を開いた

義光(´・ω・`)「景勝の考えは多分大坂の秀頼卿がまだまだ幼いので、家康公を亡ぼし、天下の政道を代わりに執るつもりなのだろうか
秀頼卿の名を捧げはすれ、実の伴わないものと思われる
みなも知っての通り私(義光)は家康公に長年厚い郷恩を頂いてきた
これは山よりも高く、海よりも深いものである
徳川様のためには一命も惜しくはないが、それを天下に不義なす上杉に一味する等、馬鹿げた事とは思わないか?」
と仰せられた

そこに鮭延秀綱が「潔い事ではありますが、ちょっと考えてみてください
上杉は武門の名家、それに東国でも比類なき大々名です
単独で家康公に敵対する腹積もりはなく、おそらくは同調する勢力がそれなりに存在する事でしょう
そこへ戦略もなく、小兵の味方だけでは上杉を敵に回し千に一つの勝機も難しかろうと存じます
時間稼ぎをし、その間に景勝の動向を家康公に注進なされてはいかがでしょう?
上杉勢がいざ最上を敵と見做し攻めて来ても、領内で戦えば地の利は味方にあり、勝機は得る可能性も増えるはずです」と進言した

(つづく)

497 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/03/02(月) 23:51:02.17 ID:SOa/h9Hp
(つづき)

義光は少し思案し
(´・ω・`)「秀綱の言う事ももっともだ。会津へは今少し時間を貰える様使者を出し、徳川様には上杉軍が味方を募っている旨を報告しよう」と答えた

そこへ上杉家から「味方として軍費の足しに用いてほしい」と多額の金銀が送り届けられた

義光は「…時間を引き延ばしてごまかしていたら、戦費を贈られて既成事実を先に作られてしまったか
これではとうてい味方をしないと言っても裏があるのではないかと疑われてしまう
とうてい上杉に助力等できないのだから、この金銀を会津に返し、きっぱりと最上家の旗色を示すべきである」と言ったが

本城豊前(楯岡満茂)は「今後の事はさて置き、上杉が最上に猜疑心を持たない様時間稼ぎにもなりますから、
貰える物は貰っておいた方が宜しいのではないでしょうか?」と義光を説得した

(´・ω・`)「…些(いささ)か後ろめたさはあるが、これも窮余の一策…
軍費に一部を宛てがい、残りは皆で配分せよ」
と上杉家からの金銀は番頭物頭は言うに及ばず、馬廻りの武士以下にまで残らず分け与えられた

家康公の御恩は上杉家からの金銀等には比べものにならないものである
義光公のお心の奥底では駒姫の件で豊家をお恨みなされているともお聞きした事がある

叶う事はなかったが駒姫の助名嘆願にも家康公が最上家を格別に懇得なされている事は義光公も常々忝なく思っている事である

家康公の御恩を思わば上杉家を謀(たばか)る事もやむを得ない事である、と
最上領の人達は旗色を定め、上杉とのいくさを決断する気持ちとなった

「山形軍談」「最上記」ほか




499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/03(火) 00:18:38.26 ID:W2InvcPu
> みなも知っての通り私(義光)は家康公に長年厚い郷恩を頂いてきた

そんなに恩受けたっけ?

500 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/03(火) 01:10:00.23 ID:gPerzVmy
>>499
志村光安が織田信長に謁見する際に徳川家康が取次役になった
・小田原参陣直前に最上義守の病と葬儀で遅参の調停を徳川家康が取り成した
・上杉に奪われた庄内領裁判で徳川家康は最上義光を擁護した
・秀次事件の際蟄居されていた最上義光を弁護した

など

志村光安の容貌

2014年11月07日 18:44

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/05(水) 14:23:13.92 ID:bsemGf33
志村光安の容貌

山形県S市の某所に志村光安の甲冑が伝えられている

平成前期に山形市の最上義光歴史館で特別展示がなされた志村光安の兜はそれまでの出羽の甲冑師の作とは大きく異なり、
二段の淵がある背高南蛮傘風の筋兜鉢に総覆面の面金が付いており、胴廻りが1メートル近くのアンコ体型の巨大な小札胴とセットになっている

全体的な劣化の為に通常一般公開はなされておらず、ネット上画像も検出出来ない模様

例えるなら芦屋雁之助や松村邦洋に南蛮傘風の兜を被せ、その体型に合わせた胴を誂えたかの様なイメージ

延沢満延や楯岡満茂とは異なり、もちもち体型と思われる志村光安の甲冑のお話


695 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/05(水) 14:58:25.57 ID:bsemGf33
>>694
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0017731
↑こちらを筋兜にした様な形状です



701 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/07(金) 01:22:14.39 ID:tHXFCF8o
S市って新庄市か酒田市と寒河江市か

谷地城の下美作

2014年11月05日 18:52

下美作   
691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/05(水) 13:25:35.46 ID:bsemGf33
谷地城の下美作

以前の話と異なるものがあったので投下

長谷堂合戦の後に谷地伯耆・寒河江広俊の率いる兵3000と、長谷堂城主志村光安の援軍兵1000が上杉軍下吉忠の篭る谷地城を取り囲んだ

志村光安が下吉忠に降伏を求め一人谷地城に入ったが、吉忠は光安に時間を貰い席を外すと、城奥で一族老臣を集めて最上軍に降るか抗戦を続けるかの軍議を開いた

内談は皆渋り顔で結論が中々纏まらなかったが、吉忠の一族の下美作が進み出て申し出るは

美作「敵の重臣の志村光安がのこのこ一人で谷地城内に来たのですから、これを幸いに人質にとって庄内に帰るべきです!
志村ほどの人質ならば最上軍もまさか追撃しにくいでしょう」と発言した

吉忠はこれを聞くと「…人質といっても伊達政宗が二本松に父を人質に取られて敵と共に射殺した事もあったよな。
志村光安は一人で身を捨て我等に道理を説き、敵を助けるために降伏を勧めてきたのだ。光安は人質にせず、ましてや殺さずに陣に帰すべきである。
武士の体面を大切にするならあとは潔く一同城を打って出て討ち死にするくらいしかないよ」と答えた

すると列座の者から
「志村光安は敵に対してもけして嘘いつわりを申さずと聞き及んでおります
その志村が我等が篭城・継戦を無駄と申すなら、一度は捨てた命を生まれ変わった気で新しき主のために使ってみてはどうでしょう?」との声が上がった

この声に我もそう思うと評議は一決し
「志村光安に身を任せて降伏しよう」と慌ただしく谷地城の開城降伏が決まった

『奥羽永慶軍記』

下美作が志村光安を人質にしようとしていた異聞




長谷堂攻め本格化す

2014年09月16日 18:52

798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/16(火) 14:57:44.73 ID:86qLHPKL
長谷堂攻め本格化す

(慶長5年9月14日に富山口を抜け長谷堂北方の山形盆地に進軍した直江兼続だったが
15日の楯岡光直と清水義親の夜襲を受けて、菅沢丘陵へと後退して陣を構えた)

其比(此)、長谷堂には志村伊豆守(志村光安)在城しける間
加勢として(鮭延秀綱の援軍)旗本百騎に小筒の足軽二百餘人籠りける

然るに九月十六日直江山城守(直江兼続)長谷城へ押寄、城十一町を隔て、菅澤山に陣をとれば
春日左衛門(春日元忠)は山の尾崎に備を立、既に春日は仰を窺、明日未明より可責と也
然は城中の若者一々次第に打而出んとはやりける所に、伊豆守(光安)同加勢(秀綱)と申合壱人も柵より外へ、□(※耳の右側に卯の字)爾に出さず
悉静りかへつて居たりけるが、其夜伊豆守家来に大風右衛門佐、横尾勘解由を大将として兼而夜討に馴たる若者二百人撰び出し互いに相ことばを定め二手に分け
十六日の曉春日左衛門尉が備へたる陣中へ忍入す
こへも立ず 、追伏々切ける間、思ひよらざる事なれば陣中上を下へと返しけり何れをかたき共味方共わけざれば同士討する事数多なり
去るに左衛門も馬に乗るべき隙さへなく漸く太刀斗追取て山城守陣中さして逃行ける
然る所に夜打の勢共は左衛門が陣を思ひの儘に打破り討捕し首共を百十五持来り
伊豆守実検に入ければ喜悦其限なく、夜討の大将は不及申其外のもの共に迄ほうびをえさせけり
其夜味方にも八人打死しけるとなり

799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/16(火) 15:22:57.92 ID:86qLHPKL
さて又かたきの方にはいよいよ無念を起し押付長谷堂へ取詰るのよし義光公被聞召鮭延越前守を召されのたまひけるは

(義光)「長谷堂の城へは最前より加勢を丈夫に遣し置といへ共いまだ心もとなき間
其方は急長谷堂へ行伊豆守合力後事の評定を致べし
かまへてかまへて日来申付ごとく城中の勢兵を壱人も柵より外不可出」

と有ければ

(秀綱)「畏て候」

とて手勢引くし長谷堂へ行、伊豆守に対面して御意の趣委申渡ける
然るに春日左衛門、十六日の敗軍口惜存、同十八日に先陣にて惣堀へ攻寄るといへども、城中には少もさはがず
四方の矢ぐらより鉄砲を一同あられのごとく打ければ時の間に多の死人出たりけり
寄手是を見て責めあぐんでや有けん、先手負共を助よとて本陣へ引返しける
然ば城の内にてはいよいよ悦就中はやりをの若もの共勝に来ていざや打て出追討なさんとていさみにいさんで打出んとせし所に伊豆守抑へ申けるは

(光安)「何とてかたかたは不入若げを働候哉
此城堅固にして数日送りなば必ず義光公後詰可有之間
其時内外よりもみ合戦候はば立所に勝利を得べし
然るに今卒爾に打て出付入などにせられてはあしかるべし
さて付入と申は昔よりも上杉家のえものとこそ聞及也
殊更義光公鮭延に被仰含候通城中の勢兵返々壱人成共柵より外へ不出可と
委細被仰越候所に卒爾成働共返々無用」

と申けれども若手の者聞も不入

800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/16(火) 15:56:55.00 ID:86qLHPKL
(長谷堂城兵の若者達)「(9月17日に南の上山城の里見勢が上杉軍の本村親盛や椎名弥七、松下杢助・平岩石見、岩井備中を討ち取り、数百の首級を挙げた戦果を伝え聞き)
上山、長谷堂とて同様に寄来るに上山にてはかたきを追払、分捕高名せし處に、此城なればとてなんぞ一戦もせざらんやは無念の次第なり」

と口々に申ける所節かたきの方には足軽共をあまた放し散らし作物を苅はこばしむるを越前守

(秀綱)「あれあれ御覧候へ苅田をなすとみへたり
さいわい若手者あまりにいくさ所望の上は我伴ひ出し一いくさすべき間引入候はん時あやうからぬ様に取計候へ」

とて既に打而出んとしけるを伊豆守申けるは

(光安)「かまへて足早に引き給ふべし何程かたき追たるとも返し合給ふ事合やめられて可然候
其後の事はともかくも我々に被任置候へ」

と申ければ越前守につこと打わらひ

(秀綱)「引入ての後は貴殿に預置候。唯今の合戦は随分とはげみ可申の間剛腕の程御見物候へ」

とて旗本組百騎許伴ひ大手の間を押ひらき、いさみにいさんで打て出
苅田をいたす足軽共を追立山際に備たる直江山城守が本陣へ切て入れば寄手も願ふ所の幸と入みだれ追つ返しつ一時程戦ひけるに
とかく味方の軍のつよきにや敵の物頭数多討取ける間、終にさぐり立られ後陣の勢へ逃入ける
味方の兵勝に乗て猶もつづひて入らんとしたりしを
越前守押留、日既に夕陽にかたぶけりとて軍兵る間
寄手是に利を得て更ば付入に乗とれとて手しげく追欠けれども
内々伊豆守と申合たる事なれば少もかまはず足早に引而入にけり
又寄手方よりも透間もなく追て乗入らんとしける所に
伊豆守兼てかく可有とおもひ足軽三百余人引具し大手の口より壱町程斗出し道を中にはさみ
弓手めてに備を立流かけたる事なれば
五間七間引離て三百丁の鉄砲を一度に放かけければ
先にすすむ兵共将□たをしをする如くやにわに三拾騎斗ばらばらと打たをす
後陣共に辟易して進み兼たる内に伊豆守足軽共を下知して手がろく引て入ける間
寄手も力およばずして本陣へ引返しけるなり

『義光物語』

801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/16(火) 16:11:10.28 ID:86qLHPKL
寡兵で上杉軍を翻弄した鮭延秀綱と、それをサポートした志村光安の記述




直江隊を足止めするか

2014年09月04日 18:53

677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/03(水) 19:47:54.23 ID:9YxrKypW
志村光安「吾等の役目は如何に直江隊を足止めするかである」

慶長5(1600)年9月13日、畑谷城を落とした直江兼続は山形盆地へ向け進軍。14日に富神山を抜け、
菅沢の丘に現れると早速長谷堂城を攻めた

長谷堂には最上方の守将志村光安と増援の鮭延秀綱が兵1200~1300ほどで詰めていた

鮭延秀綱「お出で早々に攻めて来るとは上杉ん奴腹め、あがすけが(お調子者が。調子に乗りやがって)!」

志村光安「人馬で菅沢が埋まり、山の裾野まで陣が張り出してますな。どんだけの軍兵を連れて来てんだが」

秀綱「いっそ夜襲を掛けてやりますか?まさか初っ端から大軍の上杉に寡兵の吾等が攻めるとは思いますまいに」

光安「秀綱殿、殿(最上義光)の命令では『安易に討って出る事を自重し、なにがあっても城を守れ』が
命令だったのでは?」

秀綱「200くらいの兵をお貸し頂ければ私がやって来ます。夜襲の成否に関わらず、上杉の目をしばらくは
長谷堂に引き付ける事は出来るでしょう」

光安「これは尤もな策でありますな。では一撃だけを食らわし、深追いはなされないと約束くだされ。
それとくれぐれも慎重に」

その夜鮭延隊は闇に紛れて奇襲を掛け、上杉兵百以上の首級を挙げて凱旋した

秀綱「ご覧の通り、まずは重畳」

光安「これで怒り狂った上杉兵は長谷堂を意地でも落としたくなるでしょう」

翌日上杉方の春日元忠の隊が再び長谷堂城を攻めた

光安「寄せて寄せて、畠の畔(あぜ)を越えて来たら射かけよ。さすれば外れ矢玉少なく、敵を数多く
討ち取れようぞ」

城に近付いた春日隊を数百の鉄砲と弓が釣瓶撃ちに襲い、上杉軍にはまた多くの被害が出た

直江兼続「篭城されたままでは厄介だ。野戦に持ち込み殲滅しよう」

上杉兵は弓や鉄砲の射程外で苅田狼藉をはじめた

長谷堂城兵「ぐぬぬ…わしらの田が…稲が…」

血気盛んな若い兵らが光安に出陣を願ったが、光安は兵らを宥(なだ)めて言った

志村光安「吾等の役目は如何に直江隊を足止めするかである」

光安は筆を取ると矢文を拵え、弓の得意な者に上杉兵へ向けて射掛けさせた

兼続「これがその矢文か」

上杉兵「は」

兼続が矢文のこよりを解くと、紙にはただ二文字「笑止」とだけ書かれていた




679 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/03(水) 20:13:55.23 ID:45eDskxa
その前に謝罪と賠償を要求する

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/03(水) 20:30:02.97 ID:chQfmHAE
続きがあるのかと思ったけどそうではないのか

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/03(水) 20:35:36.35 ID:+5Z98Y21
千万とかいて下の句とした。

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/04(木) 02:35:59.79 ID:MqisPoNo
直江の評価ってなんで高いんだろうな
全くの不思議。

691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/04(木) 03:38:29.06 ID:CNyl6IWU
そのあたりの時代の奴らは評価がしづらい

亀と鶴

2014年09月04日 18:51

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/03(水) 21:38:50.60 ID:9YxrKypW
亀と鶴

慶長8(1603)年、志村光安の所領である酒田湊そばの庄内浜に、人の上背を越える巨大な大亀が上陸した

漁民たちは「これは縁起が良い」と大亀を荷車に載せると各村を鐘や太鼓を打ち直して着飾って廻った

亀は孔雀の様な声で鳴いたという

志村光安「これは珍しい事だ。吉兆かも知れないから山形の殿(最上義光)に知らせよう」

光安は義光に手紙をしたためた

義光(´・ω・`)「それだけ巨大な亀だとかなり長寿な事だろう。酒田の神様かも知れないから余り
無茶をしないで、丁重に海にお返ししてね。
そうだ!東禅寺もこれを機会に『亀ヶ崎』に地名を変えよう!」

改称記念に人々には餅や酒が振る舞われた

ついでに大宝寺も呼応して「鶴ヶ岡」と縁起の良い名前にされた

『奥羽軍談』ほか




687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/03(水) 22:10:04.77 ID:+5Z98Y21
>>685
そこは亀ヶ岡じゃないんか

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/03(水) 22:23:51.69 ID:9YxrKypW
>>687
海に面してるから「崎」
海から離れ、丘陵地帯の後者は「岡」

ついで「亀が(見つかった方が)先(崎)」

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/03(水) 23:11:47.22 ID:chQfmHAE
大宝寺への突っ込みじゃないんかな?

とある士の死

2014年08月29日 18:53

640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/29(金) 07:22:31.86 ID:tayKb6Jk
とある士の死

慶長6(1601)年、志村光安の軍が上杉領東禅寺城を攻めたときの話である

城攻めの最中、光安は城下で上杉軍の哨戒部隊と遭遇し、交戦の末一人の眉目麗しい若武者を捕縛した

若武者は光安に「死んだ仲間に申し訳がない。武士の名誉を知るならどうか殺してくれないか」と涙ながらに頼んだが、光安は「(東禅寺)城は(最上軍に囲まれ)孤立無援で間もなく落ちる。せっかく生き永らえた命を粗末にせぬ様に」と説得をした

しばらくし東禅寺城は最上軍に降伏し、開城

最上義光の命で庄内にいた上杉兵は米沢への帰途についたが
眉間に皺を寄せ、米沢行きに葛藤を覚える様に見えた若武者に光安は
「上杉家に戻るのに後ろめたさを感じるのなら、我が下で働かぬか?」と彼を勧誘した

光安は彼を気に掛け、若武者も光安に次第に心を開き、酒田三万石に加増となった光安は彼を常に近くに置き可愛がった

1609年、死の枕元で光安は彼に「儂が死んだ後も子の光惟を頼む」と言伝をして逝世した

しかし1614年
彼が別の用事で庄内を空けている間に一栗の反乱により志村光惟が暗殺された



光惟の葬儀が終わり
慶長19(1614)年暮秋、一人の士が酒田青原寺の志村光安の墓の前で腹を斬った



かつての若武者の名は力丸所左衛門。上杉の重臣で東禅寺城主であった志駄義秀の甥の話である

『奥羽永慶軍記』ほか




志村光安、織田信長に面会を許される

2014年01月27日 19:05

204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/27(月) 03:41:26.99 ID:t92X13ZI
志村光安織田信長に面会を許される

1580年代、出羽の有力国人の一人である谷地の白鳥長久は次第に勢力を拡大する山形の最上義光に恐れを抱き、
強大な後楯を得ようと中央で急成長をする織田信長に「我は信長様を敬い、また現状は出羽をまとめる者である、
そこで出羽守である事を認めてほしい」と使者を送った。

これを知った最上義光は「羽州探題と出羽守は最上家が名誉、なぜに長久が詐称をするのか」と怒りを顕にし、
家臣の志村光安を使者として、
最上家の系図と大きな白鷹、出羽産の名馬、月山打の長身の槍や刀を持たせて安土の信長の下へと派遣した。

面会の申請をしてそう日を経ず信長に呼ばれた光安は
出羽における最上の役割と
白鳥長久の非を丁重に、かつ簡潔に信長公へと申し上げた

信長「羽州の事柄には疎い部分があり、白鳥某の言う事を疑いもせずに信じてしまったのはこちらの非。
山形殿(義光)、いや、『山形出羽守』殿には大変に悪い事をした」

-と信長公は光安の口上に「正当な出羽守は最上義光である」といった書面を書き与えた

(つづく)

205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/27(月) 03:49:18.68 ID:t92X13ZI
(つづき)

信長「地域の者にあって、そち(光安)は珍しく口才名誉(達者)であるな」

-と、信長公は手ずから三宝に金兵糖(金平糖)を盛り、光安に褒美として渡し
重臣に命じて城と安土の町を案内させて饗(もてな)したとも言う

現在山形市の最上義光歴史館に飾られている
長谷堂合戦で最上義光が被り直江兼続に撃たれた弾跡の残る兜は
この面会により信長公から最上義光に贈られた物だと伝えられています

206 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/27(月) 03:52:37.76 ID:t92X13ZI
※当時のコンペイトウを復元したものは
「戦国魂」のホームページ「信長の金平糖」で形が確認出来ますが
現在の形に比べ突起が少なくなだらかで
形状はでん六豆を小振りにした様なものになります

207 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/01/27(月) 04:09:07.29 ID:t92X13ZI
信長の金平糖
ttp://www.sengokudama.jp/m/sengokudama/confeito

208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/27(月) 04:12:25.69 ID:t92X13ZI
長宗我部元親の「饅頭」の話以外にも
外交でお菓子が用いられる例があったという事で




209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/27(月) 04:49:27.38 ID:kLmfAAz2
三成「干し柿はいかがかな?」

210 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/27(月) 04:52:13.58 ID:M8AqJ2j9
実際あんた忠興に柿出してましたやん

211 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/27(月) 05:10:10.79 ID:LUyerPKn
>>205
んでこの数年後に白鳥は桜の木に血を吸わせることになるのか…
[ 続きを読む ]

志村光安の黒歴史

2013年11月10日 18:51

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/10(日) 08:00:19.98 ID:mw4AMHgm
志村光安の黒歴史

志村光安と言えば氏家守棟と並び最上義光を支えた名臣で
最上家を代表して織田信長に面会を許されたり、慶長出羽合戦では寡兵で長谷堂城を守り、「口才達者」「文武両道の将」とも称された人物である。

現在の山形県天童市の若松観音堂に、重要文化財、武人画家として高名な郷目貞繁筆の「板絵著色神馬図」がある。
永禄6年(1563)寄進のものだが、その余白下部にとんでもない落書きが残されていた…

「志村九郎!」



志村光安「俺参上!参拝記念!」

…現在でも観光名所への落書きはなにかとマナーを問われるものとされている。

志村光安のなにげなく書いちゃった落書きのバツの悪い話。

(`・ω・´)「犯人はヤス!」
志村光安「!」




689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/10(日) 18:49:39.30 ID:KQwH1Oxz
修学旅行生かw

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/11(月) 00:07:48.16 ID:t49SQDtm
カンボジアの仏教寺院の柱に自分の名前と来訪した理由刻んだ森本右近太夫思い出した

691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/11(月) 00:13:10.18 ID:TmIJCJik
そんな人物が居たんだw

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/11(月) 00:13:13.85 ID:6zTV38AG
ピラミッドに大量に刻まれてる各文化圏の落書きのお陰で色々分かることもある
まあ、志村さんの場合はそういう意味では糞の役にも立たないアレな代物だけど

693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/11(月) 00:13:42.89 ID:xj+efbRH
あれ、墨書だけじゃなかったっけ

現実ってわりとかっこわるいんだなあ

2012年10月25日 20:00

18 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/25(木) 07:12:56.00 ID:NtEXG0w+
下次右衛門の降伏はなかなかの美談として伝わるが(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6050.html)、
鮭延秀綱の記憶によればもっとごたごたしていた。
最上勢に攻められた下次右衛門が籠城したまでは同じだが、籠城したのは谷地である。
そして経過は…
守備側「安全を保証するなら降伏します」
攻撃側「わかった、出てきなさい」
守備側「すみません、戦わないであっさり降伏とかしたら流石に馬鹿にされますよね。
やっぱキャンセルするんで攻めてください」
攻撃側「ふざけんな!だましたのかよ!わかったよ、堀埋めるからな、覚悟しとけ」
守備側「あわわわ、やめてください! まった、待ってください!
安全を保証するなら庄内の松本を切腹させますんで。大山取って義光殿に味方しますんで!
起請文もありますよ、ほら」
攻撃側「また騙されるかばーか! …と思ったけどちょっと待ってな」

攻撃側の志村光安らは起請文を義光に持参し判断をあおいだ。義光は、
「降る降る詐欺とかナメてんの? でもいいや、城から出して。攻めると味方損害出るしな。
長谷堂で長いこと戦ったばかりだしみんなおつかれさんだもんね。
早く終わったほうがいいだろ。なんかもういいや」

こんなぐだぐだだったらしい。
現実ってわりとかっこわるいんだなあ。
(『鮭延越前守聞書』)





置き去りの下次右衛門

2011年12月13日 22:00

357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/13(火) 17:14:43.61 ID:+PBxE3k2
慶長5年(1600年)10月2日、この前日に直江兼続の軍を会津に追い返した山形の最上義光の元に、
谷地という在所から報告が入った。上杉方の兵、下次右衛門が直江の軍の撤退を知らずに、田川郡の
古城に立てこもり、一揆を起こす構えを見せている、というのだ。
義光への注進は、直ちに大軍を出し攻め討つべきだと言ってきたが、義光はこれを考えた

下次右衛門は小身であるといっても、武勇の聞こえある侍である。
特に田川郡をその本国であると聞いている。ここは調略を持って彼を味方にし、次の作戦である
庄内平定の案内者とするべきではないか。」

そこで家臣の志村伊豆を呼び、この旨を申し聞かせると、志村は急ぎ谷地の郷へと向かい
近隣の兵を集め、下次右衛門の籠もる城を二重三重に囲み、今にも攻めるような形に見せた上で、夜に入ると
密使を送った。そして次右衛門にこう伝える

『今度上杉殿一味の諸大名、濃州関ヶ原の一戦に利を失い、とごとく退散しました。
この事は直江山城守も聞き届け、一昨日諸軍を集め、会津へと引き返した。
そういう状況であるのですから、貴殿一人が義を守り当城にて討ち死にされても、上杉殿にとっても
もはやなんの意味もない行為です。

ここは急ぎ状況をお考えになり、最上殿に降参をしそこで忠義を成されれば、本領の他にも新恩を与えられるでしょう。』

これに下次右衛門は驚愕した。なにしろ西軍の敗北も直江の撤退も、この時初めて知ったのだ。
そしてこれが事実かどうかも含めて判断するため、一門衆を集めて協議を行った。
しかし一門衆の主張は様々で議論は全くまとまらない。
と、そんな時末座より、下美作という者が進みでてこう進言した

「(志村)伊豆守殿が申し越されたように、関西の諸将が関ヶ原で敗軍されたというのなら、いくらこの城で
忠死したところで、もはや景勝公のご本意に叶うものではありません。

その上直江が軍勢を引き退いたこと、これは最上軍の動きを見ても確かなことでしょう。
そして我々は、直江からこの事の連絡を一言も受けず、敵国中に捨て置かれてしまったのです!
これについての遺恨は甚だしいと言わざるを得ません!

ここは志村伊豆守殿の申されるように、最上殿に降参してその下で忠義に励めば、必ず恩賞に預かることが
出来るでしょう!」

そのように憚りもなく主張すると、その場の者たちも「それは尤もである」と評議定まり、翌日城を明け渡して降参した。

志村伊豆守は大いに喜び、下次右衛門とその一門を残らず連れて山形に帰り義光に披露した。
これに義光も大いに満足し、下次右衛門に対し、

「今度の庄内平定で先陣をし忠義を励ますにおいては、田川郡残らず知行させるであろう」

と直ぐ様申し渡した。これに次右衛門を始め下一門、大いに喜んだとのことである。
(最上出羽守義光物語)

最終的にはいい話ではありますが、危うく全滅しかかった直江兼続に置いていかれた人たちについての、一つのお話。




358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/13(火) 17:27:56.52 ID:iULEu6ra
双方良い方向にいったいいお話だな
志村さんと下さんて、この後義光の元で揃って庄内の発展に尽力して行ってるんだよね
この機会に仲良くなったのかな

359 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/13(火) 21:31:24.26 ID:snIQ3r1l
やっぱもがみんはどっちかというと悪人ではない
鎌倉時代が臭う気がするが

360 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/13(火) 22:19:33.05 ID:RzBjwDEb
>>357
下よりも直江本隊から遠くに離れていた別働隊は
ちゃんと連絡受けて引き上げてるのに
なんで下だけ取り残されてんだろうな…
使者が途中で最上軍に捕まって討たれたのかね

361 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/13(火) 22:57:37.84 ID:HKu1QnfG
下次右衛門は最上家の重臣として遇されたが、
義光の死後、家親の家督相続に反対する
一栗兵部に襲撃され、志村光清と共に横死を遂げている。

最後は悪い話でした。

362 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/13(火) 23:32:05.35 ID:iULEu6ra
>>361
そういう結果を持ってくるのなら
他の人のいい話逸話、全員悪い話にならね?w ここ悪い話スレだけど

363 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/14(水) 00:24:39.61 ID:KFZvbq39
下次 右衛門 と読んでいたけど
下 次右衛門なのか
時々どこで区切ればいいのか分からなくなる時があるわ

364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/14(水) 10:46:13.99 ID:aeKQQEmy
>>363
下だね

縁起を担ぐ

2010年11月07日 00:01

383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/05(金) 21:41:29 ID:DL81c4Z+
縁起を担ぐ

志村光安は最上家の家臣である。
光安は上杉合戦では長谷堂を守備し、城山が甲羅に籠った亀の様にも見える事から長谷堂城を「亀ヶ城」と呼んだ。
縁起を担いだとする一方、上杉に攻められなかなか反撃に移れない事から「堅固」な城というより
「手も足も出ない」状況を自笑したのかも知れない。
後に上杉軍の志田義秀が籠もる庄内の東禅寺城(酒田城)攻撃にも加わり、これを落とし、
酒田に巨大亀が上陸し、亀の献上を主君・最上義光に報告したところこれを「吉兆」として
「東禅寺城」が「亀ヶ崎城」、「大宝寺城」が「鶴ヶ岡城」と改められた。

長谷堂合戦図屏風の志村の旗印は「鹿角」。これは「深い山合いにも武名・名声が鳴り響く様に」との
思いで付けられたらしい。

(´・ω・`)「でも名前は苦労(九郎)なのよね」
光安「・・・果たして誰のせいですかね・・・」





続・最上四天王?

2010年10月26日 00:00

36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/25(月) 13:36:31 ID:KeSGVTOq
続・最上四天王?

以前「最上四天王」が「5人」だってまとめスレにあったんだが、
「歴史読本」の最新号で「有名武将の家臣団」で「最上四天王」が挙げられてて、「6人」に増えてたw

まぁ、このまま内容を書かせて頂きます。

「最上四天王」
「河北文書」だったかでは
楯岡満茂志村光安鮭延秀綱延沢満延里見民部の「5人」だった。

今回の「歴史読本」では
「最上四天王」の表記の後に
氏家守棟楯岡満茂志村光安鮭延秀綱延沢満延里見民部の「6人」の名があった。

変じゃねーかと思ったんだが、
解説に
志村光安鮭延秀綱延沢満延」は確定だが、
残りの人選は「最上義光分限帳」「軍記物」「書物」によってまちまちだとあった。

氏家守棟は軍師だから入らない
楯岡満茂は副将格だから別枠
里見民部は裏切って他家に逃げたから相応しくない

理由はわかる。

でもこのままだと
「最上四天王」は谷柏直家や江口五兵衛、北楯利長や山家国頼も含め
「何人いても四天王」といったエグザイル状態になってしまわないだろうか?

1600年を一区切りにするなら
死んでいる氏家守棟延沢満延が除かれる代わりに
延沢光昌(満延の息子)が四天王入りしてしまう・・・

竜造寺以上に判断の難しい「四天王」である・・・