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「功者の料理人」

2017年04月28日 18:08

863 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/28(金) 02:41:06.00 ID:TMuztBgN
肥後(細川家)の志水伯耆は島原で攻め口の先頭から、にわかに指物を取り
に人を小屋へ遣した。この際、留守に居た料理人がその理由を尋ねた。

使いに来た者はこうこうだからと言い、指物を取って行った。すると料理人は
その使いを追い掛けて、やむなく指物を奪って帰った。

その仔細は、いま急に攻め口に臨んで乗り入ろうという時に、これから指物を
持って行けば、「伯耆は遅れたのだろうか」と、人々に言われるであろうとの

深い配慮であった。そのため、料理人は「功者の料理人」と、言われたという。
この者は老人であったという。

――『武功雑記』


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細川忠興、志水伯耆守清久の謡に

2011年12月21日 22:01

86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/21(水) 10:15:49.79 ID:fgUdyRsF
寛永9年(1632)12月、加藤家に代わって肥後54万石を授かった細川忠利が、熊本城に入った。
20日には父の細川三斎も熊本にやって来て、大広間で祝いの酒宴が盛大に行なわれ、三斎が祝辞を述べた。

「……以上!しかし、めでたい。そうじゃ、誰か謡(うたい)をやらぬか?」

「では、中村靱負を。」呼びかけに応じた忠利が、金春流の免許を持つ中村靱負を指名した。
「いや、靱負は要らぬ。伯耆よ、仕れ。『四海波』じゃ。」三斎はこれを断ると、志水伯耆守清久を呼んだ。

清久は幽斎の代から細川家に仕えるも三斎と仲違いして出奔、加藤清正に仕えたが、関が原の戦いの際に
大友義統が挙兵すると、清正に願い出て旧友たちを救うべく石垣原合戦に参加、その事を知った三斎が
清正に頼んで細川家に帰参させたという、今日の場にふさわしい男だった。

「………………」
だが、永禄末年に19歳にして三好勢と槍を合わせたという清久の謡は、老齢からか、それとも祝いの席での
思わぬ名誉による感動からか、その声はかすれがちであり、満座の空気は沈んだ。


再び三斎が呼びかけた。
「お主ら、何をしておる。伯耆が謡っているのだ、みな唱和せぬか。」
「!……不調法を致しました、父上。やるぞ、皆の者!」

「「「四海波静かにて 国も治まる時つ風 枝をならさぬ御世なれや……」」」

『高砂』の一節を細川家一同で謡いあげ、家中の結束を見た三斎は、機嫌良く隠居所の八代に帰って行った。
(旦夕覚書より)




87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/21(水) 12:03:51.03 ID:vDA2dv5e
いつ三斎が嫌味を言い出すのかと思ったら、本当にいい話だった。

88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/21(水) 12:25:22.10 ID:UH8Lun0Y
いつ生首が転がるのかと思って読んでいたら、ここはいい話スレだった。

89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/21(水) 12:52:14.18 ID:o9uRqK/q
三歳様の逸話なのに良い話だった。

90 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/21(水) 17:29:19.00 ID:8ogI3n2d
こんなのボク達のアイドルである三斎様じゃない!!

91 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/21(水) 17:46:17.04 ID:NdIid7by
後日談がちょっと悪い話にあったりしないのかな?


92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/21(水) 18:27:00.20 ID:fZQOQmGd
返ると植木が派手に壊されている。1首できました

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/21(水) 21:30:51.90 ID:RBb21jY2
いい話なのに反応がひどいw

95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/21(水) 22:08:33.50 ID:K6rkdsfv
>>94
三斎様の日頃の人徳だなw