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「天正の楠木」の軍略

2019年03月28日 17:52

753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/27(水) 21:16:37.06 ID:EoGMKe7N
志賀親次は薩摩人が攻め来たるに及んで、向かえ戦い、偽って三度敗走した。
これにより薩人は親次を怯しとして、戦いに及んでも備を整えることなく、ただ競い乗り進み撃つようになった。

ここに於いて親次は、兵を3つに分けて、薩人の攻め来る通路の山間の樹林に伏せさせた。
そしてこのように命じた

「薩人が敗れ逃走する時、一組は前を遮り、一組は中を絶ち、一組は山の半ばに備えて、
鼓を打ち、声を上げ敵の気を奪え。」

一月ほどして薩人は攻め寄せてきた。元より親次を侮っており、深く攻め入り猥りに戦った。
しかし親次は守りを固くして動かず、薩人は攻略することが出来なかった。そして彼らの勇気がたゆむ所を
親次は見て取ると、各所の民家や藪陰より足軽五十三十に、下知人の騎士を加え、方々より打って出た。
親次は静かに旗を進めると、薩人たちまち裏崩れして逃走した。
この所に伏兵起きて前を遮り、薩人はこれに当たろうとすれば、又伏兵起きて中を絶つ。山では鼓を打って
声を上げれば、その響き夥しく、薩人は大いに敗れて、後ろも顧みず散り散りに逃げた。

この戦いで志賀親次は、首級三百八十余りを得たという。

(武将感状記)

「天正の楠木」の軍略



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義は千載朽ちざる

2019年03月26日 11:51

750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/26(火) 09:48:24.70 ID:wP2JiKyy
志賀太郎親次は大友の家臣であり、豊後の岡城を守っていた。
ある年、薩摩が豊後の諸塁を攻め、或いは下り或いは陥り、国中大いに恐れる所に、志賀親次は一人
少しも屈しなかった。そんな親次にある人が言った

「貴殿が自らの勇気を頼まれても、薩人は目に余るほどの大軍であり、その鋒はありえないほどだ。
その身が死しても戦況に少しも影響を与えないだろう。であれば何の為に戦うのか。速やかに降伏すべきだ。」

そう諌めたところ、親次は威儀を正して

「年来の知因であるなら、男夫の義をこそ勧めるべきであるのに、弱みの異見とは心得ず。
主君の禄を受けたる者、ただこの一身のみではない。妻子もその御蔭で心安く養うことが出来、
今日に至るまで、凍え飢える憂いは無い。
無事の時は威を争い座を論じて、危難に臨んで忠を忘れ節を改めるのであれば、それは人と呼ぶべきだろうか。

古より誰であっても死なぬ者は居ない。しかし義は千載朽ちざるものだ。
私の息が絶えない間は、この城を敵の泥足に踏ませるものか。ただ死して君恩を九泉の下に報ずるばかり
である。」

諌めた者は、この言葉に感じ入り親次に与力した。そして岡城の守兵はおよそ六百あまり。
薩人と戦うこと度々であった。
豊後の地は多く薩人のために掠められたが、親次は岡城を全うした。

(武将感状記)

敵である島津義弘からも「天正の楠木」と讃えられたと言われる、志賀親次のお話。
しかし本当に大友家の家臣はみんな立派なイメージが残ってますね。



神々の争い

2012年09月08日 20:30

371 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/08(土) 05:18:47.30 ID:XGjCSYo5
神々の争い

 武士に戦神と崇められている八幡神を祭る宇佐八幡宮。
 その由来は謎な部分が多いが元はどうも渡来系の鍛冶の神らしく、弓削道鏡の野望を砕いた
宇佐八幡神託事件など朝廷の庇護も厚く、九州最大の荘園領主として君臨していた。
 という訳で、八幡神は天津神として扱われる事が多い。
 また、宇佐八幡は神仏混合政策を主導していた事もあって弥勒寺という寺を抱え、国東半島は
六郷満山という仏教の拠点にもなった。
 さて、今度は国津神である。
 豊後の国の南部、祖母山を中心とした山岳信仰から、とある一族が豊後国に台頭する。
 大神氏。
 この一族、その祖が蛇神という血統を有していた彼らは豊後南部に根を張り、土地は貧しいが
港に適した地形から海上交易によって富を築き勢力を拡大していた。
 そして、彼らが持つ水軍は平家台頭の時代の流れに乗り、源平以前から九州最大の荘園領主であった
宇佐八幡と必然的に利害が衝突する。
 大神氏の子孫である緒方惟義は平家を見限り源氏につき、平家が避難していた宇佐八幡宮を焼き討ち。
 だが、平家が壇ノ浦にて滅んだ後の源頼朝と源義経の対立に巻き込まれた大神氏は義経側について失脚。
 時代は下がり、豊後に下向してきた大友氏はこの神々の争いを徹底的に利用し、
宇佐八幡信仰を利用して地元国人衆であった大神系国人衆を粛清してゆく。
 ただ、宇佐八幡は豊前にあり豊後とは隣とはいえ国が違うために、その八幡信仰を担ったのは
国東半島にある奈多八幡宮である。
 この争いは戦国時代になるまで続けられてゆく。
 大友家が合戦や血縁政策にて大神系国人衆を取り込めば、大神系国人衆はやばくなったら船を使って
伊予に逃げ出しほとぼりが冷めたら豊後に帰還する始末。
 その戦いの決着は全てを否定するこの男の信じる神によってもたらされた。

 大友宗麟『主の為に』

 大神系国人衆は小原鑑元の乱を最後に無力化されるが、宇佐八幡をはじめとする旧態依然として
既得権益の塊だった寺社勢力全てをキリスト教信仰によって大友宗麟は敵に回した。
 
 1561年 宇佐八幡宮焼き討ち

 こうして神の国を作ろうとした男の夢は耳川合戦の大敗にて散り、大友家もその息子義統の代に
朝鮮出兵の不手際にて滅ぶ。
 その不手際の一説に名前があがったのがキリシタンだった志賀親次というのは何の因果だろうか。

 天津・国津・仏教にキリスト教、豊後にはこのような神々が流れた残滓が残り、20世紀その後豊後こと
大分県は国東半島を中心に仏の里をキャッチフレーズに観光資源としてPR。
 最後まで残ったのは仏教だったという神々の争いとその顛末の話。




372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/08(土) 06:07:11.81 ID:aRY9MqBK
確かに信長っぽい
最終的にキリスト教に取り込まれてしまったが

志賀親次と道益父子のガチバトル

2012年08月30日 20:50

213 名前:名無しさん@お腹いっぱい[sage] 投稿日:2012/08/29(水) 21:11:01.52 ID:jUvkrsnJ
志賀親次と道益父子のガチバトル

天正14年の豊薩合戦で大友方の岡城は島津義弘・新納忠元が率いる大軍に包囲されていた。
守るは若き北志賀家の惣領・太郎親次弱冠18歳。しかも包囲軍の中には
島津に寝返った父の道益(親度)と叔父の入田宗和(義実)の姿もあった。
また祖父の道輝(親守)も宗和や道益に同心していたものの宗和や道益のような表立った動きはしなかった。
この時は道益とは逆に孫と一緒に岡城に篭城していたという説もある。

親次と道益の父子が戦ったのはヤオではなくガチだがこの二人の仲は悪かったらしい。
原因として大友義統への姿勢と信仰にあった。
道益は耳川合戦の前年、義統と対立し父共々誅殺されそうにことがあったことから義統を憎んでいた。
対して親次は大友家ひいては義統に対しても純忠一途の人物であった。さらに
親次は熱心なキリシタンであり道益は熱心な仏教徒であった。
これらのこともありこの父子が仲が悪かったのはある意味必然だったかもしれない。

214 名前:名無しさん@お腹いっぱい[sage] 投稿日:2012/08/29(水) 21:36:50.52 ID:jUvkrsnJ
豊後国内では栂牟礼城の佐伯惟定や丹生島城の大友宗麟たちも奮戦中。志賀親次はさぞ
「逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ…」な心境だっただろうが
決して逃げず寡兵で「天正の楠木」と評された戦ぶりで島津の大軍を何度も追い払い、
たまらず手を焼いた島津義弘の降伏勧告を撥ね付け勇敢に戦い抜く。
島津軍の攻撃が膠着したのを機に近隣の城を奪回に乗りだす。折りしも豊臣秀長勢が豊後に到達。
島津勢を追撃し反乱した南郡衆を滅ぼしていった。
その過程で父・道益を捕らえ言い訳一つも許さず問答無用でその場で自刃に追い込んだとも
親次自ら斬ったとも言われている。
反逆した父に対する苛烈な処置とかは親次の名声を高める結果になったものの今度は
その名声が皮肉にも主君・義統改め吉統に徐々に疎まれる原因になっていく…




大友家家臣志賀親次、運のいい話

2010年09月04日 00:01

842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/02(木) 23:21:06 ID:3Qjchr/u
運のいい話

天正15年2月大友家家臣志賀親次は島津家の将が守る豊後小牧城を攻撃していた。
城は落城寸前となり、一人の男が川に飛び込み、逃げようとした。
これを見た親次は鉄砲隊50名に命じ男を狙撃させたが、弾はことごとく外れてしまった。
男は川を泳いで逃げていたが途中、流れに負けそのまま滝から落下してしまった。
冬の、しかも50間もある滝から落ちては流石に生きてはいられないだろう・・・。
誰しもがそう思い川を見た。

するとそこには元気に泳ぎ回る男の姿が。

男はその後も果敢に泳いで逃げ回ったが、遂に捕らえられ親次の前に引き出された。
親次は鉄砲50に撃たれても当たらず、滝から落ちてもピンピンしている男の幸運に感動、
このような運のいい男を殺すのは惜しいとし、衣服と食料を与え国に帰してやった。




843 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/02(木) 23:24:23 ID:UifBWb4r
逃げるやつは放っておけばいいのにw

844 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/03(金) 00:03:47 ID:b41ECrsn
この男の一番運のいい所は
結局は捕まったのに、解放してもらった事だw

845 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/03(金) 01:11:07 ID:42HtHZX+
>>842
緑ルパン三世のOPが浮かんでしまったw

846 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/03(金) 10:20:25 ID:AnREgJwN
運の良いってのは要は天に愛されてるってことだから、
それだけで他の英雄豪傑に並ぶ価値がある。
あえて殺そうとは思わないだろう……

と書いてて気付いたが志賀太郎さんはキリシタンか。
キリシタンでもそうなんかな。

847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/03(金) 15:37:18 ID:M36jWRZN
天庵様のことか。

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/03(金) 16:04:14 ID:RqhUGPN2
小田フェニックス氏治

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/04(土) 10:10:31 ID:0veqdLER
フェニックス小田「ひとまず、ひとまず、逃げるんだ・・億・・兆・・那由他の果てまで」
太田「ふっ、君は那由他の果てまで逃げたつもりのようだが、わたしにとって君など
仏陀の手のひらで踊るサルにしかすぎんのだよ」
小田「うおおおおお」
太田「奥義・天庵降伏!」