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しっかり覚えてもいなかったのに

2022年03月26日 17:12

93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/26(土) 13:58:25.11 ID:Gnrc7AWs
慶長五年(1600)七月二十六日
津田小平次(秀政)が、小山において徳川家康公の御前に罷り出でると、家康公は非常に御機嫌能く
「今度の合戦(関ヶ原)に勝てば、何であっても望みを叶えてやろう、今から約束をせよ。」
との御意があった。小平次は申し上げた

「御合戦は思召のままに御勝利致すでしょう。何も望むようなものは有りません。」

「人として、望みが無いということはありえない。何か望むように。」

この御意に小平次は
「左様でありましたら、安国寺恵瓊が所有している肩衝(安国寺肩衝)を下さりますように。」
と申し上げると、「いと易きこと。」と仰せになった。

この年の十一月末、大阪城に(関ケ原の結果処分された)安国寺恵瓊の闕所より諸道具が送られてきた。
書籍に関しては兌長老(西笑承兌)の学校に御前に於いて下され、小平次には「約束の肩衝である」と
安国寺肩衝が下された。この時小平次は

「小山にて当座の御挨拶に申し上げ、しっかり覚えてもいなかったのに拝領してしまった」
と、御前を退いた後、御次の間にて語った。

この安国寺肩衝、元々は細川幽斎が所持していたのだが、仔細が有って手放し、その後安国寺の所有となり、
そこから今回小平次に渡った。
この小平次が所持した肩衝を、細川三斎(忠興)が所望し、黄金を過分に返礼として出すと言ってきたが、
三斎と小平次は関係が良かったため、(黄金)五百枚にて譲った。三斎は満足し、『中山』と名を付け
秘蔵した。そして三斎が隠居した時、越中守(細川忠利)に譲られた。

寛永三年(1625)四月から八月まで旱魃が有り、越中守の家来の者達の生活も危うくなった。
そのため越中守は諸道具を手放し、これを売って家来の者達の生活を支えたいと、土井(大炊頭)利勝へ
訴えた。そして大炊頭肝煎りにて、安国寺肩衝は酒井宮内大輔(忠勝:酒井佐衛門尉家)の所に、
(黄金)千八百枚にて遣わされ、宮内大輔の所持となった。越中守はその黄金を家来の者達へ分配した。

ある人が、津田小平次にこのように申した。
「あなたが拝領した肩衝を他所に遣わすというのは如何であろうか。遺産として遺すべきではないか。」
これに対して小平次はこのように答えた
「それについては、もはや欠けること無く遺しているので入らぬ事である。秀忠公家光公の御代に、
一門三人に黄金を分け与え、自分には二十枚を、存命の茶代として残し置いた。知行についても、
五千石のうち三千石を跡目に譲り、二千石を隠居分として残し、死後に仕置を良くするようにと
しておいた。」

慶長年中卜齋記

安国寺肩衝についてのお話



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秀吉公が伏見より京に御上りの時は

2021年04月15日 18:41

113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/14(水) 16:31:28.09 ID:y3sC1VPk
秀吉公が伏見より京に御上りの時は、奉行衆、御咄の衆合わせて五十人が従った。
二十町ほど御先へ、朱柄、虎の皮の抛鞘鑓二十づつ、真っ直ぐに立てて持ち、遠くからも
上の御成と見えた。
御供の衆は袴、道服で御跡に押も無かった。
これに付き従う下々も二百人程もなく、大方百人ばかりか。

東福寺前をお通りになる時は、御供の衆、内の者は竹田を通り、また竹田をお通りになると
東福寺前は御供の騎馬が際限無かった。

見渡しの道であれば、御乗物にてお通りになるのだが、竹田通りは騎馬が間近に見えたが、
下馬させる事は無かった。

総じて、秀吉公は小身なる侍を役に用いられなかった。姫路衆と申す十万石(千石)より内の侍で、
三、四百石の衆二百余騎ほどもあったのだが、彼らは一ヶ所の屋敷に集められ、番も普請も
免除されていた。

慶長年中卜齋記



115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/15(木) 03:03:46.35 ID:ZkfH8mK0
>十万石(千石)
これもうわかんねぇな

122 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/04/17(土) 10:41:30.49 ID:syCTQh44
>>115
多分、投稿者は国会図書館デジタルの史籍集覧から引用してると思うんだが
該当箇所の解説で、底本はこうだが別本の「卜斎覚書」ではこう書いてあるから()書きで注してあります
と書いてあるよ

10万石よりは1千石の方が正しいんだろうね

家康の伏見城入城

2021年04月13日 17:50

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/13(火) 13:29:09.18 ID:XJHU+raM
(慶長四年二月、徳川家康石田三成等による伏見の家康屋敷襲撃の風聞などにより、伏見城の支城である
向島城へと移ったが)
「向島に御座されるのは如何か、伏見の城を明けるのでお移り然るべし」と、三奉行(長束正家
増田長盛前田玄以)が頻りに申してきた。大谷刑部少輔(吉継)が内々の使いとして肝煎と成り、
雅楽頭(酒井忠世)、帯刀(安藤直次)、式部少輔(榊原康政)が表の使いとしてこれに合意し、
四月六日、伏見城にお移りと成った。(創業記に閏三月十三日午の刻伏見の城お移りとあり)

鑓五十本持たせ、御先の小姓、その他の詰衆五十余輩が歩行にて御供をした。御乗物、鑓二本、
長刀一、挟箱二、御跡に三河守殿(結城秀康)が馬に御乗りになり、白き袷袴にて、供の衆二十人ばかり
お連れに成った。御家人については、いつであっても罷り出て御目に掛かるべしとの事で、
この日は上記の人々のみで、他には誰も御供には罷り出なかった。

慶長年中卜齋記

家康の伏見城入城について



三左衛門が中納言殿を薩摩へ下したことを

2021年04月12日 18:03

110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/12(月) 16:27:43.98 ID:8nMd6PWi
関ヶ原の合戦の後、宇喜多秀家は近江に潜伏していたが、ここにおいて三右衛門(進藤正次、実際には
三左衛門。以下三左衛門とする)が申し上げた

「大阪へ参上したいと思いますので、御状を遊ばされますように。」

そう言って四寸四方ほどの神に書状を書いて頂き、これを編笠の緒に拠り付けて、二日に大阪に行き着き、
中納言殿(秀家)の屋敷の御台所に這い入ったが、流石に大名の御台所であり、人も多く夥しい様子で
あったが、先の御合戦の沙汰をする人も無く、また殊に三左衛門は新参者であり、誰に申し継ぎを
伝えれば良いかも知らず、一日の間、朝から台所の庭に立ち休んでいたが、これを改めようとする者も
居なかった。

台所より奥へ参った所に番の者が有り、その人を頼み「御局(豪姫)に御目に掛かりたいと呼び出して
頂きたい。」と申した所、程なく局が出て会われた。編笠の緒に撚り結んだ御状を取り出し
広げて見せると、一見された後奥に入られ、黄金二十五枚を持って出てきて、三左衛門へ渡された。
彼は金を受け取り首に掛け、夜通し大津まで走り着いた。この時大御所様(徳川家康)は大津城に、
先手の衆は醍醐山、山科辺りに陣取っていた。

三左衛門は大津の海辺(琵琶湖の浜辺)に出て「船にて参るべきか、陸を行くべきか」と思案したが、
「黄金能き程有り、(このまま秀家を見捨てて逃げて)これを元にして世渡りしても成るだろう。また
中納言殿が御座候所に参りても、もし既に失わられ給っていれば、一体どうすればいいのか。」と
思い悩み、先へ二歩進んでも跡に三歩下がるほどであった。
しかし

「とにかく、中納言殿は新参の私を頼みに思し召されたのだ。船では海上がどのようになるか
解らない。」と、思い切って陸地を歩み、その日に潜伏先に参着したところ、中納言殿は無事であった。

そこで三左衛門はその家の亭主に黄金二十枚を与え、残りの五枚は自分が持ち、翌朝、中納言殿を
駄賃馬に乗せ編笠を着せ、大津、醍醐を通り過ぎ、伏見京橋にて川船に乗せ、大阪天満において、
黄金一枚にて船を借り、「この人を薩摩まで御供申し、あちらに無事着かれたなら、御状を取って
戻るように。」と約束して、黄金二枚を中納言殿にお渡しした。これは、中納言殿が生まれつきの
大名であったため、黄金一枚がいかほどの用を調えられるのかもご存知無かったためであった。

彼を薩摩に送った船主は、御状を持ち上がるようにとの約束の通り、船主は大阪に、御自筆の御状を
持ち帰った。三左衛門の手元に残った二枚の黄金は、江州から大阪まで御供をした折の路銀に遣い、
余ったのもはそのまま自分が持った。

中納言殿が薩摩に落ちられたことを承ると、本多上野介(正純)の所に出て、
「備前中納言殿の最期まで付き従った者であります。」
と罷り出た。秀家が死亡した証拠を尋ねられたが、この時宇喜多家相伝の刀である鳥飼國次を
取り出した。

大御所様は三左衛門に、伊勢国にて知行を与えると仰せに成った、知行の高は御意無く、
これにて心得あるべしとの事であった。

三年過ぎて、三左衛門が中納言殿を薩摩へ下したことを諸人も知った。

この時代は万事大雑把であったので、三左衛門が大阪において中納言殿の台所の庭に一日
立ち休んでいても、これを改める者が無く、また奥に参る入り口の番衆も局を呼び出し、
用所を調えるという事がうまく行ったが、これは天下の大小名共に、同じようなものであった。
この頃は屋敷より下々の出入りの札も無く、目付という事もなく諸国は治まり、上下はその
治世を楽しんだ。商人百姓もそれぞれに楽しんでいた。

慶長年中卜齋記



伏見の島津屋敷に於いて、

2021年04月11日 18:50

659 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/10(土) 20:55:27.87 ID:028L8sFM
伏見の島津屋敷に於いて、伊集院幸侃(忠棟)を島津中将(忠恒)が茶湯に呼び、そこで成敗した。
(慶長四年三月九日)

俄のことであり家康公も殊の外ご不審遊ばした。伊集院幸侃の息子たち五人は、薩摩に於いて領分に
立て籠もったが、家康公はこの扱い(和解)のため、山口官兵衛(直友)を二度、伊奈図書(昭綱)を
一度薩摩へ遣わした。その時、治部少(石田三成)と争いになった。落着については薩摩の者が
存じている。(伊集院成敗は、根本は治部の計らいであると後に人々言い合った)

家康公は、兵庫頭(島津義弘)に殊の外御懇情であり、彼に借金がある旨を聞かれると、それを
完済するように、その借金七百枚を遣わした。

慶長五年、家康公が会津征伐のため大阪をお立ちになる頃、伏見城松の丸を兵庫頭に御預けになるのでは、
との沙汰があったが、御預けは無く、若狭少将(木下勝俊)殿へお預けに成った。少将殿は
武田万千代(家康息:武田信吉)殿の舅であった。そして伏見の城は難しい沙汰(西軍による攻撃)
出来て、少将殿は松の丸を明けて若狭国へ引き退かれた。

乱後に万千代殿御内がどのように成ったのかは詳しく知らない。

慶長年中卜齋記



島津龍伯と、家康公は知人に成りたいと

2021年04月09日 19:05

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/09(金) 16:28:12.47 ID:OUsGcfDn
慶長四年の冬、島津龍伯(義久)と、家康公は知人に成りたいと思し召されていたが、その頃は
大名附合というものがなく、法度で決まっていたわけではないが、自ずから通法であった。

江戸の御扶持人に流竿という目薬師があった。彼は元々薩摩の者であり、お召になってこの流竿に
お尋ねに成られた

「龍伯とは知人であるか。」
「未だ一礼を申したこともありません。」
「伊集院幸侃(忠棟)といって、島津の家老大名が有る。これは知人か。」
「知人であります。」
「では使いに参れ」

そう仰せ付けられ、樽に白鳥、小袖を添えて遣わした。

それより直ぐに、龍伯も御礼に参り、進物として無量(無量寿経カ)十巻、朝鮮馬一疋(ブチ)。
家康公は路地の外まで迎えに出て、御同道して数寄屋へ御連れ立ち、半時(約一時間)ばかり
お話された。菓子も薄茶も出ず、御家中衆、小姓すら御次に参らせなかった。
龍伯が帰る時も又、家康公は路地の外まで送られた。初めての御対面であったが、進物の披露も無かった。

龍伯は祐乗坊と申す薬師を御門まで同道していた。家康公が龍伯を迎えに出られた時、この祐乗坊も
御覧になったが、兎角の御意も無かったため、門外より祐乗坊は帰った、

龍伯が進上した馬は島津駮と言って御秘蔵され、関ヶ原へも召され、駿府までも、十年余召されていた。

慶長年中卜齋記



「過分に存じ奉ります」

2021年04月08日 19:39

99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/08(木) 14:59:30.05 ID:/oR0YyLC
福島正則は)今度(関ヶ原)忠節の仁であるので、福島殿へ安芸、備後両国を遣わすことになり、
その御使として本多中務大輔(忠勝)、井伊兵部少輔(直政)両人が遣わされた。
そして両国を遣わされる事を、福島殿がもし不足に思っていてはと、両人も間を取り、申出して、
如何かと様子を見ながら、御意の通りに両人が申すと、福島殿は思いの外機嫌よく

「過分に存じ奉ります」

と申した。両人は大いに喜んだ。

慶長年中卜齋記



100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/09(金) 12:29:03.81 ID:xFBl5jAz
直政不死身かよ

「幕は持ってきていないのか」との御意も

2021年04月07日 18:17

98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/07(水) 16:44:36.71 ID:8ngeigSu
家康公は御陣の時、小道具を御持たせする事無く、また幕も御持たせ無かったのだが、急に必要になることも
あるのではないかと、(同朋衆の)全阿弥が隠して持ち、幕串も菰に包み、馬一疋に付けて、万一にも
御覧にならぬようにと、念を入れて奉行を仕った。

家康公には、幕奉行と申す者は一人も居られなかったので、御意を得ての事では無かったが、もし
必要に成った時に、「幕は持ってきていないのか」との御意も有るのではないか、という心掛けであった。

慶長年中卜齋記



「あの者を改めるように」

2021年04月06日 18:31

657 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/06(火) 13:44:38.70 ID:jCsjrP9j
関ヶ原の合戦後の九月十九日、行軍のさなか、何方の人であろうか、見た目は然るべき武者で、兜は着けず、
黒き具足で鹿毛の馬に乗り、金箔を押した才槌の指物にて、御先に参る衆と前後うち交わり通った。

先へ参る衆は、「先手の大名衆の使番だろうか。」と心を付ける人も無かったが、家康公は乗物の内から、
その間が二十町(約2000メートル)も有ったのだが、金色の才槌が光るのを御覧になり、
「あの者を改めるように」との御意あり、よってこの者を改めた所、彼は西軍方の落人であった。
「成敗するように。」との御意にて、道の側にて討ち捨てた。

慶長年中卜齋記



武士の子を用心して何に歟可成

2021年04月05日 18:17

91 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/05(月) 16:19:20.32 ID:EqjkTLHT
(関ヶ原の合戦の折)下野殿(松平忠吉)は逸り駆け出そうとしたが、周りの者達が馬の口に取り付き
放さなかった。そして兵部(井伊直政)に、「殿はあまりにも急かされいる、如何すべきでしょうか」
と問うた所、兵部は

「武士の子が用心して何に成るというのか。放って討ち死にならばそれまでよ。」
(武士の子を用心して何に歟可成 放候て討死ならバ其分よ)

と申された故に、馬の口を放したところ、ご自身の御働きで高名をあそばし、その身も少し手を負われた。

下野殿は兵部の聟である。この時下野殿は二十一歳であった。

慶長年中卜齋記



92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/05(月) 19:01:56.78 ID:nNHHcZNY
徳川の血に潜む水野の狂気と舅の濃すぎる個性が化学反応を起こしておる

93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/05(月) 21:18:53.41 ID:k16HKON0
武士の子を用心して何に歟
可成「放候て討死ならバ其分よ」
と読んじゃうと、長可がヒャッハーしそう

信濃守が参った時には、合戦は既に

2021年04月04日 17:13

656 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/04(日) 14:27:56.52 ID:gauDwLhU
(関ヶ原の合戦の時)堀尾信濃守(忠氏)は大垣の押さえに置かれていたのだが、御合戦と聞いて
関ヶ原へ駆けつけた。彼は旗を二つに分け、夫に馬上の者を添えて、大方の早道程に急いだ。
馬上の者が三百ばかりもあっただろうか。

小雨が降り、霧は深く、人馬の息は煙のようで、旗は少し見えたが、馬上の物の具、指物は全く
見えず、轡の音、馬の足音ばかり聞こえた。
旗は黒地の折掛に、上に白い分胴があった。

鑓鉄砲、弓持ちといった歩行の者達は殆ど見えず、御本陣へ遠々と備えを立てた。

信濃守が参った時には、合戦は既に過ぎていた。

慶長年中卜齋記



中務は小姓共ばかりにて

2021年04月03日 17:49

71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/03(土) 15:55:34.81 ID:4Y2Pco0n
関ヶ原の合戦の時、本多中務大輔(忠勝)は、馬に鉄砲があたり、下り立って石に腰を掛けて
いたところ、兵部(井伊直政)家来の木俣清左衛門と申す者が馬にて通った。ここでは馬を
お貸しするべきだったのに、貸さなかったという。

中務は押合いのための雑兵も、四百に足らぬ人数であったという。
本多家の能き者共は美濃守(本多忠政)に付けられ、秀忠公のお供に参っていたため、中務は
小姓共ばかりにて天下分け目の御合戦の先駆けを致されたという。

慶長年中卜齋記



宇喜田騒動とその後の波紋について

2021年04月02日 18:26

650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/02(金) 15:27:20.49 ID:I1Do2lfE
その頃(慶長四年冬)、備前中納言殿(宇喜多秀家)の家老、浮田左京亮(坂崎直盛)、戸川肥後守(達安)、
岡越前守(貞綱)、花房志摩守(正成)の四人が、秀家への申し分が出来、この四人の衆、面々屋敷に
居ることは叶いがたしとして、高麗橋東北の角に、浮田左京の屋敷があったが、ここに引き籠もり髪を剃り、
家臣の者共を大阪町家の詰り詰りに遣わして、『屋敷に鉄砲の音が鳴れば、町中所々焼き立てるように。』
と、覚悟を定めていた。

これに対して扱い(調停)人として、大谷形部少輔(吉継)、榊原式部大輔(康政)、津田小平次の三人が
当たったが、式部大輔の扱い様悪しきとして、家康公の御気色を蒙り、関東に追い下された。
一方、大谷刑部少輔、津田小平次はこの時は家臣ではなかったため、御構い無かった。
大谷刑部少輔に対しては、殊の外御懇ろにて、折々に御相談の相手に成っていたのであるが、この頃より
御相談相手とされることは止んだ。彼が後に敵と成ったのも、この時の意趣からであると云われた。

(後の関ヶ原の折)、小山まで浮田左京、戸川肥後守は御供をした。岡越前守、花房志摩守も罷り下りたいと
様々に申し上げていたが、家康公は思召し有りとして、大阪に残し置いた。
そして四奉行が敵と成った時は、両人大和の郡山で、右衛門尉(増田長盛)の元に付け居られた。
これは、元より右衛門尉が家康公と裏で通じ合っていた故(下心能御座候故)である。

慶長年中卜齋記

宇喜田騒動とその後の波紋について



上様は毛嫌いを

2021年02月25日 18:43

611 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/25(木) 16:55:00.29 ID:J/vuJaWh
慶長六年九月十五日の昼過ぎて、家康公は表に出御された。御機嫌良く、色々様々の御咄があった。
堀尾帯刀(吉晴)、大島雲八入道、猪子内匠、船越五郎右衛門が御前にあり、船越がこう申し上げた
「去年の今日、御合戦(関ヶ原の戦い)の日もあめが降りましたが、今日も雨降りです。」
これに家康公は御機嫌良く、お笑いに成った。

猪子内匠が申し上げた
「田中(吉政)の人衆は敵に遭い、三町余り敗軍しましたが、誰かが『返し候へ!』と下知した
ようにも見えなかったのに、引き返し敵を追い崩しました。田中の軍勢の働きは、見事でございました。」
そう申した所、家康公は仰せに成った

「あの時田中勢の間近くに、金森法印(長近)が吹貫を立て備えを成していた。しかしこれを敵と心得て
田中勢は馬を寄せなかった。法印の手勢と知っていれば、先へ押し出し、法印の居た所に馬を寄せて
いただろう。そうであったなら、敵を一人も洩らすこと無かったのに、法印の備えを知らなかった故に、
そのように苦戦したのである。」

総じて、家康公は弓矢の御咄などは、あえてなさらぬ人であった。相手によって、弓矢噺となった場合も、
脇からその事について存じている者が話し出すとそれにまかせ、御咄も止められた。
それを御小姓衆は、「上様は毛嫌いを遊ばされている。」と言っていた。
鶏を合わせた時、向かいの鶏を見て一方の鶏が退く場合、その事を下々では(相手の毛並みによって
好き嫌いをする、という事から)『毛嫌い』(これという理由もなく、わけもなく嫌うこと)と申していた。

慶長年中卜齋記