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柏木山の戦い

2013年12月03日 18:58

795 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/02(月) 18:07:46.45 ID:0FDYrBrC
最近脳筋と単騎突撃たのしーのイメージが強くなりつつある鮭様の、たまにはかっこよさそうな話を

柏木山の戦い

最上義光(34才)は天童合戦において当時山形盆地で最上氏と拮抗、またはその実の上にあった天童氏を破り、
八楯を降した。
この義光の勝利と、山形周辺での急激なパワーバランスの変化を恐れた上山領主で里見党惣主の
上山満兼(里見満兼・武衛満兼)は米沢城の伊達輝宗(33)に加勢を頼み、天正6(1578)年山形南方の成沢へと
侵攻する。

この時の成沢城主は成沢道忠(70余)で、義光は武田信玄にも武才を讃えられた伊良子宗牛(60余)といった
老将を成沢城へ送り込み
義光「血気盛んな若者らが敵の姿を見て城から出て戦いたがるかも知れないが、成沢城は堅城だからけして
簡単に打って出てはならない。
そなたが老練の将だからこそこの任を頼む。篭城に徹してまずはいくさの流れを見よ。しばらくは
上山勢を足止めせよ。」
と申しつけた。

(つづく)

796 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/02(月) 18:09:51.96 ID:0FDYrBrC
(つづき)

上山に入った輝宗は満兼から成沢城が篭城策を取った事を聞くと
輝宗「義光の心底が読めた。老将を置く事により短期決戦を避け、いずこかで野戦になった際には
方策を巡らせ、こちらの不意を突き成沢城兵と示し合わせ挟み打ちを目論んでいるに違いない。」
と考えた。

日を追い上山勢による成沢城攻撃も攻めあぐめ、早急に城を落とす事は難しくなっていた。そこに
義光が領内から兵を集め成沢へと援軍に向かっているといった報せが届く。戦局は重大事を向かえた。

満兼「当初は上山に義光が攻め入って来た際に山谷に伏兵を置き、不意を打ってこれを討つ
つもりでしたがこのままでは長丁場になりそうです。
輝宗様の米沢軍と私共の上山軍を合わせれば味方は最上軍の上を行く兵力となります。
主力をもって決戦を行えば数の内ではこちらが絶対優位ですし、義光を破れば成沢城も諦めて
降伏する事でしょう」

輝宗も満兼の言に一理あると考え、軍議を終えた。

(つづく)

798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/02(月) 18:42:07.59 ID:0FDYrBrC
(つづき)

一方義光側も軍議を行っていた。

氏家守棟(46)「成沢城はよく敵を引き付けてくれています。それと満兼らの軍に動きがある様です。
伊達軍の主隊も上山の奥から本陣を前方に進めて来るに相違ありません。
道程からすれば敵が陣を張りそうなのは柏木山。こちらも本隊を南下させつつ、遊軍を先に潜ませ、
敵の不意を突きましょう。」

戦いの臨旨がはっきりとし、理に適っていたので義光は守棟の策を採用した。

上山・伊達連合軍、最上軍双方は柏木山方面へと向かう。

最上軍の先陣は天童合戦から最上方に与した出羽最強の呼び名の高い延沢満延(35)が承り、
二陣は氏家守棟と七陣まであった。

両軍の先陣が松原で入り乱れて合戦が始まったが、義光はいくさの頃合いを見て本陣から太鼓と
鐘を打ち鳴らす。
柏木山付近に先に伏せていた最上方の鉄砲隊200挺が太鼓の合図に伊達軍の本陣目掛けて
釣瓶打ちへと撃ち掛かる。

輝宗の本陣は不意を打たれ、軍は乱れ、最上方の延沢・氏家の軍勢がここぞとばかりに押し込んだ。
延沢党の飯田小十郎らの前に多くの伊達譜代の旗本や衆目が討たれた。

金砕棒を奮い輝宗に縋る延沢満延に伊達の郎党たちが防戦し討ち死にする間、輝宗は命からがらに逃げ出し
、上山城の惣堀まで退いた。

これを合戦の地の名を取り「柏木山合戦」と称す。

「最上記」

799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/02(月) 18:45:48.12 ID:0FDYrBrC
この柏木山の戦いの話は軍記物の書き物ではありますが、「東北地方初の組織的な集団鉄砲戦」が
記された内容としても価値があると言われております








800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/02(月) 18:48:57.38 ID:0FDYrBrC
(´・ω・`)大将として冷静にいくさ運びを行った良い話?

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/02(月) 19:16:48.33 ID:Bgfzvsb9
戦場のど真ん中で鮭様が先頭!じゃないのか。珍しいな。

803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/02(月) 19:50:45.36 ID:0FDYrBrC
>>802
この戦いで鉄砕棒を振るって先頭で戦う延沢満延に影響されたのかも

その後
→例の愛用の鉄指揮棒が登場
→寒河江合戦・八沼城で先頭たのしー!

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成沢道忠と龍の兜

2010年10月31日 00:00

154 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/30(土) 18:40:38 ID:70ZQeu6q
成沢道忠と龍の兜

昔話なんで深く突っ込まないで欲しい。

最上四十八楯の一角に長谷堂と双璧を成す成沢館という岡城があった。
館主は米沢の伊達侵攻の際にも家名を保った最上義定の一門成沢氏。

天文の大乱にも参加した成沢氏には家宝とも伝わる龍の前立ての兜があった。
多くの最上重臣が討たれた対伊達家の長谷堂の戦いでも成沢氏の武名と家名を守った栄光の兜である。

やがて時が流れこの兜の噂を聞きつけ氏家守棟の嫡子が成沢館を訪れた。
氏家某「それがし初陣はまだ叶わないものの、初陣の折には是非高名なる兜をお借りできませんでしょうか?」
成沢道忠「この兜は当家の宝にて、お貸しするワケには参りません」
氏家「そこをなんとか・・・」
成沢「くどいですぞ!実子の光氏にもそれがしが死んだらくれてやると言ってるくらい大切なものです。お引取りくだされ」

連日に渡って陳情しに来る氏家に、道忠も熱意に打たれ(いい加減に折れて)ついに家伝の兜を戦の時に
貸すことと成った。

龍の兜を被った氏家が参加したのは「十五里ヶ原の戦い」
知る人ぞ知る、「最上義光の代で最大の負け戦」である。

氏家は戦死したが、兜だけは後に成沢家に戻ってきたという。
事の詳細は判らない。

龍の兜は二度と被られることは無く、
成沢道忠の息子の光氏は後に氏家守棟の養子となり、名門成沢家は家名を失った。
件の龍の兜の行方は現在判っていない。

「山形の昔話」より




155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/30(土) 19:06:54 ID:fjcYRv8S

>>154
三河武士が聞いたら説教しそうな話だな
縁起のいい兜に浮かれて自ら心に油断を生じさせるとは何事かと

157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/30(土) 20:25:47 ID:tgUgFv5D
>>155
三河にも良く似た話があるな。
結末は全然違うけど……
http://iiwarui.blog90.fc2.com/?q=%CB%DC%C2%BF%C3%E9%BE%A1%A1%A1%B5%CB%B9%BC



162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/30(土) 22:08:21 ID:Vr7GhCm5
>>154補足

諸説色々あるが

1570年代に伊達勢に後押しされた上山軍が最上を攻めてる。
この時迎撃したのが資料では「成沢道仲(みちなか・どうちゅう)」

1580年代後半に大崎合戦の傍ら行われた「十五里ヶ原合戦」には
「成沢道忠(みちただ・どうちゅう)」が60-70歳で出撃しているとある。

最上義光が死んだ1614年には成沢道忠入道が「山野辺義忠」を主君に据えようとして失敗し、
伊達領松島に逃げ、この子孫は現在も伝わっていると最上歴史館の人物史に表記がある。

同一人物だったらゆうに100歳越えてるわな。

道仲と道忠は二代だという説もあるけど
史料ではっきりとしないバツの悪い話って事で。

あと、この龍の兜「水魚の立ち物」とも「鯉の兜」とも言われてるみたい。
決して鮭の被り物じゃないよ。