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続武家閑談より「洛中放火の企て顕れて悉く斬戮の事」

2023年02月07日 19:11

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/07(火) 18:36:01.12 ID:m1SOtcLP
続武家閑談より「洛中放火の企て顕れて悉く斬戮の事」

古田織部正は徳川方の陣から敵に内通し、味方の事情を矢文で城中に送っていた。
その事は権現様はご存じでなく素知らぬようになさっていたため、大坂方はこれ幸いと間者に用いなさっていた。
権現様が大坂夏の陣にお立ちになる時、織部は茶友の宗喜に「大坂方から洛中に放火せよとのことだ」と実行を頼んだ。
しかし法制が厳しく、尾張義直(徳川義直)の陪臣である甲斐庄三郎、金井伊兵衛両人に放火犯二人をからめとられた。
成瀬隼人正(成瀬正成)に言上させ、伊賀守勝重(板倉勝重)が五更から明け方にかけて罪人を召し捕り、七日のうちに徒党をことごとく斬刑にした、
ほかにも助力している者どもがいるだろうということで、五月三日より上杉景勝に命じ八幡山に布陣させ、遊軍させなさった。

甲斐庄三郎は「管窺武鑑」「佐久間軍記」などでは甲斐庄三平のようで(甲斐庄が苗字)
続武家閑談の作者・木村高敦か書写した人物が「甲斐庄」という苗字を知らず「甲斐・庄三郎」と思ったのかもしれない

693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/07(火) 18:50:43.34 ID:m1SOtcLP
冒頭は「続武家閑談」だと
古田織部正は吾陣より敵へ内通し味方の事城中へ矢文ありしけれども其事権現様御ぞんじなかりしが左あらぬ様になされこれを幸ひと間者より用ひ給ふ也」で

管窺武鑑」だと
「此織部、旧冬の御陣の時、御方にて御供し、味方の事を聞いて、矢文を射て城中へ告げたるを、権現様御存なれども、御存じなき体になされ、御武術になさる。
是れ反間を用ひなさる御名将の微妙なり。」

「給うなり」がついてるから「管窺武鑑」のように反間という意味が正しいと思います。
「ぞんじなりし」を「ぞんじなかりし」と間違えたのかもしれない



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ゴキゲン大権現、馬上酒の供を募る

2022年10月04日 19:11

426 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/10/03(月) 21:23:55.42 ID:HQYAPPYE
慶長年中卜斎記』より
ゴキゲン大権現、馬上酒の供を募る

お供の衆との旅程も時間が経つと、家康は扇拍子で小歌を唄い、酒があれば取り出して盃は用いなかった
馬の柄杓で飲むか、小竹筒の口からそのまま飲んだ
そのうち(一人で飲むのが寂しくなるのか)上戸を探すのだが、自分のいる位置の先か後ろか、どちらにいるか分からないので、片手綱で早駆し、もう片手には小竹筒を持って先に行けば見当たらず、後ろかと思って列の半分ほどまで走ると「馬上酒を飲ませてやるぞ」と尋ね回った
成瀬正成は上戸だったので度々だった

追加で小さく「唄ひ歌の拍子いかかなとと咄し笑行候。ささへに酒あれは取出し云々」とあります
「ささへに酒」は笹紅酒?細紅酒?
にごり酒の一種、ささにごり酒のことでしょうか



427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/10/03(月) 22:42:59.42 ID:yg7+fVtc
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5061.html
とある大名が領地に帰るときの話

これと同じ話かな、出典気になってた

428 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/10/03(月) 23:10:16.86 ID:HQYAPPYE
>>427
そうですね
家康、上戸で検索してまとめとダブらないか調べたんですが、ここまで改編されると引っ掛かりませんよ汗
原典では悪い話というよりいい話のニュアンスです
ただ、明記はないものの成瀬が狙い打ちされて少し迷惑していた感じはありますね

家康の酒のエピソードは少ないように思うんですが、まとめttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7121.htmlだと比較的、肯定的な印象
徳川実紀の「見ていて心地がよい」対象の一人が成瀬だったんですかね

432 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/10/06(木) 20:15:51.63 ID:0MepCS7F
>>426
「ささへ」に酒あるとき、じゃないかな
「ささ」=酒、「へ」=瓮(もたい)で「ささへ」=酒瓶

433 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/10/06(木) 22:00:59.16 ID:GpxPmdQX
>>432
うーん、どう考えてもそれですね
勉強になりました

壮士の死戦すべき所はここぞ

2022年08月14日 16:34

335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/14(日) 13:44:08.53 ID:pKpwmqpE
尾州長久手の戦に、成瀬隼人正(正成)は十七歳であったが、敵軍に乗り込み兜首を取り、
家康公の御覧に入れると
「汝は勇士なり。旗本の兵寡し。先ずこれを守れ。」
と仰せになったため、御馬の先にあって息を継いでいた。

ところが先手が敵軍に辟易しているのを見て、駆け出そうとしたが、馬取が轡を取って
「既に功名を遂げられました、然るを敵の中に入り命を亡くすのは何の益があるでしょうか!」
と言った。
これを聞いた正成は大いに怒り馬取を罵ったが手を放さなかったため、刀を抜いて峰打ちし、

「小利を貪り大義を失うのが武士の道か!?今日の戦は、敵破れ陣を陥れ、逃げる所を追い詰めた後に
止むものだ。名も知れぬ首一つに身を顧みる事など出来ない!」

しかし鞭打っても罵っても、馬取は猶も放さなかった。

この時家康公は三十間ばかり隔てた場所でこれをご覧になっていたが、

「味方が足を貯め兼ねている。壮士の死戦すべき所はここぞ!ただその志に任せよ!」

と仰せになると、馬取この時轡を放った。
成瀬は真一文字に乗り入れ、また兜首を獲って、東西を馳廻り、味方を恥ずかしめた

「君が間近で進退剛怯を御覧になっているのに、きたなくも逃げ走り、一体何の面目があって
後人にまみえるのか!?」

正成のこの言葉に励まされて、引き色だった者も踏みとどまり、進む者はいよいよ勇んだ。

こうして、その年の暮、成瀬正成には根来衆五十人が預けられた。
家康公は、「成瀬の長久手の働きは、軍功の士にも劣らない」と、感じ仰せになられた。
徳川家において十七歳にして将となったのは、正成一人ばかりであるという。

新東鑑



尾張家はこのように、御入魂であったのである。

2021年05月03日 19:08

146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/03(月) 16:53:05.12 ID:xtvZpTjR
池田輝政様の御逝去の時、武蔵様(池田利隆)は江戸に在った。
帰国のための御暇を得る時分であったため、武蔵様にはこの事を申し上げず、お聞き無きように、と
御老中の内意であったため、御暇が出た後にお聞きになり、これへの御愁傷は大方成らないものであった。

直ぐに帰国の途につき、成宮にて尾張大納言殿(徳川義直)より、成瀬隼人正が御使として出られ、
その他にも御家来衆が武蔵様を迎えるために御出になった。

武蔵様の御愁傷の様子を隼人正は見て
「左様に御愁傷されていては、幼少の御舎弟たちを、今後お取り立てなさることも出来ません。
御酒を参らせられますように。」
と、御酒を乞い、先ず自分が中椀にて二つばかり呑み、武蔵様へ進上した。武蔵様が無理に呑まれた時、

「そろそろ潮時が良いでしょう。早く御船に召してください。」

と言って、実は未だ潮時の前であったのだが、御船を召された。しかし潮時前であったので
船が出されぬままであったのを、隼人正は股立を高く取り自身海に飛び込み、武蔵様が召した船を
押し出した。隼人正がこのような体であったので、他の尾張家の諸士も各々海に飛び込み船を押した。
これにより船は浮き出た。

池田輝政公の御妹は浅野紀伊守(幸長)の室であり、また尾張殿は紀伊守の聟君であった。
然れば、尾張殿の御内室は武州様の姪子である。それ故に、尾張家はこのように、武蔵様に対して
御入魂であったのである。

烈公間話



名誉の返答であった

2021年04月19日 17:40

126 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/19(月) 14:59:21.84 ID:GCe/x5AD
加藤清正は常陸守殿(徳川頼宣)の御縁者を仰せ付けられた。
東照宮(家康)の仰せに(駿府に於いての事也)
「常陸守の事、清正の婿に申し合わせた上は、諸事子息同然に心得給え。」

清正が退出し御次間へ出た時、彼に御当家(徳川家)の家臣衆が申した。
「只今の仰せについては、定めてご満足であったでしょう。」

清正は云った
「尤も、忝なく存じています。さりながら、昔の秀吉公の御厚恩は忘れ奉りません。」

御当家の老臣達は返答の仕様もなく居た所に、成瀬隼人正(正成)が間に入り
「その思し召し、御尤も至極であります。又家康公の御恩を蒙った者も、またその通りに
家康公の恩を重く存ずるのです。」

と申した。名誉の返答であった。

烈公間話



129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/22(木) 00:58:17.21 ID:Tox4w0bR
>>126
なんで徳川の縁者になったら秀吉の御恩を忘れるということになるの?
秀頼自体が徳川の縁者なのに

130 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/22(木) 07:34:02.37 ID:ard2cif5
表面しかモノが見れないのね

131 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/22(木) 08:16:09.72 ID:0Qbsx+fU
そもそも秀頼なんて秀吉の種じゃないだろって当時の人も思ってそう

隼人の働き

2019年02月27日 18:19

695 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/27(水) 10:36:37.16 ID:vfT9Qfg0
長久手の戦いの時、成瀬隼人正成は十七歳であったが、敵陣に乗り込み、兜首を獲って
徳川家康の御目にかけた。この時家康は
「汝は勇士である。現在旗本の兵少ない。先ずここを守るように。」
と命じた。

成瀬は御馬の前に有り、息を継いでいた所、味方の先手が辟易しているのを見て、再び駆け出そうとした。
しかし彼の馬取は轡を執って抑えた
「殿は既に功名を遂げられました。再び敵の中に入り、命を滅ぼしては何の益があすのでしょうか!」
成瀬は怒り罵ったが、馬取は手を離さなかった。すると隼人は刀を抜いて峰打ちし

「小利をむさぼり大義を失うのが武士の道か!?今日の戦は敵を破り陣を陥落させ、逃走するのを追い詰めた
後に止めるべきものだ。名も知らぬ頸一つに身を顧みるものか!」

鞭打ち怒鳴りつけたが、馬取は猶放たなかった。
この様子を家康は、三十間ばかり離れた場所で見ていたが、ここでこう声をかけた

「味方足を溜めかねている。壮士の死戦すべき所はここぞ。ただその志に任せよ!」

これを聞いて馬取は轡を放した。それと同時に隼人は真一文字に戦場に乗り入り、再び兜首を挙げた。
そして東西を走り回り、味方を発奮させた

「君は間近で進退剛怯をご覧になっている!きたなく逃げ走っては、何の面目有って後人にまみえるのか!」

これに励まされ、引き色だった者も踏みとどまり、進む者はいよいよ勇んだ。

その年の暮、家康は成瀬隼人に、根来衆五十人を預けた。この時「隼人の長久手での働きは宿将老師にも
恥じないものであった。」と仰せに成った。

徳川家に於いて十七歳で将と成った者は、この成瀬隼人のみである。

(武将感状記)


成瀬正成、名誉の挨拶

2018年10月10日 19:35

332 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 15:33:48.10 ID:ATyzqMd8
成瀬正成、名誉の挨拶


駿府にて東照宮(家康)が加藤清正に、常陸守殿(頼宣)、紀伊殿(浅野幸長)を
御縁者とするよう仰せ付けられた。
これは、常陸守を清正の婿にした以上は他の子息(義直)も同様にするように
(=義直の舅の幸長とも縁者になるように)との仰せ付けであった。

御次の間に清正が出たとき、清正に御当家(池田家)の家臣衆が
「只今の(家康の)仰せられ様には、きっとご満足されたでしょうね」
と申すと、清正は
「もちろんありがたいことですが、秀吉公の昔の厚恩は忘れられません」
と申したので、御当家の老臣はそれに対して挨拶することが出来なかった。

そこに成瀬隼人正(正成)が
「その思し召しは至極ごもっともですが、家康公の御恩を蒙った者も同様に
 家康公の御恩を重く思っているのです」
とたちどころに申されたのは"名誉の挨拶”であった。


――『烈公間話』


それだけで肴を食うに勝るのだよ

2017年11月05日 17:19

381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/04(土) 20:03:06.54 ID:KfZh2TsO
成瀬隼人正の父・吉右衛門は、関ヶ原の後は伏見にあり、隼人正は駿府にて御政道に加わり、
奉書を成す役人となり、父吉右衛門もこれを賞した。

出世をした隼人正の方より、時折黄金などが伏見の父のもとに送られてきた。
吉右衛門はこれを取ると、自宅の居間の天井より網を下ろし、この金をからげ置き、
客人が来るとこのように言った

「これを見給え。この金子にて肴(食事)を調えよと、隼人正より送ってきたのだ。
しかし、肴が食いたく成る度にこの金を見るのだが、それだけで肴を食うに勝るのだよ。」

大阪冬の陣の講和が整うと、伏見城に隼人正の二人の息子が祖父吉右衛門に逢いに来た。
吉右衛門は彼らに言った

「この度は別状無く扱いになったが、おっつけ御合戦となるだろう。ならば侍の重宝とは馬に如かずという。
江戸が広いと言えども、金二十枚に及ぶ馬はさほど沢山は無いだろう。
これにて馬を求め乗るように。」

そう、二人の孫に金二十枚づつ与えたという。

(士談)



382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/05(日) 08:37:21.77 ID:hB8/XYJE
落語で梅干しを見て出てきたツバでおかず代わりにしたり
鰻屋の匂いをおかずにする噺があるがほんとにするとは

383 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/05(日) 14:20:10.24 ID:fZhUY7y+
>>382
息子の親孝行が嬉しかったんだろうなあ

384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/05(日) 17:43:42.85 ID:1omkA1D0
子供からの仕送りを全く使わずに貯めておく親御さんは結構いるよね
で、いざとなったら子供にそれをポンと出すみたいな

385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/05(日) 18:59:30.43 ID:qxNXpecv
それをまた孫に与えるというのがいいねえ。
こういう爺様になりたい。結婚もしてねえけど…

387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/08(水) 12:19:34.68 ID:wIqpSQ4E
真性の守銭奴で本当に黄金を肴に飯が食える人かと思ってしまった

388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/08(水) 13:44:27.06 ID:q4w5b6bw
>>387
利家や左内さんならやりそうw

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/08(水) 14:14:54.89 ID:FIsJp2h+
>>388
左内さんの金はいろんな意味で違う使い方なので…

米商人八郎兵衛

2017年10月11日 19:09

304 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/11(水) 18:00:35.41 ID:hmMnuSkv
成瀬隼人正正成が新たに領した地に、米商人八郎兵衛という奸商があった。彼の父の代より、
密かに大小の二種類の升を用い、不正の利益を得てその富巨万とした。

しかし隼人正が領主と成るに及んで、政令厳格にして姦悪尽く摘発されるに及び、八郎兵衛大いに恐れ、
自首して罪を請うた。

この事に隼人正は思った
「八郎兵衛は人を欺き不正に利得を得ており、その罪は許しがたい。しかし自ら罪悪を知り訴え出た。
その心情は恕するべきであろう。まして、この不正を始めたのは先代であり、必ずしも追求すべきでは
ないだろう。」

そして八郎兵衛にこのように命じた

「自今以降は世間に公表して2つの升を使うべし。ただし購入に小升を以ってし、売る時には大升を
以って行え。これを7ヶ年行うことで、前罪を償うべし。」

隼人正はこれによって不正の富が損ずるとのつもりで命じたのである。
ところが、これ以後八郎兵衛の店頭には米を買う者日々に群集し、その富は昔日の倍となったという。

(今古雅談)



305 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/11(水) 18:07:39.71 ID:K1Mthq9x
意味が分からない

306 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/11(水) 20:01:12.55 ID:7KqRD381
不正しなくてももうかる値段設定だったってことかな、もしくは付属品で儲けたか。

307 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/11(水) 20:06:27.09 ID:H4+NZ/St
売れば売るほど赤字になりそうだけど…米以外のものも売ってたのかね。

308 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/11(水) 20:30:23.18 ID:lV7aeGVh
薄利とはいえ他よりマシな値段設定とか

309 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/11(水) 20:54:33.09 ID:OGC4e17e
この店は他店より大きな升で買えると七年経ってもイメージが付いたんじゃないかな

大人・公子の御身として、幽霊女の真似など

2017年03月14日 17:39

665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/14(火) 17:34:44.98 ID:T6KbAzrH
ある年のこと、尾張大納言徳川義直の元に酒井讃岐守忠勝が訪問した時、馳走にと
嫡男五郎太殿(後の徳川光友)による能興行があった。
この時、五郎太の手の舞い、足の踏む所、自らの拍子を、『讃岐守はきっと感賞するであろう』と、
義直は自慢げに見せるのを、忠勝は一切褒めず

「勿体なき大事の御身でございます。どうぞ余人に仰せ付けてください。すでにご器用なのはよく解りました」
(勿体なき大事の御身にて候。只余人に仰せ付けられ候へ。最早御器用の程は見え申したり)

と、しきりに止めようとした。立ち返ってから

「武家は何度も武を賞賛されることこそ本意である。大人・公子の御身として、幽霊女の真似など、
全く益がないではないか。」
故に全く感心できなかったのでやめるよう言ったのだと、成瀬隼人正正成に語ったそうである。

(武野燭談)


666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/14(火) 21:27:44.11 ID:BQ1j7HGy
でも武を見せつけると謀叛の疑いをかけらるんだろ

嘉隆の運命のほど

2017年02月16日 17:14

602 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/15(水) 20:08:35.82 ID:0fvy8vfu
慶長5年、関ヶ原の役において、九鬼長門守守隆は家康の会津征伐に従い、小山の陣に伺候していたが、
父大隅守嘉隆は、隠居の身として石田三成に与し、海賊を集めているという情報がもたらされた。

これにより「九鬼守隆を幽閉すべし」との声が上がったが、成瀬隼人正正成は反対した

「長門守が謀反を謀ることはありません。そもそも今回御供つかまつった上方衆のうち、
父子・兄弟別れているものは多くおります。その中で長門守一人を押込めるというのは
如何でありましょうか?

先ずは長門守に今度の旨を仰せ聞かせられ、その上で九鬼の領地に遣わし、彼の様子を
ご覧になった上で、必要な時は踏み潰す。そうしたほうが簡単であると存じます。」

そこで家康は守隆を召し、委細を聞かせ、「早々に志摩へ馳せ上がるべし。」と命じた。
守隆畏まって鳥羽へと赴いたが、考える所あって父。嘉隆とは対面せず、自分は関東に
御味方仕る旨を申し送った。

息子守隆が合流しないことで、嘉隆の勢力は広がらず籠城も難しくなり、伊勢神官の内に知人があり、
それを頼って城を開き退いた。ところが嘉隆の家臣である豊田五左衛門という男が、あえなく
主人嘉隆を害してしまった。

これを知った守隆の口惜しさは如何程であっただろうか。
流石に父に対しては敵し難いと考え、勿論関東に背く心もなかったため、直ぐには父子対面せず、
引き別れて立てた忠孝をどうにかして申し上げ、父の命を救うという計画が果たされるのは
目前であったのに、家臣豊田の大逆にて害されてしまった嘉隆の運命のほど。
是非もないことである。

(武野燭談)

長篠合戦の図〔鉄炮片眼打の事〕

2016年09月08日 17:37

173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/08(木) 11:25:17.38 ID:Rn2M2SzC
長篠合戦の図〔鉄炮片眼打の事〕

 成瀬隼人正の家に長篠御合戦の古図があると、年来聞き及びながら過ごしてきた。
そういったある日にふと幸便があり、借覧を請うてみたら、
彼も部屋住みのときからの知り合いだというので、こころよく貸与してくれた。

 そこで模写させる傍らで絵を視てみると、
長篠城の体から、
勝頼が敗軍して武田の武将のかなりの数が突撃して討ち死にする体、
兵馬旗鼓の状態、
実にその場の真を写すに十分であった。
考えるに、当時の目撃人が描いたのであろう。

 その中の信長の先兵は、神祖の御兵と陣を並べて烏銃を発砲する様を描いたところを
詳しく見ると、信長の兵は十に一か二であるが、神祖の御兵はすべて皆片目で撃っている。
これから思うと、予の藩士が烏銃を撃つときは皆片目である。
 予は初めは田付武衛等の流派では、両目を開いて撃つので、領内のは田舎の旧風であろうと思っていた。
そこで、今は全て田付武衛のに従わせている。
しかし神祖の御時ではもっぱら片目での銃法があることを、これにて知ることができた。

荻野長(八百吉)が言うに
先年系譜修撰の御用を勤めたとき、稲富氏の系譜の中に隻眼烏銃の術を神祖に申し上げるというのを書載していて、
なおかつその時に稲富氏に神祖が下賜された御誓書は、今正しくその子孫に伝わっているという。
この稲富流があるのは世に広く知られていることである。
昔は稲富の法を御当家が採用されたことはこの古画で知ることができよう。

また予の領内で伝えられた隻眼の術は真柳流というとか。
今はその伝は絶えて名のみ残っている。

(甲子夜話)



17歳で将となったのは

2016年05月11日 17:59

712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/11(水) 17:15:36.90 ID:RZRieaSv
尾州長久手の戦の時、成瀬隼人正は17歳であったが、敵陣に乗り込んで兜首を取り、
徳川家康の御覧に入れると

「汝は勇士である。今、旗本の兵が少ない。先ずこれを守れ」

そう命ぜられたため、本陣の先にて息をついていた所、先手が苦戦しているのを見て
駆け出そうとした。

ところが馬取が馬の轡を捉えて

「あなたは既に功名を遂げられました!それなのに再び敵の中に入り生命を亡ぼして、
一体何の益が有るというのですか!?」

成瀬は激怒し馬取を罵ったが、それでも手を離さぬため、刀を抜いて峰打ちし

「小利を貪り大義を失うのが武士の道か!?今日の戦は、敵破れ陣を陥れ、さらに逃げるの
を追い詰めた後に止めるべきものだ。名も知れぬ首一つに身を顧みられようか!?」

そう怒鳴りながら峰打ちしても、なお手を離さない。

この時徳川家康は30間ばかり(およそ50メートル)隔てて戦況を見ていたが、
ここで声を発した

「味方は持ちこたえられない様子である!壮士の死戦すべき所はここぞ!ただその志に任せよ!」

この時、馬取は手を離した。
成瀬は真一文字に乗り入れ、また兜首を得て、東西を駆け巡り叫んだ

「君は間近で進退剛怯をご覧になっている!なのに黒くも逃げ走り、なんの面目あって
今後人に見えるのか!?」

こう見方を辱めると、引き色だった者も踏み止まり、進む者はなお勇んだ。

そして成瀬隼人はこの年の暮れ、家康から「成瀬の長久手での働きは軍功の士にも恥ずべからず。
誠に感じ入った。」と根来衆50人を預けられ、将の一人となった。
徳川家において、17歳で将となったのは、成瀬隼人一人だけであったという。

(新東鑑)



713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/11(水) 17:31:57.70 ID:vojZxJwv
轡取りの行く末が気になる…

「時に臨んで功者な手段」

2016年02月06日 15:06

99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/06(土) 14:01:14.90 ID:j7aiHJz8
大坂の陣が調停となって堀を埋めた時、豊臣秀頼より女中方が使いとして
やって来て、「堀の埋めさせられようは、どのように致しましても、御情けの
なきなされようでございます!」と、恨み申し上げた。

徳川家康にしても秀忠にしても応対しかね、老中も返事を申しかねたので、
女中方はますます激しく、恨み深く申していたところ、成瀬隼人(正成)が
女中の傍へと近寄り、

「おやおや、こなたは女中であるのに、よくものを申される人ですねえ」

と言って、女中の尻をつねった。女中はこれに困って赤面し、言葉を発する
ことができなかったそうである。

この事は、「時に臨んで功者な手段」と言われたとのことである。

――『武功雑記』



100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/06(土) 19:28:45.21 ID:vYxxbSP+
セクハラパワハラ

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/06(土) 20:24:25.19 ID:uEIFzPgd
この女中は美人で名高いお玉の方か

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/06(土) 20:39:46.22 ID:OlPnY2tG
女中が誾千代だったら死んでるだろ成瀬

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/06(土) 21:05:46.48 ID:QbI8M+bu
そこへ現れる大蔵卿局

正成が日頃望んでいたのは

2013年07月07日 19:02

629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/07(日) 18:41:06.62 ID:ZcdGcfU1
成瀬正成徳川家康の近臣で、尾張の徳川義直に付けられ、
義直に対しても忠勤を尽くして仕えた。

正成が日頃望んでいたのは「恐れ多いことだが、死後には尊神(家康)の
御かたわらに侍りたいと思う」ということだった。

程なく正成が身罷ると、義直はその志を思って遺言に違えず亡骸を日光山に送った。

その死の三日前の事。天海は「今朝神祠に参ったところ、正成がここに来て
神君の御前に侍っているのを見た。正成は近いうちにきっと身罷ると思う。
まもなくやって来ることだろう。本当に哀れなことだ」と言って涙を落とした。

――『東叡山開山慈眼大師縁起』





秀忠様にも生まれつき、大御所様より優っているところも

2013年04月25日 19:52

379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/24(水) 20:13:25.59 ID:Qi9JfOkH
大阪夏の陣の時のこと。

将軍・徳川秀忠はその軍勢の進軍が遅いと立腹し、御側の者達はこれを承って、殊の外
進軍を急ぎ、道も打ちまたぐように猛スピードで進んだ。

この時大御所である家康は、秀忠の軍勢が急ぐ必要はないと考えていたため、それを伝えたが、
秀忠の方は

「例え大御所様の思し召しであっても道を急いで攻め寄せるのが正しい!とにかく急ぐのだ!」

と、家康の言うことも聞かない様子であった。家康の方はいよいよ合点がいかず、

「何と言う手ぬるい行動だ。まるで弱みでもあるかのようではないか。」
と仰られた。

その後、家康の御前に成瀬隼人(正成)、安藤帯刀(直次)を初め何人かが集まり、この秀忠の
進軍に関して相談が持たれた。
ここで成瀬隼人が発言する

「大御所様のお考えは間違っております。大御所様が遅く来るようにとお考えになっているのと同じように、
秀忠様がお急ぎに成るのも、深い考えがあってのことなのです。
それに大御所様、秀忠様にも生まれつき、大御所様より優っているところもあるのですよ?」

家康これを聞いて
「優っている?あやつがわしにどれほど優っているというのか?」

隼人少し考え
「そうですな。この事はたいへん申し上げにくいのですが…、まあ、5倍は優っておりますな。」

家康、あっけにとられ
「おいおい、いくらなんでも5倍ということはないだろう!」

これに隼人
「それでは15倍も優っておられますかな?」

そう申し上げて御前を退出したそうである。
(紀伊國物語)




380 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/24(水) 20:30:45.03 ID:+gyH3aIl
「大御所様息子を過小評価し過ぎですよ、心配しなさんな」ということか、ニヤリと笑って言ったんだろうな

381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/25(木) 01:09:12.40 ID:EQMFg1pX
尾張の付け家老か
最近まで子孫が国宝の城を個人で所有してたよね

382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/25(木) 14:15:11.10 ID:4yn1Iero
仙谷秀久とも似たような話あったよな
あれは関ヶ原直後だったかな

407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/26(金) 15:32:58.72 ID:AcZ/Bgwr
>>379
家康の墓で死にたいとか駄々こねたイメージなのに
結構家康にどきついこと言う鬼畜な成正さんはさすが三河武士のほこりやで

416 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/26(金) 21:42:44.02 ID:EC1KSH/h
三河武士は家康に一言皮肉を言えるようになってはじめて一人前

・・・という通過儀礼でもあったのかと疑いたくなるよね

417 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/26(金) 21:46:05.38 ID:J1xm2FS1
>>416
組織としては超重要だか非常に難しいぞ、それ

418 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/26(金) 23:08:40.77 ID:No9bYfyn
主を貶せるようになれば一人前・・・・つまり黒田家は皆一人前

420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/27(土) 00:30:42.70 ID:Sw5oXsom
官兵衛に歯向かった奴なんているの?

421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/27(土) 01:36:56.51 ID:E5ujqAhY
NGMSだろ

430 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/27(土) 15:57:17.01 ID:NA5LBGAu
>416、タヌキさんの場合道理が通ってれば文句言ってもいきなり斬られることはないだろうし。平八郎に折檻されるか友に冷笑されるかはともかくとして。
これが末期のラスボスとかだと首がポーンしかねない

431 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/27(土) 20:14:31.18 ID:Tfoo7lvo
>>430
末期なら首がポーンじゃなくてポポポポーンだよ
家族とか一族的な意味で

432 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/27(土) 20:40:03.96 ID:+rsyMp3u
諫言するたび、一族消えるね

433 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/27(土) 21:05:48.34 ID:tMrczh2L
刑~死~

434 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/27(土) 23:58:40.68 ID:te4Y41y0
うまくまとまってるんじゃないよ!


徳川軍団、水口城下行進!

2012年10月03日 20:28

699 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/10/03(水) 06:02:14.76 ID:VeVuyAD+
関が原の直前、京から関東に上杉征伐しに行く時の家康がとても狙われていたらしい。
なんせ征伐されそうな上杉派、挙兵する反家康派が石田三成をはじめウヨウヨいるのだ。
家康が江戸に帰る時の、佐和山付近での家康暗殺計画を三成が検討していたり、
長束正家の家康暗殺未遂という話があるが、
(伏見にいた頃から三成が襲撃を検討していて、それを榊原康政が食い止めたという話まである
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5671.html

さて、↑の長束正家による家康暗殺未遂(?)は失敗に終わり、甲賀衆の知らせで
家康はふらふら~とうまいこと正家の城下水口を通過することに成功した。
この時長束軍が家康を取り逃がした後、軍勢を繰り出したという話がある。
家康は諦めるが、後ろに来る徳川軍(といっても少数)を通過させないように邪魔をしようとしたのだ。
ここで合戦が起これば当然、徳川不利な情勢になるのを見据えて。
かといってとぼとぼ伏見に帰っても鳥居元忠に怒られるだけである。待機していてもそれはそれで困るだろう。

後ろの徳川軍を率いていたのは本多忠勝を筆頭に服部正成成瀬正成水野勝成
錚々たる三河武士。当然帰るなんて選択肢はないし、家康の身が危ない以上一刻も早く合流したい。
忠勝は彼らに命じ火縄銃に火を灯し臨戦態勢をとった。
すわ合戦、かとおもいきや忠勝は兵に掛け声を叫ばせながら、水口城下を行進した。
臨戦態勢でやる気満々で城下を練り歩いているのだ。
さすがに長束勢もこれには手が出せず、結果忠勝率いる徳川軍も無事に江戸に行くことができたのである。

出典は家康の侍医板垣卜斎の「慶長年中卜斎記」だそうだが、ネットのあちらこちらから
適当に抜き出してきた話なので信憑性は低いかも。
・・・しかし、長束正家の妻は忠勝の妹(姪とも)なのだが。




700 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/03(水) 10:18:42.88 ID:Lo7jkwgW
このメンバーでは臨戦態勢とってなくても仕掛けるのに相当勇気がいるぞ。

「これこそ間違いなく御墳墓の地だ!」

2012年09月30日 20:12

684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/30(日) 18:07:03.09 ID:SL7Dp0qe

成瀬正成土井利勝は観智国師存応を伴って上州新田にやって来た。
徳川家の先祖の旧蹟を捜索しに来たのである。

しかし、聞き込みをしてもそれを知る者が見つからなかった。
だが、一人の農夫が「世良田の近くの丘に古寺のあとがあると言い伝えがある」
と証言したので、

利勝は人夫を集めて丘の上を掘らせたところ、たくさんの古仏古瓦を発掘した。

「これこそ間違いなく御墳墓の地だ!」

利勝らはその地形を記録して帰り、(徳川家康に?)報告したという。

――『徳川実紀(駿府政事録)』

後の大老もいろんなことやってたんすな。




685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/30(日) 18:30:24.46 ID:q/AyMoqe
>「これこそ間違いなく御墳墓の地だ!」

すごいゴットハンド臭がする(´・ω・`)

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/30(日) 19:30:18.42 ID:WtmvNjRi
ほほえましいなw

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/30(日) 19:38:40.49 ID:KqbV6UIN
>>685
稲妻ヅモ

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/30(日) 21:23:53.91 ID:eh+JOYTU
それっぽいものがあったら何でもよかったんだろうなw


689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/30(日) 21:51:43.24 ID:G8uDJ1+k
>>すごいゴットハンド臭がする(´・ω・`)
トッシーなら○く治めるためには埋めるくらいやっちゃいそう・・・

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/30(日) 22:04:55.10 ID:DDorhG0P
竜巻ヅモも

691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/01(月) 06:26:56.10 ID:bHmGh7wP
そいじゃ真空ヅモ追加しとこう

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/01(月) 18:30:56.55 ID:2SUJ1x8S
自己中どもめ

坊主はまた叱られてしまった

2012年07月16日 20:58

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/15(日) 19:15:41.05 ID:SJCrnKFz
徳川家康は倹約を徹底したといわれているが、明かりに関しても同じだった。
ある時には蝋燭は数本だけで残りは油火ばかりという徹底ぶりで日頃から
家人たちも厳しく言われていたらしい。

ある時、成瀬正成松平正綱が急ぎの連署状を書くために坊主からわずか
二、三寸の蝋燭を請い得て連署状を書き、その場を離れた。

この時、二人はうっかり火を消し忘れた。見回りが蝋燭を見かけると
坊主は呼び出され「上様が御覧になったらお咎めになるぞ。何故消さない」
と叱られてしまった。

「いや、これは隼人殿たちが…」と、坊主が説明しているところに消し忘れに
気付いた二人が戻ってきた。

「お前たち、消し忘れに気付いていたなら何故消さない」
坊主はまた叱られてしまった。




525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/15(日) 19:35:21.66 ID:jy7EbxNU
当時蝋燭はかなりの高級品だったみたいよ
一般人は使ってなかったんじゃないかな?
水戸黄門とかの時代劇だと農民でも使ってるけど

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/15(日) 19:35:48.56 ID:SmZeOzs0
火の管理は節約という以上に火災予防の面が強かったので、消し忘れはすごく危険なミスとして認識されてたりもする。

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/15(日) 19:46:21.38 ID:rZBNcugH
上様が叱るからと言う理由で上様に媚びるかのように叱る
そして肝心の消し忘れはそれと気付いているのに消そうとしない
この見回りは一体誰でしょうな


528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/16(月) 00:11:35.33 ID:O8eaPXUR
借りるなら油にしとけって幽斎様が…

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/16(月) 08:10:27.90 ID:uN8vUu/G
油だと鍋島さんとこのヌコが寄って来るじゃないですか~

530 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/16(月) 09:21:53.41 ID:AKgEYPKZ
つうか蝋燭消し忘れたのは自分らだって事を棚に上げて説教かましたんですか成瀬さんと松平さん
坊さんマジ踏んだり蹴ったり

531 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/16(月) 10:31:26.98 ID:qMOzFLgo
利家とジャイムズくんが寄ってきそうな話だ