FC2ブログ

成田氏のこと

2016年12月29日 16:21

468 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/28(水) 19:53:58.91 ID:eJwcuXjh
 成田下総守藤原顕泰入道は清岳成安と名乗った時代に武州成田郷に来て居住した。
その子の親泰入道宗蓮の代に武州忍の大極氏国という者を討ち取って忍に来て住んだ。
その子の太郎五郎長泰は後に中務大輔と号した。
旗下に酒巻・中条・別府・玉井・渡柳・箱田・小河原・上中条がおり、
須賀入道も成田の旗下であった。

 成田親泰は公方足利成氏に軍配団扇を献上することがあった。
その団扇は上州利根川の辺りに張良の社というところの宝殿に張良の唐団扇といわれるものがあり、
明応四年乙卯(1495年)に親泰はかの団扇を模したものであった。
成氏公も同六年(1497年)九月に遺物として京都将軍足利義澄公へ献上された。

 成田は上杉輝虎に初め属していた。
しかし鶴岡で「成田は頭が高い!!」と輝虎は咎められたが、
成田は「私の家は将軍にも下馬の礼が無くてもよい家である。
これは嘉例なのでその礼に任すところを、故実を聞かずにいかつい仕方である!!」
と輝虎の属を離れて北条と入魂になった。

 輝虎方の木戸源介は忍の近所の皿尾に籠った。そこを成田長泰と子の下総守氏長は父子で攻めた。
その時、氏長は臣の豊島美作に父の長泰を駆り出した。これは永禄九年(1566年)八月十五日のことで、父を押し込んで隠居させた。
氏長の弟に長繁という者がいた。
彼は太田道灌の婿となっていて、小田氏を継いでいた長泰の弟(つまり氏長・長繁の叔父)を継いで介三郎、後に伊賀守と号した。
武州山の根の城(私市という)に住んでいて、そこは忍からは二里余りあった。

 忍の城は成田氏長が天正十八年(1590年)に没して後、文禄元年に松平下野守忠吉が領した。
元禄十二卯年(1699年)まで九十八年の慶長七寅年(1602年)に尾州へ下野守は所替となった。
慶長五年以後に御番城となっていて、高木筑後守(広正)が与力同心勤が守備についていた。
元禄十二年まで六十年程の寛永十年(1633年)に松平伊豆守信綱が領して、
同十六年(1639年)に阿部豊後守(忠秋)が領した。この年は元禄十二年まで六十一年である。

 下野烏山は成田左衛門尉(泰親)が領していた。
元和九年(1623年)から松平(松下?)石見守(重綱)が領した。


『武士としては』



スポンサーサイト

「朝霜や まだ解けやらぬ 縄手道」

2014年10月01日 19:01

917 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/01(水) 01:07:41.85 ID:DQrcN7M6
島田弾正(利正)が町奉行だった時のこと。徳川家康の時代、博奕は諸悪の根元
ということで厳しく吟味された。そんな折に博奕の訴人が出たので、同心たちを
差し遣わし、60人を召し捕らえた。

その中に50歳ほどの坊主が1人いた。弾正はその者に向かって「其の方は頭を
丸めた身であるから、とりわけ不届きである。もともとは医者か? 出家か?
何者なのだ」と、尋ねた。坊主が言うには、

「私の親は、武州忍の城主・成田殿のもとで、連歌の執筆を勤めていました。
そんな折に成田殿の身の上は果てられ、その後、親も浪人のまま相果てました。

それ故、私は浪人となりまして、渡世のやりようがないので、博奕仲間へ入り、
灯心を掻き出し、湯茶を持ち運ぶのを役目に致して食事を貰い、世を送りました。
博奕というものを、どのように行うのかは存じません」

とのことだった。そこで、博奕仲間たちに尋ねると、坊主の言う通りだった。
弾正は坊主に「其の方は連歌師の子か。確かならば、そこで一句仕りなさい」
と言った。坊主は「朝霜や まだ解けやらぬ 縄手道」と詠んだ。

弾正はこれを聞き、この句に応じて縄を解いて許し、「これからは博奕の座での
交わりを止めて、食物なくば町年寄たちのところへ回って、何なりと貰うように
しなさい」と、申し渡した。それ故、坊主は彼方此方と徘徊し、心安く渡世した
ということである。

――『責而者草(君臣言行録)』




919 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/01(水) 11:41:59.76 ID:c6gbH1Y1
ホームレスになったのに物をもらって心安く渡世したっていんちき坊主じゃねえか

920 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/01(水) 11:48:22.38 ID:bRhnWkEj
正しい意味での乞食坊主

永禄9年、成田家の親子不和

2012年11月28日 19:48

509 名前:1/2[sage] 投稿日:2012/11/27(火) 20:02:32.43 ID:/gAGb3HT
永禄9年(1566)の事

成田長泰は71歳の老年と成り、子息氏長が成人したというのに、彼に家督を譲らず、常々色を好み酒に長じ、
城外に別荘を建てて、小筑という女を上方から呼び寄せ寵愛した。
家老や一門の者達、これを諌めたものの聞き入れようとしなかった。まさに老醜である。
このような状況の中

成田長泰に見捨てられた家老
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7055.html
↑これで危うく見殺しにされかけた豊島美作守は長泰への恨みを忘れておらず、氏長、及びその母に
申し上げることには

「長泰様は老体の御身でありながらあのような無行儀の作法、御一門も他家も、嘲り疎み果てております。
この時に、私は皆々と相談し、大殿を無理に隠居させられるように才覚いたし、若殿を世に立てたいと
考えているのです!」
これに母親も氏長も同意し、豊島の計画に参画した。

そんな陰謀が起こっているとは知らず、成田長泰は梅阿弥という同朋衆一人を共とし、妾の小筑の元へ
出て酒宴していた所、成田一門家中、豊島に賛同し、重臣である小田伊賀守を始め、豊島左馬助、
別府兄弟といった人々は忍城に集結し、成田長泰を城に入れないために門などを皆閉じた。
恐るべき嫌われっぷりである。
帰ってきた成田長泰が見たものは、完全に閉じられ自分を拒絶する忍城であった。

が、この成田長泰は只者ではなかった。

彼は水落の桶が城内に繋がっていることを知っており、特殊部隊のごとくそこに潜りこんだ。
長泰に続いて梅阿弥も桶を潜った。

「大殿が桶をくぐられた!」

510 名前:2/2[sage] 投稿日:2012/11/27(火) 20:03:08.44 ID:/gAGb3HT
物見の通報によりこれを知った城内の者達は桶の口を固め、三友十兵衛というものが、桶の口で
槍を構え待ち構えた。と、潜ってくる長泰の姿が!十兵衛は一気にこれを突いた!

が!成田長泰は塚原卜伝の第一の弟子であった。彼は兵法の達者であり、桶の口から突かれた槍の刃を、
口で噛み止め受け止めたのだ!
奇妙な手応えに十兵衛、槍を引きぬく。すると

『ズザザザザザザザザ!!! スポッ!』

槍の穂先を咥えて成田長泰が、桶口から引っ張りだされた!槍で大殿を釣ってしまったのだ!
藁で穴の中の土蜘蛛釣り上げたような、あの感じである。まあこっちは釣りたくて釣ったわけではないが。
三友十兵衛はこれに当然ながら驚愕し、さらにその後から梅阿弥も出てくるとその場から逃げ出してしまった。
しかしそれを誰が攻められるだろうか?

成田長泰は、あまりのことに硬直したその場の者達を蹴散らし本丸に入り、息子長氏を発見すると
たちまちに捕らえたちどころに殺そうとする!城内の者達はこの猛獣か悪鬼のような老人(71歳)に
どう対処していいか解らず右往左往し、捕縛された氏長も死ぬ覚悟を決めた。

と、ここで長泰、何故か述懐を始めた

「しかし、氏長がこのように歳たくるまで、家督を渡さないことについて腹立するのは仕方のない事だ。
されども私は、かつて城攻めに失敗した盃尾を攻め落として後に隠居すると心に決めていたのだ。
それがあれこれと引き伸ばしに成り、このような親子の不和になったこと、口惜しき次第である…」

などと嘆きながらやっぱり氏長を殺そうとした、その時!

「まてまてまてー!!!!!」

現れたのは成田家の菩提寺・立圓寺の長老!彼はこの親子の紛争への扱いを入れに来たのである。
長老は先ず(実に賢明なことに)長泰を無理やり引き立て、立圓寺に入れた。そのお供に何故か
今回の陰謀の主犯・豊島美作守まで付き合わされた。お供の者達が「氏長様が御父君に向かって
このような例の少ない反逆を為されるなど、天道に背く行為です!」とさめざめと泣いている中、
長泰は豊島美作守に対し「美作守、お前は嘘泣きしなくていいぞ。この逆心、お前の仕業であろう!」
と言ったとか。

そうしている内に氏長が、やっぱりあんな邪悪な父親は討ち滅ぼさねばならないと軍勢を立圓寺に向けたが、
この時は立圓寺の僧侶たちが皆鉄砲・槍・刀で武装し迎撃の体制をとったため攻めこむことが出来ず、
親子の紛争は降着。ここに小田原の北条氏が介入する動きを見せたことで、成田長泰もここでようやく、
このままでは北条に成田家は併呑されると危機感を覚え、氏長に家督を譲り自らは出家した。
(關侍傳記)

成田家の親子不和、についての逸話である。




511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/27(火) 20:18:29.37 ID:eahOQBlN
なるほど、これは落城しない

512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/27(火) 21:19:03.07 ID:LWIGGGqm
成田記の姫武者の話もそうだが、成田関連はどうしてこうネジの飛んだ話が多いんだ

513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/27(火) 21:20:17.46 ID:7A9ljxOf
なんと言うハッスル爺ちゃん…

517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/28(水) 00:36:57.71 ID:FIiRvD43
>>509
素敵な坂東武者ですねえw

518 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/28(水) 08:32:18.16 ID:XcCkf9pN
>>509
結局、北条が動きを見せたことで隠居したのか
道徳心がとか武士の道がとかそんなのカンケーねぇ!って話だなw
しかも坊主が出てきても話がややこしくなってるだけだし神も仏もねー

519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/28(水) 11:30:28.26 ID:A7PgpirE
関東は力が全てよ

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/28(水) 18:55:08.62 ID:sbemlcRK
無刀取りどころか槍を口で受け止める新当流の奥深さに驚嘆したw

533 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/28(水) 23:34:11.21 ID:EAL7b8Oc
>>520

真剣白歯取り
なんちゃって

忍城開城

2012年04月09日 21:29

561 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/09(月) 19:30:14.43 ID:dB0xKlZ3
小田原征伐の続いていた天正18年(1590)6月下旬のこと。本陣に戦況を報告しに訪れた徳川家康に、豊臣秀吉
このように尋ねた

「徳川殿、お主も聞いているだろうが、忍城のことだ。
石田三成や真田親子らをしても、未だ落城に至っていない。なにか良い手段はないものだろうか?」

家康はこれを聞くと

「忍城は要害の地であり、沼や湿地に囲まれ城も堅固。たとえ力攻めで城を落としたとしても、
こちらにも大きな損害が出るでしょう。
ここは小田原城に籠っている成田氏長に対し、彼の親しい友人から開城を促すのが最善と考えます。」

「それは尤もである」

秀吉はこれに納得し、成田氏長が山中長俊と、連歌の友として非常に親しいと聞くとこれを呼び寄せ、
忍城の開城工作を行うよう命じた。
これに山中長俊は、忍びを使って小田原城内の長氏に密書を送る。
長氏はこれを見ると弟の泰親と相談し、忍城に書状を送った。

7月のある日、忍城に残っていた成田氏長の妻のもとに氏長からの書状が届く。
そこにはこうあった

『連歌の友である山中山城守長俊の取りなしで、秀吉と和を結び降服することに成った。
よって忍城も開城するように。』
その開城条件は、城の城兵には咎めなし、私財もそのまま持ち帰って良い。料金達の財産も安堵する、
と非常に寛大なものだった。

ここに忍城は30日あまりの籠城を終わり、開城に至ったのである。
(行田昔話)