768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/01(土) 01:13:51.72 ID:7C4kLm0Z
(最初の越山の小田原包囲の後)近衛(前久)殿は小田原より鎌倉へ御輿を寄せられ、鶴岡に御社参され、
謙信公はこれを守護された。これに対し宇佐美駿河守(定満)は、「事終われば速やかに去るべきだと
申し伝えられています。この度の御社参は参るべきではありません。」と申し上げた。然しながら謙信公は
「何程の事が有るものか。」とこの意見を用いられなかった。
鎌倉に於いて半日人馬を休め、瀧山という閑道にかかり、その世は関山の広野に御宿陣された。諸軍は
小田原より平井へ帰され、御供には加治内匠、柴田大学、宇佐美駿河、直江山城、本庄清七、河田豊前、
長尾小四郎、中條五郎右衛門、大田三楽、かれこれ八千に過ぎなかった。これに対し三月末の二日間に
夜半ころより敵が幾重ともなく取り巻き、その松明は峰の形に光り、晴れた夜の星よりも繁く鉄砲を
放ち掛け、襲おうとした。
さて、この鎌倉八幡宮にて東国の諸将は近衛公方へ御礼を遂げる時、忍の成田長康(泰)という者が
酒に酔い、言語が些か尾籠であったのを、謙信公は怒り給い、扇子を以て忍の頭を二つまでしたたかに
打たれた。この遺恨によって、成田長泰は一門家族を催し、武州の千葉・清党(清原氏)を語らい、
謙信公が幸いにも小勢の折節であるのを覗い、足軽をけしかけ夜軍にして討って恨みを報ぜんと企てた。
しかし謙信公はこれを察知した。「成田めが野伏を仕掛けるとは。しかし暗夜でもあり切所でもあり、
これより彼らを追い詰め討ち果たすのは叶いがたし。太田殿と直江は公方(近衛前久)を警護されよ、
中條は戦場を見計らって宇佐美と策をめぐらせ敵を近づけ一戦を遂げ、少しであっても打ち取るように。
本庄清七、加治内匠は後陣に下がり、小四郎と協力して小荷駄を守護仕れ。」と下知を成し、自身は
柴田大学と河田豊前を前後として、平塚という小さき尾に陣を張り、夜を明かされた。
敵は次第に近づき、矢石を雨のごとく飛ばしてきた。中條五郎右衛門、宇佐美駿河は足並みを見せ
敵を広野へおびき出し、伏兵を起こして鑓を入れて追い崩し、敵四十余人を討ち取った。
しかし後陣に付けておいた小荷駄両陣の内、長尾小四郎はこれを守ることが出来ず、同名伝左衛門は
敗軍に及んだ。これによって小荷駄は残らず奪われた。
これに対して謙信は大いに怒り、翌日早朝に長尾伝左衛門の首を切り関山に掛けさせ、そうして家来たち
二十四人、歴々の者達と一所にて残る敵を一人も残さず討ち捨てにした。その敵の中でも特に働きの有った
兵士を、自ら鑓を以て突き伏せられた。
夜既に暁天に及び、敵は残らず引き退いたため、日が出て後軍を発し、古路にかかり、大田三楽が先陣を打ち、
直江山城が後陣へ下り、九里の山中も難なく押し通り、その夜には葛見に宿した。そこで酒飯を備え危軍を
労り、三楽を客位に請し物語暁天に及んだ。ここで謙信は諸士に語った
「関東諸州の面々、皆弱兵であると思い侮って、伝左衛門に昨日小荷駄を預けたのは、某一代の不覚であった。
そうでなければ、どうして成田長泰ごときの敵にこれを奪われるだろうか。私は常々、甲州の武田信玄には
私が及ばない長所があると思っているが、それはこの事なのだ。あの法師は、弱敵と見ても猶弓矢を大事に
取り、このような卒爾の無い人物である。大事の場であると思えば誰であっても迂闊なことはしないものだ。
しかしそう考えない場所では、動くときも慎みが無く敵に対して疎略な対応をしてしまう。
信州更科の村上義清などは、軍の場にいどみ相対する時は、武き事も賢き事も、信玄に勝りこそすれ
劣るものではない。しかし愚に正直なる男であるので、常々細かい配慮がなく、そのため度々遅れを取るのだ。」
と申された。
(松隣夜話)
例の鶴岡八幡宮での謙信と成田長泰のお話ですが、こちらは退去どころか即座に謙信に夜討をしかけるという
アグレッシブな話になってますね。
774 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/01(土) 21:03:01.30 ID:2CcDwnar
>>768
>言語が些か尾籠であったのを、謙信公は怒り給い、扇子を以て忍の頭を二つまでしたたかに
打たれた。
成田「おこなの?(´・ω・`)」
謙信「o(`ω´*)o」
小四郎&伝左衛門「小荷駄を任されたぞ!」
775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/02(日) 00:30:47.35 ID:ZMW/EJLp
謙信、結構短気な逸話多い気が
いやまぁ実際書状でとにかく馬鹿って言葉使いまくる人だから切れやすいかもしれないけども
短気で悪口のボキャ貧な謙信公が腹筋に候なんてパワーワード生んだのが面白い
(最初の越山の小田原包囲の後)近衛(前久)殿は小田原より鎌倉へ御輿を寄せられ、鶴岡に御社参され、
謙信公はこれを守護された。これに対し宇佐美駿河守(定満)は、「事終われば速やかに去るべきだと
申し伝えられています。この度の御社参は参るべきではありません。」と申し上げた。然しながら謙信公は
「何程の事が有るものか。」とこの意見を用いられなかった。
鎌倉に於いて半日人馬を休め、瀧山という閑道にかかり、その世は関山の広野に御宿陣された。諸軍は
小田原より平井へ帰され、御供には加治内匠、柴田大学、宇佐美駿河、直江山城、本庄清七、河田豊前、
長尾小四郎、中條五郎右衛門、大田三楽、かれこれ八千に過ぎなかった。これに対し三月末の二日間に
夜半ころより敵が幾重ともなく取り巻き、その松明は峰の形に光り、晴れた夜の星よりも繁く鉄砲を
放ち掛け、襲おうとした。
さて、この鎌倉八幡宮にて東国の諸将は近衛公方へ御礼を遂げる時、忍の成田長康(泰)という者が
酒に酔い、言語が些か尾籠であったのを、謙信公は怒り給い、扇子を以て忍の頭を二つまでしたたかに
打たれた。この遺恨によって、成田長泰は一門家族を催し、武州の千葉・清党(清原氏)を語らい、
謙信公が幸いにも小勢の折節であるのを覗い、足軽をけしかけ夜軍にして討って恨みを報ぜんと企てた。
しかし謙信公はこれを察知した。「成田めが野伏を仕掛けるとは。しかし暗夜でもあり切所でもあり、
これより彼らを追い詰め討ち果たすのは叶いがたし。太田殿と直江は公方(近衛前久)を警護されよ、
中條は戦場を見計らって宇佐美と策をめぐらせ敵を近づけ一戦を遂げ、少しであっても打ち取るように。
本庄清七、加治内匠は後陣に下がり、小四郎と協力して小荷駄を守護仕れ。」と下知を成し、自身は
柴田大学と河田豊前を前後として、平塚という小さき尾に陣を張り、夜を明かされた。
敵は次第に近づき、矢石を雨のごとく飛ばしてきた。中條五郎右衛門、宇佐美駿河は足並みを見せ
敵を広野へおびき出し、伏兵を起こして鑓を入れて追い崩し、敵四十余人を討ち取った。
しかし後陣に付けておいた小荷駄両陣の内、長尾小四郎はこれを守ることが出来ず、同名伝左衛門は
敗軍に及んだ。これによって小荷駄は残らず奪われた。
これに対して謙信は大いに怒り、翌日早朝に長尾伝左衛門の首を切り関山に掛けさせ、そうして家来たち
二十四人、歴々の者達と一所にて残る敵を一人も残さず討ち捨てにした。その敵の中でも特に働きの有った
兵士を、自ら鑓を以て突き伏せられた。
夜既に暁天に及び、敵は残らず引き退いたため、日が出て後軍を発し、古路にかかり、大田三楽が先陣を打ち、
直江山城が後陣へ下り、九里の山中も難なく押し通り、その夜には葛見に宿した。そこで酒飯を備え危軍を
労り、三楽を客位に請し物語暁天に及んだ。ここで謙信は諸士に語った
「関東諸州の面々、皆弱兵であると思い侮って、伝左衛門に昨日小荷駄を預けたのは、某一代の不覚であった。
そうでなければ、どうして成田長泰ごときの敵にこれを奪われるだろうか。私は常々、甲州の武田信玄には
私が及ばない長所があると思っているが、それはこの事なのだ。あの法師は、弱敵と見ても猶弓矢を大事に
取り、このような卒爾の無い人物である。大事の場であると思えば誰であっても迂闊なことはしないものだ。
しかしそう考えない場所では、動くときも慎みが無く敵に対して疎略な対応をしてしまう。
信州更科の村上義清などは、軍の場にいどみ相対する時は、武き事も賢き事も、信玄に勝りこそすれ
劣るものではない。しかし愚に正直なる男であるので、常々細かい配慮がなく、そのため度々遅れを取るのだ。」
と申された。
(松隣夜話)
例の鶴岡八幡宮での謙信と成田長泰のお話ですが、こちらは退去どころか即座に謙信に夜討をしかけるという
アグレッシブな話になってますね。
774 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/01(土) 21:03:01.30 ID:2CcDwnar
>>768
>言語が些か尾籠であったのを、謙信公は怒り給い、扇子を以て忍の頭を二つまでしたたかに
打たれた。
成田「おこなの?(´・ω・`)」
謙信「o(`ω´*)o」
小四郎&伝左衛門「小荷駄を任されたぞ!」
775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/02(日) 00:30:47.35 ID:ZMW/EJLp
謙信、結構短気な逸話多い気が
いやまぁ実際書状でとにかく馬鹿って言葉使いまくる人だから切れやすいかもしれないけども
短気で悪口のボキャ貧な謙信公が腹筋に候なんてパワーワード生んだのが面白い
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