178 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/07(日) 01:08:18 ID:y6eRf6/W
成田顕忠と清善寺の開山の話 inのぼうの城
成田顕忠の父・五郎左衛門資員は顔を見ぬ内に死んでしまい
兄・顕泰も幼くもあり従臣達に助けられていた。
顕忠は幼い頃から聡明な子であり兄の顕泰を父のように敬い、顕泰も弟の顕忠を深く愛していた
それから顕忠は任官して刑部大輔となり、器量もあることから
あるときは陣代として出陣し、あるときは城代として守備を固め、度重なる戦功もあった。
顕泰の死去後、嫡男・親泰が相続する。この親泰も顕忠を父の如く重んじていた。
顕忠は忍城の南方に館(出城)を構えていた。
深田を埋め立てた所なので平田廓ともいわれ、家中の者は「平田殿」と尊敬していた。
この顕忠は深く佛法に帰依し、不犯で肉食は一切しなく、女は一人も使わなかった。
全くの禁欲生活である。
そのため世間では平田精舎とも言われていた。
63歳の時に身に墨染の衣を着て、清善斎全忠と号し、毎日の読経を欠かさなかった。
清善斎もだんだん年を取って90歳に近い時、最早余生がないとして
城主親泰を始めとし、家内の者と老臣を招いてこう告げた。
179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/07(日) 01:09:31 ID:y6eRf6/W
「吾れは胎内にあって父に別れ、又二歳で母に別れた。
だから孝というはただ名だけで一度も教養を捧げた事が無い。
せめて出家得度して父母の菩提を弔らんと思ったが、亡き兄顕泰の深き情にほだされて
俗人として世を送った。
その故は大将の先陣に臨むや、城の守固くなければ敵の謀者にかかる事もあるし
又、外に在って内が心配な様では鉾先が鈍るものである。
さて又、戦争の習いとして大将に不意の禍あるとか、幼主をいただくとかの場合、
不肖と雖(いえども)も主を補け来らせんと心に誓った為である。
現今當城主親泰は健将であり、まことに倖せである。
この故に枝葉血類は大切であるので止むを得ず在俗したが、心は法身に化して女犯肉食を禁或した。
然れども戦場では若干の人を亡した。
行いと言葉と相違する所はあるが、獨身だから後の子孫の上を思わず。
しかし、その家に生まれ、禄の食めば武士として主といい、兄といい志孝の道を
守なければならぬ。
在俗しては忠孝の二道を全うし、出家しては佛に仕えた。
一生の恩は足りた。
吾が死後の望にはこの館を寺と為(な)し、
年頃念じ奉る薬師如来を本尊とさるるなければ幸いこれに過ぐるものはない。」
180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/07(日) 01:14:00 ID:y6eRf6/W
と、一座の面々皆感涙を流したのであった。
永正十六年五月八日、清善斎は斎戒沐浴し座禅を組み眠るように命を経った。
下総守親泰は大いに哀惜し、遺言通りに新たに一寺を造立し、平田山清善寺と号した。
一様wikiでは顕忠の方が兄でらしく父・資員も詳細不明で正等と同一人物とか何とか
182 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/07(日) 01:37:15 ID:poSPerfX
>>178-180
成田顕泰は惣社長尾氏からの養子。
父・資員が戦に負けて、家督を養子に譲り渡す事を条件に和睦した。
と、いう事を踏まえて逸話を読むと、資員の実子である顕忠の微妙な
立ち位置が非常に不憫に思える。
そりゃ下手に子供なんか作って「成田の嫡流はこっちだ!」なんてな
っても困るよね。
『成田記』辺りでは顕忠の存在はおろか、資員が戦に負けた事も、顕
泰が養子である事も、華麗にスルーされているんだよねぇ。
そこら辺を加味して考えると、むしろ悪い話になっちゃうのかも。w
成田顕忠と清善寺の開山の話 inのぼうの城
成田顕忠の父・五郎左衛門資員は顔を見ぬ内に死んでしまい
兄・顕泰も幼くもあり従臣達に助けられていた。
顕忠は幼い頃から聡明な子であり兄の顕泰を父のように敬い、顕泰も弟の顕忠を深く愛していた
それから顕忠は任官して刑部大輔となり、器量もあることから
あるときは陣代として出陣し、あるときは城代として守備を固め、度重なる戦功もあった。
顕泰の死去後、嫡男・親泰が相続する。この親泰も顕忠を父の如く重んじていた。
顕忠は忍城の南方に館(出城)を構えていた。
深田を埋め立てた所なので平田廓ともいわれ、家中の者は「平田殿」と尊敬していた。
この顕忠は深く佛法に帰依し、不犯で肉食は一切しなく、女は一人も使わなかった。
全くの禁欲生活である。
そのため世間では平田精舎とも言われていた。
63歳の時に身に墨染の衣を着て、清善斎全忠と号し、毎日の読経を欠かさなかった。
清善斎もだんだん年を取って90歳に近い時、最早余生がないとして
城主親泰を始めとし、家内の者と老臣を招いてこう告げた。
179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/07(日) 01:09:31 ID:y6eRf6/W
「吾れは胎内にあって父に別れ、又二歳で母に別れた。
だから孝というはただ名だけで一度も教養を捧げた事が無い。
せめて出家得度して父母の菩提を弔らんと思ったが、亡き兄顕泰の深き情にほだされて
俗人として世を送った。
その故は大将の先陣に臨むや、城の守固くなければ敵の謀者にかかる事もあるし
又、外に在って内が心配な様では鉾先が鈍るものである。
さて又、戦争の習いとして大将に不意の禍あるとか、幼主をいただくとかの場合、
不肖と雖(いえども)も主を補け来らせんと心に誓った為である。
現今當城主親泰は健将であり、まことに倖せである。
この故に枝葉血類は大切であるので止むを得ず在俗したが、心は法身に化して女犯肉食を禁或した。
然れども戦場では若干の人を亡した。
行いと言葉と相違する所はあるが、獨身だから後の子孫の上を思わず。
しかし、その家に生まれ、禄の食めば武士として主といい、兄といい志孝の道を
守なければならぬ。
在俗しては忠孝の二道を全うし、出家しては佛に仕えた。
一生の恩は足りた。
吾が死後の望にはこの館を寺と為(な)し、
年頃念じ奉る薬師如来を本尊とさるるなければ幸いこれに過ぐるものはない。」
180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/07(日) 01:14:00 ID:y6eRf6/W
と、一座の面々皆感涙を流したのであった。
永正十六年五月八日、清善斎は斎戒沐浴し座禅を組み眠るように命を経った。
下総守親泰は大いに哀惜し、遺言通りに新たに一寺を造立し、平田山清善寺と号した。
一様wikiでは顕忠の方が兄でらしく父・資員も詳細不明で正等と同一人物とか何とか
182 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/07(日) 01:37:15 ID:poSPerfX
>>178-180
成田顕泰は惣社長尾氏からの養子。
父・資員が戦に負けて、家督を養子に譲り渡す事を条件に和睦した。
と、いう事を踏まえて逸話を読むと、資員の実子である顕忠の微妙な
立ち位置が非常に不憫に思える。
そりゃ下手に子供なんか作って「成田の嫡流はこっちだ!」なんてな
っても困るよね。
『成田記』辺りでは顕忠の存在はおろか、資員が戦に負けた事も、顕
泰が養子である事も、華麗にスルーされているんだよねぇ。
そこら辺を加味して考えると、むしろ悪い話になっちゃうのかも。w
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